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海道記

源光行
群書類從 卷第330 紀行部4
(第18輯 昭3.4.25 續群書類從完成会)

〔〕底本註、イ 異本、(*)入力者註
※ 仮名遣い・句読点・送り仮名を適宜改め、濁点を施した。
※ 以下のタグを参照のために加えている。

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白河の渡り中山の麓に閑素幽栖の侘士あり。性器に底なければ、能をひろひ藝をいるゝにたまるべからず。身運は本より薄ければ、報ひをはぢ命をかへりみて、うらみをかさぬるに所なし。徒に貪泉の蝦蟇となりて、身を藻に寄せてちからなきねをのみなき、むなしく窮谷の埋木として意樹に花たえたり。惜からぬ命のさすがに惜ければ、投身の淵は胸の底に淺し。存ずるかひなき心はなまじゐに存じたれば、斷腸の棘は愁の中に茂り、春は蕨を折て臨る飢をさゝふ。伯夷が賢にあらざれば人もとがめず。秋は菓を拾て貧き病をいやす。美子が藥もいまだ飢たるをば治せず。九夏三伏の汗は拭てくるしまず。手中に扇あれば凉を招くにいとやすく、玄冬素雪のあらしは凌ぐにあたはず。身のうへに衣なければ寒をふせぐにすべなし。窓の螢も集ざれば目は暗がごとし。なにを見てかこゝろざしをやしなはん。樽の酒も酌事を得ざれば心に常に醒々たり。いかが憂を忘れんや。然間、歳の水はやく流れて生涯はくづれなんとす。留とすれども留まらず。五旬のよはひの流車坂に下る。朝に馳暮に馳す。日月の廻りの駿駒のひま、かゞみの影に對居てしらぬ翁に耻、鑷子を取て白絲をあはれむ。是によりて佛のうへにはよはひをおどろかす老をつげ、鶴鬢のほとりに早落をいとふ花、露におどろき霜をいとふこゝろざしたちまちに催して、僧を學び佛に歸する念漸におこる。名利は身にすてつ。稠林に花ちりなば覺樹の菓は熟するを期すべし。薜蘿は肩にすがり法衣の色そみなば衣のうらの玉は悟る事を得つべし。只暮の露の身は山かげの草を置所とすれども朝霞は望み絶て天を仰にむなし。世をいとふ道は貧道より出たれども、佛を念ずる思は遺怠とをこたる。四聖の無爲を契りしも、一聖なを(*なほ)頭陀の道にとゞまりき。ひとへにをのれが有爲をいとひむさぼり、をのれいよいよ座禪の窓にいそがし。然而曹■(肉月+昔:::大漢和29614)が酒も人をえはしてよしなし。子罕が賄は心に賄て身の樂とせり。鵝眼なけれど天命の路に杖つきて歩をたすく。■(鹿/章:しょう::大漢和47688)牙はかけたれども地恩の水に口すゝぎて渇をうるほす。空腹に一盃のかゆをすゝれば餘味あり。薄紙百綴の衿寒に服すれば肌をあたゝむるにたれり。檜笠をかぶり裝とす。出家の身なり。わらぐつをふんで駕とす。遁世の道なり。
抑相摸國鎌倉の郡は、下界の鹿澁苑天朝の築渦州なり。武將の林をなす。萬榮の花萬にひらけ、勇士道にさかへたり。百歩の柳百たびあたり、弓は曉月に似たり。一張そばだちて胸をたをし(*たふし)、剱は秋の霜のごとし。三尺たれて腰すゞし。勝鬪の一陳には爪を楯にしてあだを雌伏し、猛豪手にしたがへて直に雄搆す。干戈威をいつくしくして梟鳥あへてかけらず。誅戮にきびしくして、虎おそれをまし、四海の潮の音は東日にてらされて浪をすませり。貴賤臣妾の徃還するおほくむまやのみち隣をしめ、朝儀國務の理亂は萬緒の機かた\/に織り、去年質耳外に聞をなして、おほくの歳をわたり、舌の端唇していくばくの日をか送るや。心のふね洋爲に漕、いまだ海道萬里の波に掉さゝず。乘馬あらましにはす。いまだ關山千程の雲にむちうたず。今便人の芳縁に乘じて俄に獨身の遠行を企り。貞應二年〔後堀河〕卯月の上旬五更に都を出で一期に旅立。
昨日はすみわびていとはしかりし宿なれども今立わかるれば名殘おしく(*をしく)覺えてしばしやすらへども、鐘のこゑ明行はあへずして、いつまたあはた口の堀道を南にかいたをりてあふ坂山にかゝれば、九重の寳塔は北のかたにかくれ、又相坂を下に松をともして過行ば、四宮河原のわたりはしのゝめに通りぬ。小關を打越て大津のうらをさして行。關寺の門をだにかへりみれば、金剛力士忿怒のいかる眼を驚し、勢田の橋を東に渡れば、白浪瀧落て流眄とながれ、又身をひやす湖上にふねをのぞめば心興にのり、野庭に馬をいさめて手に鞭をかなづ。漸に行ほどに都を遙にへだてぬ。前途林幽なる纔に青薺梢に見ゆ。後路山さかりて白雲路をうづむ。既に斜陽景くれて、暗雨しきりに笠にかゝる。袖をしぼりて始て旅のあはれをしりぬ。其間山館に臥て露よりをく(*おく)曉の望蕭蕭たり。煙高旱子巖の路をうづみ、水に望みて又水に望む。波の淺深長堤の汀にすゝむ。濱名の橋の橋下には往事をちかひてこゝろざしをのべ、清見關のせきやにはあかぬ名殘をとゞめて歩をはこぶ。富士の高根にけぶりをのぞめば、臘雪宿して雲ひとりむすび、うつの山路につたを尋れば昔の跡夢にして風の音おどろかす。木々の下には下ごとに翠帳をたれて、行客の苦みをいこへ、夜々の泊りにはとまりごとにこもまくらをむすびてたび人のねぶりをたすく。行々として重て行々たり。山水野塘の興こそみものをまし、歴々として更に歴々たり。海村林邑の感いやめづらかなり。此道若四道の間に逸興のすぐれたるをかね、又孤身が斗藪の今旅はじめなれば、遇孤たる舊客猶ながめを等閑にせず。况や一生の新賓なれば感思おさへがたし。感思の中に愁傷の交事あり。所謂母儀の老を[1字欠]又幼を都にとゞめて不定の再覲を契おく。無状かな愚子が爲躰。浮雲に身を乘て旅天にまよひ、朝露の命にて風のたよりにたゞよふ。道をおなじうするものは我をしらざる客なり。語は親昵に契りていづちかはなれなんとする。長途に疲れて十日あまり、窮屈頻に身をせむ。
(*了)


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