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『浜松中納言物語』について

2004.9 稿、2005.1 訂

『源氏物語』以後の「後期物語」、鎌倉時代の「擬古物語」は、いずれも「源氏の模倣・亜流」という括り方をされ、物語文学史は『源氏物語』を頂点として、前期物語の意義を説明するにとどまる、ということがある。文学史教科書の書き方がすでにそうである。『狭衣物語』と並んで後期物語の代表作の一つである『浜松中納言物語』は、「よはのねざめ、みつのはまゝつ、みづからくゆる、あさくらなどは、この日記の人のつくられたるとぞ。」(御物本『更級日記』藤原定家自筆奥書)という伝承によれば、菅原孝標女の作となる。『浜松中納言物語』には、実際に『源氏物語』の影響が人物配置や描写のしかたなどにおいて著しい。そのことだけについていえば「模倣」であるが、当然ながら、どういうところを模倣したかについて、作者個人の志向やその制作された時代背景のおおよそをうかがうことができ、それは他の作品についても同様のことが言えるはずである。
『浜松中納言物語』はおよそ11世紀半ばの成立という。『狭衣物語』に先んじて成立したとすれば、最初期の模倣作ということになる。作者を菅原孝標女(1008-?〔1058以後〕)と仮定した場合、物語に引用された周防内侍(生没年未詳〔1040?-1109?〕)作と思われる和歌から、『更級日記』(1060頃)以後、作者晩年の作となる。回想を中心とする構想・叙述のしかたからすると、両者はよく似ているところがあるが、自叙の方がずっと淡泊な記述であり、『浜松中納言物語』に往々見られる息の長い回想および心理描写はずいぶん異なった印象を与える。ただし、叙述の細部についての共通点や、全体の読後感などは、同じ作者とも見られる印象を確かに受けた。例えば「夢」(夢告)が筋の展開の要所にたびたび使われる点やその取り扱いのしかた、尊い僧が現れ、または夢の対象人物が嘆く姿の描写など、その他、「妃(または国王の場合もある。)の位も何にかはせむ。」というキーワード的言い回しが数カ所にわたって現れ、恋愛感情・憧れの深さと対比して世俗蔑視の姿勢をあらわにする発想などは、すぐに気がつく特徴である。『更級日記』の主人公は、「宇治十帖」のヒロイン浮舟に我が身を重ね合わせ、それに配する薫または光源氏のごとき理想的男性との出合いを夢想する。これは、半ば事実の回想でもあっただろうし、半ば『更級日記』の執筆意図と関わる誇張でもあろうと思われる。それと『浜松中納言物語』の人物配置を比較し、重ね合わせると、いろいろ共通項の多いことに気づくのである。 現存の『浜松中納言物語』は、日本古典文学大系に収めた5巻本をもととするが、戦前までは最後の巻を欠いた4巻本だけが伝わっていた。しかも、第1巻は『無名草子』『拾遺百番歌合』などに引用された和歌や夢告の言句などから、実際の首巻ではなく、この物語の初めには男性の主人公の中納言についてその生い立ちから渡唐に至る前史が書かれており、その上で現存の冒頭部にあるような入唐の叙述につながると言われている。その意味では不完全な体裁であるが、現存の5巻だけで見ても、唐后との出合いを記した首巻から、中納言帰朝後の恋愛生活の叙述を経て、巻尾で次期の唐からの遣使によって唐后の没したことが中納言に伝えられるくだりまで、首尾整った体裁と読めなくもない。中納言の恋愛遍歴には絶えず唐后との夢のような出合いが甘美に回想されており、人物の評価やその出没さえ唐后との関わりにおいてなされていることを考えれば、5巻の物語は、まことに中納言の嘆きのとおり「あはれにもつらうもありけるひとつゆかりの契りかな。」という唐后への満たされない憧憬の物語ということになる。
物語に登場する主要な人物は、男性では中納言がほとんど唯一のもので、巻4以降、好色一辺倒の式部卿宮(のち春宮)が現れるくらいである。中納言は、唐后への思いもあって絶えず出家隠遁を思う薫的形象を与えられながらも、その行状とわりあい逞しい行動的一面ではむしろ光源氏を思わせながらあるべかしい理想的な造型を施されているといえる。それと対比したときに、中納言の唐后への思慕の形代となる吉野の姫君をわずかな垣間見を機にこれを前後の思惑もなく強奪し、姫君の意思によってやむをえず中納言に再会させた後でさえしつこく宮仕えを迫り続けるという漁色家ぶりを発揮する春宮はおそらく匂宮に並べることさえためらわれるだろう。不思議なことに、物語後半部の中納言も吉野の姫君への思慕をあらわに口にするあたりから、前半部の理想的な貴公子の面影を薄め、式部卿宮にすこし近づいている印象がある。全体のトーンが一段下がり、やや味気ない収束のしかたといわなければならない。
一方の女性の主要登場人物は、初めに唐帝の寵愛措くあたわざる三の宮の母后(第二皇后かと思われる。河陽県后)があり、次に中納言が本国に遺してきた左大将の大君(尼姫君)、中納言が帰国直後に知り合った太宰大弐の女(のち衛門督妻)、唐后の文遣いを務めたことを機に知った唐后の腹違いの妹である吉野の姫君がある。唐后と中納言は夢知らせによって一夜の契を結ぶが、后の母(吉野尼君)は筑紫に流罪となった上野宮の娘であり、后は半分日本の人である。その出逢いによって若宮が生まれたが、「日本のかため」となるべき運命をこれも夢の告げによって知らされ、中納言は若宮を伴って帰国の途に上る。これらのことから言えば、これは藤壺中宮と東宮(のち冷泉帝)に擬することができるだろう。現存の物語では語りにおける時間が若宮の活躍にまで至っていないため、構想上は不整合であるが、人物配置が『源氏物語』との対比によるものであることは疑いない。また、大弐女はおそらく玉鬘であろう。尼姫君と吉野姫君の位置づけは、やや微妙である。尼姫君には、葵上と紫上の面影に加え、藤壺の面影さえ重なって揺曳しているように思われる。葵上との対比についていえば、本来中納言の正妻たるべき地位にあったこと、中納言の突然の渡唐(生別)とこれも突然の懐妊を知って、悲嘆のあまり出家剃髪してしまったことが注目され、夕霧を遺して光源氏と死別した葵上との類比が成り立つ。しかし、帰国後の中納言がなおかつ尼姫君の傍を離れず、「ながき世のとまり」と中納言からも周囲からも見なされていたことからは、成人してからの紫上が光源氏の正妻ではないもののその精神的支柱であり続けた貫禄をよく表している。さらに言えば、出家後、時になおかつ自制心を失いがちに迫る中納言に対して毅然とした態度をもって拒否する態度には藤壺の思慮深い一面に通うものさえ感じさせる。藤壺の死が光源氏を愁嘆させたように、唐后の死も夢によって中納言に知らされ、中納言は千日の精進に入る。これを須磨・明石の流謫になぞらえることも可能だろう。これがきっかけで、吉野の山奥から見出した吉野姫君を式部卿宮に拉致されてしまうことになるのだが、吉野姫君は「紫のゆかり」である点で若紫であり、また玉鬘の若く輝く美しさを備え、親代わりの中納言にはなびかない代わりに玉鬘が蛍兵部卿宮に懸想され、髯黒大将にかどわかされてしまうごとき悲運に見舞われる。しかし、その腹にはこれも夢の告げによって唐后が姫君に転生することになっていた。光源氏は紫上亡き後、出家して死ぬしかなかったが、中納言にはわずかな救いが用意されているのである。その他、挿話として帝から承香殿の女宮降嫁を中納言が告げられる場面は、そのまま光源氏への朱雀帝皇女女三宮降嫁の事件と重なるだろうが、これも中納言が渋ることによって回避されている。最後に、唐では中納言の父式部卿宮の転生である当帝の三の皇子が立太子したことが告げられ、日本でも唐后の生まれ変わりがやがて出現することになれば、中納言の優れた血筋と悲運に倒れた故上野宮の血筋により、やがて中国も日本もともに治まれる世を実現する運びになることが予想できなくはない。
このように見ていけば、『浜松中納言物語』は『源氏物語』とのアナロジーを濃密に感じさせながら、悲劇的結末を回避し、纏綿した情緒においてはむしろ『源氏物語』のエッセンスであろうとさえ企てている中編物語なのだ、ということができる。このことは、叙述・描写の細部においても、あるいは『源氏物語』「桐壺」巻で靫負の命婦が桐壺更衣の里邸を訪ねて桐壺帝に復命するところの有名な描写・会話文の面影を漂わせ、あるいは若き日の藤壺である「輝く日の宮」と若き光源氏を並べて讃える叙述を尼大君と中納言ないし吉野姫君の並立の描写に援用する、といったアナロジーを感じさせる点においても同様である。要するに、人物配置・部分的構想・叙述描写の諸点において、まちがいなく『源氏物語』の「模倣」でありつつ、むしろその上に恐らく女性読者が『源氏物語』において無意識裡に感じていた慊なさを満たし、纏綿たる情緒世界の密度などの面ではかえって『源氏物語』を凌駕しようという試みであったのではないかと感じる。
ただし、これは時代相との関わりで考えていけるのではないかと思うが、『源氏物語』の世界を限りなく志向しながら、まったく異なる要素も見出すことができる。私がまず気づいたのは、前に触れたように、回想の叙述がいささかくどくどと反復して現れることである。唐后への思慕、唐での歓待の思い出、「(紫の)ひとつゆかり」に関わり、悩みを重ねなければならない我が身の宿世への嘆きなど、巻ごとに数回出現する。巻の初めに当たってはあらすじを要約するように、新たな女性との巡り会いや恋の煩悶に際してまた尽きせぬ物思いが現れるというように、これらは「宇治十帖」との関わりも指摘できようが、あまりに紋切り型の回想・悲嘆になってしまっている。また、とくに第4巻以降、匂宮役の式部卿宮が登場する前後から、叙述のしかたが情緒的なものであるよりは行動的なものとなり、男の活躍の分量に比例して心理描写は雑駁な印象になっている。とりわけ、立太子のための準備を控えながら、周囲の姫君たちや女房に対して手当たり次第に色を漁る式部卿宮の描写は、『源氏物語』では肥後国の大夫の監でさえそこまでの叙述をためらったあさましさであり、院政期以降の宮廷風景をそぞろ想像しないわけには行かなかった。白河院と待賢門院璋子の逸話や、後に『とはずがたり』に描かれることになる後深草上皇の行状などを典型とする公家の凋落ぶりを作者は肌で感じていたのではないかという感じがしたが、それ以上には分らない。一方で、公に罪を得て筑紫に流された上野宮とは、作者を孝標女とするならば、すなわち家の伝承の中に生きていたであろう菅原道真のことではなかろうか。「上野の宮と申しゝ人世におはしき。身の才などこの世には過ぎて、いとかしこうおはせし程に、公の御為直ならぬ愁を負ひ給ひて、筑紫に流され給ひけるに、母もおはせざりける女一所おはしましければ、留むべき方なく思しわびつゝ、強ひて下り給へりけるを、彼処にて父宮亡せ給ひにければ、」云々と巻3にあるこの上野宮はそのまま道真の経歴と重ね合わせられ、菅原孝標が道真五代の嫡流であってみれば、この類比は十分可能であろう。私に興味があるのは、『更級日記』には家系への言及が皆目見当たらないことである。天神にまで昇格した当時有名な御霊であり、直接どうこう言うことが憚られたのかもしれないが、直系の子孫に祖先の伝承やそれに応じた自負が全く残っていないと考えることのほうが不自然ではないか。そうしてみれば、物語という虚構の場でこそ、古宮の血筋という自然な設定の中でこれに触れることがありえたのではないかと思う。
以上、『源氏物語』のあらすじと比較できるところを考え、後期物語の恐らく先駆的作品としての『浜松中納言物語』の位置づけを自分に分かる範囲で探ってみた。作者は未詳だが、菅原孝標女作であるとすれば、『更級日記』に感動的に描かれた『源氏物語』耽読の成果の一つがこの創作に結実しているということができようか。その他、『浜松中納言物語』については、理想化された唐后への満たされぬ思慕など、鎌倉時代の『松浦宮物語』と関連が認められる。河陽県の后は『松浦宮物語』の華陽公主に接続する擬古物語の新たな理想的女主人公であった。

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