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校註 正法眼藏隨聞記 第一

懷奘 (立花俊道 校註)
大東出版社 1942.2.20
※ 章見出し(目次)は校註者によるもの。
※ 鈎括弧を施した。〔底本注記〕(*入力者注記)

 校註者序  凡例  目次  解説  本文序  本文凡例   本文  本文跋語
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道元禪師には著述口授の書、和文漢文のもの共に相當數多く、著書の量からいへば、禪師は各宗祖師の中でも一二に居られるであらうと思ふが、その大部分を成せる正法眼藏九十五卷は全篇和文を以て綴られて居るに拘らず、世にも難解の書で、素人には勿論のこと、禪的教養のよほど高い人にも容易く會得しがたきものである。
この正法眼藏隨聞記六卷は禪師が隨時に垂示垂誡されたのを侍者懷奘和尚の筆録されたもので、九十五卷の眼藏に比すれば遙かに了解し易く、且つ禪師の行的方面に於ける訓誡を窺ふには實に絶好の書である。これも主として出家者即ち禪宗僧侶を誡しめるために説かれた書なることは解説中にも詳しく記したが、これを轉じて在家者のために禪を説き、更に轉じてその道徳倫理を説いたものと見得らるべき節も多々ある。これ本書を出家在家兩者へ推薦する所以である。
この書の版本は古き慶安・寛文・寶暦・明和の四版の外、新しきも、明治四十年九月永平寺出張所の刊行に係るものを初め十種近くある筈であるが、多くは叢書の一部を成せるものであり、二三の單行本は何れも絶版同樣となつて、共に得がたきものばかりである。本書に親しむこと年久しく、禪師親誡懇諭の書として自らも常に拜讀し他のために講じたことも再々であつた。從來の單行本の豆本なるは携帶には利あるも繙讀には必ずしも便ならざるを思うて、文字と本の形とを稍々大きくし、嚴密なる校合、詳細なる註解を施して茲に本書を世に送るわけである。
本書の校合には文學士東元多郎君を煩はすこと多かつた。尚ほ大久保圭室兩駒澤大學教授の刊行本を參照して益を得たことも多大であつた。共に記して以て謝意を表する次第である。

昭和十六年九月念九、禪師示寂の日
立花俊道


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凡例



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目次





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 一、随聞記の成立   二、随聞記出版   三、随聞記の内容

解説

[解説目次]

一、隨聞記の成立

正法眼藏隨聞記六卷は、道元禪師の垂誡をば、その弟子懷奘和尚が聞くに隨つて記録されたのを、和尚の滅後その弟子たちが整理編輯したものであるらしい。毎卷の初めに「侍者懷奘編」の五文字があるが、これは勿論懷奘和尚が自ら筆を執つて禪師の垂訓を記録した意味であらう。それをその弟子たちが後日整理して編輯したのであるかと思ふ。この事情は、慶安本にはないが、明和本には卷尾に跋語といふものがあり、それに「先師永平奘和尚2學地1之日、學道至要隨聞記録」とあるによつて了解される。こゝに「先師」の語あることからして、これを整理編輯したのは懷奘和尚の直弟子で、而もそれは和尚の滅後の事であつたことが察し得られよう。
この跋語の終に「六册倶嘉禎年中記録」とあるが、懷奘和尚の初めて道元禪師と相見されたのは四條天皇文暦元年(皇紀一八九四年)(*1234年)冬、禪師三十五歳、和尚三十七歳の時で、禪師興聖寺在住の頃であつた。而して翌年九月には改元して嘉禎となり、それは四年十一月まで續いて又暦仁と改元されたから、奘和尚の垂誡を受けてそれを筆録したのは大凡この三四年間の事であつたらう。二卷に「今僧堂を建てんとて勸進もし云々」の語あるが、これは禪師嘉禎元年十二月興聖寺(=宇治觀音導利院)僧堂建立のため勸進をされたことを指すのである。而して同二年十月禪師は同寺に於て祝國開堂の儀式を行はれ、十二月懷奘和尚を首座職に充てて秉拂ひんぼつを請はれたことは四卷にも出て居る。「嘉禎二年臘月除夜、初めて懷奘を興聖寺の首座に請す。即ち小參の次で初めて秉拂を首座に請ふ。」とあるのがその文である。これが吾國吾宗最初の祝國開堂であり、任首座であることは勿論である。この時和尚は已に三十九歳であつたから、その前後和尚禪師に接近して得た垂誡又は質問して得た答話をば筆記され、それが積り積つてこの六卷の隨聞記となつたものであらう。これが最初から六卷本であつたことは彼の跋文中に「六册倶云々」の語あるよりして察することが出來る。卷數もさうであるが、内容も當時の六册本と今傳はつて居る本とは大した變りはないと思ふ。それは慶安本は一種若しくは幾種かの寫本を校合して版にしたものかと思はれるが、寶暦本は他の寫本と不完全極まる彼の寛文版本とを參照して出版したものたるに拘らず、慶安寶暦兩本は本書の校合の欄に示せる通り唯所々に辭句の相違の發見されるだけで、内容には大した意味の相違の見られないことによつて推量し得られると思ふ。
面山師の寶暦本と慶安本との間には百七年の距離があり、面山師のこの書の異本を得ることに相當苦心されたことは寶暦本の序文によつても明かであるが、このが慶安版本を探しあて得なかつたことは不思議でならぬ。しかし寶暦本明和本の序文、凡例、跋語何れにも慶安本の事を一語も言つてないのみならず、凡例の中に「前版」「古本」などいふ語を使つてあるのも慶安本の事ではないやうである。


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[目次]
一、燒香禮拜よりも只管打坐に努めよ
一日示して云く、「續高僧傳〔三十卷、唐の道宣著。梁の慧皎高僧傳に續ぎて梁より唐の貞觀年間に至る間の高僧の傳記。〕の中に、『或禪師の會下ゑか〔ゑげとも讀む。門下の意。〕に一僧あり。金像の佛とまた佛舍利〔佛の遺骨、おしやり〕とをあがめ用ひて、衆寮しゆれう等にありても常に燒香禮拜し、恭敬くぎやう供養しき。有時あるとき禪師の云く、「汝が崇むる所の佛像舍利は、後には汝がために不是〔不祥な事〕あらん。」と。其の僧うけがはず。師云く〔慶本「師」に作る。〕、「是れ天魔波旬〔魔羅派旬 Mãra Pãpimant 魔羅は殺者、波旬は惡者の意。第六天の魔王を指す。常に佛・佛弟子を■(女偏+堯:じょう::大漢和6734)亂(嬈亂)せんとする佛敵なり。〕の作す所なり。早く是れを棄つべし。」其の僧憤然として出ぬれば、師すなはち僧の後へに云ひ懸けて云く、「汝箱を開いて是れを見るべし。」と。其の僧いかりながら是れを開いてみれば、毒蛇わだかまりて臥せり。』と。是れを以て思ふに、佛像舍利は如來の遺像ゆゐざう遺骨ゆゐこつなれば、恭敬すべしといへども、またひとへに是れを仰いで得悟すべしと思はゞ還つて邪見なり。天魔毒蛇の所領となる因縁なり。佛説の功徳は定まれる〔慶本「功徳定まる」に作る。〕事なれば、人天にんでんの福分〔人間界・天上界、即ち人間並に天人の受くる福運。〕となること、生身しやうじん〔現在在世中の釋尊〕と等しかるべし。總じて三寶〔佛、佛の説かれたる法、その法を傳ふる僧の三は世の寶なれば三寶といふ。〕境界きやうがいを恭敬供養すれば、罪滅び功徳を得、また惡趣〔上の人間界・天上界を善趣といふに對し、地獄・餓鬼・畜生を三惡趣、これに修羅を加へて四惡趣といふ。惡道の意。〕の業をも消し、人天の果をも感ずることは實なり。是れによりて法の〔慶本「法の」二字なし。〕悟りを得んと思ふは僻見なり。佛子と云ふは、佛教に順じて直に佛位に到る爲なれば〔慶本「到んが爲に」に作る。〕、只教に隨ひて工夫辨道すべきなり。其の教に順ずる實の行〔慶本「實行」に作る。〕と云ふは、即今の叢林〔樹木の叢生して林をなすが如く、和合僧の集り住する所をいふ。〕しうとする只管打坐しくわんたざ〔只管、祇管共に「ひたすら」なり。只專一に坐禪すること。〕なり。是れを思ふべし。」

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二、戒行持齋は得道の因縁にあらず
亦云く、「戒行持齋を、守護すべければとて、強て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり。只是れ衲僧の行履、佛子の家風なれば隨ひ行ふなり。是れを能事と云へばとて、必ずしも宗とする事なかれ。然あれば(*以下「然あり」は「然り」に改めた。)とて、破戒放逸なれと云には非ず。若亦かの如く執せば邪見なり、外道なり。只佛家の儀式、叢林の家風なれば、隨順しゆくなり。是を宗とする事、宋土の寺院に寓せし時に衆僧にも見へ來らず(*ママ。以下「見へ」を「見え」とする)。實の得道のためには、唯坐禪工夫、佛祖の相傳なり。是によりて一門の同學五眼房、故葉上僧正の弟子が、唐土の寺院にて持齋をかたく守りて、戒經を終日誦せしをば、教て捨てしめたりしなり。」
懷弉問て云く、「叢林學道の儀式は、百丈の清規を守るべきか。然れば(*然るにイ)彼れはじめに受戒護戒を以て先とすと見えたり。亦今の傳來相承は根本戒をさづくとみえたり。當家の口訣面授にも、西來相傳の戒を學人にさづく。是便ち今の菩薩戒なり。然るに、今の戒經に、『日夜に是を誦せよ。』と云へり。何ぞ是を誦ずるを捨てしむるや。」 師云く、「しかなり。學人最とも百丈の規繩を守るべし。然るに其の儀式は受戒護戒坐禪等なり。晝夜に戒經を誦し、專ら戒を護持すと云は、古人の行履に隨て祇管打坐すべきなり。坐禪の時何れの戒か持たざる、何れの功徳か來らざる。古人行じおける處の行履皆深き心なり。私しの意樂を存ぜずして衆に隨ひ、古人の行履に任せて行じゆくべきなり。」
有時示して云く、「『佛照禪師の會下に、一僧ありて、病患のとき肉食を思ふ。照是を許して食せしむ。ある夜、自ら延壽堂に行て見たまへば、燈火幽にして病僧亦肉を食す時に、一鬼病僧の頭べの上にのりいて(*のりゐて)件の肉を食す。僧は我が口に入ると思へども、我は食せずして頭上の鬼が食するなり。然しより後は病僧の肉食を好むをば、鬼に領せられたりと知て是を許しき。』と。是について思ふに、許すべきか、許すべからざるか、斟酌あるべし。五祖演の會にも肉食のことあり。許すも制するも、古人の心、皆其意趣あるべきなり。」
一日示して云く、「人其家に生れ、其道に入らば、先づ其家業を修すべしと知べきなり。我道にあらず、己が分にあらざらんことを知り修するは、即ち非なり。今も出家人として便ち佛家に入り、僧侶とならば須く其業を習ふべし。其業を習ひ其儀を守ると云は、我執をすてゝ知識の教に隨ふなり。其大意は貪欲無きなり。貪欲なからんと思はゞ、先づ須く吾執を離るべきなり。吾執を離るゝには、無常を觀ずる、是れ第一の用心なり。世人多く我はもとより人にもよしと云はれ、思はれんと思ふなり。然れども能も云はれ、思はれざるなり。次第に我執を捨て、知識の言に隨ひゆけば精進するなり。理をば心得たるやうに云て、さはさにあれども、我は其事を捨ゑぬ(*捨えぬ)と云て、執し好み修するは、彌よ沈淪するなり。禪僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり。利鈍賢愚を論ぜず坐禪すれば、自然によくなるなり。」
示して云く、「廣學博覽(*博究)は、かなふべからざることなり。一向に思ひ切て止べし。唯一事につゐて(*ついて)用心故實をも習ひ、先達の行履をも尋ねて、一行を專らはげみて、人師先達の氣色すまじきなり。」
或時弉問て曰く、「如何是不昧因果底道理。」師云く、「不動因果なり。」云く、「なんとしてか脱落せん。」師云く、「因果歴然なり。」云く、「かくの如くならば因果を引起すや、果因を引起すや。」師云く、「總てかくの如くならば、かの南泉の猫兒を斬るがごとき、大衆既に道ひ得ず、便ち猫兒を斬卻しおはりぬ。後に趙州頭に草鞋を戴きて出たりし、亦一段の儀式なり。」亦云く、「我れ若し南泉なりせば即ち云べし、『道ひ得たりとも便ち斬卻せん。道ひ得ずとも便ち斬卻せん。何人か猫兒をあらそふ。何人か猫兒を救ふ。』と。大衆に代て云ん、『既に道ひ得ず。和尚猫兒を斬卻せよ。』と。亦大衆に代て云ん、『和尚只一刀兩段(*ママ)を知て一刀一段を知らず。』と。」弉云く、「如何是一刀一段。」師云く、「猫兒是。」亦云く、「大衆不對の時、我れ南泉ならば、大衆既に道不得と云て、便ち猫兒を放下してまじ(*してまし)。古人の云く、『大用現前して軌則を存せず。』と。」亦云く、「今の斬猫は是便ち佛法の大用現前なり。或は一轉語なり。若一轉語にあらずば、山河大地妙淨明心と云べからず、亦即心是佛とも云べからず。便ち此一轉語の言下にて猫兒即佛身と見よ。又此詞を聽て學人も頓に悟入すべし。」亦云く、「此斬猫兒即是佛行なり。」(*弉云、イ)「喚て何とか云べき。」云く、「喚て斬猫と云べし。」弉云く、「是れ罪相なりや否や。」云く、「罪相なり。」弉云く、「なにとしてか脱落せん。」云く、「別別無見なり。」云く、「別解脱戒とは、かくの如を云か。」云く、「然り。」亦云く、「たゞしかく如きの(*かくの如き、か。)料簡、たとひ好事なりとも、無らんにはしかじ。」
弉問て云く、「犯戒の語は、受戒已後の所犯を云か。唯亦未受已前の罪相をも犯戒と云べきか。如何ん。」 師答て云く、「犯戒の名は、受後の所犯を云べし。未受已前、所作の罪相をば只罪相罪業と云て、犯戒と云べからず。」 問て云く、「四十八輕戒の中に、未受戒の所犯を犯と名くと見ゆ。如何ん。」 答て云く、「然らず。彼は未受戒の者、今ま受戒せんとする時、所造のつみを懺悔するに、今の戒にのぞめて前に十戒等を授かりて犯し、後ち亦輕戒を犯するをも犯戒と云なり。以前所造の罪を犯戒と云にはあらず。」 問て云く、「『今受戒せんとする時、まへに造りし所の罪を、懺悔せんが爲に、未受戒の者に十重四十八輕戒を教へて讀誦せしむべし。』と見えたり。亦下の文に、『未受戒の前にして説戒すべからず。』と。此の二處の相違如何。」 答て云く、「受戒と誦戒とは別なり。懺悔のために、戒經を誦するは猶是念經なり。故に未受戒者戒經を誦ぜんとす。彼が爲に戒經を説かんこと咎あるべからず。下の文に利養の爲のゆゑに、未受戒の前にして是を説ことを制するなり。今受戒の者に懺悔せしめん爲には、最も是を教ゆべし。」
問て云く、「受戒の時は、七逆の受戒を許さず。先の戒の中には逆罪も懺悔すべしと見ゆ。如何ん。」 答て云く、「實に懺悔すべし。受戒の時、許さゞることは、且く抑止門とて抑ゆる義なり。亦上の文は破戒なりとも、還得受せば清淨なるべし。懺悔すれば清淨なり。未受に同からず。」 問て云く、「七逆すでに、懺悔を許さば、亦受戒すべきか。如何ん。」 答て云く、「然り。故僧正、自ら所立の義なり。既に懺悔を許す。亦是受戒すべし。逆罪なりとも、くひて(*くいて)受戒せば授くべし。況や菩薩はたとひ自身は、破戒の罪を受とも、他の爲には受戒せしむべきなり。」
夜話に云く、「惡口を以て、僧を呵嘖し、毀呰すること莫れ。設ひ惡人不當なりとも、左右なく惡くみ毀ることなかれ。先づいかにわるしと云とも、四人已上集會しぬれば、これ僧體にて國の重寶なり。最も歸敬すべきものなり。若は住持長老にてもあれ、若は師匠知識にてもあれ、弟子不當ならば慈悲心老婆心にて、(*よくイ)教訓誘引すべし。其時設ひ打べきをば打ち、呵嘖すべきをば呵嘖すとも、毀■(此+言:し:謗る:大漢和35344)(*毀訾)謗言の心を發すべからず。先師天童淨和尚、住持のとき、僧堂にて衆僧坐禪の時、眠りを誡しむるに、履を以て打ち謗言呵嘖せしかども、衆僧打たるゝを喜び讃歎しき。有時亦上堂の次でに云く、『我れ既に老後今は衆を辭し、菴に住して、老を扶けて、居るべけれども、衆の知識として各の迷を破り、道を授けんがために住持人たり。是に依て或は呵嘖の詞ばを出し、竹箆打擲等のことを行ず。是頗る怖れあり。然れども佛に代て化儀を揚る式なり。諸兄弟慈悲を以て是を許し給へ。』と言ば、衆僧皆流涕しき。此の如きの心を以てこそ、衆をも接し、化をも宣べけれ、住持長老なればとて、亂に(*謾りに)衆を領し、我が物に思ふて(*以下、「思うて」に改めた)、呵嘖するは非なり。況や其人にあらずして人の短處を云ひ、他の非を謗るは非なり。能能用心すべきなり。他の非を見て惡しゝと思うて、慈悲を以て化せんと思はゞ、腹立まじきやうに方便して、傍ら事を云ふやうにてこしらふべきなり。」
亦物語に云く、「故鎌倉の右大將、始め兵衞佐にて有し時、内裡の邊に一日はれの會に、出仕の時、一人の不當人ありき。其時の大納言、おほせて云く、『是を制すべし。』と。大將の云く、『六波羅に仰せらるべし。平家の將軍なり。』と。大納言の云く、『近か近かなればなり。』と。大將の云く、『其の人に非ず。』と。是れ美言なり。此の心にて後には世をも治められしなり。今の學人も其心あるべし。其人にあらずして人を呵すること莫れ。」
夜話に云く、「昔魯仲連と云ふ將軍ありき。平原君が國に在て能く朝敵をたひらぐ。平原君賞して數多の金銀等を與へしかば、魯仲連辭して云く、『只だ將軍のみちなれば、敵を能く討のみなり。賞を得て物をとらん(*が)爲に非ず。』と云て、敢て取らずと云ふ。魯仲連が廉直とて名譽のことなり。俗猶を(*猶ほ)賢なるは、我れ其の人として其の道の能をなすばかりなり。かはりを得んとは思はず。學人の用心もかくの如くなるべし。佛道に入り、佛法の爲に諸事を行じて代に所得あらんと思ふべからず。内外の諸教に皆無所得なれとのみ勸むるなり。」


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