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榮華物語

赤染衞門、他
(正宗敦夫編纂・校訂『栄花物語』上・下 日本古典全集 日本古典全集刊行會 1934.3.10、4.13
※ 注記は、岡本保孝『榮花物語抄』(折口信夫編輯『國文學註釋叢書』11の内 名著刊行會 1930.9.8再版)による。
ただし、校正の注記を一部省略した。
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月宴つきのえん
〔村上 天暦元年康保四年、凡廿年。 冷泉 安和元年三年。 圓融 天祿元年三年。〕

世初まりて後、此國の帝六十餘代〔此物語に、七十三代堀河院の寛治年中までの事をしるしたれば、七十餘代といふべくおもはるれど、三十一帖以下は、後人の書續なれば、六十餘代と云へるなり。六十九代後朱雀院以下は、第三十三帖よりなり。にならせ給ひにけれど、この次第書き盡すべきにあらず。こち寄りての事をぞ記るすべき。
世の中に、宇多の帝〔第五十九代〕と申す帝おはしましけり。其帝の御子たち數多あまたおはしましける中に、一の御子敦仁あつひと小印本、あつきみ。拾芥抄の人名録には、仁の字は、ひととのみよめれど、慶長二年の節用集に、仁をきみとよめり。姓名録抄に、仁をきみとよむ、同じ事也。〕の親王と申しけるぞ位に即かせ給ひける〔を、一本。〕こそは、醍醐の聖帝と申して、世の中に、天の下めでたきためしに引き奉るなれ。位に即かせ給ひて、三十三年を保たせ給ひけるに、多くの女御によごさぶらひ給ひければ、おとこ御子十六人〔紹運録に、親王十六人をあげたり。但、兼明内親王とあるは、内字衍文。此外に、源姓を賜はりたるみこ六人、童子とて一人あり。此七人は、親王になり給はぬ故に、こゝにいはざるにや。〕、女御子數多おはしましけり。
其頃の〔の文字、あまりてきこゆ。ひろく、宇多より醍醐をかけて云へる詞也。さて、太政大臣は、基經の後、絶て久しく闕官にて、朱雀にいたりて、藤原忠平任ぜられたり。下文。「只今の太政大臣にては云々」と有。これは、只今のと、の文字有てよろし。〕太政大臣基經の大臣おとどと聞えけるは、宇多の帝の御時に亡せ給ひけり。中納言長良ながよしと聞えけるは贈太政大臣冬嗣ふゆつぐの御太カにぞおはしける。後に贈太政大臣とぞ聞えける。そのおん三カ〔そのは、長良をさす。三カは、基經をいふ。〕にぞおはしける。その基經の大臣亡せたまひて、後の御謚おんおくりな昭宣公せうせんこうと聞えけり。
其基經の大臣、男君四人よたりおはしけり。太カは時平ときひらと聞えけり。左大臣までなり給ひて、三十九にてぞ亡せ給ひにける。二カ仲平なかひらと聞えけるは、左大臣までなり給ひて、七十一にて亡せ給ひにけり。三カ兼平かねひらと聞えける、三位までぞおはしける。四カ忠平ただひらの大臣ぞ關白太政大臣までなり給ひて、多くの年頃過ぐさせ給ひける。其基經の大臣の御女おんむすめの女御の御腹に、醍醐の宮達あまたおはしましけり。十一の御子寛明ひろあきらの親王と申しける、帝に居させ給ひて、十六年おはしまして後に、降りさせ給ひておはしけるをぞ朱雀院の帝とは申しける。その次ぎ、同じ女御の御腹の十四の御子、成明なりあきらの親王と申しける、さし續きて帝に居させ給ひにけり。天慶九年四月十三日にぞ居させ給ひける。朱雀院は、御子達おはしまさざりけり。唯だ王女御わうによごと聞えける御腹に、えも云はず美くしき女御子、一所ぞおはしましける。母女御も、御子三歳みつにて亡せ給ひしかば、帝我れ一所、畏きものに思ほし養ひ奉り給ひける。いかで后に据ゑ奉らんと思しけれど、例無き事にて〔天子の姫君の、皇后になり給ふ例、なしと也。しかれども、此時、古今にあたりて例あるを、いかなれば、かくいへるにか。朱雀の御心に、村上に奉らんとか、冷泉に奉らんとか、いづれにても、叔父にあたれば、例なしとおぼしたるにか。後に、冷泉の后となり給ふ也。叔父の妻となるも、をばをつまとしたるも、例有也〕、口惜しくてぞ過ぐさせ給ひける。昌子しやうし内親王とぞ聞えさせける。
斯くて、今の上の心ばへ、あらまほしく、有るべき限りおはしましけり。醍醐の聖帝世にめでたくおはしましけるに、又この帝、堯の子の堯ならんやうに、大かた御心ばへの雄雄しう、氣高く賢うおはしますものから、おんざえも限り無し。和歌の方にも〔さま/〃\のス、「まづ、いはひの和歌ひとつつかうまつるべしと、おほせらるゝまゝに」とあり。この比は、はやく、歌のことを、和歌ともいへるにこそ。源氏物語などには、むかへたる物なくてはいはず。〕いみじうませ給へり。萬づに情あり、物のはえおはしますこと限り無し。許多そこらの女御、御息所みやすどころ參り集まり給へるを、時あるも時無きも、おん志優ぐれたるも、こよなきも〔時あると、ときなき人とは、みかどの御かへりみこよなきによりてなり。今こゝにては、その根源をばおしきはめずに、たゞ、打みたる所にて、時有と時無と、めやすくあつかひ給ひて、はぢがましきことなどし給はぬよしをいふなり。〕、いささか恥がましげに、いとほしげにもてなしなどもせさせ給はず。なのめに情ありて、めでたう思召しわたして、なだらかにおきてさせ給へれば、この女御、御息所達のおん中も、いと目やすく、便びん無き事聞えず。くせぐせしからず〔ね、一本。 一本もよろし。下文、 「くせ/\しうぞおぼし」花山。〕などして、御子生まれ給へるは、然る方に重重しくもてなさせ給ひ、然らぬは、然可さべおん物忌などにて、徒然に思さるる日などは、おん前に召し出でて碁、雙六〔花山の卷にも。〕打たせ、扁を著かせ〔枕册子、第四十三段。〕(*「付かせ」とも「継がせ」ともいう)石攤いしなどり〔石はじきのこと也。別にしるす。〕をせさせて御覽じなどまでぞおはしましければ、皆かたみに情を交し、をかしうなんおはし合ひける。斯く帝の御心のめでたければ、吹く風も枝を鳴らさず(*「雨不破塊、風不鳴条。」〔塩鉄論〕)などあればにや、春の花も匂のどけく、秋の紅葉も枝に留まり、いと心のどかなる御有樣なり。
只今の關白太政大臣にては、基經の大臣の御子おんこ、四カ忠平の大臣、帝のおん叔父にて、世をまつりごちておはす。その大臣の御子、五人いつたりぞおはしける。太カは今の左大臣にて、實ョさねよりと聞えて、小野の宮と云ふ所に住み給ふ。二カは右大臣にて師輔もろすけの大臣、九條と云ふ所に住み給ふ。三カの御有樣おぼつかなし〔尊卑分脈に、忠平公の御子に、師保出家とあり。これなるべし。疑の卷に、此兄弟をならべのせたるに、三カをいはず。出家なればなるべし。〕。四カ師氏もろうぢと聞えける、大納言までぞ成り給ひける。五カ師尹もろただの大納言と聞えて、小一條と云ふ所に住み給ふ。
されば只今は、この太政大臣おほきおとどの御子ども、やがていとやんごとなき〔父君の時にかはらず、繁昌のことを見せんとて、やがてとは云也。〕殿ばらにておはす。此殿ばら、みなおのおの御子ども様様にておはする中に、九條の師輔の大臣、いと足らはしく〔たはしくは、たはれをなどのたはにて、好色の事也。和訓栞、たはしき、可考。〕おはして、あまたの北の方の御腹に、男十一人、女六人〔尊卑分脈に、十二人男、七人女。〕ぞおはしける。小野の宮の左大臣殿は、三人みたりばかりぞおはしける。女君もおはしけり。一所〔慶子也。〕は、宮ばらの〔狹衣物語二上、「かのひめ君こそ、大將の御ぐにもしつべけれ」とあり。本書、初花の卷。「あやしの法師のぐどもになり給はん」又、「ひめ君の御ぐになし聞え給にしかば」ともあり。おなじ意にかよふ。こゝは、宮ばらにはあらねど、宮ばらと同じさまにかしづかるゝをいふなるべし。狹衣なるは、大將とおなじさまにといふことにて、大將の北の方にせましと也。偶の字音ならんと、先師(*清水浜臣)いはれたる、さもあるべし。〕にておはす。さしつぎは、女御にて〔述子也。村上女御也。〕おはしけり。次次様様にておはす。小一條の師尹の大臣、男子をのこご二人、女一所〔尊卑分脈に、四人定時・長快・女子・濟時・芳。此芳は女にて、村上の女御也。長快と、女子とは、數にいらぬなり。尊卑分脈にて、ほの/〃\しらる。〕ぞおはしける。男子一人は、はかなうなり給ひにけり〔尊卑分脈には、此人をかぞへ、こゝに二人といふは、此一人を除きていふ〕
斯くて、女御たちあまた參り給へる中に、九條の師輔の大臣の姫君、有るが中に、一の女御にて侍ひ給ふ。また今の帝の御兄弟おんはらから重明しげあきらの式部卿の宮の御女おんむすめ、女御におはす。又同じ御兄弟の、代明よあきら中務なかつかさの宮の御女、麗景殿れいけいでんの女御とて侍ひ給ふ。又在衡ありひら按察あぜち大納言〔公卿補任、天コ四年、藤原在衡大納言に任ず。これよりさき、天暦二年、中納言にて、按察使を兼られたり。〕の女、按察の御息所とて侍ひ給ふ。小一條の師尹の大臣の御女、いみじう美くしくて、宣耀殿せんえうでんの女御と聞えさす。又廣幡ひろはたの中納言庶明ちかあきの御女、廣幡の御息所とておはす。さても此のおん方方皆御子生まれ給へるどもなり。御子生まれ給はぬ御息所達も〔源氏物語にては、御子うみ給ふ女御・更衣にいふを、こゝにては、うみ給はぬをも、しかいふよし也。源氏桐壺の卷、御息所の下にて、本居氏詳に辨じたり。〕、あまた侍ひ給ふ。まことや、元方もとかた民部卿のむすめも參り給へり。
年頃東宮とうぐうも、斯くて再び亡せ給ひぬるに〔東宮ふたゝびうせたまふといふこと、いまだ見あたらず。編年略記・百練抄・一代要記・扶桑略記・帝王編年記・日本史等に、所見なし。〕、東宮斯くまだ、一本。 一本よろし。〕居させ給はぬに、許多ここら侍ひ給ふ御方方、あやしう心もとなく思召されける程に、九條殿の女御、唯だにもおはしまさで、めでたしと喧騷ののしりしかど、女御子にて、いと本意ほい無き程に、平安たひらかにてだにおはしまさで、亡せさせ給ひぬるに、元方の御息所、唯だならぬ事の由申して、退かで給ひぬれば、若しをのこ御子生れ給へるものならば、又無うめでたかるべき事に、世の人申し思ひたるに、一の御子生れ給へるものか。あなめでた、いみじと喧騷りたり。内よりも、御劔みはかしより初めて、例のおん作法の事どもにて、もてなし聞え給ふ。元方の大納言、いみじと思したり。東宮はまだ世におはしまさぬ程なり、何の故にか、我が御子東宮に居あやまち給はんと、ョもしく思されけり。
いみじう世の中に喧騷る程に、九條殿の女御、唯だにもおはしまさずと云ふこと、おのづから世に漏り聞ゆれど、元方の大納言、いで、さりとも、さきの事もありきなど聞き思ひけり。大い殿も、九條殿も、いと嬉しう思すほどに、上は、世はともあれ斯うもあれ、一の御子のおはするを、嬉しくョもしきことに思召す。道理ことわりなり。
斯かる程に、太政大臣おほきおとど殿、月頃惱ましく思したりつるに、天暦三年八月十四日亡せさせ給ひぬ。この三十六年〔天暦三年より上にかぞへて、延喜十四年にて、三十六年也。忠平公は、延喜十四年に、右大臣になり給ふ。公卿補任にみえたり。〕、大臣の位にておはしましけるを、御年今年ぞ七十になり給ひける。左右の大臣〔實ョは、左大臣也。師輔は、右大臣也。いづれも、太政大臣の御子也。〕たちも、いとまためでたくョもしき御ありさまなり。帝も疎からぬ〔太政大臣は、村上帝の母方の御をぢ也。〕御中らひにて、萬づかたがたの御事も、めでたくて過ぎもて行くに、女御も御服おんぶくにて出で給ひぬ。宣耀殿の女御も、同じく服にて出で給ひぬ。心のどかに、慈悲の心廣く、世をたもたせ給へれば、世の人いみじく惜み申す。後の御諱おんいみな〔下文、「のちの御いみなC愼公」と有。又、花山、「後のいみなを、謙コ公と聞ゆ。」又、下文、「忠義公と、御いみなをきこゆ。」いづれにしても、誤なり。後諱といふ事、あるべきことにあらず。後謚といふ事もあるべきことにあらず。謚と云もの、後よりいふことなれば、後のとことわるべき理なければなり。但、諱字も、謚字も、名の字の意に用て、後の名といふべきを、後世諱謚の字にすがりて、假字にかき改めたるより、かく二樣になりたるにはあらぬか。〕貞信公ていしんこうと申しけり。次次の御ありさま、あはれにめでたくて過ぎもてく。世の中のことを、實ョの右大臣仕うまつり給ふ。九條殿二の人にておはすれど、猶いちくるしき二〔一の人とおなじ御いきほひをいふ也。くるしきは、にこやかなるを愛くるしと云くるしとおなじ詞にて、一の人になしてもあまりある御人コぞと、人々申奉ると也。〕(*一の人に居り苦しいと解するのが通例。)とぞ人人思ひ聞えさせためる。
斯かる程に、年もかへりぬれば、天暦四年五月二十四日に〔女御はらませ給ひしを、忠平公よろこび給ふことみえて、八月にうせ給ひぬ。八月よりかぞへて五月にて、十月になりぬ。御産のびさせ給ふのか、五月の字の誤か。されど、下文、むまれ給ひて、三月といふに、七月とあれば、五月の誤ともいひがたし。去年八月はらみ給ひて、その月になくなり給ふ。忠平公、よろこび給ふこと、いかゞ。御産ののびたりけん事、うたがひなかるべし。〕、九條殿の女御、男御子生み奉り給ひつ。内よりは、いつしか御劔持て參り、大かたの御ありさま、心殊にめでたし。世のおぼえ殊に、騷ぎ喧騷りたり。元方の大納言斯くと聞くに、胸塞がる心地して、物をだにも食はずなりにけり。いといみじくあさましき事をも、爲過しあやまちつるかな(*若宮を呪咀してしまいそうなこと。)と、物思ひ盡きぬ胸を病みつつ、病著きぬる心地して、同じくは、今は如何で疾く死なんとのみ思ふぞ、怪しからぬ心なりや。
九條殿には、御産屋おんうぶやの程の儀式有樣など、形容まねびやらんかた無し。大臣の御心のうち思ひやるに、然ばかりめでたき事ありなんや。小野の宮の大臣も、一の御子よりは、これは嬉しく思さるべし。帝の御心の中にも、萬づ思ひ無く、遇ひかなはせ給へるやうに、めでたう思されけり。
はかなう〔はかなうと云詞いかゞ。此詞なくて宜し。〕おん五十日いかなども過ぎもて行きて、生れ給ひて三月と云ふに、七月二十三日に、東宮に立たせ給ひぬ〔冷泉院〕。九條殿は、太政大臣の亡せ給ひにしを、返す返すも口惜しく思されて、え忌み敢へず、しほたれ給ひぬ。一の御子の母女御の、湯水をだにも參らで、沈みてぞ臥し給へる、いみじくゆゆしきまでにぞ聞ゆる。
はかなくて、年月としつきも過ぎて、この御方方、我も我も、劣らじ負けじと、皆唯だならずおはして、御子達いとあまた出で來集まり給ひぬ。按察の御息所、男三の宮〔致平〕、女三の宮〔保子也。〕生み奉り給ひつ。又この九條殿の女御、男四五の宮〔爲平・圓融院〕生れ給ひぬ。また宣耀殿の女御、男六八の宮〔昌平・永平〕生れ給へりけれど、六の宮は、はかなくなり給ひにけり。八の宮ぞ平安たひらかにておはしける。麗景殿の女御、男七の宮〔具平〕、女六の宮〔樂子〕生れ給ひにけり。式部卿の宮の女御、女四の宮〔規子〕ぞ生み奉り給へりける。廣幡の御息所、女五の宮〔盛子〕生れ給へり。按察の御息所、男九の宮〔昭平〕生れ給ひなどして、また九條殿の女御、女七九十の宮〔輔子・資子・選子〕など、數多さし續きて生ませ給ひて、猶この御有樣、世に勝れさせ給へり。斯く云ふ程に、大かた男宮九人、女宮十人〔男宮 一 廣平 元方御息所。二 冷泉 九條殿女御。三 致平 按察使御息所。四 爲平 九條殿女御。五 圓融 同。六 昌平 宣耀殿女御。七 具平 麗景殿女御。八 永平 宣耀殿女御。九 昭平 按察使御息所。 女宮 一 九條殿女御。二 。三 保子 按察使御息所。四 規子 式部卿宮女御。五 盛子 廣幡御息所。六 樂子 麗景殿女御。七 輔子 九條殿女御。八 。九 資子 九條殿女御。十 選子 同。 女二宮・女八宮のことみえず。いかゞ。〕ぞおはしける。
この御中おんなかにも、廣幡の御息所ぞあやしう心殊に、心ばせ有る樣に、帝も思召いたりける。内より斯くなん。
あふ坂もはては往き來のせきもゐずたづねて訪ひこ來なば歸さじ
〔折句、あはせたきものすこし。一首の歌の意は、あふ坂山を、男女のあふに云かけて、初めの程こそは、人もさゝへへだつれ、後々は、おのづからゆるぶものなるを、ゆきゝの關もゐずとはの給へるなり。居ずとは、關をすゑず也。關なき上からは、心やすくたづねて來よと也。御かた/〃\の、御里居のほどなどに、つかはしけん。〕
と云ふ歌を同じやうに書かせ給ひて、御方方に奉らせ給ひけるに、この御返事おんかへりごと方方さまざまに申させ給ひけるに、廣幡の御息所は、薫物たきものをぞ參らせ給ひける。さればこそ、猶心殊に見ゆれと思召しけり。いと然こそ無くとも〔廣幡のみやす所程こそはなくとも、あまりしき事を、下にいはんとて、かくいふ也〕、何れの御方おんかたとかや、いみじく爲立てて參り給へりける〔裝束いみじくしたてゝ、參内ありし也。〕はしも、勿來關なこそのせきも有らまほしくぞ〔あまりしたりがほにふるまへるを、心づきなくおぼして、いさゝかはへだてもあらまほしと也。御歌に、逢坂の關とあるにより、こゝにも、名こその關を引たる也。後撰戀二、「立よらばかげふむばかりちかけれど誰かなこその關をすゑけん」〕思されける。おんおぼえも、日頃に劣りにけりとぞ聞え侍りし〔はべると云詞、いかゞ。〕
宣耀殿の女御は、いみじう美くしげにおはしましければ、帝も我が御私物おんわたくしものにぞ、いみじう思ひ聞え給へりける。帝、さう御琴おんこと〔女御にをしへ給ひしこと、濟時聞取たること、見はてぬ夢に、又みえたり。〕ぞいみじう遊ばしける。この宣耀殿の女御に習はさせ給ひければ、いと美くしう彈き取り給へりけるを、女御の御兄弟の濟時の少將、常に御前おんまへに出でつつ、然りげ無う聞きける程に、いみじう善く彈き取り給へりければ、上いみじう興ぜさせ給ひて、召し出だしつつ、ヘへさせ給ひて、後後は御遊おんあそびの折折は、先づ召し出でて、いみじき上手にてぞ物し給ひける。
この殿ばらの心樣ども、同じ御兄弟なれど、さまざま心心にぞおはしける。小野の宮の大臣は、歌をいみじく詠ませ給ふ。好色すきずきしきものから、奧深く煩はしき御心にぞおはしける。九條の大臣は、寛厚おいらかに知る知らぬ分かず、心廣くなどして〔二三句の内に、又、「などして」と云語あり。耳たちてきこゆ〕、月頃ありて、參りたる人をも、只今有りつるやうに、氣憎けにくくもてなさせ給はずなどして、いと心安げに、思し掟てためれば、大殿の人人、多くはこの九條殿にぞ集まりける。小一條の師尹の大臣は、知る知らぬ程の、疎さ睦まじさも、思し思さぬ程の差別けじめ鮮明けざやかになどして、くせぐせしうぞ〔上文。「くせ/〃\しからずなどして」。ね、一本。〕思し掟てたりける。其程さまざまをかしうなんありける。
東宮やうやう成長およすげさせ給ひけるままに、いみじう美くしうおはしますにつけても、九條殿の御おぼえ、いみじうめでたし。また四五の宮さへおはしますぞめでたきや。
斯かる程に、天コ二年十月二十七日にぞ、九條殿の女御、きさきに立たせ給ふ。藤原の安子と申して、今は中宮ちゆうぐうと聞えさす。中宮大夫には、帝の御兄弟の高明たかあきら親王みこと聞えさせし、今は源氏にて、ただびとになりておはするぞ成り給ひにける。次次の宮司みやづかさども、心殊に撰びなさせ給ふ。九條殿の御氣色みけしき、世にある甲斐ありてめでたし。小野の宮の大臣、女御の御事を〔上文。「さしつぎは、女御にておはしけり」とある事也〕、口惜しく思したり。
小野の宮の大臣の太カ、少將にて、敦敏あつとしとて、いとおぼえありておはせし、一年ひととせ亡せ給ひにしぞかし。そのおん思ひにて、いみじく戀ひしのび給ひけるを、東國あづまの方より人の、この少將の御料おんれうにとて、馬を奉りたりければ、見給ひて、大臣詠み給ひける。
まだ知らぬ人もありけり東路に我れも往きてぞ住むべかりける〔後撰・哀傷〕
此殿、大かた歌をいみじう詠み給ひければ、今の帝、此方このかたに深くおはしまして、折折には、この大臣ゥ共にぞ詠み交させ給ひける。
昔、高野の女帝〔孝謙天皇をさし奉る。さて、萬葉集撰述の時代は、此御時にあらぬよし、定家クの押紙に見えて、拾芥抄上末にひけり。袋草子卷二、「撰萬葉集、或稱大同朝。疑桓武時事云々。」契冲古今集餘材抄にも、詳に辨あり。いづれにも、橘ゥ兄公にはあらず。〕の御代、天平勝寳五年には、左大臣橘卿、ゥ卿しよきやう、大夫等集まりて、萬葉集を撰ばせ給ふ。醍醐の先帝〔上文には、醍醐聖帝とあり。こゝは、女帝にむかへて、先帝なるべし。〕の御時は、古今集二十卷り調へさせ給ひて、世にめでたくせさせ給ふ。只今まで二十餘年〔延喜五年より、村上即位まで、四十年ほど也。〕なり。古の、今の、舊き、新しき歌、撰り調へさせ給ひて、世にめでたうさせ給ふ。この御時には〔村上の御時をさす〕、その古今集に入らぬ歌を、昔のも今のも、せんぜさせ給ひて、後に撰ずとて、後撰集と云ふ名を附けさせ給ひて、又二十卷撰ぜさせ給へるぞかし。其れにも、この小野の宮の大臣〔實ョ也。後撰春上より、以下八九首もみえたり。〕の御歌、多く入りためり。但し古今には、貫之つらゆき、序いとをかしう作りて仕うまつれり。後撰集にも、さやうにやと思召しけれど、彼れは其時の貫之、此方こなた〔かれはとは、古今をさす。このかたのとは、文筆のかたはと云が如し。〕上手にて、古を引き、今を思ひ、行末を兼ねて、面白く作りたるに、今は然やうの事に堪へたる人無くて、口惜しく思召しける。
この小野の宮の大臣の二カ、三カ、二所殘りておはしつるを、三カ右衞門督うゑもんのかみまでなり給へりつるも、亡せ給ひにければ、今は二カョ忠よりただと聞ゆるのみぞおはすめる。まだおん位いと淺し。右衞門督の、若うて上達部かんだちべになり給へりしが、斯くて止み給ひにしかば、其れに怖ぢて、すがすがしくもし上げ奉り給はで〔ず、一本。 一本よし。三カの、わかくて、上達部にのぼりて、はやくうせ給ひたるにこりて、二カは、すが/\と、出身をこのまれ給はずと也〕、右衞門督の御子おんこども、あまたおはしける中にも、三カをぞ祖父おほぢ大臣おとどわが御子にし給ひて、實資さねすけと附け給へりける。敦敏の少將の君も、男子をのこご女子をんなごあまた給へりけるを、この祖父大臣ぞ萬づにはぐくませ給ひける。
九條殿の后の御姉妹おんはらからの、なかの君は、重明しげあきらの式部卿の宮の、北の方にてぞおはしける。女君二所生みてかしづき給ひけり。
斯くて春宮とうぐう四歳よつにおはしましし年〔天暦七年也。上文、天暦四年にうまれたまふ。〕の三月に、元方の大納言亡くなりにしかば、其後、一の宮母女御も、打續き亡せ給ひにしぞかし。そのにこそは〔ものゝけなれど、こゝは、大納言元方以下の死靈の事故に、けとのみいふ也。物と云ときは、しかとおさへざる詞也。〕めれ、春宮いとうたてきおん物の怪にて、ともすれば、心地あやまりしけり。いといとほしげにおはします折折ありけり。然るは、御容おんかたち美くしうCらにおはしますこと限り無きに、玉にきずつきたらんやうに見えさせ給ふ。唯だいみじき事には、御修法みすほふあまた壇〔下文にもみゆ。又、七壇と云事もあり。〕にて、世と共に萬づせさせ給へどしるし無し〔かくありては、上の「いみじきことには」と云詞のをさまり、なきやう也。せさせ給と云て、まづいみじきと云詞をむすびて、別に、されどそのしるしなしなどゝ云べし。下文、「御讀經・御修法など、あまた壇おこなはせ給ふ。かゝれど、さらにしるしもなし」とあり〕。いと尋常なべてならぬ心樣かたちなり。おん氣はひ、有樣、こゑつきなど、まだ小さくおはします人の御氣はひとも見え給はず、まがまがしう、ゆゆしう、いとほしげにおはしましけり。是れを帝も后も、いみじきことに思召し歎かせ給ふ。やうやう御元服のほども近くならせ給へれば、御女おんむすめおはする上達部、親王みこ達は、いたう氣色けしきばみ申し給へど、斯くおはしませば、只今さやうのこと、思召しかけさせ給はぬに、前の朱雀院〔上文にもみゆ。前の字なくてもよろし。或人校に先と改。是もよろしからず。こゝは、崩御後に、此御すくせ定まり給ふ故に、前とある、おぼつかなし。下文、「故朱雀院の御たから物は」。〕女御子をんなみこ、又無きものに思ひかしづき聞えさせ給ひしを、さやうに思召しためるは、後に据ゑ奉らん御本意なるべし。されば、その宮參らせ給ふべきに定めありて、こと人人、只今は思しとどまりにけり。
式部卿の宮の北の方は、内わたりの然るべき折ふしの、をかしき事見には、宮仕ならず參り給ひけるを、上はつかに御覽じて、人知れず、如何で如何でと思召して、后にちに聞えさせ給ひければ、心苦しうて、知らず顔にて、二三度は對面たいめせさせ奉らせ給ひけるを、上はつかに飽かずのみ思召して、常に猶猶と聞えさせ給ひければ、わざと迎へ奉り給ひけれど、あまりは、え物せさせ給はざりける程に、帝、然るべき女房を通はさせ給ひて、忍びて紛れ給ひつつ參り給ふ。又造物所つくものどころに、然るべきおん調度どもまで、志せさせ給ひける事を、おのづか度度たびたびになりて、后の宮洩り聞かせ給ひて〔中宮の御耳に入しとなり。〕、いとものしき氣色になりにければ、上も愼ましう思召して、かの北の方も、いと怖ろしう思召されて、其事止まりにけり。かの宮の北の方は御容おんかたちも心も、をかしう今めかしうおはしける。色めかしうさへおはしければ、斯かる事も有るなるべし。

        
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