本文へジャンプ
『奏』



プロフィール
1949年
5月11日誕生 同じ誕生日芸術系にはアニマルズのエリック・バートン、久保田早紀、泉谷しげる、画家のダリ等がいる。

1958年~1961年(小学3年頃~)
鉱石ラジオの部品を買って組立て、学校では雨樋をアンテナ代わりにして休み時間に、学校から帰ると近所の農家の納屋の等で雨樋をアンテナにしてポピュラー・ミュージックを聞いていた。
洋楽ならニール・セダカの「恋の片道切符」の時代、邦楽なら飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」等。

1963年(中学3年)
近所の肉屋の友人からクラッシック・ギターを3,000円で譲り受ける。
お決まりの「禁じられた遊び」のさわりの部分や「酒は涙かため息か」等をつま弾いていた。
ただ譜面もなく聞きかじりで弾いていたので、アルペジオは全て開放弦で弾いていた。

1965年(高校2年)
「エレキブーム」が一般人に到来。
大きくはビートルズ派とベンチャーズ派に二分された。
唄の下手な私は当然ベンチャーズタイプを目指した。
グヤトーンLG-65T(¥12,500)を購入し適度に弾けるようになったところでバンドを作る為、中学時代の同級生を説得開始。

1966年
神田の電気店でみたモズライトの下位機種(確か当時の価格で19万円)を欲しいが高価で手が出ず、留年し同級生になった友人からモラレスを譲り受ける。
中学時代の同級生を強引に集めたバンドはをつくるが無理があり直ぐに解散。
当時は最高峰であったフェンダーのアンプ、ショーマンにあこがれ回路図を入手しショーマンを手作りしたり、一般には出回わる前にヒョンなことからファズをつくったり、テープレコーダーを見つけると誰のものであろうが借りてはテープエコーマシンに改造していた。


1967年
別に活動していたグループ、レディ・バーズが、突然私の家にきて一緒にやろうと言って強引に私の勉強部屋にドラムを持ち込む。
グループ結成(Dr&Vo:Toyo,Vo&2ndG:Suse,Bs&Vo:Tom,1stG:Yuzo)私と高校生4名(内一人はマネージャー)での本格的に始まったバンド。
最初は近所のスーパー台丸大和店のオープンセールなどで演奏、そのうち少し有名になり、当時流行っていたみどりや主催のバンド・コンテストのゲストで栃木会館で演奏するまでに成長した。

       ↑すっから父さん
又、市内の東武宇都宮駅東側の喫茶・フロリダと契約し出演していた。

当時の高校生バンドとしては「Them」、「エリック・バートン」、「ジョン・メイオール」等ホワイト・ブルース系や「491」のコピーやオリジナルも持っているという当時は珍しいバンドで周りからは一目おかれるグループだった。
そんなことで、先輩のバンド・メンバーや近所の「やくざ」のお兄さんからもとてもかわいがられていた。
その他、夏は澤姫会館屋上ビヤガーデン、国鉄宇都宮駅前の喫茶・王城等に出演したり御本丸・スケートセンターなどを貸切でLiveをやっていた。
(主催者より配布されたパー券を自分達で友達伝いに販売し人集めもした。)

                           ↑すっから父さん
1968年末
フロリダ火災のため月賦で購入した器材は焼失(高校生の身で150万円程の借金だけが残る)ギターだけは、毎回持ち帰っていたので助かった。
この当時の思い出は被災も含めいまも鮮やかに心に焼きついていて、人生の中では1番輝いていた時期だった。
そういう思い出との引き換えとしては、この借金も今考えるとそう高いものではなかった。

1969年
エレキブームも下火になり、定期的な出演場所もなく、目指す音楽性の食い違いもあり12月31日深夜、私の実家の前にあった盲学校の講堂を借りて誰もいないライブを実行しバンドは解散した(22:00~3:00)。
ボーカルのSuseはプロになると東京に行ったまま今は消息不明。
ベースTomは作曲能力を活かし当時のヤマハポプコンで全国大会までいきレコードを数枚だしたがその後はぱっとせずに終わる。
ドラムスは、現在市会議議長を努めるまでになり、いまだに時折一緒に活動しています。
グループの記録としてはクリスマスに一度とメンバーの高校の教師達がフロリダに偵察にきた時にモンキーダンスをしている隠し撮りが一度と、音の記録としては練習の時にオープンリールにモノラルで録音が一度残っている。私にとってはとても貴重な記録である。

1970年~
ベースのTomとユニットを結成し数年間二人で曲作りとレコーディングを繰り返す。
その後いくつかのグループを結成しては解散を数年毎に繰り返しいつしか休止状態になる。


・・・・・再び音楽の世界へ・・・・・


1992年
1月25日職場の仲間の神山靖史が結婚することになり、彼と時折ギターや曲創りの話をしていた事もあり彼をメインに、以前キーボードの経験がある職場の後輩である「はるぼー」とベースの経験があった「マッちゃん」に話を持ちかけ、披露宴で職場仲間の寄せ集めによるメンバーで演奏することになる。

       ↑すっから父さん
1992年
5月9日「はるぼー」が結婚することになる。
当然のように前回のメンバーで話は盛り上がり「はるぼー」をメインにした職場仲間の寄せ集めにより会費制の披露宴でバンド演奏することになった。

       ↑すっから父さん
1993年
披露宴の演奏でメンバー達はもりあがりバンド「チッコイお春とその仲間達」を正式に結成する。
Vo・G:神山靖史、Key:高塩晴海、Bs:松江厚、Ds:小野里豊、G:宇梶勇三
ライブの目標も特に無かったことからバンドは大きな活動をすることもなく自然解散となる。
その後神山と二人で細々と作曲活動をしながら、バンド活動の夢が再燃しはじめる。

1994年
職場の後輩である吉河裕子、南木雪子を加入しボーカルを強化。「チッコイお春とその仲間達」が復活する。

1997年
10月11日職場後輩の依頼により結婚披露宴全体の音楽を担当(写真:宇都宮駅東口:ホテル・サンシャインにて)

          ↑すっから父さん
1999年
7月21日 「チッコイお春とその仲間達」再び解散。
10月12日 前回のグループのボーカル(吉河)、2ndギター(神山)と3人で新ユニット結成。グループ名は未定
神山靖史の希望していたオリジナルアルバム製作(2000年予定)に向け作詞・作曲・編曲にてんてこ舞いの毎日が続いたが、私の他の趣味が忙しくなり次第に目標が遠のいていく。


2000年
「かみさん」の同級生の娘が結婚する事になり披露パーティ全編の音楽を任される。
お馴染みのメンバーにピアニスト(米国でクラシックをメインに音大を2校も卒業したという超強力メンバー)を加えバンドの再結成と強化を図る。
       
2001年
7月7日帝京大学傍の丘にあるフレンチ・レストラン「ヴェラビスタ」で披露パーティ、トーク中はバンドメンバーも新メンバーの素晴らしいピアノ・ソロなどを堪能することができた。(全22曲約120分)  
その後暫くは、パソコンでの披露パーティ録音データの編集が続く。

         ↑すっから父さん
2002年
中心メンバーだった神山靖史が12月21日41歳の若さで突然亡くなる。暫くは何をしたらいいのか、分からない日々が続く。
暫くしてメンバーとの話し合いで「追悼ライブ」の計画がもちあがり自宅スタジオでの練習を開始する。

                                 ↑すっから父さん
2003年
彼が命日となる前日の土曜日に全てオリジナル曲のみで「追悼ライブ」を練習に良く使っていた地下で実施。
彼の学生時代のバンド・メンバーも千葉から応援で参加してくれた。
当日は午後から突然の大雪で街は白一色となりとても印象に残るライブとなった。

                                    ↑すっから父さん
2004年
Y.Kさんと創作したオリジナル曲を沢山の人に知ってもらえたら彼も喜んでくれるのではないかと思う気持ちからホームページの更新をしてオリジナルソングのインターネット発信を開始する。
  オリジナルソングと追悼ライブの模様は「オリジナル曲」のページで公開しています。