1/  [INDEX] [NEXT]

明治文學史 第一期の文學

岩城準太郎
修文館書店 1927.10.5
※ 複刻版(改訂あり。初版:明治39年、増補版:明治41年)。
※ 原文で圏点を施した語句は強調文字で示した。色文字は入力者の備忘用。

 序(芳賀矢一)  緒言  増補例言  複刻凡例
 目次  第一期の文學(1868-1886)  第二期の文學(1887-1894)  第三期の文學(1895-1904)  第四期の文學(1905-1908)
 附録(明治文學年表)  索引

[TOP]

徳川時代の學者は知徳を重んじて情を輕んじ、文藝の暗K面を認めて、その價値の至大なるを忘れたるが如し。新井白石は猿樂の流行を見て、政綱紊亂の兆として苦言を將軍に進め、山本北山は淨瑠璃の文を愛讀しながら、尚之を厠中にのみ繙讀せりといふ。曲亭馬琴の如き、生涯を小説の述作に委ねたる人すら、言ふところは有用の書を購はんが爲に無用の書を著すといふに在り。何ぞその文藝に對するの冷淡にして、これを輕侮したるの甚しきや。日露戰爭の捷利は古來武士道の教訓に原因すとは道學者の言にして、維新の鴻業は水戸學に胚胎し、學者の論議よく天下の大勢を左右したりとは史家常套の説なれども、その武士道を宣傳し、忠君愛國の思想を國民一般に浸染せしめたるものは、實はかの士君子を見るを陋とし耻としたる小説淨瑠璃演劇等、いはゆる平民文學の功勞によらずんばあらず。狂言の吉例とせられたる曾我兩孝子の名は草刈童にも知れ渡り、忠臣藏の幾幕かは津々浦々の村芝居にも演ぜられざる無かりしを思へば、無用の書は却つて有用の功を齎らし、戲作の影響は甚だ眞面目なるものありしにあらずや。
純文學の士君子の間に尊重せられざりし結果は、精神界第一流の人物をして筆を斯方面に執らしむることなく、小説戲曲の如き、眞個に生命あり活氣ある文學を擧げて、嗜好低き中流以下の社會に委ぬるに至り、爲に文學も亦鄙陋淫猥の域を脱する能はざりしは、我徳川文學史上の一大遺憾といふべし。文藝を尊重する風の盛なること歐洲諸國の如くなりしならんには、白石の如きは盖し世界に雄視する(*抜きんでて見える)一代の大文豪たりしならん。
然れどもかくの如き時代にありて、いはゆる平民文學の發展のさばかりに顯著なりしを思へば、亦自ら人意を強うするものあり。凡そ國家の隆昌なる、必ず文學の見るべきものあり。國民の意氣銷沈するや、文學も亦委靡して振はず。支那朝鮮等近世文學の甚だ寂寥なるを思へば、我國が東洋の覇者たるべき形勢は已に徳川文學を以て豫言し得べかりしなり。
吾人はこゝに舊來の文學を繼承して、新に西洋の文化を受け、今よりは東西を融合渾化せる新國文學の發生を希望する地位に立てり。純文學に關する見解は一大變遷をなして、今や徳川時代に士君子の繙讀するを憚りし無用の書は、多數の學者によりて研究せられ、徳川時代に士君子の列に伍する能はざりし戲作者は、詩人文學者を以て社會の上流に遇せらるゝに至れり。文學に對する尊重の此の如き思ひ、國家の隆運前古其の比なく國民の發展亦益〃際涯なからんとする今日の状勢を念ふに、國文學の前途に向つて赫灼たる光明の閃影を認め得たる感なき能はず。
今日は正にこれ過渡の時代なり。音樂に於て、繪畫に於て、尚蔚然たる大家の輩出せざる限り、國文學に於ける偉人の發現も亦未だしかるべし。たゞこの過渡の時代が如何に經過し、如何に變遷し來れるかを見んは、將來の希望と理想とを滿足せしむる上に於て、幾多の興味を感ずべきのみならず、將來に起るべき新國文學の先驅たるべき現代文學を現今の人の手に叙述し評論せる本書は、後人の目より見ば亦如何に多大の興味を惹起すべきならんと信じ、本書の刊行を喜悦するの情に禁へず。
明治三十九年十二月
芳賀矢一


[TOP]

緒言

明治維新は本邦文明史に於ける空前の事件なり。東西の文明相交りて茲に一新文明を現出し、社會百般の事象悉く新彩を帶ぶるに至れり。然れども、明治の文明は、年を閲すること四十に滿たず。譬へば、青春の人、經驗未だ足らず、思慮未だ熟せず、勇往の氣徒に盛にして未だ調和の妙境に達せざるが如く、新舊の二素到る所に乖戻す。我が文明が壯年の域に上り、成熟の期に入るが如きは尚遠き未來に屬す。所謂「過渡時代」は、斯かる時期に命ずべき最も陳腐にして又最も適切なる名稱なるべし。而して此の現象の特に著しきは、文藝界に在り。由來文藝界の推移變遷は常に物質界の其れに後る。物質界革新の事業を完成してより、文華爛熟の盛運に達するまでには、更に幾十の歳月を經ざるべからず。大化改新ありてより三十年を經、天武持統の世に至りて物質界の革新殆ど完成したりき。而も文藝界の發展を遂げたる天平の盛事は八十年の後に在りき。桓武帝京を拓きてより三十年を經、平城嵯峨の世に至りて紀綱張り國運盛なりき。而も延喜の文運勃興は百年の後に來りき。元和偃武以來三十年、家綱軍職に就く頃は、恰も徳川氏覇業の完成せし時なりき。而して文藝界の新氣運は八十年を經て元祿享保の交に興りき。維新の一元勳は豫言すらく、明治維新の大業は三十年にして成らんと。思ふに二十七八年戰役の前後は、維新の宏謨(*大計)を完成したりし一大時期に非ざりしか。物質界の方面は此の時に方りて略成人の域に達せしが如し。唯文藝界の天平時代、延喜時代、元祿時代は未だ到らざるなり。
然り。明治文學は尚混沌たる過渡期に在り。然れども、古來文學史上の過渡期にして斯くの如く興味饒きは未だ有らざるなり。平安文學の過渡期は、印度支那の文藝を取りて之を本邦固有の文藝に融和したる時代なりき。江戸文學の過渡期は、舊文藝復興の氣運に乘じ、一千年間浸潤し來りし支那印度思想が、純然たる我が文學思想となりて現はれ、東洋文明の精華悉く萃りて我が文學に入りし時代なりき。明治文學の過渡期は、則ち之に止らず、前代萃め得たる東洋文藝の精華を提げて、新に泰西の文藝と接觸し、其の英を摘み其の芳を採り、以て世界的發展の途に就かんとする時代なり。明治文學史は此の意義深き過渡期文學の一般を髣髴せんとするものなり。
遮莫(*さもあらばあれ)、明治文學は年齒尚若く、思潮の變遷文運の推移、未だ容易に究むべからず。されば之を論ずるに方り、期を分ち章を定め、劃然たる彙類(*品類)をなして、各種文學を同一體系の下に攝取論述すること甚だ難し。此の書に試みしが如きは、所詮一の試みに過ぎず。
此の書主として代表的作家、及び代表的著作を取りて文學發展の迹を辿る。多數の作家作品を悉く採録する餘裕なきを憾む。
此の書收めたる文學は、純文學に限る。又純文學に在りても、所謂美文紀行文乃至漢詩漢文等は省略に從ふ。
文學評論と新聞雜誌との文運發展に及ぼす影響や甚だ大なり。此の書特に節を設けて之を詳述せんとせしも、紙數に限あり、唯略敍に止む。
最近文學の概觀は、三十六七年の交、文運一轉せんとするに至つて筆を擱く。象徴文學の勃興、社會主義小説の出現、藤村漱石獨歩等新文星の活動、及び文藝協會の事業等の新現象は、尚將來の發展を待つべき者なれば、暫く之に論及せず。
菲才寡聞敢て事に當る。誤謬と脱漏と、冗漫と粗笨と、定めて卷に普からん。偏に江湖の叱正を俟つ。
明治三十九年十一月
著者識す


[TOP]

増補例言

本書は初版の全部に訂正を加へ、特に末章「最近文學の概觀」を改作し、新に二章を増補し、添ふるに明治文學年表を以てしたる者なり。
初版は其の緒言に述べしが如く、三十六七年の交に筆を擱けり。當時文壇の風雲頗る險惡にして、大勢の何れに傾くべきか、若しくは如何なる新現象の起るべきかは、聰明なる批評家と雖、觀測するに難んずる所なりき。衝天の意氣を以て崛起し來れるロマンチック運動の歸趨は如何に、デカダン詩派を模倣せる象徴詩は如何に發展すべきか、將來小説界の覇權は天外の科學的寫實小説に歸すべきか、蘆花春葉の家庭小説に歸すべきか、はた全然新作風を捲き起すべきかに關しては、何人も權威ある論斷をなし得ざりき。況んや自然主義の文學、俳諧派の小説の、突如萬丈の光焔を擧ぐべきを豫想するに於てをや。爾來我が文壇は、急轉直下ロマンチック運動の統を繼ぎて舊文藝破壞の運動を逞うし、敍事詩史詩夢の如く去り、家庭小説は第二流讀者の間に墮ち、代りて立てる新興文學の旗幟獨り鮮明に、文壇の各隅に樹つに至れり。今にして過去文學界を顧みれば、歴史の進程略分明に、文運發展の徑路亦瞭乎として双眸に入る。文學上の維新革命ありて約二十五年、第二の維新は今正に斯界に行はれつゝあるなり。茲に初版の末章を改めて文學一轉の兆を示しゝ混沌期の文學を總敍し、新に二章を加へて新興文學の由來を明にし、進んで昨四十一年に至る最近文壇の状勢に説き及べり。庶幾くは初版の面目を一新して多少の光彩を添ふるを得んか。
本書附する所の明治文學年表は、尨然たる草稿の中、專ら文運の大勢に關係深き事象を取り、要を拔き略に從ひ、僅に十の一を掲ぐ。編者多年苦心の餘に出づと雖、固と學暇零碎の時間を用ひて之を蒐集したる者、渉獵遍からず訪索博からず、時に或は誤脱なきを保せず。特に必ず採録せざるべからずして而も年月不明なるが爲、已むを得ず省略あるは、最も編者の遺憾とする所なり。江湖博覽の士幸に是正を吝む勿れ。
本書初版を公にするや、恩師藤岡博士、畏友志田學士、其の他新聞雜誌記者諸士、或は有益なる批評を加へられ、或は懇篤なる教示を賜はる。著者是によりて蒙を啓くこと鮮少に非ず。茲に特筆して聊か謝意を表す。
明治四十二年五月
著者


[TOP]

複刻凡例

明治文學史は、明治三十六年井上坪井芳賀三先生の、明治歴史全集の編纂を企畫せらるるに際し、芳賀先生の委囑を受けて著作したるものなり。翌三十七年五月稿を起し、滿二年を經て、三十九年六月之を脱稿し、即時芳賀先生の閲に供へ、同年十二月、明治歴史全集第一編として發行せり。
明治四十二年、更に増補版を出さんことを求められ、一月筆を執り、三月筆を擱き、六月増補明治文學史と題して刊行したり。
爾後數年を經て、種々の事情により、何時となく絶版となり、以て今日に及ぶ。其の間江湖の此の書を求めらるるもの、年々急を加へ、近時明治文化の研究熾なるに方り、特に訪索を受くること頻りなるに至れり。
修文館主鈴木氏、此の際本書の空しく絶版書となり了るを惜み、切に之が複刻を勸む。二十年以前の舊著、顧みて赧然たるもの尠からずと雖も、明治時代研究の資料として、聊か學界に貢献することを得ば、本書の著作亦徒爾ならずとすべし。乃ち鈴木氏の勸めに從ひ、昨年十一月以來整理校訂に從事し、半年を經て茲に功を終ふ。
本文は、原形を保存するを主として、斧鑿を加ふるを避け、唯甚しき誤謬、送假字用語の妥當を缺くもの、植字の過誤等を訂正するに止めたり。底本は増補明治文學史を取りたれど、此の書名を襲用する時は、新増と誤らるる虞あるを以て、増補の二字を削つて、明治文學史と題することとせり。
本書の複刻に著手するや、書信を芳賀先生に奉りて之を報じ、且つ往年賜ふところの序文を再び卷頭に掲げんことを乞ふ。時に十二月下浣なりき。而して未だ其の許諾を拜受するに至らずして、先生病俄かに篤く、今年二月初卒然として逝去せらる。本書成りて之を清覽に供するを得ざりしは、誠に痛恨に堪へざるところなり。然れども先生の序文は、之を失ふに忍びず、乃ち恣に之を冠して往時の記念となす。蓋し先生在天の尊靈莞爾として之を許容したまはん。
附録明治文學年表は、増補明治文學史に附載したるものを増訂して、稍〃面目を改めたるものなり。又口繪六葉は今回新たに加へたるもの、明治前半期の文學史の上に、特に有意義の地位を占むる著作を選び、その版式等を知るの便に供せるなり。著者所藏に缺けたるものは、愛書趣味社の好意により、同社の藏本を以て之を補ふことを得たり。深く同社に謝す。
昭和二年六月十五日
著者


[TOP]

明治文學史目次



[目次]

明治文學史

岩城準太郎著

東京 修文館 発兌

第一期の文學

明治元年——同十八九年

[目次]

第一章 前代繼承の文學

[目次]

第一節 暗Kの文學界

潮流の相撃つや、勢、浪を起し渦を旋らし、寒暖相交る所、忽ち濃霧を結び、千里に瀰漫して屡〃海客を惱ます。思潮衝突の事亦頗る是に類する者あり。幕末以來動き初めたる新思潮は、頻々として繼起せる外來の刺戟によりて、日一日其の勢を伸べ、遂に滔天の大勢力となりて舊思想の前面に現れ來り、論爭、戰亂、變革、所有破壞的運動を逞うして維新の大革新は成出でぬ。其の間、社會の舊秩序悉く破れて、之に代るべき新秩序未だ確立せず、世を擧げて、一時混沌の界に陷り、一代の民衆徨々として五里霧中にさ迷ふが如き状態なりき。
而して此の維新當初の社會を支配せし所謂新思潮は、疑もなく泰西の思想より來りき。思ふに新思潮の横流は其の由來する所甚だ遠く、洵に幕末一日の故に非ず。室町の季世、南蠻の來航ありてより、江戸幕府の初期紅毛の通商に至るまで、既に泰西思想の一端に觸れ、島原の騷亂に鋭鋒一度頓挫せしも、八代將軍の英斷、新文明の輸入を復興し、爾來日進月歩の西洋文明は、絶えず紅毛人の手によりて本邦具眼の士に傳へられしかば、所謂新思想の萠芽は此の間既に養はれたりし事疑ふべくもあらず。此の時に方り、K船來航の飛信は露人北邊を侵すとの警報と共に全國を愕かし、闔國の存亡此の一瞬に極まるが如く見えしかば、攘夷、開國、尊王、佐幕、衆論沸騰し國内騷擾し、續いて外艦砲撃となり、幕府の解體となり、大政奉還となり、時局は走馬燈の如く廻りて、急轉直下、遂に王政維新となり、赫々たる新思想の勝利を以て一段落を結びぬ。南蠻通航以來、國民の間を流れ來りし泰西思潮は、茲に至りて汪々たる奔流となり、新たに建設せられし明治政府は、悉く此の思潮に浴せる當代の俊才によりて組織せられたりしかば、舊物革新の政治は一瀉千里の勢を以て行はれ、二百年の舊慣一朝にして改まり、東照公の威靈全く地に落ち、封建世襲の制廢せられ、四民の階級撤せられ、結髪を切り帶刀を解き、暦日を改め年中行事を變へ、■(衣偏+上:かみ:〈国字〉:大漢和65717)■(衣偏+下:しも:〈国字〉:大漢和65718)の折目正しきは洋服帽子の當世風に移り、驛路傳馬の悠々たるは汽車汽船の快速と代りぬ。斯くて、上は政治の大本より下は衣食住の瑣末に至るまで、一として泰西に法らざるはなく、世を擧げて西洋文明に心醉するに至り、物質界に於ける泰西思想の勝利は明かに認められぬ。
然り、改革は疾風の如く行はれぬ。疾風の過ぐる所、草を飛ばし木を摧き、家を破り垣を壞ち、野を荒し林を掠め、當る所の物破摧し盡さずんば止まず。維新の改革は破壞の歴史なり。總ての舊制度、舊週間は根柢より覆されたり。啻に制度習慣のみならず、總ての舊思想、舊學術は舊弊といふ一語の下に斥けられたり。啻に思想學術のみならず、總ての舊道徳、舊信仰、乃至舊文學、舊美術は悉く破壞し去られたり。換言すれば、物心兩界に亘りて總ての舊事物は名殘なく破壞し盡されたり。斯くて世は荒寥たる木枯の野となりて、一代の民衆は、制度確立せず、思想定まらず。はた信仰なく文藝なき混沌界に投ぜられぬ。
斯かる民衆の第一に要求する所の者は、言ふまでもなく物質的滿足なり。猛烈なる破壞に驚かされて茫然爲す所を知らざりし民衆は、譬へば餓ゑたる者の食に就くが如く、翕然として物質的新文明の下に集まり、文明若しくは開化と名の附く事物は、善惡美醜の識別なく之を貪り取りぬ。是に於てか、維新の改革家は、其の勇往なる破壞の手を收めて之を建設の方面に廻らさざるべからず。而して其の建設事業の第一着手は、實に物質的新事物に向つて爲されざるべからざりき。聖天子即ち此の氣運を察し、勅諭を下して國民の向ふ所を指導し給へり。明治元年三月天下に宣明し給ひし五事の御誓文即ち是なり。曰く、廣く會議を起し萬機公論に決すべし。曰く、上下心を一にして盛に經綸を行ふべし。曰く、官武一途庶民に至るまで、各〃其の志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。曰く、舊來の陋習を破り天地の公道に基くべし。曰く、智識を世界に求め大に皇基を振起すべしと。是實に機宜に適ひたる施設にして、其の徹頭徹尾物質的建設に關する者なるが如きは、當時の人心の躍如として之に反映するを見るべし。爾來國民の歸趨は一に之に集まり、孜々として物質的新事業の經營に勤めぬ。元年三月、太政官『日誌』を發行してより、民間新聞紙の起る者相次ぎ、二年府縣に小學校を設け東京に大學校を興し、京濱間に電線を架し、鐵道を起工し、四年、廢藩置縣を斷行し、穢多非人の稱を廢して四民平等となし、五年、太陽暦を採用し、六年、全國に徴兵令を布き、八年、行政釐革(*改革)の詔を發して行政組織の完美を計り、元老院を設けて立法議院建設の準備をなし、大審院を置きて司法權を確立し、其の他人才登庸の道を開き、留學生を西洋各國に送り、新聞雜誌を發刊して益〃此の思想を皷吹し、盛に窮理書を著譯して科學的智識の傳播に勤めたる等、明治の初年全國民の奮勵努力は、一として五事誓約の實現ならざるは無かりき。大水堤を決したるが如き物質的新文明の流に當る者、何人か敢て精神界の缺陷に想到し、若しくは進んで精神的新建設を試みんとする程の餘裕を有すべきぞ。社會の大變動に遭遇して擧措其の度を失ひたる國民が、物質的要求の滿足に忙殺せられて、又他を顧みるに暇なかりし事、誠に宜なりと言ふべし。
げに衣食足りて人始めて禮節を知るべし。物質的要求を滿たすに惟れ日も足らざる餘裕なき國民が、道徳や宗教や美術や文學や、所謂精神的方面を閑却し、特に美術文學の如き、實用必須を離れたる高尚なる精神的方面に屬する活動を以て全然社會に用なき者となし、破壞に繼ぐに破壞を以てし、千年の傳統一朝弊履の如く棄て去つて顧みず、世は科學萬能、開化萬能の世、人は麺麭のみにて生活し得る者と思惟せしが如くなりしは、正に然るべき所。されば明治の初年に於ける是等精神的方面の慘憺たる運命は、今より想像するに餘あり。國初以來國民固有の精神に加ふるに儒教の倫理觀を以てし、年所數多の訓練と陶冶とを經て遂に莊嚴なる社會道徳となり、以て上下の人心を支配し來りし所謂武士道の道徳は、社會の解體、四民階級の撤去、帶刀の禁令と共に其の權威を失墜して、社會道徳の地盤は蕩然壞れ去りぬ。而も之に代るべき新道徳未だ確立せざるなり。之を宗教に見れば、國民敬神の風に鑒みて之を佛道に習合し、以て國民の信仰を繋ぎ來りし所謂日本佛教も、維新改革家の外教撲滅、神佛分離の斷行と共に、如來世尊の威徳俄然として薄らぎ、迷信の名の下に此等の信仰は名殘なく地を拂はんとす。而も之に代るべき新信仰未だ起らざるなり。斯くて國民は上下相率ゐて功利の門に拜跪しぬ。
美術の状態に至りては更に慘憺たる者あり。舊物破壞の精神は、特に斯界に其の勢力を逞うし、神佛分離の一撃、幾多優秀なる宗教的古美術を破却し、社寺料地の奉還、國民信仰の乖離は、社寺を死地に陷れて、傳來の尊像珍什多く蓬散(*飛散の意か。)して外人外商の手に移らしめ、美術の保護者たりし上流人士は、社會の變動と共に生活の困難を來し、延いて美術品の如き裝飾的什器は、悉く賣却せられて日常必須の器具と代りぬ。芝の増上寺、奈良興福寺の五重塔を無用の長物なりとして、燒き拂はんとしたるが如きは、當時の形勢の極端なる發現なりと雖、蒔繪物の棄てられてガラス物のもてはやされ、陶磁の精巧なるはブリキの粗造なるに代り、雪舟探幽、絮よりも輕くして、石版の洋畫却つて千鈞よりも重かりしが如きは、尋常の事驚くに足らず。されば美術家、工藝家は其の職を失ひて路頭に迷ふ者多く、明治畫界の天才狩野芳崖の英資を以てして、尚當時赤貧洗ふが如く、五十の畫幅、連夜露店にさらして漸く三圓の金に換へ得たりといふ。一代美術の衰運寧ろ悼むべきにあらずや。
飜つて思ふ、當代文學の趨勢は如何。天保弘化以來、漸衰の域に向ひたる我が文學は、一たび幕末變亂の爲に打撃せられ、二たび維新以來の泰西物質的新文明の爲に打撃せられて沈衰の極に達せり。所謂西洋實學の勢力はあらゆる文學を蹂躙して無用の文字となし、和漢文學に關する在來の典籍は、其の他一般の和漢書と共に、新世界の時勢に添はざる者として擯斥せられ、此等を藏する者亦因循固陋として嘲けらるゝこと少からざりしかば、古今の名著大家の述作、乃至希世の珍本奇籍、惜し氣もなく反古として沽却せられ、片々たる窮理の書代りて諸家の珍藏となり、物理學の初歩を心得たる者は大學者の如く思ひ上りぬ。されば新文學固より起るよしなく、新文學者亦出づべくもあらず。唯此の變轉活動の社會と相關することなき一派の閑人等、積衰の餘に出でたる舊文學の殘肴冷杯を甞めて、社會の裏面に一脈の文運を維持する有るのみ。其れすら生存問題の苦痛容赦なく彼等を迫害し、戯作を以て身を立つるの困難は愈〃甚しくして、之にたづさはる者漸く跡を絶たんとす。幸に新聞紙の起る有りて、戯作者の少しく才ある者之に從事し、新作取るに足る者無しと雖、頼りて以て一縷の命脈を保てり。要するに明治初年の文學界は、微光一點の明滅する者有るのみにて、大勢の上より見れば暗K無明といふも不可無きに似たり。而も其の微光や、舊文學の繼承に過ぎずして、未だ以て明治新文學の新光明と稱するに足る者あらざりき。餘裕なき國民の俗惡なるは今に始まりたる事ならずと雖、當時の國民の如くしかく詩味の缺乏したる者あらず。輕浮淺薄の風上下を靡かして、世は永へに功利一遍の世とならんと(*原文「と」脱)せり。
維新の歴史は舊物破壞の歴史なり。明治の初年は物質的要求の滿足に全力を注ぎし世なり。心靈界の要求未だ起らざる世なり。古今に比類なき沒趣味の時代なり。新舊思潮衝突の序幕は實に斯くの如き慘澹たる光景を以て開かれたり。明治文學史は實に憫むべき文學の悲境を以て始められざるべからざりき。

[目次]

第二節 外來の思想

維新改革に於ける泰西思想の勝利は、物質界に對して多大の貢献をなせりと雖、心靈界に對しては上述の如き不吉なる結果を殘せり。されば國民の自省自識未だ起らず、思想界に於ける自主自立の域尚遠くして、朝變暮改、一に外來思想の赴く所に從ふ。是を以て、旦に英國思想を迎へ、夕に佛國思想に就き、昨は功利主義盛にして今は幸福主義起り、民心の蕩搖極りなく、遂には尊外卑内の弊に陷るに至るまで、只管泰西思想の後影を追ふ。されば一度物質界に於て勝利を得たる泰西思想は、進んで精神界に勢力を振ひ、延いては文藝に於ける新思想輸入の階梯ともならんとす。因て茲に後來文藝界新思想の先驅ともいふべき思想界の新潮を探り、其が物質的文明に對する交渉以外、如何なる影響を我が人心に與へしかを見ん。
蘭學は本邦洋學の祖なり。大凡、外國の思想乃至學術の我邦に入りしは、古代にしては佛學と漢學とあり。近代にしては即ち蘭學あり。而して佛學と漢學とは、共に我が思想界文藝界に入りて其の有力なる元素となり、物質的文明の進捗以外、靈界に殘せる痕跡頗る顯著なりき。然れども蘭學は醫學天文等の實用科學を傳へ、我が物質的文明に對して多大の貢献をなししに係らず、倫理文藝に對して其の足跡を印する者甚だ少かりき。本邦洋學の祖先は、唯物質的文明の指導者としてのみ二百年間の勢力を維持せしが、幕末、歐米各國の言語、思想、學術等、一時に流入するに及び、大渦盤旋、蘭學の勢力を沒し去りて、想海一度中心思潮を失ひ了りぬ。斯くて、幕府衰亡の大變亂を經て王政一新となるに及び、俄然勃興し來りて本邦文明を指導し、以て前代蘭學の地位を奪ひし者は、實に英國思想なりき。
當時世界の海上權力は既に蘭國を離れて英佛米の手に歸し、文明の中心亦此等新興の邦國に移りしかば、十九世紀文明の新潮は彼等の手によりて東洋に運ばるるに至り、特に英國、富強宇内に冠し、海上王として勢力五洲に及べる時なるを以て、英國の思想及び學術は驀然として國内に入來れり。啻に之のみならず、英國の分身たる北米合衆國は、提督彼理(*ペリー)來航以降、本邦開國に深き關係を有し、我が爲政家改革家先づ彼に兄事して開化文明の師と仰ぎ、彼の國も亦私かに東瀛蓬莱國を開發する嚮導を以て任じたりしかば、英國的文明の分子は西より東より盛に此の國に移植せられたり。當時英語は世界の通語と稱せられ、我が朝野先覺の士、歐米諸國を視察し若しくは數年留學の功を積みて歸朝する者、多くは英語を操り、英國學者乃至其の著書によりて文明の智識を得たる輩なれば、此の方面よりも政治、經濟、風俗、衣食、其の他萬般の事物、概ね英國を宗とせるなりき。
斯くして英國思想は泰西新思潮の先頭として國内に横流し、續いて他の諸國の思想を導き、到る處革新の波を揚げにき。而して此の思想を抱きて國民の唱首となり、所有荊棘を拓きて此の氣運を鞭韃し、以て一世の木鐸となりし先覺者は實に福澤諭吉なりき。は既に明治以前、慶應義塾を江戸三田に開き、天下の學生を招きて革新の曉鐘を撞き初めたり。其の宗とする所は專ら英米功利の學風に在り、政治、道徳、風俗、習慣等、一に舊來の弊を打破して新文明の光に浴せしめんとす。其の舊道徳、舊習慣、舊教育を罵倒するや峻烈を極め、教壇に公開演説に、新聞に著書に、勇往直前、新主義を鼓吹して止まず、『世界國盡』『窮理圖解』『西洋事情』等、通俗の著書、又は種々の飜譯書を出して公衆を教へ、遂には時人をして一般洋學書を稱して福澤本と呼ばしむるに至り、三田の先生若しくは三田翁なる名は、斯くて我が新文明を開きたる大光明となりぬ。
げに思想界の嚮導としての福澤は極めて偉大なりき。而も彼れの事業は獨り之に止まらず、文學者としても亦新文壇に於ける最初の新文學者たる光榮を荷ふ者なり。勿論彼れの文學者たるは、純文學の作家たる所に存するに非ずして、單に文體の上に在り。換言すれば、散文家飜譯家としての文學者たるに過ぎず。然れども從來の文壇に於ける誇大粗放の漢文と、優長(*悠長)迂遠なる和文との外、別に平易流暢の一體を創めて新思想の發表と俗間の普及とに便したりしは、其の功績實に鮮少に非ざるなり。明治六年文字の教』を草し、其の端書に曰く、「今より次第に漢字を廢するの用意專一なるべし。其の用意とは文章を書くにむつかしき漢字をば成るべく用ひざるやう心掛くる事なり。むつかしき字をさへ用ひざれば、漢字の數は二千か三千にて澤山なるべし。此書三冊に漢字を用ひたる言葉の數僅かに千に足らざれども、一通りの用便には差支なし。之に由て考ふれば、漢字を交へ用ふるとてさまで學者の骨折にも非ず、唯古の儒者流儀に倣ひて、妄に難しき字を用ひざるやう心掛くる事緊要なるのみ云々」と。が文章に對する第一の主張は漢字制限に在り。斯くの如きは、豈三十年後の今日、我が教育社會が取りつゝある方針の的確なる豫言に非ずや。且其の文體と用語と、全然從來の型式を離れ、口語の語彙と語脈との大膽なる採用を試み、以て上掲の如き文語と口語との渾然たる調和體を創始せり。是豈に吾人が今日此の文を讀んで何等の不思議を感ぜざるまでに讀み習ひ書き習ひたる普通文の範を垂れたる者ならずや。後年或は假字のみを以て國語を記載せんとし、或は言文一致の文體を創始せるが如きは、皆其の源泉を茲に汲めりといふべし。げに彼れの文體は自由なり、平易なり。明治思想を述べんには、斯くの如く自由ならざるべからず。之を民間に普及するには、斯くの如く平易ならざるべからず。正に是れ、時勢の要求此の文を起しゝもの、明治文壇到る所に其の影響を殘しゝも亦宜なり。
福澤は又、世界の地理、歴史を童蒙に教へんが爲に、明治二年世界國盡』を著し、吟詠の中おのづから之を諳んぜしめんとて、平易流暢なる七五調を以て一篇を始終せり。此の書一度出でて、到る所節調を附して吟誦せられ、其の吟調相傳へて後日の軍歌調となれり。而して其の文章も、冒頭「世界は廣し萬國は」より始めて、沒趣味なる地理歴史の叙述に過ぎざれども、其の記載の對象により、興來り情昂る時は、文字精彩あり、聲調昂揚して一段の詩味を帶ぶ。特に英京を叙する所、及び北米合衆國の歴史を謳ふあたりは、宛然後年『新體詩抄』の詩調を喚起したる先聲なるの觀あり。は又、英人チヤムバーの『モーラル・クラス・ブック』を譯して『童蒙教草』と題し、例の平易自由なる文體を以て童蒙の訓話を記載せり。是亦、後の童幼の讀み物の所有種類に採用せられたる文體の嚆矢にして、別しては飜譯文の最達意なる者の一なり。固と是れ、教訓書にして文學上の作ならざれば、飜譯文學とは稱するを得ずと雖、唯其の文章の上より、同人の他の譯書と共に頗る尊重を(*「に」か。)價すべき者となす。
要するに彼れの文章は、平易と自由と暢達とを以て特色となし、之を以て『西洋事情』以來多數の著書論文を一貫せり。斯くしては明治の文章に、風體と用語との革新を加へ、一代の散文をして向ふ所を知らしめたり。其の成功の著しき、が思想界に於ける成功に比べて必しも遜色なし。否後者の成功は、半ば其の文章の功績に歸せざるべからず。が明治文學史上に有する位置は正に此の點に存す。
私塾を開いて洋學を授けたりし者の中、慶應義塾を除きて最有力なりしを東京小石川なる中村正直同人社となす。是亦、英國風の社會教育に力め、『西國立志編』『西洋品行論』等、スマイルスの著書を譯述して、品性修養の根據を洋風道徳の上に置きたりき。其の他明治初年にありし各地洋學の塾には、箕作秋坪塾、鳴門二郎吉塾、福地源一郎塾、尺振八塾等甚だ多く、何れも明治新文明に直接間接の貢献をなせり。明治四年の調査によれば、當時福澤塾生三百二十三、福地塾生七十八、箕作塾生百六、鳴門塾生百四十一、塾生百十一名ありきと。以て洋學當年の状勢を見るべし。
教育の方面にて此の新氣運興隆に力ありしは、此等民間教育家のみならず、政府當局の施設亦沒すべからず。維新以前より洋學輸入の中樞たりし開成所は、慶應三年學制を改めしより、蘭學漸く衰へて英佛獨の學術漸く盛に、該國教師を聘し、專ら其の國語によりて諸生を導かしめ、超えて明治二年、府縣に小學校を設けて初等教育の端を開き、次に開成所を大學南校と改稱して語學を專らとし、昌平黌大學東校と改稱して醫學を專らとし、以て高等專門教育の基を立て、三年大、中、小學規則を制定し、南校に各藩の貢進生を集め、其の英佛學上等生を英佛二國に留學せしめ、次いで中學校を立てて中等教育の機關を設けたり。爾來大學南校益〃擴張せられて、四年には雇外國教師、英五、米四、佛三、獨三、瑞一の多きに及び、生徒總數千百九十五名の盛況に達し、留學生には五名の女子を見るに至り、同年文部省を置きて教育行政の首腦となし、政治法律より日用技藝に至るまで、百般の學校備はらざるなく、以て十年東京大學の設立に及ぶ。政府の洋學教育が斯く駸々として其の歩を進むる間、他方に於ては文明進捗に資すべき著譯頻りに出で、益〃此の氣運を助けたりき。
此等著譯は主として民間學者の手に成りきと雖、文部省亦大に之を奬勵し、或は自ら飜譯出版に從事し、或は其の保護の下に著譯を完成せしめたり。試みに明治十二三年以前に出でし主なる者を擧ぐれば、福澤中村二家の著書を始め、政治、經濟には『新政大意(*真政大意)立憲政體畧』『萬國公法』『經濟原論』『銀行論』、歴史には、『西洋史記』『萬國新史』『歐羅巴開化歴史』『萬國史畧』『泰西通鑑』、地理風俗には『輿地誌畧(*内田正雄著。『西国立志編』『西洋事情』と共に明治の三書と言われる。)五洲記事』『西洋夜話』『西洋新書』『地理學』、窮理には『物理全誌』『人身窮理』『博物新編』、修身倫理には『勸善訓蒙』『修身論』『智氏家訓』等、其の他文部省がチヤムバーの百科全書を譯出せる等、枚擧に暇あらず。
更に新文明の發展に與つて大に力ありしは新聞紙と雜誌との發刊なりき。固と新聞紙は新文明渡來に伴うて起りしものなるも、知識の傳播者、開明の通達者として最適當なる新聞其の物の性質は、直ちに飜つて新文明宣傳の大機關となりにき。特に此等の事業に從ふ者は、當然の現象として新知識を具へたる當代の先覺者、乃至文筆に堪能なる朝野知名の士なりしかば、其の説く所は、尚半暗Kなる當代社會を照す光明なりしこと疑ふべからず。抑も新聞紙の始めて本邦に發行せられしは夙く文久年間に在り。『バダビヤ新聞』『六合叢談』『中外新報』等は、蓋し此の事業の祖なるべし。而も毎月數回の定期刊行をなせるは、元治元年、英人ウエーランドが横濱に發刊し、岸田吟香之が主筆たりし『新聞紙』なるべく、次に慶應四年柳河春三が發行せる『中外新聞』は蓋し邦人の手に出でし最初の者ならん。然れども其の記事は皆横濱なる歐字新聞の抄譯に過ぎざりき。同年政府『太政官日誌』を出して新政の主旨を知らしめ、現今『官報』の基を作り、福地源一郎(櫻痴)江湖新聞』を出して民間時論新紙の開祖となれり。福地が『新聞紙實歴』に述ぶる所を見るに、曰く「慶應二年再び幕使に隨行して英佛二國に駐在せる凡十ヶ月、此の間巴里倫敦の諸名家に會して新聞紙の事を問ひ、其の内外の政治に關して輿論を左右する者は即ち新聞の力なりと聞き、あはれにして若し文學文章あらば時機を得て新聞記者となり時事を痛快に論ぜんものをと思ひ初めたりき。中略竊に條野傳平廣岡幸助西田傳助の三人に謀り、乃ち新に『江湖新聞』と名づけたるを發兌刊行したり。活字もなく活版もなかりければ、之を木版に彫刻して馬連バレン摺にしたり。半紙二切にて毎號凡十枚乃至十二枚を一冊として之を綴りたれば、取りも直さず今日の雜誌の疎末なる者なり。其の體裁は雜報あり、寄書あり、時論文ありて、其の草稿は盡く一人の筆に出で、其の淨書の如きも時として自ら版下を書き、概ね三日若しくは四日毎に発兌を試みたるに、諸種ありける中にも『江湖新聞』は尤發兌の部數多しと稱せられて、頗る世人の矚目を惹きたり。」と。以て此の新聞の起れる因縁と、發兌當時の事情と體裁とを知るべし。爾來民間新聞紙を起す者踵を接し、橋爪貫一の『内外新報』を始め、『遠近新聞』『新聞事畧』、横濱の『もしほ草』、大阪の『内外新聞』等、明治四年に洋紙活字版の嚆矢たる『横濱毎日新聞』『新聞雜誌』『日新眞事誌』等相前後して出で、五年、『江湖新聞』發行禁止となりしかば、條野等更に『東京日々新聞』(支那製活字、日本紙一枚摺、後洋紙兩面摺)を刊し、次いで小西義敬等『郵便報知新聞』を出し、其の他大和、名古屋、大阪、山梨、西京、茨城等、各地競うて新誌を發行するに至れり。されど當時の新聞には社説を掲げて時事を評論することなく、唯世上公私の記事を秩序なく臚列(*陳列)せしに過ぎず。故に其の品位未だ具はらず、世人の見る目未だ重からざりき。然るに六年に至りて新聞界の氣運漸く動き、福地櫻癡、官を辭し、『日々新聞』に入りて社説を起草せしより、當時の名士文筆にたづさはる者次第に新聞に筆を執るに至り、岸田吟香日々』に入り、 七年、『朝野新聞』起りて成島柳北之に從事し、八年、『新聞雜誌』改題して『曙新聞』と稱し、岡本武雄末廣鐵腸之に執筆し、其の他『報知』には栗本鋤雲藤田鳴鶴矢野龍溪あり、『日々』に末松青萍甫喜山景雄あり、『横濱毎日』に沼間守一あり、『朝野』に末廣鐵腸、大久保鐵作あり、所謂五大新聞競うて時事を論じ文藻を研き、殊に櫻痴は議論斬新文章雄麗、草する所の社説は卓然として一世の瞻仰する所となり、當時文筆の間に名を成さんとする者、期せずして櫻痴を標的とする状況なりき。柳北の盛名殆ど之に頡頏し、觀察奇警文辭輕妙、獨得の壇場は雜録に在りき。斯くて新聞紙は隱然天下に重きをなし、記者の抱懷する進歩思想は其の主張の漸進なると急進なるとを問はず、往々一世の輿論を喚起せんとするに至れり。されば十年前後に於ける新聞紙の創刊殊に夥しく、就中、七年鈴木田正雄讀賣新聞』を出し、八年落合芳幾高畠藍泉、繪入新聞の嚆矢たる『平假名繪入新聞』を出し、假名垣魯文假名讀新聞』を出し、『讀賣』の摯實、『假名讀』の洒落、三者鼎立して童蒙に入り易かるべき世態人情に關する記事を載せ、『日々』『朝野』の男性的なるに反して、專ら女性的趣味に富むを特色とせり。
雜誌の發達は新聞紙と其の軌を一にして、唯少しく專門的研究的なるを異なりとす。然れども其の初、『太平海新報』『新聞雜誌』『飜譯新聞誌』『海外雜誌』等の出でし頃は、多くは外國新聞雜誌の飜譯などを載せたる週刊物にして、其の性質も新聞と異ならざりしが、明治七年明六社より『明六雜誌』出づるに及び、始めて雜誌の體裁を具へたり。明六社は新政後に於ける文人學者の結社の嚆矢にして、其の名は創立の年を表はせるもの、首唱者は森有禮、社員は西周西村茂樹大槻文彦加藤弘之田中不二麿津田眞道津田仙辻新次中村正直九鬼隆一畠山義成福澤諭吉杉亨二箕作秋坪等にして、正に是れ當代學者の粹を集めたる學士會院なりき。されば其の發刊する『明六雜誌』は實に當代先覺者の思想發表の機關として學術的研究的の所論を包容し、社會百般の事象に渉りて時事を論議すること頗る盛にして、特に社員の多數は、其の主義に漸急の差別こそあれ、何れも新思想を抱いて改進の氣運を鞭韃せんと勉むる人々なりしかば、當時勃興し來りし『日々』『朝野』等の諸新聞と相呼應して新文明の扶植に盡したり。不幸にして時の政府が此等新聞雜誌の縱論横議に堪へずして發布せる新聞條例(*明治8年6月発布。)は、此の雜誌の發達を阻害して八年末遂に廢刊しぬ。日刊雜誌『洋々社談』之に代りて同年發行せられしが、説く所時事論よりも寧ろ史傳語學等の研究に富み、大槻文彦那珂通世小中村清矩等、之に執筆したりき。當時又樋口戴廣の『共存雜誌』、中村正直の『同人社文學雜誌』發刊せられ、續いて『扶桑雑誌』『近事評論』『評論新聞』『草莽雜誌』等の政論誌、『頴才新誌』『文明雜誌』『學庭志叢』『花月新誌』『新文詩』等の詩文誌、其の他、家庭、宗教、教育、農業、醫事等百般の專門雜誌、『團々珍聞』の如き滑稽諷刺の雜誌、都鄙共に盛に發刊せられ、新聞紙と相並んで新文明の宣傳に勉めぬ。明治十年末の現在數を見るに、新聞雜誌總計百五十六種、發賣部數一年間三三、二八七、五二九の多きに達せり。
斯くの如きは明治十年以前に於ける泰西思想傳播の大勢なりき。然れども此の滔天の潮勢を見て直ちに當時之が前途を遮る一の抵抗だも無かりきと考ふるは速斷に過ぎたり。天下の事、見來れば常に相反の二要素を含み、百般の現象一として其の反面を有せざるなし。革新の活動は守舊の反動を伴ひ、青春の進取は老輩の退嬰と相乖く。思潮革新の事、豈抵抗なくして成就すべけんや。所謂新舊思潮は到る所に衝突し、政治の大本より衣食の末に至るまで、所として此の顯象を見ざるはなし。社會革新家が口を極めて舊弊打破を説くは、是れ的なきに發する矢に非ず。新聞雜誌の疾呼宣傳するは啻に新主義を顯さんとするのみならず、合せて舊主義を破らんとするなり。而も此等の革新運動は總ての妨害を排して直前邁往するなりき。
かくて新文明の物質界を照すこと維新以降今に到るまでこゝに十年、國民の物質欲に對する要求は漸く滿足せられしかば、自然の順序として精神界の缺陷に向つて其の欲求を感ずるに至りぬ。政治、經濟の施設、住居衣食の改良に惟れ日も足らざりし國民は、茲に漸く小康を得しかば、顧みて靈界の新主義を翹望し初めたり。倫理宗教より始めて美術文學に至る迄、革新の曙光漸く東天を染めなしぬ。福澤翁が舊來の儒教道徳及び武士道道徳の固陋を打破してより泰西の倫理説漸く入り來り、或は自主自疆の精神に富む『西國立志編』『西洋品行論』となり、或は君父に對する義務よりも自己に對する義務を先にせる『勸善訓蒙』『智氏家訓』等となりぬ。宗教に在りては、從來の天主教以外、耶蘇新教俄かに勃興し、特に此の氣運に鞭つて起ちし新島襄は、耶蘇教を以て國民を感化するにあらずんば新文明の眞精神を傳ふる能はずと信じ、八年同志社を京都に建て、耶蘇教的教育の大道場を開きたり。更に他の一方に於ては英、佛、獨の各國語學新興の結果、從來蘭語及び蘭文典とのみ比較せられたりし我が國語は、新たに此等各國語文典と比較して其の得失を論ぜらるゝに至り、後年活溌なる國語問題論爭の端緒を茲に發しぬ。既に文字に關しては漢字全廢説先づ起りて、六年日々』に新字製造を説く者、漢字全廢の準備として漢字交り文を普通用とすべきを説く者あり。七年明六雜誌』出づるや、西周卒先して羅馬字採用説を出し、假字説之に對して起り、以て後來羅馬字會かなのくわい等の基をなせり。續いて文體に關し、漢文乃至耳遠き從來の文章を廢して言文一致體を取るべしといふ説起り、『日々』の福地は其の階段として先づ力めて口語を交へたる平易の文を作るべきを論じぬ。氣運は益〃進みて今や藝術に及びぬ。五年文部省が墺國博覽會に高橋由一の洋畫を出品せし頃より洋畫の新芽斯壇に萠し、九年工部大學校内に美術學校を置き、洋人を聘して繪畫、彫刻、裝飾術等を教授せしめ、音樂、演劇に關しては、『明六雜誌』等に國樂振興、演劇改良を説く者あり。『日々』の福地亦脚本院本(*まるほん:浄瑠璃本)の改良及び芝居見物人の改善を論じ、以て後年音樂振興、演劇改良の運動の先驅をなせり。若し夫れ新文學の發達に至りては精神界活動の中、最非実用的なるものなれば、功利主義を第一とせる明治新文明に遇せらるゝこと最薄く、十年以前に於ける斯界の曙光甚だ微弱なりき。然れども其の間又一道の潜勢後日の盛運を含む者なきに非ず。其の詳細は次章を俟つて述ぶる所あるべし。
精神界に於ける新文明の活動は斯くして漸く其の端緒を開きぬ。此の氣運に乘じて起り此の光景を前驅として進める我が新文學は、果して如何なる者なりしか。未だ其の面影に接せずと雖、今や暗Kの裡一點の光を示したる十年以後の飜譯文學は、即ち新文學の大光明に到達すべき前提に非ざるか。吾人は將に暗Kの文學界を去らんとす。而も此の暗K裡何等の傳ふべき文學なきか。吾人をして暫く回顧せしめよ。
既に述べし如く、明治十年以前は文學界の暗K時代なり。文運地に落ちて新光明未だ起らず、喘々焉として餘息を存する者は、唯憐れむべき舊文學の殘骸なりき。換言すれば純然たる江戸文學の繼承にして、其の明治文學に於ける位置は、恰も殘燈夜の暗Kを守りし者漸次曉の新光に沒し去るが如き者なれば、嚴正なる意義に於て、或は明治文學と稱し難かるべし。然れども文學は固と時勢の反映人情の鏡なれば、當代人文の状態は、寫して此等繼承文學の中に存すること言を俟たず。明治初年の時勢人情、一部たりとも寫し出されたりとすれば、假令其の形式手法舊文學の殘骸なりと雖、其の技巧拙劣内容貧少なりと雖、はた其の光焔甚微茫たりと雖、明治文學を叙するに方り、必しも棄つべきに非ず。況んや文學の發達は一朝一夕の故に非ず、新文學の樹立は常に舊文學の土壤の上にせられざるべからざるをや。

[目次]

第三節 前代繼承の文學

江戸文學の繁榮は本邦文學史に於ける空前の壯觀なり。其の發達の著大、其の種類の富贍、實に百世の瞻仰を値する者ありき。然れども大御所の榮華一度去つて幕府衰運に向ひ、邊境警を傳へて世漸く亂れんとするに方りては、文學の發展復往時の如くならず。和歌は絶代の巨匠景樹逝いてより、其の門流八田知紀熊谷直好等之を繼ぐと雖、技倆固より之に接踵すべくもあらず。唯從來の惰力によりて桂園一派を率ゐるのみ。發句は天明の俳傑去つてより、蓼太の俗氣墮落の端を開き、天保の宗匠梅室蒼■(虫偏+乙遶:きゅう::大漢和32805)鳳朗(*桜井梅室・成田蒼■(虫偏+乙遶:きゅう::大漢和32805)・田川鳳朗を天保の三大家と称する。)に至りて其の極に達し、崇拜者模倣者全國に普きに係はらず、詩趣蕩然として地を拂ふ。淨瑠璃は精華、出雲半二に落ちて文耕堂以後注目すべきなく、脚本には新七二三治(*「にそうじ」:壕越二三治と三升屋二三治とあるが、前者か。)治助如樂(*未詳。如皐か。)在りと雖、五瓶南北の餘唾に過ぎず。小説に至りては天才馬琴逝いてより片々たる戯作者の世となり、春水一九の末輩、鄙俚なる人情本、淺薄なる滑稽本を作りて偏に先人の殘肴に甘んず。其の他俳文、狂歌、狂句等、一として散り過ぎの花、あはれなる衰へを示さゞるなく、百般の文學悉く模倣飜案の弊に陷り、量に於て著しき衰退を見ずと雖、質に於ては日に月に俗惡の度を増し、其の形勢相傳へて明治の初頭に及べり。
維新以來十年頃に至る我が文壇を支配せる文學者は、實に上述の如き文學の繼承者なりき。啻に十年頃までのみならず、種類によりては二十年前後、文學思想革新の運動起るに至るまで、依然として舊態を改めざる者あり。然れども此等繼承文學は、何れも明治新文學の基礎をなす者にして、一代の氣運を捲き起したる明治の新文學者は、多くは一度繼承文學を味ひ來りし者なるを以て、新文學に入るに先だち、暫く前代繼承の文學界を觀察せん。
當代の和歌壇は景樹の末流、即ち桂園派の獨占する所なりき。景樹天稟の歌才を以て京師に蟠崛(*蟠踞の意か。)し、香川家に入りて勢力を堂上に伸ぶるや、從來歌學の宗たりし冷泉、二條の諸家を壓倒して斯界の主權を握りしかば、桂園の歌風遂に當代瞻仰の中心となりにき。曩きに元祿の世、海内の文章布衣に落ちて歌道亦地下の手に歸し、縣居翁起りて主權一度江戸に移りしが、茲に至りて歌壇の中心復び京都に返りぬ。明治の初め都を東京に遷さるゝに方り、此の形勢宮庭(*ママ)と共に東遷し、八田知紀の門に出でし高崎正風御歌所長となるに及びて、桂園の流風復動かすべからざるに至りぬ。御歌所は明治年間唯一の帝室文學の府にして、寄人、參候等當代歌人の中より任命せられ、毎月一回宮中歌御會の行事に從ふ。正月の御會は之を歌御會始と稱し、明治二年以來古例を復活して之を行ひ、五年より百官有司をして詠進せしめ、七年より一般臣民にも詠進せしむ。而して此の派の詠歌は概ね景樹の末流を汲める者なれば、思想狹隘、聲調繊弱、到底新時代の文學たる能はざる者なり。斯くて二十八九年文運興隆期に方り、所謂新派和歌が、地下より起りて在來の風調を一新し、歌壇の中心地下に移るに至るまで、歌界は大口鯛二小出粲(*原文「小出燦」)等の製作によりて代表せられ、舊思想舊形式の徒に繰返さるゝを見るのみなりき。

 序(芳賀矢一)  緒言  増補例言  複刻凡例
 目次  第一期の文學(1868-1886)  第二期の文學(1887-1894)  第三期の文學(1895-1904)  第四期の文學(1905-1908)
 附録(明治文學年表)  索引

[INDEX] [NEXT]