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駿臺雜話 序・目録・卷一

室鳩巣
(塚本哲三 編輯(武笠三 校訂)『駿臺雜話 全』
有朋堂文庫・日本代表古典集 有朋堂 初版 1926.11.23、81版 1946.12.10
※ もと有朋堂文庫『名家隨筆集 上』所収。1946年、「日本代表古典集」の企画に際し、独立刊行したもの。
※ 適宜、段落を改めた。強調文字は、入力者が任意に施した。

 序(藤原明遠)    目録  巻一(仁集)  巻二(義集)  巻三(礼集)  巻四(智集)  巻五(信集)
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新刊駿臺雜話序

駿臺雜話五卷、迺鳩巣室先生之所著也。夫以2講論之餘1、■(亠/興の冠/冖/且:び::大漢和342)■(亠/興の冠/冖/且:び::大漢和342)及2此言1。大抵發2乎所1問者、而研2■(窮の弓を呂に:きゅう:窮の本字:大漢和25686)理義1、藻2鑑人物1、或往事之可感、或當世之可警、莫2正學1而扶2名教1之意也。何其諄諄諭人之若是哉。一時遊門之士、皆■(虍/丘:きょ:虚の本字:大漢和32700)往而實歸。從可知已。明遠2不敏1、執2經下座1、竊與聞焉。嗟乎、在則人、亡則書。先生已遠、九原不作、後之讀2此書1者、亦可2以想2見其造詣之深1爾。雖然鐘之應撞而始鳴。其聲之大小洪繊、惟隨2乎其所1叩、則善教之待2其問1、理亦不2於是1。而先生之蘊、固有2斯書所2能盡1矣。書肆崇文堂、請2諸木1、以傳不朽。因與2其孫室直温1謀焉。遂告2之官1、以2一本1之。適剞■(厥+立刀:けつ:小刀:大漢和2190)功成矣。於是乎序。
寛延庚午(*寛延3年〔1750〕)十一月冬至日
東都 直學士  藤原明遠 謹識


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むさしの國大城おほきの東駿臺しゆんだいのもとに、草の庵むすびて住みける獨のありけり。そのかみ北國より爰に來て家居せしが、もとより深山木の花にあらはるべきざいもなければ、其梢としる人もなくして、たゞ學の窓に文をひろげ、見ぬ世の人を友とし、老の至るをもわすれつつ、きのふといひけふと暮して、はやふたとせあまりにおよべり。ちかきころより衰病日に加り、それに萎痺ゐひの疾ありて、起居たちゐも心に叶はねば、日夜、衾枕をのみ親しみ、書籍にさへうとくなりにたり。何をか世にあるおもひ出にせまし。爰に此に就いてもの學ぶともがらありて、書を講じ文を論じ、おの\/虚にして往き實にして歸らぬはなし。其外、花の晨月の夕には、かならず問來て、なにくれと世にあらゆる事ども語りつゞけつゝ、日をくらし僕を更ふれどもやむ事なし。むかしより良辰は失ひやすく、嘉會は得がたければ、いつも賓主ともに唐錦たゝまくをしくなん見えし。も客に對して清談することをこのみて、身の煩はしさも心地よくおぼゆる儘に、いにしへ今の世にいひふる難波の事のよしあしとなく、本末懸けてその理を盡しけるが、われながらをかしとおもふひとふしもあれば、其席はてゝ、わが子弟に命じて、やまと文字に寫し置きけるに、日數を經ておぼえず卷をなせり。もとより有識いうそくのきはの人の目をとゞむべきものにもあらねば、さしてをしむべき事にはあらねども、古人の鷄肋といへるもるゐしぬべし。さすが反故ほんごとなしてかいやり捨てんも本意なければ、さて兒輩にあたへてよましめんとて、しばらくのこしおきけらし。

享保壬子のとし(*享保17年〔1732〕)九月中旬、鳩巣の翁駿臺の草の庵にして筆をとる。


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駿臺雜話 目録

 序(藤原明遠)
 
 卷一(仁集)
 卷二(義集)
 卷三(禮集)
 卷四(智集)
 卷五(信集)














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卷一

[目次]

○ 老學(*の)自叙

<自叙>

つら\/身の過來し昔を思ふに、もとは武藏の産にてなんありける。そのかみ初て髪を結びて、詩書を事としてよりこのかた、あるは檄を捧げて藩邸に游事し、あるはおひを負ひて京師に旅食す。其後北地に家居せしかば、常に舊學を修め、素願をつぐのつて、一生を終る事をなんはかりにき。然るに往年、はからざるに大家のめしを辱うして、ふたたび故郷に歸り住せしが、身老いざいちて、やがて丘にまくらする死を待つ程になんなれりける禮記「禮は基本を忘れず。古の人言あり、曰く、『狐死して正しく丘に首するは仁也。』(*と)〕。されば多くの歳月としつきを經て、今犬馬のよはひ七十にあまる四の年まで、學を好み道に志すといへども、人の師表となるべき道徳もなく、又外になにの材能さいのうもなくして、むなしく世にあるこそいと本意なき事なれ。されど翁を信じてこゝに問來る人々に、日ごろ自得したる事を語りきかせて、後學のたよりともならば、それこそ責めてながらふる甲斐もあるべしと思ふにぞ、病をつとめ痛を忍んで、たえず書を講ずるにてぞありける。

<程朱の学>

ある日講はてゝ、宋儒以來學術の異同におよぶ。座中に程朱の學に疑を貽す人ありしに、のいふやう、
それがしも若かりしとき俗儒に習つて、記誦詞章を學びて多くの年月を曠うせしが朱子大學の序に「自是以來、俗儒記誦詞章之習、其功倍2於小學1、而無用。」〕、或時忽往日の非を悟つて、始て古人己が爲にするの學に志ありしかども、不幸にして良師友もなかりしかば、諸儒紛紛の説に眩惑して、程朱をも半信じ半疑ひつゝ定見なかりし程に、とかくして又むなしく歳月を經にけり。年四十に近き頃にもあらん、ふかく程朱の學終に易ふべからざる事をさとりて、それより日夜程朱の書をよみて、心を潛め思をふかうすること今に三十年、仰げばいよ\/高く、きればいよ\/堅く、高遠に過ぎず卑近におちず、聖人復出づとも必ず其言に從はん事疑なし。されば天地の道はの道なり。の道はの道なり。の道はの道なり。の道を捨てゝの道に至るべからず。の道をすてゝの道に至るべからず。の道をすてゝ天地の道に至るべからず。老學〔老人の古くさき學問〕もとより信ずるに足らぬ事には侍れども、是ばかりは實見(*実際の経験)ありて申す事にて侍る。もし實見なくしてさもなき事を申すならば、が身忽天地のばつかうぶるべし。」
と誓ひけるにぞ、座中もきゝを改むる〔容を改めて聞く〕氣色也。

<陽明学>

其時いふは、
「是は五百年來論定りたる事なり。今更が誓を待つべきにもあらず。朱子以後宋には眞西山魏鶴山、元には許魯齋呉草廬、明には薜敬軒胡敬齋の諸賢を始め、其外道學〔程朱の學〕に志ある人、を尊信せざるはなし。一代の碩學たる事宋潛溪が如く、百家を綜核〔すべ明にすること〕する事楊升菴が如き、文字もんじ論説の末においてはを議すといへども、學術道徳においては間然する事をきかず。されば明の中葉までは、おほやう世の學術も正しく、名教も頽れざりしぞかし。
王陽明〔明の大儒。名は守仁、字は伯安嘉靖七年安南に卒す。年五十七。〕出でて良知の學を唱へ朱子を排せしより、明の學風大に變じぬ。陽明既に沒して其徒龍溪りようけいがごとき、つひに禪學となる。それより世の學者良知に沈醉し、窮理に欠伸けんしんし、其弊嘉靖萬暦の間に至りて、天下の學者陽儒陰佛〔表面は儒學を唱へ、裏面は佛法に歸するをいふ。〕の徒となりてやみぬ。諸賢よく思ひて見給へ。西山以下の諸賢、假令たとへ(三水+于:お・う・わ:〈=汚〉:大漢和17132)(*低地。衰え下れる様。)なりとも、このむところに阿るには至らじ。又其徳行材識さいしよく、何れも明季竝に今の儒者の下にあるべきに非ず。それに萬分の一にも及ばぬ學識をもて、輕しくなにくれと譏議するは、あん(晏+鳥:あん:斑無し鶉:47208)の鵬を笑ひ莊子及び漢書に出づ。つまらぬ者のすぐれたる者を笑ひ、小人の心を以て君子をはかるに譬ふ。〕蠡にて海を測る(*蠡測。瓢で大海を量る。)に似たり。韓愈がいはゆる、井に坐して天を觀て天を小なりといふ原道に見ゆ。己が小見識を以て聖人の道を小なりとするをいふ。〕の類なり。然るに輕薄無識の徒其説の新奇なるを喜びて、雷同瓦鳴(*付和雷同と瓦釜雷鳴)する事、あげて數ふべからず。國家百年以來太平久しく、文化日に開けて、師儒世に輩出しけり。其學の是非はしらず、たゞ程朱を堅く崇信そうしんして、ふるき模範ぼはんを失はざりしをぞひとつの幸とせしに、ちかき比俑作る〔惡例を殘す〕人ありて、始て一家をたて、徒弟をあつめしより、老姦の儒いでて、其上にたゝん事を欲し、猖狂しやうきやうの論〔勝手な暴論。猖狂はたけりくるふ意。〕を肆にして忌憚いみはゞかる事なし。一犬虚を吠ゆれば群犬これを和する習なれば、邪説横議世に盛なるこそ理にて侍れ。誠に此道の厄運ともいふべし。されば韓愈も、佛老盛に行れし時に生れて、獨是を排斥して、みづから孟軻に比せしが、その孟簡に與ふる書をみるに、『天地鬼神これをのぞむに上質之在傍。(*天地鬼神のこれを臨むに上(かみ)にあり。これを質すに傍らにあり。)』とは誓ひしぞかし。今が誓も孟子の功にこそ及ばずとも、韓愈が心にはおとり侍るまじ。あなかしこ、かり初の空言そらごととおぼすべからず。」


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○ 釋源空がちかひ

むかし源空上人〔淨土宗の祖。法然上人。建暦二年寂す。〕九條の月輪殿〔關白藤原兼實〕へつかはせし一枚起請とて、今に新K谷に殘りてあり。其誓書をは見侍らねども、そのかみ人に尋ねしに、
「『念佛申して極樂に生るゝといふ事たんならば〔作りごとならば〕源空地獄に墮つべし。』といふ事なんありける。」
と語りし。彼宗門にては、さぞ慥なる事におもふべけれど、吾儒よりいへば、この誓ほど浮ける事はあらじ。いかにとなれば、もとより極樂といふ事なければ、又墮つべき地獄もなし。いくたび誓ひてもいと安かるべき業なり。
前代いまだ殉死の制禁なかりし時、或諸侯の家殉死あまたありける中に、ひとり輿論のをしむ人にやありけん、其家の老臣みづから其宅へ行きて死をとゞめしに、中々許諾せざりしを、いろ\/にこしらへければ、其人やむ事を得ずして一諾しけり。
「さらば誓ひてよ。」
といへば、いと快く誓ふ。さては心安しとて歸りぬ。
さて其翌日にか、殉死の面々亡君の菩提所へと相約して寺に聚りしに、日ごろ知舊名殘ををしみつゝまうで來にけり。かの老臣も行きて上座しけるに、昨日ちかひし人、いちはやく來て諸客に暇乞しけるを、老臣うちみて、
「某をこそ欺き給ふとも、いかで誓をば背き給ふべき。口惜しきわざかな。」
といへば、其人笑ひて、
「御うへを欺き候事は御許し候へ。昨日ちかひ申さず候へば、とかく御のがしなく候故、御疑を散ずる爲にこそ誓ひ候へ。誓を背きて神罸を得候とても、死ぬるより外の事はあるまじく候。されば死をきはめたる身にて候へば、もとより誓を背く覺悟にて誓ひ候。」
といへば、老臣言葉なくしてやみぬ。此人の命を喪ふ外に神罸なき事を意得こゝろえて誓ひしやうに、源空も土になるより外に地獄なき事を意得てこそ、かくは誓ひつらめ。
が誓はそれと異なり。上は皇天を戴き下は后土を履みて、天地にかけて誓ふ。誓もし誕ならば、天地の罸をかうぶるべし。されど我道の爲に誓ふは、源空も同じ心なり。是につけておもふに、釋氏の教は有を無にし、實を虚にするにあり。然るに無を有にせねば有を無にしがたく、虚を實にせねば實を虚にしがたし。されば極樂地獄の沙汰はもと虚なる事としれども、もとより眞假一如しんかいちによ〔眞も假も歸するところは同じもの〕とみてこれを説く。徃生の教をたてゝ衆生を導けば、賢愚をわかず思慮に渉らず、すべて念佛滅罪の中に歸してやみぬ。是釋迦如來の密旨〔深く秘したるこゝろ〕なり。我朝にても諸宗の祖になる程の僧は、此旨を互に心をもて心に傳へて、假にも淨土地獄の沙汰を浮きたる事とはいはず。今源空が誓も、相傳の旨なるべし。九條殿の生るべき淨土もなく、源空が墮つべき地獄もなし。されば無をもて有とし、虚をもて實として、衆生に生死を出離さする法とするは、釋迦本意ほんいにかなへり。それはいさゝか僞なきことなり。もし吾儒至誠をもて人を教化する道をいはゞ、雲泥の沙汰〔非常のちがひ〕なるべし。」(*ママ)


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○ 異説まち\/

ある日、が病を問ふとて人々來りしを、
「翁も徒然にこそ侍れ。今日はしばし。」
といへば、
「さらば侍坐つかうまつらん。」
とて、日をくらし語りあひし程に、當代異説の事に及べり。座中一人にむかひて、
「たゞ今西京さいきやう・東都において、世に鳴つて人を率ゐる儒者の説を承り候に、或は我國の道とて神道を雜へてとく山崎闇齋等の流〕もあり、或は陽明が學とて、良知を主としてとく中江藤樹熊澤蕃山の流〕もあり、或は古の學とて、新義を造りてとく伊藤仁齋等の流〕もあり、紛々異同の説まち\/なり。いづれを是とし何れを非とせん。の心においていかゞ思ひ給へるにや。」
聞いて、
「當代門戸をたてて異説を唱ふるもの、おほやう今申さるゝ三流ときこえ侍る。是等の説を立つる人々、さこそ所見あるにて侍るべし。もしが古に聞くところをもていはば、いづれもさには侍らず。それ道は天にいでて一原いちげん〔根元の單一なること〕なるものなり。その一原のところをさへ悟りぬれば、わが國の道とて人の國にかはるべからず。良知の説とて窮理にはなるべからず。鄒魯。鄒は孟子の生國、魯は孔子の生國。〕の學とて濂洛周茂叔程明道程伊川にたがふべからず。然るに是を知るは聖賢の書にあり。聖賢の書は讀みやすからず。されば志を遜てて(*ママ)くはしく讀まずしては、その意を得る事なし。今の儒者、多くは自ら高ぶる心ありて、濂洛の書を精しく讀む人まれなり。いまだ藩籬はんり〔かきね、皮相〕をも窺はずして、己が心を先だてて、にはかに大賢を議す。所見の是非は姑くさし置きぬ。先づ其學の輕薄浮淺なるこそ、うたてしく覺え侍れ。さやうの人はの書をもくはしく讀むまじければ、の意をも得ざるべし。の意を得ずしては、いかでの説に疑なかるべき。
然るにをば輕々しく議すれども、を議する事をばきかず。是は孔孟にも疑なきにはあらねども、は二千年來世に尊信す。それを議しては人のうけがはぬ事なり。は世代ちかく、明朝に至りて或は譏る人もありける故に、是を譏るなりといはば、是毛遂まうすゐがいはゆる「人成ひとによつてことをなす」なり。一定の所見ありとはいふべからず。もし又己が道徳學術には企及ばねば其憚ありといはゞ、さては今を譏るは、是己が賢ははるかの上に立つとみづから許すなるべし。
それはともあれ、神道とはいへど、其説を聞くに、我國に荷擔し、叛逆はんげきの類といへば、其いはゆる神道は、仁義の外にあるにやあらむ。良知といへど、其説をきくに、佛性を明徳と竝べ稱し、武藏房辨慶を智仁勇の士といへば蕃山の言〕、其いはゆる良知は、是非の心にあらざるにやあらん。古學といへど、其説をきくに、大學を聖人の書にあらずとし、の道孔子釋迦との道。即ち儒佛の二道。〕二つなしといへば、其いはゆる古學は、徳性の外にやあらむ。是等の説、何れもが疑をのがれぬ事にて侍る。
然るに、仁義をかね、内外を合せ、古今に通ずるは、ただの學なり。されば大中たいちう至正の道にて、孔孟の正統たる事、なにの異論かあるべき。たゞがふかく恐るゝ所は、程朱の學をするのともがら、身をもて踐履〔實地にふみ行ふこと〕をせずして、たゞ講論をのみ事とせば、其學は正しといふとも、道において何の得る事かあるべき。明朝にすでに其弊ありし故に、陽明も支離〔統一なきこと〕をもて朱學を譏りし〔原本「し」を脱す。〕ぞかし。邪説の起るも是故にてこそ侍れ。もとより實行を忘れて空談をつとむるは、聖賢の戒むる事なれば、今更が事新しく申すにも及ばず。ふかく愼むべき事にこそ。」


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○ 心のめしひ

座中又ひとりいふは、
の仰せらるゝごとく、吾黨わがたうの士は、相戒めて實行を力むるこそ、邪説をふせぐ上策と申すべく候。されば、孟子〔楊子と墨子〕を距ぎて、好辯孟子「我豈辯を好まんや。已むを得ざれば也。」〕の譏をば辭し給はねども、其要を論じて、君子は經に反るのみといふに歸せられ候。况や今僞學詭辯の徒、野邊におふるくずの如くはひひろごり、邪誕妖妄えうばうの説、林に落る木の葉の如くしげければ、それにしたがひて辯説を費さんは、反て吾道を淺はかにするにて侍りなん。
此頃の事にて候。ある儒者の説とて、耳を驚かす事をこそ承り候へ。『道は天地に出づるにあらず。聖人の作り給へる事なり。』又いふ。『道は事物當然の理にあらず、文雅風流のものなり。』又いふ。『五倫〔「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼(*原文頭注「長物」)序、朋友有信。〕の内に夫婦のしたしみばかり天性なり。其外君をたふとび父母をうやまふの類は、人の性にあらず、聖人の作り出せる道なり。其作者聖人なる故に、古今に行はれて變ずる事なし。』とぞ。古より邪説多しといへど、是ほど乖戻そむきもとりぬる事は承らず。いへばいはるゝものに候。」
とて、互にいひあひて笑ひけるに、きいて、
「諸賢は東坡〔蘇軾、字は子瞻、宋の文豪。〕日喩じつゆの説を見給へりや。生れて盲ひたる人あり。日はいかやうなる物と思ひて、かたへの人にとへば、日はかくまどかなりとて銅鑼を探らせけるに、銅鑼をたゝいて、さては日は聲ある物とおもへり。又かたへの人いふは、『日は光あり。燭の至る時には、おのづからあかるきやうに覺えぬべし。その如し。』といふを聞きて、蝋燭をなでて、さては日は細く長きものと思へり。今の世俗道理にくらき人多し。たとひ書を讀みても、道理にくらければ、いふ人もきく人も、目こそあき候へ、心は盲ひたるにて侍る。さればその盲ひたる心をもていろ\/に思ひなぞらへ候はば、此人の日をはかるやうに、おほきに取たがへたる事もあるべきぞかし。
今承るごときの説は、取りあげてなにと申すべき樣もなく侍る。たとへば喪心の人を相手にして是非を論ずるに似たり。その論ずる人もさきと同じ事と申すべし。然れども、ひそかに此説の起りを考ふるに、其人もと記誦の儒なり。記誦〔よみそらんずること〕の儒は諸子百家を渉獵することをのみ好みて、四子孔子曾子子思孟子六經易經書經詩經禮記楽經春秋に心をとゞむる事なし。たゞ其文辭訓詁きんこ(*ママ)を僉議して、理趣のふかきに及ばず。然るに日ごろわが學の義理にくらきをばしらず、飽まで己が博學を自負して虚譽を要する程に、世も亦是をもて推崇おしたふとみて一代の儒宗とす。明季諸儒の風、大抵かくの如し。それに放蕩不遜にして、人に驕り物に傲るを高致(*高尚な趣味)とし、好みて大言を吐いて先賢を毀り、抗然として高く唐宋諸儒の上に出でんとす。然れども有識いうしきより是を見れば、學は遠く〔荀子・莊子〕が餘毒に醉ひ、文は近く〔明の王世貞・李于鱗(*王世貞・李攀竜)が浮華を拾ふに過ぎず。されば己が臆見にまかせて、道は天地に出でずとし、事物當然の理にあらずとす。己が曲學に合せて、道を文雅風流のものとし、己が俗情にこゝろみて、夫婦の外は五倫みな人の性にあらずとす。本より論ずるにもたらぬ事ながら、世俗多くこれを信じて、ぐんをなし徒をなすにぞ、とかく世は奇怪を好む事となん今更思ひ當り侍る。たゞ人の心術を害し、世の名教を損ずるこそ返す\〃/もなげかしく候へ。周禮しうれい(*ママ)に造言の刑〔訛言を放ちて人を惑すものを罰する刑〕あるは、この爲にて侍るぞかし。
かやうの中に、が道徳もなく材力にも拙き身をもて、是を支へむとするは、誠に大厦の一木文中子「大厦將顛、非2一木所1支也。」〕(*「大厦のまさに顛れんとするは一木の支ふる所にあらざるなり。」『文中子』は、隋代の王通〔諡文中子〕と門人の対話の書。)ともいふべし。たとひ言ひてふせぎ、辭してひらくとも、誰か信ずべき。己が量をしらざるの譏も身にのがれがたく侍る。たとへば、の説は先王の禮服れいふく(*ママ)なれども、宋人そうじん(*ママ)の章甫(*儒者の冠)を越に賣るが如し。斷髪の俗には用ふるところなし。〔章甫は冠。莊子「宋人資2章甫1而適2諸越1。越人斷髪文身、無之。」〕程朱の説は天下の名曲なれども、郢客えいかくの陽春を楚に唱ふるに似たり。文選「客有2於郢中1、其始曰2下里巴人1、國中屬而和者數千人、…其爲2陽春白雪1。國中屬而和者數十人…其曲彌高、其和彌寡。」〕鴃舌げきぜつ〔蠻音解すべからざるもの〕の俗には和する人なし。にいはく、『知ものは我こゝろ憂ありといふ。不者は我何をか求むといふ。悠々たる蒼天これ何人ぞや。』此詩は周の大夫周室のおとろふるをかなしびて作れり。今が吾道の衰ふるをかなしむも、事はかはれども心はおなじかりぬべし。」


[目次]

○ 愚公が山

されどもが心は、知己を一世にもとむるにも候はず。昔より邪僻妄誕にして根もなき事の盛に世に行はれて、あなかしがましく聞ゆるは、女郎花の一時(*俚諺か。未詳。)とや申すべき。大方は續かぬものにこそ。世を歴て正道へかへらぬはなし。然るを心短くして早く其驗を見むと思ふは、未練のことといふべし。
諸君列子を見給へりや。愚公といひし人ありけるが、家居いへゐ近く山のありしをいとひて、わきへ移さんとて、日々に子ども引き具し出でつゝ、手づから耒耜すきくはをとりて一簣づつ毀ちとりけるを、智叟といひし人是を見て、
「かく大なる山を、わづかなる人の力にてこぼてばとてこぼちつくさるべきか。」
と、其愚さを笑ひければ、愚公きゝて、
「わが代よりこぼちそめて、わが子の代にも繼ぎてこぼち、わが孫の代にも又其子の代にも繼ぎてこぼちなば、終にはわきへ移さぬ事やあるべき。」
といへば、いよ\/笑ひけるとなん記し置きけり。
もとより寓言なれば、この人あるにはあらねども、愚公がいふやうなる事は世に愚なりといへば、愚公と名づけ、智叟がいふやうなる事は世に智なりといへば、智叟と名づけけるならし。およそ天下の事、愚公が心ならば、遲くも一度は成就すべし。然るに世に智ありと稱する程の人は、大かた智叟が心にて、愚公が山を移すやうの事を聞きては、その愚を笑ふ程に、なに事もその功を成就せぬなるべし。しかれば、世のいはゆる愚は反つて智なり。世のいはゆる智は反つて愚なり。それ故に禦寇列子の字〕が世を諷じ(*ママ)てこそかくはいひつらめ。今も百年論定まるの日を身後にし侍れば、世の明智なる人よりみては、が迂濶なることを笑はるべし。されど老いひがめるにやあらん、此志を守りて身を終へなんとこそ思ひ侍れ。愚公が山を移すのるゐなるべし。


[目次]

○ 老僧が接木

されば是につけて思ひ出しし事あり。忍が岡のあなた谷中のさとに、何がしの院とてひとつの眞言寺あり。いとけなかりし頃、其住僧をしりてしば\/寺に行きつゝ、木の實ひろひなどして遊びしが、住僧かたへの人にむかひて前住の時の事をなん語りしをきゝ侍りしに、寛永の頃の事になん、將軍家〔「寛永のころ」と先にあれば、三代家光なるべし。〕谷中わたり御鷹狩のありし時、徒歩かちにてこゝやかしこ御過ぎがてに御覽ましましけるが、此寺へもおもほえず渡御ありしに、折ふし其時の住僧はや八旬に及びて、庭に出でて、みづはぐみつゝ〔い屈まりて〕(*甚しく年老いた様子で)手づから接木して居けるが、御供の人々おくれ奉りて、おそばに二人三人つき奉りしを、中々やんごとなき御事をば思ひよらねば、そのまゝ背き居たりしを、
房主ばうずなに事するぞ。」
と仰せられしを、老僧心にあやしと思ひて、いとはしたなく、
「接木するよ。」
と御いらへ申せしかば、御笑ひありて、
「老僧が年にて今接木したりとも、其木の大きになるまでの命も知れがたし。それにさやうに心をつくす事の不用なるぞ。」
と上意ありしかば、老僧、
「御身は誰人たれひとなればかく心なき事をきこゆる(*ママ)ものかな。よくおもうて見給へ。今此木どもつぎておきなば、後住こうぢうの代に至りていづれも大きになりぬべし。然らば林も茂り寺もKみなんと、我は寺の爲をおもうてする事なり。あながちに我一代に限るべき事かは。」
と言ひしをきこしめして、
「老僧が申すこそ實にも〔原本「實も」とあり。〕理なれ。」
と御感ありけり。その程に御供の人々おひ\/來りつゝ御紋の御物ども多くつどひしかば、老僧それに心得て、大きに恐れて奧へ逃入りしを、御めし出しありて、物など賜りけるとなん。
も此老僧が接木するごとく、老朽ちぬれども、ある限は舊學をきはめて、人にも傳へ書にものこして、後世に至りて正學の開くるはしにもなり、此道のために萬一の助ともなりなば、死しても猶いけるが如し。古人のいはゆる死しても骨くちじといひしこそ、思ひあたり侍れ。いさゝか我身のために謀るにあらず。諸君もがこのこゝろを信じ給へかし。


[目次]

葉公せふこうりう(*ママ)

しかれども、かく申せば、が身ものに似たる〔人がましき名〕やうにて、はづかしくこそ候へ。わかかりしより、心に聖賢を慕ひ、口に六經をしようし候へども、たゞ載籍〔書物〕のうへにて聖賢を窺ひて、少し其意を得たると申すばかりにて侍る。今も\/眞の聖賢にあひ奉りなば、日ごろしたひ奉りし心とちがひ、反つていみはゞかる事あるまじきや、心もとなくこそ候へ。すこしもいみはゞかる事ありなば、今申す事も皆僞になり、林慙澗愧はやしのはぢたにのはぢ〔宋の孔徳璋周■(偶の旁+頁:::大漢和43599)といふ僞君子を謗りたる文句。〕盡くべからず。又なにをもて後世(*ママ)を待ち候べきや。
むかし葉公龍を好みて、其形を畫がかせて日夜愛翫せしが、ある時眞の龍これを聞きて、「ゑがける龍をさへさやうに愛翫あるに、わが行きたらむには、ことなるもてなしにもあひなん。」と思ひ、窓より顔をさし入れたれば、葉公大きにおそれてにげまどひけり。
今東西兩都の儒者を見るに、多きなかには正學の志ある人もあるべけれども、大かたは自ら尊大にして師儒と稱しつゝ、我こそ聖賢の道を好むといへど、たゞ論説をつとめ、著述を衒ひ、是をもて世に傲り名を釣るには過ぎず。もとより道に實得の功なければ、もし眞の聖賢にあはゞ、目をかへして(*白眼で)相見むとぞ覺え侍る。しからば日ごろ聖賢の道を好むといふは、葉公が龍を好むに同じかるべし。晏嬰あんねい(*ママ)晏平仲仲尼そしり、蘇軾程頤程伊川をにくむにて考へ見給へ。ひとりは齊の賢人、一人は宋の名臣にて候へども、それさへかくの如し、况や二子に及ばざるものをや。されば漢の楊雄道徳を論じ太玄(*原文「大玄」)を著し、一代の儒といはれしかども、一旦賊〔漢の天下を奪へる王莽〕に臣とし仕へて、節義を失ひしぞかし。たとひが世に生れずして此事なくとも、是等の學問にては、もしにあうて節義の事をもて責められなば、必ずにげさけぬべし。然らば太玄五千文皆虚文にあらずや。後世の子雲〔後世の我と等しき人。子雲は楊雄の字。〕ありて「我を知らん。」といへど、後世が太夫ありて知音たらんかし。この故に、言論のみを聞きてその實迹を見ざれば、世話に畑水練といふ如く、仕方ばかりにては人信じがたきものなり。
はや三十年前のことにて侍る。加賀の國に杉本の何がしとて、ひとりの微賤の士ありき。その人を久しく相知りしが、其子九十郎といふもの、十五歳の時、父はあづまへ行役しける〔江戸詰にて勤役せるなり。〕其跡、年輩同じ程なる近隣の人の子と圍碁のうへにて口論しけるに、九十郎こらへず、刀を拔きて相手を一太刀(*原文「一大刀」)きりしを、かたへの人取りさへけり。さて其事廳に達して後、相手の創療治れうぢさすべしとのことにて、其間九十郎は官長の家に預り置きしに、いさゝか臆したる氣しき露ほどもなく、言語振舞の落ちつきたるは中々年におはぬやうに見えける。日を經て相手終に創にて果てければ、九十郎も切腹するに議定しける程に、その前の夜、主人名殘ををしみつゝ、酒肴さけさかないろいろ用意してもてはやしけるに、九十郎母への文などしたゝめ置き、さて主人にくはしく謝詞しやしをのべ、此程附居つきゐたる家人へも、それ\〃/に懇に暇乞して、さていひけるは、
「面面へ名殘もをしく候へば、今宵(*原文「今霄」)はあくるまでも語りたく候へども、明日切腹の時ねぶたく候ては、いかゞと存じ候へば、先へふせり候べし。面々は是にてゆる\/と酒すゝめられ候へ。」
とて、奧へ入りて高鼾してぬるを聞きて、跡に居たりし人々感じあひけるとぞ。又の日つとめて〔早朝〕よき程におきいでて、沐浴し衣服あらためつゝ、用意心靜にし、其後切腹の席へいでて、檢使に一禮し、こゝろよく切腹しぬ。其有樣從容としてやすらかなりし。いかなる勇烈老功の士たりといふとも、是には過ぐまじきと見えしとて、其場に有合ありあはせし人々、年を經て後迄も語り出して、涙おとさぬはなし。此事おこりし始に、彼が父のもとへ文やりて知らするとて、
「九十郎たとひ切腹するに及びたりとも、此程のおとなしさにては、未練なる事あるまじ。それは心安くおもふべし。」
といひ遣しけるに、後にきけば、父そのふみを人にみせて、
「かくはいひて來れども、童子わらはべに灸するに、前には人にすかされて思ひの外におとなしく見ゆれども、火を取つてむかへば、その際になりて俄に泣出なきいだして、前の言葉には似ぬ物ぞかし。わが子もいまだ年にたらねば、潔く切腹したるといふたよりを聞くまでは、心もとなく思ひ侍る。」
といひしとて、古人のいふ如く、此父なくば此子あらじとなん思ひ侍りき。さて此事を今申出し侍るは、九十郎が斯くばかり歳にも似ずしてけなげなるを、世にきゝ傳ふる人もなくて果てなんは、あまり不便に候へば申す事にて侍る。其上今をはじめ、言論文字もんじにて古人のまねをして、その實のあらはるゝ時に至りて、日ごろのあらましと違ひありなんは、是ぞ誠に童子わらはべの灸なるべし。多年學問して儒者といはるゝ身にて、かの童蒙無智の九十郎が覺悟にさへ劣るべき事かは。いと恥しき心ならずや。諸君も常にこゝを察して、よく\/省み給ふべし。」(*ママ)


[目次]

○ 扁鵲藥匙やくしをすつ

<良知と格物致知>

他日の會にいふは、
「過し日學術の邪正を論ぜしが、其論いまだ盡きざるやうに覺え侍る。今日其論を果し候べし。今世儒者、朱子を議するに三等あり。
第一等は陽明良知の説を祖として朱子を議するあり。陽明は傑出の人なり。朱子の學を毀りて支離とするも少しいはれなきにもあらず。當時朱學の弊多くは文字言語に求めて、内省の工夫やゝ少きを見て、朱子格物の説を義外とする程に、良知を標的〔めあて〕として、一向に内省につとめしむ。
これ其意よからざるにはあらず。しかれども朱子格物の説、良知を外にするにあらず、事物に即きて良知を致すなり。たゞ陽明の説の如く、良知に求めて事物に求むべからずといはゞ、先王の教、詩書禮樂といはずや。詩書禮樂、事物にあらずして何ぞ。孔門の教、文行忠信といはずや。文に六經あり。行に百行あり。忠と不忠と、信と不信と、必ず事物によりて其理を知るべし。もしひとつの良知を致せば、おのづから敬して、禮を學ぶに及ばず、おのづから和して、樂を學ぶに及ばずといひ、又ひとつの良知を致せば、おのづから百行もをさまり、忠信にもすゝむといはゞ、それほど簡約にして手近き道あるを、聖人何とて示し給はず、かくむづかしく迂濶なる教をたて給ふべき。かついへ(*ママ)良知を致すに、事物をもてせずして何をもて致すや。定めて内省をもつぱらにして私欲を去るをもて、良知を致すとするにやあらむ。それは、たとへば『五聲〔宮・商・角・徴・羽〕を知るは耳にあり。耳を守れば、五聲をきかずして五聲をしる。』といひ、『五色〔青・黄・赤・白・K〕を知るは目にあり。目を守れば、五色を見ずして五色を知る。』といひ、『五味〔辛・甘・鹹・酸・苦〕を知るは口にあり。口を守れは五味をなめずして五味をしる。』といふが如し。知らずや、五聲を知るは耳にありといへども、五聲は物にあり。五聲を聞かずしては、五聲のしんをしるべからず。五色をしるは目にありといへども、五色は物にあり。五色を見ずしては、五色の眞をしるべからず。五味をしるは口にありといへども、五味は物にあり、五味をなめずしては、五味の眞をしるべからず。况や五聲にも清濁物毎に異同あり。五色にも淺深物毎に異同あり。五味にも厚薄物毎に異同あり。其物にあらずしては、何によりて其別をしるべき。
親を愛し兄を敬するは不學して知るといへど、親事おやにつかへあににつかふるの事の上にて、愛敬の理を窮むべし。すべて君子百行皆しかなり。其事に即きて、其理を窮めずして、己が善く知り惡しく知るものひとつにて知るべきにあらず。
孝は百行の本といへば、しばらく事親の事にて申侍るべし。朝省昏定あしたにかへりみゆふべにさだむるやうの事は、およそ事親の人誰か知らざるべきなれども、其さへ田舍でんしや農家の民などは、愛親の心なきにはあらねど、朝にかへりむべく昏に定むべき事とも知らざるぞかし。况や親を養ふは誰も養へども、口體こうたいを養ふと志を養ふの異同あり。親をうやまは誰もうやまへども、嚴威儼格は事の道にあらず。其外父母の前にては、恒言不つねのことらうをしようせず、叱■(口偏+它:た:〈国字〉=咤:大漢和50005)の聲犬馬に及ばず〔かりそめにも老といふことを言葉に出さず。又犬馬に對しても荒き聲を出さず。〕といふの類に至るまで、すべて事親の事なり。もし其事に即きて各其當然をきはめずして、わが愛親の心にもとむれば、おのづから事々つくすに足りぬといはゞ、聖人の上にはさもありなん、學者の及ぶべき所にあらず。おそらくは孝の道をつくさぬのみにてもなく、又心ならず不孝の事もありぬべし。かくいへばとて、事親をやめて是等の事を講ぜよといふにもあらず。又是等の理をのこらず究めねば事親べからずといふにもあらず。たゞ事親の上にて其事の當否をきはめあきらかにし、又は讀書とくしよの上にても聖人孝を論じ給ふにあはゞ、反復して其理趣を味ひ、其本末をきはむべし。もろもろの事是をもて例して知るべし。是則格物の學なり。斯くしつゝ久しうすれば、やうやく道理純熟して、後はわが愛親の心ひとつをもて親につかふるに、其道を盡さずといふ事なし。是格物の學の妙處なり。かねて力をこゝに用ひる人にあらずば其味をしるべからず。孟子の「不(*ママ)してしるは良知なり。」といへるは、人に孝弟の心學びず(*ママ)してあり。是を本として學んで、其量をつくせとの事なり。不學してもそれにて足れりといふにあらず。今朱學の弊をあらためんとて格物窮理を廢するは、朱子の言を知らざるのみにあらず、枉過まがれるをためなほきをすぐすといふべし。それも亦まがれるなり。

<理気体用の説>

第二等には、理氣體用〔心の本體と活用〕などの説、の言及ばざるといふに據つて朱子を議するあり。むかし孔子「性相近し。」と宣ひしに、孟子に至りて性善を論じたまひ、其外養氣夜氣の論など、三代の書に沙汰もなく、もとより孔子も似たることをも宣はざりしかども、宋の諸先生其旨の聖人にもとらずして、毫髪〔極めていさゝか〕の疑ふべきことなきを見つけられし程に、先聖のいまだ發せざる所を發すとて、殊に稱嘆せられけり。况やの時、の世をさること遠し。言を選び論をおこし、道を明かにするに急なり。道理においてたがふ事なくば、何ぞ必ずしも規々とし〔「規々として」か。〕(*気抜けして)古人の言を蹈襲す〔あとをふみ行ふ〕べき。今朱子の説宣はざるに出でなば、其意を深く考へ究むべし。もし未だ合はざる所あらば、しばらく疑を闕くとも可なり。然るを己が心にあはぬとて、のたまはざるに事よせて、にはかに大賢の説を輕々しく毀るこそ、其學識の淺陋なるもしられ侍れ。其議論を聞くに、いづれも疎鹵膚淺〔ておち多くあさはか〕なる事になん有りける。こゝに一々擧正〔とりあげたゞすこと〕するにいとまあらず。たゞ其理氣の説をあら\/辯じ侍るべし。
彼がいふは、天地の間氣の外になにかあらん。この氣四時に流行し〔ゆきわたり〕、萬物を生じて、おのづからやまず。是則天道なり。昭然〔あきらかなる貌〕として見えたる通りの事なり。然るを朱子一等上に形象なき物をたてゝ、氣に配して理とするは、隱怪にちかしとぞ。其説似たり。此疑は彼に限らず、あなたにても〔支那にても〕先儒の中に、是に類したる疑難〔うたがひ非難すること〕ありしぞかし。それは朱子の言を深く考へて、なお疑を免がれぬといふにてありける。かれが一過の見をもて、臆決〔よい加減にきめること〕するやうの事にはあらず。固より理氣前後せんこうの説は微妙なる事にて、一座のにていひ盡し難し。
暫く老子の語をかりて、譬をもてかたばかり申侍るべし。車を數へて車なし。歳を數へて歳なし。譬へば車を數へて、「是はりんなり。是は軸なり。是は軾なり。是は轅なり。」「輪をもて車とすべからず。軸をもて車とすべからず、軾・ゑんをもて車とすべからず。」とて、輪をすて、軸をすて、軾をすて、轅をすてゝ見たれば、車も共になくなりにけり。唯車の理は、車の出來ぬ前に定まりてあればこそ、上代車のなかりし時、車をば作り出すらめ(*ママ)。今とても車匠車を作らんとては、輪を■(亞の上を卯の形に作る+斤:たく::大漢和13585)けづり軸を■(亞の上を卯の形に作る+斤:たく::大漢和13585)りて、何時によらず車を作り出すは、車の理常に滅びずしてある故に、それに基づきて作り出すにあらずや。是によりて見よ。車は輪軸より出づる歟。輪軸は車より出づる歟。車は輪軸より出づるといふは、車の形ある事を知りて、車の理ある事をしらざればなり。
歳をもてたとへても同じかるべし。十二ときを日とし、三十日を月とし、十二月をとしとす。「是は時なり。是は日なり。是は月なり。是は年なり。」とて、のけて見たれば、外に歳といふ物なし。然れども三百六旬有六日に、天と日と會して歳となるの理は、前に一定してありて、日月も約束の如くめぐればこそ、それに本づきて、上代に暦をも作り出し、今も暦家れきかに當代の暦を作るは勿論にて、只今なき日月を考へて、前百載後百載の暦を作るに、毫髪もたがひなきぞかし。是その理は日によらず月によらずして、常に存在するにあらずや。されば天はずして四時行はれ、百物生ず。是その樞紐すうちう根柢〔もの事の根本〕となるものありて、天地の太極だいごく柱となりて、四時も是より行はれ、百物も是より生ず。
然るに車をかぞへて車なく、歳をかぞへて歳なければ、氣をはなれて理なし。外に形象もなく方所〔方角・場所〕もなきほどに、たゞ道理とまでいふべし。よりて孔子は形よりして上下をもてに對して道をいひ、朱子は形よりして先後せんごをもて氣に對して理といふ。すべて同一理どういちり(*ママ)なり。今其本源をしらずして、枝葉の上にて議論を生ぜば、紛々異同なにの底極〔きはまるところ〕かあるべき。
體用の説も亦しかり。道に用あれば、必ず體あり。寂然不動は體なり。感而遂通かんじてつひにつうずるは用なり。靜にして存養すれば、體に即いて用存し、動きて省察すれば、用に即いて體行はる。是を體用一源顯微へだてなしといふなり。孔子の「敬以直内、義以方けいもつてうちをなほくし、ぎもつてほかをけたにす。」とのたまひ、子思中和ちうくわをもて大本達道といひ、孟子の仁義をもて正位大道といふ。是またすべて同一理なり。體用をいはねども、いづれか體用にあらざる事ある。彼曲學の徒、僅々として小自足せうをえてみづからたれりとすれば、道に全體ぜんてい大用あるをしらぬも理ぞかし。深く論ずるにたらず。

<放蕩儒者>

第三等には、放蕩をたふとび、名■めいけん(手偏+僉:れん・けん:巡察する:大漢和12779)をいとひ、專に文辭典籍を學とし、一たび居敬窮理の説をきゝては、腐儒の常語とて、相ともに嘲笑そしりわらふ程に、學者修己の道においては、講ずべきものともせず。その議論を聞くに、不急の察、無用の辯げう(言偏+堯:どう::大漢和35947)々として〔さわがしきさま〕人耳をかまびすしうせざるはなし。なにをか取擧げていひ出すべき言の葉にせん。たゞ太息に付してやみなまし。
むかし扁鵲、齊の桓公やまひを見て、二たび迄はなほいふ事ありしが、三度に及びては、もはや療治の手なかりし程に、藥匙やくし〔藥を調合するに用ふる匙〕をすてゝおどろき走りき。俗學の弊も、こゝに至りては、桓公の疾の日に深きが如し。儒に扁鵲ありとも、療治の手なかるべし。况や老學非才無智の身にて、何とて道の輕重けいぢうをなすにたらん。たゞ口をつぐみて驚走りつべうこそ覺え侍れ。」


[目次]

輕警けいをためだをいましむ

又いふやう、
「當代東西兩都の儒を見るに、もとより人によりて一■(既/木:::大漢和15363)には論じがたけれども、多くは異論を好み、名譽を要するは同じ事にして、其病根は又異なるべし。大抵洛陽〔京都〕の儒は驕惰(*驕り怠ける)の弊あり、東都の儒は剽輕へうけい〔かるはずみ〕の弊あり。洛陽は風氣和し土地狹し。この故に近き比まで其土の宿儒おほくは温厚柔謹にして、制行正しく、威重ゐちようありて人望を失はざりき。然るに近年温柔變じて惰弱となり、威重變じて驕泰(*驕り威張る)となる。空談をたふとび文史を玩び、是をもて自ら尊大にして曾て志時敏こゝろざしをへりくだりときにとくする事を知らず。されば良工いをもちふるの勞をいかでしるべきなれば、たゞ道を容易なる事に心得る程に、はては先賢をあなどを毀りてやみぬ。たとへば王孫公子、あたゝかに育ちて艱苦を經ねば、おぼえず驕泰になるが如し。宋の武帝の高祖の葛燈籠麻蠅拂かつとうらうまようふつを見て罵つて田舍翁でんしやをうとするも、祖宗の大業を建立けんりふせし艱難をしらねば、更にとがむるに足らず。
むかし『史記蘇秦〔春秋戰國時代の辯士。洛陽の人。六國の合縱を策して秦に當る。〕が傳を讀みて、が『我をして洛陽負郭の田〔都の町はづれの田地〕けい〔一頃は百畝〕あらしめば、豈能佩2六國相印1乎。』といふを見て、實にもしかりきと思ひき。今洛陽の儒、大かた土著に安じて、隱居放言自から足れりとす。もし其人をして世務にあづかり、一官をつとめ、一職を辨ぜしめば、知らずよく其任に堪へんや否や。恐らくは洛陽二頃の田祟をなさば、居求きよをおもひやすきをもとむるの人にひかれて、やがてかけ籠らまし。いかで是等の人と聖賢の志を論ずべき。
東都の儒は又是に異なり。關東は風氣薄く土地濶し。それに武人俗吏其地に逼居せまりゐて、其風おのづから儒者にも移れば、昔は文飾なく質直なるかたありて取るべかりしが、今は質直變じて■(鹿三つ:そ:離れる・粗い・大きい:大漢和47714)惡となりぬる程に、放蕩輕薄徳義を銷刻し、浮辭恠説くわいせつ文字を造作す〔つくりだす〕。たとへば蘇秦が洛陽宿執の害はなけれど、世に游説するは縦横じうわう■(手偏+卑:はい::大漢和12200)闔へいがふ傾危の道なるが如し。
されば今天下の學者、惰弱ならねば剽輕へうけいなり。此二へい除かざれば、高談2性命1博究2群書1たかくせいめいをだんじひろくぐんしよをきはむとも、聖賢の徒といふべからず。横渠先生〔張載〕(*北宋)も是をもて學者の要務とし給へばこそ、輕警かろきをためおこたりをいましむの一語を擧げて示されしなれ。惰弱なれば義にいさむ志なく、つひに郷愿の人〔一郷の俗人の稱して謹厚の人とする者〕となる。剽輕なれば忠厚の人なく、はては讒佞の徒に陷るべし。こゝをもていへば、矯輕警惰の一語、學者の要務なるのみにあらず。しかしながら(*そのまま)すべて士たる者の頂上の鐵針(*頂門の一針)たるべし。


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○ 忠厚のこゝろ

されば、士は第一忠厚の心を本とすべし。その人となり輕薄にしては、材の美ありといへど見るにたらず。それにつきて、日ごろ樂毅が傳をよみておもへらく、は戰國の士にあらず、學問ありて道のあらましをきくの人なり。しかるに後世が將略あるをしりて、學問あるをしらず。樂毅燕の昭王に仕へ、上將として齊を伐つて、七十餘城を下せしは非常の大功なり。不幸にしていくさ未だ凱旋せざりし先に昭王薨じ、惠王齊の反間を信じて將をかへ兵權を奪ひしかば、みづからなるになんなんとするの大功をすてゝ、すみやかに燕をさる。幾而作不きをみてたつひををふるをまたずといふにちかし。その後、身を趙によせし時、趙王燕を伐たむ事をに謀りけるに、固辭して其謀に預らず。誠に忠臣の法とすべし。その惠王に報ずる書をみるに、忠厚の心言外に藹然たり。戰國反復の世には空谷の足音そくいん〔極めてめづらしき意〕(*空谷の跫音)と申侍るべし。その書中に、『君子交絶不2惡聲1。忠臣去國不2其名1。』(*君子は交はり絶えて惡聲を出さず。忠臣は國を去つてその名を潔くせず。)といへるは、三代の遺言ゐげんなるべし。もし學問なくしては、誰か其言の旨き事をしらむ。今其意を解き侍るべし。『交絶不2惡聲1。』とは、たとへば人と交通して、其人の惡事をいはぬは、もとよりの事なり。其人と中たがひては、己が是をいはんとて其人の非をいふべきに、交絶えて後に其人のあしき事を一向に言に出さぬは、君子の忠厚人に負かざるの心なり。其意を詠じ侍るとて、
ならはじな兒の手がしはの〔其葉表裏共に緑なるより「ふたおもて」の序としていひしなり。〕ふたおもて身は葛の葉のうらみありとも
今更づれが申すも愚なれども、伊川先生(*程頤)に感服する事あり。蘇東坡伊川そねみ惡みて、哲宗てつそうに上る奏状に、程頤が姦と稱し、又衆中にて嘲りて、鏖糟陂裏あうさうひり(*未詳。)叔孫通しゆくそんとうなどといひしが、伊川遂に東坡が是非を一言のたまひし事をきかず。是にて知べし。洛・蜀の二黨(*洛陽の程頤が率いる洛党と蘇軾・呂陶らの蜀党。朱子学を洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の学ともいう。)いづれか正なるいづれか邪なる、いはずして明かなり。又刑恕初めは伊川に從ひて學びしが、後に小人に黨し、伊川を讒して陪陵ふりように謫せしむ。門人聞いて伊川に告げしに、伊川宣ひけるは、
「故人かねて情厚し。われすこしも疑ふの心なし。」
とて、いさゝか不平の辭色なかりし。是等の事誠に吾徒の師法とすべし。『忠臣2其名1。』といふも、忠厚の事なり。是は人臣たるもの、君と義絶えて其國を去らんに、あながちに君の非をいふもあらねど、己があやまらぬ事をいうて、一分の上を潔うせんとすれば君の惡しきにあるゆゑ、わが名をにごらし自らわが惡しきやうにしてをるとなり。是忠臣の心なり。
加賀にありし時、ひとりの老人あり。其父太陽寺左平次といひし者、長湫ながくての戰天正十二年豐臣秀吉織田信雄との戰〕池田勝入しようにふ池田信輝の手にて戰功あり。其後天下泰平になりて、大阪籠城の輩をさへ、御仁政にて諸侯の國に仕ふる事を御許しありし程に、戰功ありし士ども、己が手にあひし事をいひたてゝ仕をもとめしに、左平次一生己が長湫にての戰功をいはず。さて親しきものに、
「大將の敗亡したるに、其手にしよくしたるもの、己が戰功をいふべきにあらず。」
といひしと語りし。己が戰功をいへば、惣勢の敗軍をば大將の越度をちどにし、一分の言譯して退くにて侍る。左平次そこを思ふにこそ。古人忠厚の餘味あり。いとやさしき事なり。其戰功をいふは遙に劣り侍りぬべし。」(*ママ)


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○ 鬼神の徳

ある日講過ぎて後、五六輩跡に殘りつゝ、おの\/疑問に及びしが、中にひとりいふは、
「こゝにひとつ問ひまゐらせたき事侍る。我朝は神國とて、ちかきころ世に神道しんだうを説く人あまたあれども、いづれも其説隱怪にして、正理を得たりとも覺え侍らず。もとより鬼神の説は、聖人も假初にはのたまはねば、我等ごとき薄識の人のにはかにさとるべき事にはあらねども、たゞ其片端を示し給はゞ、他日の功夫くふうの種ともならまし。」
と、各同じ心に益をこへば〔學びて益を得んことを乞ふ。教を乞ふなり。〕きゝて、先を引きて、
「『聖人以2神道1教。』とあるは、聖人の道の神妙〔靈妙にして易く知るべからざること〕なるをさして神道といへり。仁道などいふが如し。是をひとつの道とするにあらず。然るに世に神道とて説くを聞くに、我國の道とて、聖人の道より一等たかき事のやうにいへるこそ心得難けれ。抑鬼神きしんのふかき道理は、もしらぬ事にて侍れども、日ごろ覺悟〔のみこみさとること〕し置けるあらましをかたり侍るべし。
中庸に、『鬼神之爲徳。』といへるは、いかゞ心得給へる。朱子釋して『性情功效こうかう』といへるは、徳字の義を釋してかくいへり。もし其徳たる實をいはゞ、左傳に神は聰明正直せいちよくにして壹なるものなりといへる、是則神の徳なり。然るに、神は正直なるものといふ事は誰もしれども、聰明なる事をしらず。神ばかりすゝどき(*機敏な)ものはなし。其故は、人は耳をもてきけば、耳のおよばぬ所は、師曠しくわう(*春秋時代の晋の楽師。音の吉凶を聞き分けたという。)そう〔耳のさときこと〕といふともきかずしてありなん。目をもて視れば、目の及ばぬ所は、離婁(*古代の伝説上の人物。百歩離れて獣毛の先を見分けたという。)が明といふとも見ずしてありなん(*「離朱〔離婁〕が明も睫上の塵を視る能はず。」)。心ありて思慮すれば、頴悟の人といふとも、なほ猶豫ありぬべし。神は耳目をからず、思慮に渉らず、眞直に感じて眞直に應ず。是二つもなく三つもなきたゞ一ツの誠より得たる徳と知るべし。されば天地の間に、きはめて耳敏く極めて目はやき物ありて、時をもわかず所さりせず、有のまゝに現在し、端的に〔其のまゝ〕往來し、あらゆる物の體となりて兩間に盈ちわたりてあれども、元より形もなく聲もなければ、人の見聞けんもんには及ばずして、たゞ誠あれば感じ、感ずれば應ず。誠なければ感ぜず、感ぜねば應ぜず。應ずれば忽ちあり、應ぜねばおのづからなし。これ天地の妙用にあらずや。中庸に『視之而弗見。聽之而弗聞。體物而不遺。』(*「これを視て見えず。これを聽きて聞えず。物に體〔てい〕して遺すべからず。」)といへるは此事なり。
西行法師伊勢の神祠しんしに詣でてよめる歌に、
なに事のおはしますをばしらねどもかたじけなさに涙こぼるゝ
なに事のおはしますともしらずして、かたじけなさは何事によるや。涙は何故にこぼるるや。是誠の感動にあらずして何ぞ。神前にて其心他念なく一筋に誠になれば、神も其誠のなりに來格〔いたること〕して、かたみに感動する程に、涙もこぼれつべし。たとへば清くすめる水には、其まゝ月のうつりて、たがひに光をますが如し。久しくなれば、一つ誠に渾融して、神と人とをわかず。たとへば水や空、空や水ひとつに通ひてすめるが如し。こゝに至りては、洋々乎として、其上に在るがごとく、其左右に在るが如くなるべし。是神のあらはるゝなり。誠のおほふべからざるなり。
さりとて神を遠き事とな思ひ給ひそ。ただわが心にもとめ給へ。いかにといへば、心は神明のしや〔居所〕なり。一毫いつがうも私欲のさはりなければ、おのづから天地の神明と同氣相感じて、斯くいちじるきぞかし。但相感ずること事なければ、さる事なかるべし。西行も神前に至らぬ時は、いかで涙こぼるゝばかりのかたじけなさあるべき。是をもて來格は相感ずるにありといふ事を知りぬ。今おの\/に申す。たゞ躬に省み内に求めて、心の誠に本づき給はゞ、下學げがく(*ママ)の功積んで上達せらるべし。其時にこそ只今が申すやう、いさゝかうける事にてなしと思ひ知り給はめ。」
とて、其談やみぬるに、座中良久しく聲もなく、靜まりかへりてありしが、
の御物語いとたふとくこそ侍れ。誠に西行が歌にこたへて、今日もかたじけなさに涙こぼれつべう侍る。」
とて、各感心にたへずぞ見えし。


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○ 聖人の誠

又いふは、
「前に申侍る西行が歌にて、の無爲〔人爲を施さぬこと〕にして治まるといふ事を思ひ給ふべし。聖人の誠は則神明なり。もし何事のおはしましては、無爲とはいふべからず。そも何事の何故とは知らねども、たゞその篤恭の至りなん神の如くにして、おのづからかたじけなさに涙こぼるゝばかりに覺えぬべし。それに衣裳をたれ手を拱いて、上に現在しておはしませば、天下仰ぎ奉る事日月の如く、慕ひ奉る事父母の如し。天地無形の神の感應時あるやうなる事にてはあるべからず。されば『所過者化。』(*「過ぐるところのものは化す。」)とて、聖人の身の歴たまふ所は變化をなして改まる事、物のかたに入るがごとし。歴山に耕したまへば、民皆くろを讓り、河濱にすゑものつくりしたまへば、器皆いしま(*器の割れや歪み)あらざるといふにて知るべし。又『所存者神。』(*「存するところのものは神なり。」)とて、聖人の心のとまる所は自由を得て廻る事、もののたなごゝろにあるが如し。孔子邦家をえてんには、やすむずれば其まゝ來り、動かせばそのまゝ和すといふにて知るべし。こゝに至りては、とかく凡慮の及ぶ事にあらず。これ聖人の手柄(*原文「手偏+丙」)にて仕出したまへる不思議にもあらず。たゞ誠は覆はれぬものになんありける。されば、
『君子室に居て言を出して善なれば、千里の外應ず。况やそのちかきものをや。室に居て言を出して不善なれば、千里の外違ふ。况やそのちかきものをや。』
孔子ものたまへり。さりとて家にてする事の、忽に千里に及ぶといふにはあらず。たとへば風の草木に移るが如し。其響いや高にまさりゆく程に、家より國にひゞき、國より天下にひゞく。是自然の理にして、誠のおほふべからざる所なり。こゝをもて、君子は常に内に心をもちひつゝ、たゞ手前を正しくして外を飾る事なし。たとへば錦を衣てうはおほひするが如し。禮記「衣錦尚絅惡2其文之者1也。」〕其美おほへどもおほふべからず。いやましにしるきぞかし。小人は内行をさまらずして、外見をのみ飾れば臭きものに葢するがごとし。其ふさげども塞ぐべからず、いとゞあらはるゝぞかし。枚乘まいじよう(*ママ)が呉王を諫むる書に、
『欲2人勿1聞、莫言。欲2人勿1知、莫爲。』(*「人聞くことなからんことをほっせば、言ふことなきにしくはなし。人知ることなからんことをほっせば、爲すなきにしくはなし。」)
此語淺きに似てあぢふかし。名言といふべし。口にいうて人の聞かぬやうにし、身になして人の知らぬやうにとするは、いやしきたとへながら、惡に利息を添へて身に負ふが如し。日にそひ月にそひて、其負まさりなば、いかでおほひ隱すべき。聖人より以下は、君子も過なきにあらねども、これをかくさんとはせずして、人の見るまゝに改むる程に、過ちは過ちと見え、改むるは改むると見えて、其しかたにかくるゝ事なく、心に一點曇なきとしるれば、反て其徳の光もまさりぬべし。されば子貢も、
『君子の過は日月の食〔「蝕」に同じ。〕のごとし。過てるも人皆見、更むるも人皆仰ぐ。』
といへるぞかし。
むかし小■せうちう(朱+邑:ちゅ:地名文字:大漢和39366)驛千乘のちかひを信ぜずして、子路の匹夫の一言を信じ、囘■くわいごつ(糸偏+乞:こつ::大漢和27246)(*ウイグル族)六軍の兵をおそれずして、郭子儀が單騎の約をおそる。是二子の誠かねて隣國にあらはれ、蠻■ばんはく(豸+白:ばく:貊の姿形書換字:大漢和36529)〔南蠻と北狄とをいふ。即ち夷の意なり。〕に及ぶことを知るべし。千里の外應ずるにあらずや。もとより聖人の誠には及ばねども、心事明白にして一毫の疑なき事を、天下の人皆しる故に、一たび其言を聞き、一たび其面を見ると其まゝ信服する程に、なにの手もなくなにの造作もなし。是誠の感應にして、恩威智力の及ぶ所にあらず。是をもていふに、『好事門を出でず、惡事千里を行く。』と世話にいへど、これ僻言なるべし。好事、惡事ともに、其實ある事のいづれか千里にゆかざる事あるべき。惡事のみに限るべからず。」(*ママ)


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○ 妖は人より興る

座中ひとり、
「神は聰明正直なるものにて至誠の感應はさもあるべき事にて候。然るに、昔より妖怪不正の事ども世に流布し侍る。是もその理ある事にや。」
といふに、
「鬼神は天地の功用二氣の良能といへば、勿論正理より出でたる事なれども、人の本性惡なくして、氣質におちては善惡あるごとく、しんも人世に降つては、正しきあり正しからざるあり。其子細は、陰陽五行〔木火土金水〕の氣の四時に流行するは、天地の正理にて、不正なけれども其氣兩間に游散紛擾して、いつとなく風寒暑濕をなすには、おのづから不正の氣もありて、人に感ずるにてしるべし。されば天地の間、この氣の往來にあらざるはなし。正氣をもて感ずれば、正氣應じ、邪氣をもて感ずれば、邪氣應ず。但正邪ともに二氣の感應より出づれば、邪氣の感とても神にあらずといふべからず。夫正氣の感は、大小となく精誠の所致にあらぬはなし。大事にていはゞ、高宗の良弼(*良弼はすぐれた輔弼の臣。「殷の高宗は肖像をもて賢相を得ること尚書に歴然たり。」〔『先哲像伝』〕)を感じ、周公金縢きんとう(*原文「金滕」。金縢は書経の篇名。)を感じ、小事にていはゞ、鄒衍(*■(馬+芻:すう::大漢和44928)衍とも。戦国時代の思想家。陰陽五行説を作る。)が六月の霜を感じ、韓愈が惡溪のわにを感ずる、其事は異なれども、同じく精誠の感にして、怪むにたらず。前年眞西山の集を見侍るに、ある民家の女子、父の疾を憂へて、夜になれば天に向つて身をもて代らんと祷りしに、その誠感じてやありけん、一夜群鵲ぐんじやくにはかに遶飛噪とびさわぎし程に、仰いで空中を(目偏+詆の旁:ほう::大漢和23241)れば、大星三ツえふ(火偏+華:よう:光り輝く:大漢和19390)よく(火偏+c:いく:光り輝く:大漢和19207)(*「よういく」)〔ひかりかゞやく貌〕として月のごとくえん(木偏+閻:えん::大漢和15845)えい〔のきとたるきと〕の間を照しけるが、翌日より父の疾(病垂/膠の旁:ちゅう::大漢和22453)えけり。西山郡守として、其事をまのあたり見聞けんもんせしまゝ、其閭を榜表はうへう〔立札に書記すこと〕して懿孝坊いかうばうとし、記を作りて其事をくはしく著されける。是等はことにたしかなる事にて、其感いちじるしといふべし。
然るに衰世に及びて、人心正しからねば、大かた邪氣の感のみにて、それより妖怪を生ずるなるべし。もとより怪力亂神くわいりよくらんしんは聖人の語り給はぬ事なれども、其理を窮むるは格物の一端なれば、諸君のために申侍るべし。左傳に、妖を魯の申繻しんじゆが論じて、『人之所忌、其氣■(陷の旁+炎:::大漢和19395)以取之。妖由人興也。』(*「人の忌むところ、その氣■(陷の旁+炎:::大漢和19395)〔きえん〕もつてこれを取る。妖、人によつて興るなり。」)といへり。よく物理に通ずる言といふべし。ほのほ(陷の旁+炎:::大漢和19395)は火の未盛して進退するとあれば、人の氣にても斯くの如し。すべて人の忌みおそるゝ所は、世話に恐しき物の見たさといふやうに、さながら心に忘れえぬほどに、思想にひかれて火のかつえかつ消ゆるやうに、あると見つなしと見つして、かくしてやまねば、氣うかれて我にもあらずなりぬる程に、邪氣ひまに乘じて、幻に形象をさへ生じぬれば、さま\〃/に妖をなし怪をなすぞかし。齊侯の彭生を見、鄭人の伯有を見るの類是なり。すべて氣■(陷の旁+炎:::大漢和19395)の所にて、正氣の感には絶えてなき事なり。唐宋小説の書に、洞庭湖のほとりに水神の祠あり。大湖を渡る人は、是に水難をのがるゝやうに祷る事になんありける。ある賈人あきびと毎年大湖をわたる程に、その祠をふかく信じて、往來ゆききに必賽祀さいしせしが、ある年湖上にて風に遇ひて船破れて、つひに溺死しけり。其子湖邊に到り、父の死を悲しみつゝ怨悔する餘りに、『わが父此祠を多年信仰して、祭奠聊か懈らざりしに、冥助なかりしこそ遺恨なれ。明日は必ず此祠をかん。』と思ひきはめていねたりし其夜の夢に、水神ふかく恐るゝけしきにて、『汝わが罪をゆるさば、湖上にて樂を奏して、其恩を報ずべし。さればとてわれ祠をやかるるを恐るゝにあらず、又汝が怒氣のいきほひを恐るゝにもあらず。唯心のそこに必ず焚かんと決斷したる一念、我にこたへて敵しがたき程にかく謝する。』といひけるとぞ。もとより齊東の野語(*道理の分からない田舎者の言葉)、信ずるにたらぬ事なれども、神は決行におそるゝといふ事、道理ある事なり。もし此人怒の心ゆくまゝに、やかんと思ひながら、その氣■(陷の旁+炎:::大漢和19395)にして、燒くともやかぬとも決せず、其氣進退せば、やがて神にけおされて、反て祟を受くべし。
むかし駿府〔今の靜岡〕の御城に、うは狐といひ傳へし狐あり。人是に手巾てのごひをあたふれば、それをかぶりて舞ひしが、聲ばかりして形は見えず。たゞ手巾空に飜轉ほんてんして廻舞のやう〔めぐりひるがへるさま〕を見せし程に、人々興に入りけり。人手巾をあたふる時に、受取る形は見えねども、もたる手をものゝすりて通るやうに覺えて、其まゝ取りてゆきける。若き人々わざと渡さじとあらがふに、なにと堅く持ちても、とられぬといふ事なしと語るを、大久保彦左衞門聞きて、
『我はとられじ。』
とて、手巾をもちて、
『これとれ。』
といふに取得ず。さていふは、
『さても無分別の人よ。あなおそろし。』
とて逃げさりぬとぞ。彦左衞門は、手に覺のある時に、わが手共にきりて落さんと思ひつめけるを、狐さとりしなり。
されば武士の心剛にして一筋に直なるさへ、其氣■(陷の旁+炎:::大漢和19395)になき程に、狐も妖をなしえず。まいて正人君子においてをや。本より邪は正に敵せねば、正氣にあうては、氷の日にむかうて忽に消ゆるがごとし。西域の妖僧、傅毅を祈り殺すとて自から暴死し、武三思ぶさんしが妾、狄仁傑(*唐高宗の名臣)にあうて藝を施しえず畏縮せしにて知るべし。夫につきても、世に正人君子ともしき故に、邪氣おのがじし威福(*威力で脅したり、恩を着せて従わせること。)をなすこそ悲しけれ。しかのみならず、世擧りて宮觀の淫祠(*原文「■(三水+遙の旁::字喃〔チューノム〕:大漢和60001)祠」)をあがめ、浮屠の邪法を信じて、あゆみをはこび、貨を費さざるはなし。もとより正體もなき事なれども、もののゆるみながらも、形あれば其なりに影あるやうに、深く信向する心から、不思議と見ゆることもあれば、いよ\/これに惑ひて、正理を失ふにてぞありける。ともある事には、こゝの神かしこの佛とて、みだりに靈驗ありと稱しつつ、いろ\/虚誕〔うそいつはり〕なる事を造作ざうさして、世を誣ひ民を欺く程に、人群聚むらがりあつまりて市をなし、錢財せんざい積んで山をなす。其人は國家の大賊、其事は天下の大弊といふべし。」(*ママ)


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○ 飛騨やまの天狗

しばらくありて、
「鬼神の感應は氣の往來なり。わづか氣に渉れば、聲色に顯はるゝを待たずして、鬼神ははやとくにしるものにて侍る。こゝに寂然不動にして、毫末がうばつも氣をまじへず、鬼神もいろひ得ざる〔干渉し得ざる〕所あり。是わが本分のある所にて候へば、はこゝをさして、我と申したく候。謝靈運が詩に、『達人貴2自我1。』(*「達人は自我を貴〔たつと〕ぶ。」)といひしは、暗に申しあて候へども、その我といふもの、中々靈運ごときが知る事にてはなく候。『天且不違。况於人乎。况於2鬼神1乎。』(*「天すらかつ違はず。いはんや人においてをや。いはんや鬼神においてをや。」)とあるも、人はいふに及ばず、天地鬼神も我にたがひえざる事をいふなり。三代の聖人、この我をもて天下の上に立ちて、『天下これ我のみあり。たれか我志に違ふ事あらむ。』といへり。後世の賢人、この我をもて萬人の外に立ちて、『千萬人の中といへども、たゞ我ある事を知る。』といへり。されば我といふもののあり所を尋ぬるに、一念未生の時、本然ほんぜん未發のたい是なり。君子こゝを存養してそこなはねば、天地も我よりくらゐし、萬物も我よりいくし、鬼神も我より感應す。なに事か我によらぬ事あるべき。邵康節〔宋の高士〕(*邵雍。北宋の自然哲学者。に影響を与える。)の、『一念起る事なければ、鬼神もしる事なし。我によらずして誰にかよらん。』といへるは、これをいふ也。
それに付きて、あやしき事ながら、加賀にありし時人の語りしは、北國ほくこくにいやしきたくみの、飛騨山に行きて、杉を採りてへぎて生業なりはひとする者ありき。ある時山中に杉をへぎて居けるに、ひとりの山伏の鼻の隆きが來りしを見て、心に、
『不思議の〔原本「の」の字なし。今假に補ふ。〕ものかな。天狗にや。』
と思ふに、
『汝はなにとて我を天狗とおもふぞ。』
といふ。
『はやく去れかし。』
とおもふに、
『汝はなど我をいとひて去れかしとおもふぞ。』
といふ。何にても心におもへば、はやしりてとがむる程に、後は是非なく、そのへぎし板のながくはへたるをつかねたわめて、繩して括らむとしけるに、心ならず取り外して板はねける程に、其板の末、天狗の鼻にしたたかに當りしかば、
『汝は心ねの知れぬものかな。恐し。』
とて行きさりぬるとぞ。
板のはねけるは思慮より出でざる事なれば、こゝには天狗も及ばぬにこそ。
是にてしるべし。念慮なき所は、鬼神も窺ひえざるになんありける。常人多くは、心に閑思雜慮常に絶ゆる事なく、何事も思慮作爲の中より出づる程に、氣にひかれ物にうばはれて、我といふ物自立じりふする事あたはず。
さればこの我を失はじとならば、心源存養の工夫をなすべし。心源存養の工夫は、私欲なきを本とす。この心私欲だになければ、靜虚動直とて、何事も思慮作爲をからず、たゞ靜虚の中より、道理のまゝに眞直まつすぐに出づる程に、萬物の先に定まりて萬物の後に墮つる事なく、鬼神を制して鬼神に制せらるゝ事なし。無聲無(*「聲も無く臭〔か〕も無く」)して天下の大本たいほんとなる、無體むていてい〔形なくして然も形あるに等しきこと〕ともいふべし。無思無(*「思ひ無く爲すことも無く」)して、萬化ばんくわ大柄たいへい〔萬の變化のおほもと〕となる、不御の權〔制御を加へずして自ら他を從はしむる權なり。〕ともいふべし。老子の『象2帝之先1。』(*「帝〔てい〕の先に象〔かたど〕れり。」)といひ、釋氏の『唯我獨尊』といふも、此所をすこし見つくるにやあらぬ。されど彼は人倫をすて事物を外にし、たゞ空寂を事とすれば、人欲を制すといへど、天地を明かにするに足らず。一心を治むといへど、萬事をさいするにたらず。其たいはありと見えて其用なし。なにをもて大本とし、なにをもて大柄とすべき。大に似て大に似ざる事なるべし。


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○ 年内の立春

されば中庸にいはゆる、『其不(*そのみざる)いましめ愼み、其不聞をおそれ懼る。』とは、誠の本源、かの何事もおはしまさぬところを持養するの功夫にて、さて隱微の中、一念の起るを省察して、その本源の地を亂らぬやうにするこそ、又簡要にて侍る。これは中庸を講ぜし時にくはしく申したる事にて侍れば、今更いふに及ばず。それに、『見ぬ京物語』〔知らざることを知れる如くよそほひ話す譬〕に似候へ共、倭歌やまとうたの意に引合せて申候べし。古今集〔我國最初の勅撰歌集〕の卷頭にのする在原元方の歌、もとより歌のさまも手づよく力あるやうに覺え侍る。二十一代集をはじめ、家々の集にも、春の卷頭とするを見るに、大方は空の霞、谷の鶯など、春の景色をもて春たつ事をよめり。それは春の始をいふには、第二段に落つるなるべし。いまだ冬ふかく何のけしきも見えぬに、氣色をはなれてよまんは、なにをか言葉ことばの種とせむ。いと難かるべきわざなるに、「去年とやいはん今年とやいはん」とは、なにの造作もなく、さりとは面白く取りなされたり。祖父〔在原業平〕にもはぢざる作者といふべし。
されどが此歌を取侍るは、詞の面白きといふにもあらず、これをわが修行にたとふるに、我心に人しらず一念のきざすは、獨居の時暗處の事なれば、なにのけしきも見えず、いはゞ年の内に春の來るに同じ。一念の萌すところに、既に善惡のわかれあれば、年の内に去年と今年のわかるゝに同じ。されば『千里のあやまりも毫釐のたがひよりおこる。』禮記「君子愼始差。若毫釐謬、以2千里1。」〕といふも、こゝにある事なり。濂溪先生〔宋の大儒周敦頤の號〕の、『幾は善惡。』といへるも此事なり。是非のさかひ・善惡の關と知るべし。されば目をはなたず此關を守りて、われとわが心に『善とやいはん惡とやいはん』と尋ねつゝ、一筋に惡をさり善に向ふこそ、我儒の修行の本とする事なれ。もし此所に心ゆるして、色にいで聲にあらはれて始めてさとらば、たゞ手の延びたるといふばかりにもあらず。たとへ勉強すとも、力をもちふるに難かるべし。されば、元方の歌、詞のをかしきのみにもあらず、聖學のふかきにさへたとへつべし。常に打吟じて、我心のかへりみとするに助なきにあらず。」(*ママ)


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○ 袖ひぢての歌

座中ひとり和歌を好める人ありしが、
「只今迄、元方の歌たれも口馴れたる事に候へども、人心善惡の幾にしてこゝろ得べき事とは思ひよる人なく候に、御物語にて始めて承りて候。」
といへば、
古今集は外の集とちがひ、其歌いづれも誠實に候故、おのづから道理にかよはして見るべくこそ候へ。右の元方の歌にさし繼ぎて、貫之〔紀氏。古今集の撰者。〕の自らよみたる『袖ひぢて』の歌をのせしも、月令げつれいに、孟春のはじめに、『東風解凍。』(*「東風凍りを解く。」)とあるにかなひて、心ありて見え侍る。其故は、春風のこほりをとくこそ、陽和やうくわの至る最初のしるしにて侍れ。かの霞・鶯などやうの事は、是程に的實てきじつには覺え侍らず。されど『春風の凍をとく。』といふばかりにては、いかによみかなへたりとも、さまで餘情よせいあるまじきに、いにし歳の春過ぎての後より夏秋冬をへし事を、『袖ひぢて結びし水のこほれるを』と、一首の中に詠みこめて、さて『春たつけふの風やとくらむ』と、今又春にかへるこゝろにて結びし事、千鈞の重さある物から、歌にたけありて、餘情かぎりなきものなり。此外の歌も、古今集にのせしは、いづれも言葉ことばすなほにて、なにの手もなきやうにて、打吟ずれば、そのあぢはひおのづから深長にして、言外にあるやうに覺え侍る。詩にていはゞ、漢魏の樂府・古詩の如し。『詩は盛唐。』といへど、漢魏の詩は、實情より發して、おのづから巧拙をはなれて見ゆ。更に同じものにあらず。古今集の歌もしかなり。その言葉すがた、後の作者の及ぶべきことがらとは見えず。是をおもふに、さして撰者よみ人のとがにもあらず。『文章は時と上下す。』とあれば、時代の盛衰につれてかくあるにこそ。いかゞ思ひ給へる。」
といへば、
の仰せられやうちがふまじく覺え侍る。歌人の論も大かたさにてこそ候へ。さて右の貫之が歌に付いて思ひ出したる事侍る。天文てんもん(*ママ)のころかとよ、織田備後守(*信長か。後出。)、一族彦五郎と不和になりて、爭戰に及びたるを、備後守が家老平手中務といひし者、『一族の不和なるは、敵國の侮を受くるものなり。』とて、和睦の事を謀りしが、事とゝのひしかば、彦三郎が家老坂井、河尻などいふ者のもとへ、中務よろこびの文を遣すとて、其文のはしに、貫之が『袖ひぢて』の歌をかきつけけるとぞ。親族のちなみは、袖ひぢて結びしやうになれ睦じきものの、不和なるは是氷れるにて、今又和睦してもとへかへるを、『春たつけふの風やとくらん』とよせけるにて、かゝる事によそへても、こゝろ深く思ひ長く、言葉さへたりて、誠にたけき武夫もののふの心をも和ぎぬらん(*古今集仮名序に拠る表現)とおぼえ侍る。中務かしこくも思ひよりぬるにて候。をうはいかゞ思ひ給ふにや。」
打ちうなづきて、
「昔春秋の世〔周末六國對立の時代〕に、列國の士大夫宴會の時は、必ず三百篇の詩(*詩経の詩)を歌ひて、互に志をあらはしけり。其後このこと世に絶えて、魏晋よりこのかた、たゞ自ら詩を賦するを專にし、巧拙を爭ふ事になりけるこそなげかしけれ。やまと歌もさにてこそ侍れ。むかしより歌を好む人をみるに、たゞよまんとのみするなるべし。必ずしも自らよまずとも、萬葉古今などの歌を、時にあたりて思ひよりて、打吟じたらむは、心もやすらかに、あはれも深かるべし。
白河院、五月のころ淀に行幸みゆきの時、曉になる程に、子規ほとゝぎすほのかに鳴きて過ぎければ、俊頼しゆんらい(*源俊頼)など一首詠ぜまほしく覺えしに、女房の舟中にて、
『淀のわたりのまだ夜ふかきに』拾遺集「何方に鳴きて行くらむ郭公よどのわたりのまだ夜ふかきに」(壬生忠見)〕
と打吟じたるは、中々あたらしくよみたるには、まさりて聞えけるよしいひ傳へ侍る。されど是は、ほとゝぎすの歌をほとゝぎすに思ひよりたるなり。作者の心はそれとはなきを、平手が『袖ひぢて』の歌を引きしやうに、その意のかよふをとりて、外の事に引合せたらんは、すぐに比興〔他の事物に托してうち興ずること〕のこゝろにもかなひて、ことに感情ありてきこえ侍る。周人の三百篇の詩を歌ひしも、みなかくの如し。いと優しき事なり。その平手、後に信長をいさめかねて自殺しけり。その諫書を見るに、學問ありて義理のあらましをしる人とおしはからる。をしき事なり。古より忠臣義士の不幸ほど痛ましき事はなし。」
とて、「長使2英雄涙滿1襟。」(*「長く英雄をして涙襟〔きん〕に滿たしむ。」)といふ句を口ずさびけるにぞ、座中の人々感じあへりき。


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○ 諸道(、)わざよりいる

ある時、講會やゝおこたりしに、日を經て諸客しよかく來會せしが、
「此ほどは世事にさへられて懈怠けだいがちなり。」
とて、悔みけるを、聞きて、
「世事にさへられて懈怠するといふは、大かた學者の常語にて候。此をはじめ、さやうに申す事にて候へども、畢竟おのが志のたゝぬ故にて候を、それとはこゝろ得ずして、世事に咎をおふする〔負はしむる〕にて侍る。但世事にさへられて書をよむに懈るは、さもあるべし。それは一説ある事なり。
すべて學といふは、聖賢の道をつとめ習ふ事なり。そのつとめ習ふに、致知あり、力行りきかうあり。
されど、其理をしらねば行はれず。其理をしるは書に限らねども、聖賢の書を第一とする程に、學といへば致知を主とし、致知といへば讀書とくしよを主とす。この故に、大學に、自修も學なれども、學をもて自修に對しぬれば、その學といふは、致知の事なり。子夏も、『仕而優則學。』(*「仕へて優なればすなはち學ぶ。」)といへり。仕ふるも學に外ならねども、仕へていとまあれば學ぶとあれば、その學といふは、讀書の類なるべし。又子路、『何必讀書然後爲學。』(*「何ぞ必ずしも書を讀んでしかして後に學とせん。」)といへるを見れば、そのかみ孔門の學といふは、讀書を專とすると知られ侍る。
しかいへど、學は讀書に限るべからず。書を讀みて義理を講じ、事物に即きて其理を窮る。同じく致知の事にして、力行の始なり。もとより聖人の道は、日用事物を外にせねば、父母につかへ君につかうまつり、朋友に交るより、其外世にあらゆるもろ\/の應接に至るまで、一事一物、いづれか致知の道にあらざる。一動一靜、いづれか力行の時にあらざる。善はその善なる理をきはめ、惡はその惡なる理をきはめなば、世事善惡ともに、皆わが學中の事なり。いかで世事にさへられて懈るといふ事あるべき。
加賀にありし時、大坂よりひとりの後生〔少年〕北地に寓居するあり。相見しやうけんしたきよし紹介していひこしけるが、他日が敝廬を問ひて談論時を移しけるに、
『近き頃は世事多くして、久しく廢學なんしける。』
といひしかば、其人、
『學は世事のほかなる物にや。』
といひしに、意得て、其失言を謝しき。が意は讀書を廢する事なるを、ふと廢學といひたる故、彼聞咎めけるなり。されば天下の事に即きて其理をきはめて、吾心の知を致すは、内外を合するの道といふべし。
しかるに陽明良知の學をする人、朱子格物の説を譏りて、
『朱學の格物、よき事にもせよ、世の居官務(*「官に居り職を務め」)日夜給仕する人などは、何の暇ありて天下の理をきはむべき。』
と難じけるよし聞き侍る。是朱子格物の説をあしく意得て、先一間時かんじを得て事物の理を窮めて、後に其事をするとおもへるにかあらん。
朱子の格物といふはさにはあらず。親に事ふる上にて、その事々に即きて孝の理をきはめ、君に事ふる上にて、其事々に即きて忠の理をきはめ、昨日情のいまだ至らざるを今日しり、今日事のいまだつくさゞるを明日しる。是格物致知の學也。居官任職がごときも、必ず其事をつとむる上にて當否を處し、事空じくうを察し、日々に職事しよくじ〔職務とする事柄〕に熟し、誠實に進む。是則格物致知なり。もし居官任職ものは窮理のいとまなしといはゞ、嚮にが世事故に廢學するといふに同じかるべし。されば事に大小ありて理に大小なければ、時となく所となく格物の地にあらざるはなかるべし。さりぎらひ(*去嫌=好き嫌い・選り好み)すべきにあらず。よりて天下の物に即きて其理をきはむとはいふなり。さりとて先後せんこう緩急の序はあるべき事なり。日用親切〔身に關係の深きこと〕の事をすてゝ、一草一木の理をきはめよといふにはあらず。
今良知の説手短く本づきやすきやうにきこゆれども、聖人の道はさにはあらず。およそ天下の道、なににてもわざより入らざるはなし。にいへらずや。『天生2烝民1、有物有則。』(*「天烝民を生ず。物有り(「物有れば」か。)則〔のり〕有り。」)物はわざなり。則は法なり。たとへば六藝〔禮、樂、射、御、書、數〕を習ふが如し。其わざにより、其法によらずして、吾心の知にて其理をきはめんとせば、何として其道をつくすべきや。聖人の道もかくの如し。吾心に不(*「學びず(學ばず)」)してしるの良知ありといふとも、事物に即きてその知を致さずしては、未(*「いまだ鍛へざる」)のかねのごとし。昆吾こんごの鐵〔昆吾は山名。「昆吾の劍西戎に出づ。玉を切ること泥を切るが如し。」と列子に見えたり。〕といふとも、あらがねにては鋭利の用をなさじ。未(*「いまだ磨かざる」)の玉のごとし。荊山のはく〔荊山は山名。和氏の璧を産したる地なり。璞はあらたま。〕といふとも、あら玉にては、温潤の色を發せじ。この理をよく思ふべし。
今孝にていはゞ、聖人門人の孝を問ふに答へ給ふを見給へ。孟懿子には『無違。』(*「違ふこと無かれ。」)を宣ひ、孟武伯には『愼疾。』(*「疾を愼む。」)をのたまひ、子游には『不敬。』(*「敬はざる」)をいましめ給ひ、子夏には『色難し。』を詠じ給ふ。此四子親を敬愛するの心あらざるとにはあらず。たゞ事親事(*「親〔しん〕に事へ長に事ふる」)の上に付いて、或はこれに得て彼に得ず、又は愛勝つて敬たらず、敬勝つて愛たらざるゆゑに、かく宣ふにてありける。
仁を問ふに答へ給ふも是に同じ。顔子には『克己復禮こくきふくれい。』を告給ひしが、克己復禮、必ず日用事物に即いて其理をこゝろむる事なれば、視聽してい言動をもて宣へり。仲弓には『敬恕。』を告給ひしが、敬恕も亦日用事物の上にて驗むる事なれば、『出門使民。』(*「門を出で民を使ふ。」)をもて宣へり。其外も推してしるべし。
もし六經〔詩、書、易、春秋、禮、樂の六經書〕の教も良知にて、すむ事にしあらば、は『思無邪。』(*「思ひ邪無し。」)にてすみ、『毋敬。』(*「敬せざることなかれ。」)にてすみ、は『審變識時。』(*「變を審かにし、時を識る。」)にてすみ、春秋は『尊周抑夷。』(*「周を尊〔たつと〕み、夷を抑ふ。」)にてすみなまし。何によりてに國風・雅・頌の情をいひ、經禮けいれい曲禮きよくれい(*ママ)の目をわかち、に陰陽卦爻くわかうの變をつくし、春秋に朝聘會盟の事を備ふべきや。
この故に六經の教は、天下にあらゆる事物の理を明かにするにあり。事物の理明かならざる事なければ、吾心の知つくさゞる事なし。わが心の知つくさゞる事なければ、是をもて身を■(手偏+僉:れん・けん:巡察する:大漢和12779)するに、節文せつぶん(*節度を保ち、ほどよい粉飾を施すこと。)愼まざる事なし。然ればのいふ所の致知力行は、則孔門の博文約禮にあらずしてなにぞ。それに致知格物の説を義外とて譏るは、たゞ罪をに得るのみにあらず。實に孔門の教に違ふなるべし。」


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○ 釋寂室の秘訣

ある日講はてゝ、もの語りに、
「昔足利家治世の季に(*ママ)寂室〔名は元光。佛燈大師に師事し、元應二年(*1320年)入唐、七年にして歸る。圓應禪師の號を授けらる。貞治六年(*1367年)寂。年七十八。〕といひける僧あり。わかきころ大明たいみんに渡海し、東歸の後、僧侶歸依せしが、其徒に語つていふは、
『吾に緊要の一訣あり。秘密の事なれども汝に付すべし。汝毎日晨にきて、まづ手を引いて頭顱づろで、又目をもて袈裟を顧て、心に念じ口にいふべし。「吾はこれ釋迦文佛もんぶつ(*釈迦牟尼と同じ。)の法孫なり。たとひ命をおとすとも、比丘〔僧侶〕の模範を失はじ。」と。是第一の覺悟なり。』
とぞ。
寂室異端の徒ながら、いと殊勝なる事なり。儒家じゆけにこれ程の志操ある人をきかず。大方儒者の模範を失ひて、反つて釋氏に阿同し〔おもねり雷同する〕、彼が下風に立つ事をしらず。
むかし尹和靖ゐんくわせいの踐履〔道をふみ行ふこと〕の嚴整なるをば僧も見て感じ、
儒家じゆかにいふ周孔も是に過じ。』
といひ、朱文公(*朱子の高風を圓悟〔人名。僧〕仰慕し、其梅花の詩を和して、「獨憐萬木飄零後、屹立風霜慘淡中。」(*「獨り憐れむ萬木飄零〔へうれい〕の後、屹立〔こつりつ〕す風霜慘淡の中〔うち〕。」)となむいひける。二賢は眞儒にて、異端を絶れしかども、彼さへ歸向せしぞかし。
今世の儒者をみるに、武人俗吏にも貶議せらるれば、いかで人の敬信を得べきや。甚しきものは、戈をさかしまにして聖言を駁しを譏る者も、近來世に多く出來侍る。儒教の振はざるこそ理にて候。又近來武士の風の衰弱になるも、人々多くは武道に心懸薄きが所致にて候。
北地にひとりのふるき武士ありしが、子弟に訓へて、
『汝等すでに兩刀を佩びて武士と名乘りぬる上は、朝夕武名をけがさじとおもふべし。こゝに一つの口傳あり。汝等門外に出る事あらば、家のしきみまた(足偏+臘の旁:りょう::大漢和37962)ぐ時に、必ず氣をつけて、再び家に歸らじと覺悟すべし。此覺悟なくば、外にて不慮のことあらん時に心おくれしなん。』
とぞいひし。寂室がいふ所と、道は替れども其意趣は同じ事なり。さればいづれの道にも、心懸ふかき人は、かくなんありける。但其心懸けて忘れじとするは何事ぞといふに、釋氏は五戒を破らず、聲利に近づかざるをいひ、武士は武道に不覺をとらざるをいふにやあらん。それは簡約〔てみじか〕にて紛るゝことなく、心懸くるにやすかるべし。吾儒の道は百行をぬれば、何をか題目として心懸くべき。常立居につけて思ひ出つゝ、忘れぬ事三あり。其三は、父の恩・君の恩・聖人の恩なり。欒共子はんきようし(*ママ)ことに、
『先王之制、民生2於三1。事之如一。惟其所在、則致死焉。父生之、君養之、師教之。』(*「先王の制、民は三〔みつ〕に生ず。これに事ふること一〔いつ〕のごとし。たゞその在るところは、すなはち死を致す。父はこれを生〔せい〕し、君はこれを養ひ、師はこれを教ふ。」)
といへり。是欒共子が始ていひ出るにあらず。先王の大訓にして、古今の通誼〔古今に通じて守るべきみち〕なり。中に、師といふには同異あり。道徳の師あり、術業の師〔一術一業を教ふる師〕あり。古人も、『人師は得がたく、經師は得やすし。』といへば、まいて後世に至りては、道徳の師は得がたく、大かた術業の師なれば、君父の恩に竝ぶべきは稀なるべし。たゞ後世に教をたれて、我人依頼し、其恩深長なるは聖人なり。夫報本不(*「本を報い恩を忘れざる」)は、人道の大端だいたん〔發端〕なり。されば、父母はわが出來し本なり。我を生じて我を育す。一毛一髪までも、父母の遺體にして、遺愛のある所にあらざるはなし。いかゞして忘るべき。さて君恩に浴して、不餓不(*「餓ゑず寒からず」)、妻子を養ひ、親族を賑はす。すべて養生送(*「生を養ひ死を送る」)の道、世話にいふ箸一本迄も、君恩にあらざる事やある。いかゞして忘るべき。されど、飽まで食し、あたゝかに衣て、君父につかうまつる道をもしらずは、禽獸に近かるべし。幸に聖人の教によりて、義理のあらましをもしり、禽獸に免がるゝは、これ聖人の大恩にあらずや。いかゞして忘るべき。
およそ人として、常に此三を忘れずば、天理おのづからほろびずして、本心を失ふに至らざるべし。衆善〔多くのよき事〕のあつまる所ともいふべし。は常に此三を忘れずおもひ出でて、身にしむばかりに覺え侍る。家學の要訣とも申しつべし。今人家の子弟を見るに、多くは我身の樂をのみ思うて、君父の恩を思ひしる心なきよりして、言行に愼みなく、放逸に流れ侍る。又老子碩學と稱する人も、聖人の恩を身におもひしらざるが故に、自ら高ぶり、名聞みやうもん〔世のきこえ、名譽〕を務めて、篤實なる方は露殘り侍らず。もしこのが家の要訣を授けて内省だいせい(*ママ)せしめば、陽浮の氣を降伏がうふくして、誠實にすゝむのなかだちともなりぬべし。されど、彼が師といひ弟子でしといふ者、親切のをしへを聞きては、嘲笑うて頭痛すといふもあり、惡心をしん〔心地惡しくなること〕すといふもありと、人の語りしが、が今いふ説をきかば、さこそ嘔吐もしぬべし。もし世に篤學の人しあらば、老耄の瞽言〔おいぼれの事情にくらきことば〕にあらざる事をしらんかし。(」)

(*卷一 <了>)

 序(藤原明遠)    目録  巻一(仁集)  巻二(義集)  巻三(礼集)  巻四(智集)  巻五(信集)
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