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淇園文訣 卷之下

皆川淇園〔口授〕、皆川允〔筆録〕
(『淇園文訣』  天王寺屋市郎兵衛〔京都〕 日付ナシ
※ 〔参考〕「叡智の杜WEB」公開本、GoogleBooks等。
※ 他本刊記に「天明丁未季秋」とあり。天明七年(1787)刊行か。
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淇園文訣 卷之下

平安 皆川愿 口授     男 允 筆録
總じて古文の法一章にても、一篇にても、何程の長篇にても、必ず二つ折れになるものにて、其二つ折れが打合て、一章一篇になりたるものと心得べし。是弟(*ママ)一の心得なり。是を心得ざれば、文を書きても條理を成すことを得がたく、古書をさばくにも、古人の語意・條理に、會通することなるまじきなり。篇は猶章の如く、章は猶句の如し。長短の相違までなり。されば一句一語といへども、亦皆句と讀と、二つ折れが打合ひて、一句一語となりたるものなり。或これを問て云ふ、句讀のことは、如何様なるものぞ。答て云、論語、學而時習之は、讀なり。不亦説乎にて句なり。此章の下の語、並に此句讀を以て準じ知るべし。總じて、讀と云は語意未だ斷ぜずし(*ママ)讀切らるゝ處が皆讀なり。語意全盡るが皆句なり。又問ふ、然らば、讀多く句少きものもあるか。論語夫子の語、出則事公卿、入則事父兄、喪事不敢不勉、不為酒困、於我何有、と云へるが如きは、語意最後にいたりて、始て全く盡るによりて、四讀一句とすべきものか。答て云、否なり。子が云ところは、一章の語意全盡をいへり。それも語意の全盡なれども、それは語意の重き處の盡きたるなり。句の語意の全盡といふは、今少し軽き處を以ていふなり。出則事公卿は讀なり。入則事父兄は、句なり。喪事は、讀なり。不敢不勉は、句なり。不為酒困は、讀なり。於我何有は、句にて、此句にて一章とすることなり。問て云ふ、喪事の句の、句讀はきこえたり。事父兄にては、何を以て語意全盡として句とするや。答て云、此は出の事につり合せて、入の事を擧げ給へる故に、先づ内外のつり合が都合せり。されば、是を語意の全盡として、句とするなり。問て云、不為酒困は、一句にて讀にてはなき様なり。何故に下の於我何有と合て、句讀とするや。答て云、下の於我何有の語意、上の四語を承けたるものにて、不為酒困の一語を承けず。不為酒困は、別に一事にて、一本立ちなる故に、此疑あること尤なり。此は上の出入の事、及び喪事の勉を、酒の為に困みて行ひ得ざるのことなくば、我に於て何か有らんやと云こゝろになる故に、此一語は、上の三句を暗に引承け持て居りて云たることとなりて、自然に下の於我何有の句と、つり合ふことになる故に、讀とすることなり。弟子入則孝の章の、行有餘力の語の、上の數句を、此行の字にて、明に引承け持て言たるが讀になると同じ意味にて、明暗の相違あるのみなりと、心得べし。さて此類の引承のある處なれば此語より以上が、冐になるか、此語が補添になるかの二つありと思ふべし。冐・補添のことは、下條に詳にす。句讀のことは、大抵上の問答を味ひて、他をば準知すべし。又所によりては、二讀一句と見るべきことあり。此をば予名を設けて、三叚法と云ふ。此にも、坐三叚・行三叚と云別あり。物を明かすは、靜なる故に坐と云ひ、其物のなり行き又はこし方を明かすは、動ける(*ママ)故に行と云ふ。或は分頭・分股と名付るも同じ類にて、少し意味の相違あり。
行三叚法
ナル哉。其憑依スル乃其所自為セル也。【韓退之、雜説】(*割注。以下同じ。)
といへるが、行三叚の法なり。異哉が讀なり。依字、句なり。然れども此句、又下の乃其の句とつり合ふ故に、語勢自然に奪はれて讀となりて、二讀一句となる。此はこし方を明かせる故に、行と云ふ。さて此異哉の二字は、冐なり。
坐三叚法
麟之所以為一レ麟者、以テシテ。【韓退之、獲麟觧】
此坐三叚の法なり。者字にて一讀なり。コ字にて一讀なり。形字にて句なり。さて此は、あり物を明せる故に、坐といふ。句の讀となること前に同じ。然れども、全體は、以コの二字にて、上語のわけは説完して、下の不以形は、後より旁道へ行かぬ様に、今一押へを入れたる語なる故に、是は下の三字、補添なり。補添のことも、下に詳にす。
百骸九竅六蔵賅而存セリ焉。吾誰ニシテ汝皆説ハン乎。其ルカスルコト焉。如是皆有ルコト臣妾乎。其臣妾不以相治乎。其-君臣乎。其真君スルカ焉。【荘子】
吾以下の十四字斜挿なり。總じて、坐の三叚は、後の二叚をば皆上を釋する語にして、上にこめてしまふ氣味に行くものを云ふ故に後の二叚、斜挿に非ざれば、補添となるなり。行の三叚も、畢竟冐・斜挿・補添の三法に帰すれども、句讀の處より言ひ名付くる故に、坐三叚・行三叚と云名を立たることなり。又四叚法あり。
故雖名馬、祇辱セラレ於奴隷人之手、駢-シテ槽櫪之間、不千里也。【韓退之、雜説】
此は祇辱駢死の二句を、中間に挿みたるものなり。これもやはり斜挿なり。斜挿なることを知るは、此二句を假に取のけても、全意首尾にて通ずる處に、下句の為に、此二句を冐に置て挿みたるものなり。此斜挿のことも、下に詳なり。さて此四叚に坐・行を別くれば、ありものを明したる意なる故に、坐の四叚なり。分を以て言へば、分股なり。
章と云は句を積て章を成すをいへり。篇中の一きれのことなり。たとへば、詩経周南關雎は、一篇中に三きれに成てあり。是三章なり。然れども、章のこと、詩などにては、見易けれども、散文の中にては、見わけにくきものなり。其故は、章の内に又小章などある處いくつもありて紛らはしきものなり。故に後世はこれを改め名付て、叚落といふ。其章内の小章を、小叚落と云ひ、大章を、大叚落と名づけり。
漢人後世の古文を評したる書に字法・句法・章法など云こと見ゆ。此は其處の字の使ひ方奇特なるを學び法とすべしと云こゝろにて、讀者に氣を付させんとて書けるものなり。句法・章法も同じ心持なることなり。されども此類には、心得ありて見るべきことなり。古人は其文叚の前後の引はりによりて、此文字に非ざれば、其意味を貫椄し難しとせる故に、此字を用ひたり。句も同じ意持なり。奇特なる句に作り、奇特なる字を用ひんとて作り置たるに非ざることなり。それをも辨へず、前後の意味・語勢をも考へずして此字此句のみを法とせんとせば、文を書くに文理の不順不通を成すべし。明の李攀龍輩の古文と云もの多くは其考なくして不順不通をのみなしたるものなり。されば、評文の書中の字法・句法と云ものは、心得ありて見るべきことなり。
用字の法をば知らずばあるべからず。一字一語にても、必ず暎應あるものと心得べし。たとへば、晝といへば、必ず夜字ありて應じ、己といへば、必ず後に人の字ありて應ず。夜・人の應なければ、晝字・己字は、かゝず、かゝれぬと知るべし。
向使一夫於家、受、怠、又盗若貨器、則以甚怒而黜-セン矣。【柳子厚、送薜存義序】
と書ける如き、此黜字は、怠の字にあたりて、怠るものは、黜くるを云ひ、罰字は盗字にあたりて、盗めるものは、罰するをいへり。黜の一字、又は罰の一字を欠きては、語意の接應不足することなり。又文字を用ゆるには、前後にあたりなき文字を用ゆべからず。古人の文に、あたりなき文字を用ひたること、决して無ことなり。あたりありとは、たとへば、
奇偉者倜儻之畫策、而不仕官任一レ、職好。【史記、魯仲連傳】
とあるは、後に新垣衍が驚き入る程の存外の策を出して、平原君が魯連を封ぜんとせしを、辭して受けず、千金を以て壽を為しをも、もし取ることあらば、商賈のことなりとて、受ざりし類に、一々あたりて書たるものなり。
博聞強志、明カニ於治亂、嫺於辭令。【史記、屈原傳】
とあれば直に接して、入テハ王議シテ國事、以出號令とあり。此は明於治亂の應なり。出デハ則接-遇者賔客、應-ゥ侯とあり。此は嫺於辭令の應なり。史記の文法、大抵いづれも此の如し。
しゆん傑廉悍、議論証-今古、出-経史百子、踔歯例「。【韓退之、蜴q厚墓誌銘】
とあり。儁傑は、子厚が材器をいへり。廉悍は、子厚が氣節をいへり。議論より百子まで其儁傑を見せたるなり。踔歯例「は、廉悍を見せたるものなり。
之語道理、辨ズル古今事當否、論ズル下事後、當キヲ成敗、若河决流而東。若駟馬駕軽車、就熟路、而王良・造父為スガ先後也。若燭照數計ヘテ而亀卜スルガ也。【韓退之、送温處士序】
此若河流と、若駟馬とは、語道理にあたり、燭照は、辨古今にあたり、數計は、論人にあたり、亀卜は、事後の句にあたりて、書けり。此類にて、文字の使ひ方にあたりあることを知るべきなり。又前に用たる文字を、後の造語にて、其色を生じ、其義を成就させて見することあり。
法授。【蜴q厚、箕子碑陰銘】
此法の字義を後に周人得以序彜倫而立ツルコトヲ大典と云ふ語を造りて、其色を生じ其義を成就させて、見せたり。又後にもちひんとする文字の為に、先づ其地を前に作すものあり。
其為虚取一レ直也的ナリ矣。其知恐而畏ルヲ也審ナリ矣。【蜴q厚、送薜存義序】
此二句は後の故賞以酒肉の賞のむさとしたることにてなく、しかとあたりのあることなるを、見せんとて、此は作りたるものなり。
助語辭のぬきさしは、尤も工夫あるべきことなり。
是馬雖千里之能、食不飽力不足、才美不ハレ。且欲常馬、不得。安メン其能千里ナルヲ也。【韓退之、雜説】
と云が如き、食不飽則力不足、力不足則才美不外見、とあるべき所なれども、此の如く層折すれば、文氣こゝにて滯りて、其勢下なる安求の句に及び難き故に、則の字をばのこらずはづし、駢列にして、これを書き、因て其文氣をば、直に下まで串接する様にしたるものなり。
天下游士離其親戚、弃墳墓、去故舊、従陛下。者徒セルナリ日夜望セント咫尺之地。【史記、留侯世家】
此游士は浪人かせぎをする士と云ことなり。舊と従との間に、而の字あるべき處なり。省きたるは、此も、こゝにて滯らさずして、下の者徒の間の接應を、つよく聞せん為に、拔きたるものなり。此處をつよく聞かす時は、離下十字斜挿の、補添となるなり。總じて、助字を置けば、其所に其字だけの意味を持ち重くなりて、其處の語勢滯る。滯れば急なる勢を、下に持たしがたし。故に下につよくあたりて、落こみを取らんとするには、とかく省きて書ざるを善とす。又助字をさしこむべき處あり。
南宮縚之妻之姑之喪夫子誨。【禮記、檀弓】
とあり。これは、南宮縚が妻は、孔夫子の姪女なり。其つり合をきかせんとて、其家を指し、一族の女の内にて、別くる心にて縚之妻と云へり。妻のためには、姑なるものゝ喪なるを見せんとて、妻之姑と云へり。さて其時にあたりてのことを見せんとて、姑之喪と云へるなり。これは、皆あたりを見せたるなり。
伋也妻、是レヲ白也母、不伋也妻、是不ルナリ白也母。【檀弓】
此也の字、並にさしこみたる字なり。且つ不為伋也以下も、同じヿを、繰り返したる様なり。此には、皆深き意味あり。舊注の説誤りある故に、聞へぬことになりたり。此は、出母の喪を、其子のつとむると、つとめざるの詮議のことにて、出母は、魯の出王廟の出の如し。生みたる母と云ことにて、白を生みたる妾のことなり。白は、妾腹の子なり。然れども、子思命じて本妻の子として本妻を母とさせられたり。されば、妻は、生むことは生まねども、子思の方の妻なれば是白が方の母とするものなり。妾は生むことは生みたれども、子思の方の妻と為ざるものなれば、是白が方の母とは、せられぬと云ふ意にて、其身分〳〵に取りての、當りを見せんとて、一つ〳〵也の字を置き、又生みたれども、母とせられぬことを、とくと押へん為に、打かへして言へるものなり。
又助字の外の文字を省减せる法あり。
范文子不シテ欲曰、吾聞君タル者刑ニス其民。成而後於外。是以内龢而外威。【晋語】
刑とは、民を治のかたに、とくとはまらし、行儀をつけることなり。成は其事の成就を云ふ。されば、此成の上に刑の字を省減せるものなり。此は振武於外是以のつゞきに神氣の引はりをはづませんとて、上を省減して、勢をすかしにしたるものなり。又名を省減したる法あり。
軻既取。秦王發。圖窮而匕首見。因左手把秦王之袖、而右手シテ匕首、椹。【史記、刺客傳】
此因字上に、荊軻の軻の字を省きたり。軻因とあれば、軻は因てと云意味になりて、緩くなるを嫌ひ、至極急なる處を見せんとて、これを省きたるものなり。總じて急なる處は、皆字を省くを定法とすることなり。助字にても、
樊於期偏祖搤腕而進曰此臣之日夜切齒腐心也【史記、刺客傳】
此日夜の上に所以の二字を省減せり。此は喜びて疾く後のことを言んとせし心の急なる所を見せて、省減したるものなり。又名を増加したる法あり。
而張蒼乃自、為柱下吏。明ヘリ天下圖書計籍。蒼又善用律暦。【史記、張蒼傳】
此張蒼の事を全體に云たる中にて、又蒼が名を出して、蒼又と書けり。是れ名を増加したるものなり。増加したる故は、蒼が漢家の律暦の事をば、興したることの起りを言ふ處なる故に、又起頭して蒼又と書きたるものなり。是をば又起頭法とも名付く。刺客傳の如きは、蔵頭法と名付く。
初心なる人の文を書くに、助字の同字近き處にあれば、手づゝなる様に思ひて、避けて書き替んとすることあることなり。此は文章の法に、一向なきことなり。易の繋辭傳の文、全篇多く是故の二字と、故の字を用ひて、つゞけて書給へり。
大决所犯傷ムルコト必多、吾不フコト也。不如小决シテ使メンニハ道、不如吾聞而藥ニセンニハ也。【左、襄三十一年】
此不如の重複なり。されども上の不如は、傷人必多は、小决使道にしかずと云ことにあたり、下の不如は、吾不克救也と云にゆかすよりは、吾聞而藥之にしかずと云ことにあたりて、書たる迭應の法なり。此の如くなれば、當りさへあれば、字の重複は嫌はぬことなり。
古之為其所一レ有、易其所無者。有司ナルムル耳。【孟子、公孫丑下】
此は者の字の重復(*ママ)なり。然れども、此も皆あたりある故に、重復して書たるものなり。
名譽雖シト賔客雖ナリト、所由殆與太伯延陵季子ナリ矣。【史記、張耳傳】
此には雖の字の重復を厭はずして書きたり。されば、當りある時は、重復は避けずして書くべきことなり。
同字一律と云ふことをば、余問學擧要中にても、此を論じたれども、今更に其由を明かす。凡そ文字は、已前にも言たる如く、符牒付なり。文一篇、又は一語の内にては、又其内にての意象を立たる處の符牒付となる故に、ふと其文字を其一事に呼びて、其名に付けたれば、最早もはや外へは用ひがたし。用ゆれば、意象のぎれとなりて、文意・語意の聞へぬことになることなり。されば、文字の義と云ものは、たとへば、手覆ておゝひにする、めりやすと云物の如くになるものにて、其作者の意の命ずるだけの象に應じて、大にも小にも、長にも短にも、なりて、はまりて、其活象の符牒付となる。たとへば、呂氏春秋に、色の物を染ることを、人の氣象にあやかりて、自分の氣象も、それに化せらるゝことにたとへて用ひたれば、其一篇中の染字、皆それだけの義をば、同じことに持つ。韓退之、送孟東野序に、物の聲の鳴り聞ゆることを人の名のふるひ聞ゆることに、たとへて用ひたれば、此一篇中の鳴字、皆其だけの義をば、同じことに持つにて見るべし。幾字ありても、其義同じことに持つもの故に、一向外のことにはまた通はぬなり。文字の持つ所の、かやうに、篇ごとに動くわけは、其含みたる義のくるふに非ず。たとへば文字の本義は眼鏡の如し。其眼鏡の大小は同じけれども、あてがひ寫す處に随て、其うつす影には、大をも小をもうつし持つなり。餘は問學擧要に詳にせるを見るべし。
文章に避法あり。避くるわけは、たとへば詠物の詩を作るに、其物の名を出せば、其物を詠ずることにならぬ故に、其名を避けて、言出さぬなり。文章の避法を用ゆるも、是と同じ意持にて、其名を出せば、聞者の心に、外物に別けて思ふ意が立つ故に、尚其物と、よそ〳〵しき氣味になる故に、其處よりは一叚深かく外を忘れて、其物にこみ入らせて思はせんとする時に、此避法を用ゆることなり。こみ入りて其内なる意味にして言ひ出さんとするも、同じく避法を用ひて書かふることあり。
然龍弗レバ、無ニスルコト其靈矣。失其所憑依スル、信不可ナル歟。【韓退之、雜説】
此所憑依の三字は、即ちやはり雲のことなれども、こみ入りて龍の身分に付けて言ふ故に、雲の字を避けて、書かへて所憑依とせるものなり。
楊子咲而應ジテ曰、客徒シテ-ニセント吾轂、不一跌ルヲ一レセント吾之族也。【楊雄、觧嘲】
此は前に客の辭に、今吾子與羣賢セバ、歴金門ルコト玉堂ラン日矣と云たるを書かへて、欲-丹吾轂と書たるなり。玉堂に上るべき貴位になれば、乗車の轂を朱丹にて塗るもの故に、客の言たることに取付き、會釋して、其事に思をはめて、其事になりての、こみ入たる處を、引出して、かくは書かへたるものなり。文章に、此の如く書替て行くべきこと、甚多きものなり。此一を以て、萬を例して、工夫し見るべし。又其一跌将赤吾之族は、後の炎〻者滅、〻者絶と云に、あたらんとて、先づ其を其身に切なる、深き處のことにして、言たるものにて、此もやはり避法なり。
助字の上下の置處に、紛らはしきところあり。此は其處の語意の意象に精しからず其活用の處を觀じて、文字に合すること出来ざれば、書損ずることある處なり。如の字をば史記、淮陰侯傳に、
如彼豎子用ヒバ臣之計、陛下安ンゾ得而夷ニセン之乎。
とあり、孟子には、
王如百姓セバヲ、ニカ
とあり。此例にて推せば、史記も、彼豎子如とありたき様なり。されども、此は語勢のあたり相違あり。史記の言へる所は、祖に、韓信ぐるめに、左様になりたる様子をこしらへて、想はせる意持なり。故に上にあり。孟子にては、王に自から其行をば出来るにして、こしらへ設けて想はせる意持なり。故に下にあり。祖の眼中に象を設て想はすると、王に自から想はするの相違にて、上下の別れありと知べし。左、襄三十一年に、
若果シテ、其鄭國ラン
とあり。孟子には、
王之好ムコトクハ、則齊庶幾カラン乎。
とあり。此例にて推せば、鄭國其とありたき様なり。されども、此も語勢のあたり相違あり。左傳の言へる所は、鄭の國の人が、自から其國のことを言たるもの故に、前句へのあたりには、其の字が專要となり、その時にはと云意にまはりて、その時には鄭國實ョ之と云ことになるべしと云ふ意なり。孟子にては、孟子の意に、他國とつり合せたる中にて、齊を分けて、外の國はしらず、齊は人よりの見こみにも、天下の政を得るに庶幾せんと云ふに、なるべしと云こゝろになることなり。齊を題に立てゝ言と、鄭國を題に立てゝは言はざるの相違なり。勘辨をして見分け知るべし。
素居廣平。時皆知河内豪姦之家。【史記、李廣傳】
此は河内豪姦之家をば皆知るとあるべきを、如此書たるものなり。此を對暗伏虚象法と名づく。皆知と云ふの前に、河内豪姦之家を暗に伏せる虚象に立てゝ、其に對して指して、皆知と云ひ、さて其暗伏せし虚象をば、後より補添して、書出して見せたるこゝろもちなり。
秦軍為ルコト三十里亦會楚魏救至ルニ。【史記、平原君傳】
呂后復問其次。上曰、此後亦非而所一レ知也。【同、祖紀】
此亦の字、楚魏救にも、汝もなり。並に對暗伏虚象法なり。
毎累倍所貼帶の法あり。此は同じ文字を使ひて、後に累るほどづゝ、其字あたりの意味に、貼帶する所が倍することなり。
君子學以聚、問以辨、寛以居、仁以行。【易、文言傳】
此最初の之は常の通りなり。されども、他書にては、之字は前にあたりあるを指たること多きに、此之の字は、前のあたりなきに書たるものなれば、後に見合せて、其行に掛くべき文義のことなりと知るべし。さて辨之の之は、聚めたる所の物を指せり。居之の之は、其辨じたる所の物を指せり。行之の之は、其居れる所の物を指せり。此の如く、其義重累に随ひて倍増して行くことにして見るべし。
知及、仁不ルコト。【論語】
此も下の之字、上の及びたるところの物を指せり。又虚字にても、同じ氣味に見るべきことあり。
獻子辭シテ曰、殺シテ以求ルハ、非吾所能為也。威行ルヲ不仁、事廢スルヲ不知。【晋語】
此威字即ち君を殺したるによりて、生じたる威を指すなり。事廢とは、下が上を畏れずして百事廢するをいへり。此累倍の法は、甚多きものなり。
綱目にして書くことは、文の常法なり。又其綱目を、更に細釋をしたる法あり。
五年春正月甲戌己丑、陳侯鮑卒再赴也。於是陳亂。文公子佗殺大子免、而代。公疾病而亂作、國人分散。故再赴。【左、桓五年】
此於是陳亂の四字は全體の綱なり。文公より代之までの十一字は、具目なり。公疾病より分散までの十字は、又綱目を并せ承けたる細釋なり。故の字の旨は陳亂の綱より其勢を承ることにして書けり。
古者太史順、覓陽癉憤盈土氣震發。農祥晨シク日月底於天廟。土乃脉發。【周語】
農祥は房宿なり。天廟は、室宿なり。此太史より覓土までの六字綱なり。陽癉より震發までの八字は、目なり。陽癉憤盈は東方の星宿已に三宿を歴て、房星の晨正するを云ふ。日月會於室は、孟春の月なり。乃は、さてと云きみで、脉發は、啓蟄のことなり。啓蟄の前正月の月の下旬の末を、藉田の期とすることを云へり。韋昭が注は、誤りて立春とせり。従ふべからず。さて此綱目と云ふことは、綱は網の上の方なる大づなのことなり。目は網の目のことなり。大綱が擧がれば、目はそれに付きて張るものにて、事の大體の處を、綱にたとへ其に付きたる小わりを目にたとへて、綱目と云ふなり。文は、何事を書くにも、總て此綱目の書かたに非ざれば、事の大小紛らはしくなる故に、文章の法は、何によらず、大方おゝかたは、皆先綱後目の書かたなるものなり。此に擧げたる二例は、綱目に又細釋ありて其細釋にて、始の綱目にても盡ざる所の事を、盡せる書かた、法とすべき故に、擧げ示すことなり。綱目にして書行くことは、諸書に多ければ、例を擧示するに及ばざるなり。
分股法と云もの、前にも略これを言くれども、未だ詳辨せざる故に、今更に數例を示して辨釋す。
シテハ韓信謙讓不、不上レ其能、則庶幾哉。於漢家、可シテ周召太公之徒、後世血食矣。【史記、淮陰侯傳賛】
此分股法なり。則字より上は、腰なり。下の庶幾哉三字、一股なり。於字より矣字まで十八字一股なり。此は、庶幾哉にても意一切れになり、於字より矣字までにて、又其意一切れになりて、語勢は、並に上の則字より承けくるが、人の腰より、下兩股に分れたるが如き故に、分股法と名付く。又此後世血食の四字は斜挿の補添なり。
子魚曰、君未。勍敵之人隘而不ルハ列、天クル也。阻而鼓セバ之、不亦可ナラ乎。猶有ラン焉。【左、僖二十六年】
此は、勍敵なる故に、敵の人衆の阻にある時にして、我人衆をすゝのかゝらす(*ママ)こと、其♂ツにあらずや。阻にして鼓しても、勍敵なる故、それにてもやはり、我人衆には、ひやいなる(*ママ)ことあらんとなり。不亦可乎が一股なり。猶有懼焉が一股なり。
古書を引かんとして前を作りし法あり。
賢者在、能者在、國家閑暇及、明ニセバ其政刑、雖大國必畏矣。詩云、迨天之未ルニ陰雨、徹セン彼桑土。綢-セントセヨ牖戸。今下民ヲモ或敢ラントセヨ。【孟子】
此國家閑暇は、迨天之未陰雨の前づくりなり。明其政刑は、綢繆牖戸の前づくりなり。大國畏之は、或敢侮予の前づくりなり。或敢侮予は、しからざれば、予を侮るべしと思へと云ふ意なり。此にては、文字の前後に、必あたりある様に書くべきこと、文の定法なりと知るべし。
冐・斜挿・補添のことも、問學擧要に言たれども、彼には、例を擧ること少なき故に、今復數例を擧す。冐とは、文の正意のある所の、語旨を明にせんために、前おきを書くを云ふ。
吾先君新於此、王室而シテ既卑矣。周之子孫日失其序。夫大岳之胤也。天而シテ既厭カバ、吾其能許爭ハン乎。【左、隱十一年】
此夫許已下の七字、斜挿の冐なり。さて、天而の而の字は、周の子孫の句に應じ、吾其の句は、夫許の句に應ず。此は隔句相呼應するの法なり。全意は、吾先君新に此に邑したれども、王室はそれよりして、既に威をおとし、周の子孫なる諸侯は、日に禮義をみだりて、兄弟の國なるものも、次序を失ひて、相挑戰ふ様になりたり。かの許は、大岳の胤なれば、天の彼日に其次序を失ふよりして、周のコをあくにならば、許は、別姓の胤なれば、天許に福して、鄭よりは敵し難かるべしと、云こゝろなり。
季文子卒。大夫入。公在、宰庇家器、為、無衣帛之妾、無食粟之馬、無金玉、無ヌルコト器備。【左、襄九年】
此無衣帛の二句十字は、斜挿の冐なり。無蔵金玉の句は、宰庇家器より出たり。其次手に、妾馬のことまでも、冐にして挿みて、季文子が儉を見せたるものなり。
其謀如是、懼クハアラン於主。吾不敢不ンハ一レ、范鞅為。懷子好士多帰、宣子畏ルヽ其多士也。信之懷子為下郷。宣子使、而遂逐。【左、襄二十一年】
此の為下郷の三字、下の使城著の為の冐なり。著は、地名なり。下郷たれば、城を築くことを主どらしめらるゝことが、出来る故に、それを幸に、著に城くことを命じ、外へ出しめて、黨與のかゝらす(*ママ。「ぬ」カ)様にして置きて、さてそれをば逐出しく(*ママ。「た」カ)ることなり。此は、全體、欒祁が讒言を、范鞅が證據人になりて、まことしやかに言なしたる故に、范宣子がそれに惑ひて、斯く逐たることなり。
王使メテ工尹襄ヲシテルニテセ一レ曰、方事之殷ナルニ、有靺韋之跗注セル、君子ナラン也。屬見不穀而下レリ。無カラン乃傷ツクコト乎。【晋語】
此方事之殷の四字冐なり。合戰の最中にあたりて靺韋の跗注の甲冑のせし人あり。大夫君子と見へて車に乗りたるが此方を見るにあたりて車より下らるゝことなり。創を被らるゝになることなからんやと云ことにて、無乃傷乎の為の前おきに冐にしたるものなり。
夫學者載籍ムルニ、猶考フルハ於六藝、詩書雖タリレドモ(*ママ)虞夏之文可知也。【史記、伯夷傳】
此詩書雖缺然の五字斜挿にて、虞夏之文の為の冐なり。此はかの學者の載籍を讀むに、博を極むれども、やはり其事の信否を、六経の書に考ふるわけは、詩書は缺文はあれども虞夏の比の文章は、それにて知らるればなりと云ことなり。
是僕終ルマデンハベテ憤懣、以曉スコトヲ左右、則長逝者魂魄私恨無カラン窮。【司馬遷、報任安書】
此長逝者魂魄冐なり。任安も程なく刑にかゝるべきに、此心の憤懣を舒べ明さゞれば、我死したる後の魂までにも、殘念に思ふこときはまりなかるべしと云ことなり。私恨無窮にてすむことを此を加へ、掛けてのばして云へるものなり。
人非レバ生而知、孰能無カラン惑。惑而不ンハ、其惑也、終觧矣。【韓愈、師説】
此非生而知之者の六字、冐なり。總じて、冐と見るは前おきになる句にて、此句なくても、前後の文意はつゞきてきこゆるを其間に此句をさしこみ、後句に言ふ語の為の前おきにしたる句をば、斜挿の冐とすることなり。
補添の法は、語の一成したるあとに、前語に言足らざる意味を補ひ添へたるものを云ふ。
讒行レバ身死可也。猶有ラン令名焉。【晋語】
此申生へ杜原欵が告たる語にて、猶以下の五字補添なり。
君其必速。勿ムルコト遠聞。【同上】
此叔向が、豎襄を救たる語なり。勿令以下補添なり。
王之好メルコト甚、則齊其庶幾乎。今樂由古之樂也。【孟子、梁惠王下篇】
此は、孟子王樂を好まば、齊庶幾乎と答へたるに、荘暴が聞くところにては、孟子は古樂のことを云へるなるべしと、思ひ聞んことを恐れて、今樂の一語を補ひて、己が言ふところの樂とは、今の俗樂にても、同じことなる意を明せるなり。
吾王之好メルナル鼓樂夫、何使ムルヲシテ於此也。父子不相見、兄弟妻子離散セリ。【同上】
此父子以下は、上に此極と云へる所を明かす為の補添なり。吾王之好鼓樂夫は、我がかく難義(*ママ)をするは、吾王の鼓樂を好める故によるかと云ふことなり。
一日數戰、無尺寸之功。折北不救、敗滎陽、傷成皐、遂走宛葉之間。【史記、淮陰侯傳】
此折北不敗(*ママ)は、綱なり。敗滎陽の二句は、補添するに、目を以てせるものなり。
夫樊将軍窮-シテ於天下、帰セリ於丹。丹終以迫於疆秦、而棄所哀憐之交匈奴。【史記、刺客傳】
此置之の一句、上の棄字の為に補添して、其棄の所為をば實して(*ママ)言へるなり。
今太子聞盛壮之時、不臣精已消亡セルヲ。雖光不敢以國事、所荊卿可使シム也。【同上】
此光不以下、國事に至るまで九字、補添なり。雖然の然の字を、下につゞけて讀むべし。畢竟雖然の二字の旨に帰することなれども、その然と云へるにわけを、いひそへて見せたるものなり。
此皆學士所謂有道仁人也。猶然遭ヘル此菑。【史記、游侠傳】
此遭此菑の三字補添なり。然の字を實して言たるものなり。
然韓非知説之難、為説難。甚具レルニシテ於秦、不自脱スルコト。【史記、韓非子傳】
此甚具の二字補添なり。説難書のいへる所の、趣つまりて、ぬけめも無きことを、いへり。
斜挿にも、はやり冐・補添の意持を兼たるもの多し。
孔逹曰苟アラバ社稷、請。罪我之由ナリ。我則為シテ、而亢ケリ大國之討。将誰任ゼン。我則死セン。【左、宣十四年】
これ三挿あり。尤も奇なる法なり。此事は、全體、楚子が、宋の楚に逆ひて、蕭を救ひたることを怒りて、宋を伐んとせしによりて、孔逹は宋の執政なれば、其救蕭の罪を、引かぶりて、己が身死して、其云わけとすべしと言たる辭なれども、其云かたの辭理に、三挿ある故に、奇なる法となれり。請以我説は、下の我則死之と相接應し、罪我之由は、下の将以誰任と相接應して、其中に又我則より之討までの十字を、挿みたる故に、三挿なり。今別に圖を以て示す。
苟・・・  請・・・  罪・・・    我則・・・    将・・・  我則・・・ 
━━━ ━━━ ━━━ 挿━━━━━ ━━━ ━━━━
       │    挿└―――――――――┘    │
     挿└―――――――――――――――――┘
如此の辭理なり。讀者此圖によりて考べし。我則は我がこれはなり。
小國無クバ信、兵亂日至ビンコトラン日矣。五會之信、今将カバ、雖、我将安ンゾヒン。【左、襄八年】
五會之信二句挿なり。無信なれば、兵亂日に至りて、所詮亡びんこと、日無きことなれば、楚が救ひ来りたりとも、畢竟何の用にもたゝぬことなりと云意なり。五會之信、今将背之は、信にすること無きを實にして言たるなり。これもやはり、挿により、隔句呼應の法となりたり。
使者、稽首シテ而對ヘテ曰、諸侯方於晋、臣請甞ミン。若可ナラバシテ之。不可ナラバメテ而退カン。可ニシテ以無ンバ害、君亦無カランスルコト。【左、襄十八年】
此若可君の三字、挿にて、而の字、上の甞字と、隔三字にして接應せり。臣甞みにあたりて見るべし。若し伐つ可き様子ならば、君は左様にありてから、それに繼ぎて、師を率て出たまふべしと云こゝろなり。
世子曰、然是誠。五月居。未ルニ命戒、百官族人一レレリト。及ルニ、四方ヨリ。【孟子、滕文公上篇】
此未有より曰知までの十二字、挿なり。五月喪制を守り、倚廬に居られて、未命戒もあらざる内に、百官族人などは、まだも謂て其葬期を知れりとも曰べきが、葬の日に至るに及びて見れば、命戒あらざる先に、早く、禮の通りに葬期のあることを知りて、四方より来りてこれを見物したりと云ことなり。記者の較量の語を以て挿とせり。亦一奇法なり。
因謂即弗ンバ、當シト。王許セリ。汝可矣。【史記、商鞅傳】
此汝可疾去四字挿なり。
ヨリクンバ根柢之容、雖精思、欲スト忠信ケント人主之治、則人主必有ラン相眄之跡。【史記、鄒陽傳】
此雖字より治字まで十三字挿なり。
西據洛陽武庫、食敖倉、阻ミシ山河之險、以令セバ諸侯、雖シトルコト、天下固已定ラン矣。【史記、呉王濞傳】
此雖毋入關の四字挿なり。
陛下素ヨリラシテ淮南王、弗シテ、以至レリ。【史記、袁盎傳】
此弗稍禁三字挿なり。
孝文帝欲皇后弟竇廣國ント丞相、曰、恐クハ天下以ストセン廣國。廣國賢ニシテ行故トセント、念フコト久之、不可ニシテ而、帝大臣又皆多死皆見ナル。【史記、申屠嘉傳】
此曰字より不可までの二十三字、挿にて、挿中にも、三叚にわかれあり。一叚は、曰より、私廣國まで九字、此は文帝の天下へ對しての遠慮なり。廣國賢より、相之まで九字は、欲為丞相のわけなり。念久之不可は、此遠慮と欲為の二つが、决せずして、いろ〳〵と思案ありたれども、とかく遠慮の方が勝て、不可と思ひたまへりと云きみなり。此三叚ありながら、挿になる故は、此三叚、槩するに、文帝の心事にて、表向の外がわの處の事にていへば、上の為丞相の下へ、而帝の句の語勢が直に接應する故なり。
丞相少時本好メリ黄帝老子之術。【史記、陳平傳】
此少時の二字、挿なり。本の字にて、後文のあたりになることあれども、其本と云ふは、少時よりの事なりと云を示せる故に、挿たるものなり。
韓信曰、漢王遇スルコト甚厚、載スルニテシ其車、衣スルニテシ其衣、食シムルニ其食。吾聞、乗人之車、者人之患、衣人之衣人之憂、食人之食スト人之事。吾豈ケン一レ乎。【史記、淮陰侯傳】
此吾聞より之事まで三十一字、挿なり。同傳に、
二十萬衆、誅成安君、名聞海内、威震天下、農夫莫トイフコト、釋褕衣甘食シテ、傾、以待一レ、若キハ此将軍之所ゼシ也。
此名聞以下、者字まで、挿の補添なり。又此下に、今将軍欲擧と云より、若此者将軍所短也、臣愚竊以為亦過矣とあるは、欲戰より以下、分也まで挿なり。若此の句と、臣愚の句は、堅城之下に接して見れば、隔挿の分股なり。
又略折法あり。前か後に其文字ありて、語勢の引はり、自然に其文字にひゞく處をば、其字を省きて、略折せるあり。又其ある文字の反を、自然にひゞく故に、略折せるあり。
吾先君新於此、王室而シテニシテ矣。周之子孫日失ヘリ其序。夫大岳之胤也。天而既ニシテカンヲ周コ矣。吾許爭ハン乎。【左、隱十一年】
此吾先君の上に、自字を略し、王室の下に、自吾先君新邑於此の八字を、略折したる意持にて、而の字は略折の自字に應じたるものなり。天字下に、以周之子孫日失其序として、九字を略折せる意持にて、而字は略折の以字に應じたるものなり。
レル其不一レ免也誅。而薦メバ、則無ケンブコト也。【左、宣十四年】
此免下に、下の誅字を略折せり。様〻の薦獻をせしことは、此にては誅に免かるべしと、見ぬき謀りたる故に、加様の物入をも、古人はしたることなり。然れば、未然の處にて、さし遣すことが肝要なり。彼より誅するになりて、さてそれに薦獻を、したぞならば出し時がはづれたることになる故に、薦獻して免れんとするの用に、立ちやうが其事に及ぶことあるまじ、役に立ぬことになるべしと、云ふこゝろなり。
人生實ラントイフコト乎。【左、成二年】
此難字の下に、獲の字を略折せり。人は生こそ實に獲がたし。其に、死を獲じと云ことあるべしやと云こゝろなり。
余雖ストテセント鞏伯、其シテ舊典、以沗シメンヤ叔父。【同右】
此欲下に、見の字を畧折せり。見の字なることを知るは、前に王弗見とあるにて知るゝなり。
曰、以君之靈、纍臣得スルコトヲ於晋。寡君之以為スルコトヲ、死且不朽。【同三年】
此下の以字の下に、纍臣の二字を略折せり。得の字の旨は下の為戮の二字までに蒙れり。
三代之令王皆數百年保テリ天之禄。【同八年】
令王の下に、其子孫の二字を略折せり。
仲尼曰、志之言、以足文以足言。不ンバ、誰ラン其志。言之無キハ文、行而不カラ。【左、襄二十四年】
此足志の間には、知の字を略折し、足言の間には、行の字を略折せり。足志を、志に足らしむと讀むべし。足言を、言に足らしむと讀むべし。
然明ナリ曰蔑也。今而後知レリ吾子之信ナルヲ一レ也。小人實不才ナリ。若果シテハヾ、其鄭國ラン。【同三十一年】
此可事の二字挿なり。さて可事の間に、行の字を略折せり。此は、下の行此の處にて、行の字をつよく聞せんとて、上にては略折にせしものなり。小人實不才とは、吾子は信なり、小人の我が言しが如きは不才なる故なりと云ふこゝろなり。
魯叔孫之來也、必有ラン異焉。其享覲之幣薄シテ、而言諂ヘリ。殆ヘルナラン也。若請ハヾ、必欲セルナラン也。魯執政唯ナルガ、不シテ歡焉而後遣レルナラン。【晋語】
此強の字の下に、請の字を略折せり。魯執政は、不歡焉、唯強請せる故に之を遣れりと云ことを隔句呼應の法にかきたるは、請へるところを、正主にして、つゞけて、執政の心持をば、旁客にして書たるものなり。
古之欲セルニセント明コ於天下、先治其國。欲セルメント其國者、先齊其家。欲セルヘント其家者、先脩其身。【禮記、大學】
此欲治の上にも、欲齊の上にも、古之の二字を上に讓りて、略折す。上の古之は、下の略折の本となる、冐の一法なり。
人不レバ得則非其上矣。不シテ得而非其上非也。為シテ而不民同ウセ一レ亦非也。【孟子、梁惠王下篇】
此不得の下に、略折あり。此略折を、同樂の字にすれば、同樂を得ざるとて、其上を非るの理なし。所欲の字にすれば、又同樂と同じからざる嫌あり。故に略折に、此兩意をこめて、同樂と所欲との間のことにして、それを略折せり。此は又略折の一法なり。
擧欣欣然トシテベル、而相告ハン、吾王庶幾無疾病歟。何以能鼓樂セン也。【同右】
此何字上、有疾病三字を、略折せり。
蕈食壺漿シテ以迎。豈ラン他哉。避クル水火也。【同右】
此水火は虐政の水火の難の如きを言へり。されども、如の字ありても、其民の身に切なる難義の處却てきこへかぬる故に、これを略折す。下には、乃これを承て、如水益深、如火益熱の語あり。
アツテ然後知軽重、度アツテ然後知長短。物皆然。心シト。王請度。【同、上篇】
此物皆然とは、上に言へるうらの、軽重・長短の知り難きを以て、物字上に略折していへり。甚の下にも、難知を略折せり。
者棺槨無度。中古ニハ棺七寸、椁稱ヘリ。自天子於庶人。非也。然後盡クセリ於人心。【同、公孫丑上篇】
此然字の上に、棺七寸椁稱之の六字を略折す。かやうの處、略折せざれば、くど〴〵しき様なる故に、略折せるものなり。
太傅之計曠日彌久ニシテ心惛然トシテルコトヲ須臾ナルコト。且非テスルノミニ一レ此也。夫樊将軍窮-シテ於天下セリ於丹。【史記、刺客傳】
此於此の下に、不用其計の四字を略折せり。
夫大木杗、細木桷。欂櫨侏儒、椳闑扂(*原文「居」)楔、各得、施シテ以成匠氏之工也。【韓退之、進學觧】
此欂櫨の上より下、皆上に讓りて、為の字を略折せり。
幽遠之小民、其足跡未甞至城邑。苟有ルニルコト其所、能自カラスル於郷里之吏鮮矣。【同人、贈崔復州序】
此所の字の下に、直の字を略折せり。總じて、古文をさばくに、略折の法あることを知らざれば、一向にきこへぬこと多し。周語の中に略析(*ママ)の尤も多きものあり。今全文を釋す。
景王既シテ下門子、賔孟適雄鷄自斷其尾、問フニ侍者曰、憚其犧也。遽帰告曰、吾見雄鷄自斷其尾、而人曰憚其犧也。吾以為【此處に鷄の字を略折す。】信ナリ矣。人犧【此處に斷二字を略折す。】實。【此處に制の字を略折す。】己ニハ【此處に雖の三字を略折す。】何カアラン。【此處に於其ルニ五字を略折す。】抑其【此處に以の字を略折す。】惡トナスルヲ人用【此處に故ナラン一レ三字を略折す。】也乎。則【此處に其斷ツモの三字を略折す。】可ナリ。【此處に¢Rの二字を略折す。】人【此處に犧の字を略折す。】異ナリ於是。【此處に人の字を略折す。】犧實用ユレバ也。王弗リシ于鞏、使公卿ヲシテ皆従、将サン單子。未シテ克而崩。
此犧は、鷄尾を犧尊の飾りに用ゆることをいへり。周王の單襄公あるは、鷄の尾あるが如し。故に人犧と云ふ。さて周王のこれを斷んとするは、鷄の自から其尾を斷にひとしくして、鷄尾は斷ちても、やはりそれが犧となる故に、此尾が人の為に用らるゝことを惡みて斷とあらば、此はさもあるべきことならんが、人の犧は、人の為に用らるゝとて、惡むべき鷄尾とは、相違にて、人の犧は、實に人を用ゆる故に、人これがために用を為す。されば、それを斷んとせば、害あるべしと云たることなり。韋昭が注は、殊の外なる謬觧にて、通じがたし。畢竟略折法を知らずして觧せし故なるべし。此等は、當時の大切の事なる故に、隱語にして、鷄のことによせて言て、それも、大切の事故に、語に略折を多くして、意味を含ませて聞かせたるものなり。
分頭の法あり。此は例の寡なきものなり。
ズル、先生者、國之大事也。【史記、刺客傳】
此は丹所報が一頭、先生所言が一頭にて、者の字は、くびすぢなり。
斜挿に分属の法あり。
使メテ人逐一レ而主父セリ矣。【史記、趙世家】
此馳の字挿なり。已に脱關は、逐たる人より言ふ語にて、馳は、主父が方に属して言へり。故に分属なり。
古語に、正面のことをば、わざとそらして言たる法多し。
今以君惑於我必亂ラントスルヲ上レ、夫無ランヤ乃以而行於君、君未而不ルコト上レ。【晋語】
此は申生が君を弑することあるべしと云ことを、わざと、的面に言はずして、にや〳〵としたる辭にて、自然に聞ゆる様にしたるものなり。
太子遲其改悔、乃復請曰、日已盡矣。荊卿豈有意哉。丹請、先得ルヽコトヲ秦舞陽。荊軻怒太子曰、何太子之遣ルコトハ。徃而不反者豎子ナラン也。且提ヘテ一匕首ルニ不測之疆秦、僕以留、待吾客ニセントナリ。【史記、刺客傳】
此太子の語は、荊卿が別意あるを疑たる探り辭なり。荊軻が語は、怒言なる故に、これも正面をはづして、肝要の處の押へを言たるなり。何と云ことにて、太子之遣さるゝことぞ。舞陽が徃けば、もどりて呼には来ぬことではなきか。それよりは、一匕首を提げて、不測の疆秦に入ること故に、吾は我客を待て、それと同道して、舞陽の同道は、やめにしたく思ひたる故なりと云ことを、知れたることは、飛して言たるものにて、舞陽をやめたく思ひしことは、自然に其前後の中に、含蓄してあるなり。
仲尼曰、能執干戈、以衛社稷。雖ストラント殤也、不亦可ナラ乎。【禮、檀弓】
此には、衛社稷とあるは、雖欲勿殤の間に、自然に其討死したることは、含蓄して云給ひたることになることなり。此類の語、古書に多きものなり。心を付けて讀むべきことなり。さなければ、含蓄したる意味を失ふべし。
正當無名と云ことあり。是文章を書くには、第一に知るべき要義なり。總別文字は、正しく其眼前に當れる事には、用ゆることなきものなり。故は、たとへば、今其人の目、火に向ひて居れば、只此とのみ云て、火を指し云ふこと、自から聞こゆ。花の枝を手に握り居れば、只此とのみ云て、花を指し云ふこと、自から聞こゆ。奴僕に云付て、烟盆中の火入に、火を入れさせんとするに、只指を以て、其火入を指し見すれば、火と呼ばずとも、火を入よと云ことは、聞取るゝものなり。故に正當無名と云ふなり。正當なれども、其人の心が、他に属して居る時にては、正當の物にても、名を呼ことあり。此は正當なれども、不正當と同じことにあたれる故なり。文字は、即ち名なる故に、文字を用ゆることにも、正當なることには、書に及ぬことを知て、はづすべし。春秋公羊傳に、常事不書と云も、しれたる常式のことは、春秋にしるさぬことをいふたることにて、正當無名も、同じ心持なることなり。
象往。舜在。【孟子、萬章上篇】
此は象の目にあたりて、琴を鼓し居給たる様を、形容せんとて、琴の上に鼓字を省けり。
舜之飯也、若ルガヘント焉。及其為ルニ天子也、被袗衣。【同上】
とあり。これは、正當に非る故に、鼓の字なければ、通ぜざる故なり。此は文の全體にかゝることなり。此類にて工夫あるべし。

淇園文訣 卷之下 終

  (序)(皆川允)   卷上   卷下
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