閑散餘録　卷之下

閑散餘録卷之下

• ○ 伊藤仁齋先生、初の名は維貞（これさだ）、時に兵部大輔貞維（つな）朝臣なる人あり。其名を避て維�驍ﾆ改む。元祿年中、仁齋の名　天聽に達し、その文を宣索したまひし時、この人に因て文章を獻ぜしとなり。〔伊藤仁齋、名維�驕A字原佐又號古義堂。始て古學を唱ふ。─頭注〕
• ○ 仁齋壯年の頃、後�ｺ大寺殿學問を好みたまひ、又時々京�ｷに名ある�ｩ儒を其舘に集めて互に論難させて娯みたまひけり。仁齋も其會に召れけるに、會毎に�ｩ儒初めは皆矜持して、威儀をつくろひ、聲音を低くし、論難往復す。後には威儀の頽るゝをもしらず、面色を變じ、音聲を高くして、大に激論に及ぶ。其中に仁齋一人は、初筵の時より會の終るに至るまで、威儀聲色すこしも變ぜず、温にして恭しかりしかば、終に佗の�ｩ儒も仁齋の�ｺに服したりとぞ。堀正藏は仁齋の時より予が弱冠の頃まで存命せり。まのあたり其物語を聞及べり。
• ○ 仁齋は痢を疾て物故せり。その時に、誰にかありけん、一人の醫者芍藥湯を用ひたり。その頃の評判に、攻撃に過たりといへりとぞ。今を以て見れば、芍藥湯の如きは平和の劑なれども、その時節はこの評あるもことはりなり。その後、後藤佐市〔後藤佐一�ｶ、名は逹、字は有成、養庵と號す。江戸の人。京�ｷに至て醫を業とし、始て古方を唱ふ。─頭注〕（＊後藤艮山）なるもの古方を唱へしより、醫道一變し、人々一家の言を建て門戸を張る故に、今に在ては古方を好まざる人も大黄・石膏を恐るゝことなし。時世の流行、何れを是とし何れを非とせんや。聖人復出ずんば、その論一定しがたかるべし。
• ○ 仁齋は平生寫字を好めども、只意にまかせて揮寫し、法帖を摹すること少なし。東��〔東�香A名長胤、字は原藏又慥々齋と號す。仁齋の子なり。─頭注〕は暇あれば法帖を寫して閑を消せりとぞ。父子の間にも好尚は各異なるものなり。
• ○ 仁齋の學脉は甕^ノ記・櫝^ノ記・吉齋漫録〔甕記以下三書の作者は明人。─頭注〕（＊いずれも呉廷翰）の説を竊みて吾發明とし一家を建たるものなりといふ説あり。これ妬者の言にて、大なる僞りなり。天地一元氣の説は少し似たるやふの事あれども（＊原文「あれも」）、全體別なることなり。かの三書は皆理學者流の言にて、仁齋の説と大に同じからず。長門の周南（＊山県周南）が文集にその事を論ずれども、亦全く竊めるものとせず。瑣々たる末義にも人の非を辨駁することを專務とせるもの、近時甚多し。嘆ずべし、憐むべし。仁齋の胸襟人の説を竊みとれる氣象にあらず。もし萬一暗に符合することあらば、千載の子雲（＊未詳）といふべし。
• ○ 仁齋と東�高ﾆ性質に違あり。仁齋は一篇の文・一首の詩を作りて人に示さるゝに、その人賞嘆をなせどもあながちにその喜の色を見ず。他人いか樣に嘆美をなすといへども、自（みづか）ら心に滿ざれば其顔色自若たり。東�高ﾍ然らず。或は文、或は詩、人見て賞すれば自らも喜びて其色面にあふれたりとぞ。これ仁齋は大量にして人の毀譽にかゝはらず、東�高ﾍ篤實にして人を信ずればなり。二先生共に是なり。
• ○ 仁齋存在の時、土佐矦の儒官大高坂�C介といへる人あり。〔大高坂�C介、名は季明、芝山又一峯、黄軒と號す。土佐の人。谷一齋門人なり。適從録二巻あり。─頭注〕適從録を著して大に仁齋を誹譏す。一門人彼書を持來て示し、且これが辨駁を作らんことを勸む。仁齋微笑して言はなし。かの門人怒りふつくみて（＊「ふつくむ・ふづくむ」〔恚む・憤む〕−憤慨する）曰、もし先生辨ぜずんば吾其任に當らん。仁齋徐に言て曰、我非に彼是ならば、吾非を改めて彼が是に從ふべし。もし我是に彼非ならば、我是は即天下の公共なり。固より辨を須（また）ず。久（ひさし）ふして彼も亦自（みづか）ら其非を知ん。汝只自（みづか）ら修めよ、他を省（かへりみ）ること勿れとぞ。仁齋の度量大旨、この類なり。此事は香川太冲（＊原文「太沖」）〔香川太冲は仁齋の門人、名は修�ｺ、秀庵又一本堂と號す。─頭注〕が藥選の跋に見へたり。然れどもその書、醫生の外は人毎に讀ざるを以てこゝに贅す。
• ○ 節分の夜の儺に大豆を室堂に散ずることは、經生の心には兒戯に近き態にて、笑ふに堪たる事なり。然るを、仁齋の家にては此禮をも廢せずして行はれけるとなん。好で人に異なる、何の�uあらん。仁齋の温順、これらにも思ふべし。
• ○ 仁齋興感あれば和歌を詠ず。其事行状に見へたり。その詠出の和歌を自ら集めて一卷とし、且自ら點を加へ跋を撰す。眞蹟は京師の税官小堀數馬氏の家に藏れりとなん。寫本まゝこれあり。〔仁齋の歌集は、甘雨亭叢書の中に入りて刊行あり。─頭注〕其中に二點の歌七首あり。總計二百八十餘首にて、閨怨（こひ）の歌は一首もなし。仁齋の和歌とて人々のしれるは、春の歌の中に梅を詠（よめ）ると斯^ノ民^ハ也三代^ノ之所-_二以^ナリ直道^ニシテ而行_一也といふ心を詠（よめ）ると二首なり。この二首も集中に入れり。〔梅の歌、集中あまたありてそれと知り難し。斯民云々の歌は、「人ばかりをとりしもせじ月も日もなにかむかしの空にかはれる」─頭注〕然れどもこの二首秀歌といふには非ず。詳に集中に考へば猶あるべし。昔惺窩先生も和歌を能せり。文集に和歌集をも合刻せり。近頃南郭（＊服部南郭）も初め和歌を能し、後に詩を學べりとなん、太宰が獨語にいへり。徂來の歌は政談の卷末に二首あり、この外には聞及ばず。〔徂徠の歌、今傳ふる政談には見えず。別に徂徠の歌とて傳ふるものは、「吾門の五もと柳枝たれて長日にあかぬ鶯のなく」一生一首の歌なりと云へり。─頭注〕
• ○ 徂來の辨名に、四端の端を以て一端の端なりといへり。然れども是徂來の言にあらず、仁齋の中年の見なり。古學文集を見て知べし。仁齋晩年定めて端本とす。各考る所なり。
• ○ 徂來始め書を仁齋に寄す。仁齋答なくして程なく物故せり。その後、門人仁齋の碣の銘の後に、安藤省庵・村上漫甫〔村上漫甫、名は守佺。活所（＊那波活所）門人。冬嶺と號す。─頭注〕及び徂來の寄たる書籍を載て一卷となして梓行せり。徂來の蘐園隨筆及び芳村恂�uに答る書に此事を大に訝り憤れり。予仁齋門人の言を聞くに曰、徂來の書の到れる時、先生既に病中なり。故に答もなかりき。佗の故なしとぞ。予又その書翰を讀に、ひたすら圭角を先にして爭へるに非ず。しかれば仁齋も復書すべき事なり。門人の説の如くなるべし。
• ○ 仁齋に五人の男子あり。五子ともに才學有て家聲を落さず。長胤、字は原藏、東�高ﾆ號す、又別に慥々齋と號す。長英、字は重藏、梅宇と號す。初め周防の�ｺ山毛利矦に仕へ、後備後の福山阿部伊勢矦に仕ふ。長衡、字は正藏、介亭と號す。高槻の永井飛騨（＊原文「飛彈」）矦に仕ふ。長準、字は平藏、竹里と號す。筑州の久留米有馬玄蕃矦に仕ふ。長堅、字は才藏、蘭嵎と號す。紀伊公に仕ふ。五子の次第此の如し。東�高ﾍ長子なるゆへ、京�ｷの家を承て仕途に就ず。弟四人は右の如く各々儒業を以て�ｩ矦に祿仕せり。五人の中、東�高ﾆ末子の蘭嵎二人、經術文章特にすぐれたる故（ゆへ）に、京�ｷの諺に五藏の頭尾と稱せり。五藏とは五人同じく字に藏の字あるがゆへなり。父子相繼て學術に長じ、しかも五子ともに家聲を鳴せること、和漢に其比寡きことなり。仁齋の�ｺの遠きこと、是等にも知べし。
• ○ 或人予に語て曰、春臺（＊太宰春台）が曰、仁齋に三の幸あり。初めて古學を開く、一の幸なり。仕へざる、二の幸なり。子に東�高�る、三の幸なり。
• ○ ある人東�告謳ｶに問て曰、今にてもあれ孔子大將軍となり、孟子を副將軍として數萬の兵をひきひ（＊原文「ゆきひ」。語法では「ひきゐ」）吾國を攻來らば、先生まさかにいかんかせんや。先生答て曰、｜先｀まづ´左樣の事はこれなき事なりとぞ。〔この事は山崎闇齋の門人を戒めたる語にて、靖獻遺言講義にも此趣のことあり。專ら山崎門人の唱へしことと見ゆ。─頭注〕これらの話にも、東�高ﾌ温柔を見るべし。存じて論ぜず。その度量奧ゆかしく覺ゆ。
• ○ 京師は浪華落城の後浪人多く徘徊せし時、双刀を佩るものゝ穿議甚しかりしなり。今も其先例にて、士たるものゝ住居難きのみならず、逆旅の一宿・信宿（＊二泊。三泊以上は次宿。）も帶刀のものを好まざるなり。故に儒士の京に住する輩は、もし�ｩ矦の臣たるものは、その矦の守（るすい）邸より官にことはり、又何れの�ｩ矦の臣にてもなきもの（＊原文「なきものなきもの」）は�ｩ王公家の寄客（けらいぶん）となりて刀を帶するなり。然るに何れの�ｩ矦の臣にてもなく、又堂上の家隷（けらい）分にてもなくして雙刀を佩るは仁齋の家ばかりなり。故に今の仲藏〔仁齋の孫〕〔伊藤仲藏、名は善韶、東所と號す。能く家學を紹ぎ、家聲を墮さず。─頭注〕往年父東�高ﾌ制度通を江府に獻ぜし時、　�ﾍ命有て白銀を賜へり。その時の端書（はしがき）にも浪人仲藏へと署（しる）したまへりとなり。
• ○ 丹波の山中に天狗の道と云傳へたる處往々あり。もし其處に家を搆（たつ）ればさま／〃＼の祟（たゝり）をなし、或は夜に入てその家を鳴動せしむと古來よりいひ習し、たま／＼よき土地有ても避て閑地となす。丹州は仁齋・東�高ﾌ門人の殊に多き國なりしに、一門人あり。その人年少客氣の漢（をとこ）にて、天狗何ぞ恐るゝに足んと言てその地に家を建たり。果して夜々鳴動をなして一日も居ることを得ず、終に空宅となる。年を經て東�穀O州に之く。相應の寓居の地もなかりければ、東�高ﾉはその由を語らずしてかの空宅に僑居せしむ。然れども其夜より天狗曾て害をなさず。何事も怪異なかりしとなり。東�高ﾍ質行篤實の君子なれば、豫め其事を語らば必其家に寓すべからず。けやけき行をなして名を求る人に非ず。然れどもその心湛然として客氣なきを以て、妖鬼も害をなすことを得ざるなり。
• ○ 東�高ﾌ秉燭談（＊秉燭譚）の序の原稿は、假名（かな）の文に助語を加へて助字を用るの法を示したるものなりと聞（きけ）り。今刊行の序はその後漢文に改められしと見ゆ。
• ○ 仁齋初め細川矦より百口米（ひやくにんぶち）を以て聘せらる。親の疾に因て辭して之（ゆか）ず。東�高ﾍ紀伊公より五百石を以て召る。これ又辭して仕へず。實に父子ともに仕へを欲せざるなり。
• ○ 東�高ﾌ兒夭死の時、門人數輩棺前に侍り。時に天台宗の沙門一人來り吊ひ、禮畢て門人に向て言て曰、かゝる哀哭の時は無常輪廻の道も�ｩ君可（もつとも）と爲ざることを得んや。�ｩ人皆言なし。木村源之進〔木村源之進、名之漸、鳳悟又兼山と號す。─頭注〕答て曰、何樣（なにさま）かゝる時は魔道にも引入れられそふに思はれ侍るとぞ。かの沙門黙然として席を起（たち）しとなり。源之進は江州の産にて、多年東�高ﾉ隨侍し、後に儒を以て紀州に宦せり。
• ○ 徂來先生、俗名を總右衛門と稱せることは曾祖父の名を襲（をそへ）るなり。荻生少目といへるもの、初て參州より勢州に來り、北畠家に寄（かゝり）て卒す。其子を總右衛門といへり。即曾祖父なり。祖父を玄甫といふ。初て江戸に之て醫を業とせり。父方菴〔字は宗甫。〕繼て醫を業とし、東�ｷに仕へ祿二百石を食（はめ）り。時に　憲廟〔常憲公、寛文元年閏八月舘林城主となる。─頭注〕出て封邸に就たまひ、方菴も從て仕へ奉りしかども、一朝に陪臣となることを口惜く思ひ、請て幕府に歸る。程なく　憲廟入て統を繼たまひ、方菴が公に從がはざるを不臣なりとて、父子ともに江戸を放逐せらる。この時徂來は年十四なり。父と共に上總^ニ之て乳母が家を�ｮみて長（ひと）となり、二十五の歳赦に逢て江戸に歸る。最初は増上寺の僧に父の方外の友あり、この時僧臘一字斑（いちもんれ）（＊ママ）なり、それを�ｮみて徒を集めて舌耕す。その頃柳澤侯の勃起にあひて、終に侯に仕へ、祿は五百石、格は番師（ばんがしら）に至る。弟の總七は又この侯の推擧に因て、出て東�ｷに仕へ祿二百石を食り。〔原注云、總七は父の後をつぎたるなり。別に出仕したるにはあらず。─頭注〕
• ○ 徂來の號は、總州に往來（ゆきゝ）の里（＊未詳）といへるあり、その地名を以て號とせりとなん。
• ○ 徂來は總州にて田夫野人の中に長（ひとゝな）りしゆへ（＊原文「なりしゆ」。語法では「なりしゆゑ」）、平生の言語にも鄙野の俗語多かりしとなん。郡山の柳澤權太夫〔柳澤淇園、權大夫と稱す。名は里恭。─頭注〕の著述に見へたり。實（げに）も譯文筌蹄・政談等の書をみるに、賤しき俗語を能あつかはれたること多く見ゆ。
• ○ 徂來讀書を好むこと天性に出づ。常に黄昏に至て齋中既に闇ければ、縁側（ゑんがは）に出て書を讀む。やゝ有て燈至れば、書を兩手に持ち、立て讀ながら内に入しとなり。
• ○ 徂徠は閨門の内禮法極めて嚴正なる人なり。初め一人の侍婢、頗容色あり。徂來もこれを愛して書齋に出入せしめて給仕せしむ。かの婢の心に、我容色を以て主の愛を得たりとのみ思へり。ある日、徂來偶晝寐せり。かの婢、主人の睡眠の内に冷氣に侵されんことを愁へて、衾を取來てこれを被（をゝ）ふ。徂來目覺（さめ）て驚き問て曰、吾召ざるに吾書齋に入て衾を着せたる者は誰ぞ。婢の曰、妾なり。徂來且怒り且悔みて、是より十二三までの春心なき了鬟（こめろ）を買得て、その了鬟の外は書齋に出入することを許さずとなん。
• ○ 徂來の祖先は源姓なり、後に物部の姓を冐せるなり。文集に、吾家の納言といへるは、即荻生少目なり。物部を姓とするを以て文集に載たる擬^スル_二大連^ニ_一檄は聖�ｺ太子の罪を數へて誅伐せんことを告る文なり。其祖守屋に擬したるなり。春秋の法を以て論ずるときは、太子も罪を逃れ難きことあり。其所以（ゆへ）は、徂來より以前の�ｩ儒にも既に公論あり。膾餘雜録〔膾餘雜録を著はしたる人は永田善齋なり。善齋、名は道慶、一沕潜居と號す。道春門人。─頭注〕などを見て知べし。物姓を冐せる所由は屈景山〔堀景山、名は正超、字は君燕、南湖の從弟、世々藝藩の儒臣なり。─頭注〕に答る書牘に見へたり。
• ○ 徂來、名は雙松、その頃　憲廟の世子�ｺ松君といへるあり。早世したまへり。その諱を避て字を以て茂卿と稱せり。春臺文集に墓誌の文あり。碑銘は猗蘭矦〔本多伊豫守忠統〔ただむね〕（＊原文「忠純」）、享保十年六月、寺社奉行より若年寄となる。─頭注〕の撰なり。左に録す。嗚呼大東物先生^ノ之墓^ナリ也。嗚呼先生復^シ_二學^ヲ於古^ニ_一歸^ス_二道^ヲ鄒魯_一。博^ク窮^メ_二物理^ヲ_一立^テ_レ言^ヲ修_レ辭^ヲ、�ｺ崇^ゲ名埀^ル。不朽莫^シ_レ大^ナル_レ焉。嗚呼先生^ノ出^ル也如^シ_二日^ノ之升^ガ_一也。乃影之及^ブ無_レ所_レ不^ル_レ照_二其朦^ヲ_一焉。嗚呼實^ニ出^ス_二先生^ヲ_一天意可_レ知^ル也。其^ノ爲^リ_レ人^ト其^ノ行状、弟子識^セリ矣。享保戊申（＊享保13年〔1728〕）正月十九日、六十有三卒^ス。姓^ハ物部、茂卿^ハ以_レ字^ヲ行^ル。銘^ニ曰、洋々^タル聖謨、世用^テ惑^フコト久^シ、天降^シテ_二文運^ヲ_一、斯^ノ人云^ニ受^ク、乃化^シ乃弘^ム、徽猷維厚^シ、大業已成^テ、日新富有^ナリ、瑕^ゾ其^レ不^ル_レ壽^アラ、天奪^フ_二斯^ノ人^ヲ_一、匪_二天維奪^フニ_一、有_レ司^ルコト_二列辰^ニ_一、嘻我小信、瑕^ゾ能孚^アラン_レ神^ニ、盛�ｺ不_レ朽、永^ク于牖^ク_レ民^ヲ。元文四年己未（＊1739年）秋七月、朝散大夫藤忠統撰。石碑は江戸三田の長松寺にあり。戊申は享保十三年なり。忠統、字は大乾、號は猗蘭、本多伊豫矦なり。初め河内の西臺（にしだい）にあり。故に西臺矦と稱す。後封を勢州神戸に移す。職を經て參政（＊若年寄）に至りたまへり。
• ○ 徂來と東�高ﾆ時を同じふして、互に半面の識もなし。然れども徂來は京より至るもの、或は京に之て歸るものあれば、東�高ﾍいかん、東�高ﾍ何（なん）の言をなすやと問りとぞ。東�高ﾍ江戸より至る人ありても終に徂來を問ふことなし。その門人のもとより、京にありて尤親炙せる人に對して夜話の次にても徂來を評せざりしとなり。吾師致齋翁（＊未詳。巻末に記述あり。東涯門。）曾て書を以て徂來の學風を問ふ。東�高ﾌ復書に明末の學風と見へたりとばかりいへり。二家の優劣これらにも知べし。學問の造詣、見識の大小は姑く置く。人となりの實なると�ｺの厚きは東�高ﾉ如（し）くはなかるべし。洞津の奧田翁〔奧田三角、名は士享、字は喜甫、一號蘭汀。伊勢人。受業東�香A親炙十年、殆入其室。津侯に仕ふ。─頭注〕は東�高ﾉ數年隨侍したる人なり。其言を聞（きく）に曰、先師終に徂來を評せるを聞ず。山田大佐〔山田大佐、名正朝、後弘嗣と改む。麟嶼（＊原文「麟璵」）と號す。徂徠門人。本姓菅原氏、因て菅大佐と稱す。なほ後に見ゆ。─頭注〕が京に遊學して先師に隨ひし時、徂來の贈文を持來て示す。大佐舍に歸て後、先師の言（いへ）るは、鬼臉（をにのめん）を蒙（かぶ）りて小兒を怖（をど）せるに似たりと、此語をきけるのみなりとぞ。東�高ﾌ作文の風にて徂來の修辭を見ば、この評あるも理（ことはり）なり。
• ○ 予嘗て徂徠答問書（＊徂來先生答問書）を見て思へるは、是設けて著述したるものなるべし。實に人に答へたるにはあらじと。その後江州に客遊して一卷の寫本を見る。是答問書の出板より以前に寫し得たるものにて、今の答問書に比すれば僅に三が一には足ざりき。その寫本には一々に問へる人の國と姓氏とをしるせり。今の刊行の本に痢病後に書たりといへるなどは、莊内の水野氏に答ふとしるせり。水野氏は、名は元�焉A字は明卿、俗名を大膳と稱す、�衷B莊内酒井矦の大夫（＊家老）なり。後には春臺を尊信したる人なり。南郭文集に碑の銘あり。これを以て考ふれば、答問書は一々人に答へたる書なり。設けて作れるには非ず。
• ○ 徂來兵學を好む。一家をなせり。�ﾂ録二十三卷を撰す。即一家の兵法を述たるなり。又孫子・呉子の國字解を作る。孫子は既に世に行はる。
• ○ 碑碣の制、徂來は古法に明制を雜へ用ゆ。東�高ﾍ唐の六典に據る。東�高ﾌ説是なるに似たり。徂來は全體の學術明儒より出づ。故に�ｩ々の制度に多く明制を引用ゆるなり。徂來の説は文集に見へたり。東�高ﾌ説は刊謬正俗に出たり。
• ○ 南郭〔服部南郭、名元喬、字は子遷。徂徠の門人。歌を北村季吟に學ぶ。物門中、詩文を以て推されたり。─頭注〕はもと京の人にて、父は北國屋善右衛門といふ。季吟の門人にて和歌を能す。兄弟も有けるとなり。兄を善助と云。これ亦和歌を好めり。一人は蒔繪師の春正半六といふものゝ養子となれり。南郭は江戸に之て柳澤矦〔柳澤侯（＊原文「候」）は出�虫迢g保なり。─頭注〕に仕ふ。後仕を辭して�ﾍ授舌耕を業とせり。初め柳澤矦に仕へし頃は、入江幸八といへり。後に姓名を變じて服部小右衛門と稱す。入江の姓の事は、南郭初編に攝の富田の入江若水〔入江若水、名兼通、字は子徹、又櫟谷山人と號す。─頭注〕に與へたる書牘あり。其中に見へたり。京地の宅は三條小橋の邊なり。兄弟皆死亡し、家産衰へて今は其嗣もなし。故に老年に及て京に遊びし時の詩に祚薄^シテ無^シ_三家^ノ問_二兄弟^ヲ_一といへる句あり。寳暦九年己卯（＊1759年）七月廿一日卒す。春秋七十有七なり。男子は皆不幸にして、攝の西宮の西村仲英といふ人、もとより門人なりけるを義子として家を嗣しむ。服仲英〔服仲英、名雄。子孫今に存して南郭先生の遺物も皆ありと云。─頭注〕是なり。鍾情集といへる集は、南郭が子辰之助といひしものゝ遺詩なり。この兒英才なりしと見ゆ。不幸にして十七にて痘瘡を疾て夭せり。
• ○ 謝在抗（＊謝在杭＝謝肇淛）が五雜俎に、學者文人に多くは嗣の絶ることを論ぜり。吾國も亦然り。菅家（＊原文「管家」）の血脈など綿々として今に傳れるのみにて、その外に嗣の絶ざるは希なり。古代は姑く置く、百五十年來より當今の學者を見るに、これ又子孫の存するもの寡し。徂徠は姪を養ひ、春臺は佗姓を子とし、南郭は實子有つれども不幸にして遂に佗姓を養ひ、東野〔安藤東野、名煥圖、字東璧、仁右衛門（＊原文「仁右衛行」）と稱す。初中野�ﾋ謙に學び、後徂徠門に入る。─頭注〕・蘭亭〔蘭亭高野維馨、字は子式、又東里と號す。年十七、喪明無子。─頭注〕も子なし。〔太田錦城曰、近時物茂卿の學其淺薄疎謬は論ずるに足らず。茂卿は子なく、姪の道濟を嗣とす。又無子、他姓の子を嗣として血脉斷絶せり。其高足弟子太宰純も子なし。他人の子を養て子とす。定保是也。嗜酒至愚至陋の者なり。吾友井上貫流の家に寄寓して此に終る。終身世に所謂宿なしなり。服元喬が子は夭死して別に子なく、此亦仲英を養ひ子とす。一時名高の三先生、皆子孫斷絶の人なり。其學の天に背ける、明白なり云々。─頭注〕徂來門下の傑出の中に、實子にて嗣る人は山縣少助（＊山縣周南）一人に限れり。三輪善藏なるもの〔此人初めは直方の門人なり。後王陽明の心學に入れり。〕〔三輪善蔵、名は希賢、執齋と號す。─頭注〕山崎闇齋及び其門下の人皆嗣の絶るを見てその論を著せり。然れども善藏も子なかりしとなん。實（げに）も闇齋及び門人淺見安正・佐藤直方・三宅重固・遊佐木齋など皆其嗣絶たり。其末々の門人に至ても、或は子なく、或は偶有ても多くは不才子・放蕩子にて家聲を墜せり。只古今に希（まれ）にして、布衣にて三世を經てしかも家學を相承せるものは伊藤仁齋一人なり。〔仁齋、其子東�香A其子東所、父子三世相承。東所の弟東里あり、東所嗣となる。亦名あり。─頭注〕その餘海内の學者、嗣の絶たるもの多し。豈天道も知ことなきか、將（はた）天意に背く處あるか。或は謝在抗が論ずる所の如くなるか。懼るべし、敬しむべし。
• ○ 春臺の父は、信州��田に仕へたる人なり。ある夜、城中の玄關に直せしに、心疾をやめる婦人有て、忽爾として入來る。急遽の事なれば、その處置麁忽なることあり。故を以て父子ともに放逐せらるとなり。
• ○ 徂徠集に所謂田中省吾〔田中省吾、名は省、一字宗魯、雪華道人と號す。初徂徠と共に柳澤侯に仕へ、後致仕、姓を富、名を逸、字を春叟、號を桐江と改む。─頭注〕は、後に姓名を變じて富（とみ）春叟と稱せり。故に又徂來集及び南郭集等に富春山人と稱す。柳澤矦に仕へたる人にて、峽中紀行にもこの人と共に命を受け使したるよしをいへり。故有て急に亡命せるとき、徂來の宅に安藤仁右衛門（＊安藤東野。原文頭注「安藤仁右衛門」とのみあり、説明なし。）・岡島冠山〔岡島冠山、名は明敬、後璞と改む。字援之、後王成と改む。通稱彌太夫。長崎の人。始て支那小説を和譯す。─頭注〕の二子あり。徂來二子に言て曰、願くは暫時命（いのち）を假（から）ん。二子諾す。終に夜を侵して省吾を郊外に護送せりとなん。省吾はそれより奧州に至り、姓名を變じて富春叟と稱し、東海漫遊稿を著せり。其中にも鐵衣を著て東�ｷを出たりといへり。事の危難想像に堪たり。後又攝の池田に客居し、終に攝にて物故せりとぞ。
• ○ 肥州に水足（みづたり）平之允といふものありき。即徂來文集に所謂西肥の水秀才是なり。十六歳にて徂來へ書簡をよせて經義を問ふ。誠に奇童なり。ある時肥州に歸る人あり。徂來于鱗の華山の記を出して曰、汝これを携へ、歸て水秀才に示し、訓點句讀を付させよ。もし立どころに事を成さば、其賞として吾隻（かた）耳を殺（そぎ）て秀才に與んとぞ。其人歸て秀才に示し、且傳るに徂來の言を以てす。秀才これを見て即坐に訓點句讀を加へたり。翌年その人又江戸にゆきて徂來に謁し、契約の如く隻耳を賜へといふ。徂來節を撃て嘆じて曰、眞に神童なり。もし是を讀ことを得ずんば、隻耳をも與ふべけれども、是を苦（く）もなく讀ほどの神童なれば、吾隻耳を與るに及ばずとて笑て止ぬとなん。妄りに人をはかるまじきことならずや。
• ○ 山田大佐（＊山田麟嶼）は山田宗圓といへる東�ｷの醫官の子なり。夙慧のきこへあり。享保九年甲辰（＊1724年）七月、年十三にして徴（めさ）れて博士の職に備り、祿二百石を賜はる。熙朝文苑（＊桃沢夢沢＝二世垂雲軒）にその時の上表一篇を載たり。又蘐園名公四序に徂來及び�ｩ子の贈序あり。二十四にして痘を疾て卒す。東�黒ｶ集（＊紹述先生文集）に墓碑の銘あり。最初徴るゝ時、�ｩ參政の邸に於て試らる。其時唐刻の書を讀み、席上に詩を賦せり。左に録す。六月廿一日水野壹岐矦の邸にて國語旁訓を讀む並に詩一首、叨^リニ作^テ_二登龍客^ト_一、君矦有^リ_二好顔_一、薫風高閣^ノ上、身^ハ似_レ到^ルニ_二蓬山^ニ_一、同廿四日松平能登矦の邸にて、潞史國應制をよみ並に詩一首、君子退朝^ノ後、高雲錦席開^ク、從容半日對、愧^ラク少（^スク）^コトヲ（＊「かく・かぐ」）_二孔融^ガ才^ヲ_一、同廿五日石川近江矦の邸にて三才圖會をよみ並に詩一首、永簟玻璃^ノ盞、華堂六月^ノ秋、不才今日^ノ遇、何^ヲ以^テカ謝^セン_二賢矦^ニ_一、同廿八日大久保佐渡矦の邸にて通鑑綱目をよみ並に詩一首、矦門自_レ古稱_レ如_レ海、童子何^ゾ知^ラン御_二李君^ニ_一、明日�ｸ隣賀_レ親去^ラバ、虚名�ｷ下早相聞^ヘン、右十三歳にして台聽に達し試みらるゝ時の事なり。
• ○ 京�ｷの人の諺に、宇野三平〔宇野三平、名鼎、字子新、明霞（＊原文「�煢焉v）と號す。─頭注〕が出て歩行（ありける）と香川太冲が病者を治（なほ）せると谷左仲〔谷左仲、名は鸞、字は子詳。東�獄蜷l。─頭注〕（＊眉山、又麋山。芙蓉先生。『太白詩選』『谷氏助字解』等。）が文章を撰（かけ）ると、此三を見たる人なしといへり。三平は多病と困學とに因て實に閉戸先生の稱あり。太冲（＊原文「太沖」）は治療をも能せり。然れども多くは痼疾沈痾に治を求るゆへ、扁鵲・倉公が術にてもいかんともし難きことあり。故にこの名を得たり。左仲は詩集並に論語の玉振録などを著せり。爾雅の癖有て字訓に刻意せる人と見ゆ。もと東�高ﾌ門人にて、阿波の産なり。
• ○ 宇野三平兄は永原屋久右衛門と云ふ。先祖は江州永原村の人にて、宇野姓なり。今に永原に（＊一字欠）野姓多し。兄も聯歌を好めり。ある時、雲を雲と見る五月雨の�ﾘ間哉といへる句を得たり。一生の秀逸なり。
• ○ 三平弟を平介といふ。初の字は士茹、後に改て士��〔宇野士�焉A名は鑿。─頭注〕と字す。平介が徂來へ入門のわけは、三平兄弟かねてより入江若水と親し。若水は攝州富田の豪家にて、酒を釀することを業とす。ある年若水獄訟の事有て江戸に之て官に訴ふ。故に暫く江戸に寓す。その頃徂來門を開て復古を唱ふ。因て若水も介紹を求めて謁見せり。歸�ｸの後、三平に逢て之を語り、且告るに徂來の門風を以てす。三平大に悦び、其身は多病にして遠遊し難きを以て、平介に若水が書翰をそへて江戸に至らしむるとなり。
• ○ 江州彦根の家中に武子忠・松子潤の二士あり。共に徂來の門人となれり。松子潤ある時詩を作て徂來に添削を請ふ。徂來國字牘を以て答て曰、江州にては開闢已來の詩ならんと。後に子忠學問廢絶して依然たる武人となれり。然れどもその國字牘を表裝して壁上に懸て人に誇りしとなん。これ其詩は拙きことなるべけれども、徂來は例の大言にて、殊に業を創（はじむ）る頃なれば、一を勸めて百を勵ますの術なるべし。それを誇りしはおかし。
• ○ 京西の花街の名を島原といへることは、肥州島原落城の年、今の地に移す故に名づけたりと、蘭嵎の夜話なりしとなん。嗚呼島原の民は一夫天主�ﾍの妖術を倡て闔境これに惑ひ、是が爲に身を沒す。京西の花街は艶色を以て士民をたぶらかし、いかなる剛膓の人も一たび至れば多は身を亡す。島原の名誠に當れり。
• ○ 台廟の諡號、尚書の禹貢に本く。台は我なり。この時は延知切にて夷の音なり。しかるを胎の音によめるは、初め林家の人々のよみ違へたるが例となりて誤を襲へるなりと、友人伊藤希卿師説なるよし物語りせり。此類の事世上に尚多かるべし。
• ○ 予書を評することを好む。故に古今の法帖・和漢雅俗の眞蹟書論等の書を看ることを好む。吾國五十年來書の道大に行る。然れども多くは卑淺なること甚し。廣澤〔細井廣澤、名知愼、字は公謹、通稱次�ｶ大夫又思貽菴・蕉林庵の號あり。雪山（＊北島雪山）門人。─頭注〕など書學書才共に備れる人なれども、自（みづか）ら寫すところやふ／＼元明人の奴隸にて、加るに俗態あり。况やその餘をや。只其論やゝ高きは徂來一人なり。文集處々に見へたり。實に胸中に筆ありといふべし。
• ○ 書家の書には俗態多し。學者にして法帖を能學びたるものゝ書には古氣多し。
• ○ 近時の書家の中に京�ｷの桑原爲溪〔桑原爲溪、元文中の人なり。─頭注〕、東寺の南谷（＊南谷上人）尤書を善くせり。南谷は東�ｷへも命に因て寫字を獻ぜしことあり。人々廣澤及び其門下の書のことはよく知れども、二子を知るもの寡し。不幸といふべし。是を要するに、人々眼なきがゆへなり。江戸の書家の中には平林正五�ｶ〔平林正五�ｶ、名は惇�ｺ、字は子孝、東嶽又越水と號す。惇信の子、鴻山の父なり。文化中卒す。─頭注〕第一すぐれたり。聲聞の高からぬはこれも不幸なり。
• ○ 仁齋の門人に中江平八〔中江平八、名は一貫、岷山と號す。─頭注〕といふものあり。もと紀州の人にて、大坂に客死す。東�黒ｶ集に碣の銘あり。理氣辨論を著す。世に行る。平生文を作るに然則の二字多し。その頃の書生目して然則先生といへりとぞ。
• ○ 那波道圓（＊那波活所）の説に、揚誠齋が句に曰く、山如^シ_二西施破瓜年_一。破瓜とは十六歳をいふ。其故は瓜の字を二つに分ては八八なり、八八は即十六なり、故に十六を破瓜といふと。愚按ずるに、徂來は破瓜の字を破根の事とのみ意得たるゆへ、深草の元政の詩の題に題^ス_二聖�ｺ太子破瓜^ノ像^ニ_一と書（かゝ）れたるを大に笑はれたりとなん。その故は破瓜は女子の破根の事より出たる字にて、女子の十六歳ならでは稱し難しとなり。是もさもあるべきことのやふなれども、一概に泥み難し。僧傳などに男子の十六歳を破瓜とつかひたることまゝ見へたり。元政も據なきに非ず。然れば道圓の説可なるに似たり。道圓の説は遺稿の中に見へたりとなん。
• ○ 吾國慶長・元和の頃は、兵戈の餘にて學問の道大に衰ふ。京師の中に四書の素讀を�ﾍる人もなかりしとなり。〔四書の素讀�ﾍる人なき云云、老人雜話に見ゆ。─頭注〕その頃惺窩先生一人學を講じ、後生を倡ふ。門人に豪傑多く出づ。これより學問大に開けて今の盛んなるに至る。先生の功誠に偉ならずや。今その文集を見るに、今時の學者に比すれば甚醞籍有て古雅優長なること多し。其時代は兵亂の中にて甚書に乏し。先生かねてより十八史略を見んと欲すれども、この書を持る人なし。後に角倉與市（＊角倉素庵）が許（もと）にて借出し繕寫せられしとなん。又圖書編（＊明・章潢）を林道春の買求められし由を聞及ばれ、再三書を以て借し與へよと請れたれども、その事なしと僞て終に貸（かさ）ざりしとなり。この二事を見て書籍の不自由なりしこと想ひやられたり。近年は唐本多く渡り、和板も年々多く出づ。歴史・經書・字書を初としてあらゆる書籍五十年前に比すれば價大に賤し。誠にいながら學問の爲やすきはこの時なり。圖書編徃復のことは老人夜話に見へたり。
• ○ 四十年來に板行せる書籍の内に、大に行はれたること唐詩選に及ぶものなし。原板享保九年甲辰（＊1724年）正月、再板寛保三年癸亥（＊1743年）正月、三板延享二乙丑（＊1745年）五月、四板寳暦三年癸酉（＊1753年）九月、五板寳暦十一年辛巳（＊1761年）五月、六板明和二年乙酉（＊1765年）三月。此の如く度々改刻せり。姑く歳月を書して此後を試んと欲す。
• ○ 大坂に五井藤九�ｶ〔五井蘭洲、持軒の子、名は純禎、字は子祥。─頭注〕といへる儒士ありき。宋學にて書をも善せり。非物論（＊非物編）一百卷を作る。徂來が一言隻句悉く看破せりとぞ。是も亦大業なり。
• ○ 足利の初め、明の成祖より封號を受けて交り親しかりし頃、是方の紙を送りて彼方の板にて書籍を磨（すら）せたることあり。予曾て顧野王玉編を見る。即この物なり。この外にも尚あるべし。竊に願くは、今も華舶に託して磨せたきことなり。
• ○ 景山〔景山は屈景山なり。─頭注〕予に語て曰く、吾弱冠の時書を讀むに、夜を以て日に嗣ぎ刻苦せるに非ず。書を讀に當て、晝といへども倦ば即休し睡りを催せば即寐ぬ。夜深て寐たりといへども、目覺れば即起て讀む。此の如くして、勞せずして數千の書を讀りとぞ。かの篝燈烱々として高聲に讀むものは陋し。
• ○ 徂來の門下に書を能せし人は、東野・平子和〔平野子和、名玄仲、金華と號す。─頭注〕・守秀緯（＊守屋蛾眉）なり。南郭文集などに西臺矦（＊河内国西代藩主本多忠統）の書を甚ほめたれども、實は然らず。貴人の書なればなり。
• ○ 平子和、才を恃て放蕩なり。屡酒肆娼家に遊ぶ。徂來一再これを責む。責れば過を謝し罪に服す。しかれども其行跡もとのごとし。徂來これを見て恬然としてとがめず。人或は徂來に言て曰、先生何ぞ又子和を責ざるや。徂來答て曰、かれは千里の駒なり。度々これをせめば、恐らくは逸せん。尋常の御者にては維（つな）ぎ難しとぞ。後やゝ節を折る。然れども天性狂者の風ありと見ゆ。
• ○ 平子和初め醫を以て三浦矦〔その頃は三州刈屋にあり。後參州西尾にあり。今封を作州（＊美作）に移す。〕に仕ふ。醫を業とするを屑（いさぎよし）とせず、強て仕を致（かへ）し、後儒を以て守山矦に仕ふ。時に月俸甚微なり。ある時五月五日の前に官長の曰、五日には新しき葛衣（かたびら）を著て朝せられよと。その日に至て婦人の服を著て出、官長これをとがむ。子和曰、臣が如き微祿のものは新衣を貯（たくはふ）ることを得ず。然りといへども官長の令に違ひがたし。細君（さい）が藏る所やゝ新し。故を以てこれを着たりと。矦聞て、即日に月俸を増加せられしとなん。
• ○ 東野・春臺の兩人、初めは中野�ﾋ謙〔中野�ﾋ謙、名繼善、字は完翁。林道榮の姪。─頭注〕の門人なり。故に徂來も東野を稱して或は門人といひ、或は友人といへり。
• ○ 石川丈山〔石川丈山、名は凹（＊原文「凸」）、一に六々山人と號す。初め�ｺ川氏の武臣なり。叡麓（＊原文「獻麓」）一乘寺村に隱れ、詩仙堂を建つ。今に存せり。─頭注〕、六十の時京に出づ。その時鴨川にて和歌あり、曰く、渡らじな（＊原文「渡らしめ」）蝉の小川のあさくとも老の浪そふ影も恥かし。是より誓て京に出ることなかりしとなり。蝉の小川は鴨川の一名なり。
• ○ 深草の元政上人〔元政、名日政、妙子又不可思議と號す。深草瑞光寺に住す。風�ｲ恬淡、沈冥玄通、世目爲如來化身。─頭注〕は、法華僧（＊原文「法華律」）にて傍^ラ詩を好み、袁中�ｶが風を能學べり。草山集・谷口集（＊谷口山詩集）あり。又和歌を巧にせり。和歌集は寫本にて行はる。母に事へて純孝なりしとなん。��木東庵なるもの、其風を學ぶ。竹雨齋詩集を著す。詩は大に劣れり。
• ○ 元政は俗姓菅原氏にて、彦根の太夫石井半平の弟なり。射藝を能す。十九歳のとき出家す。深艸にて歌あり、曰く、すまでやは霞も霧も折々のあはれこめたる深草の里、元政集中（＊原文「元政中集」）の秀逸なり。
• ○ 參州吉良の莊一色といへる邑は、皆參河万歳に出づ。其中に年々徂來の家に之（ゆけ）るあり。ある年徂來の學者なることを聞て、寫字を乞ふ。徂來即ち萬歳樂の三字を書て與ふ。今も表裝して家珍とすとなん。
• ○ 長崎に雪山〔北村雪山、名三立。肥後の人。雪山と廣澤の傳、二老畧傳に詳なり。─頭注〕といへる人あり。書を善せり。華僧雪機の弟子にて、廣澤などの師なり。初め貧なること甚し。屋壞れて雨漏る。沐浴盤（たらい）を高く釣り、其下に坐して書を學べりとなん。後暫く江戸に之て寓居せり。ある時島津矦に見へて金五片を求む。矦人をして施（なゝめ）に雪山が行く所に從ひ之しむ。海邊に至り、蜆を積（つめ）る船五六艘あり。雪山曰、吾悉く此蜆を買んとて、價を成し金を與ふ。然ふして其身も共に船に乘りて、中流に至り、かの蜆を殘らず海中に放たしめて歸る。人に言て曰く、吾今日仁を行へりと。其人物大むね此類なり。西歸の後物故せり。廣澤が紫薇字樣に肖像あり。
• ○ 廣澤は京西嵯峨の産なり。廣澤といへる號も其地名なり。關防の印に千代古道といへるあり。これも嵯峨の名所なり。弓藝に達し、町間の算術に�奄ｵ。〔廣澤の著したる町見の書あり。─頭注〕多能なる人なり。今は書名のみ高し。
• ○ 昭代文運大に闡け、經學・詩文のみならず凡百の技藝に至るまで皆その妙處に至らざるはなし。中に就て篆書など今に在ては屠龍の技にして修し得るもその�u寡きことなれども、亦其人に乏しからず。且書に名ある人は兼て篆書をも善せり。其輩は姑く置く。只篆書三昧を以て名をなせる人あり。さきに江戸に池永道雲〔初め有右衛門と稱す。後に隱居して道雲といへり。〕〔池永道雲、名荣春、一峯と號す。江戸の賈人なり。─頭注〕なるもの、篆書の癖あり。尤摹印に巧なり。日光大王就て見へ印譜を求めたまひしことありとなん。今に好事の家にはその篆刻の印を藏る人あり。徂來文集及び廣澤が篆體異同歌に道雲の事見へたり。その篆法、説文のみにかゝわらず古今�ｩ家の篆體をまじへ取れりと見ゆ。雷山一源なるものあり。長崎にて幼より篆を學び、長じて�u甚し。筆法は嶧山碑を師として、篆體は説文を則とす。老後には秦篆（＊小篆）のみならず自運をも雜へたり。説文に刻意せることは自若たり。又默隱佚山なるもの浪華の産なり。篆を能し、明の趙宦光が説文長箋を專學べり。論語を篆書して東�ｷに献ぜしことあり。二子の篆をみるに、一源は正にして巧ならず、佚山は巧にして變あり。篆書のみを以て名をなせるはこの三人なり。廣澤も篆を好む。　�ﾍ命を奉りて不戴酒といへる書を撰みて献る。古今篆書の集大成なりとなん。著す所の換鵝百譚（＊換鵞百談とも。王羲之の故事に基づく書名。）に近年編修の　�ﾍ命に傾ぶけりといふはこの事なり。然れども廣澤を初め書家の篆には雜篆多し。たとへば大篆に篆闕の字あれば小篆を以て補ひ、只書法を大篆の體に寫し、或は小篆の中に大篆の字をまじへ寫せる類なり。又楷書の偏旁を以て篆書を作れるあり。源の字・求の字の類なり。近年江戸の親和（＊三井親和）篆に名あり。大篆に尤巧なりと見ゆ。五車韻瑞（＊明・凌稚隆）の篆はかの楷書に因て篆を作れるものなり。敢て證としがたし。
• ○ 並河勘介〔並河勘介、名は亮、天民と號す、字簡亮と云ふ。勘介とあるは簡亮の二字誤りたるなるべし。─頭注〕が曰、日本の儒者は醫を兼ぬべし。然らざれば衣食に乏しくして困窮に至るとぞ。それ故門人に渡邊新藏・松原才次・�C水源五・藤田左太夫いづれも儒にして醫を善せり。その子も亦然り。
• ○ 大坂の留守退藏〔留守友信、字退藏、希齋又括嚢と號す。─頭注〕は、初め仙臺矦（＊原文「仙代臺矦」）の臣遊佐木齋が養子なり。成長して京�ｷに遊學し、三宅丹治（＊三宅尚斎）に從て學ぶ。歸國の後本姓を脱して他姓を嗣ことの義に於て安からざることを知り、亡名して再び京に入り、終に大坂に住せり。これも儒を本業とし、旁ら醫を能せり。恒にいへるは、儒を業とするばかりにては口を餬しがたし。故にやゝもすれば道を枉るに至るもの多し。醫を兼れば、衣食に乏しからず。故に道を枉るに至らずとぞ。
• ○ 織田梅笑といへる士ありき。美作の津山櫻井治部右衛門といへる人の子にて、世々森美作矦の臣なり。森矦家絶て後、松平越後矦に仕ふ。浪人して京師堀河の邊に寓居す。人となり篤實方正にして、すこしも諛ひゆがめることなし。�ｩ々の技藝に達し、尤軍學に長ぜり。龍子明・三浦瓶山〔三浦瓶山、名は淳夫、平大夫又平三�ｶと稱す。─頭注〕など此人に從て軍學及び町間の術を學べりとなり。七十二にして死す。碑文は子明先生これを撰せり。梅笑、名茂倫、字は子錐といふ。軍學は加地遠江流〔加治遠江流、加治龍爪齋に出づ。其弟子澤崎主水、越後の人。─頭注〕にて、武藤吉左衛門弟子なり。武藤が師は澤崎主水といふ。主水が弟子の中に木工源右衛門といふものあり。加地流の學を斟酌して勝早秘傳といふ書を著す。徂來の軍學はこの源右衛門に學びたるなり。
• ○ 中島正佐〔中島正佐、名義方、四書及古文等に訓點せり。─頭注〕（＊中島浮山）は仁齋の門人なり。�ﾍ授舌耕を業とす。四書を講ずるに集註を以てす。家の説には箇樣々々といへるは古義の説なり。中島點の四書とて今に傳れり。正佐かつていへるは、昔善導大師は念佛の功�ｺに因て口中より阿彌陀を吹出されたりといふ。吾は講釋の�ｺに因て、借宅を三軒吹出したりとなん。今の論語の古義は、此人の校正なりしといふ。文字誤寫多し、惜むべし。一人の女子あり。幼より父の講釋をきくこと耳に熟し、終に能く書を講ず。父の辯と片辭を違へずとなん。今の良佐はその義子なり。
• ○ 伊藤宗恕〔伊藤宗恕、字は元務、坦菴又自怡堂と號す。那波活所門人なり。─頭注〕は伊藤丹後守孫なり。丹後守は豐臣氏に仕へ大坂役より以前に卒す。その子を伊藤宗淳と云ふ。是より京�ｷ新在家に住せり。宗恕初めて越前矦に仕へ祿千石を賜ひ（＊ママ）在京せり。これ越前矦五十萬石の時なり。宗恕の妻は東�ｷの醫官曲直瀬（まなせ）養安院の女なり。徂來の時名高かりし越雲夢の祖なり。此時養安院寵遇あり。又宗恕名聲籍甚なりし。是により宗恕を越前矦へ讒する者あり。養安院推擧にて東�ｷの學職に擢でられんことを謀ると。此時の越前矦は今世に稱する前兵部公にて心剛なる人なりしかば、大に震怒し、宗恕を越前によびて蟄居せしむること三年なり。然れども跡かたもなきこと（＊原文「なきことなきこと」）なれば、三年の後何事もなく職に復せしむ。宗恕京に歸り、門人に語て曰、學文は人のなさで叶はぬことなり。余三年禁錮せられて、いよ々學文の有難きことを知る。尋常の俗輩ならば、三年の長き憂悶し熱中して病死もすべし。余は其間書をよみ詩を賦して其身の禁錮を忘れ居たりとぞ。宗恕坦庵と號す。仁齋・村上友佺など其比の耆宿にて、三人交り尤篤し。そのことは東�黒ｶ集にまゝ見へたり。宗恕の子孫相嗣て越前の儒職にて京に住せり。家に定祿ありて舌耕�ﾍ授を事とせず。故に書生輩はその名家なることを知らぬ人多し。
• ○ 江村宗具、專齋と號す。世々京�ｷ新在家中町の人なり。其先は江村備前守といふ。備前三石（みついし）の城主にて、播州三木の城主別所小三�ｶ族なり。豐臣氏三木の城を攻ること前後三年、三木落城の後備前守城をあけ退く。初めて京�ｷ新在家に住して江村榮基といふ。榮基の子を既在といふ。和歌連歌を能し、特に聞香の技にて世に名あり。既在の子を宗具といふ。始めて學業に志し、兼て醫を學ぶ。加藤肥後矦に仕へ、在京ながら五百石を給ふ。肥後矦嗣なく封絶て後、作州の森美作矦に仕ふ。又五百石を給ふ。齒（よはひ）百歳に滿て沒す（＊原文「沒ふ」）。　後水尾帝在院の時、希代の長壽なることを聞たまひて、召て修養の法を問ひ、鳩頭杖・黄金壹枚その外茶酒などを賜る。その年九月宗具住宅せる新在家の庭に松十餘株ありしが、其邊に松蕈數莖を生ず。奇異のことなり。寛文四年甲辰（＊1664年）一百歳に滿つ。其年元日に詠ぜる和歌三首あり。其歌に曰く、
  
  百歳（もゝとせ）に　なるまで飢ず　寒からず　道ある御代の　道にひかれて
  何（なに）もせで　身のいたづらに　過しゆへ　今日百歳の　春にあふかな
  百歳も　猶あきたらず　行末を　思ふ心ぞ　物笑ひなる
  　　詩作もありけるとなり。信長の比より太閤の世を經て昭代まで存したる人なり。この翁の幼年より見聞の事どもの話を、擔庵先生記録して二卷とす。老人雜話と名づく。異書を好める人は、適寫得て珍藏す。予も亦一本を寫し藏む。其比の治亂世態歴々として尤實録なり。
• ○ 宗具の子を宗�a〔宗�a、字友石。業を那波活所に受く。─頭注〕といふ。剛齋と號す。少年にて��山侯の文學となる。青山侯は今の郡上侯の先にて、是時攝州尼ケ崎に在城あり。數年の後故ありて病告し、京�ｷにありて�ﾍ授す。其後紀藩より五百石を以て聘せらる。辭して仕へず。是��山矦への義を思ふなるべし。慶安四年庚寅（＊1651年）近衛藤公より　詔を傳へ玉ひ　禁裏の侍講たるべしと。然れども疾に託して固く辭して　　勅に應ぜず。是紀藩への義を思ふなるべし。因て叡藻をしば々下し玉ひて是正して獻りしとなり。是に因て　勅_二賜^シ壽杖^ヲ_一潤-_二色^スルノ聖製^ヲ_一之家といへる印を、今の北海先生に至りて用ゆ。宗具、元日の和歌も自筆せるが今に殘りて北海の家寳となれりとなん。是等のこと、宗具のことも剛齋殘稾の首に江戸の醫官細川捶庵の撰せる剛齋年譜、又は東�高ﾌ盍簪録に（＊原文「を」）委し。世系は北海詩抄の序に詳なり。慶安は後光明帝の年號なり。後光明帝は近時帝王中の好學の主なり。
• ○ 服仲英は本姓西村氏、もと攝州西宮の祠職なり。獄訟の事ありて江戸に之く。將に�ｸを發せんとして誓て曰、われもし勝つことを得ずんば再び�ｸに歸らじと。果して負（まけ）たり。因て江戸に寄寓し、鬱々として日を送る。ある時人あり、勸めて曰、子が才を以て書を讀み詩を作らば、大業をなすべしと。仲英曰、われも亦幼にして詩作りしことあり。さらば詩作らんと云て、これより南郭の門に入り、終に作家の名を得たりとぞ。
• ○ 蘭亭（＊高野蘭亭）曰く、われ俳諧を見ることを喜ばず。然れども萍（うきくさ）や今日（けふ）はむかふの岸に咲と此句の如きは、詩も俳諧も同情にて、實に絶唱といふべしと。この句は伊勢の乙由（＊中川乙由）といへるものゝ作なり。麥林集あり、世に行はる。
• ○ 近世�ｩ儒の中、著述の多きは東�高ﾉ如（しく）はなかるべし。　靜齋公子（＊谷静斎か。麋山谷左仲の父。本姓橘氏。安房の人。「公子」の由来は未詳。）深く仁齋・東�高�信ず。因て二先生の書の既に刊行せる者は之を購求し、そのいまだ上木せざる者は命じて繕寫せしむ。幸に洞津の奧田先生（＊奥田三角）東�高ﾌ高弟なるを以てその著述の書蓄へざるはなし。因て乞假ることを得たり。凡既に刊せるといまだ刊せざると、合せて四十餘部百六十四余（＊ママ）卷あり。中に就て經義の純粹なるは辨疑録・古學指要なり。名物六帖は簡便なる書なれども、僅に人品器財二箋（＊注釈）のみ刊行して、餘はいまだ行れず。但、親族箋は釋親考の附録に合刻す。其いまだ刊行せざるものには、易には通解十八卷并に私説・圖例・考異等の書あり。その餘帝王譜畧・盍簪録・東�獄泄M・春秋胡傳辨疑、これらの書いづれも經義を發明し、明�ﾍ（＊名教か。）を維持す。この外一卷二卷の冊子まで、生徒の業を助け學者の簡便をなさゞるはなし。徂來の著述は南郭文集及學庸解の卷後に書目一篇あり。これ亦其書家に滿り。然れども唐後詩四大家雋の類は撰にして著にあらず。或は一時の戯作にして不朽に埀るゝに意なきもの多し。これが純粹を擇ぶときは、三が一と見へたり。徂來門下に著述の多きは春臺なり。白石・鳩巣も述作寡きにあらず。東�香E徂來に次で書目の多きは貝原篤信なり。皆世に行はる。中村�ﾀ齋書頗多し。五經の筆記など浩博にして刊行に煩し、惜むべし。闇齋も亦書目少しとせず。文會筆録の如きは抄書なり、著作にあらず。其門人に至ても亦多し。中に就て淺見（＊浅見絅斎）の靖献遺言・氏族辨正など尤純正と云べし。三宅丹治（＊三宅尚斎）筆記甚多しとなん。宇�ｷ宮由的（＊宇都宮遯庵）は頭書數十卷あり。若夫水戸には中納言光圀公の時より彰考舘を設け、�ｩ儒を聘召して撰著編撰を掌どらしむ。鎌倉志・扶桑鐘銘集・艸露貫珠・參考太平記・花押藪の類枚擧に暇あらず。皆是國家無んばあるべからざる書なり。又日本史數百卷あり。余かつてその内賛叢及菅公列傳を見る。議論平正、引據�凹肢烽ﾂべし良にして正なりと。國初には文敏（＊林道春）・文穆（＊林春斎）二公撰述大に富り。余常に昭代の藝文を誌して佗日太史の采擇に供せんと欲す。志有ていまだ果さず。
• ○ 吾薦野は百五十年來多く學者を出せる�ｸなり。さきに三宅玄琳なるものあり。老子會元を著す。世に行はる。其後宇佐美直助なるもの、林家の門人にて、年甫十七にして先矦の前に出て大學を講ず。且射を善す。その頃江戸にて一寸二分の弓を彎るもの三人あり。その一人なり。弊師致齋翁も幼にして其人に學を受く。後東�高ﾌ門に入れり。東�黒ｶ集に致齋の記あり、これなり。その後或は翁の門より出、或は東�香E蘭嵎に從ひ、或は佗の人に學びて學術に富るもの寡からず。其餘書畫に名あるもの綿々として絶ず。都會の地ならば人材を出せるも奇事にあらざるも、かゝる僻邑には盛なることに非ずや。
• ○ 吾�ｸに小澤詢五といへる士あり。今は物故せり。家世農を業とす。詢五に至て、幼より學を好む。寛延三年庚午（＊1750年）京にあり、古義堂に寓す。七月大雷あり、四十餘處に震す。二條の城もその雷火に災せり。その夜古義堂に寄宿の門人數輩、皆樓より下り一室に密座して大に驚怖す。詢五一人は通宵書を樓中に讀て神色閑正なり。伊藤東所毎にこれを以て美談とせらる。その後吾先矦　大岑公召て�ﾍ授とす。これに因て江戸の邸にあること數年、疾に因て請て�ｸに歸り、何（いくば）くもなくして沒せり。その死日、子弟を召して永訣し、且詩を賦し、弟成美をして筆受せしむ。其詩に曰く、十年蹤跡徧^シ_二中州^ニ_一、伏枕歸^テ_レ家^ニ過^ス_二暮秋^ヲ_一、他日人如^シ問^バ_二遺稿^ヲ_一、絶^テ無_二一紙_一一風流と。誠に惜むべし。

（閑散餘録跋）