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作文志彀

山本信有(北山)
(山本北山『作文志彀』全 博文館 1894.5.19
※ 原書は翻刻本。原文漢字カタカナ交り文。【割注】(*L 左ルビ) 
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作文志彀

東都  山本信有 著
萬卷の書をよめる人と云とも、文章に黽勉びんべん(*L ほねをおる)せざる者は、身ををはるまで、いかなる文かよき、何なる文かあしきと云をみとむ(*L みさだむ)るヿも能ず。いわんや其著述する文章全くみるたらず。是を讀に一句は韓柳に、一句は李王に、一句は中郎(*袁宏道の字)に似、一句はなんにも似ざる文できるなり。之をなづけ骨董ごつた文章と謂たま〳〵其文章を論ずるを聞に、風ををいかげとるが如き空言(*L むだこと)にて實用なし。是をのれにしつかりとしたる鑑衡(*L きまり)なき故なり。此讀書(*L ほんよみ)先生がたの弟子を教るに、多く書を讀で我にたくはゆる寸(*とき)は、文章自然しぜんできるものなりと云。妄の甚と云べし。謝在杭が讀スルトモ萬卷、不スヿ一字者ありと云、信に然り。文章に通ぜざれば、古書の眞面目もせず、注脚の謬誤あやまりわからぬヿなり。能く書をさんと欲せば、先能く文章に通ずべし。世の學者、文章はむつかしく覺へ、たゞ詩ばかり黽勉びんべんして文章に志うすし。詩を作る意になりて只管ひたすら文章に努力せば、文章も作りならはるゝヿなり。
文章をつくらんと思はゞ、善交(*L なかよし)の友二三人もしくは四五人と結社(*L いゝあはせ)し、月に四五囘の會日をさだめ、各やく文を携來もちよつふく文すべし。譯文とは古人の文を國字かなにて譯(*L なを)したるなり。覆文とは譯文を原文ほんもんなをすを云ふ。
會に集る人ごとに孟子・莊子・左傳・國語・史記・漢書等の古書にて文辞(*L をもしろ)く句法むづかしし章を撰拔ゑりぬきして是を譯し、助字の所をあけまるき、字の所をあけしかくを處き、各に議論の文にても倒錯・謬用なきやうに作り、朋友にみせて其異見いけんとひ、其上に先生にみせ批削ひさくを乞べし。助辞とは也・矣・焉・哉・乎・耶の類なり。疑字とは見・視・觀・瞯(*以上、全てL みる)、是・此・之・斯(*以上、全てL これ)の類なり。助辞は夏人(*L とうじん)と雖使誤つかひあやまる者あり。柳々州(*柳宗元)が杜温夫に復する書(*原文「尺/日」)を見て知べし(*皆川淇園『淇園文訣』を参照)。疑字は倭人きはめて用あやまる。譬ばみると書べき所を見と書し、見と書べきをばかへつて觀と書する類往々にしてあり。倒錯とは世に所謂顛倒てんだうのヿなり。謬用とは助辞・疑字・故事成語など、すべて使を云ふ。
今童兒(*L こども)輩の爲に孟子離婁篇、齊人有一妻一妾章を譯して、譯文の法をしめす。
齊人一妻一妾にして、室に處者有り。其良人出る寸は、必酒肉に饜て、而して後にかへる【若方ををくは疑字なり。歸・反・還など皆かへると訓ずるゆへ、いづれをいて可なるべきかと工夫させんために、□にして其字を書せず。しもみな此にならへ。毫釐も之を誤ば、實に千里をたがふ故に、疑字を辨ずる、文章を學ぶ第一義とす。】
其妻ともに飲食する者を問ば、則ち冨貴なり。其妻其妾に告て曰、良人出寸は必酒肉に饜て、而して後にかへる。其ともに飮食する者を問ば、盡く冨貴なり。しかも未だ嘗顯たる者有て來ず。それ將に良人のゆく所をみんとす○。【若圏ををくは助字なり。也・矣・焉など何を處べきと工夫させんためなり。】
蚤に起て旋に、良人のゆく所にしたがふ。國中をあまねくしてともに立談する者なし。東郭墦間の祭者にゆいて其餘を乞て、足ざればまた顧て他ゆくこれ其饜足をするの道なり。其妻かへつて其妾に告て曰、良人は仰望して身を終る所なり。今かくの若し。其妾と其良人をそしつて、中庭○相泣く。而して良人未だこれを知ず、○旋々として外より來て、其妻妾に驕る。君子よりこれみる寸は、人の富貴利逹を求るゆえんの者、其妻妾をはぢず○、しかも相泣ざる者幾ンド希ナリ○。
通計(*L しめて)一百有二字【若此原文の字数を挙(*原文「文/キ」。以下同じ。)は、覆文此字数に合させんためなり。】

譯文を覆するにのぞんで、何如いかなるむづかしき句の自家てまへ工夫くふうにて覆しがたきありとも、ゆめ〳〵原文ほんもんを出してみるべからず。初心はじめあひだは、且吾(*L ちがひ。齟齬)ありがちなり。たとへば齊人一妻一妾ニシテ、而處室者と覆すべきを、齊人一妻一妾ニシテ、而室者をき、或は齊人一妻一妾ニシテ、而處室者と處く。又其妻問飮食スルと覆すべきを、其妻ヘバ飮食スルと處、或は其妻問ヘバ飮食と處く。是倒錯なり。從良人之所一レと覆べきを、隨良人之所一レすへ、由君子と覆べきを、由君子すゆ。是謬用なり。
李王の修辞をせんと思はゞ、先づ數本(*L いくさつ)の小冊(*L ほん)をこしらへ、天象・地理・戰鬪・言論などの部分ぶわけをして、左傳・列子・呂氏(*呂氏春秋)・韓非等の古書をみるごとに、平生用ゆべき文字、又はむづかし(*ママ)げしがたき句、或は新竒なる句などを見ば、戰鬪(*L いくさ)の事ならば即時に戰鬪の部にうつし入れ、言論の事ならば言論の部に寫したくわへをき、さて戰鬪(*L いくさ)のヿをかゝんと欲せば、左傳・戰國策・史記・漢書戰鬪の所を一日も二日もひたものよみ、其中に吾かくべきと思ふヿとよりたる所々につけかみして、是をどだいとし、其上に兼て寫したくわへたる部分ぶわけの中を見て、戰鬪の部より入用のヿを取べし。言論にあづかりたるヿをば言論の部よりぬき出し、地理のかきやうをば地理の部よりゑらみ出し、一句一字もわれより出さず、一一皆古書中より斮抽きりぬく。因て古文辞と云ふ。于鱗(*李于鱗)が白雪樓をかまへ、文をつくる毎に此樓に登り、楷梯はしごすて人ののぼるヿをゆるさず、稿(*L したがき)を脱せざれば終にくだらず。是れ心のみだるゝいとふばかりに非ず、書を引ちらし抄寫(*L ぬきがき)などとりひろげたるさまを人に見せまじきためなり。今の修辞家(*L こぶんじ)者流をゝくは于鱗・元美(*王元美)・徂徠・南郭等の文集を金科玉條(*L けつかうなもの)として只管ひたすら其成語をぬき出し、其もとを古書に求ず。修辞の陋極れり。然も又李王の諸文もよまずんばあるべからず。之をよむの法、其成語をぬすまんヿを欲せざれ、其古書を斮拔きりぬきようを會得せんヿを欲せよ。今初學の爲に安澹泊たんはく(*安積澹泊)が 神祖大高をゝたか兵粮ひやうらういれの事を記したる、修辞せざる文をあげて、つぎに之を修辞して、修辞のしかるヿを知しめ、又次熊谷くまがへ直實なをざねが平経盛つねもりをくる書を修め、 本邦の事實を修辞すべき法をしめす。
信長築城堡、守要害。使下二佐久間大學盛重丸根城、尾近江守定景、其子隱岐守信宗鷲津城、山口左馬助據中村城。左馬助叛信長、誘大高・沓懸二城守將、属義元。義元使下二鵜殿長助・長持大高・沓懸二城。大高城乏。告駿府。義元使下二 神祖納上レ。 神祖時年十八、英氣方。譜第士踊躍相從、幾ンド一千騎。急于大高。左右伺ント。信長出シテ鳴海海邉、詗(*原文「言+冏」)察城寨。我軍以爲、信長邀ルト糧道。使下二鳥居四郎左衞門・内藤甚五左衞門義教・内藤四郎左衞門正成・石川十郎左衞門・杉浦藤次郎時勝・杉浦勝吉上レ。義教・正成等皆曰、敵嚴兵絶我糧道。獨勝吉言曰、敵不、可一レ。義教・正成曰、子不鋭氣乎。何ンゾ之謬レル。勝吉曰、不然。敵欲セバ、則當而陣。今見我軍、還山上。是ル也也。納糧不猶豫。 神祖然リトス。急シテ、向寺部・梅坪二城、縦民屋、而誘敵。鷲津・丸根二城見ルヲ、馳。乘。此 神祖兵略之始也。世稱シテ大高納兵糧
是れ安澹泊が 烈祖成績の中の文なり。余聞く、澹泊先生博覧はくらん多識たしき、書として讀ずと云ヿなしと。然も此文の如き、からにも非ず日本にも非ず、以て博物と文章とあづからざるヿ見つべし。然れども(*原文「然れも」)博物に非れば文章必ず謬用多く、文章に通ぜざれば博物も強解(*L むりずまし)多し。
尾張織田信長、令下二山口左馬中村城。左馬佐誘大高守・沓懸、叛信長駿河今川義元。義元使下二鵜殿長持等、戍上レ、先ヨリ信長處ラセテ佐久間盛重于丸根、尾定景于鷲津、而備駿河、因〓{扌+竒}角焉、又出シテ於鳴海、爲勢援。大無見糧、義元轉其邦ヨリ。饟道梗セリ矣。時 神祖在駿府、使トシテ而扞一レ。衆咸ンズ焉。杉浦勝吉曰、輸可也。信長見我兵、不於麓、還於山上。是不ル也也。神祖迺使下レヨリ寺部・梅坪民落。盛重・定景、以リト冦、奔而趣。處守者、羸弱不、駿河人、譟ヒテ而輸焉。奔趣者、還ル寸ハ則既大高。是 神祖竒計之始也。世命致輸大高之役。 神祖時年十八、兵僅一千云。
是れ余がかみの澹泊先生の文を修辞せるなり。一句も秦漢以上よりとらざるは無し。修辞を學んと欲する者、此文と上文と見くらべ、其ことなる所を工夫せば思ひなかばすぎん。
熊谷直實遺経盛
熊谷直實使シテ於平経盛曰、昔者先公在セシ日、得ルヿヲ顔色於輦轂之下、今且サニ二十年矣。僕也敗軍之餘、竄シテ武埜草莽、與木石、與鹿豕。媲スレバ閣下乎青雲ハルニ卿相、亡尊卑ルヲ一レカラ。隔ツテ一涯、尋ヒデ公起、與ル寸行伍、則眈々相。音問、又ナリ矣。以、恭シテズル左右、由五位公子遺託、而請ヘリ諸元帥也。閣下幸劔叱スルヿ矣。將リトモルニスル人臣無キヲ外交、是礼法ナリ遵奉スル也。非唯金仙是、以スル方外ルニ焉、豈拘々辟ルヿヲ之為ンヤ哉。竹笛一枝、公子ナリ閣下。鞍馬兵甲并セテ。盡公子故物ナリ也。徃時、須磨之役、吾師建シテ鐵拐、西風不、閣下諸宗、咸舩シテ而浮于海。公子獨レタリ矣。望ンデ而馳。瞻望者相謂竒貨。僕特フテ扇呼スレバ、公子顧ミテ而旋馬。然シテ短兵相接、次グニ相摶。公子雖フト、時不アラ、為焉。因名姓爵位、迺ルヲ公子、審レバ、則紅顔翠黛、間雅窈窕、髣髴トシテ乎閣下タリ。直實有一兒直家。與公子年相ケリ。僻ク鄙人、雖ドモ公子丰采可、風流思ハシムルニ一レ、才不才、亦各〳〵其子也。僕與レガ也母、噯之嘔之、撫之毓之、顧之長之、願ンヿヲ一レ壽。父母之心、人皆有之。閣下ルヤ公子也、予ルニ、不潜然トシテ而出。心戚々焉トシテ、但見其可キヲ一レ憐。遂シテ而令(*L シメント一レ。僕也迺、豈所ナランヤルヽ於閣下哉。以テ也一公子死生未シモスルニ東西也。不リキ圖、在者、共相呼ンデ曰、直實貳アリ矣。獲之。可ト云併與シテ而殺焉。僕不レドモ一レ、死亦不ズルニ公子也。術知惟ツテ、不。公子笑曰、遇獲、固ヨリ死是求。子惠アツテ而舎ストモ、我焉。况舩去ルヿ。睘々何クニ。其將於道路矣。且其死於路人之手也、無寧於子之手乎。因シテ錦嚢盛横笛於懷ヨリ、授曰、名小枝。鳥鋳御物ナリ也。帝居常つね最喜。遂使宋國、採嶰谷(*ママ)、爲。吹音中C商。夜稍深〳〵亮。以C夜。帝嘉シテ吾家祖スヲ音律、而錫之。家祖喜ンデ拱璧。什襲不ナラ。後將(*L シテセント、不諸嫡、傳フル吾大人、悦テ也其似タルヲ一レレニ也。余亦性嗜吹笛。唯恨ミトス一レ。欝陶久シテ而爲。大人雅ヨリシテ焉。遂。疾亦尋矣。余曲從心所一レスル。中夜忘、吹而逹ルヿ、常數タビ矣。顚沛造次恒必從。余スルヤ也、繇父母シテ我不一レ膝下。子能我致父母。厥人ストモ、厥物尚ラバ、可キノミフス一レ耳。遂瞑目不復言。自啓ヒテ。鬒髪如、肌膚若。於是乎、僕也、手痿足躄、不而自、反公子、雖ドモンデ而卒ワルト一レ、心裂肝碎、痛乎骨。抑〳〵ンデ以來、未シキハ矣。C揚婉如トシテ、常目睫。我思。匍匐襄、縦縦若、三板已、白シテ名姓爵位、以標。豈惡ンデ之無キヲ一レルヿ、而強ナランヤ之哉。夫我乃、反而求、不吾心。嗟呼逝者其亡セリ。曷ンゾ又有フヿ。來者若ンバ追、則莫クハ冥福矣。曩僧源空ナル者、嘗我言於黒谷。於其末法易行顓念之教。今也不幸、遇於公子、懷無吪之隱。然シテ後始キヲ一レ常、愈〳〵〳〵レバ穢土クニ樂國、則弗ルヲ甲レ我所矣、宿因機動シテ、遁志决シヌ矣。雖禿、棲タルヿ樹下石上、杜、為公子、日ンデ西方聖人、以セシメ三塗、恢々乎シテ心於方外、而シテ終焉。幸一朝拂衣、潜蓮社、與ルヿヲ黒谷、莫素志遂ルハ一レヨリ。閣下亦不幸逢ヘリ百罹。臨ンデ、徃事在、方寸絲棼レテスヿ。冀クハ炤諒セヨ焉。【別ニ経盛ノ荅書アリ。略。】
韓柳と李王とのことなるヿ、水火氷炭の如し。韓退之自ら文法を論じて曰く、古文の意を師として其ことばを師とせず。李于鱗は曰く、古をて辞を修む。又韓はむづかしくするヿ勿れ、やすらかにするヿ勿れ、難易に意ある寸は文條暢じやうちやうせずと云ふ。李は只管ひたすらむづかしきをす、好んで古書の險なる所を使つかふ。韓は云ふ、ゆたかにして一言をあまさず、約にして一辞を失ず。李はたゞ(*原文ルビ「たゝ」)かん古をたつとぶ。故に李家の文をなす者は百字をちゞめて五十字とし、五十字をちゞめて二十字とせんとす。是其大がい(*原文ルビ「かい」)なり。燕ラの微に至ては、一朝一夕の談に非ず。今や昇平の世、文明日々に盛んにして、人々書をよまざるは無く、書をよむほどの者文章に志なきは無し。文章に志す者、其人の好否すき・ぶすき(*原文ルビ「すき・ふすき」)ありと云へども、文運大にひらくるしるし、李家の非を悟り、斮拔きりぬきの陋(*L いやしき)を知り、韓文をまなばんと欲る者、大宰純(*太宰春台)より以下まゝありと云へども、其門を得ず、其路をさとさず、退之が陳言を去ると云ふをあやまり解して以爲をもへらく、韓家の文は一字一句われよりを出して古よらざる者と心得て、熟字じゆくじれん語悉くあはすてもとより空虗あきがらなる己が腹中より無法にしぼり出んとす。なんの文をかなし得ん。是をよむに句々嘔噦(*L へどのでる)たへず。又或は此陋をよけんとして、古書中の平易なるげしやすき所ばかりを斮拔てつゞり合せ、ごそ〳〵と交渉つがいはなれのする文をす。甚だ古注家流の文に似たり。つたなひかな。甚きは韓柳中の成語を剽襲(*L ぬすみ)して、韓柳にすとをもへり。大凡(*L をよそ)剽襲斮抽と云ヿは、明の北地より始れり。たとひ觧しやすき文字を斮拔とも、韓文を剽襲すとも、やはり修辞の文なるヿまぬかれがたし。故に世の文法をせずして韓文〻〻など云ふ人の文章を見るに、冗長ぢやうちやう軟弱なんじやくしひ首尾しゆび(*原文ルビ「ひ」)すくはんとして、累句拗語、ほとんど天然の雄渾を失ふ。加之しかのみならず章句杜撰づざん(*ママ)、竒せい法を失ふ。反て大に李家の修辞にをとるヿ甚し。そも〳〵韓文に至ては別に一法あり。知己に非れば千金つたへがたし。余れ韓文法をつくつて家塾にをさむ。今吾黨の為に南郭が讀論衡の文をあげて、次に之を韓家の文にならして、修辞と韓文との異を知らしむ。次に雜文一篇を擧て、わがさいすら韓文の粗をにすべき寸は、世の才人・君子其鉛に及びやすきをしめす(*ママ)
讀論衡 服元喬(*服部南郭)
論辨相競盛ナリ戰國。而西漢則承、唯求亡守遺。是務雖論者、未敢自恣。曁於東漢、篇籍寖備。然後著論正スノ非之學復盛ナリ矣。又且讖緯日、時方多信。雖光武之英、其惑不囘。王仲任(*王充の字)其際、停審虚實、自稱秉衡。凡経傳百氏、莫非斥、遂且至呉會之得タル秘為談助許下之論驚謂才進。即測其世、其有焉。啄長相尚、則雖析毫釐、率亦近乎街談巷議耳。夫辞語之道微婉相諭、或有文遠旨深シテ、不徑情直言。然ドモ世趍婾薄、夸説日、訛シテ窕言、亦其勢ノミ爾。夫以言正言、猶一レ火也。不撲滅、益至クニ原。要スルニ之豊文茂記、恢諧劇談、擇者無惑。何更詰難セン。仲任蓋非之。惟其剛鋭之志急於著一レ書、而平易之論難佗先。且其誦憶之功徒蘊未見。非斥事、無博。後世論家亦多此伎倆、則仲任設意在、詭異是其ナリ也。獨其因指摘、援及甚繁。八十有五篇不富有焉。貧士乏書、今猶古乎。乃一覽之餘、不才進。苟記有、則不ンヤ亦足上下(*ママ)雒肆(*洛肆。京中の古書肆。)之労乎。
讀論衡      山本信有
大道微而横議起、論辨熾ンニシテ而微意婉辞熄矣。蓋戰國際人若ニシテ而狼。非世斥俗、無忌避スル。竟秦火之災。漢承灰燼之餘、書典殘鈌栖々求之。諸儒各執於顓門、論辨未或遑アラ焉。間ルモ之、不自恣ニセ。曁乎東漢、逸書粗備、横議更競。於、論辨斥非、為復盛ナリ矣。王仲任時ムト羣書(*原文「{尺/日}」)。遂メテ、大諸子百家。自謂于斯。然人各〳〵見、我辨レバ彼持焉。雖クト毫釐、辨益〳〵ンデ而持スルヿ〳〵矣。凡以言禦、譬ルニ一レ。兵雖ムト於前、隨復起於後。隨復起、則亡亦隨。殆フシテ而無益矣。径言夸説、以衡。豈ンヤ微意婉辞使二レレヲ自省内悔哉。仲任亦非之。唯急ナリ於為書收ルニ一レ。故強ニス其言。多ナレバ則必窕。窕言坦易、不也。且誦臆之功、亦蘊シテ見。因シテ非斥、詭其論、以示其愽。書成八十五篇、可メリト矣。蔡伯喈(*蔡邕字)シテ、令三レ才進ムト也。横議之世、或其ルカ歟。後讀者、才、果シテルトザルト、是シモ焉。顧フニ其援及旁博、寒士苟セバ、則以免スルノ市肆之勞耳。余仲任スル、後世無キヿヲ法君タル秦皇。或使下二秦皇シテ於驪山、覧上レ之、則豈不ンヤ亦焚焉哉、豈ンヤ亦焚焉哉。

〇昔諸葛武侯(*諸葛亮。謚忠武侯。)、年二十八、始昭烈(*劉備の諡号。)於南陽。而シテ天下、熾ンニス炎漢タルヲ。可臥龍矣。己亥(*安永八年〔一七七九〕)春、觀昭烈帝、雪中顧スル武侯於林子權。今茲年亦二十八、因私竊感、作蟄龍
之在、潜叢間、蜿沙泥、畏人顧物、縮首曵尾。不蛇甚ナラ矣。方、見者莫埜人樵豎也、弄侮シテ而狎擊。或ムヿ葉公、見其潜伏蜿蜒、甚蛇相近キヲ、又蛇トシテ。而后弄侮シテ而狎擊スル者、愈〳〵〳〵、遮、掣礫拉蹴、爭ツテ其惨焉。竟ヒニ相議シテ曰、蛇者害物ナリ也。殺シテンヿ焉可ナリ矣。會ヒヌ豢龍氏ツテ而見ルニ一レ、大曰、龍也、今歳雨。請則得焉。衆咸矣。豢竜氏曰、可ツテ將來耳。遂携而歸、飲食栖處、盡其欲矣。居ルヿ之數日、雲蒸雷虺。於是、俄ズルヿ數仭、神光璨瓓、屈伸爲嘘噏。瞬目際、大風揚石、震電烱霍、【晦雲】霹靂、咫尺不、沛然雨注。傾滿。然後冉冉冲天、飛乎玄問。餘勢、拔、谿捩(*原文「手扁+厂/良」」)山動。枯苗亦勃然生ゼリ色。民大、相抃而歌、而后弄侮シテ而狎撃、且クヿ者、莫ルハ(*原文「{愕+咢}」)然恐怖、奔走逃竄矣。嗟呼、夫之爲靈、能起、嘘雨、復、使(*L セシムレドモ二レ(*原文「{木扁+卞}」)而歌舞、不埜人樵豎狎擊拉蹴、豈非ズヤ時勢ルニ乎。若使二レ一レ豢竜氏、畏人顧物、縮首曳、瘞シテ於培塿、而不スヿヲ其靈、終以蛇没セン。殆ヒカナ哉。豢竜氏亦或ンハレニ、則何竜若葉公焉。豈不亦幸ナラ哉。
今世の文人、多くは詩よりして文に入る。故に文章のうち必ず詩の句を用る者あり。けん躰の甚き文章の軟弱なんじやく、先此に坐せらる。是文章第一のきんなり。
散文中に韻文あり、韻文中散文あり。然れども散文自ら散文の語あり、韻文自ら韻文の語あり。散文の語を以て韻文に用るは猶可なり。若し韻文の語をとつて散文に用る寸は、語脉ぞくせず、文理そむくものなり。世の文人是を知ず、多く此禁ををかして識者しきしやの爲にとられず。然も又文辞すでに老(*L かうしやになり)て、乾坤を罔羅するの手叚しゆだんに至ては、此定則(*L をさだまり)かゝはらざる所あり。【押韻せざるを散文と云。押韻の文を韻文と云。】
文章は躰を知を先とす。凡そ序のていかくの如く、碑の体は此の如く、傳の体は此の如く、書の体は此の如くと云ふヿは人々知所にして、予が所謂いわゆる体を知とは是には非ず。たとへば傳に史傳の体あり家傳の体あり、碑に古跡こせき名區めいくの碑の体あり、丈夫の碑の体あり女子の碑の体あり、有位(*L くらひある)の人・隱君子等の碑、をの〳〵其体あり。其餘の諸体みな此の如く、躰中に体あり。むまく此を知ざる寸は、無法の文となる。然も又体に正体あり変体あり。是またべし。
雅文中に俗語を用るヿ、今有無きもの、提合さげぢう荷包きんちやくるい、予があらわす文藻行潦うちあぐる所、大率をゝむね可なり。如昔徃むかしより有所の吾儕とかくべきを俺等と書、余と書べきを自家と書こぶねを溪巤、婦を渾家などゝ書く。是を雅俗相渾ずと云ふ。失躰の甚シキなり。倭人わひとならひにて、からには匹夫たろうも知たる俗語の字を竒なる物とこゝろへ、むづかしく作りたがるなり。竒を好むは初學の常にて、得て俗語の字を用るヿ多し。陋夫いやしひかな
本邦の文人、地名をもちゆ(*L つかふ)るヿ多く、一定せず。たとへば江戸を東都と云ひ江都と云ふ。奈良ならを寧樂と稱し南都と稱す。大義をだにあやまたずんば、隨分ずいぶんに用(*L つかふ)るヿ可なり。然も一篇の中にて江戸のことかみには東都と云ひしもに江都と云ふなぞのるい、徃々筆にまかせかくヿ多し。つゝしむべし。一篇の中にて一地名を二様に書す。中夏は云ふに及ばず、 本邦にても識者は决して無きヿなり。からに入道と云事あり。是を 本邦の入道にあてて文章にほどこし、夏に勘定の字あり。是を 本邦の勘定かんでうつ。是を倭習わしうと云ふ。此の類あげてかぞふべからず。老文の人といへとも、識者の手をざれば此倭習をまぬかれがたし。文章は後世にのこるものなれば、一篇を著属つくるとも自らとせず、識者の駁(*L なをし)こふはぢを千載にのこさぬやうにすべきヿなり。
堀川家(*伊藤東涯の流)にて字をあやまり置を顚倒錯置さくちと云ふ。顚倒の字は劉攽が後漢書の註、宋景濂が日東曲にも出たる字なれども、錯置の字は其家にてつくりたる語なり。予とら。それよりは中夏にて徃古むかしより云ひ來りたる倒錯とうさくの字を用るに若じ。余故に字の倒錯と句の倒錯とを以て分つ。字の倒錯とは譬ば所をくべきを、爲かくこれにては爲とより外はよめぬなり。句の倒錯とは、吾何ンゾシテナルヿヲ而不ンヤ先輩乎と書べきを、吾何ンゾシテ先輩而獨爲ンヤ乎と書く。是にては華人によましむる寸は吾何ンゾンヤ(*ママ)先輩而獨為一レ(*ママ)乎と云ふ意にほかはよめぬなり。若し吾不先輩獨異也とすれば、まだ文章になるなり。文章は如此毫釐を爭ふものと知べし。且獨爲と爲獨とのわかちも分明なるヿなり。此上に又章の倒錯あり。余別に説あり。こゝに略す。これを三倒錯とうさくと云ふ。
謬用びやうようは文章第一の難事なんじにて、 本邦古來より先輩・宿儒皆これまぬかるゝあたはず。夏人とうじんと云ども、後世の文にはまゝあり。夏人の文なりともゆだんすべからず。矧や徂徠・南郭などの文をあてにして、徂徠の文にかく、南郭の文にかくありなんどゝいつて文章に用るこそ片腹かたはらいたくあぶなきヿなり。助字の謬用あり、疑字の謬用あり、句の謬用あり、事の謬用あり、是を四謬用と謂ふ。助字の謬用とは、矣の字を置べき所に也の字を置き、也の字を置べき所に焉の字を置なぞの事を云ふ。疑字の謬用とは、言の字を用べき所に謂の字を置き、謂の字を用ゆべき所へ云の字を用ひ、無の字を用べき所へ莫の字を用ひ、弗の字を用べき所へ不の字を用るヿなぞを云ふ。句の謬用とは、古人の序属三秋と云ふ句にもとづき、時属夕陽と用ふ。又古人の出没望平原と云ふ句に本き、曠原出没と用るなぞを云。事の謬用とは、故事こじもちひやう其文章と相應さうをうせぬヿを云ふ。此は易(*L やすき)(*L しれ)ヿのやうにてかゑつて氣のつかぬ所に甚だ多きものなり。兎角とかく識者の手をざれば人まゑへ文章はだされぬヿと心得べし。
四謬用の外に成語の謬用あり。是は韓昌黎家の文と中郎家(*袁宏道)の文をなす者には無きヿなり。唯李王家の斮拔きりぬき文に極て多し。假如たとへば荘子の唯松柏獨也在冬夏々とあるを斮拔きりぬきて、唯檜獨リ也也と使つかひて、在冬夏々をすつをよそ也に句尾の也あり、句中の也あり。句中の也は語助にて、莊子の獨也は獨也ひとりなりと云には非ず、やはり獨也ひとりと云ふヿなり。獨也在冬夏云々連属れんぞくして始て竒なり。唯檜獨ナリ也と也の字にて切てしまへば、莊子の成語を斮拔きりぬきしとは云れぬなり。をもしろくもなんともなき語となる。修辞をなす此等こゝらの所に心をつくべし。孟浪杜撰(*L めつたむしやう)に古書を斮拔きりぬくばかりを修辞とはいわぬなり。古書の成語をまつたく用るとも、斷前歇後だんぜんけつごして用るとも、文章にほどこして妙(*L をもしろき)なるを辞を脩するとは云ふなり。
華音とういんに通ぜざれば文章は出來できぬものゝやうにいう人あり。大なる妄なり。華音に通ぜば、夏人とうじんはなしをするにはよかるべけれども、書をたしにもならず、文章を作るたしにはなをならず。信に學の爲には罌粟けしほどもやくにたゝぬなり。凡文章は古人の言を文字につゞるなり。言は世に因て変ず。今の言の音に通じたりとも、なんぞ古言を文する益とならんや。今試に文章家常用のの助字をあげて之をしやうせん。夏商の代の人の言語に也矣の餘声よせいなし。故に夏商以上の文辞に也矣の助字なし。周の初に至て始て矣の餘声あつて文辞に矣の助字あり。其中葉に及んで言語に也の餘声ある寸は文辞に又也の助字あり。後隋唐の代よりして也矣の餘声たへたり。故に俗語小説の書に一字の也矣の助字なし。すでに唐の代には也矣の字の用やうを知ざる人あり。以て今の華音を知るの古文に無益なるを見べし。されば夏人も今の言をたゞちに筆すれば俗語小説の文となる。文章に至ては古言による。古言は今の世に生きくヿを得べからず。故に是を古書中に求て法とするヿ、 本邦にことなるヿ無し。然るを、華音を知ほこり、夏人とうじんあふほこる。其識量も推測をしはかられていたまし。夫豪傑士は古の高めいなる夏人をさへをそるゝたらずとす。いわんや今の夏人をや。今の夏人の紳縉(*ママ)先生をだもかろんる。况や長アへ来る商賈あきなひ夏人とうじんをや。予かつて近世の夏人の文を見るに、徃徃わう〳〵よむたらず。たれか 日本の文章中夏にをとると謂や。【隋唐演義・艶史などに也矣の助字ある所あり。是別に説あり。】
華音に通ぜざれば俗語小説の書をよむヿ能ず。且俗語の文をなすヿ能ずと云ふ人あり。是亦た妄なり。予幼日いとけなきときで小説の書を讀で兒戯にあつ。華音を知ずと云へども、金瓶梅・水滸傳・西游記・龍圖公案等の諸書よむべからざる無し。又俗語の文に至ては、かへりて正文章よりはなしやすし。予即ち俗語を以て一事を記して左にあぐ。以て余言の誕妄(*L をゝきなくち)ならざるをあかす。
慶長中板倉侯為ルノ京兆日、四條一長者。家富(*L しんだい)巨萬(*L をゝく)メリ三子。疾自知ルヲ(*L ぬ)(*L なをら)、因三子、至ラシメ床前、交(*L わたし)大壷蘆(*L をゝきなひやうたん)〳〵一枚。其うちナンノ物事(*L なんにも)、只児子名字(*L こどものな)。不多日ナラ(*L ほどなく)(*L とう〳〵)。不言語を嘱付(*L ゆいごん)。又(*L なし)分関(*L あとしきの)開冩(*L ゆいでう)、親眷(*L しんるい)ク隣(*L きんじよ)(*L より)(*L あひ)商量(*L そうだん)スレドモ、不この壷蘆なんの縁故(*L わけ)。聞板倉侯既明白ナルヲ、遂(*L もつて)(*L のこしをく)壷蘆府中(*L やくしよ)、告。侯即下二三児〳〵(*L ならべたて)其壷蘆。只小児壷蘆正立(*L しやんとたつ)シテ(*L かしが)、餘(*L ほか)皆倚(*L よせかけ)(*L やつと)。侯いわく(*L なんぢ)父の意思(*L れうけん)分明(*L さつぱりしれた)。将てこの家資(*L しんだい)(*L のこらず)(*L やり)小子、管シテ(*L つかさどらせ)なし了大宗(*L ほんけ)、別産業(*L すぎわい)、與二長児(*L あにども)、倚大宗スナリ了小宗(*L いへわかれ)。不知小子材幹はたらき(*L きれう)スルヤ長児邪。一干人(*L かゝりあひのもの)(*L さばき)一レ(*L どうり)、驚(*L かんしん)シテ其明察、各〳〵シテ(*L ありがたがつて)而去
世の文人皆自ら知ヿあたはず。先が文章の佳否にくらし。况や人の文章の議論をや。予甞て能世人の知所の諢話をとしばなし數十を記して一時のかんる。もとより不朽ふきうの意なければ、諸家の体ふでまかせて發す。しひけんせず。このごろ志彀しこうあらはす志あり。因て出して人にしめすに、余が初より不滿みたずとするをば、人かへつて口を極て之を稱し、余がよしとする所は人かへつて不滿の色あり。是に於て昌黎(*韓愈)が言の信然なるヿを知り、はたして文章に通ぜる者すくなきを知り。今其中ち短簡の者五首を左にぐ。人以ていづれをか是とし孰をか非とするや。
(*L こしもと)(*L もてくる)(*L ちやを)。主人(*L だんな)(*L にて)小恙(*L ふぐはい)、服(*L のむ)(*L くすり)。因(*L して)湯藥(*L せんやく)、加ヘテ(*L ひたい)。婢詿あやまりなして主人有(*L きが)たはむる於我矣。故ラニ(*L わざと)こび低声シテ(*L こへをひそめ)曰、如(*L い)内子(*L をくさま)の見ルヲ焉何
〳〵シテ(*L つり)版閣(*L たな)。蓋 本邦之俗(*L ならはし)それ(*L なにがし)人資産(*L しんだい)〳〵(*L わるくなり)、一日(*L あるひ)閣上(*L たなのうへ)ルガ音声(*L こへ)主人(*L ていしゆ)ンデ以為ラク、吉神(*L ふくのかみが)來格スト(*L をいでなさつた)。設(*L あげ)(*L をみき)(*L いのる)(*L しあはせ)にわかニシテ而神墜(*L をつ)乎閣ヨリ。視レバ之、則削面(*L けづれるかほ)・焦髪(*L かれたかみ)、短身(*L せいひきく)・骨立(*L やせこけ)、索帯(*L かわのをび)・弊衣(*L やぶれきもの)、厳然タル(*L きつとした)究鬼(*L びんぼうがみ)也。主人驚曰、凡使(*L しむるヿ)二レ面目可にくむ、語言無一レ、若(*L そこばく)ナル於今もとゝシテ之由レリ(*L ぜんたいこいつがわざじや)。吾今ニシテ而后得タリヘスヿヲ也。迺圜縛シテ(*L くる〳〵まいて)(*L すてむ)レヲ埜外(*L のはら)。還則閣上又有声、主人復ンデ其人(*L たなのもの)曰、究鬼既、而吉神實いたレリ矣。因(*L めて)(*L いきを)(*L そつと)、究鬼(*L するなり)(*L げじを)於厥下(*L てしたに)也。曰、毋(*L な)スルヿ(*L はぢへをる)(*未詳)(*L な)逡巡スルヿ(*L あとしざりする)、毋ヘテひじせまりスコト。或(*L ひよつと)セバ(*L そこなはゞ)<(*L ふみ)、亦不(*L のがれ)縲絏(*L しばりあげらるゝ)之辱(*L はぢ)矣。
客謂北里曰、余(*L まへに)友人リキ南樓(*L しながは)。樓上壁間、(*L かべ)かく逹磨だるま。筆力雄古(*L ひつせいたゞでなひ)、友人曰、此探幽たんゆう也。余問ヘバ、則彼中(*L みんな)諸妓(*L じよろう)すべ探幽為ルヲ何物なにもの、大イニヘリ(*L さめた)キヲ(*L きやうが)矣。妓笑曰、丈夫せむるヿ於人、終ヒカナやむヿ夫。南方(*L しながはの)卑婢(*L じようろしゆ)、如何ンゾ(*L どうして)又知尊者(*L だるまさんの)別号(*L はいみやうを)哉。
聾者(*L つんぼ)(*L ひいて)而行。友人(*L ともだち)(*原文「た」)みちにしてあふ。曰、間ンゾナル(*L このごろはをとう〴〵しき)。聾者曰、狗也。大人(*L をやじどの)シヤ(*L をかはりも)。曰、去而殺也。(*恙と蝿の聞き違えか。)
本邦児子字訓與音適(*L あるひと)音訓(*L こへ・よみ)、觀この、而不一レ。問曰、此何也。對曰、拏スル雲間りやう也。眈視負也。客愕然トシテジテ曰、奚ンゾニシテ而不也。斯親ニシテ也而有斯子也。而今(*L けうよりして)而後、吾レリ造化不一レ測矣。
他人の文をさつせんと欲ば、先づ己れに其眼目をせざれば、皮相の論なり。文章をよそ一句のちん言なく、一字の冗長なく、古人を剽襲へうしうせず、己れより出ず、雄渾にして法をうしなはざるを昌黎家の文といふ。浮靡にしてまゝ前歇後ぜんけつごある文を六朝風と云【冗長對耦の文も又六朝に属す。】古人の成語を襲剽ぬすみうばひし、或は首尾まへあとすてなかを用ひ、衷を棄て首尾を用ひ、戟舌棘口(*L むづかしく)よむべからず解すべからざる文を李王の修辞と云ふ。近世一種の文をなす者あり。李王の戟舌(*L むつかしき)いとひて韓柳のすてがたきをしり、論を立て曰く、法を韓柳にとり辞を李王に脩むと云ふ。これを菽麥を辨ぜぬ白癡(*L をゝばか)と謂べし。李王の奴隷ぬれい(*L しりにつひて)となつて、成語を斮拔きりぬくに汲汲して、彼此かれこれつゞり合せて文章とするヿは昌黎家の文になきヿなり。予平生つ子いふ、平々坦々(*L こゝろやすき)よみやすき文にても、成語を成語を剽襲するをばどこまでも李王家の文と謂べし。性靈より發して、古へによらず、能く物々事々其委曲詳密をつくし、必しも古文をかゝず、己れが文をなす軽俊、其詩と趣を同ふす。是を中郎家の文といふ。今の文章、此四を以てくゝるべし。假如たとひわれは宋濂(*字景濂)が文をなす、誰は宗臣(*字子相)まなぶ(*ママ)、某は鍾伯敬(*名惺)なすかれは汪道昆(*字拍玉)すなどゝのゝしれども、其文を見れば己がせんと欲する人の成語を處々ところ〴〵とるか、又は其人の著文章のていちゑも無くまるで似せるか又はちとばかり似せるかにて、つまるところは上の四に出ず。此外に小説の文あり。又何とも名のつけられぬ文章あり。之を骨董ごたまぜ文章と謂ふ。又からにも非ず日本にも非ず、名て軸羅ちくら(*筑羅。筑紫か新羅かの略で、どっちつかずの意。)と云ふ。漢以上は舎て論ぜず。魏晋氏より以下、本邦文章あつて以来、此七を以て天下の文を盡すと云
世の學者志いやしく量ちいさく、しきたらず。故に古人ををそるゝヿ鬼神の如し。徂徠・南郭といへば、及ぬものゝやうにをぼあまんじて其奴隷ぬれいとなる。かへつて歐陽永叔(*名脩)・袁中郎なぞの文をば目にも見ず、わるきものと會(*L こゝろへ)て長物(*L のけもの)としてをく。是皆徂徠にばかさるゝなり。歐陽・中郎の昌黎にしかざるは論なし。然れども于鱗・元美が豈能く及ぶ所ならんや。况や徂徠・南郭をや。し昌黎をなすあたはずんば、歐陽は云に及ばず、中郎をなすも文章たるヿを失ず。李王の文をなすまさるヿ萬々。
世の人識量しきれうなし。故に古文辞に非れば時俗にあはざるを以て、時好はやりに從ひ古文辞を奉ずるヿ律令の如し。能く此時好にまどはされざるを豪傑の士といふ。昔し李于鱗没して後、王元美獨り天下の文盟を主る。凡そ海内の縉紳大夫は云ふに及ばず、僧道醫ぼくの徒に至るまで、文章に志す者爭て其門にをもむかざる者なし。學者これたつとむヿ泰山の如くす。このさかんなるにあたつて袁中郎ぼつ然として其際(*L あひだ)に崛起し、公然(*L はゞかるヿなく)と古文辞の非を指斥しせきし、別に一家をなす。天下靡然として是に従ふ。中夏今に至て古文辞のへいまぬかる。中郎が此道に功ある、亦小々ならず。中郎が修辞をばくするの初め、元美なを生存せり。元美も亦中郎が爲に化せられ、本來(*L むまれ)まいの才氣こゝに於て油然として發出し、多年于鱗が為に誑れたるヿを悟り、晩年の文更に平淡に趣く。將に没せんとするに至て、手に東坡が文をすてず、ついに之をよみながらそつせり。是元美が元美たる所以ゆへんなり。如し元美をして于鱗にあはざらしめば、文章必ずこゝに止らじ。不幸なるかな。
天地の氣運きうんは久ふして必ずへんじ、人情は久ふして必ずいとふ。能く此を察するを俊傑の士と云ふ。今や 國家文運隆盛の日にあたつて人々又李王の古文辞に厭ふ。然れども世儒己れ古文辞をよくするには非れども、徂徠に誑され古文辞の斮拔きりぬきに非ば文章とせず、口を極めて修辞々々と云ふ。修辞に非れば教とせず。故に學者古文辞に非れば學べき無く、竟に時好となる。百年來の竒才俊傑の士をして手をつか子て剽襲をなさしむ。悲かな。若し世に予と同志の人あらば、吾此道の陳渉たらんと云ふ。
経濟けいさい用の學に非ば、文章春花の如くなりとも、雕蟲の小技のみ。故に英雄たる者、父人を以て稱せらるゝヿをはぢとす。然れども太平を潤色すべき者、文章に非れば不可なり。太平の世に生れ、其名を後世に不朽ふきうすべき者、文章に非ればなすべきなし。是余文章を黽勉する所以なり。世の人必しも文章を以て余が本色と謂ヿ勿れ。
作文志彀<了>

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