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草雲雀

小泉八雲
(田代三千稔みちとし訳 『日本の面影』  愛宕書房 1943.10.10
※ 原文1894年〔英文〕。(*入力者注記)

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一寸の蟲にも五分の魂(日本の諺)

その籠はきつかり高さが二寸で幅が一寸五分、軸で廻る小さな木製の扉は、私の小指の先がやつと這入るくらゐである。けれども(原文「けれでも」)、彼にはその籠の中に充分な廣さ —— 歩いたり跳ねたり飛んだりするだけの餘地があるのである。といふのは、彼をちらりと見るのには、鳶色の紗を張つた籠の横側から透かして、非常に注意して見なければならぬほど(*彼は)小さいからである。私は彼の居所を見つけるまでに、いつも充分明るい所でその籠を幾度もぐるぐる廻して見なければならない。すると、たいてい上の方の片隅に —— 紗張りの天井にさかさまにくツついたまま休んでゐるのが見える。
自分のからだよりはずつと長い、そして明りに透かして見てやうやく見わけがつくほど細い一對の觸角を備へた —— 普通の蚊の大きさくらゐの蟋蟀を想像して見給へ。くさひばり▼▼▼▼▼ —— すなはち「草雲雀」といふのが彼の日本名である。そして、彼は市場でちやうど二十五錢の値段である。すなはち自分の重さだけの黄金よりもはるかに高價である。こんな蚊のやうな物が二十五錢もする!  ……
毎朝その籠へ、新しい茄子か胡瓜かの薄片を差し入れてやらねばならぬが、さういふ物を喰べてゐる間を除けば、彼は日のうちは眠るか瞑想するかしてゐる。 …… 綺麗にしてやり、食べ物を充分與へることは少々面倒である。ゥ君が彼を見たら、こんな可笑しいくらゐ小さな生物のために、少しでも骨を折るなど馬鹿馬鹿しいと思ふだらう。
だが、いつも日が暮れると、彼のごく小さな靈が目覺める。すると、いふに云はれぬうるはしい微妙な靈的な音樂 —— 非常に小さい電鈴の音のやうな、かすかな、かすかな銀鈴が波だち顫へるやうな聲で、部屋がいつぱいになり初める。暗くなるにつれて、その音はいつさう麗しくなり、ある時は家中が小妖精の歌のひびきに振動するかと思はれるばかりに高まり、ある時は想ひも及ばぬほどか細い糸のやうな聲音に弱まる。しかし、高くても低くても、心にしみわたるやうな不思議な音色をもちつづける。 …… 夜もすがら、この小さな生き物はこのやうに歌ひ、寺の鐘が夜明けの時刻を告げる時、やうやく鳴きやむのである。

さて、この小さな歌は戀の歌 —— 見もせず知りもしないものに對する漠然とした戀の歌である。彼がこの世の生活の中で、ものを見たり知つたりすることなどは、まつたくあり得ないのだ。幾時代も以前の彼の祖先ですらも、野原の中での夜の生活や戀する際の歌の價値などを幾らかでも、知り得るわけはなかつたのである。彼等は虫賣りの店で、土の壺の中で孵つた卵から生れたもので、それから後は籠の中にだけ棲んでゐたのである。しかし、彼は幾萬年の大昔歌はれたやうに、しかもその歌の一ふし一ふしの確實な意味が解つてでもゐるやうに、少しの誤りもなく、彼の種族の歌をうたふのである。むろん、歌をうたふことを學びはしなかつた。それは生得の記憶の歌 —— 彼の靈が夜ごとに山々の露けき草蔭から高音を響かせた時の、幾千萬代の生涯の深い朧ろ氣な記憶の歌なのである。その時その歌は、戀を —— そしてまた死を、彼に齎したのである。彼は死に就ては全く忘れてしまつてゐる。が、その戀は記憶してゐる。それだから、彼は今けつして來ない花嫁を求めて、歌をうたふのである。
それゆえ、彼の憧れは無意識的な回顧である。彼は過去の土くれにむかつて、叫んでゐるのである —— 時の歸來を願つて、沈默と~とに呼びかけてゐるのである。 …… 人の世の戀人たちも、自分ではそれと知らずに、まつたくこれと同じことをしてゐる。彼等は迷妄を理想と呼んでゐる。ところが、彼等の理想といふものは、結局のところ種族經驗の單なる影であり、生得の記憶の幻である。生きてゐる現在は、それには殆んど沒交渉である。 …… おそらく、この小さな生き物もまた理想を持つてゐるか、ないしは少くとも理想の痕跡はもつてゐるであらう。だが、ともかくもその小さな願ひは、徒らにその悲嘆を述べざるを得ないのである。
その咎は全然私ばかりのものではない。この蟲に配偶を與へると鳴かなくなり、それにすぐ死ぬと、警告されてゐたからである。しかし、夜ごと夜ごとにその應答のない物悲しげな麗はしい顫へ聲は、非難するやうに私の胸を衝いた。 —— そしてつひにはそれが強迫觀念となり、苦痛の種となり、良心の苛責となつた。そこで私は、雌を買はうとしたが、季節が遲かつたので、賣つてゐる草雲雀は —— 雄も雌も、もう一匹もなかつた。蟲賣りは笑つて「九月の二十日頃には死んだ筈ですが」と云つた。(この時はもう十月の二日であつた。)しかし、蟲賣りは私の書齋にはりつぱな煖爐があつて、いつも温度を華氏七十五度(*約24℃)以上にしてゐることを知らなかつたのである。だから、私の草雲雀は十一月の末になつてもまだ鳴いてゐるので、大寒の頃まで生かしておかうと思つてゐる。しかしながら彼の代の他の者たちは多分死んでゐるだらう。どんな事をしても、私は今彼に配偶を見つけてやることは出來まい。そして、彼が自分で捜すやうに放してやつたところで、晝の中は庭にゐる大勢の自然の敵 —— 蟻や百足蟲や恐ろしい土蜘蛛の手を運よく逃れたとしても、おそらくただの一晩も生きおほせることは出來ないだらう。

昨夜 —— 十一月の二十九日 —— 机にむかつてゐると、妙な感じ —— なんだか部屋の中が空虚な感じがした。それから、私の草雲雀がいつもと違つて默つてゐるのに氣がついた。ひつそりしてゐる籠のところに行つてみると、彼は干からびて小石のやうに灰色になり硬くなつた茄子の薄片のそばで死んでゐた。たしかに三四日のあひだ食べ物を貰はなかつたのである。だが、ついその死ぬ前の晩は、うるはしい聲で歌つてゐた。 —— そこで愚かにも私は、彼がいつもよりか滿足してゐるものと思つたのである。アキといふ蟲の好きな書生が、いつも彼に食べ物をやつてゐた。ところが、アキは一週間休暇をとつて田舍に行つてゐたので、草雲雀の世話をする勤めは女中のハナに任されてゐたのである。女中のハナは同情ぶかい女ではない。その小さな蟲のことを忘れたのではありませんが、もう茄子がなかつたからです —— と彼女はいふ。そしてその代りに、葱か胡瓜の小さな片を與へることを考へなかつたのである。 …… 私は女中のハナを叱つた。すると彼女はおとなしく悔悟の意を述べた。けれども、妖精の音樂はもう止んでしまつた。寂寞が私の心を責める。部屋は煖爐があるにもかかはらず冷たい。

馬鹿げたことであつた!  …… 大麥の粒の半分ほどの蟲のために、私は善良な小娘を不幸にしたのだ! あのごく小さなものの生の消滅がこんなにもあらうと信じられなかつたほどに、私の心を惱ます …… むろん、ある生き物 —— たとひ一匹の蟋蟀でも —— の欲求について考へるといふ單なる習慣から、知らず識らずのうちに或る想像的な關心 —— その關係が絶えた時に初めてそれと氣がつく一種の愛着の念が生ずるのかも知れない。その上にまた私は夜の靜けさに、この草雲雀の微妙な聲の魅力 —— すなはちその束の間の生は、~の惠にョるやうに私の意志と利己的な樂しみにョつてゐるのであると語り、またその小さな籠の中にゐる蟲の微塵の靈と私の身内の微塵の靈とは、實在の渺茫たる大海にあつて永遠にまつたく同一物であると語るところの —— その微妙な聲の魅力を、ひどく身にしみて感じたのである。 …… それからまた彼の守護~の思ひが夢の織り成しに向けられてゐる間に、夜となく晝となしに食に飢ゑ水に渇してゐたこの小さな生き物のことを思ふと …… ああ、それにも拘らず、最後の最後までもいかに雄々しく歌ひつづけてゐたことであらう! —— しかもそれは見るも痛ましい最後であつた。といふのは自分の脚を囓んでゐたから。~々が私たちすべての者を —— とくに女中のハナをお赦し下さるやうに!

とはいへ詮ずるところ、飢餓のために自分で自分の脚を囓むといふことは、歌の天稟をもつといふ呪咀を蒙つてゐる者に起り得る最惡の凶事ではない。世には歌はんがために、われとわが身の心臓を食はねばならぬ人間の蟋蟀がゐるのである。

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