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東齋隨筆

一条兼良
(藤井乙男 校訂『宇治拾遺物語』全 有朋堂文庫 有朋堂書店 1926.10.15
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 (目次)  音楽類  草木類  鳥獣類  人事類  詩歌類  政道類  仏法類  神道類  礼儀類  好色類  興遊類
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(目次)

(*原文には目次なし。)


[目次]

音樂類

[目次]
〔一〕 村上聖主、明月の夜C涼殿の御座ござにして、玄上〔琵琶の名〕(*玄象とも表記。)を水牛の角の撥にて彈きすまして、たゞ一所御座有りけるに、影のごとくなるもの空より飛びて參りたり。孫庇まごびさしに居ければ、彼は何物ぞと問はしめ給ふ所に申して云ふ〔原本「申云」とあり〕、大唐の琵琶の博士廉承武〔劉次カ(*劉二郎。廉承武の字。)—傍注〕に候ふ、唯今虚を罷り通る事候ひつるに、御琵琶の撥音のいみじさに參入する所也、恐らくは昔貞敏(*藤原貞敏)に授け殘したる曲の候ふを授け奉らんと申す。聖主叡感の氣色有りて、御琵琶をさしやらしめ給ひたりければ、撥鳴らして、これは廉承武が琵琶に候ふ、貞敏に二つび候ふ内にて候ふと申しけり。終夜御物語有りて、上玄、石上の曲をば授け奉れり。
(*十訓抄)

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〔二〕 承和遣唐使掃部頭貞敏をば、妙音院入道相國〔藤原師長〕はつねに吾祖師守宮令(*原文「守官令」。掃部頭の唐名。)と仰せられけり。玄上の事を江中納言(*大江匡房)に人の問はれければ、慥なる説をばしらず、延喜のころ玄上の宰相といひたる琵琶引の琵琶やらんとぞ答へられける。平等院の寶藏に水龍と云ふ笛あり、唐土の笛也。唐人此朝に渡る時、海中に船沈まんとす、舟人等種々の財物を海に入れしむるに、皆以て沈まず、仍て件の笛を入るゝとき即ち沈み、船無爲〔無事〕に著岸せり。後に本主砂金千兩を儲けて龍王に相轉〔相傳の衍か。〕せんと思ひて、金を沈めんとする時、件の笛忽ちに浮び出たり、よて金に替へて取り返せる笛也。宇治殿此事を聞召して、件の笛を買ひ取り給ひて、寶藏に籠められけり。
(*江談抄、古事談)

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〔三〕 慈覺大師(*円仁)音聲不足にまします間、尺八をもて引聲(*いんぜい)の阿彌陀經を吹傳せしめ給ふが、成就如是功コ莊嚴と云ふ所を得吹かせ給はざり(*ママ)、常行堂の辰巳の相扉にて吹きあつかはせ給ひたりけるに、空中に音有りて告げて云ふ、やの音を加へよと、これより如是やと云ふやの音は加ふる也。
(*古事談)

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〔四〕 放鷹樂と云ふ樂をば、明暹(*めいせん。藤原明衡子。)已講(*南都の僧職名。三会の講師を終えた者。)只一人習ひ傳へたりけり。白河院、熊野行幸あさて〔明後日〕と云ひける夜、山階寺の三面僧坊(*興福寺の講堂の北東西に位置する三僧坊。)にありけるが、今夜は戸なさしそ、尋人あらんとぞ云ひける。待ちける所に案のごとく入り來る人あり。これを問へば是季也。放鷹樂習ひにかと云ひければ、然也と云ふ。別房の内へ入れて件の樂を授けけり。
(*宇治拾遺物語、古事談)

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〔五〕 堀河院の御時、南キの僧徒を召して大般若の御讀經を行はれけるに、明暹此中に有りて、其時主上御笛を遊ばしけるが、樣々調子を替へて吹かしめ給ひけるに、明暹調子ごとに聲をたがへず經を揚げければ、主上あやしませ給ひて、此僧を召しければ、明暹庭上に跪き候す。勅によて簀子すのこに候す。笛や吹くと問ひ給ひければ、おろ/\〔ひととほり〕吹き候ふと申すに、さればこそとて、御笛を給ひて吹かせらるゝに、萬歳樂をえもいはず吹きたりければ、叡感有りてやがて其御笛を賜ひけり。般若丸と名を付けて持ちたりけり。傳々して今八幡の別當幸Cがもとに有りとなん。
(*古事談)

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〔六〕 逢坂の丸は式部卿敦實親王〔宇多天皇の皇子。〕の雜色也。盲目と成りて琵琶を引きけるが、逢坂の邊に庵を結びて住めり〔一本「ゐたり」〕。博雅の三位〔延喜御孫、克明/親王子。源氏也。—原文割注〕是に流泉・啄木の調〔一本「曲」〕をつたへたり。敦實親王管絃の道に達し給へり。丸が琵琶は是を聞き取りて彈きける也。それよりして盲目の琵琶引くことは始れり。
(*今昔物語集、古今著聞集)

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〔七〕 博雅三位の箏譜の奧書に云ふ、古樂萬歳樂自序始て六帖に畢る迄無落涙、予誓世々生々在々所々箏の生の〔誤脱あるにや。〕萬秋樂也、身凡調の中には盤渉調殊勝、樂の中には萬秋樂~妙也、博雅は此調子竝に此樂を好むによて、キ率外院に生ずるよし經信卿記(*帥記)に見えたり。
(*古事談)

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〔八〕 博雅三位月のあかゝりける夜、直衣にて朱雀門の前に遊びて、終夜笛を吹きけるに、同じさまに直衣著たる男の、笛を吹くありければ、誰ならんと思ふほどに、其笛の音此世にたぐひなくめでたく聞えければ、あやしくて近く寄りて見ければ、いまだ見ぬ人也。我も物をいはず、彼もとふ事なし。かくのごとく月の夜ごとに行き合ひて、吹くこと夜頃に成りにけり。彼の人の笛の音殊にめでたかりければ、試みにかれを取りかへて吹きけるに、世になき程の笛也。其後猶々月の頃になれば、行き合ひて吹きけれど、本の笛を返し取らんとも言はざりければ、やがて永くかへてやみにけり。三位うせて後、御門此笛を召して、時々笛吹ふえふきどもに吹かせらるれども、其聲を吹きあらはす人なかりけり。其後淨藏と云ふめでたき笛吹ありけり、召して吹かせらるゝに、三位に劣らざりければ、御門感じ給ひて、此笛の主朱雀門のほどにて得たりけるとこそ聞け、淨藏彼所に行きて吹けと仰せられければ、月の夜仰せの如く、かしこに行きて此笛を吹きけるに、彼の門の樓の上に高く大きなる聲にて、猶逸物かなと褒めてけるを、かくと奏しければ、始めて鬼の笛と知食しろしめしてけり。葉二つと名付けて天下第一の笛也。其後傳へて御堂入道〔道長〕御物になりにけるを、宇治殿〔ョ通〕平等院をつくらせ給ひける時、御經藏に納められけり。此笛には葉二つ(*笛の名所の一つと思われるが未詳。)あり、一つは赤く、一つはし、朝ごとに霜おくと云ひ傳へたれば、京極殿御覽じける時は、あか葉落ちて露おかざりけりと、富家ふけ入道殿〔忠實〕かたらせ給ひけるとぞ。(*葉二つは後の青葉という。)笛には皇帝、團亂、旋師子、荒序是を四つの祕曲と云ふ。それに劣らず祕するは、萬秋樂の五六帖也。笛の寶物には葉二、大水龍、小水龍、頭燒、雲太丸是なり。名によて各由緒ありとかや。宇治殿葉ふたつと云ふ笛を傳へ持たれたりと聞召して、内より或藏人をして彼の笛を召しけるに、御使はふたつ召しあるとばかりを申して、笛といふ事を申さざりければ、老後には二つめさんこと、術なきよし御返事に奏せられける、一の不思議也と云へり。
(*十訓抄)

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〔九〕 承香殿女御〔徽子女王。式部卿/重明親王一女。—原文割注〕と申しゝは、齋宮女御よ。御門(*村上天皇)久しくわたらせ給はざりける秋の夕暮に、琴をめでたく引き給ひければ、急ぎ渡らせ給ひて、御側におはしましけれど、人やあるとも思したらで、せめて引き給ふをきこし召せば、秋の日のあやしき程の夕暮に、荻(*招ぎ)吹く風の音に聞ゆると、引きたりし程こそせちなりしかと、御集(*斎宮女御集)に侍るこそいみじう候へ。
(*大鏡)

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〔一〇〕 東三條院の御賀に、此關白殿〔ョ通—原文脚注〕陵王、春宮大夫殿〔ョ宗—原文脚注〕納蘇利(*なつそり・なそり)まはせ給へりしめでたさはいかにぞ。陵王はいと氣高くあてに〔高雅に〕舞はせ給ひて、御祿給はらせ給ひて、舞ひ捨てて知らぬさまにて入らせ給ひぬる、うつくしさめでたさに、竝ぶ人あらじと見まゐらするに、納蘇利のいと賢く、一人かくこそ有りけめと見えて舞はせ給ふに、御祿を是はいとしたゝかに御肩に引掛けて、今一かへりえもいはず舞はせ給へりし興は、又かゝるべかりけるわざ哉とこそ覺え侍りしか。御師の陵王は必ず御祿は捨てさせ給ひてんぞ、同じさまにせさせ給はん、目馴れ〔目馴れて珍しからぬこと。〕なるべければ、さま替へさせ奉りたるなりけり。心ばせ勝ればとこそいはれ侍りしか。女院かうぶり給はせ侍る〔原本「給はせ侍」とあり。「給はせ給」の誤か〕、大夫殿をばいみじくかなしがり申させ給へばこそ、龍王の御師はたまはらで、いとからかりけり。それにこそ北の政所少しむづからせ給ひけれ。さて後にこそ給はすめりしか。かたのやうに舞はせ給ふとも、あしかるべき御歳の程にもおはしまさず、わろしと人の申すべきにも侍らざりしに、實にこそ二所ながら、此世の人とはおぼえさせ給はで、天童などのおり來るとこそ見えさせ給ひしか。
(*大鏡)


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草木類

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〔一〕 南殿の櫻は本是梅の木也。桓武天皇遷キのとき植ゑらるゝ所也。仁明天皇承和年中に枯れ失せたるによて、櫻の木を改めうゑらる。其後天コ四年〔村上天皇の御世〕九月二十三日内裏燒亡にて造内裏の時、式部卿重明親王(*醍醐天皇皇子)の家の櫻を移し植ゑらる。件の木はもと吉野山の櫻なりと云へり。橘の樹は本より、遷キ以前は此地橘大夫(*橘本大夫)が家の跡にて有りとなん。
(*古事談、拾芥抄、帝王編年記)

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〔二〕 實方中將奧州に下向ののち、歌枕を見んために、毎日國の中を經廻けいくわいせしに、或日あこやの松(*阿古屋の松)みに出んと思ひ給ふ所に、國人申しけるは、あこやの松と申す所は國中に候はずと申しければ、中將、などや無かるべきとの給ひける時、老翁一人進み出て申して云ふ、君はもし陸奧みちのくのあこやの松に木がくれて出づべき月の出でやらぬかとよめる古歌を、思召して仰せられ候ふか、その歌は陸奧の國をいまだ出窒フ國に割き出されぬ時によめる歌也。兩國に分たれて後は、彼松は出窒フ國の中にまかり成りて候ふと申しけり。亦奧州に菖蒲なきによて、水草は同じ事とて、五月五日にかつみ〔眞菰の古名〕を葺かれけり。そののち國の習ひとなりて、かつみを葺くといへり。
(*古事談)

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〔三〕 二條三位平經盛の家に梅花めでたく咲きける時、源三位ョ政その前を通るとて、車をとどめて、思ひの外に參りて侍りといひ入れたりけるを、いひつぎ〔取次〕の侍、源三位殿申すと侍り、思はざるほかにこそ參りて侍れと聞えければ、心得ぬやうに思はれながら、對面してかへされにけり。後に事のついでにこの事語りいでて、かたみにをかしき事にいはれけり。此侍思ひのほかに君がきませる〔拾遺一、平兼盛「我宿の梅の立ち枝か見えつらん思ひの外に君がきませる」〕といふ古歌を知らざりけるにや。心得ぬものは物まねにとがの出でくるなり。
(*十訓抄)

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〔四〕 一條院の御時、臨時祭の試樂實方中將遲參して、插頭かざしの花を賜はず。追つて舞に加はる時、竹臺のもとに進みよりて呉竹くれたけの枝を折りて、これをかざす。優美の由、人みな感歎す。これによて試樂のかざしには、ながく呉竹の枝を用ふと云へり。
(*十訓抄)

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〔五〕 天暦の御時〔村上天皇の御世〕にC涼殿の御前の梅の木枯れたりしかば、求めさせ給ひしに、なにがしのぬしの藏人にていますがりし時、承りてひと京〔京中〕まかりありきしかども侍らざりしに、西の京のそこ/\なる家に色こく咲きたる木の、容體うつくしく侍りしを掘り取りしかば、家のあるじの、木に是ゆひ付けてもてまゐれと言はせ給ひしかば、あるやうこそはとて、もて參りて候ふを、何ぞと御覽じければ、女の手にて書きて侍りける。
勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はゞいかゞこたへん
と有りける。あやしく思召して、何ものの家ぞと尋ねさせ給ひければ、貫之のみ娘の住所なりけり。口惜しきわざをもしたりける哉とて、あまえ〔きまりわるく恥づる意。〕おはしましける。
拾遺集に云ふ、此歌をまづ奏せしめければ、掘らず成りにけり。
(*大鏡、拾遺集)

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〔六〕 衆樹もろき〔良岑安世の子。〕の宰相五十までさせる事なく、おほやけに捨てられたるやうにていますがりけるに、八幡に參りたるに雨いみじう降る。石C水いはしみづの坂登りわづらひつゝ參り給へるに、御前の橘の木すこし枯れて侍りけるに立ちよりて、
千早振る~の御前の橘ももろきとともに老いにけるかな
とよみ給へば、~もあはれみさせ給ひて、橘も榮え宰相も思ひかけず頭〔藏人頭〕に成り給へるとぞ。
(*大鏡)

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〔七〕 内大臣鎌足藤原の姓を賜はり給ふ時、紀氏の人のいひけるは、藤の掛けぬる木は枯れぬるもの也、今ぞ紀の氏は失せなんずるとぞの給ひける。誠にこそしか侍れ。
(*大鏡)

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〔八〕 橘季通と云ふ人、則光朝臣(*橘則光。清少納言の夫。)のもとに陸奧國に下りて、竹隈の松(*武隈の松)をよみ侍りける。
たけくまの松は二木をキ人いかにと問はゞ見き〔三木〕とこたへん
僧正源覺(*深覺)、季通が歌を聞きてよみ侍り。
竹隈の松は二木を見きといはゞよくよめる〔詠むと數ふる意とにかく。〕にはあらぬなるべし
(*後拾遺和歌集)


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鳥獸類

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〔一〕 御堂關白殿〔道長〕法成寺をつくらせ給ふとき、日ごとに渡らせおはします。其頃白犬を愛して飼はせ給ひける、御堂へも毎日御供に參りけり。或日門を入らせおはしましけるに、御前にすゝみて、走りめぐりて吠えければ、立ちとまりて御覽ずるに、させる事なかりければ、猶歩び入らせ給ふに、犬御直衣の襴をくひて引きとゞめたてまつれば、いかにもやうあるべしとて、しぢを召して御尻を掛けてゐ給ひて、安倍リ明朝臣を召して、子細を仰せらるゝ時、リ明しばらく眠りて思惟したる氣色にて申す樣、君を咒詛したてまつる者、厭物を道に埋めて越えさせ奉らんとかまへて侍る也。今御運やんごとなくて、御犬ほえあらはす所也。もとより犬は小~通のものなりとて、其所をさして掘らするに、土器を打合せて黄なる紙ひねり〔こより〕をもて、十文字にからげたるを掘り出せり。リ明申して云ふ、この術はきはめたる祕事也、リ明が外知りたる者なし、但道滿法師(*道摩とも。蘆屋道満。)が所爲歟、其人を知るべしとて、ふところ紙を取出でて、鳥の形を折りて、咒を唱へて打ち上ぐるところに、白鷺となりて、南をさして飛び行く。この鳥の落ちとまらん所を、厭術の者の住所と知るべしと申しければ、則ち下部をもて彼の鳥の飛び行く方をまもりて行かせしむる(*ママ)間、六條坊門萬里小路(*までのこうぢ)河原院のほとり、ふるきもろ折戸(*両開きの戸)の中に落ちとまりぬ。すなはち探り尋ぬるに、老僧一人あり。是をからめ取りてかへり參る。子細を問はるゝに、道滿堀河左府(*藤原顕光。兼通男。)のかたらひを得て、術を施すよし白状す。然れども罪をばおこなはれず、本國播磨へ追ひ下さる。但永くかくのごときの術を致すべからざる由、誓状を召さる。これ運の強く慮りのかしこくましますによりて、かゝる難をのがれさせ給へり。
(*古事談、宇治拾遺物語、十訓抄)

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〔二〕 大納言行成卿いまだ殿上人にておはしける時、實方中將いかなるいきどほりか有りけん、殿上に參りあひて、言ふことなくて、行成の冠を打ちおとして、小庭に投げすててけり。行成騷がずして、主殿司を召して、其冠を取りあげさせて著して、何程の過怠によりて、これほどの亂罰にあづかるにや、其故をうけたまはらんと云ひければ、實方一言をのべずして立ちにけり。折しも主上小蔀こじとみより御覽じて、實方は嗚呼をこの者なりとて、中將を召して、歌枕見て參れとて、陸奧守になして流し遣はされければ、終にかしこにて失せにけり。實方藏人頭にならずして止みにけるを恨みて、其執心雀と成りて、殿上の小臺盤にゐて、臺盤をつゝきけるとなん申し傳へたり〔「たり」は「たる」の衍なるべし〕
(*十訓抄)

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〔三〕 延喜聖主〔醍醐天皇〕御衣の上に蠅の一つ居たりけるを御覽じて、仰せられて云ふ、世こそ無下に陵遲〔衰替〕しにけれ、我運も亦末に成りにけり、かくはなかりしものをとなん。
(*官吏を蒼蝿に見立てたもの。出典未詳。道真の詩によるか。)

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〔四〕 六條の南室町の東一町は、祭主三位輔親が家なりけり。丹後の天橋立をまねびて、池の中島をはるかにさし出て、小松をながく植ゑなどしたりけり。春の初めに軒近き梅の枝に鶯の止りて、巳の時ばかりに來て鳴きけるを、ありがたく思ひて、これを愛するよりほかの事なかりけり。時の歌よみどもに、かゝる事こそ侍れと告げめぐらして、明日の辰の時にわたりて聞かせ給へとふれまはして、伊勢武者の宿直とのゐするがありけるに、かゝる事あるぞ、人々わたりて聞かんずるに、あなかしこ、鶯こちなくしてやるなと言ひければ、この男なじかはつかはし候はんと云ふ。輔親とく夜の明けよかしと待ち明して、いつしかとく起きて、寢殿の南面とりしつらひて營み居たり〔準備し居たり〕。辰の終ばかり、時の歌よみ共あつまり來りて、今や鶯鳴くとうめき合ひたるに、さき/〃\は巳の時ばかりに必ず來鳴くが、午の時さがりて見えねば、いかならんと思ひて、此男をよびて、いかに鶯のいまだ見えぬは、今朝はこざりつか〔「こざりつるか」の衍なるべし。〕と問へば、鶯のやつはさき/〃\よりもく參りて侍りつるが、かへりげに候ひつるあひだ、召しとゞめて候ふといふ。召しとゞむとはいかにと問へば、取りて參らんとて立ちぬ。心得ぬ事かなと思ふほどに、木の枝に鶯を結び付けてて來れり。大方あさましとも云ふばかりなし。こはいかにかくはしつるぞと問へば、きのふ仰せに鶯やるなと候ひしかば、いふかひなく逃がし候ひなんは、弓矢とる身に心うく覺え候ひて、じんどう〔~頭又は頭と書く。鏃の一種。〕をはげて射おとして侍りと申しければ、輔親もゐあつまれる人も、淺ましと思ひて、此男が顔を見れば、脇をかいとりて〔腕をかゝげて誇り顔なるをいふ〕、いきまへて〔いきむこと〕跪きたり。祭主とく立ちねといひけり。人々をかしさ言ふばかりなけれども、男の氣色に恐れてえ笑はず、ひとり立ち、ふたりして、皆かへりにけり。興さむなんどは事もおろかなり。
(*十訓抄)


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人事類

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〔一〕 高野天皇〔孝謙天皇〕崩遺詔に云ふ、大納言白壁王を以て皇太子とすべし。然るを右大臣吉備朝臣眞備は天武天皇の御孫長親王の子從二位文室淨三眞人を立てて太子とせんとす。左大臣藤原永手、左中辨藤原百川等は、なほ白壁王を立てんとす。異論まち/\也。但淨三眞人は固辭し給ふ。よて吉備公は其弟參議太市眞人を立てんとす。この人はうけう〔奉行か。〕し給ふ策命の日に及びて、百川はかりごとに僞りて宣命をつくりて、百官の前に讀ましむ。其文に白壁王はゥ王の中年齒長ぜり、亦先帝に功あり、故に太子に定むる由披露す。吉備公大に驚きて舌を卷き、いかんとする事なし。光仁天皇の位につき給ふは、參議百川が功といひ傳へたり。

[目次]
〔二〕 顯基中納言(*源顕基。藤原頼通養子。)は後一條院の寵臣也。天皇長元九年(*一〇三六年)四月十七日崩、御年二十九。顯基、忠臣は二君に仕へずと云ひて、七々の聖忌の後、天台山楞嚴院にのぼりて、つひに出家す。發心の根元は天皇晏駕〔崩去〕の後、故宮に灯を供する人なし、子細を問へば、所司は皆新主の事勤仕すと云ふ。此事を聞きてたちまちに發心す。尋常のとき、白樂天の詩、古墓何世人、不知姓與名、化爲道傍土、年々春草生と、此詩を詠じ侍り。又あはれ罪無くして配所の月を見ばやとの給へり。大原山に住して往生せり。法名圓昭。宇治殿(*後一条天皇の叔父に当たる。)大原にのぼり給ひて、庵室をとぶらはせ給ひて、終夜御物語有りしに、今生の事をば一言申し出されざりけり。宇治殿後世をば必ず引導し給へと示し給ひて、曉更に歸り給ひけるとなん。
(*発心集、撰集抄、十訓抄、古今著聞集)

[目次]
〔三〕 嵯峨帝の御時、無惡善とかける落書有りけり。野相公〔小野篁〕に見せらるゝに、さがなくてよけんと讀めり。惡はさがとよむゆゑ也。御門御氣色あしくて、扨は臣が所爲かと仰せられければ、かやうの御疑ひ侍らんには、智臣朝に進みがたくやと申しければ、一伏三仰不來人待書暗雨降戀筒寢とかゝせ給ひて、是を讀めとて給はせけり。
月夜には來ぬ人またるかきくもり雨も降らなん戀ひつゝもねん
と讀めりければ、御氣色直りにけりとなん。落しぶみは讀む所にとがありと云ふ事は、これより始まるとかや。わらべのうつむきさい〔骰子〕と云ふ物、一つふして三つあふげるを月夜といふ也。此歌は古今集に讀人不知の歌也。
〔○此話十訓抄にいづ。〕

[目次]
〔四〕 近頃鴨の氏人にて、菊大夫長明といふ者ありけり。和歌管絃の道にて、人に知られたりけり。司をのぞみけるが叶はざりければ、世を怨みて出家して大原山に住みけり。其後日野の外山と云ふ所にありて、方丈記とて假名にて書きたる物あり。出家の後本の如く和歌所の寄人にて候ふべきよしを、後鳥忠@より仰せられければ、
しづみにし今さら和歌の浦浪によせばやよらん海士あまの捨舟
と申して、つひにこもり居てやみにけり。
(*十訓抄)

[目次]
〔五〕 天暦の御宇橘直幹なほもと(*原文「直{(十/早)+夸}」)が民部大輔を望み申しける申文をば、みづから書きて小野道風にC書せさせけり。主上御覽ぜられけるに、依人而事異、雖偏頗、代天而授官、誠懸運命など、述懷(*しゆつくわい。恨み言。)の詞書きすぐせるによて、御氣色あしかりけり。人是を恐れ思ふところに、其後内裏燒亡有りて、俄に中院へ行幸せさせ給ひたるに、代々傳はりたる御倚子(*いし)、時簡(*ときのふだ)、玄象(*琵琶の玄上。前出。)、鈴鹿(*和琴の名。)、以下もてまゐりたるを御覽有りて、直幹が申文は取り出したりやと、御尋ね有りける時、人いみじき事にぞ申しける。
(*撰集抄、十訓抄)

[目次]
〔六〕 忠義公〔兼通〕の御子閑院大將朝光と申すは、いみじかりし御世の覺えにて、まじらひの程事の外にきら〔華美〕を好み給ひて、平胡ひらやなぐひの水〔水晶〕はず、冠の透額すきびたひも、此殿の思ひより給へるなり。なにがしの行幸につかうまつり給へりしに、此胡負ひ給へりしかば、朝日の光にかゞやき合ひて、さるめでたき事やは有りし。今は目馴れたれば珍しからず人も思ひて侍り。
(*大鏡)

[目次]
〔七〕 伏見の修理のかみ俊綱と聞えしは、宇治關白殿の御子と申し侍れども、さやかならぬ事〔不分明〕なれば、讚岐守橘の俊遠が子に定まりて、橘の姓を名乘りしが、其後なほ殿の御子にて、藤原の姓にかへり侍りて、直衣など許され侍りけるにや。
(*今鏡)

[目次]
〔八〕 近江守有Cといひし人は、後三條院のまことは御子と聞えしかども、讚岐守顯綱の子にてやみにき。各母のふるまひ故に、あなた此方とまぎれたる事昔よりありしなり。
(*今鏡)

[目次]
〔九〕 御座のおほひ掛くる竿はもと取りはなちに侍りける〔取りはづしの出來るやうになりたり。〕を、鳥忠@の御位の時にや、殿上人のいさかひ侍りて、其竿を拔きて打たんとしたりしより、打ち付けられたり〔釘付にすること。〕となんいへる。
(*今鏡)


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詩歌類

[目次]
〔一〕 後三條院住吉に御幸有りける時、經信卿序代(*序文)を奉られけり。其歌に云ふ、
(*後拾遺集) おきつ風吹きにけらしな住吉の松の下枝をあらふ白浪
當座の秀歌なりけり。帥卿(*経信)後に俊ョ朝臣をよびて言はれけるは、古今集に入る躬恒が歌に、
すみよしの松を秋風吹くからに聲打ち添ふるおきつ白波
此歌は(*以下譬え)任大臣の大饗〔大臣に任ぜられたる時の饗應。〕せん日、所詠の「おきつ風」の歌、中門の中に入りて、史生(*ししやう)の饗につきなんやと。俊ョも此仰せ如何、彼の御歌またく(*全く)劣るべからず、然れども古今の歌たるによりて限り有りて、まづ任大臣候はんに、御作は一の大納言にて、尊者として南階よりねり上りて、對座にゐなんとこそ存じ候へと云ふ。帥卿さらばさも有りなんや、如何あるべきとて感氣ありけり。又自歎じて云ふ、躬恒家集に歌ある中にも、彼の「松を秋風」のたけ・品は、年けたる胡人の錦の帽子したるが、尺八・琵琶を鳴らし、紫檀の脇足けふそく〔脇息に同じ。〕おさへて、詩を講じうそぶき眺望したる姿也。此人にむかひて爭ひつべきは、我「沖つ風」の歌こそあれといはれけり。
(*袋草紙)

[目次]
〔二〕 キ良香竹生島に詣でたりけるに、眺望の心澄みて、
三千世界眼前盡
と云ふ句を作りて、其末を案じ得ざりければ、靈天託宣を下して、
十二因縁心裏空
と一句をくはへ給へりけり。
(*江談抄)

[目次]
〔三〕 同じ人(*都良香)羅城門の前を過ぐとて、氣霽風梳新柳髪と詠じたりければ、樓の上に聲ありて氷消波濯舊苔鬚と付けたりけり。良香菅丞相の御前にて、此詠を自歎し申しければ、下の句は鬼の詞なりけりと仰せられける。
(*十訓抄)

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〔四〕 能宣〔能因の誤か。〕入道伊豫守實綱にともなひて、彼の國に下りけるに、夏の初め日久しく照りて、民の歎き淺からざるに、~は和歌にめで給ふ物也、こゝろみに詠みて三島に奉るべき由、國司頻にすゝめければ、
天の河なはしろ水にせきくだせ天くだります~ならば~
とよめるを、みてぐらに書きて、司人申し上げたりければ、炎旱の天俄に曇りて、大なる雨降りて、枯れたる稻葉押並おしなべて緑に歸りにけり。
(*古今著聞集)

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〔五〕 待賢門院〔公實卿の女〕の女房に加賀と云ふ歌よみ有りけり。
かねてより思ひしことぞ伏柴ふししばのこるばかりなる歎きせんとは
と云ふ歌を、年頃詠みて持たりけるを、同じくはさるべき人にいひむつびて、忘れたらんによみたらば、集などに入りたらんおもても優なるべしと思ひて、如何したりけん、花園おとゞ申しそめてけり。思ひの如くにや有りけん、此歌をまゐらせければ、おとゞいみじく哀におぼしけり。世人伏柴の加賀とぞ云ひける。さてかひ/〃\しく千載集に入りにけり。
(*古今著聞集、今物語)

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〔六〕 和泉式部〔大江雅致の女〕男のかれ/〃\に成りける頃、貴布根きぶねに詣でたるに、螢の飛ぶを見て、
物おもへば澤の螢も我身よりあくがれにける魂かとぞ見る
と詠じてければ、御の中に忍びたる聲にて、かく聞えけり。
奧山にたぎりて落つる瀧つPの玉ちるばかり物なおもひそ
そのしるし有りけりとぞ。
(*古今著聞集)

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〔七〕 齊名(*紀齊名〔ただな〕)、以言(*大江以言〔もちこと〕)等を試みられける時、秋未詩境と云ふ事を作らせられけるに、以言の詩、文峯按轡駒過景、詞海艤船葉落聲と作りたりける。ひそかに先(*まづ)後中書王〔醍醐天皇の皇子兼明親王を前中書王、村上天皇の皇子具平親王を後中書王と稱す。中書は中務卿の唐名也。〕に見せ奉る所に、白字大切也と仰せらるゝに付て、白駒景、紅葉聲と直して秀句に定りにけり。其後以言病おもかりける時、みこと(*「の」か。)訪ひ給ひければ、恩問之旨恐千廻、白字事不忘却とぞ申しける。
(*江談抄、袋草紙)


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政道類

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〔一〕 延久〔後三條天皇の御世〕の善政には先づ器物を作られけり。資仲卿(*藤原資仲)藏人頭にてこれを奉行せり。ますを召しよせてとり/〃\御覽じて、簾を折りて寸法などさゝせ給ひけり。米をば穀倉院がり召しよせて、殿上の小庭にて貫首〔藏人頭〕以下藏人出納など知して、小舍人玉だすきして量りけり。本米をば紙屋紙(*かうやがみ)つゝみてて參りたりければ、叡覽有りて勅封を加へられてぞ、御持僧(*護持僧、夜居の僧)の許などへつかはされける。斛器(*こくき—桝)は方なるひつを差す。石をくゝり下げて、おもしにして、二またの木に懸けて、穀倉院にして國々の米をば納められけり。仍て何石(*一石—十斗—百升)とは石字を用ふる也。件の器石等于(*今に)穀倉院にありといへり。
(*古事談)

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〔二〕 延喜の御門常にゑみておはしましける。此故はまめだちたる人には物いひにくし、打ち解けたるけしきにつきてなん、人は物いひよき。されば大小事きかんためなりとぞ仰せ事ありける。
(*大鏡)


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佛法類

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〔一〕 大織冠(*藤原鎌足)の家は山城國宇治郡山科村陶原すゑはらにあり。大臣久しく身病ある時に、百濟の尼法明と云ふ人あり、病をいやすべき法を問ひ給ふ時、維摩經を供養し給はゞ病平愈すべしといふ。これによて大臣の家の中に堂を立てて維摩經を講ぜしむ。問疾品を講ぜるとき、大臣の病すなはち愈えたり。是より毎年此經を講ぜしむ。淡海公〔不比等〕の世に至りて、陶原の家の堂を移して奈良の京に立つ。これによて興n宸ば山階寺やましなでらとも名づけ、亦藤原寺とも號せる也。長岡大臣内麿大願を發して、不空索觀音(*原文「」字の「月」は「用」の形。不空羂索観音)像竝に四天王像を造立す。閑院贈太政大臣冬嗣公弘仁四年(*八一三年)に南圓堂を立てて、觀音像を安置し給へり。法花會は長岡大臣の御佛事也。十月十六日の忌日を結願にあてて、七ヶ日行はるゝ也。備前國鹿田庄を其料所とせり。
(*今昔物語集、三宝絵)

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〔二〕 大安寺は天平〔聖武天皇の御世〕元年道慈律師、先皇の遺詔によて造立す。大唐の西明寺の結構を移して、道慈歸朝して作れり。西明寺は祇園我qを摸して作る。祇園我qは兜率の内院を移せりと云へり。大安寺本の名は大官大寺といへり。大和國添上郡平城右京五六條三坊にあり。孝謙天王〔原本のまま〕法花寺を建立し給ふ時、塔婆におきては八角七重につくらんと思ひ給ふよし、左大臣永手に仰せ合せらるゝ時、永手云ふ、四角五重は足ぬめし〔たんぬべし〕、八角七重に造られば、さだめて國土の費たらんかと申す。是によて四角五重に造らる。大臣は國の公平を思ひて申すといへども、後生の責となりて、銅の火の柱を抱くといへり。其後永手の息男從四位上藤原家依病患の時、名コの僧を講じて數日加持せしむ。或日傍人俄に詫宣して云ふ、我は是永手也、法花寺の塔婆を申し減ぜるによて、冥途にて銅の柱をいだきて年序をふるところに、炎魔王宮に香烟薫り滿てり、〔閻魔王〕あやしみ驚きて冥官に尋ねらる。冥官申して云ふ、日本國の罪人永手が息藤原家依病によて、一僧を以て加持せしむ、件の僧堅固の信心をこらして、己が命にかはらんと祈請し効驗あり。志の甚深なるによて、香烟の來り薫ずる也、これによて忽ちに苦患(*くげん)をまぬがれて、同朋二十餘人引率して天上に生ぜり、此由を告げんがために來れる也といへり。
(*日本霊異記、古事談)

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〔三〕 宇治殿〔ョ通〕平等院を建立し給ふとき、地形の事など承合せられんために、土御門右府〔源師房〕を相伴はせ給ふ。宇治殿仰せられて云ふ、大門の便宜北向きたむきにあらずんば便なかるべし。北向に大門ある寺侍りや。右府申されて云ふ、覺悟せしめず。時に匡房卿いまだ無官にて、江冠者とて有りけるを、後車にのせて具せられたるを召し出されて、彼こそかやうの事うるせく〔燕ラ〕覺えて候へとて問はるゝ所に、匡房申して云ふ、北向に大門ある寺は、天竺には奈良陀寺、唐土には西明寺、本朝には六波羅密寺也と申す。宇治殿大に感ぜしめ給ふ。
(*古事談)

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〔四〕 後朱雀院の御宇長久年中、最勝講源泉僧キ説法殊勝なり。此時四天王道場に現じ給ふ、天皇の外餘人はこれを見ず。是によて源泉當座に法印に敍せらる。其後より四天の座を設けらると云へり。
(*古事談)

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〔五〕 六條坊門の北、西洞院の西に堂あり、みのわ堂と號す。件の堂は伊豫入道ョ義、奧州の俘囚打ちたひらげて後建立せり。佛は等身阿彌陀なり。ョ義此佛を造立し、恭敬禮拜して極樂へ必ず引導し給へと申しければ、うちうなづかせ給ひけり。十二年の間戰場にして、打たれたるものの片耳を切りあつめて、干して皮子に合に入れて〔皮子幾合にも入れての意なるべし。〕持ちのぼりたりけるを、件の堂の土壇の下に埋めるによて、耳納堂といへり。みのわ堂と云ふは僻事ひがごとなり。
(*古事談)

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〔六〕 粟田左大臣在衡(*藤原在衡)文章生の時、鞍馬寺に參詣せり。正面の東の間にて禮拜をするに、十三四歳ばかりの賤しき童きたりついて、同じく禮をなす。七反〔七返か。〕ばかりと思ひけれども、この小童の禮拜より前にしはてたらんは、人わろかりなんと思ひて、心ならず禮をなすあひだ、既に三千三百三十三度に滿ちたる時、此童忽ちに失せぬ。在衡奇異の思ひをなし、渇仰の信をいたす。然れども窮屈の餘り、聊か睡眠する間、さきの童子、裝束は天童のごとくにして、御帳の中より出で來て、在衡に云ふ事は、官は右大臣にいたり、歳は八十二なるべし、其後昇進雅意〔素意〕に任せたり。左大臣八十三の時彼の寺に詣でて申して云ふ、往日右大臣八十二のよし示し給ふ所に、今既に如此、沙門又夢の中に示し給ひて云ふ、官は右大臣迄にてありしかども、奉公の勞によりて左にいたれり、命をばあしく見たり、八十七歳なり。果して件の歳薨逝せり。其後彼の寺の正面の東間をば、人以て進士の間〔在衡が儒家の出身なるよりいふ。〕と號す。
(*古事談)

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〔七〕 播磨國書寫山の性空聖人、生身(*さうじみ、シャウジン)の普賢菩薩を見たてまつらん事を祈請す。夢の告ありて云ふ、生身の普賢を見んと思はゞ、~崎の遊女の長者を見べし〔「見るべし」の訛。〕(*「見べし」の接続はあった。)と。よて喜びながら~崎に行きて、長者の家を相尋ぬる所に、只今京より下りの輩あつまり來りて、遊宴亂舞の間也。長者も横座(*上座)に居て鼓を打ちて、亂拍子の上句をうたふ。其詞に云ふ、周防むろづみ(*室積)の中なるみさらゐ(*御手洗か、いさら井か。)に風は吹かねどもさゝら浪立つ。其時聖人奇異の思ひをなして睡眠する時、長者忽ちに普賢の形を現じて、六牙の白象に乘りて、眉間より光を出して道俗を照らす。則ち微妙の音聲をもて唱へて云ふ、實相無漏の大海に、五塵六欲〔五塵は色聲香味觸、六欲は五塵に法塵を加へていふなるべし。〕(*六境)の風は吹かざれども、隨縁眞如の波の立たぬ時なしと。其時聖人信仰恭敬して感涙をのごふ。目を開く時は又もとの如く女人の形をなして、周防のむろづみを出す。眼を閉づるときは又菩薩の形と現じて法文をぶ。如此する事數ヶ度、聖人泣く/\退き歸るときに、件の長者俄に立ちて閑道より聖人の所に追ひ來て云ふ、口外に及ぶべからず、即ち逝去す。時に異香室にみてり。長者頓滅の間、遊宴興をさませりと云へり。書寫上人は六根C淨を得たる人也。ある時は客人來臨せり。對面の間客人懷中に蚤をひねる時、聖人云ふ、いかにさは蚤をばひねり殺さんとし給ふぞとて、大に慙愧して客人おどろきて退去すといへり。
(*古事談、十訓抄)

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〔八〕 大御室〔性信。三條天皇の第四子。〕は御壽命十八歳に限りたるよし、宿曜〔星宿によりて運命を占ふ道をいふ。〕の勘文に見えたるによりて、十八歳の春尊勝法を修して祈りなさしめ給ふ間、ある人の夢に、閻魔王宮火付きて已に燒けんとする間、王宮大に騷動す。件の壽命十八のよし、札の文に已に明白なりといへども、炎上難治によりて、八の字を上へ釣られたると見えたり。果して八十の御歳九月二十七日入滅し給ふと云へり。
(*古事談)

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〔九〕 同御室は世間に疾病おこる時は、ひそかに御在所を出で給ひて、唯一人御棚の菓子などを懷中に入れ給ひて、大垣〔宮城の外垣〕の邊の病者に、次第にこれを給ひて、眞言をよみかけて、過させしめ(*ママ)給ひければ、病者立ちどころに減を得たり。御所にかへり入らせ給ふときは、玉の輿に乘り給ひて、天童等多く御供にて入らせ給ふと見奉る人あり。
(*古事談)

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〔一〇〕 小野皇太后宮〔歡子〕は後冷泉院の后、大二條關白〔ヘ通〕の三女也。生年十四の年、舍兄靜圓僧正にしたがひて、ひそかに法華經を受け給ひて、毎日一部讀誦し給ふ、人曾て知ることなし。春秋十六にて入内あり。治暦四年四月十九日立后、此夕帝崩御し給ふ。しかしより〔「しかりしより」の訛。〕このかたひとへに道心を發して、念佛轉經の外に他事ましまさず、二條東洞院の亭にてみづから最勝王經を書寫し給ふ。或時雲雨俄に降りて霹靂殿に入る。皇后經と筆を手に握り給ひて、存せるがごとく亡ぜるがごとし。即時雷あがりて天リれたり、眼を開きて經を見給へば、空しき神は燒けて文字は燒けず、御衣は燃えたれども身は恙もましまさず。法に歸する志是によりいよ/\深くまします。承暦〔白河天皇の御世〕元年に飾を落して出家あり、良眞座主を戒師とし給ふ。一たび小野の寒雲に入りしより、再び長秋〔皇后の宮殿を唐にて長秋宮といふ。〕の曉の月を見ず、往生の素懷を遂げ給へりとなん。
(*古事談、十訓抄)

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〔一一〕 清範律師は播磨國の人、興n宸フ法相宗也。空リ僧キの法孫守朝已講の上足(*高足、高弟)、説法無雙にて文珠の化身といはる。不思議なる事あげて計ふべからず。御堂入道殿〔道長〕實否(*じつぷ)を知り給はんとて、佛事を修し百僧を請ぜらる。僧の座には皆半疊を設けらる。一の半疊に文珠と書きたる札を、へりの中に隱して百座に敷きまじへらる。此律師吾座は候ふとてかき分けて、此半疊に坐せられたり。其後決定(*けつじやう)〔きつと〕文珠化身とは知り給へり。卅八にて遷化、C水寺の上綱(*じやうがう。三綱の上位。)と號せり。
(*古事談)

[目次]
〔一二〕 參河守大江定基は參議左大辨濟光(*斉光)と云ふ人の子也、出家して(*寂心〔慶滋保胤〕の下で出家し、源信等に学ぶ。)寂昭(*寂照)と云ふ。この人渡唐してゥの聖迹を禮す。僧供を受くるとき、寂昭鉢の飛びて物をうくる事あり。五臺山に詣でて、文珠の女と化せるを見る。(*宋・真宗より)圓通大師の號をさづけらる。
(*今昔物語集)

[目次]
〔一三〕 内記慶滋保胤は陰陽師賀茂忠行が子也。博士の子と成りて改姓す。發心出家の後、世に内記聖人といへり。
(*今昔物語集)

[目次]
〔一四〕 惠心僧キの頭陀づだ行ぜられける折に、京中にこぞりていみじき御ときまうけて、まゐりにしに、四條宮〔關白ョ實公の女〕にはうるはしく銀のごき〔御器〕どもを打たせ給へりしかば、かくてはあまり見苦しとて、僧キ乞食とめ給へりと云へり。
(*大鏡)

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〔一五〕 河内國そこ/\に住むなにがし聖は、庵より出づる事もせられねど、後世の責を思へばとて、上り參られたりけるに、關白殿〔ョ通〕まゐらせ給ひて、雜人ども拂ひのゝしるに、是こそは一の人におはすめれと見奉るに、入道殿の御前にゐさせ給へば、猶まさらせ給ふなりけりと見奉る程に、亦行幸なり、亂聲らんじやう〔音樂を打囃すをいふ。〕し待ちうけ奉らせ給ふ樣、御輿おんこしの入らせ給ふ程など、見奉る殿たちの畏まり申させ給へば、國王こそ日本一の事なりけれと思ふに、おりおはしまして、阿彌陀堂の中尊〔左右に觀音・勢至ありて其中央にある阿彌陀をいふ。〕の御前についゐさせ給ひて、拜み申させ給ひしに、猶々佛こそ上なくはおはしましけれと、此會の庭にかしこう結縁し申して、道心なんいとゞすぐし侍りぬるとこそ申されしか。
〔○此話大鏡にいづ。〕

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〔一六〕 書寫の聖(*前出性空)結縁經供養し侍りけるに、人々餘多あまた布施を送りける中に、遊女宮木みやぎが奉れるを、聖思ふ心や有りけん、しばし取らざりければ、宮木よみ侍りける。
津の國のなにはの事かのりならぬあそび(*遊びと遊女とを掛ける。)たはむれまでとこそ聞け
(*後拾遺集)


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~道類

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〔一〕 佐理の大貳任はてて、鎭西より上るとき、伊豫の國のとまりにて風波惡しくて、舟を出す事あたはず。其夜の夢に、三嶋明~の額をかゝせんとて留め給へる事見えたり。則ち~の御前にて額を書きてうたせたれば、順風に成りて煩ひなく著岸せり。日本第一の能書也。三嶋の額と六波羅蜜寺の額とは、此人の筆跡也。
(*大鏡)

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〔二〕 紀貫之集に云ふ、紀伊國に罷り下りて罷り上るに、馬の煩ひて死ぬべきあつかひを、路ゆく人々とまりて見て云ふやう、例こゝにいまする~のし給ふとて、かくも無くしるしも見えねど、心いとうたておはする~也、さき/〃\も祈を申してなむやむと云ふに、みてぐらも無ければ何わざをすべきにもあらず。いかゞはせんとて手ばかり洗ひ跪きて、さても何の~と申さんずるぞといへば、蟻通ありとほしの明~となん申すといへば、かくよみて奉る。
かき曇りあやめも知らぬ大空にありとほし〔有りと星、蟻通〕をば思ふべしやは
(*紀貫之集)

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〔三〕 經信卿圓融院の御八講に參ずる時、北野のの前にて下車せず。不審をなして問ふ人有りければ、答へて云ふ、彈正式に四位は二位を拜せずと見えたり、~は非禮をうけず、もしおりてはかへりて禮を知らざるに似たりと云へり。
(*古事談)

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〔四〕 放生會〔男山八幡の也〕、行幸に准ぜらるゝ事、延久〔後三條天皇の御世〕二年是始め也。上卿は大納言髫なり。初年ばかりは壺胡つぼやなぐひ(*儀仗)、沓を用ふ。第二年よりは平胡、靴〔儀式に用ふる革製の紐あるをいふ。〕に改められけり。
(*古事談)

[目次]
〔五〕 貞信公〔忠平〕の御所小一條と申す所は、宗像むなかた明~みやうじんのおはしませば、洞院のうしろのつじより、車より下りさせ給へり。雨などの降る日の軒に、大路に石疊をせられたりけり。この貞信公は宗像明~現に物など申し給ひけり。我より御位高くてゐさせ給ひけるなん苦しきと申させ給ひければ、いと不便なる御事とて、~の御位はまし申させ給ひけり。
(*大鏡)


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禮儀類

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〔一〕 御即位の時代々主上の著し給ふ玉冠は、應~天皇の御冠也。禮服に相具して内藏寮に納めおかる。後三條院の御頭にめでたく合はせ給ひけり。此事つねに御自讚有りけるとなん。
(*古事談)

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〔二〕 中原師遠攝津守に任じて、知足院入道殿〔藤原忠實〕へ參りて慶賀を申しけるに、笏を持たずして三度拜し奉りけり。入道殿中門の連子れんじより御覽有りて仰せられけるは、猶師遠也。禪室(*仏門に入った貴人)に入るときは笏を取らずといへる者也。(*束帯・神拝の場合に用いるという。)
(*古事談)

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〔三〕 參議師ョ卿多年沈淪(*出世できないこと。)して籠居す。中納言に任じて後、初めて釋奠の上卿を勤仕す。作法進退の間、事において不審をなして、傍人に問ふ事をす。時に成通卿參議にて座に列りけるが、師ョ卿に語りけるは、年來御籠居によて、公事御忘却うひ/\しく思食おぼしめしたる事尤も道理也。師ョ卿返事をば言はずして、ひとりごとして云ふ、大廟に入りては事毎に問ふ〔論語・八篇「子入大廟毎事問。」〕。成通卿是を聞きて閉口す。後日に人に逢ひていひけるは、思ひ分くる方なうして、不慮の言を出し侍り、後悔千萬也。
(*古事談)

[目次]
〔四〕 後白河院の御在位の時、絶えて久しき事ども再興せられし中に、記録所とて天下の政を行はれし事、後三條院の御時ありし後は、この御代に寄人など云ふもの餘多あまた置かれて、げに/\しき事共ありけり。大内をも作りいだされて、渡らせ給ふ殿々門々の額は、法性寺の關白〔忠通〕書かせ給ふ。宮作りたる國司七十二人勸賞(*けんじやう)行はれて、位など賜はれり。内宴とてもとせ餘り絶えたる事をも行はれて、春生聖化中と云ふ文字にて詩を作らしむ。色赤色のうへのきぬ〔袍〕(*天皇は青袍、上皇は赤袍を着用する。)を著せり。綾綺殿(*内宴を行う。)にて十人の舞姫袖ふる氣色あるべきを、俄にて誠の女は叶はねば、仁和寺法親王舞童を奉らしめ給へり。詩をば仁壽殿にて講ぜらる。尺八と云ふ笛も吹き絶えたるを、此時吹かせらる。相撲の節も此御代再興せられて、十七番あり。少納言通憲と申す人、後に法師に成りて信西と申しけるが、かゝる事共はすゝめ奉りて、めでたき御代にて有りけるとなん。紀内侍と云ふは、法皇の御めのと也。これは信西が室也。是によりて信西によろづ打ちまかせられ侍り。やそしまのつかひ〔難波の八十島祭の使なるべし。〕(*即位の翌年、難波津に勅使を派遣して行う祭。)と云ふ事も、紀内侍つとめ侍りて、其時よめる歌、
すべらぎの御代の御蔭にかくれずはけふ住吉の松を見ましや
(*今鏡)

[目次]
〔五〕 二條院御位に即かせ給ひて、保元四年正月二十一日今年も内宴あり。公卿七人、四位・五位十一人、文〔詩をいふ。〕つくりて講ぜらる。序は式部大輔永範書き侍り、題は花下催歌舞、法性寺關白〔忠通〕是を獻ぜらる。舞姫今年はうるはしき女舞にてあり、是も通憲法師~などにて舞ども習はせ侍りけるとかや。
(*今鏡)


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好色類

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〔一〕 二條后いまだ内へまゐり給はざる時、業平中將忍び/\に通ひ侍り。或時后をゐてかくし奉らんとせるを、せうと〔兄〕達奪ひかへして則ち中將の本鳥もとどり〔髻の宛字〕を切りけり。中將髪生えん程とて、歌枕みんために關東に下向す。奧州の八十島に宿せる夜、野中に和歌の上句を詠ずる聲あり、其の詞秋風の吹くたびごとにあなめ/\と聞ゆ。音につきて求むるに、人なし。たゞ一つのされかうべあり。明くる朝なほ是を見るに、かのかうべの目の穴より薄ひたりけり。風の吹く毎に薄のなびく音、歌の上句に聞えけり。奇異の思ひをなす間、或人云ふ、小野小町此國に下向して、此所にて死せり、其かうべなりと云ふ。こゝに中將哀に思ひて、下の句を付けて云ふ、小野とはいはじ薄おひけり。件の所をば玉作たまつくりの小野と云へるとなん。
(*古事談)

[目次]
〔二〕 賢子中宮は白河院の御寵愛他に異なる故に、禁中にして崩じ給へり。いまだ御惱危急の時も退出をゆるされ給はず、既に閉眼の後も猶抱き給ひて起ち去り給はず。時に俊明卿(*源隆国男。)參入して申して云ふ、帝者〔薨曹の誤か。〕(*薨曹の例は見当たらない。濁か。「有司寛而不凌、濁困滯、皆法度不亡。」〔管子〕「、猶屈也、濁、猶辱也。〔安井息軒『管子纂詁』〕と大漢和にある。思い屈して辱めずの意か。)の例未曾有の事に候ふ、早く行幸有るべきよしを奏す。勅答に云ふ、例は此よりこそ始まらめと仰せけり。
(*古事談)

[目次]
〔三〕 道命阿闍梨は道綱卿の息也。其音聲微妙にて讀經の時、聞く人皆道心を發せると云へり。但好色無雙の人也。或時和泉式部の所に行きて會合の後、曉方に目をさまして、讀經兩三卷せり。さてまどろみたる夢に、一の老翁あり、誰人ぞと相尋ぬる所に、翁の云ふ、我は五條西洞院邊に侍る者(*「五條道祖神」〔宇治拾遺物語〕。賽〔障、さへ〕の神の意味の他、夫婦和合の神でもあった。)也、御經の時梵天帝釋を始め奉りて、天~地祇こと/〃\く聽聞し給ふ間、此翁などは近邊へ近づき參る事あたはず、然るに唯今の御經は行水も候はでよみ給へれば、ゥ~祇も御聽聞なし、よき隙と存じて此翁は參りて、能々よく/\聽聞申してスび存じたると云ふと見給へり。
〔○此話宇治拾遺物語にいづ。〕

[目次]
〔四〕 小野宮右府實資公をば賢人のおとゞと申しけり。他事のかしこきには似ず、女の事に忍び給はざりけり。北の對の前に井あり、下女等C涼水と名付けて集り汲みけり。其中に少年の女を見て、閑所に招き寄せて戲れ給へり。宇治殿此事を聞き給ひて、侍所の雜仕の女のみめよきを選びて、かの水を汲みにつかはす。件の女にヘへさせ給へるやう、水を汲むに招引あらば參りて、其後水桶を捨てて歸り參るべしと仰せられけり。果して案のごとく招き寄せられけり。後日にかのおとゞ宇治殿へ參られたりけるに、公事言談の後、先日侍所の女の水桶今はかへし給はるべしと仰せられければ、おとゞ赤面して申すことなくして出られにけり。賢人なれども振舞に付けてははかられ給ひにけり。或時此殿の御前をこと宜しき女の通りけるを、門より走り出でてかき抱き給へりけるに、或人亦通り逢ひて車より下りてあれば、賢人の御ふるまひかと云ひたりければ、女人に賢人なしと答へて、逃げ入り給ひけり。
(*古事談)

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〔五〕 小一條のおとゞ師尹公の御女、村上の御時の宣耀殿の女御、御かたちをかしげに美しうおはしけり。内へ參り給ふとて、寢殿の日がくしの間に御車寄せて奉り給ひければ、御身は車に乘らせ給ひぬれど、御ぐしは母屋もやの柱のもとまでぞおはしける。一すぢをみちのくに紙〔檀紙〕に置きて見けるに、いかにもすき見えさせ給はずとぞ申し傳へたる。御かたちのいみじくをかしげにおはしましけるに、目の尻のすこし垂り給へりけるが、らうたくうつくしくおはするを、御門いとかしこく時めかせ給ひて、かく仰せられける。
生きての世死にての後の後の世もはねをかはせる鳥となりなん
御返事、女御、
秋になる言の葉だにもかはらずは我もかはせる枝となりなん
古今二十卷を空にうかべさせ〔暗誦する〕給へる女御にてまし/\しなり。
(*大鏡)


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興遊類

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〔一〕 六條の式部卿の宮〔敦實親王〕と申しゝは、延喜の御門のひとつ腹のおとゞにおはします。野の行幸〔延長八年十月十九日の事なり。〕せさせ給ひしに、此宮供奉せしめ給へりけれど、京のほど遲參せさせ給ひて、かつらの里にぞ參りあはせ給へりしかば、御輿とゞめて先だてて參らせ給ひしに、なにがしと云ひし犬飼の、犬の前の足を二つながら肩に引きこして、深き河を渡りしこそ、行幸につかうまつりたる人々皆興じ給はぬなく、御門も興ありげに思食おぼしめしたる御氣色にこそ見えおはしましゝか。扨山口入らせ給ひし程に、しらせうといひし御鷹の、鳥を取りながら御輿みこしの鳳の上に飛びまゐりえて候ひしが、やう/\日は山の端に入り方に、光いみじうさして、山の紅葉錦を張りたるやうなるに、鷹の色はいと白く、きじはこんじやうのやうにてはねうちひろげてゐて候ひし程は、誠に雪すこし打ち散りて、折ふし取り集めてさる事やは候ひしとよ、身にしむばかり思ひ給へりし。
(*大鏡)

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〔二〕 御堂殿の一とせ大井河にて逍遙せさせ給ひしに、作文(*さくもん)の舟、管絃の舟、和歌の舟とわかたせ給ひて、その道に堪へたる人々を乘せさせ給ひしに、公任大納言遲參ありけるを、入道殿、かの大納言いづれの舟にか乘らるべきとの給へれば、和歌の舟に乘り侍らんとの給ひて、よみ給へりしぞかし。
小倉山嵐の風の寒ければ紅葉のにしき著ぬ人ぞなき
人皆感じける歌也。みづからもの給ふなるは、作文の舟に乘りて、かばかりの詩を作りたらましかば、名のあがらん事も勝りなまし、口惜しかりけるわざかな、さても入道殿のいづれにかとの給はせしになん、我ながら心おごりせられしとぞの給ふなる。一事のすぐるゝだに有るに、かくいづれの道にも拔け出で給ひけんは、古も侍らぬ事也。
(*大鏡)

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〔三〕 延喜の御門大井河行幸〔延長四年十月九日なり。〕に、富小路の御息所みやすどころの御腹の雅明の御子の、七歳にて舞せさせ給へりしばかりの事こそ侍らざりしか。萬人しほたれぬ人侍らざりき。餘り御かたちの光るやうにし給ひしかば、山の~めでて取り奉り給ひてしぞかし。
(*大鏡)

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〔四〕 又圓融院大井河逍遙の時、公任卿は三船にのるともあり。帥民部卿經信卿、亦此人には劣らざりけり。白河院西河〔桂川〕に行幸の時、詩歌管絃の三舟を浮べて、其道の人々を分ち乘せられけるに、經信卿の遲參の間、ことの外に御氣色あしかりけるに、とばかり待たれて參りたりけるが、三事兼ねたる人にて候ひき。汀に跪きて、やゝどの船まれ寄せ候へと言はれける、時に取りていみじかりけり。かく言はんれうに遲參せられけるとぞ。扨管絃の舟に乘りて詩歌を獻ぜられたりけり。三船に乘るとはこれ也。
(*十訓抄)

(東斎随筆<了>)


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