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増補 宮殿調度圖解 附車輿圖解 

關根正直
上・下 六合館 増補四版 1927.2.5 〔初版 1900.6.25、増補三版 1925.9.20〕
※ 原本は和綴上下2冊。原本の章立ては明確でないが、便宜的にリンクを施した。
※ 句読点を一部改めた。ルビはひらがな書きにした。〔原文割注〕(*入力者注記)
※ 鈎括弧を適宜施した。本文中の見出し語を明示した。

 例言  目次  <宮殿調度図解>  宮殿の部  縉紳家の殿舎  武家館舎の変遷  調度の部  <車輿図解>  車の部  輿の部  駕籠の部
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例言

此の書は、中古の草子物語類を讀まむ人の、參考にとて編ぜしなり。さるは曩に著述せし裝束甲冑圖解の姉妹篇として、圖畫に徴して解説せん事を求むる人多かりしにより、材料の乏しき、はた考案の至らざるもあれど、さし當る事のみを、聊か叙記して刊行したるは、去る明治三十三年の事なりき。
然るに昨年の震火災(*関東大震災〔1923〕)に、原版を燒失せしにより、今回小形本に改刷するに際し、曾てある人の請ひに任せて略述したる、武家館舍の變遷、書院、座敷、玄關等の事どもを添附し、更めて増補宮殿調度圖解と題しつ。又車輿圖解も、初版には乘物考と標しつれど、他の例と同樣にせんとて、こたびは是れも亦改題したり。
大正十三年十二月
關根正直しるす


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上卷目次

[ ]は原文目次に無し。











 










下卷目次


宮殿調度圖解目次

車輿圖解目次


車輿圖解目次


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増補 宮殿調度圖解 

 

宮殿の部

[目次]

宮城

宮城之圖
宮殿の稱は大寶の律令に見えたれば、古しと云ふべし。宮城は皇城なり。一に大内裏とも號す。上古の制はいかに有りけん。今詳ならず。桓武天皇延暦十三年に至りて、山城國葛野郡、宇太邑の地に宮城を經營して、平安城と號す。是に於て、結構規模大に備はれりと云ふ。當時の制を按ずるに、宮城の地程は、東西八町南北十町に渡れり。皇宮・官府、皆此の中にありき。尚其の大體を云はば先づ朝堂院・豐樂院・眞言院・武徳殿・中和院・内裏あり。此の外、官・省・寮・司は、皇宮・朝堂等を圍繞(*原文「圓繞」)して、棟を聯ね軒を接せり。然れども、官司の所在を逐一に叙せんは、煩はしきわざなれば、右に掲げたる指圖に就いて、其の概略を知るべし。
宮城門は、四方に各〃三つ、合せて十二門あり。朱雀門其の南面正中なり。伴氏之を造れり。重閣にして七間、戸五間あり。朱雀と號するは、南方なれば也。右に美福門あり。壬生氏の造れるに依て然名づく。壬生・美福、訓音の稍通ずるを以て也。他皆此の例なり。左に皇嘉門あり。若犬養氏(*「こいぬかいうじ」か。)の造る所なり。東方の待賢門(中)は建部氏造り、陽明門(右)は山氏造り、郁芳門(左)はいくは(*原文ルビ「いはく」)氏の造る所にして、西方の藻壁門(中)は佐伯氏、談天門(右)は玉手氏、殷富門(左)は伊福部氏造れり。又北の偉鑒門(中)は猪養氏、安嘉門(右)はあま犬養氏、達智門(左)は多治比氏の造る所とぞ。何れも重閣の構へにして、扁額を署せり。舊史を按ずるに、嵯峨天皇弘仁九年四月制して、殿閣及び諸門の號を改め、皆之に題額すとあれば、此の時よりの事なりけん。されば、始め東方の三面は嵯峨天皇の御筆にして、南の三面は弘法大師、西の三面は小野美材、北の三面は逸勢が筆とぞ聞えし。後には、當代能筆の名ある者して、修餝もせしめ、又書き替へもせしめけりといふ。
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朝堂院

朝堂院は又八省院とも云ふ。八省百官の朝參、皆此の堂に於て行せらる。大極殿を以て正殿とす。大極殿は邦語に大安殿おほやすみどのと云ふ。盖し歴世の天皇朝政を觀給ひし所なるを、皇極天皇の時に至り、唐制を摸倣して大極殿の字を填てつ。然れども、之を稱するには、なほ於保耶須美止乃おほやすみとのと云へり。屋を葺くに瓦を以てし、殿上に甃砌いしたゝみを敷けり。正面十一間〔一丈六尺を以て一間とす。〕(*割注)簀子の日隱ひがくし一丈餘の搆へなり。此の殿の後房を小安殿をやすみどのと云ひ、大極殿前、東西に別れて、昌福・含章・承光・明體・延休・含嘉、(以上東)顯章・延禄・修式・永寧・暉章・康樂、(以上西)の十二堂あり。此の外會昌門外に、猶兩堂ありて、東朝集堂・西朝集堂と云ふ。百官の參集する所なり。凡べて、外廊は廻廊の搆へなるが、廊中大極殿の左右にあたりて高樓あり。東を蒼龍樓、西を白虎樓と云ひ、應天門の前頭にも、又兩樓ありて、東を栖鳳、西を翔鸞と云ふ。抑〃朝堂は、天皇臨朝、諸司告朔(*一定月の朔日に百官の行事・上日を天皇が見る儀式を告朔という。)の所にして、昔は即位・大嘗會の大儀も、皆此の所に於て行はれたり。然るに、度々燒亡して、高倉天皇以後は永く廢頽にまかせ、即位・大甞の如きも、紫宸殿に於て行はせらるゝ事となりぬ。
諸門には、大極殿の東西廊に廂門ありて、東福・西華と號し、南面中門を會昌と名づく。重閣にして七間、戸五間あり。左右に章徳・興禮の二門あり。外郭南門を應天門と云ふ。これも七間の重閣なりき。左右に長樂・永嘉の兩門ありて、東西方に章義・敬法・章善・顯親・廣義・光範・壽成、(以上西)含耀・盛化・宣政・通陽・永陽・昭訓・宣光、(以上東)の諸門あり。北に昭慶(中)・永福(右)・嘉喜(左)の三門ありき。
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豐樂院

豐樂院は、朝堂院の西にあり。節儀の宴會行はるゝ所なり。豐樂殿を以て正殿とす。謂はゆる豐明節會とよのあかりのせちゑ(*豊明節会は新嘗祭・大嘗祭の翌日の賜宴。国栖舞・五節舞等が行われた。)は此の殿に於て行はる。後房を清暑堂と云ふ。左右に東華・顯陽・觀徳・延英、(以上東)西華・承歡・明義・招俊、(以上西方)の八堂、並びに栖霞・霽景の二樓あり。八堂の間は、皆廻廊の搆へにして、儀鸞門と云へるぞ、内隔の正中南門には有りける。其の左右に高陽・嘉樂の二門あり。東に青綺・逢春・金利の三門、西に白綺・承春・陽徳の三門あり。又外廊には、南面に豐樂門を中として、禮成・崇賢の三門あり。左右にも、又延明・陽禄・開明、(以上東)萬秋・立徳・福來、(以上西)の六門ありて、北に不老の一門ありき。
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眞言院

眞言院は豐樂院の北にあり。國土安穩、稼穀豐饒の修法のために、僧侶の參候する所とぞ。正舍もやの西に護摩堂あり。東に僧房〔長者坊と云ふ。〕あり。後なるを伴僧の宿所とす。四面築墻ついぢにして、正面なるを南門と云へり。
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武徳殿

武徳殿は眞言院の西にあり。もと馬埒殿と稱せり。騎射競馬等の節、天皇臨御の所なり。外垣の南、及び東西に通門各二ヶ所あり。別に名號なし。
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中和院

中和院は眞言院の東にして、内裏の西隣なり。又中院とも稱す。新嘗祭・神今食(*「じんこんじき」:年二回、天照大神に新しい火で炊いた神饌を供える。)等、天神地祇の御親祭は、皆此の院に於て行はる。神嘉殿を以て正殿とし、殿前東西に炬火屋ひたきやあり。後房を北殿と云ひ、左右に東廂殿・西廂殿と云へるもありき。
中和門は中院の外垣、東側にありて、内裏の外垣に接せり。正南門を中門と云ひ、左右に掖門(*原文「腋門」)あるのみなりき。
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内裏

内裏略圖
内裏は即ち皇宮なり。宮城内にありて別に一郭をなせり。抑〃内裏の字面は『日本書紀用明天皇の條に見えて、オホウチと訓點せり。後世も大内と書き、又單に内とも略稱せり。
内裏外郭の諸門を宮門と稱し、又中重なかのへの門ともいふ。是は宮城門を外郭門と稱するに對せしなり。宮門の南に建禮(中)・春華(左)・修明(右)の三門あり。東西に建春・宜秋各〃一門あり。北に朔平・式乾の二門ありき。
内郭の諸門を閤門と稱す。南に承明(中)・長樂(左)・永安(右)の三門あり、東に宣陽(中)・嘉陽(左)・延政(右)の三門、西に陰明(中)・武徳(左)・遊義(右)の三門あり、北に玄輝(*玄暉とも)(中)・安嘉(左)・徽安(右)の三門ありき。
閤門のうち中央に南より北へかけて五殿あり。(一)紫宸・(二)仁壽・(三)承香・(四)常寧・(五)貞觀〔以上南面〕といふ是れなり。東側に(一)春興・(二)宜陽・(三)綾綺・(四)温明・(五)麗景・(六)宣耀〔以上西向〕の六殿あり。又西側に(一)安福・(二)校書・(三)清凉・(四)後凉・(五)弘徽・(六)登華(*登花)〔以上東向〕の六殿あり。是れらの殿後に何所といひ何舍と名づくる所あり。又郭外に三坊あり。後に逐一詳説すべけれど、まづ概略の指圖を右に掲げてその所在を示す。
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紫宸殿

紫宸殿はシシイデンとも唱へ、又南殿とも稱す。南面第一結搆最も大なるものなればなり。九間四面〔一丈五尺を一間とす。〕にして東西の廂各一丈、檜皮葺屋なり。昔は尋常の公事など、此の處にて行はるゝ定めなりしが、大極殿荒廢の後は、御即位・大甞會の大儀をも、皆此の處にて行はるゝ事恒例となりぬ。
身舍もやの内に御帳を張り、御倚子を立て、獅子・狛犬をう。此の障子は謂はゆる賢聖けんじやう障子とて、寛平四年巨瀬金岡始めて漢唐の功臣の像を畫くといふ。總じて九間、中央に書を負へる龜と、下に獅子・狛犬とを畫く。殿前の南階十八級、東西の階九級あり。階前左腋に櫻を栽ゑて左近の櫻といひ、右腋に橘を栽ゑて右近の橘と稱せり。儀式の日、左右近衞相分れて、各〃其の樹の前に陣を引けばなり。殿の北廂より露臺を歴て、仁壽殿に續けり。
仁壽殿はジジウデンと讀むを故實のならひとす。元は天皇の常におはしましゝ御殿なりしが、いつしか(按ずるに村上天皇天暦の火災後なるべし。)移りおはしまして、清凉殿を永く其の所と定め給ひぬ。これも北廂より露臺を通りて、承香殿につゞけり。
承香殿はシヤウギヤウデンと讀む。仁壽殿の後にして、東片廂の中に御書所あり。馬道を通じて常寧殿に至る。
常寧殿は、もと皇后の御在所なりき。故に后町の稱あり。然るにこれも後世弘徽殿をその御座所と定めて移り給ひぬ。其の北なるを貞觀殿といふ。
貞觀殿は、もと天皇の外治に對して、皇后の内政を聽き給ふ所なりけん。されば之を中宮廳ともいへり。又此の殿を御櫛笥殿とも稱する由は、御櫛匣その外、後宮の諸調度また文書をも納めらるゝが中に、御櫛は特に婦人の重寶なれば、之を主として殿名にも負せしならむと、近藤芳樹翁(*1801-1880。国学者。宮内省文学御用係。本居大平・山田以文に学ぶ。著書『十符の菅薦』等。)もいはれたり。
東側六殿のうち南第一を春興殿といふ。東庇の内に内豎所あり。後方、別に朱器殿といへるがあり。南廊に左腋門ありて閤門の垣に接し、北廊に日華門ありて、宜陽殿に續く。
宜陽殿は又納殿とも稱す。累代重寶の御物を收藏する殿なり。南廊に議所ぎのところあり。公卿參集して公事を議し、除目などをも行はるゝ所なり。殿後に太子宿みこやどり〔一名太子直廬〕(*直廬〔ちょくろ・じきろ〕は詰所。)の一宇あり。北に綾綺温明の二殿あり。かけまくも畏き賢所は、此の温明殿内にあり。内侍の常に侍候するに因り、内侍所とも稱せり。此の殿の北に麗景宣耀の二殿あり。此の二殿は、女御或は後宮奉仕の女房の曹司に充てられしなり。西側六段のうち南第一を安福殿といふ。南廊に右腋門ありて、春興殿と左脇門とに對し、北廊に月華門ありて日華門に相對せり。次の校書殿は字面の如く、文書を校する所なり。故に校書所・藏人所も亦此の殿内に在り。校正の書冊を藏する所を納殿と云ふ。北に清凉・後凉の二殿あり。
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清凉殿

清凉殿せいらうでんは天皇日常の御座所にして、公卿も昇降し、后妃女官も參り合ひ給へば、中古の草子物語のうちに、此の殿にての事多く見ゆ。されば別に圖を添へて室毎まごとの説明をなすべし。
まづ殿内身舍もや(後世オモヤといふ所)に晝御座あり。北の妻戸(開戸なり)の内を夜の御殿とす。東廂南の方に石灰壇といふあり。床を石灰にて塗り固めたり。伊勢宗廟御遙拜の爲なり。北の方に二間といふあり。此處は佛菩薩の影像などをかけて、御祈念あらせらるる所とす。北に添ひて弘徽殿の上御局あり。續きて萩戸及び藤壺の上御局あり。又南廂に殿上の間あり(此の殿上の間と日御座との壁に櫛形の窓あり)。公卿の昇殿侍候する所なり。此の外落板敷おちいだじき・鳴板・長橋・鬼間(白澤王鬼を切る圖を畫けるによりて此の名あり)・臺盤所(御膳物おものを据うる臺ありて女房たちの候ふ所なり)・朝餉間・御手水間・御湯殿間等の名所などころ、又荒海障子(表は手長・足長の人がた、裏は宇治の網代の繪なり)・昆明池障子(表唐繪、裏嵯峨野小鷹狩を畫く)などいふ名物も、此の殿内にあり。其れらの所在挿圖に注しおきたれば、參照して心得べし。後凉殿には御厨子所あり。又清凉殿より弘徽殿にわたる北廊にK戸あり。『徒然草』に、「K戸は小松の帝(*光孝天皇)、位につかせ給ひて、昔たゞ人にておはしましゝ時、まさなごとせさせ給ひける間なり。御薪にすゝけたれば、K戸といふとぞ。」とあり。
弘徽殿は清凉殿の北にあり。主上清凉殿におはしますやうになりては、此の殿を皇后、或は、やんごとなき女御のおはする所としたり。北に登花殿あり。是れはた女御たちの曹司にあてられき。
此の後に飛香舍凝花ぎやうけ(*「ぎょうくゎしゃ」:原文「擬花舍」とする。)襲芳しつはう(*「しふはうしゃ」)といふ三舍あり。又東側宣耀・麗景二殿の後に、昭陽舍淑景舍等あり。飛香舍を又藤壷(*ママ)といふ。壷は坪にて、平地の中庭をいふ。舍前の庭に藤を栽ゑたればなり。凝花舍(*原文「擬花舍」)を梅壷と稱するも、梅樹のたてるによりて也。淑景舍を桐壷、昭陽舍を梨壷といふも、同じ例なり。これらも皆女官たちの曹司にあつ。唯襲芳舍を雷鳴かみなりの壷といふは、雷鳴の時主上此處に渡御し給ひて、兵衞・瀧口の侍士さむらひ等を召して、鳴弦せしめなどするによりてかく名づくといふ。
閤門の外、中門内に、華芳桂芳蘭林の三坊あり。桂芳坊内に樂所がくしよあり。蘭林坊内に一本御書所と稱するあり。
以上述べし所、殿舍門廊の設計は、桓武天皇の御代に創められて、嵯峨天皇の御時に至り悉皆落成したりけん。其のかみ殿門などに、漢風の名號なかりしが、嵯峨天皇の朝、漢學盛に行はれて、天皇はた頗る文藻を好ませ給ひしからに、弘仁九年(*818年)新に殿閣及び諸門の號を選み、一々題額をも物せられしなりけり。
是れより凡そ百餘年を經て、村上天皇天徳四年(*960年)に、内裏燒亡せり。之を平安京遷都後始めての災として、此の後度々炎燒ありき。圓融天皇貞元々年(*976年)に燒失したる後は、一時堀川院(*堀河院)に遷御ありて、之を里内裏と稱し、また今内裏とも申したりき。
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今内裏

今内裏とは、内裏本宮の燒亡などして、一時假りにおはします皇宮を申すなり。さて今内裏とても、猶すべて本宮の稱を用ひらるるが故實にて、主上のおはします所を、清凉殿と申しゝを始め、その他の門室、いづれも本の名を負せて呼ばれしなり。『枕草子』に、「小一條院をば今内裏とぞいふ。(主上ノ)おはします殿は、清凉殿にて、其の北なる殿に(中宮ハ)おはします。」とあり。又「今内裏の東を、北の陣(朔平門ノ事)とぞいふ。」などあるにて察すべし。是れは一條天皇長保元年(*999年)六月十四日、内裏燒亡して、翌二年(*1000年)十月新造の内裏に、還り移らせ給ひし間の事なるべし。
かくて白河鳥羽兩院の御時には、内裏久しく荒廢してありしを、少納言通憲入道信西、種々に經營し、諸國に懸課して、三年がほどに舊の如く造立し畢りぬ。然るに源平亂の後、北條執權の頃には、本宮は頽廢せるにまかせて、おほかた閑院と申すをば、里内裏として此所におはしましたるなり。さて此の閑院は、年久しく住ませ給ひて、自然と本内裏の代りともなりたれば、隨ひて構造も廣大になりし樣なれども、猶殿舍の數は少くして、唯對屋といふものこゝかしこに散在せるのみなりき。それも構造所在、本内裏とはいたく異なりたりと見えて、『増鏡』「秋のみやま」の段に、御歌合行はるゝ事をかきて、「安福殿の釣殿に床子たてゝ、東面におはします。」と見えたり。本宮には、安福殿に釣殿ありしを聞かず。按ふに此處にては寢殿を紫宸殿とし、西對を清凉殿として、廻廊の南端なる釣殿を、安福殿と名づけたるにもやありけん。寢殿・對・釣殿などのことは、次の縉紳家の殿舍、また其の指圖を照らして見て知るべし。
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縉紳家の殿舍

寢殿圖
内裏諸宮殿の事は既に述べたり。次には大臣家の殿舍の圖解を試みん。そも\/縉紳家私邸の指圖は、世にあるもの甚だ少し。左に掲ぐる寢殿の圖は、先師松岡明義翁より傳授せられしものにて、天保の頃、の祖父辰方翁(*塙保己一門下)の、裏松固禪入道光世卿(*1736-1804。『大内裏図考証』〔寛政9年(1797)成立〕『皇居年表』(正・続)等を著す。増訂故実叢書所収。)が書きおかれたる圖のうちを、一ひら選みて門人たちに授け、物語ぶみなど讀まん人の、たよりをはかりたるものなり。附記の文左(*次)の如し。
寢殿古圖 兩中門
按是古代大臣家之圖也。但私第宅無2定制12主人之意1寢殿・對屋各七間四面、母屋五間、〔以一丈爲一間〕簀子五尺、檜皮屋丸柱、板敷、無2天井1
左の指圖の如きを寢殿造りの搆へといふ。大臣・公卿たちの私第、何れも斯くの如し。但し主人の好みによりて、聊かの相違はありけめども、大かた大差なかりし趣き、草子・物語などの文に徴して知ることを得べし。
さて是等の殿舍の事は、天保の頃會津の人澤田名垂が、『家屋雜考』に委しく記されたれば今は彼の書の文を斟酌拔抄し、別に指圖を増し、次第を改め、聊か敷衍をもして、初學の人に解し易からむやうをはかるべし。
寢殿構全圖
凡そ古代大臣公卿等の住まひし寢殿の構といふは一家一構の内、中央に(南面)正殿あり。其の東西もしくは北に對屋といふものあり。正殿は主人常住の所、又來賓を請ずる坐とし、對屋は家内眷屬の居る所なり。かくて又正殿の前數十歩に池水を湛へ、中島を築き橋をかく。又東西の對屋より南へ通ふ廊あり。其の廊のはし、池に臨める所に一屋を構へ、之を釣殿とし、又泉殿とす。東西廊の中程に各小門あり。廊の内を切通しにして板敷をせず是を兩中門といふ。謂はゆる廻廊にて、東の渡殿、西の細殿などいふ是れなり。其の廊の回れる内をさして中庭といふ。さて又件の廊の内には家司等の詰所あり。從者も伺候し居りて、今時の神社の回廊、或は寺院の東西寮などの如し。こは其のかみ攝政大臣の第を始め、三四位の人の家々も大抵右やうの構造にてありしなり。
以上は總構に就いての概要なれば、能く指圖を見ておほむねを悟るべし。
是れより指圖に注したる屋舍門廊を、一々説明して、さて後室内のことにも及ばん。
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寢殿

澤田翁云はく、寢殿の名は皇朝の名稱にあらず。西土に傚ひて一家の正殿をいふなりとて、『爾雅』および『公羊傳』の文を引き、『史記』樂書に「凡居室皆曰寢。」とも見えたるを證として、寢は寢臥の意にあらず。之を寢間ねまなる意にて、寢殿といふとの説を杜選なりと辨ぜられぬ。
寢殿室内指圖
寢殿の造り方は、大抵七間四面を常法とす。或は五間或は十二間などもなきにあらず。三光院内府(*三条西実枝〔さねき〕。三条西実隆〔逍遥院〕の孫、公条〔称名院〕の子。細川藤孝〔幽斎〕に古今伝授を行った。)御記(*後出『三内口訣』と思われる。「座敷」の章を参照。あるいは『三内記』というものか。)に、「主殿(主殿とは一家の内むねとある所をさしていふなり。まづ大かたは寢殿の事と心得べし)は四間四面通法」と見え、『源氏物語』梅が枝の卷に、「七けんの寢殿ひろく大きに作りなし」なども見えたれば、七間四面は中古以來通例の間數けんすうと見えたり。舊説に其の制一丈を以て一間とし、柱を立て、是を大間おほまといふ。丸柱・板敷、屋上は檜皮葺にて、四方葺卸ふきおろしなり。是を四阿造といふ。
大間の事、後世は必しも一丈ならず。六尺三寸を以て一間ひとまとしたる事どもゝ見えたり。さて此の七間四面の内、五間四面は本屋にて、其の外一間通りは廂なり。其の又外に簀子あり。
此の五間四面の本屋を母屋もやといふ。身舍ともかけり。此の身舍の四方上下に長押ありて、母屋は廂より少し高し。四方とも柱の間毎に格子また妻戸あり。其の外の一間いつけん通りの廂を廣廂といふ。柱・長押等母屋に同じ。大抵廂の四方は格子にして、四隅に妻戸あるを例とす。扨又簀子は、通例廣さ五尺、勾欄あり。正面より左右へ折廻らす。正面に階あり五級階なり。左右に矢張勾欄てすりあり。東西の妻戸の前にも、各〃階あり。但此の階には欄なきを常とす。
さて此の母屋と廂との内を、さま\〃/に仕切りて、賓客應對の所ともし、或は臥寢の所ともし、納戸の如くもしてつかふ故に、そのしつらひ種々なり。(此の外、祝儀・饗宴など執り行ふ節の、臨時の裝飾は別に述ぶべし。)
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母屋

母屋は面屋おもやの義とも、また身舍ともかくより、身は諸木の幹に准へて、身屋といふべきを、に轉じて呼ぶなりともいへり。按ずるに名稱はオモヤの略語なるべけれど、面屋の義にはあらじ。オモとは主たる事をいへば、家の中の主室本屋の義なるべし。今代の詞にも、オモヤの稱の殘れるにても知るべし。身屋みやの轉語といふ説もいかゞあらむ。こは寢殿にのみ唱ふる名にあらず。對屋にも眞中の本室を母屋といふは常のことなり。
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廣廂とも廣縁ともいふ。大床といへるもこれなり。廂は天井をはらず。裏板のまゝになし置くなり。裏板とは屋根なりに板をはりたるをいふ。又孫廂とて、常の廂の外へ、又垂木を出して廂としたるもあり。前に掲げたる清凉殿の指圖を見よ。常の廂の外に、孫廂といふがあり。然れども簀子をさして、孫廂と書けるもなきにあらず。但し本義にはあらざるか。
因みにいふ。廂にも天井をはること稀にあり。『大鏡三條院の紀に、「太秦にもこもらせ給へりき。さて佛のおまへより東の廂に、組入くみれはせられたる也。」とあり。くみれは即ち格子天井のことなり。
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簀子

廂の外にあり。簀子縁ともいふ。こは板敷なれども、竹簀のごとく、板と板との間を、聊かづゝ透かしてはる故に、此の名あり。さてかく間をすかしてはる故は、雨露などのたまらぬ爲なり。全く後世のヌレ縁といふものなり。
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殿の正面にあり。五級を通例とすれど、禁中宮殿の如きは、十級以上にして、大極殿などは正面に三所設けらる。階の上はいづれのも廂をさし出だして、階隱と名づく。左右に勾欄あり。但し是れは正面の階に限る。東西妻戸の前にも階あれど、それには大抵勾欄なし。常の出入、大かたはこの東西の階より昇降するなり。
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階隱

上にも粗いへる如く、階の上にさし出でたる廂なり。『三内口訣(*三条西実枝『三内口決〔三光院内府記〕』。「三内」は三光院内府の略称。群書類従所収。)に「階隱は大臣家に有之、爲2行幸1也。」と見えたり。さればこれは大臣家以上ならでは、設けざるものと見ゆ。
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階隱の間

因にいふ。階隱の間(*原文「廊隱の間」)とは、右の階隱の廂の通りにて、廂の正中まなかをいふ。階を昇り、簀子を歴て廂に入る所なり。中古の書に所見多ければ、寢殿指圖の中にも註しおけり。意を注ぐ(*原文「注く」)べし。
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格子

格子・妻戸ノ圖
格子は寢殿の四方を蔽ふものなり。寢殿に限らず、對屋にもあり。細殿・廊などにも片側を格子にしたる所あり。扨この格子は、『和名抄』に「■(竹冠/隔:かく::大漢和26618)子又作■(竹冠/格:らく::大漢和26381)、俗用2格子二字1。竹障名也。」と見えたれば、元は竹にて作りしか。中古以來はK塗にて、柱と柱との間毎にあり。上に一枚を釣り下げ、下の一枚を掛鐵かけがねにてかけおき、開く時は、上なるを外の方へ釣りあげ、下ばかりを立ておくなり。物語などに「御かうしまゐる」とも、「みかうしあげわたす」などあるも、此の事なり。又内格子とて、外の方へ釣り難き所は、内へ釣り上げおくも常の事なり。母屋と廂と、二重に格子あれば、母屋の格子は内へ釣り、廂のは外の方へつりて、掛けがねにかけおくなり。
此の格子あるは、人常に出入せず。四隅に妻戸ありて、主客是れより出入するなり。故に客來などある時と雖も、上の格子は釣り上ぐれど、下の格子をばつさず、こは出入に用なき故なり。
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妻戸

妻戸は寢殿にも對屋にも四隅にありて、人の出入する所なり。つま戸とは端戸の義なり。ツマとはすべて物の端をいふ。さて其の製作は、板戸を兩開きにして、内外ともに鐵具かなぐあり。開く時は外の方へ開き、其の扉をあふらざる爲に、掛鐵をかけてとめおく也。之をサルツナギといふ。閉づる時は扉の内に、又かけがねありてしめおくなり。そのさまは圖を見て知りね。
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こは圖に注せざりしかど、格子とは離れざるものなれば、因みにいふべし。世間格子と蔀とを、異名同物の如く思ふもあれど、蔀は格子の裏に板をはりたるものにて、通例の格子の上をおほふ料に備ふるなり。さるは『枕草子』に「かきくらし雨ふりて神もおどろおどろしう鳴りたれば物もおぼえず。只(格子を)おろしにおろす。職の御曹司は、蔀をぞ御格子にまゐりわたしまどひし程に云々。」とあるを見れば、格子の外に、蔀を立て添へて透きまを蔽ひしさまなり。但しおほかたは、唯格子のみにて蔀をば略し、後には蔀を格子に代用して、之を格子ともいへりと見えたり。
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對屋

三内口訣』に、「對屋。東を一對と號し、西を二對と號す。北の方と東西行如2鳥翼1之。對とは主殿に對する義なり。武士の家に奧屋と稱す。是故實也。堂上の諸家には對屋と號す。其の大さ主殿に相同じ。」と見えたれば、寢殿七間四面ならば、對屋も七間四面に造る例なること知るべし。屋内の間割まわり、母屋等のことは、寢殿に准へて心得べし。
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廊は殿より殿へ渡るべき細殿を廊といふなり。されば通例細殿とも、渡廊とも渡殿ともいへり。後世の長局、また長廊架(*ママ)といふ所にあたる。大かた兩側を壁または板にてはり、上の方に格子を釣りたるものなり。之を壁渡殿といふ。又此の細殿に、かた側に部屋をしつらへ、其の部屋の前通りを、往來すべき廊としたるもありし樣なるは、そのかみの日記・草子などに、女房たちの、細殿の局といふ所に、部屋ずみしてありし事、多く見えたるにて知るべし。故に後世大名屋敷の長局といふ所にあたるべしと思はるゝなり。
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透廊

透廊は、また透渡殿すきわたどのとも名づく。これは兩側を壁または板にてふたがず、柱のみにて勾欄あり。簾を垂れたるなり。此の簾を卷きあげたる時は、透きて見ゆるよりいふと覺ゆ。
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釣殿

中門廊の南端、池に臨める所に一舍を構へ、是を釣殿と稱して、大臣家などには、必ず建て設けらる。舊記に釣殿とは、水面へ釣りおろしたる如く作る故に、かく名づくる由いへれど、釣を垂るゝ料に、建て置かるゝ殿なるからに、しかいへるならん。
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泉殿

泉殿も、必ず水邊にあり。四方壁なく、簀子に勾欄あり。納凉・觀月などの爲に設くる由なり。是れらは家によりて設けざるもあるべし。寢殿の構へなりとえ、あながち東西に泉殿・釣殿を建つとも限らず。上の指圖は、其の最も備はりたるものを掲げしなれば、他も凡てかくの如しといふにはあらず。
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車宿

車宿は中門の外に在り。來客の牛車は牛をはづして、車をこゝに入れ置くなり。客の車のみならず。主人方の車も常に引き入れ置くなり。
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雜舍 下家

雜舍ざうしやは、大抵(*原文「大低」)主殿のうしろに二棟づゝあり。假名文の書に下屋しもやといへる所是れなり。これは雜物を置き、雜事を執り行ふ所にて、後世の勝手方なり。又こゝに浴場などをもしつらひたるにか。『源氏物語』帚木の卷に、空蝉君の侍女の湯浴のため、下屋におりたる事の見えたるにて知るべし。
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垣屋

垣屋かきやとは、外垣に添ひて建てたるものにて、外部は外圍そとかこひの垣つらと同じくして、内側に出入口を付けたる、後世のいはゆる門長屋なるべし。こゝに雜仕・下司などの住むべき部屋ありしにか。『榮花物語』「浦々の別れ」の卷に、伊周公配流のをり、年來殿の内に曹司して住みける者の、連累たらむことを恐れて、立ち退くことをかけり。思ふに此の垣屋、または雜舍のうちに、部屋住みして居たる者なるべし。
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塗籠

江次第抄』に、「塗籠は寢殿西庇也。」と見えて、大かたは寢殿内西方にあり。『源氏物語』「御法」の卷に「花ちる里と聞えし御方・あかし〔共ニ貴媛ノ名〕などもわたり給へり。南東の戸を押しあけておはします。寢殿の西のぬりこめ也けり。」など見えたるは、北にもあるに對して、「西の」とことわりたるなり。(室内裝飾の指圖を參觀せよ。)
塗籠は周圍を壁にして、妻戸より出入する樣にしたるなり。されば後世の土藏とは、全く異なるものにて、殿内の一室を塗りこめたる所としるべし。塗籠の名稱これに由る。扨此所ここは納戸の類にて、唐櫃その外手近き器具どもを納め置く所なり。其の證は『源氏物語』「夕霧」の卷に、「塗籠も殊に細やかなるもの多くもあらで、香の御唐櫃・御厨子などばかり云々」、『狹衣物語』に「よろづにもの取りしたゝめ、さるべきものは塗籠におき」など見えたるにて知らる。
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放出

物語ぶみに、放出はなちいでといふが見えたるは、まづ『源氏物語』「梅が枝」の卷に「上は東の中の放出に、御しつらひ殊に深うしなさせ給ひ、云々。」又同じ卷に「宮のおはします西のはなちいでをしつらひて、御髪あげの内侍ども、やがてこなたへ參れり。」など見えたるを、『花鳥余情(*一条兼良による源氏物語注釈書。文明四年〔1472〕成立。)に注釋して、「放出は母屋なり。東の中の放出とは、東の對の母屋なり。中といふは母屋と東西の廂との間に、障子をたてゝ隔てたれば、御帳たてたる所を、中の放出とていへるなり。云々」『細流抄(*三条西実隆著。永正7-10(1510-13)成立。)の注には、「兩方に小寢殿ある、母屋の中をなからにして、御帳を立つるものなり。母屋の中をいへり。外機向とさまむきを放出とはいふなり。晴の心なり。」とあれど、いづれも明瞭ならぬ説なり。
貞丈翁(*伊勢貞丈〔1715-1784〕。安斎と號する。『貞丈雑記』『安斎随筆』等を著す。)の『雜記(*『貞丈雑記』〔1763〜1784成立〕)には、「按ずるに今昔物語〔北邊大臣ノ條〕云、『前の放出の、格子の上に、物の光るやうに見えければ』云々。又同書〔寛連云ノ條〕『車よりおりていりぬ。見れば前の放出の、廣廂ある板屋の、ひらみたる前庭に籬結て』云々。又云〔平貞盛射盜人條〕『法師をば物忌かたくおはすればとて、奧に入れて、其身は放出の方に居て、食したゝめてねぬ。』又云〔鬼現板殺人條〕『頃しも夏の頃にて、暑さたへがたきに、放出に居たる二人の侍、いねぶらずして居たり。』云々。此の文によりて考ふるに、放出とは母屋より立出たちだしたる屋なり。母屋より放ち出したる心なり。たとへば丁の字の如し。横の畫は母屋にて、竪の畫は放出なり。世俗に角屋といふなり。」とて、圖を出だしたれど、附會の説なり。これをや襲ひけん、『雅言集覽(*1826〜1849成立。石川雅望著。中島広足により増補〔1887〕。)に、「或説に別棟にひき放ちて造り出しゝ家なり。」とあるも、更にあたらず。げにと思はるゝは、唯澤田名垂翁の説のみなり。
家屋雜考』に「按ずるにこは南開き・北開きなどいふ程の名にて、外ざまの明るみへ向ひたる所をいふ。必ずしも常ある一間ひとまの名とは聞えず。扨是を放出と唱ふるいはれは、時にとり大客などある折、やり戸・障子の類を放ち出だして、圍ひを廣むる故の名とおぼし。其の證一二をいはゞ、『若菜』源氏の卷に『南の御殿の西の放出におまし〔御座〕よそふ。屏風・かべしろより始め、新しく拂ひしつらはれたり。』又同卷に、『對どもは人の局々にしたるを拂ひて、殿上人・諸大夫・諸司・下部までの設け、いかめしくせさせ給へり。寢殿のはなちでを、例のしつらひて、螺鈿の倚子いす(*ママ)(*「いし」:「いす」は禅宗渡来以後の呼び方。)たてたり。』云々など見えて、放出は時々しつらふ所の名にて、常ある一間の名にあらざる事知るべし。云々。(*中略の意か。)古繪圖に放出といふ所の見ゆるも、事ある折必ず放出に用ふる場所などいふ程の所なるべし。室町以來の寢殿には、かやうの所見えず。參考のために。」とて、下の圖を出だせり。
大内裏圖眞言院之内長者坊畧圖
愚考も全く右の説に同じ。なほいはば、放出に用ふる間は、大かた廂の間なるべく覺ゆ。下に載する室内裝飾の指圖に、「已上放出」とかけるも、四方の廂を放ち出だしたる由なり。又長者坊の指圖も、南廂に放出と記したり。かく定めて、さて彼の『源氏物語』などの文意を解き試みむに、まづ「梅が枝」の卷なる「東の中の放出」とあるは東對の事ならで、東廂の中央にあたる〔間とは柱と柱との間なる由上にもいへりき。〕にて、東廂の中間といもいへる意ならむ。『今昔物語』なる「前の放出」とあるも、南廂の事なるべし。さるは母屋を奧といへるより、南廂は前、北廂は後なればなり。且次の文に、廣廂ある板屋とあるにても、然定むべし。次の『今昔』の文に、「法師をば奧に入れて、其の身は放出に居て」とある、奧は廂より奧の方にて、母屋をいひ、放出は廂をいへる事著し。猶また按ふに、後には廂の事を打まかせて放出といひたるか。『今昔物語』などの書きざま(*原文「書きざき」)、さる由にも聞こゆるにあらずや。鎌倉以後は、家屋の制も改まり、放出の稱をさ\/見えず。室町初期の頃よりは、公家一体に衰微して、大臣家の寢殿なども、跡かたなく變替し、諸事故實も廢れにければ、さしもの禪閤(*一条兼良。前出『花鳥余情』の著者。)すら、放出といふこと知り給はず。博識なる安齋翁(*伊勢貞丈。前出。)はた考へ得られざりしなり。
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四足門

四足門よつあしもんは、門扉を付くる柱の前後に各添柱二脚づゝ立てたるものなり。是れは大臣以上の御家ならではなき事の由、『海人藻芥(*蜑藻屑とも。有職故実書。恵命院宣守著。群書類従28所収。)といふ書に見えたり。『枕草子』なる皇后宮の大進生昌が家に行啓の條に、「ひんがしかどよつ足になして、それより御輿〔皇后乘御の條〕は入らせ給ふ」云々とあるは、是れ大進の家を、一時假りに皇后の御居所としたるにより、表門を四足門に、改造したる事と知るべし。任大臣の後、此の門は立つべき慣例なりしこと、これも其の徴とすべき文あり。則ち『今鏡』中卷「花ちる庭の面」の段、閑院家の傳に、實行右大臣に任ぜられたる時の樣體をかきて、「いづれの中納言とかの、まづ右のおとゞ〔實行なり〕の御慶びにおはしたりければ、其の家の門に馬くるま多く立ちなみて、俄に四つ足たつとて、別門ことかどより入りたるに」云々と見えたるにて、思ひ合さる。
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中門

中門の事は、縉紳家殿舍の條にいへり。
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棟門

棟門むなもんは、『家屋雜考』に「もと樓門(二階門なり)に對して、樓なくして、常の屋の棟の如く作れる門をいふなり。」とあり。
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土門

貞丈雜記』に云はく、「土門といふ事、『東鑑』卷廿七・又卷卅一にも見えたり。『庭訓往來』に上土門あげづちもんとあるは同じ事にはあらず。土門の事詳ならず。按ずるに『東鑑』の土門は、左右に土を高く積あげて、土手(■(阜偏+是:::大漢和41740)也)をして、其の中の間に門をたてるをいふなるべし。京都に土御門といふ處の名あるも、上古大内裏の時、土門ありし所を、末の世迄も土御門といひ傳へたるなるべし。」といへり。『家屋雜考』に記す所、亦此の説を襲ひたるなれば引かず。『枕草子清女が郭公聞きにゆきたるかへさ、土御門邊にて雨にあひたる段に、「などか、こと御門の樣にあらで、此の土御門しも、うへもなく作りそめけんと、けふこそいとにくけれ。」とある「うへ」とは、屋根の事をいふと聞こゆれば、げに安齋翁のいへる如く、上土門とは異なること著し。愚按ずるに、『吾妻鏡』卷十八、元久二年(*1205年)六月廿二日の條に、「于時問注所入道善信2談于廣元朝臣1云、『朱雀院御時、將門2於東國1。雖2數日之行程12洛陽1猶有2固關1之構上東西兩門〔元土門也〕始被扉、いはんや重忠之莅2來近所1歟。盍2用意1哉。』云々とあるは、東西の土御門をいふと聞こゆるに、「始被」とあれば、此の前には、唯築墻ついぢの中を切り通したる迄の出入口にて門扉とてはなかりしにや。「元土門也。」とある注にも心をつくべし。されば上東・上西の兩門は、爾後門扉を設けられけめども、此の他の私亭などにて、土門といへるは、猶門扉なきもありけんと覺ゆ。
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平門

家屋雜考』に、「總じて平門ひらもんといふは、屋上を少し平にしたる造り方なり。古寫の雛形等に、さま\〃/異同あり。」と記せり。愚按ずるに、こは冠木門かぶきもんの左右の柱短くして、平たく見ゆるよりの名にやと思はる。
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立蔀

舍前に立蔀構へたる圖
立蔀は目かくし塀の類にて、蔀の如く作れるものなり。所によりては取り置きにもする事あり。『枕草子』青馬見に行きたる段に、「左衞門の陣に、殿上人あまた立ちなどして、舍人の弓ども取りて、馬どもを驚かして笑ふを、はつかに見いれたれば、立蔀などの見ゆるに、殿守つかさ・女官などの、ゆきちがひたるこそをかしけれ。」とあり、『源氏物語』「野分」の卷に「ひはだ瓦・所々の立蔀・透垣などやうのものみだりがはしく」云々などもあるにて、板塀の類なること知るべし。扨こを立ておくべき塲所は、大底定まりたることにて、多くは外より室の見えすかぬやうに、殿舍の簀子の前に立ておきし事、前に掲げし指圖に就いて悟るべし。なほ右に立蔀の製と、立つべき所とを、古き繪卷の中よりぬき寫してこゝに出だせり。
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切掛

切懸の圖
立蔀の如き用をなすものにて切掛きりかけといふ具あり。但しこれは宮中または大臣家などの貴きあたりにはなくて、下司の住居などに設けらるゝさまなり。さるは『源氏物語』「夕顔」の卷なる、五條わたりの賤が家居をいふ所に、「切掛だつものに(夕顔ノ蔓ノ)はひまつはれる」とかき、『更科日記』京に上る條に、「關近くなりて、山づらにかりそめなる切掛といふものしたる上より、丈六の佛の、いまだあら作りにおはするが、顔ばかり見やられたり。」などあるも、皆かりそめに作りて、立つるものと見ゆ。
これは板を横にして柱にきりかけ、上よりめんどり羽に重ねうちて造るより、切掛とはいふにて、彼方より此方の見えすかぬ爲に立つるなり。『宇治拾遺』七、播磨守の侍佐太の事とある條に、「おはしましゝ傍に、切掛の侍りしを隔てゝ、それがあなたに、(京ノ女ガ)候ひしかば、知らせ給ひたるらむ。云々。(*中略の意か。)水干のあやしげなりけるが、ほころびのたえたるを、切掛の上より投げ越して、」云々などあるは、かなた此方の、見えすかぬ爲の隔てに、中庭の坪に立てたるさまなるを察すべし。扨其れがやうは、こゝに載せたる古畫の趣を見て知りね。
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透垣 籬  羅文

「すいがい」は「すきがき」の音便にて、板にても竹にても、間を聊かづつ透かして作れる垣なり。但し今いふ四つ目垣は、昔の籬にて、透垣の部にあらず。「まがき」は、間のひろくあきたるにて、「ませ」(*「間狭」→「籬」)といふも同じものなる由、『和名抄』に記せり。
因にいふ。『枕草子春曙抄(*北村季吟『枕草子春曙抄』〔延宝二年(1674)〕)七ノ四丁〕に、「すいがい・らもん・すゝきなどの上に、かいたる蜘のすの、こぼれのこりて、所々に糸もたえざまに、雨のかゝりたるが」云々とある「らもん」を、舊註、薄の種類のやうに説けるは、ひがことなり。前田夏蔭翁(*1793-1864。国学者・歌人。『万葉集私記』等を著す。)は、「羅文とて×の如く、細き木を組みちがへたるものをいふ。羅綺(*〔=綺羅〕薄絹と綾絹。美しい模様のある絹布。)の紋には、多く菱形あれば、うちまかせて、菱形を羅文とはいひならへるなるべし。凡て立蔀・板垣などの上に、菱形に組みて、造るが見ゆる是れなり。」といへるぞよき。
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築墻

築墻ついぢ築■つきひぢ(泥/土:でい:〈意符書換字〉:大漢和5204)の義にて、都以比知なるを略し言へるなり。『枕草子』「人にあなづらるゝもの」の條に、「ついぢのくづれ」とあり。土をき上げて作れゝば、くづれ易きなめり。『大鏡伊尹の傳中、花山院の風流におはします事をかける所に、「撫子の種を、ついぢの上にまかせ給へりければ、思ひかけず、四方に、色々に唐錦(*原文「唐綿」)をひけるやうに、」などあれば、只土を築きたるまでにて、後世の練塀の如く、屋根瓦などはなかりけん(*原文「などははなかりけん」)こと知らる。又唯垣といふも、同じことにて、『源氏物語』「蓬生」の卷に、「くづれがちなるめぐりの垣を、馬・牛などのふみならしたる道にて、」云々ともありて、さまで高からぬよしも知られたり。
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檜垣

源氏物語』「夕顔」の卷に、五條わたりの家居のさまをいひて、「此の家のかたはらに、檜垣といふもの新らしうして」とあれば、鄙びたる家などの、外構そとがこひにせしものと見ゆ。これは檜の薄き板を、あじろといふものの如く、斜に編みたるにて、張りたる垣なり。
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鰭板

鰭板はたいたも板塀の類なり。『枕草子』の「名おそろしきもの」の條に「はたいた」、傍註に「鰭板、家の具なり。」と見ゆるを、近刊の『家屋雜考』に、「ヒレイタ」と傍訓せしは校者の不注意なり。無住法師の作といはるゝ『砂石集(*ママ)に、「『人の家の鰭板は、内の見苦しき事を隱さん爲なるに、泰時が家のはた板は、内まで見え通れり。』とこそ仰せありつれ。云々。『泰時運つき候ひなば、鐵の築地をつき候とも、助かり候はじ。運有りて召使はるべくは、かくて候ふとも、何事か候ふべき。ほりなどほり候はば、騷ぎの時、人馬落ち入りて、中々量りなき煩ひ出で來ぬと覺え候ふ。鰭板のすきなんどは、かきもなほし候ひなん。』と申されければ、人々詞なし。」とある文を、『貞丈雜記』に引いて、「右の文を見れば、鰭板は近世に謂はゆる板塀なり。鰭の字は借字にて、實は端なるべし。宅地のまはりの端に、板塀をする故に、はた板といふなるべし。」とあり。『嬉遊笑覽(*喜多村信節(のぶよ)〔■(竹冠/均:::大漢和26032)庭〕著。文政13年〔1830〕成立。日本随筆大成別巻。)には、『春湊浪語(*土肥経平『春湊浪話』〔安永4年(1775)〕か。日本随筆大成所収。)東鑑』等を引いて、「『柱を地にほりたてゝ作るなり。』とあるを思ふに、切掛よりも、堅固なるものと見ゆ。さらでは、武家の圍ひとはなしがたし。云々。鰭板は、今の板塀の如く、堅板にて、合せめに板を重ねたるものと思はる。」とも見えたり。
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寢殿内の敷設

寢殿内敷設の明細圖
大臣家寢殿の構へ・妻戸・格子・門牆の類、寢殿指圖に注記の分は、前に一わたり述べたれば、是れより室内の敷設・裝飾の樣などを、圖について説明すべし。
先づ左に寢殿内敷設の明細圖を掲ぐ。これは『類聚雜要抄(*『雑用抄』とも。有職故実書。編者・成立年未詳。群書類従所収。)中卷に出でたるものにて、永久三年(*1115年)七月廿一日關白右大臣忠實公東三條殿移轉の時の、しつらひを圖したるものなり。後世私に考へて作りたる類ひにあらねば、尤も證とするに足る。
指圖の鋪設・裝飾は、必ずしも常にかくしつらひ置くとも定まらず。大かたは請客饗宴・移轉・女御入内・聟取露現などの祝儀、その外、よろづ晴れの日に限る事なり。
凡そ寢殿は内外、四方を取り放ちにして、廂にも母屋にも、一間ひとまごとに御簾をかく。母屋と廂との間に掛くる御簾の内には、壁代といふ帷を垂れ、下に几帳をすゑて、その几帳のたけと等しき所、またはそれより少し上の所に、彼の御簾をも、壁代をも、卷き上げ置くを例とす。又廂の御簾には壁代を添へずして、下に几帳を据うるのみなり。
かくて廂の間には、弘筵ひろむしろを敷きつめ、其の上に高麗べりを、間ごとに二帖づゝ敷く。中をさし合はせ、左右を透かして同じとほりに敷くもあり。中をあけて物する作法もあるなり。次に載せたる指圖は、此の高麗のたゝみの、中をあけて同じとほりに敷きたるさまをかけるなり。
廂のうち、階隱の間には繧繝縁うげんべりの疊二帖を、奧より端の方へ敷き流し、其の上に龍鬢りうびんむしろ(*龍鬢筵は五彩の細藺で織った花茣蓙の類。)二枚を敷き、又其の上に東京錦とうぎやうきしとね(*倣製の錦を縁とした茵。寝殿の座臥用の調度の敷物。)を敷く。其の疊の西に、二階の棚を立つ。此の棚の上には定まりて飾り置くべき器具あり。調度の部にいふべし。此の棚の南に、唐櫛笥を置き、それと並べて鏡の匣と鏡臺とを据ゑ、それらのうしろに四尺の屏風を立つ。これは母屋の柱のきはよりさし廻はして立つるなり。屏風のかはりに衝立の障子を立つる例もありとぞ。
又龍鬢の敷物の東南の隅に、三尺の几帳を、すぢかへに立て、茵の前に脇息をおき、又御前に西へよせて硯の箱をも置くといふ。但し女御參り・聟取露現(トコロアラハシといふ披露の義あり。(*ママ)などの時は、此の脇息も三尺の几帳に添へて、共にすぢかへに置き、硯の箱は脇息のあとへ、東の方へ押し寄せて置くべしとなり。是れ聟君の、此の座に昇らむ通り路をあけおく料と『雅亮裝束抄(*『仮名装束抄』『装束秘抄』とも。源雅亮著。有職故実書。寿永3年〔1184〕以前成立。群書類従所収。)に記せれば、かゝるよそほしき敷設は、來賓をすゑむ爲と見えたり。
又身舍の中に、帳臺等を立つる裝飾の事は、調度の部帳臺の條に委しくいふべし。
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武家館舍の變遷

武家館舍の構造は、■(手偏+晉:しん::大漢和12494)紳家の殿室と、最初其の風を異にせしが、後には次第に近似し相混じて、やゝ一樣になりし事に就き、澤田翁(*前出「澤田名垂」)の説あり。云く、武士は國々に所領ありて其の地に常住し、時に臨みて在京をもする事なれば、譬ひ高き家柄の人々とても、何某殿の御宿所など稱し、止宿一片の所と心得る故、おのづから其の營作も無造作なるを以て常としたり。中昔の草子どもに記せる義家朝臣の館、頼光朝臣の宿所などいへる樣にても知るべし。鎌倉右大臣家、天下を一統の後、平家の奢侈に懲りて、よろづの事、公家の風儀に習ひ給はず、其の身は鎌倉に常住まし\/て、上世以來武士といふ者のかたちをおしたてゝ、其の御所のさまなども、極めて手輕に事すみしと見えたり。〔以上撮要。〕
(*原文、この段落一字下げ)右の説誠にいはれたり。『吾妻鏡治承四年(*1180年)十二月十二日の條に、「新造御亭2御移徙之儀1。爲2景義奉行1去十月有2事始1。營2作大倉卿1云々。入2御于寢殿1之後、御供之輩參2侍所1〔十八ヶ間〕二行對座、義盛候2于其中央1。」と見えたるを證とすべし。十月より始めて十二月の上旬まで、わづかに二ヶ月ほどにて落成せしを思へば、其の構造の麁略なりけん事想ふべく、寢殿といふも名のみにて、■(手偏+晉:しん::大漢和12494)紳家のそれには、比ぶべくもなかりしならむ。
又云く、北條氏執權の世となりても、猶武家の故實を失はず、其の後南北相別れ、將軍家の御所を京都に置かれしより以來、國々の大名小名多くは都にのみ居住せしかば、鎌倉質素の風儀は一變して、堂上家・武家の差別なく、殿舍を造り磨き、相互に華美を競ふ事とはなれり。鹿苑院殿義滿の三條室町の御所に至りては、其の構へ方四町、鎌倉の舊例にならひ給はず、公家攝關の制に基き、寢殿・對屋・釣殿・泉殿等、數箇の屋舍あり。其の外前代にも聞及ばざるほどの華麗を極めたりと云ふ。世に謂はゆる花の御所是なり。又當時諸大名へ御成の記といふものを見るに、其の第宅いづれも寢殿造にあらざるはなし。爰に至つて堂上・武家の差別なきのみならず、公家の人々却つて武家の榮耀を羨み給ふ事となれり。
應仁の大亂に、公家・武家の大小の屋舍兵火に罹るもの三萬餘宇、洛中洛外多くは皆焦土となりぬ。然れども此の室町の花の御所は幸にして恙なく、細川勝元の計らひとして、主上〔後土御門〕上皇〔後花園〕を此の御所へ迎へ奉り、上皇は終に此の御所にて崩御まし\/し程の事なれば、義政將軍の代までは、そのかみの經營改められず、殿屋猶相備りし事知るべし。義晴將軍以來やう\/に衰廢し、義輝將軍に至り、三好・松永が亂に御所皆燒け失せて殘る所なし。應仁元年に燒き拂ひし三万餘宇、此の時未だ再建せざりしもの十に八九、攝關・大臣の御所々々とても、纔に雨露をしのぎ給ふほどなりしかば、禁中の有樣といへば、「紫宸殿の御ついぢくづれはてて、三條の橋より内侍所の御燈火見えたり。」など語り傳へたるも、此の程の事なり。されば此の後の大名たちは、其の第宅も大方は書院造といふものになりて、中古以來の寢殿造といふは殆ど絶え果てたり。さて彼の書院造といふは、玄關・書院・奧の屋などいふ造りかたにて、中昔の武士の第宅とも、亦大に異樣なるものなり。こは唯武家のみならず、堂上の家々とても、屋造のさま一變して、かへりて武家にならひ給へる事ども多し云々。
(*原文、この段落一字下げ)此の論文いと長く精しけれども、今は抄略して綴りぬ。鎌倉時代以後武家館邸の變遷を盡して要を得たり。但し末段、玄關・書院等の、義晴將軍以後に出來しやう聞ゆれど、是は猶其の以前に起りたるにて、唯最初の武家構と、變革したる由を注意したるに過ぎじ。其の事は後に辯ずべし。
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將軍家の寢殿

足利尊氏の館舍の圖
吾妻鏡』卷十一、建久二年(*1191年)七月廿八日の條に、「寢殿・對屋・御厩等造畢之間、今日御移徙之儀也。」云々。前に引ける同書卷二、治承四年(*1180年)十二月の條にも、寢殿・對屋の稱見えたるは、當時將軍の居所にも、猶公家の殿舍の名稱を用ひたるか。然れども對屋に引つゞけて厩をも擧げたるは、武家の第なる事を思はせたり。室町將軍の居處にも寢殿の稱を用ひたる事、『花營三代記』等當時の書に見えたるが、是れは澤田翁の説の如く、公家の寢殿にも勝りて、高大美麗の構造なれば、名實共に適ひしならむ。そはともかくも寢殿・對屋などの稱は、將軍家の外用ふる事なかりけむ。以下の武士には、大かた主殿・客殿・會所・對面所などいへるが常なりし樣なり。其等を一々説明する前に、一般の武家構と稱する大概を述べ試みむ。
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大名以下宿所の體

一般の武士宿所の構成を記せる文、『家屋雜考』の外に、『秋草(*未詳。翁草か。)嬉遊笑覽』『玉石雜志(*未詳。燕石雑志か。)等あれど、何れも大同小異なれば、今は是等の説を綜合し、又敷衍もして言はんに、先づ外郭に築垣ついぢまた板垣を立て廻らし、正面に大門、その他小門數所あり。表門を上土あげづち門にしたる多し。門内の傍に矢倉あり(櫓ともかく)。門を入れば又塀中門あり。それに續けて一方を廊とす。■(手偏+晉:しん::大漢和12494)紳家の中門廊に似たり。其の傍に遠侍とて、警護の卒の詰所あり。其處を通りて客殿に至る。『庭訓往來』に、「相2續客殿12檜皮葺持佛堂1。」とあるは、假作の文なれど、大かた斯る例にて有りけむ。客殿は亦會所とも面會所とも稱して、■(手偏+晉:しん::大漢和12494)紳家の寢殿に相當する晴の所たり。されば主殿とも稱しきとぞ。但し將軍家また大名の豪家にては、主殿に並びて別に對屋を造り、之を會所と稱へたりし趣、『土岐家聞書』・『奉公覺悟記』等によりて知らる。偖主殿よりうしろの方にも、幾棟かの雜舍ありて、家人眷屬の居所とせり。すべて武士の館舍は、『海人藻芥(*前出。恵命院宣守著。)にも、「不2檜皮屋1皆板屋造也。」とある如く、將軍家の寢殿にあらぬ限りは、大かた板葺屋の粗造なりしなり。『太平記』「師直兄弟奢侈之事」とある條に、兄弟この度南方の軍に打勝ちて、彌心おごりしたる事をかきて、「常の法には、四品以下平侍武士などは、關板うたぬのしぶきの家にだに居ぬ事にこそあるに、」云々といへる文も證とするに足れり。さて此の客殿を、後には書院と呼び、塀中門より廻廊に入る口を、玄關など稱する事になりたりし、そは後に解説すべし。
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主殿

家屋雜考』に云く、「主殿とは一家總構の内、むねとある殿をさしていふ稱なり。されば主殿の造り方とて、別に定まりあるに非ず。『土岐家聞書』に、「主殿の唐破風」と見え、『三好義長朝臣亭御成之記』に、『主殿の破風新に申付らる。』など見えて、寢殿の造方にあらず。對屋造なるにても知るべし。然れども中古以來の制、主殿と稱するは、多くは寢殿造なる故、主殿といへば寢殿の事と知られたるなり。舊説に『寢殿一名主殿。』と注したる事あれば、心得誤る人多し。」と云々。
右の説は將軍家・大々名の家に於ける主殿の例なり。一般武士の宿所にては、大かた客殿といへり。主殿の事を客殿とも稱すとは、頗る異樣にも聞ゆべけれど、主殿は主人の居室の意にも、主客の主にもあらず。前掲『雜考』の説の如く、總構の内、主たる所なれば然名づけしにて、一般の武家にては、賓客を此處に請ずる事ある故に、客殿とも稱し、一族郎黨集りて軍評定などせしかば、別名會所などもいひたるなり。而して將軍家・大名の豪家などにては、主殿の外に客殿あり。又別室を會所といへるなどもありて、彼れ是れまぎらはしけれど、謂はゆる小名以下・田舍武士等の宿所にては、主要なる殿舍を客殿また會所など名づけて、主殿の稱を憚りたるなるべし。猶次の文を見て了解すべし。
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客殿  殿内の造作

太平記』「頼員返忠」の條に、「土岐十郎(中略)太刀を取り、傍なる障子を一間蹈み破り、六間の客殿へ跳り出で、天井に太刀を打付けじと、拂ひ切にぞきつたりける。」云々。「正成兄弟討死」の條にも、「楠が一族十三人、手の者六十餘人、六間の客殿に二行に並み居て」云々、とあれば、一般の武家には六間の客殿を通例としたるにや。然るに又同書「新將軍京落」の條には、「佐渡の判官道譽都を落ちける時、我が宿處へは、定めてさもあるとある大將を入れ替へんずらむとて、六間の會所には大紋の疊を敷きならべ」云々とあるを見れば、客殿の事を會所ともいひたりと知らるゝにあらずや。
偖此處に六間の客殿とあるについて、注意すべき事あり。中古以前には、柱と柱との間毎を一間といひたる由、上の寢殿の條にもいへり。然るに『太平記』などの六間は、自づから別なり。澤田翁の説にも、「後世は柱に■(手偏+勾:こう:拘の異体字:大漢和11865)らず、一圍の所をさして、御座の間・御次の間などいふ事となれり。(中略)又室町時代の記録どもに、三間の御座敷などとかきたる事多し。是等は三坪のしつらひといふ事にて、今ならば三は二けん九尺にて、六疊敷の座、四間は二間四方にて八疊敷の座敷といふ程の事なり。そのかみは(*原文「そのみかは」)總板敷にて疊あれども敷詰しきづめにあらざれば、幾疊敷といふべくもあらず。故に右の如くとのみ唱へたる也。」といへり。此の説に從へば、六間の客殿は、今の十二疊敷の座敷となる。但し客殿・會所などいふは、殿中の一室なり。是れのみにて一棟のいへにはあらず。先づ殿内造作の概要をいはゞ、庭上より沓脱の板敷を昇りて縁側あり。家の四方に廻れり。それより内を大床とて、廣き板敷になしおけるは、事とある時、數多の武士の參會に便ぜしなるべし。是れ寢殿の庇の間を、いと廣くせしが如し。一般の武家には會所ともいへる所なり。此の奧に、二間とも眠藏めんざうとも名づけし寢室あり。前に引く『太平記』の「土岐が宿所夜討」の條に、「客殿の奧なる二間をさつと引きあけたれば、土岐十郎只今起き上りたりと覺えて、■(髪頭+兵:びん:「鬢」の俗字:大漢和45469)髪を撫であげて結ひけるが、山本九郎をきつと見て、心得たりといふまゝに、立てたる太刀を取り、傍なる障子一間を蹈み破り六間の客殿へ跳り出で」云々。其の末の文に、「土岐十郎久しく戰つては、中々生け捕られむとや思ひけむ、もとの寢所へ走せ歸つて、腹十文字にかき切つて」云々とある、證とすべし。此の障子も、當時は大かた明障子になり、襖の所は腰繪障子にも成りて、簾や壁代などの公家の風とは全く異なりき。
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眠藏 帳臺

寢所を眠藏と云へる事、古くは見えず。一説には、佛家にて寢所をかく云ひたる に始るとぞ。之を帳臺と呼びける事、■(手偏+晉:しん::大漢和12494)紳家にては、例の御帳臺の内に伏しもしたるに因り(調度の部帳臺參照)武家には一室を寢所と定め、其の床を高くし、帳臺と稱しけむ。『源平盛衰記』「文覺發心」の條に、袈裟御前盛遠を欺きて「我れ家に歸つて左衞門尉が髪を洗はせ、酒に醉はせて内に入れ、高殿に伏せたらむに、云々、夫(左衞門尉を云)をば帳臺の奧にかき臥せて、我が身は髪をぬらしたぶさに取つて、烏帽子を枕におき、帳臺の端に臥して」云々とあるにて、當時帳臺といへるは、一室の名なる事、又それを高殿ともいへるは、床を一段高く構へたることも知られたり。かくて帳臺とは、入口に帳を垂れおく故此の名ありと澤田翁いへり。後世大名以上の書院、上段の違棚より折曲げて、四枚引きちがへの戸襖を立て、いかめしく造りなしたる所を、帳臺といふ事になりたれども、是れは寢所にはあらず。或説に、戰國時代、蔭ながら主將を護衞する爲に、究竟の武者をかくしおきたるにて、之を武者隱むしやかくしと呼びたる所とぞ。今の京都二條離宮は、もと徳川の二條城なるが、其の書院を始め、古き武家の書院には、猶遺れるものあり。實地に就いて見るに、奧への拔け道として造られたらむ樣なれば、此處より武者の駈け出でむ便もあり。別の事ながら、當時の著述なる『庭造傳』といふ書に、「書院の前庭には築山を造る可らず。垣も人のたけより高きを忌む。もし高くせんには下の方を透すべし。刺客などの胡亂なる者の隱れざらむ爲の用心なり。」と記せるに思ひ合すれば、武者隱の用意といふも徒爾ならず、戰國時代には必要なる構へなりけむ。
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會所

家屋雜考』に、「會所の名古くは聞及ばず。こは主殿・對屋等を離れて、別に設くる所なり。『三内口訣(*前出、三条西実枝の口伝集。)に、『會所は押板おしいた(*床の間の前身。次節を参照。)・書院等常の如し。庭あり、或は池あり。座敷の便に隨ふべし。主殿・會所・山莊等は、皆角木をかけ、狐戸(*裏に板を張った格子戸。)を入る。』とありて、人あまた集會すべき料に設くる所なり。」と記せり。但しこれは豪家にての事なり。一般武家にては、客殿を會所といへりし事、前文にて知るべし。
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書院  床の間 押板 違棚(*原文「棚違」) 出文机

三光院内府(*三条西実枝、前出。)の『口訣(*前出『三内口訣』)に、「會所は押板・書院常の如し。」とあるは、室内の造作をいへるにて、押板とは後世の床の間の敷板、書院とは床の間の附書院つけしよゐんとも書院床しよゐんどこなどともいへる所にて、書院造の事にあらず。又『太平記』「新將軍都落」の條なる、佐々木入道が六間の會所には、大紋の疊(*大きな紋様の高麗縁の疊)を敷き並べ、本尊・脇繪(*三幅対などで本尊の両脇にある画幅。)・花瓶・香爐に至るまで置き調へて、書院には羲之が草書の偈、韓愈が文集を取りそへて置くなどある書院も、同じく書院床即ち出机だしづくゑの事なり。然れども右等の文を案ずるに、室町時代より、會所・客殿には押板・出文机いだしふづくゑの小窓などを附け、後世の書院造に構へたりげに見ゆ。
そも\/書院といふは、鎌倉時代の中頃禪宗行はれてより、僧徒の讀書・講學する室なりしが、武士にも禪教を信仰する者多く出で來て、遂に武家にも彼の書齋のさまをうつし、營作せしに始る由、先輩達の云へる如くなるべし。されば武家にても書院には必ず佛畫や經偈の句など掛けおき、香爐・燈臺・花瓶の三具足を取り揃へおくを例とせり。按ずるに書院の造作の特例は、後世いはゆる床の間なり。最初室内に一段高き小座敷(今の疊にて三疊乃至四疊ほど)を作り、正面の壁には、僧の崇信する佛菩薩や、師僧の影像名號の掛字などを掲げ、其の前に押板とて、横長き板の高さ三四寸ほどなる机やうの物を置き、上に例の三具足を飾りて香花を供へたりしならむ。(後世は押入の樣に中に板を張り付けにし又は疊一帖敷き込みたる所を床間といへるは簡略に變りたる也。)それにつゞけて違ひ棚・袋戸棚などいふをも造り、これには書籍・經凾・筆研の類の文具等をも置きたり。『東山殿書院飾の記』・『君臺觀左右帳記』・『仙源記』等の圖にも、其の樣遺りて見えたり。
偖書院はもと讀經・講書の室なれば、光線の明るく入るやうに、簀子(縁側)のつらに小机やうの棚を出し、明障子の窓を開けたる、之を昔は出文机と呼べり。是れは禪宗行はれざる前より、書齋には造作せしものと、喜多村氏(*前出、喜多村■(竹冠/均:::大漢和26032)庭も『圓光大師傳』を引いて辯ぜられし如く、菅家の紅梅殿と稱する古圖にも、書齋の東西に二ヶ所までこの出文机あり。書を見るに便利なる机代用の棚なれば、僧家の書院にも取り入れて造る事となり、書院造といへば、床・違棚の外、この文机を必ず具備する樣になれり。然るに又この文机を、書院といひならひて、後世は棚あるを附書院、棚なきをひら書院など呼ぶは、本末を誤りしなり。そはとまれ、東山時代より以後は、武家の會所・表座敷、みなこの書院造にする事、例となりしは、前掲『三内口訣』の文にても知らるゝ如く、徳川時代に至りても、城内を始め、大名以下民家にも行はれて現時に及べり。
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座敷

前に引ける『三光院内府の記(*『三内口訣』、あるいは『三内記』か。)に、座敷の語も見ゆ。表座敷・奧座敷など、昔より今に稱し來れるに就き、其の元を尋ね見ん。『家屋雜考』に、「古代座といひ座敷といひしは、人の座すべき所へ敷物を設くる事にて、今時の如く一圍の所といふ名にあらず。總じて古代の殿舍は、總板敷にて、主客の座すべき所々にのみ、時に臨みて敷物を設けし事なれば、古畫に主客相對したる所のみ疊ありて、其の餘皆板敷なる圖どもあるは即ち是れなり。『鎌倉年中行事』に、『評定所は十五間、中は油みがき、紫べりの御疊廻りじきにて、衆中の座は一重、外に半疊あり。御座は、常の御座と紫縁の御疊の上に重ねてしかるゝ也。』などあるにても其の樣を知るべし。(中略)然るを上下おしなべて、敷詰にする事となれるは、應仁の大亂以來、漸々に押移りし風俗なり。されば寢殿・客殿・書院の類すべて客人を通すべき所は、座敷にあらずといふ事なし。」といへり。按ずるに『蒙古襲來繪卷(*竹崎季長『蒙古襲来絵詞』〔永仁元年(1293)頃〕)の、竹崎五郎が城介に對面する所など、皆板敷にて、主客の座のみ疊を敷けり。實にも鎌倉時代は勿論、室町時代に入りても、初期までは室内一面疊を敷きつめにする事はなかりしならむ。
猶按ずるに、東山義政の頃點茶の技盛に行はれて、かこひとなづくる小室をしつらふる事起り、始めは狹き室なれば、一面に疊をしきつめたるより、次第に廣き室にも及びけるならむ。『東山殿御飾記(*前出『東山殿書院飾の記』か。)に、
又『大内義隆記』に、「國も治りて山口内の悦は、我れさきくさの殿作り云々、茶の湯座敷の四疊半三疊敷に次の間を、作らぬ人はなかりけり。」と見え、『細川忠興公年譜』に、「信長公安土の廣間は、八疊敷二間と、六疊敷一間にてありしなり云々、或説に、明智廣間十八疊なりしが、信長公2申請1し時、廣過ぎたるとて、御心に不叶、御膳もまゐらず御歸りなされしかば、明智用意の膳も椀も打破りて辛崎の湖水に捨てられしとなり。惣別信長公御座敷八疊なり。廣きはなかりしなり。扨信長公は、何事も我より人のましたるが嫌ひなり。」などあるにても察せらるべく、最初茶室の小座敷より起りて、次第に廣間にも敷つめにする樣になり、遂に豐臣氏の百疊敷などいふ、大規摸の營作にも及びしならむ。
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玄關

家屋雜考』に云ふ。「玄關は書院につきての名にて、僧家にて云ひ初めしなるべし。其の故は『傳燈録(*宋・道原『景徳伝灯録』〔1004〕)に、『法師者居2獅子之坐1、瀉2懸河之辯1、對2稠人廣衆1、啓2鑿玄關1、開2般若妙門1。』と見えたれば、もと僧家にて學問所の入口を名づけて、玄關と呼びしが、是も亦漸々に轉じて、學問所にあらぬ家居の入口をも、かく呼ぶ事となれるなるべし。」とあるにて聞えたれども、室町時代書院の入口なる玄關は、おのづから一定の構造ありしが如し。今も銀閣寺に唐門と稱へ居る所、即ち古の玄關の構をそのまゝ遺せり。其の樣中古の中門廊を聊か替へて、廊の中半に唐破風の屋根を出し、左右兩開きの唐戸あり。中は甃(敷瓦)にて上屋あり。書院の簀子につゞけり。之を基として、武家の玄關は出來し事著し。
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上土門

武家の門には、上土門あげつちもんといふが流行せり。『海人藻芥(*前出。恵命院宣守著。)に、「武士之家には云々但不2棟門1、皆もろをり戸也。又上土門を立つる輩少々有之。」と見ゆ。本書は應永の末にかけるなれば(*応永27年〔1420〕成立)義滿將軍の頃などには、少々なりけむ。『應仁記(*軍記。長享二年〔1488〕以後の成立。群書類従所収。)に、「大名の屋造云々。細川・武衞・畠山・山名・一色・六角は、皆上土門をぞ建てにける。」とあれば、當時は大名の門構、おほかた此の式を尚びたりと見ゆ。これは門の上に板を並べて、其の上に土を盛り上げたるなり。
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塀中門 中柵門

家屋雜考』に、「この門『東鑑』等所々に見えたり。然るを同書に屏重門と記せる所あれど、字義にかなはず。扨この屏中門の造り方は、古くより多く屋根なし。一説に武家には、屋根なきを用ひらるゝ例なるは、旗并に長具足など出し入るゝに、便なる故なり。」と記せり。按ずるに、中雀門また鍮石門(*いずれも「ちゅうじゃくもん」)などかけるもなほ塀中門の事にて、本字中柵門なるべし。武家には正門を柵戸(又城戸ともかく)とすれば、總門を入りて又奧庭などに入る門を、中柵門と稱せしならむ。然るを『家屋雜考』に、「鍮石とは眞鍮の事なり。其の造り鐵門の如くにして、金具を鍮石にしたる也。後世中爵・中雀・中尺等の字を書きて、別に造方ある如くいふは誤にや。」とあるは、『太平記』に鍮石の花瓶といふ字のあるを見て、思ひ寄りたるならめど、附會に近し。恐らくは千慮の一失なるべし。中柵門とかくが、字義もかなふにあらずや。

(*増補 宮殿調度圖解 上 <了>)

 例言  目次  <宮殿調度図解>  宮殿の部  縉紳家の殿舎  武家館舎の変遷  調度の部  <車輿図解>  車の部  輿の部  駕籠の部
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