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翁の文

富永仲基
(關儀一郎編纂『解説部 第二』 日本儒林叢書 東洋圖書刊行會 1929.9.25
※ 〔 〕に節番号を付した。(*入力者注記)
※ 序の送り仮名、本文ルビはNDLデジタルコレクション公開本を参照した。
※ NDL本は、内藤湖南が複製し、湖南の跋と亀田次郎(吟風)の識語を合綴する。
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  翁の文序(林師良)   序(全機居士)   翁之文序(伴礼玄幹)   序(伴〔富永〕仲基)   本文   跋(内藤湖南)   識語(亀田吟風)
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翁の文序

過しころ伊加須利のみや(*坐摩宮)の邊に翁ありけり。其姓名はしらず。ある人のいへるをきけば、才ありかしこく、常に夜學を好て、ねよとの鐘はひゞくにも、机によこおれて(*丸くなって)、小夜ふくるも知らず、あかつきの雁の聲きくなり。文を友として隣の人さへしらずしもありしとかや。コある人には必ことばありと、富永の伴のなにがし、時雨ならでまた問ものもなき戸ぼそを折節に音信(*おとづれ)て、きける物がたりを書あつめ、題して翁の文と名づく。やつがれが家居軒ちかければ、みよとて示されけるを、所も渡邊(*ますほの薄の故事を伝えたという渡辺聖)の翁の文なれば、登連(*登蓮法師)がふるごともおもひ出られて、とりあへずみれば、誠に印度の教は、薪つきて消る火のことはり(*薪尽火滅)、月ならぬ指(*指月の譬)を拂ひ、聖のみちは、大本位育(*「中庸」に説く中和の道)の極にねざし、文國の文を嫌ひ、吾國の~のいにしへをあふぎ、後人の附會をしりぞけ、三輪川のCき唐衣のこと(*「発心集」等に伝える玄賓僧都の逸話)までもしれりける人ならでは、此文のおもむきは、えもいひけむやとおしはからるれ。めづらしき文なれ共、かんな(*仮字)に書つゞりたれば、人のなをざりに見過さむ事をおしくて、師良(*林師良)の老のくりごとに、みじかき筆してつたなく書添る事しかり。
延享改元(*一七四四)~無月の比

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(序)

夫三教とは何の道ぞや、誠の道とは何の道ぞや。此翁何邊の事を觧してか、好肉上に瘡を剜る(*「無門関」)や。まことに道の不明、なんぞたゞ千百年のみならんや。明と不明と摠に烏有に屬す。しかるに二三の良友此翁を讃歎してやまず。又蛇足をそへられたるはなんぞや。余もとより翁の名もしらず形もみねば、何を讃歎すべきよしをしらず。唯吾友子仲(*富永仲基の字)の従上來不傳の妙道(*釈迦以来伝えられた不立文字の教え)をつぎて、人の爲に老婆心切なるをみるのみ。しからば子仲と翁と趣同じきや異なるや。ことならば、なんぞ翁にかたぬぎして、家の教にもなすべきといはんや。もし同じといはゞ、子仲に辜負す(*背く)べし。世人這裡におゐて一隻眼を具して、大黄の甘をかみ得ば、子仲をしること、おもひ半に過む。是を子仲の序といひ、これをおきなの序といふ。もし妙道をしらんとせば、天邊の月に問取せよ(*「碧巖録」)
延享甲子(*延享元年)十月望
浪華全機居士 (*川井立牧)

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翁之文序

~儒佛焉。各敷其教、以導其昏墊(*苦シミ、使皆有昭明ニスルヿ也。而シテ風移俗易、敦龎(*高く厚い)純固、男女底(*たのしみをいたし。「孟子」)、説亦歎息シテ、史氏亦保シテ、而後世貌スル亦奬。至故家收。無賢不肖、皆是矣。今也知叟决起シテ、一タビ乎斯。又將使ント一變スルヿ。不リキフノ之至於斯也、出於其類、拔於其萃、古今道樞一ナラントハ也。今叟與三教、其意豈ナランヤ乎。予有將父之勤、未アラ暇慮。不今或知叟之道、而風移俗易、敦龎純固ニシテ、男女底、説亦共嘆息シテ、史氏亦共ニシテスルヿ、若三教ルヤ乎否、可ンヤ堅白乎否。方之世、鮮スル、而シテ貌與不貌、所也。吾觀ルニ知叟之言、天下必ラン而奬スル。一タビケバ、則使民也善敗自ニシテ、始・衷・終皆無上レ愆。惟吾黨之微言、有ヒニ(*大に)スルヿ於天下者也。嗚呼、有レバ斯民、有斯道。由之道、易之俗、亦キノ之有ラン。其唯叟乎。獨斯道ルヿ夭閼スル而已。不在昔三教之起、亦如ナルヤ乎否。惟三年春三月、郷人將知叟之言、耀ニシテ天下、以ント之紀也。令一レ言。言之諄〻タル、是予不才ナリ。雖ヘドモ不才ナリト、今也於斯道フスルノハ、唯叟吾有ルカ也歟。
賀古  伴禮玄幹 撰


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翁の文

(端書)

此文は、あるおきなのかきたるものなりとて、朋友ほうゆうもとよりかして見せたる也。かゝるすえの世とはいへど、かしこき翁もありけり。三教さんきやうの道のほかに、又まことの道といふことを、主張しゆちやうして説出ときいでたり。げに此言このことばのまゝにしたがおこなはむに、又なにあやまちは、あるまじきものをと、仲基なかもとははや此翁に肩ぬぎして思はるゝなり。翁の名はなにとかいふと問へど、しれずとてつげざれば、よしなし。いにしへのいはゆる、隱居いんきよしてことほしいまゝにするものの、そのたぐひなるべし。吾家わがいへをしえともなし、又人にもつたへむとて、始終はじめをはりみなかきうつしぬ。
元文三年(*一七三八)十一月
伴のなかもと寫す

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〔一〕 今の世に、~儒佛しんじゆぶつの道を三教とて、天竺てんぢくから日本につぽん、三國ならべるものゝやうにおぼへ、あるひはこれを一致いつちともなし、或はこれをたがひ是非ぜひしてあらそふことにもなせり。しかれども道の道といふべき道は、各別かくべちなるものにて、この三教の道は、みな誠の道にかなはざる道也としるべし。いかにとなれば、ぶつは天竺のみち、儒はからの道、くにことなれば、日本の道にあらず。~しん日本にほんの道なれども、ときことなれば、今の世の道にあらず。國ことなりとて、時ことなりとて、道は道にあるべきなれども、道の道といふことばもとは、おこなはるゝより出たることばにて、行はれざる道は、誠の道にあらざれば、此三教の道は、皆今の世の日本に、行れざる道とはいふべきなり。
・右は第一節なり。
〔二〕 佛者ぶつしやものごと天竺をまなびて、をのれをもおさめ(*ママ)、人をも化度けどすれども、はや梵語ぼんごをつかひて説法せつぽうをもなし、人もこれを會淂ゑとくしたるためしはあらず。まして調度てうどより家造やづくりにいたるまで、天竺にひとつもたがはぬやうにせんことは、おもひもよらず。天竺は偏袒へんたん(*肌脱ぎ)して合掌がつしやうするをれいとして、股膝またひざなども露見ろけんするを端正たんせうなりとせり。さればきやうにも、踝膝くはしつ露現ろげん陰馬藏おんまざう(*おんめざう。陰藏)とものせたり。人のかくれ(*陰部)のきたなきをも、あらはしてかくさゞるをよしとす。佛者ぶつしやは皆かゝることをも、はゞからずなすべきなり。
右は第二節なり。
いへどもこれ我語わがごとおひて餘方よはうにずんばC淨しやうじやうならざれおこなはなしあやまちいへどもあらずと我語わがごにおいて餘方よはうにC淨者しやうじやうならばざるをおこなは(*「五分律」)と説たれば、まつた其國そのくに風俗ふうぞくへんじて天竺をまなべと、ぶつもをしゆるにはあらず。しかるに日本の佛者の、諸事しよじ天竺をうつし学ばむとて、この國に不相應ふさうおうなることをのみ行ふものは、皆其道にもあたらぬことなり。おきなはこれをにくみて、嘲弄てうろうをなしたるなり。
〔三〕 又からにては、肉食にくじきおもとすれば、じゆ者は牛羊うしひつじなどをかひおきて、つね料理りやうりすべきなり。その献立こんだても、れい内則だいそくにかきたるを、かんがへてなすべきなり。婚禮こんれいには親迎しんげいをなすべきなり。まつりには、かたしろをおくべきなり。又その衣服いふくにも、深衣しんえ(*しんい。儒者の着る服。)もちひて、かしらには章甫しやうほ(*殷代の冠。儒者の冠とする。)などをきるべきなり。今の身には上下かみしもをきて、かみをなでつけにしたるは、漢のかたちにあらず。もつとも儒者は、唐音とうゐんをつかひて、漢文字からもじもちゆべきなり。唐音とうゐんにもさま〴〵あれば、しう魯國ろこくゐんをまなぶべきなり。漢文字もしなおほければ、古文こもん籀文ちうもん科斗くはと(*蝌蚪。篆文)ぶんなどを用ゆべきなり。
右は第三節也。
して(*基づく、従う)夷狄いてきにおこなふ夷狄いてきを(*「中庸」)ともいひ、又れいしたがふぞくにともいひ、又かたぬぎして裸國らこくに(*「戦国策」)ともいへば、まつたく(*ママ)その國俗こくぞくへんじて、から真似まねをせよと、儒者じゆしやもいふにはあらず。しかるに、日本につぽんの儒者の、諸事しよじ漢の風俗ふうぞくに似せむとて、此國にうとき事のみおこなふものは、又まこと儒道じゆどうにも當らぬ事也。
〔四〕 扨また日本のむかしは、人にむかひて手を四拜しはいするをれいとし、枚手ひらで(*大嘗会の際などに供える器。柏の葉を重ねて作る。)とてかしはの葉にいひをもりてくらひ、には歌をうたひ、なきしのび、喪をのぞきては、川へいではらいをなしたり。~しんまなぶ人は、ヶ樣かやうの事ひとつ〳〵、むかしにたがはぬやうにかんがおこなふべき也。今の世にもちゆる金銀錢きんぎんぜになどいふ物も、もと~代じんだいにはなきものなれば、~しんを學ぶ人は、これをもすてゝ、もちひざるをあたれりとす。又今の衣服いふくも、呉服ごふくとて呉國ごこくよりつたへたるなれば、これをももちひざるをよしとす。又ものいふにも、~代じんだいの古語をよくおぼえて、ちゝをかぞ、はゝをいろは、なんぢををれ、衣服をしらは(*未詳)、蛇をはゝ(*未詳)やまひをあつしれる(*篤しる)など、物事みなことやうにいひて、又その名をも、なにひこ何姫なにひめみことと、皆ことやうにつくべきなり。
右は第四節なり。
ひだりみぎりにする事なかれ、右を左にする事なかれといへば、今の風俗ふうぞくを変じて、太古たいこのやうにせよと、~道もいふにはあらず。然に今の~道の、諸事昔の事を手本てほんとして、あやしくことやうなることのみをするものは、又その道にもあたらぬ事也。野々宮のゝみや宰相公さいしやうこう(*野宮定基か。『定基卿記』『黄白問答』等を著す。)の、今の~道は、皆~事にて、まことの~道にはあらずとの給しとぞ。誠に今の世の道は、皆~事・儒事・佛事のたはぶれごとのみにて、誠の~道・儒道・佛道にはあらざるなり。もし此おきなのふみと、又宰相公のことばなからましかば、仲基なかもともこのこゝろは、つくまじきものとおもはる。
〔五〕 かくこれをいへば、あざけりてきよくりごと(*未詳)するやうにもきこゆれども、その道々を學ばむからは、みなかくあるべき事なりとする也。これをたとへていはゞ、五里十里へだてたる近き國所くにどころの風俗さへ、うつしならふことはかたきものなるに、まして漢天竺からてんぢくのことを日本へまなばむとし、又五年十年すぎたるほどの近き事さへ、おぼえたる人はすくなきものなるに、まして~代のことを今の世にならはんとするものは、皆はなはだなるまじきことの、大におろかなる事どもなり。たとひそれをよく學得まなびゑて、つゆほどもたがはずありとも、人のうべしかりとて、又今の世に會得ゑとくすべきことにもあらず。されば此三教の道は、みな今の世の日本におこなはるべき道の道にはあらず。行はれざる道は道にあらざれば、三教さんきやうはみな誠の道にかなはざる道なりとしるべし。
右は第五節なり。
〔六〕 しからばその誠の道の、今の世の日本にほんに行はるべき道はいかにとならば、たゞものごとそのあたりまへをつとめ、今日のわざを本とし、こゝろをすぐにし、身持みもちをたゞしくし、物いひをしづめ、たちふるまひをつゝしみ、をやあるものは、よくこれにつかふまつり、
おきな自注じちうに云く、六向拜經ろくかうはいきやうを見るべし。もつぱら五倫ごりんのことをときたり。又儒者じゆしやこれおもきところとなせり。又~令しんりやう(*江戸時代に発見された神道書。偽)にも、此五種いつくさのせられたり。これ誠の道は、三教の道にも、かくことあたはざるしるしなりとす。
きみあるものは、よくこれに心をつくし、あるものは、よくこれををしえ、臣あるものは、よくこれをおさめ、おつとあるものは、よくこれにしたがひ、つまあるものは、能これをひきひ、あにある者は、能これをうやまひ、おとゝあるものはよくこれあはれみ、としよりたるものは、よくこれをいとをしみ、いとけなきものはよくこれをいつくしみ、先祖せんぞのことをわすれず、一家いつけのしたしみをおろかにせず、人とまじはりては、せつなるまことをつくし、あしきあそびをなさず、すぐれたるをたつとび、おろかなるをあなどらず、およそ我身わがみにあてゝ、あしきことを人になさず、するどに(*鋭に)かど〴〵しからず、ひがみてかたくなからず(*ママ)せまりてせは〳〵しからず、いかれどもそのほどをあやまらず、よろこべどもそのまもりをうしなはず、たのしむでたはるゝにいたらず、かなしびてまどへるにいたらず、ことたるも、ことたらぬも、皆わが仕合しあはせよとそれに心をたり(*足り)うくまじきものは、ちりにてもとらず、あたふべきにのぞみては、國天下をもおしまず、衣食ゐしよくのよしあしも、我身わがみのほどにしたがひ、おごらず、しはからず、ぬすまず、いつはらず、いろこのみてほふれず(*放れず)酒飲さけのみしてみだれず、人にがいなき者を殺さず、身のやしなひをつゝしみ、あしき物くらはず、おほく物くらはず、
翁の自注に云く、瑜伽ゆがいのちいまだつくさずしてしするあり九種くしゆの因縁いんえん。一ニハしよくすぎ度量どりやうに、二ニハしよくす不宜ふぎを、三ニハずしてせうぜまたくらふなどときたり。論語ろんごにもきりめざればたゞしからくらはざるをときならくらはおほくくらはなどときたり。これ皆誠の道をうかゞへるもの也。
いとまにはおのが身にuゑきあるげいを學び、かしこくならんことをつとめ、
翁の自注にいはく、論語におこなひあれば餘力よりよくもつてまなぶぶんをともいひ、又りつためにしらんが差次會さじゑとうをまなぶしよを新學しんがくの比丘びくはゆるすまなぶを筭法さんぽうをともいへり。これまた誠の道をうかゞへるもの也。
今の文字もじをかき、今のことばをつかひ、今のしよく物をくらひ、今の衣服を、今の調度てうどを用ひ、今のいえにすみ、今のならはしにしたがひ、今のおきてまもり、今の人にまじはり、もろ〳〵のあしきことをなさず、もろ〳〵のよき事を行ふを、誠の道ともいひ、又今の世の日本に行はるべき道ともいふなり。
右は第六節なり。
これらのことは、皆儒佛じゆぶつしよときふるしたる事どもにて、今更いまさら各別かくべつにいふべきにあらねども、今おきなあらたわがいひいでたることのやうにときなし、人に無用むようのことをすてて、たゞちにその誠の道を指示さししめしたる、そのこゝろざし誠にたふとぶべし。
〔七〕 さてこの誠の道といふものは、もと天竺よりきたりたるにもあらず、からよりつたへたるにもあらず、又~代かみよのむかしにはじまりて、今の世にならふにもあらず、天よりくだりたるにもあらず、よりいでたるにもあらず、只今日の人のうへにて、かくすれば、人もこれをよろこび、をのれもこゝろよく、始終はじめをはりさはる所なふ、よくおさまりゆき、又かくせざれば、人もこれをにくみ、をのれもこゝろよからず、ものごとさはりがちに、とゞこほりのみおほくなりゆけば、かくせざればかなはざる、人のあたりまへより出來いできたる事にて、これを又人のわざとたばかりて、かりにつくりいでたることにもあらず。されば今の世にうまれ出て、人とうまるゝものは、たとひ三教をまなぶ人たりとも、此誠の道をすてゝ、一日もたゝん事かたかるべし。
右は第七節なり。
〔八〕 されば又此誠の道をすてゝ、べつなにの道もつくりいでがたきしるしには、釋迦しやか五戒ごかいをとき、十ぜんをとき、貪瞋癡とんしんちみつ三毒さんどく名付なづけきやういやうし父母ふぼにぶじする師長しちやうにさんぶくの一につらね、諸惡しよあく莫作ばくさ(*ママ)衆善しゆぜん奉行ぶぎやうみづから其意そのいをこれ諸佛しよぶつをしへともとかれたり。孔子こうし孝弟こうてい忠恕ちうぢよとき忠信ちうしん篤敬とくきやうをとき、知仁勇ちじんゆうみつ三コさんどく名付なづけこらし忿いかりをふさぎよくをあらためあやまちをうつるぜんにともき、君子くんしはニシテ蕩蕩たう〳〵、小人〳〵戚々せき〳〵ともとかれたり。又~道の人も、C淨せうじやう質素しつそ正直しやうじきときたり。是等はみな誠の道にもかなひ、いたれることばの、ひがことにもあらぬ、似たる事共なりといふべし。されば三教さんきやうを学ぶ人も、かくさへ心得て、ひが〳〵しくあやしく、ことやうなるわざをなさず、人の世にまじらひて、此世をすごしなば、すなはち誠の道を行ふ人なりともいふべし。
右は第八節也。
これにて翁も本意ほんゐをいひあらはせり。まつたく三教の道をすてんとにはあらじ。たゞその誠の道を行はしめんとなり。
〔九〕 しかれどもこゝにおきなせつあり。おほよそいにしへより道をときほうをはじむるもの、必ずそのかこつけて祖とするところありて、我より先にたてたる者の上を出んとするが、そのさだまりたるならはしにて、のちの人は皆これをしらずしてまよふことをなせり。
右は第九節也。
〔十〕 釋迦しやか六佛ろくぶつとし、然燈ねんとう(*釈迦の過去世の仏)を思ひいだして、生死しやうじはなれよとすゝめられしは、それより先の外道げどうどもの、天をとして、これをいんしゆすればのぼりて天にむまるゝと説たる、其上を出たるものなり。それより先の外道げどう共も、皆たがひにそのうへいであひたるものにて、欝陀羅うつだら(*釈迦の師の一人。欝陀羅羅摩子)非非想ひひさうをときたるは、阿羅羅あらら(*釈迦の師の一人。阿羅羅迦蘭)無所有處むしようしよの上を出たるものなり。その無所有處むしようしよせつは、又それより先の識處しきしよの上を出たるもの也。其識處しきしよの説は、又それより先の空處くうしよ或は自在じざい天等をときたる、其上を出たるもの也。ヶ樣に段々とき出して、天をば三十二までにときのぼしたり。是はみな外道げどうの事にて、同じ釋迦しやかの佛法にも、文殊もんじゆともがら般若はんにや大乘だいじやうをつくりて、くうをときたるは、迦葉かせうともがら阿含あごんをつくりてをときたる、その上を出たるものなり。普賢ふげんともがら法華ほつけ深蜜じんみつ(*解深密経)などを作り、不空ふくう實相じつさうをときて、それを成道じやうどう四十年の後の説法せつぽうにかごつけ(*ママ)たるは、又文殊もんじゆせつくうの上を出たるものなり。其次に華嚴けごんをつくりたるものゝ、成道じやうどう二七日の説法にかごつけて、日輪にちりんのまづ諸大・山王をてらすにたとへたるは、又これを成道のはじめにかごつけて、諸法しよほうの上を出たるものなり。其次に涅槃ねはんをつくりたるものゝ、涅槃ねはん晝夜ちうや説法せつぽうにかごつけて、醍醐だいご牛乳ぎうにうより出るにたとへたるは、諸法をあはせて其上を出たるものなり。又金剛薩埵こんがうさつた大日如來だいにちによらいにかごつけて、法華ほつけだい八、華嚴けごんを第九とたて、釋迦の説法せつぽうを皆顯教けんきやうを名付たるは、是は諸法をはなれて又其上の上を出たるもの也。又頓部とんぶきやうの、一切煩惱いつさいぼんのう本來自離ほんらいみづからはなる一念不生いちねんふしやう即是成佛すなはちこれじやうぶつなどいひ、又禪宗ぜんしうに四十餘年よねん所説しよせつ經卷きやうくはんは、みな不淨ふぢやうのごやぶがみなどいひ出たるは、これは諸法をやぶりて、又其上の上を出たるものなり。是をしらずして、菩提留志ぼだいるし(*菩提留支)は、釋迦の一おんいろいろにきこえたるなりといひ、又天台てんだいは、釋迦の方便ほうべんにて、一だいうちに、説法が五度かはりたるといひ、又賢首げんしゆ(*賢首けんじゆ大師。法蔵)は、衆生しゆじやう根機こんきにしたがひて、其つたふところおの〳〵ことなりと心得こゝろえられたるは、ともおほひなるとりぞこなひのひがみたる事どもなり。この始末しまつをしらむとおもはゞ、出定しゆつぢやう(*出定後語)といふふみを見るべし。
右は第十節なり。
〔十一〕 又孔子の、堯舜を祖述そじゆつし、文武ぶんぶ憲章けんしやうして、王道わうだう説出ときいだされたるは、これその時分じぶんに、齊桓晉文せいくはんしんぶんのことをいひて、もつぱ五伯ごは(*春秋五覇)の道をたつとびたる、其うへを出たるものなり。又墨子ぼくしの同じく堯舜を崇びて、の道を主張しゆてうせられたるは、是は又孔子の文武ぶんぶ憲章けんしやうせられたる、その上を出たるものなり。扨又楊朱ようしゆ帝道ていどうをいひて黄帝くはうていなどをたつとびたるは、又孔墨こうぼくの説れたる王道の上を出たるものなり。許行きよかう~農しんのうとき莊列さうれつともがら無懷ぶくはい葛天かつてん鴻荒こうくはう(*太古)の世をきたるは、又皆その上の上を出たるものなり。是等は皆異端いたんのことにて、同じ孔子の道にも、儒分れてやつとなるとあれば、さま〴〵に孔子にかごつけて、みなその上をいであひたるものなり。告子こうし(*ママ)せいなくぜんなし不善ふぜんときたるは、世子せいし(*文王世子か。)せいありぜんありあくと説たる、その上を出たるものなり。又孟子もうし性善せいぜんときたるは、こう子が性無善、無不善ときたる、その上を出たるもの也。又荀子じゆんし性惡せいあくを説たるは、又孟子もうし性善せいぜんを説たる、その上をいでたるものなり。樂正子がくせいしが孝經を作りて、曾子そうし問答もんだうにかごつけて、こう主張しゆてうしてときたるは、又もろ〳〵の道をすてゝ、こうへおとしこめたるものなり。これをしらずして、宋儒そうじゆは皆これを一なりと心得、近頃ちかごろ仁斎じんさいは、孟子もうしのみ孔子こうし血脉けつみやくたるものにて、餘他よたせつは、皆邪説じやせつなりといひ、又徂徠そらいは、孔子こうしの道はすぐに先王せんわうみちにて、子思しし孟子もうしなどはこれにもとれりなどいひしは、皆大なる見ぞこなひの間違たる事どもなり。此始末しまつをしらんと思はゞ、説蔽せつへい(*富永仲基の書。散佚。)といふふみをみるべし。
右は第十一節なり。
おきなはかくときたれども、孔子の文武を憲章してわう道をとかれたるは、五伯ごはの道の功利こうりをのみたつとびて、こといつはりにはしるをうれへて也。わざとたくみてその上を出んとにはあらざるべし。又釈迦の六佛をとして、生死しやうじはなれよととかれたるも、それよりさき外道げどう共の皆眞實しんじつの道にあらざるをうれへて也。わざとたくみて上を出たるにはあらざるべし。もしも又おきなことばのごとく、わざと巧みてその上を出たるものならば、釈迦・孔子とてもみなとるにたらざるものといふべし。
〔十二〕 さて~道しんとうとても、みな中古の人共が~代じんだいむかしにかこつけて(*ママ)日本にほんの道と名付、儒佛の上を出たるものなり。たとへていはゞ、天竺の光音天くはうおんてんから盤古氏ばんこし時分じぶんにも、佛といひ儒といふ、一廉ひとかどさだまりたる道のあるにはあらず、佛といひ儒といふも、皆のちの世の人が、わざとかりにつくり出たることゞもなれば、~道とても又~代かみよのむかしにあるべきにはあらざる也。其最初さいしよとき出たるを兩部りやうぶ習合しゆがうといふ。儒佛の道を合せて、能程よきほど加减かげんしてつくりたるものなり。其次に出たるを本迹ほんじやく縁起えんぎといふ。これは其時分に、~道のをこりたるをねたみて、佛者のともがらようには~道をときて、ゐんにはこれを佛道へをとしこめたるものなり。扨其次に出たるを、唯一ゆいいち宗源そうげんといふ。これは儒佛の道をはなれて、たゞ純一じゆんいちの~道を説たるもの也。此三の~道は、皆中古の事共にて、又近頃ちかごろに出たるを、わう道~道といふ。是は~道の道とて、各別かくべつに其道あるにはあらず、王道がすなはち~道なりとときたる也。又あるいは、やうには~道を説て、いんには儒と一つなる~道も出たり。是等これらはみな~代の昔にはなき事なれども、かやうに説かこつけて、たがいに其上を出あひたるものなり。これをしらずして、おろかなるの人の、皆誠の道と心得、其身にもひがことをし、たがひに是非ぜひしてあらそふことにもするは、氣毒きのどくにも、笑止せうしにも、またはおかしうも、をきなが心にはおもふなり。
右は第十二節なり。
〔十三〕 扨又三きやうにみなあしきくせあり。是をよくわきまへてまよふべからず。
右は第十三節なり。
〔十四〕 佛道のくせは、幻術げんじゆつなり。幻術は今の飯縄いづな(*窓_尼天〔荼枳尼天〕を祀り、管狐を使って憑き物を行う幻術。飯綱使い。)ことなり。天竺はこれをこのくににて、道をとき人をおしゆるにも、これをまじえて道びかざれば、人もしんじてしたがはず。されば釋迦しやかはいづなの上手じやうずにて、六年山に入て修行しゆぎやうせられたるも、そのいづなを学ばむとてなり。又諸經しよきやうにいへる、~變しんぺん~通じんつう~力じんりきなどいふも、皆いづなの事にて、白毫光びやくがうくはううち三千世界さんぜんせかいをあらはし、廣長舌くはうちやうぜつを出して梵天ぼんてんまであげられたるなど、又維摩詰ゆいまきつ八萬四千はちまんしせん獅子座ししざ方丈はうじやううちもうけ、~女が舍利弗しやりほつ(*釈迦の十大弟子の一人)を女になしたるなど、皆そのいづなをつかひたるものなり。さてそれよりいろ〳〵のあやしき、生死しやうじ流轉るてん因果ゐんぐはをとき、本事ほんじ本生ほんしやう未曾有みぞうう(*ママ)をとき、奇妙きめうなる種々しゆ〴〵せつをせられたるも、みな人にしんぜられんがための方便ほうべんなり。是は天竺の人をみちびく仕方しかたにて、日本にはさのみいらざる事也。
右は第十四節なり。
翁はかく説たれども、~つう飯縄いづなとは相違さうゐある事也。飯縄はじゆつより出て、~つう修行しゆぎやうよりいづることなり。されども翁の言むべなりとす。
〔十五〕 又儒道のくせは、文辭なり。文辭とは、今の辯舌べんぜつなり。からはこれを好む國にて、道を説き人をみちびくにも、是を上手にせざれば、しんじてしたがふ事なし。たとへていはゞ、れいを説にも、本は冠昏喪祭くはんこんさうさい礼式れいしきをこそ、礼とはいふべきに、それをたるの人子ひとのこ之礼、たるの人臣ひとのしん之禮と、人の道にもいひ、又視聽してい言動げんどうの上にもいひ、又礼は天地のべつなりなど、天地にまでかけていふにてしるべし。又がくの字なども、只鐘皷かねつゞみを鳴しなぐさむことなるに、それをがくといひ、がくといふ、鐘皷しやうこをしもいはむやなどいひ、又樂は天地のくはなりなどいふにてもしるべし。又せいの字なども、本は只智慧ちゑのある人をいふことばなるにそれをいひひろめて、人間の最上さいじやう~変しんぺんもあるものゝ樣にいひなせり。孔子のじんをはり、そう子の仁義じんぎをはり、子思ししまことをはり、孟子もうし四端したん性善せいぜんを説き、荀子じゆんし性惡せいあくをとき、孝經こうきやうこうをとき、大学の好惡こうあくを説、ゑき乾坤けんこんをときたるなど、皆なにともなき心やすきことどもを、辯舌べんぜつ仰山ぎやうさんにときなし、人におもしろくおもはれて、したがはれんとするの方便なり。漢の文辭は、すぐに天竺の飯縄にて、これもさのみ日本にはいらざる事なり。
右は第十五節なり。
翁はかく心安きこと共と説たれ共、道のいたれることあるは、翁も知ざらんや。又秘授ひじゆのたやすく傳へがたきことあるも、翁はしらざらむや。翁の此ことばにまどひて、本意ほんいうしなふべからず。
〔十六〕 扨又~道のくせは、~秘しんぴ秘傳ひでん傳授でんじゆにて、只物をかくすがそのくせなり。およそかくすといふ事は、僞盜いつはりぬすみのその本にて、幻術げんじゆつや文辭は、見ても面白おもしろくきゝてもきゝごとにて、ゆるさるゝところもあれど、ひとり是くせのみ、はなはおとれりといふべし。それもむかしの世は、人の心すなほにして、これをおしえみちびくに、その便たよりのありたるならめど、今の世はすゑの世にて、僞盜いつはりぬすみするものもおほきに、~道をおしゆるものゝ、かへりて其惡を調護てうごすることは、はなはもとれりといふべし。かのあさましき猿樂さるがくちややうの事に至るまで、みな是を見ならひ、傳授でんじゆ印可ゐんかこしらへ、あまつさへあたいさだめて、利養りようのためにする樣になりぬ。まことかなしむべし。しかるにそのこれこしらへたる故をとふに、こん機のじゆくせざるものには、たやすくつたへがたきがためなりとこたふ。是もきこゆるやうなれども、其かくしてたやすくつたへがたく、またあたいさだめて傳授でんじゆするやうなるみちは、皆誠の道にはあらぬこと心得こゝろえべし(*ママ)
右は第十六節なり。

翁の文 
延享三年(*一七四六)春二月
大阪高麗橋壹丁目
冨士屋長兵衛 行

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(跋)

余少小已讀富永仲基出定後語深服其學有家法又聞其著有翁之文物色之三十餘年未能獲但萩原廣道編遺文集覽(*「近世名家遺文集覧」)録仲基翁之文叙(*「翁の文のはしがき」を掲載。)猪飼敬所緒環稱翁之文在神儒佛三教外別倡誠道具有特識又嘗讀江戸千住人橋本律蔵書文雄上人非出定後云舊蔵翁之文教内田銀蔵子録副内田銀蔵君者故文學博士内田君父也余因勸博士檢其先世蔵書博士諾之未果而即世然以是u知世猶有此書未必佚亡也歳甲子一月龜田吟風學士獲此書於大阪一書估余聞之驚喜急東學士借閲且請自任仿印之役學士見允乃以玻璃板印之板蹙原幅者僅二三分其餘盡如原刻此書所論大旨与出定後語三教章同而加詳焉仲基又有説蔽一書専論儒墨以下百家競起所由今已佚而不傳讀此書可淂其梗槩矣其於神道又論兩部惟一諸派迭出所由皆与出定後語論教起前後同其揆而斷其道可道為可行於是邦可行於今時者猶孫卿法後王之義玉於持之有故言之成理過古諸子遠矣吟風學士獲此後数旬我京都大學山鹿司書官亦獲此書鈔本於猪飼敬所舊蔵書中石濱學士純亦發淡路人贈五位仲野君安雄遺書獲此書手鈔本書尾云盖為大阪道明寺屋三郎兵衛作相傳仲基通稱道明寺屋吉左衛門其實吉左衛門者為仲基父芳春及長兄毅齋所通稱以行輩論仲基稱三郎兵衛殆乎信而有徴仲野君与仲基並世齡長於仲基其所傳聞不當有誤也龜田君求余跋此書因遂書如此甲子六月内藤虎   (内藤虎印陽刻)(湖南陽刻)
余少小ニシテ富永仲基出定後語、深學有ルニ家法。又聞リト翁之文、物-スルコト三十餘年、未ルコト。但萩原廣道編スル遺文集覽(*「近世名家遺文集覧」)仲基之文(*「翁ノハシガキ掲載。)、猪飼敬所緒環翁之文リテ神儒佛三教、別-セルヲ特識。又嘗江戸千住人橋本律蔵書シテ文雄上人非出定後、舊-翁之文、教ムルコトヲ内田銀蔵ヲシテシテ。内田銀蔵君者、故文學博士内田君ナリ也。余因メテ博士セシム先世蔵書。博士諾シテシテ タサ、而即世。然レバuリテ、未ルヲ ズシモ佚亡也。歳甲子一月、龜田吟風學士獲タリ於大阪一書估。余聞驚喜シテセシメ學士、借閲ゼンコトヲ【仿印】〔注h複製〕之役。學士見。乃玻璃板ちかづクルコト原幅者僅二三分、其クニス原刻。此書所ズル大旨与出定後語三教ジクシテ、而加ナルヲ焉。仲基又有説蔽一書、専儒墨以下百家競一レ。今已シテ、而不ハラ。讀メバ【此書】〔注h翁の文〕、可梗槩矣。其ケル神道、又論兩部・惟一諸派迭ヒニヅルニ一レ。皆与カリ出定後語、論ジテヘノルモノノ前後ジクスルヲ、而斷キハトスルヲ一レキモノ。於邦可キコト於今時者、猶 【孫卿】〔注h荀卿〕後王之義トスルガ。於イテスルニ故、言フニスニ一レ、過グルコト諸子矣。吟風學士獲後数旬、我京都大學【山鹿司書官】〔注h山鹿誠之助〕、亦獲鈔本於猪飼敬所舊蔵書中、【石濱學士純】〔注h石濱純太郎〕亦發キテ淡路人贈五位【仲野君安雄】〔注h淡路の庄屋。国学者。〕遺書タリ手鈔本。書尾、盖大阪道明寺屋三郎兵衛スモノ相傳。仲基通稱道明寺屋吉左衛門ナリ。其實吉左衛門者、為仲基父芳春長兄毅齋通稱スル。以【行輩】〔注h輩行〕仲基スルガ三郎兵衛ちかカランカ乎。信ニシテ而有リト徴。仲野君仲基ブルニ、世齡長於仲基ヨリモ。其傳聞スル、有ルナリ也。龜田君求。因スコトクノ。甲子六月、内藤【虎】〔注h虎次郎〕
余少小にして已に富永仲基の出定後語を讀み、深くその學家法有るに服す。又その著に翁之文有りと聞き、これを物色すること三十餘年、いまだ獲ること能はず。但し萩原廣道編する遺文集覽(*「近世名家遺文集覧」)に仲基の翁の之文の叙を録し(*「翁の文のはしがき」を掲載。)、猪飼敬所の緒環に翁之文の神儒佛三教の外に在りて、別に誠の道を倡へ特識を具有せるを稱す。又嘗て江戸千住の人橋本律蔵文雄上人の非出定後を書して云く、翁之文を舊蔵し、内田銀蔵の子をして録して副へしむることを讀む。内田銀蔵君は、故文學博士内田君の父なり。余因て博士に勸めてその先世の蔵書を檢せしむ。博士これを諾していまだ果たさずして、即世す。然れば是をもつてu〻世になほこの書有りて、いまだ必ずしも佚亡せざるを知る也。歳甲子一月、龜田吟風學士この書を於大阪の一書估に獲たり。余これを聞き驚喜して急ぎ學士を東せしめ、借閲しかつ自ら仿印の之役に任ぜんことを請ふ。學士允さる。すなはち玻璃板をもつてこれを板に印す。原幅に蹙(ちかづ)くること者僅に二三分、その餘は盡く原刻のごとくにす。この書論ずる所の大旨出定後語の三教の章と同じくして、詳なるを加ふ。仲基又説蔽の一書有り、専ら儒墨以下百家競ひ起り由る所を論ず。今已に佚して、傳はらず。この書を讀めば、その梗槩を淂べし。その神道における、又兩部・惟一の諸派迭ひに出づるに由る所を論ず。皆出定後語に与かり、教への前後に起るもののその揆を同じくするを論じて、而その道の道とすべきは行ふべきもの為るを斷ず。是に於て邦於今時に行ふべきこと者、なほ孫卿後王之義に法り玉とするがごとし。これを持するに故有り、これを言ふに理を成すに於いて、古の諸子に過ぐること遠し。吟風學士此を獲て後数旬、我が京都大學の山鹿司書官も、亦この書の鈔本を於猪飼敬所舊蔵書中に獲、石濱學士純もまた淡路の人贈五位仲野君安雄の遺書を發きてこの書の手鈔本を獲たり。書尾に云く、盖し大阪の道明寺屋は三郎兵衛を相傳と作すもの為り。仲基の通稱は道明寺屋吉左衛門なり。その實吉左衛門は、仲基の父芳春と長兄毅齋及通稱する所為り。行輩の論をもつて仲基を三郎兵衛と稱するが殆(ちか)からんか。信にして徴有りと。仲野君を仲基と並ぶるに、世齡於仲基よりも長ず。その傳聞する所當らず、誤り有るなり。龜田君余が跋をこの書に求む。因て遂に書すことかくのごとし。甲子六月、内藤虎
〔漢文エディタ原文〕  余少小ニシテ已ニ讀ミ 2( 富永仲基ノ出定後語ヲ )1 、深ク服ス 3( 其ノ學有ルニ 2( 家法 )1 。又聞キ 3( 其ノ著ニ有リト 2( 翁之文 )1 、物- 2( 色スルコト之ヲ )1 三十餘年、未ダ^能ハ^獲ルコト。但シ萩原廣道編スル遺文集覽(*「近世名家遺文集覧」)ニ録シ 2( 仲基ノ翁ノ之文ノ叙ヲ )1 (*「翁ノ文ノハシガキ」ヲ掲載。)、猪飼敬所ノ緒環ニ稱ス 2{ 翁之文ノ在リテ 2( 神儒佛三教ノ外ニ )1 、別ニ倡ヘ 2( 誠ノ道ヲ )1 具- ┤有セルヲ特識ヲ }1 。又嘗テ讀ム 2{ 江戸千住ノ人橋本律蔵書シテ 2( 文雄上人ノ非出定後ヲ )1 云ク、舊- 2( 蔵シ翁之文ヲ )1 、教ムルコトヲ ┤内田銀蔵ノ子ヲシテ録シテ副ヘ }1 。内田銀蔵君ハ者、故文學博士内田君ノ父ナリ也。余因テ勸メテ 2( 博士ニ )1 檢セシム 2( 其ノ先世ノ蔵書ヲ )1 。博士諾シテ^之ヲ未ダ _シテ_ ^果タサ、而即世ス。然レバ以テ^是ヲu〻知ル 2{ 世ニ猶ホ有リテ 2( 此ノ書 )1 、未ダ _ルヲ_ ┤必ズシモ佚亡セ }1 也。歳甲子一月、龜田吟風學士獲タリ 2( 此ノ書ヲ於大阪ノ一書估ニ )1 。余聞キ^之ヲ驚喜シテ急ギ東セシメ 2( 學士ヲ )1 、借閲シ且ツ請フ 3( 自ラ任ゼンコトヲ 2( 【仿印】〈NOTE 複製 〉ノ之役ニ )1 。學士見^允サ。乃チ以テ 2( 玻璃板ヲ )1 印ス 2( 之ヲ板ニ )1 。|蹙(ちかづ)クルコト 2( 原幅ニ )1 者僅ニ二三分、其ノ餘ハ盡ク如クニス 2( 原刻ノ )1 。此ノ書所ノ^論ズル大旨与 2( 出定後語ノ三教ノ章 )1 同ジクシテ、而加フ^詳ナルヲ焉。仲基又有リ 2( 説蔽ノ一書 )1 、専ラ論ズ 2( 儒墨以下百家競ヒ起リ所ヲ )1^由ル。今已ニ佚シテ、而不^傳ハラ。讀メバ 2( 【此ノ書】〈NOTE 翁の文 〉ヲ )1 、可シ^淂 2( 其ノ梗槩ヲ )1 矣。其ノ於ケル 2( 神道ニ )1 、又論ズ 2( 兩部・惟一ノ諸派迭ヒニ出ヅルニ所ヲ )1^由ル。皆与カリ 2( 出定後語ニ )1 、論ジテ 2{ 教ヘノ起ルモノノ 2( 前後ニ )1 同ジクスルヲ ┤其ノ揆ヲ }1 、而斷ズ 2( 其ノ道ノ可キハ^道トス為ルヲ )1^可キモノ^行フ。於テ^是ニ邦可キコト^行フ 2( 於今時ニ )1 者、猶ホ _シ_ 2{ 【孫卿】〈NOTE 荀卿 〉法リ 2( 後王之義ニ )1 玉トスルガ }1 。於イテ 2( 持スルニ^之ヲ有リ^故、言フニ^之ヲ成スニ )1^理ヲ、過グルコト 2( 古ノ諸子ニ )1 遠シ矣。吟風學士獲テ^此ヲ後数旬、我ガ京都大學ノ【山鹿司書官】〈NOTE 山鹿誠之助 〉モ、亦獲 2( 此ノ書ノ鈔本ヲ於猪飼敬所舊蔵書中ニ )1 、【石濱學士純】〈NOTE 石濱純太郎 〉モ亦發キテ 2( 淡路ノ人贈五位【仲野君安雄】〈NOTE 淡路の庄屋。国学者。 〉ノ遺書ヲ )1 獲タリ 2( 此ノ書ノ手鈔本ヲ )1 。書尾ニ云ク、盖シ為リ 3( 大阪ノ道明寺屋ハ三郎兵衛ヲ作スモノ 2( 相傳ト )1 。仲基ノ通稱ハ道明寺屋吉左衛門ナリ。其ノ實吉左衛門ハ者、為リ 2{ 仲基ノ父芳春ト及 2( 長兄毅齋 )1 所 ┤通稱スル }1 。以テ 2( 【行輩】〈NOTE 輩行 〉ノ論ヲ )1 仲基ヲ稱スルガ 2( 三郎兵衛ト )1 |殆(ちか)カランカ乎。信ニシテ而有リト^徴。仲野君ヲ与 2( 仲基 )1 並ブルニ、世齡長ズ 2( 於仲基ヨリモ )1 。其ノ所 2( 傳聞スル )1 不^當ラ、有ルナリ^誤リ也。龜田君求ム 2( 余ガ跋ヲ此ノ書ニ )1 。因テ遂ニ書スコト如シ^此クノ。甲子六月、内藤【虎】〈NOTE 虎次郎 〉

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(識語)

此書富永仲基所著而湮逸不得見者久矣雖學者竭力索之未有得也今茲玉樹香文房主偶獲之於西京遂歸於予秘笈喜不可禁乃記之大正甲子(*大正一三年〔一九二四〕)一月仲五   吟風(*龜田次郎)識 (龜田之印陽刻)
書富永仲基所ニシテ、而湮逸シテルコトルヲ者久矣。雖學者竭シテムト一レ、未ルナリ ルコト也。今茲玉樹香文房主偶於西京、遂於予秘笈。喜カラ、乃。大正甲子一月仲五   吟風識
この書富永仲基著す所にして、湮逸して見るを得ざること者久し。學者力を竭してこれを索むといへども、いまだ得ること有らざるなり。今茲に玉樹香文房主偶まこれを於西京に獲、遂に於予が秘笈に歸す。喜び禁ずべからず、すなはちこれを記す。大正甲子一月仲五
〔漢文エディタ原文〕 此ノ書富永仲基所ニシテ^著ス、而湮逸シテ不ルコト^得^見ルヲ者久シ矣。雖モ 2( 學者竭シテ^力ヲ索ムト )1^之ヲ、未ダ _ルナリ_ ^有ラ^得ルコト也。今茲ニ玉樹香文房主偶マ獲 2( 之ヲ於西京ニ )1 、遂ニ歸ス 2( 於予ガ秘笈ニ )1 。喜ビ不^可カラ^禁ズ、乃チ記ス^之ヲ。大正甲子一月仲五


  翁の文序(林師良)   序(全機居士)   翁之文序(伴礼玄幹)   序(伴〔富永〕仲基)   本文   跋(内藤湖南)   識語(亀田吟風)
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