[INDEX]

『竹斎』『東海道名所記』について

2004.10 稿、2005.1 訂

仮名草子は近世初期に出版文化の発達に伴って著された啓蒙的・教訓的な読み物の総称である。西鶴に至って浮世草子に発展したことになっているが、浮世草子の名称は西鶴の死後に行われたもので、西鶴はまず仮名草子の作者であった。慶長年間(1596-1614)以後、寛永(1624-43)期を経て、寛文(1661-72)・延宝(1673-80)期に最盛期を迎え、そのまま西鶴の活躍期である天和(1681-83)・貞享(1684-87)・元禄(1688-1703)に接続する約百年間の雑著類であり、実録・物語・教訓読み物・海外文学の翻案・笑話・古典の梗概やパロディ・名所記・医書・仏書・地誌の類を含む。漢詩文や随筆と並んで、おそらく当時の読書階層の底辺部を対象として余技的に著述された読み物と思われる。制作者についても、書肆専属の作者が現れかける時期の作物と思われ、公家・僧侶・武家・学者・医師などの中の有閑の人々によって著されたのが初めである。
中世までの宿命的な「憂世」観が近世に入って現世肯定的な「浮世」観に転じたとはよく言われるが、そのことをすでに仮名草子の作品に見ることができる。『東海道名所記』とともに浅井了意(1610?-90)作といわれる『浮世物語』序文の中にそのことが明文化されているのである。
(略)よろづにつけてこゝろにかなはず、まゝにならねばこそ浮世とはいふめれ。(略)まして世の中の事、ひとつもわが気にかなふことなし、さればこそうき世なれ。」といへば、「いやその義理ではない。世にすめばなにはにつけてよしあしを、見きく事みなおもしろく、一寸先は闇なり、なんの糸瓜の皮、思ひをきは腹の病、当座\/にやらして、月雪花紅葉にうちむかひ、歌をうたひ酒のみ、浮にういてなぐさみ、手まへのすり切も苦にならず、しづみいらぬこゝろだての、水に流るゝ瓢箪のごとくなる、これを浮世と名づくるなり。」といへるを、それ者は聞て、「誠にそれ\/。」とかんじけり。(水谷不倒『新撰 列伝体小説史 前編』 春陽堂 1929.7.23)
なお、「浮世」を冠した用例では、浮世草子以前にすでに浮世踊・浮世絵などが行われていた。それはほぼ「当世」の意味であり、当世風俗を描いて出色の作品を次々に著した西鶴の作品を浮世草子と呼ぶことも自然な流れであった。
『浮世物語』には浮世房という飄逸な遁世者が出てくるという(未見)。現世を達観して、これを楽しむという逞しい遁世者の像としては、浮世坊ばかりでなく『竹斎』の藪医師竹斎、『東海道名所記』の世捨人楽阿弥も挙げられる。
それぞれに特色を持つてはゐるが、太い共通の線が一本引けさうだ。みんな底抜けの明るさをたたへた楽天家であること、生活を支へてゆく智恵才覚が十二分にあること、そして旅や遍歴を楽しんだり、またその生涯を送る人である。等しく風采もあがらず、時には気ちがひじみた言動もまじる。しかし厭世的な暗さは見られない。主として名所記物とか遍歴物とかよばれる仮名草子が、かうしたもつとも近世的な色調に富んだ人間像を生み出した。(水野稔「仮名草子の人間像」、『仮名草子集(下)』〔日本古典全書〕附録 朝日新聞社 1962.7.10)
水野氏はこの一連の人間像に当てはまるもう一人の人物として『伊曾保物語』の伊曾保を挙げ、その頓才と機知は曾呂利新左衛門や一休の説話を生んだ時代の好尚とつながっていることを指摘する。私は今回、富山道冶(1585-1634)作という『竹斎』と浅井了意作と言われる『東海道名所記』を読んだが、ここに指摘された特徴はそれぞれ確かに認められる。
『竹斎』はかつて烏丸光広(1579-1638)作と言われていた。光広は『目覚草』『あづまの道の記』の著があるが、他に『仁勢物語』『尤之草子』を著したともいい、また『恨の介』『田夫物語』『伊曾保物語』の作者とも言われる。(『伊曾保物語』は、天草本〔ローマ字本〕とは別の翻案。)細川幽斎の弟子で和歌・狂歌を善くし、書画にも堪能で、政治的にも正二位権大納言の顕官にまで昇ったが、同時に奇行と反骨の人とも言われている。東海道を知悉しているところから『竹斎』との関連が言われるのだが、今日では伊勢の医家富山道冶作ということになった。主人公竹斎はその「やぶくすし」(野巫=藪医師)ぶりにより都で食い詰め、「都にありてもさらに益なし。」「所詮諸国をめぐり、いづくにも心のとどまらん所に住まばや。」と決心して、『伊勢物語』の東下りよろしく東海道をまず名古屋に下っていく。そして「天下一、やぶくすし、竹斎」の看板を出して患者を待つのだが、ここに至るまでで上巻は終わってしまう。前半の山は、都を離れるに当たって道中の安全祈願のために参詣する諸寺社の記述、とくに北野天満宮の繁盛ぶりを述べ、そこで行われている連歌・蹴鞠・狂言小歌・能楽・双六博奕・聞香・角力・酒盛・若衆の古典論議・その若衆への付け文等を細かく描写して当世風俗の縮図としているところにあった。ちょっと信じられないのは、若衆の古典論議である。「若衆たちのあつまり居て、源氏・万葉・伊勢物語、古今・論語に四書五経、難字不審をあらためて、あそび居給ふ其中に、一條殿か二條殿の御公達と打見えて、上人じょうにんおはします。」この公達に一目惚れした京の市人が韻文体の玉章を送るという一齣もある。これらの「あそび」が目まぐるしく披露される祝祭的空間である北野神社を後に、竹斎と従者「にらみの介」とは街道を下るのだが、『東海道名所記』とは違い、途中の描写はほとんどなく、地名を畳み込んだ道行文で片付けてある。上巻の最後は藪の看板を笑う旅人のほか、藪医師も捨てがたいとする病人の言葉で締め括るのだが、「くすしには上手も下手もなかりけりひいきひいきに時のしあはせ」という引歌は医師への風刺であろう。
下巻は藪医師竹斎の滑稽な医療が次々に描かれ、滑稽道中記としての『竹斎』の本題的部分なのだが、意外にも竹斎の荒唐無稽な療治は失敗よりも成功のほうが多いのである。それは、上巻の引歌を受け継いでいるかのようである。竹斎は瘧を病む患者に古畳と古紙衣の黒焼きを投薬する。それは偶然奏功するのだが、薬の説明にあたって竹斎は昔年自身が「わななきふるい」のために布団蒸しにあった記憶からだと説明して人々に笑われる。(この条は男色が関わっているように読まれる。)また、眼に鉄屑の入った鍛冶の治療に磁石の膏薬をあてがい、他の医師が匙を投げた眼の腫れを癒してやるのに成功する。「やぶれ紙子」に「紙頭巾」の放浪医師竹斎は、療治の根拠を述べるに当たって医者らしく「医書」の知識を持ち出すのだが、それは「謡の本」であったりする。五六度落馬した男に衾布子を掛けて無理矢理寝かそうとするのも、謡曲『頼政』に以仁王の落馬について「宮は六度まで御落馬にてわづらはせ給ひける。それは前の夜に御寝ならざるゆゑなり。」とあることを根拠にしての療治であった。「医書にはづるる療法りやうぢをば此竹斎はせぬ。」と豪語する竹斎に対して、周囲の人々は「あれ程物知りの竹斎なれば、療法におろかはあらじ。」と言って感心するのである。こんな一節にも滑稽化の意図は読まねばならないが、それにしても学問の根拠は謡曲であろうが書物でさえあればよく、書物を読み古詩の引用ができ狂歌の一つも読める者が「物知り」なのだった。狂歌を読むことで船賃を負けてもらったり、旅籠に泊めてもらったりすることもあり、物知りの徳ということが草子には何度か出てくる。そのことはともあれ、金を積んで法印なり法眼なりの位を取り、権威を笠に着て療治に望む一般の医師像に対比して、一応の「学文」は果たしながら貧乏神から逃れられず滑稽な失敗を繰り返す竹斎の姿は際立っている。三年間住んだ名古屋を後にして竹斎は江戸へ下るのだが、その道すがらも伊勢物語を下敷きにしながら旅は進行する。さて「花のお江戸」に着いて、神田の台に留まり、船歌を歌いながら「やぶくすしまでたのもしき」「すぐなる御代」をことほいで『竹斎』は終わるのだが、終末部の旅の記としての独創性は伊勢物語のパロディ的な狂歌以外にはあまり見られないような印象である。芭蕉の「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」の句によって竹斎の名は有名であるが、竹斎という人間像の源泉は作者の身からは天地霄壌の差のある格下げ設定人物であることによって、あらゆる権威的身振りを揶揄しようとした八方破れ的な風刺の意図にあると思われる。芭蕉の「狂句」にも、その意図は通底しているものと思う。
浅井了意の『東海道名所記』(1659)は、東海道五十三次の各宿駅間の里程や名物まで記した旅行案内である。名所記の類は仮名草子に多く、主な作品だけでも無名氏『色音論』(1643)、中川喜雲『京わらんべ』(1658)、了意『武蔵鐙』(1661)『江戸名所記』(1662)『かなめ石』(1663)、無名氏『賢斎物語』(1672頃)『元の木阿弥』(1675)、一無軒道治『葦分船』(1675)、菱川師宣『江戸雀』(1677)、黒川道祐『雍州府志』(1686)等があり、無名氏『東海道分間絵図』(1690)、秋里舜福『都名所図会』(1780)『東海道名所図会』(1797)等の絵図・名所図会および十返舎一九『東海道中膝栗毛』(1801)等の滑稽本に繋がるという。『東海道名所記』は無名氏『道中記』(1655、1659)や『京童』のほか、林羅山『丙申紀行』(1638)などを下敷きにして、名所ごとに里程・名勝・名物・寺社の縁起・逸話等の集大成を図ったものと言われている。引用書目は「日本古典全書」の頭注によって見ても和漢雅俗の多種に亘るが、特に万葉集(仙覚『万葉集注釈』を含む。)や勅撰和歌集(その他、夫木和歌集や山家集などの私家集もある。)の引用が目立ち、和歌の知識の豊富さが分かる。俳句は自作も含めて相当数あり、今日残っていない作家のものも散見する(春元『道中発句』など)。菟玖波集等、連歌の引用も見られる。また、伊勢物語・平家物語(源平盛衰記)の引用も多く、これらは前代の天草本などの刊行でも分かるように、当時の主要な教養古典だったのだろうと思われる。その他、竹取物語・源氏物語等の物語、西行物語・撰集抄・沙石集・私聚百因縁集等の説話集、一休咄・醒睡笑等の近世説話(咄本)・笑話、海道記・東関紀行等の紀行、徒然草、謡曲・狂言・お伽草子・浄瑠璃十二段草子・説経浄瑠璃・そぞろ物語の引用も多い。その他には延喜式神明帳・本朝神社考(林羅山)、古事記・日本書紀・東鑑・元亨釈書等の史書や将門記・平治物語・承久記・太平記・義経記・曾我物語などの通俗史書を参照したところがある。逆に、仏典や漢文では一般的に流通していたと思われるものに限られるようである。詩経・蘇東坡詩集・漢書・史記・晋書・列子・李白・杜甫・白楽天の詩・捜神記・幽明記・神異経・本草綱目・義楚六帖・釈話毛伝(逸書か)、日本のものでは和漢朗詠集・玉造小町壮衰書などが挙げられているが、おもに俗諺や誰もが知っている著名な詩句の引用等である。『竹斎』でもこれは同じで、他に論語や世説新語・黄山谷詩集、菅家後集・江談抄などが挙げられる。その他、出典は不明だが、自休蔵主「竹生嶋」の詩句が『竹斎』『東海道名所記』ともに見られるのは、この詩が人口に膾炙していたのか、『名所記』が『竹斎』を包摂・引用したのか。
こうした教養を披露しつつ、諸国を遍歴する『東海道名所記』の主人公楽阿弥陀仏は最後まで素姓を明らかにしないが、読者にとっては旅の心得についてかゆい所に手が届く解説を加えてくれる恰好な人物である。
さても世になし者のはて、青道心をおこして、楽阿弥陀仏とかや名をつきて、国々をめぐり、後生は知らずまづ今生の見過に、四国遍路・伊勢・熊野をめぐり、(略)鉄砲洲に着き、(略)もとより鳩の戒のすりがらし房なれば、それより勧進聖になりて、(略)とかく又これより都かたへのぼりて、黒谷のあたりにも住まばやと、(略)
という具合であって、一所不住の行脚僧である。「鳩のかい」とは「時に従ひ折によりて、いろいろになり変り、世を渡るわざをいたし、人をへつらひだます者」(『浮世物語』)をいうそうである。この〈すれからし〉の粋法師は同行になった男に旅の注意を細々と与え、宿駅ごとに旅の要領や物見遊山の参考話をする。最後にまた楽阿弥は男に京都を案内してから黒谷に落ち着くや、すぐさま西国行脚を思い立ち、男を大阪行きの船に乗せた後、そのまま西へ去っていく。この6巻に及ぶ名所記は、芭蕉『奥の細道』に先立つこと30年以前の作であるが、すでに東海道の十分に開けている様子は克明に捉えられている。楽阿弥は、琵琶法師・浄瑠璃・歌舞伎・角力等の歴史には特に詳しい。また、大原但善・但唱の念仏僧兼仏師師弟、嶋の千載・若の前・熊野・大磯の虎・島原の八千代などの遊君傾城、素戔嗚尊・蘇民将来・木花開耶姫・日本武尊と宮簀姫・三上山伝説・三保の羽衣伝説・足柄明神・大友皇子と天武天皇・泰澄法師(白山開山)と菊面石・悲田院と施薬院・八坂塔と浄蔵貴所きそ・かぐや姫・中将姫・平将門・俵藤太秀郷・大岡寺の甲賀三郎伝説・蟹坂伝説・小野小町・蝉丸・和泉式部と性空上人・紫式部の石山寺伝説・文覚(遠藤盛遠)・西行・建礼門院・木曾義仲・佐々木高綱・源義経(腰越状)・熊坂長範・浄瑠璃御前・長田庄司忠致・曾我兄弟・源光と源空(法然)の師弟・小栗判官・一休和尚・石川五右衛門・紀伊国屋作内(大師河原の酒屋)各地の伝説など、各地の伝説口碑の類を倦まずに織り込んでいる。食べ物では、安倍川餅や柏餅・うどん・そば切り・焼米の俵・十団子などの他、魚のうまい宿駅を紹介する。京では、島原の遊廓の概要とちょっと覗き見した様子を伝えている。こうした記録の有様から、当時の旅行ガイドブックの作者が旅行者の興味の焦点をどの辺りに想定していたかを推知することができるわけである。なかんずく黒谷と法然関係の法論、比叡山との確執等については、資料が格別な印象であり、作者は浄土宗の僧侶または信徒であった可能性が高い。また、『竹斎』の作者が自作の歌を文中に入れる場合、「腰折れ」と謙遜していうことがあるのに対して、はるかに下手な狂歌や狂句を平然と詠み込むところなどは、堂上家の出自ではないことを思わせる。さらに旅行の細かい注意に至っては、公家ではちょっと書けないだろうと思われるところがいろいろあるのである。
たとひその心根、生鉄なまがねの鈍き人なれども、黄鉄きがね白鉄の中より目を見出して居る者には、おひげの塵をとり、小鬢かうびんのふけをはらひ、天逆様あまさかさまよこがみをさけども、此事かの事尤もなりと吹きはやし、立こみ入こみてお伽を申す。ただ世の中は銭ぞかし。阿弥陀の光も、地獄も極楽も、世間もともに、銭にまされるものはなし。(巻三)
旅飯銭はたごせんは宵に渡すべからず。朝立つ時に渡すべし。銭を替ふには金銀を手離し、人を頼みてつかはしぬれば、悪しきかねにすりかへらるる事あり。しるしを見せて銭をとりよせ、其後に渡すべし。(巻一)
さて道中第一の用心には、堪忍にまさる事なし。船頭・馬方・牛遣くるまつかひなどは、口がましく言葉いやしう、我儘なる者なれば、是に負けじとする時は、かならず大事のもとひとなる。今銭二三文を高くつかへば、万事早くととのふなり。(巻一)
こうした実用的な教訓が随所に鏤められている。この旅巧者の案内によって、荷駄の管理人や伊勢参詣の旅人などはより安全に、合理的に旅をすることができたことだろう。江戸の新吉原や京都の島原など遊廓の案内記は『そぞろ物語』(1639)、『あづま物語』(1642)、『色道大鏡』(1678)等の遊女評判記が主で、名所案内記という枠組みにおいては多分に読者サービス的なものであったらしい。これが、遊女と客との情の通い合いを手紙なり会話なりで具体的に描写するようになるのは、無名氏『名女情くらべ』(1681)が嚆矢ではないかという(水谷前掲書)。西鶴の『好色一代男』(1682)から始まる好色物が当時画期的に持っていた新しさを想像することができる。先に述べたように、この辺りから「浮世」(当世)の風俗が古典の抄出にも優って描写の主眼となっていくわけであるから、それが同時に遊里を主軸とした色恋の写実小説という性格をも備えることで、読者の関心を強く引きつけたのだろう。逆に、それ以前は滑稽を主とし、和歌・和文・漢籍等、古典の造詣を背景とした言葉遊びを大きなモチーフとした軽口咄の系譜が綿々と続いていたわけであり、人物像としてはイソポ(イソップ)のような当意即妙の機知を働かせる才覚者の文学があったということである。これは、日本の文学の中で案外少数派の文学系列ではないだろうか。
仮名草子は、戦乱時代の終熄・安定によって開放的な精神が一気に多彩に展開し、出版媒体の発達と結び付いて生まれた華やかな文化遺産であるといってよいと思うが、その可能性の芽がその後十分に継承・展開し得たのかといえば、ここにも文学史の非連続性、「開化の断続性」の現象が見られるのではないか。また、もう少し細かく検討していけば、「浮世」の内なる「憂世」という無常観がそうした断続性を支えた側面もあったかもしれない。仮名草子は、文化の担い手、その階層性ということについても注意を促すところがある。そのことは、もう少し時間をかけて考えていきたい。「名所記物」「遍歴物」は、交通機関の拡大と切り離して考えることができない。「もつとも近世的な色調に富んだ人間像」(水野前掲文)がこのジャンルから生まれたことは時代の必然ともいえよう。それは流行の表面から消えて伏流するが、おそらく随筆や紀行、漢詩文を含む短詩型文学のジャンル等の中に伏在していくのではないだろうか。

[INDEX]