榮華物語
赤染衞門、他
(正宗敦夫編纂・校訂『栄花物語』上・下 日本古典全集 日本古典全集刊行會 1934.3.10、4.13)
※ 注記は、岡本保孝『榮花物語抄』(折口信夫編輯『國文學註釋叢書』11の内 名著刊行會 1930.9.8再版)による。
ただし、校正の注記を一部省略した。
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月宴
〔村上 天暦元年至康保四年、凡廿年。 冷泉 安和元年至三年。 圓融 天祿元年至三年。〕
世初まりて後、此國の帝六十餘代〔此物語に、七十三代堀河院の寛治年中までの事をしるしたれば、七十餘代といふべくおもはるれど、三十一帖以下は、後人の書續なれば、六十餘代と云へるなり。六十九代後朱雀院以下は、第三十三帖よりなり。〕にならせ給ひにけれど、この次第書き盡すべきにあらず。こち寄りての事をぞ記るすべき。
世の中に、宇多の帝〔第五十九代〕と申す帝おはしましけり。其帝の御子たち數多おはしましける中に、一の御子敦仁〔小印本、あつきみ。拾芥抄の人名録には、仁の字は、ひととのみよめれど、慶長二年の節用集に、仁をきみとよめり。姓名録抄に、仁をきみとよむ、同じ事也。〕の親王と申しけるぞ位に即かせ給ひける〔を、一本。〕こそは、醍醐の聖帝と申して、世の中に、天の下めでたき例に引き奉るなれ。位に即かせ給ひて、三十三年を保たせ給ひけるに、多くの女御達侍ひ給ひければ、男御子十六人〔紹運録に、親王十六人をあげたり。但、兼明内親王とあるは、内字衍文。此外に、源姓を賜はりたるみこ六人、童子とて一人あり。此七人は、親王になり給はぬ故に、こゝにいはざるにや。〕、女御子數多おはしましけり。
其頃の〔の文字、あまりてきこゆ。ひろく、宇多より醍醐をかけて云へる詞也。さて、太政大臣は、基經の後、絶て久しく闕官にて、朱雀にいたりて、藤原忠平任ぜられたり。下文。「只今の太政大臣にては云々」と有。これは、只今のと、の文字有てよろし。〕太政大臣基經の大臣と聞えけるは、宇多の帝の御時に亡せ給ひけり。中納言長良と聞えけるは贈太政大臣冬嗣の御太カにぞおはしける。後に贈太政大臣とぞ聞えける。その御三カ〔そのは、長良をさす。三カは、基經をいふ。〕にぞおはしける。その基經の大臣亡せたまひて、後の御謚昭宣公と聞えけり。
其基經の大臣、男君四人おはしけり。太カは時平と聞えけり。左大臣までなり給ひて、三十九にてぞ亡せ給ひにける。二カ仲平と聞えけるは、左大臣までなり給ひて、七十一にて亡せ給ひにけり。三カ兼平と聞えける、三位までぞおはしける。四カ忠平の大臣ぞ關白太政大臣までなり給ひて、多くの年頃過ぐさせ給ひける。其基經の大臣の御女の女御の御腹に、醍醐の宮達あまたおはしましけり。十一の御子寛明の親王と申しける、帝に居させ給ひて、十六年おはしまして後に、降りさせ給ひておはしけるをぞ朱雀院の帝とは申しける。その次ぎ、同じ女御の御腹の十四の御子、成明の親王と申しける、さし續きて帝に居させ給ひにけり。天慶九年四月十三日にぞ居させ給ひける。朱雀院は、御子達おはしまさざりけり。唯だ王女御と聞えける御腹に、えも云はず美くしき女御子、一所ぞおはしましける。母女御も、御子三歳にて亡せ給ひしかば、帝我れ一所、畏きものに思ほし養ひ奉り給ひける。いかで后に据ゑ奉らんと思しけれど、例無き事にて〔天子の姫君の、皇后になり給ふ例、なしと也。しかれども、此時、古今にあたりて例あるを、いかなれば、かくいへるにか。朱雀の御心に、村上に奉らんとか、冷泉に奉らんとか、いづれにても、叔父にあたれば、例なしとおぼしたるにか。後に、冷泉の后となり給ふ也。叔父の妻となるも、をばをつまとしたるも、例有也〕、口惜しくてぞ過ぐさせ給ひける。昌子内親王とぞ聞えさせける。
斯くて、今の上の御心ばへ、あらまほしく、有るべき限りおはしましけり。醍醐の聖帝世にめでたくおはしましけるに、又この帝、堯の子の堯ならんやうに、大かた御心ばへの雄雄しう、氣高く賢うおはしますものから、御才も限り無し。和歌の方にも〔さま/〃\のス、「まづ、いはひの和歌ひとつつかうまつるべしと、おほせらるゝまゝに」とあり。この比は、はやく、歌のことを、和歌ともいへるにこそ。源氏物語などには、むかへたる物なくてはいはず。〕いみじう染ませ給へり。萬づに情あり、物のはえおはしますこと限り無し。許多の女御、御息所參り集まり給へるを、時あるも時無きも、御志優ぐれたるも、こよなきも〔時あると、ときなき人とは、みかどの御かへりみこよなきによりてなり。今こゝにては、その根源をばおしきはめずに、たゞ、打みたる所にて、時有と時無と、めやすくあつかひ給ひて、はぢがましきことなどし給はぬよしをいふなり。〕、いささか恥がましげに、いとほしげにもてなしなどもせさせ給はず。斜に情ありて、めでたう思召しわたして、なだらかに掟てさせ給へれば、この女御、御息所達の御中も、いと目やすく、便無き事聞えず。くせぐせしからず〔ね、一本。 一本もよろし。下文、 「くせ/\しうぞおぼし」花山。〕などして、御子生まれ給へるは、然る方に重重しくもてなさせ給ひ、然らぬは、然可う御物忌などにて、徒然に思さるる日などは、御前に召し出でて碁、雙六〔花山の卷にも。〕打たせ、扁を著かせ〔枕册子、第四十三段。〕(*「付かせ」とも「継がせ」ともいう)、石攤どり〔石はじきのこと也。別にしるす。〕をせさせて御覽じなどまでぞおはしましければ、皆互に情を交し、をかしうなんおはし合ひける。斯く帝の御心のめでたければ、吹く風も枝を鳴らさず(*「雨不破塊、風不鳴条。」〔塩鉄論〕)などあればにや、春の花も匂のどけく、秋の紅葉も枝に留まり、いと心のどかなる御有樣なり。
只今の關白太政大臣にては、基經の大臣の御子、四カ忠平の大臣、帝の御叔父にて、世をまつりごちておはす。その大臣の御子、五人ぞおはしける。太カは今の左大臣にて、實ョと聞えて、小野の宮と云ふ所に住み給ふ。二カは右大臣にて師輔の大臣、九條と云ふ所に住み給ふ。三カの御有樣おぼつかなし〔尊卑分脈に、忠平公の御子に、師保出家とあり。これなるべし。疑の卷に、此兄弟をならべのせたるに、三カをいはず。出家なればなるべし。〕。四カ師氏と聞えける、大納言までぞ成り給ひける。五カ師尹の大納言と聞えて、小一條と云ふ所に住み給ふ。
されば只今は、この太政大臣の御子ども、やがていとやんごとなき〔父君の時にかはらず、繁昌のことを見せんとて、やがてとは云也。〕殿ばらにておはす。此殿ばら、みな各御子ども様様にておはする中に、九條の師輔の大臣、いと足らはしく〔たはしくは、たはれをなどのたはにて、好色の事也。和訓栞、たはしき、可考。〕おはして、あまたの北の方の御腹に、男十一人、女六人〔尊卑分脈に、十二人男、七人女。〕ぞおはしける。小野の宮の左大臣殿は、三人ばかりぞおはしける。女君もおはしけり。一所〔慶子也。〕は、宮ばらの具〔狹衣物語二上、「かのひめ君こそ、大將の御ぐにもしつべけれ」とあり。本書、初花の卷。「あやしの法師のぐどもになり給はん」又、「ひめ君の御ぐになし聞え給にしかば」ともあり。おなじ意にかよふ。こゝは、宮ばらにはあらねど、宮ばらと同じさまにかしづかるゝをいふなるべし。狹衣なるは、大將とおなじさまにといふことにて、大將の北の方にせましと也。偶の字音ならんと、先師(*清水浜臣)いはれたる、さもあるべし。〕にておはす。さし次は、女御にて〔述子也。村上女御也。〕おはしけり。次次様様にておはす。小一條の師尹の大臣、男子二人、女一所〔尊卑分脈に、四人定時・長快・女子・濟時・芳。此芳は女にて、村上の女御也。長快と、女子とは、數にいらぬなり。尊卑分脈にて、ほの/〃\しらる。〕ぞおはしける。男子一人は、はかなうなり給ひにけり〔尊卑分脈には、此人をかぞへ、こゝに二人といふは、此一人を除きていふ〕。
斯くて、女御たちあまた參り給へる中に、九條の師輔の大臣の姫君、有るが中に、一の女御にて侍ひ給ふ。また今の帝の御兄弟の重明の式部卿の宮の御女、女御におはす。又同じ御兄弟の、代明の中務の宮の御女、麗景殿の女御とて侍ひ給ふ。又在衡按察大納言〔公卿補任、天コ四年、藤原在衡大納言に任ず。これよりさき、天暦二年、中納言にて、按察使を兼られたり。〕の女、按察の御息所とて侍ひ給ふ。小一條の師尹の大臣の御女、いみじう美くしくて、宣耀殿の女御と聞えさす。又廣幡の中納言庶明の御女、廣幡の御息所とておはす。さても此の御方方皆御子生まれ給へるどもなり。御子生まれ給はぬ御息所達も〔源氏物語にては、御子うみ給ふ女御・更衣にいふを、こゝにては、うみ給はぬをも、しかいふよし也。源氏桐壺の卷、御息所の下にて、本居氏詳に辨じたり。〕、あまた侍ひ給ふ。まことや、元方民部卿の女も參り給へり。
年頃東宮も、斯くて再び亡せ給ひぬるに〔東宮ふたゝびうせたまふといふこと、いまだ見あたらず。編年略記・百練抄・一代要記・扶桑略記・帝王編年記・日本史等に、所見なし。〕、東宮斯く〔まだ、一本。 一本よろし。〕居させ給はぬに、許多侍ひ給ふ御方方、あやしう心もとなく思召されける程に、九條殿の女御、唯だにもおはしまさで、めでたしと喧騷りしかど、女御子にて、いと本意無き程に、平安にてだにおはしまさで、亡せさせ給ひぬるに、元方の御息所、唯だならぬ事の由申して、退かで給ひぬれば、若し男御子生れ給へるものならば、又無うめでたかるべき事に、世の人申し思ひたるに、一の御子生れ給へるものか。あなめでた、いみじと喧騷りたり。内よりも、御劔より初めて、例の御作法の事どもにて、もてなし聞え給ふ。元方の大納言、いみじと思したり。東宮はまだ世におはしまさぬ程なり、何の故にか、我が御子東宮に居過ち給はんと、ョもしく思されけり。
いみじう世の中に喧騷る程に、九條殿の女御、唯だにもおはしまさずと云ふこと、おのづから世に漏り聞ゆれど、元方の大納言、いで、さりとも、
前の事もありきなど聞き思ひけり。大い殿も、九條殿も、いと嬉しう思すほどに、上は、世はともあれ斯うもあれ、一の御子のおはするを、嬉しくョもしきことに思召す。
道理なり。
斯かる程に、
太政大臣殿、月頃惱ましく思したりつるに、天暦三年八月十四日亡せさせ給ひぬ。この三十六年
〔天暦三年より上にかぞへて、延喜十四年にて、三十六年也。忠平公は、延喜十四年に、右大臣になり給ふ。公卿補任にみえたり。〕、大臣の位にておはしましけるを、御年今年ぞ七十になり給ひける。左右の大臣
〔實ョは、左大臣也。師輔は、右大臣也。いづれも、太政大臣の御子也。〕たちも、いとまためでたくョもしき御ありさまなり。帝も疎からぬ
〔太政大臣は、村上帝の母方の御をぢ也。〕御中らひにて、萬づかたがたの御事も、めでたくて過ぎもて行くに、女御も
御服にて出で給ひぬ。宣耀殿の女御も、同じく服にて出で給ひぬ。心のどかに、慈悲の
御心廣く、世をたもたせ給へれば、世の人いみじく惜み申す。後の
御諱〔下文、「のちの御いみなC愼公」と有。又、花山、「後のいみなを、謙コ公と聞ゆ。」又、下文、「忠義公と、御いみなをきこゆ。」いづれにしても、誤なり。後諱といふ事、あるべきことにあらず。後謚といふ事もあるべきことにあらず。謚と云もの、後よりいふことなれば、後のとことわるべき理なければなり。但、諱字も、謚字も、名の字の意に用て、後の名といふべきを、後世諱謚の字にすがりて、假字にかき改めたるより、かく二樣になりたるにはあらぬか。〕貞信公と申しけり。次次の御ありさま、あはれにめでたくて過ぎもて
行く。世の中のことを、實ョの右大臣仕うまつり給ふ。九條殿二の人にておはすれど、猶
一くるしき二
〔一の人とおなじ御いきほひをいふ也。くるしきは、にこやかなるを愛くるしと云くるしとおなじ詞にて、一の人になしてもあまりある御人コぞと、人々申奉ると也。〕(*一の人に居り苦しいと解するのが通例。)とぞ人人思ひ聞えさせためる。
斯かる程に、年も復りぬれば、天暦四年五月二十四日に〔女御はらませ給ひしを、忠平公よろこび給ふことみえて、八月にうせ給ひぬ。八月よりかぞへて五月にて、十月になりぬ。御産のびさせ給ふのか、五月の字の誤か。されど、下文、むまれ給ひて、三月といふに、七月とあれば、五月の誤ともいひがたし。去年八月はらみ給ひて、その月になくなり給ふ。忠平公、よろこび給ふこと、いかゞ。御産ののびたりけん事、うたがひなかるべし。〕、九條殿の女御、男御子生み奉り給ひつ。内よりは、いつしか御劔持て參り、大かたの御ありさま、心殊にめでたし。世のおぼえ殊に、騷ぎ喧騷りたり。元方の大納言斯くと聞くに、胸塞がる心地して、物をだにも食はずなりにけり。いといみじくあさましき事をも、爲過ちつるかな(*若宮を呪咀してしまいそうなこと。)と、物思ひ盡きぬ胸を病みつつ、病著きぬる心地して、同じくは、今は如何で疾く死なんとのみ思ふぞ、怪しからぬ心なりや。
九條殿には、御産屋の程の儀式有樣など、形容びやらんかた無し。大臣の御心の中思ひやるに、然ばかりめでたき事ありなんや。小野の宮の大臣も、一の御子よりは、これは嬉しく思さるべし。帝の御心の中にも、萬づ思ひ無く、遇ひ恊はせ給へるやうに、めでたう思されけり。
はかなう〔はかなうと云詞いかゞ。此詞なくて宜し。〕御五十日なども過ぎもて行きて、生れ給ひて三月と云ふに、七月二十三日に、東宮に立たせ給ひぬ〔冷泉院〕。九條殿は、太政大臣の亡せ給ひにしを、返す返すも口惜しく思されて、え忌み敢へず、しほたれ給ひぬ。一の御子の母女御の、湯水をだにも參らで、沈みてぞ臥し給へる、いみじくゆゆしきまでにぞ聞ゆる。
はかなくて、年月も過ぎて、この御方方、我も我も、劣らじ負けじと、皆唯だならずおはして、御子達いとあまた出で來集まり給ひぬ。按察の御息所、男三の宮〔致平〕、女三の宮〔保子也。〕生み奉り給ひつ。又この九條殿の女御、男四五の宮〔爲平・圓融院〕生れ給ひぬ。また宣耀殿の女御、男六八の宮〔昌平・永平〕生れ給へりけれど、六の宮は、はかなくなり給ひにけり。八の宮ぞ平安にておはしける。麗景殿の女御、男七の宮〔具平〕、女六の宮〔樂子〕生れ給ひにけり。式部卿の宮の女御、女四の宮〔規子〕ぞ生み奉り給へりける。廣幡の御息所、女五の宮〔盛子〕生れ給へり。按察の御息所、男九の宮〔昭平〕生れ給ひなどして、また九條殿の女御、女七九十の宮〔輔子・資子・選子〕など、數多さし續きて生ませ給ひて、猶この御有樣、世に勝れさせ給へり。斯く云ふ程に、大かた男宮九人、女宮十人〔男宮 一 廣平 元方御息所。二 冷泉 九條殿女御。三 致平 按察使御息所。四 爲平 九條殿女御。五 圓融 同。六 昌平 宣耀殿女御。七 具平 麗景殿女御。八 永平 宣耀殿女御。九 昭平 按察使御息所。 女宮 一 九條殿女御。二 。三 保子 按察使御息所。四 規子 式部卿宮女御。五 盛子 廣幡御息所。六 樂子 麗景殿女御。七 輔子 九條殿女御。八 。九 資子 九條殿女御。十 選子 同。 女二宮・女八宮のことみえず。いかゞ。〕ぞおはしける。
この御中にも、廣幡の御息所ぞ奇しう心殊に、心ばせ有る樣に、帝も思召いたりける。内より斯くなん。
あふ坂もはては往き來のせきもゐずたづねて訪ひこ來なば歸さじ
〔折句、あはせたきものすこし。一首の歌の意は、あふ坂山を、男女のあふに云かけて、初めの程こそは、人もさゝへへだつれ、後々は、おのづからゆるぶものなるを、ゆきゝの關もゐずとはの給へるなり。居ずとは、關をすゑず也。關なき上からは、心やすくたづねて來よと也。御かた/〃\の、御里居のほどなどに、つかはしけん。〕
と云ふ歌を同じやうに書かせ給ひて、御方方に奉らせ給ひけるに、この御返事方方さまざまに申させ給ひけるに、廣幡の御息所は、薫物をぞ參らせ給ひける。さればこそ、猶心殊に見ゆれと思召しけり。いと然こそ無くとも〔廣幡のみやす所程こそはなくとも、あまりしき事を、下にいはんとて、かくいふ也〕、何れの御方とかや、いみじく爲立てて參り給へりける〔裝束いみじくしたてゝ、參内ありし也。〕はしも、勿來關も有らまほしくぞ〔あまりしたりがほにふるまへるを、心づきなくおぼして、いさゝかはへだてもあらまほしと也。御歌に、逢坂の關とあるにより、こゝにも、名こその關を引たる也。後撰戀二、「立よらばかげふむばかりちかけれど誰かなこその關をすゑけん」〕思されける。御おぼえも、日頃に劣りにけりとぞ聞え侍りし〔はべると云詞、いかゞ。〕。
宣耀殿の女御は、いみじう美くしげにおはしましければ、帝も我が御私物にぞ、いみじう思ひ聞え給へりける。帝、箏の御琴を〔女御にをしへ給ひしこと、濟時聞取たること、見はてぬ夢に、又みえたり。〕ぞいみじう遊ばしける。この宣耀殿の女御に習はさせ給ひければ、いと美くしう彈き取り給へりけるを、女御の御兄弟の濟時の少將、常に御前に出でつつ、然りげ無う聞きける程に、いみじう善く彈き取り給へりければ、上いみじう興ぜさせ給ひて、召し出だしつつ、ヘへさせ給ひて、後後は御遊の折折は、先づ召し出でて、いみじき上手にてぞ物し給ひける。
この殿ばらの御心樣ども、同じ御兄弟なれど、さまざま心心にぞおはしける。小野の宮の大臣は、歌をいみじく詠ませ給ふ。好色しきものから、奧深く煩はしき御心にぞおはしける。九條の大臣は、寛厚かに知る知らぬ分かず、心廣くなどして〔二三句の内に、又、「などして」と云語あり。耳たちてきこゆ〕、月頃ありて、參りたる人をも、只今有りつるやうに、氣憎くもてなさせ給はずなどして、いと心安げに、思し掟てためれば、大殿の人人、多くはこの九條殿にぞ集まりける。小一條の師尹の大臣は、知る知らぬ程の、疎さ睦まじさも、思し思さぬ程の差別鮮明かになどして、くせぐせしうぞ〔上文。「くせ/〃\しからずなどして」。ね、一本。〕思し掟てたりける。其程さまざまをかしうなんありける。
東宮やうやう成長げさせ給ひけるままに、いみじう美くしうおはしますにつけても、九條殿の御おぼえ、いみじうめでたし。また四五の宮さへおはしますぞめでたきや。
斯かる程に、天コ二年十月二十七日にぞ、九條殿の女御、后に立たせ給ふ。藤原の安子と申して、今は中宮と聞えさす。中宮大夫には、帝の御兄弟の高明の親王と聞えさせし、今は源氏にて、ただ人になりておはするぞ成り給ひにける。次次の宮司ども、心殊に撰びなさせ給ふ。九條殿の御氣色、世にある甲斐ありてめでたし。小野の宮の大臣、女御の御事を〔上文。「さしつぎは、女御にておはしけり」とある事也〕、口惜しく思したり。
小野の宮の大臣の太カ、少將にて、敦敏とて、いとおぼえありておはせし、一年亡せ給ひにしぞかし。その御思ひにて、いみじく戀ひしのび給ひけるを、東國の方より人の、この少將の御料にとて、馬を奉りたりければ、見給ひて、大臣詠み給ひける。
まだ知らぬ人もありけり東路に我れも往きてぞ住むべかりける〔後撰・哀傷〕
此殿、大かた歌をいみじう詠み給ひければ、今の帝、此方に深くおはしまして、折折には、この大臣ゥ共にぞ詠み交させ給ひける。
昔、高野の女帝〔孝謙天皇をさし奉る。さて、萬葉集撰述の時代は、此御時にあらぬよし、定家クの押紙に見えて、拾芥抄上末にひけり。袋草子卷二、「撰萬葉集、或稱大同朝。疑桓武時事云々。」契冲古今集餘材抄にも、詳に辨あり。いづれにも、橘ゥ兄公にはあらず。〕の御代、天平勝寳五年には、左大臣橘卿、ゥ卿、大夫等集まりて、萬葉集を撰ばせ給ふ。醍醐の先帝〔上文には、醍醐聖帝とあり。こゝは、女帝にむかへて、先帝なるべし。〕の御時は、古今集二十卷撰り調へさせ給ひて、世にめでたくせさせ給ふ。只今まで二十餘年〔延喜五年より、村上即位まで、四十年ほど也。〕なり。古の、今の、舊き、新しき歌、撰り調へさせ給ひて、世にめでたう爲させ給ふ。この御時には〔村上の御時をさす〕、その古今集に入らぬ歌を、昔のも今のも、撰ぜさせ給ひて、後に撰ずとて、後撰集と云ふ名を附けさせ給ひて、又二十卷撰ぜさせ給へるぞかし。其れにも、この小野の宮の大臣〔實ョ也。後撰春上より、以下八九首もみえたり。〕の御歌、多く入りためり。但し古今には、貫之、序いとをかしう作りて仕うまつれり。後撰集にも、さやうにやと思召しけれど、彼れは其時の貫之、此方の〔かれはとは、古今をさす。このかたのとは、文筆のかたはと云が如し。〕上手にて、古を引き、今を思ひ、行末を兼ねて、面白く作りたるに、今は然やうの事に堪へたる人無くて、口惜しく思召しける。
この小野の宮の大臣の二カ、三カ、二所殘りておはしつるを、三カ右衞門督までなり給へりつるも、亡せ給ひにければ、今は二カョ忠と聞ゆるのみぞおはすめる。まだ御位いと淺し。右衞門督の、若うて上達部になり給へりしが、斯くて止み給ひにしかば、其れに怖ぢて、すがすがしくも爲し上げ奉り給はで〔ず、一本。 一本よし。三カの、わかくて、上達部にのぼりて、はやくうせ給ひたるにこりて、二カは、すが/\と、出身をこのまれ給はずと也〕、右衞門督の御子ども、あまたおはしける中にも、三カをぞ祖父大臣わが御子にし給ひて、實資と附け給へりける。敦敏の少將の君も、男子、女子あまた持給へりけるを、この祖父大臣ぞ萬づに育ませ給ひける。
九條殿の后の御姉妹の、中の君は、重明の式部卿の宮の、北の方にてぞおはしける。女君二所生みてかしづき給ひけり。
斯くて春宮四歳におはしましし年〔天暦七年也。上文、天暦四年にうまれたまふ。〕の三月に、元方の大納言亡くなりにしかば、其後、一の宮母女御も、打續き亡せ給ひにしぞかし。その氣にこそは〔ものゝけなれど、こゝは、大納言元方以下の死靈の事故に、けとのみいふ也。物と云ときは、しかとおさへざる詞也。〕有めれ、春宮いとうたてき御物の怪にて、ともすれば、御心地あやまりしけり。いといとほしげにおはします折折ありけり。然るは、御容美くしうCらにおはしますこと限り無きに、玉に瑕つきたらんやうに見えさせ給ふ。唯だいみじき事には、御修法あまた壇〔下文にもみゆ。又、七壇と云事もあり。〕にて、世と共に萬づせさせ給へど驗無し〔かくありては、上の「いみじきことには」と云詞のをさまり、なきやう也。せさせ給と云て、まづいみじきと云詞をむすびて、別に、されどそのしるしなしなどゝ云べし。下文、「御讀經・御修法など、あまた壇おこなはせ給ふ。かゝれど、さらにしるしもなし」とあり〕。いと尋常ならぬ御心樣容なり。御氣はひ、有樣、御聲つきなど、まだ小さくおはします人の御氣はひとも見え給はず、まがまがしう、ゆゆしう、いとほしげにおはしましけり。是れを帝も后も、いみじきことに思召し歎かせ給ふ。やうやう御元服のほども近くならせ給へれば、御女おはする上達部、親王達は、いたう氣色ばみ申し給へど、斯くおはしませば、只今さやうのこと、思召しかけさせ給はぬに、前の朱雀院〔上文にもみゆ。前の字なくてもよろし。或人校に先と改。是もよろしからず。こゝは、崩御後に、此御すくせ定まり給ふ故に、前とある、おぼつかなし。下文、「故朱雀院の御たから物は」。〕の女御子、又無きものに思ひかしづき聞えさせ給ひしを、さやうに思召しためるは、後に据ゑ奉らん御本意なるべし。されば、その宮參らせ給ふべきに定めありて、異人人、只今は思し止まりにけり。
式部卿の宮の北の方は、内邊りの然るべき折ふしの、をかしき事見には、宮仕ならず參り給ひけるを、上はつかに御覽じて、人知れず、如何で如何でと思召して、后に切ちに聞えさせ給ひければ、心苦しうて、知らず顔にて、二三度は對面せさせ奉らせ給ひけるを、上はつかに飽かずのみ思召して、常に猶猶と聞えさせ給ひければ、わざと迎へ奉り給ひけれど、あまりは、え物せさせ給はざりける程に、帝、然るべき女房を通はさせ給ひて、忍びて紛れ給ひつつ參り給ふ。又造物所に、然るべき御調度どもまで、志せさせ給ひける事を、自ら度度になりて、后の宮洩り聞かせ給ひて〔中宮の御耳に入しとなり。〕、いと慵しき御氣色になりにければ、上も愼ましう思召して、かの北の方も、いと怖ろしう思召されて、其事止まりにけり。かの宮の北の方は御容も心も、をかしう今めかしうおはしける。色めかしうさへおはしければ、斯かる事も有るなるべし。