正岡子規の俳句革新論

正月から春休みにかけて、正岡子規『獺祭書屋俳話』『芭蕉雑談』『俳人蕪村』等の電子テキスト化を果した。それらの作業に絡めて、子規の俳句・短歌革新の一斑を覗いてみたい。
子規の俳句・短歌に関する代表的所論を年次順に並べると、次のようになる。
(*『現代日本文学大事典』 〔明治書院、当該項目−北住敏夫執筆〕には日付まで載せる。)
明治二十年代後半から三十年代初めにかけて、まず俳句、次に短歌の順に論じていることがわかる。子規の掲げた文学理念と方法は〈写生〉であり、それは画家中村不折との交遊から着想を得たということが『国語便覧』等に必ず書いてあるが、「写生」なる語はどの辺りから表立ってくるのだろう。実は、『獺祭書屋俳話』本編には1語も「写生」という語は出て来ていない。『俳諧大要』には恐らく1語だけの用例がある。『俳人蕪村』にも1個所検索できた。「俳諧大要」と共に「歌よみに與ふる書」の入力もまだ終えていないので何ともいえないが、もう「写生」という語は歌論に際して重要なタームになっているはずである。子規が中村不折を知ったのは1894年であったという。
明治二十七年二月十一日、子規を責任編集者とした小新聞「小日本」が刊行された。その挿し絵画家として羯南の友人浅井忠から弟子の中村不折を紹介される。(松井利彦「正岡子規」、『話題源 詩・短歌・俳句』 東京法令出版 1991.5.8)
それでは、『獺祭書屋俳話』の与えた衝撃とはどういうものであったろうか。辞典類によれば、それは俳句・和歌が明治の新時代には終わるだろうと予言したことであった。
人問ふて云ふ。さらば和歌俳句の運命は何れの時にか窮まると。對へて云ふ。其窮り盡すの時は固より之を知るべからずといへども概言すれば俳句は已に盡きたりと思ふなり。よし未だ盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり(*傍線部、原文では傍点または圏点を付す。)
増補版『獺祭書屋俳話』の序文で、子規みずからこの俳話を「俳句界革新の曉鐘なり。」と呼んでいる。自信のほどを思うべきであるが、この俳話自体が統一的なテーマを持っているわけではない。自身で「随筆的の著作」というように、一貫した論説であるよりは伝統的な俳文の体裁に倣っているように見える。具体的には、総論的に「俳諧」の名称を論じ、蕉風以前と芭蕉の弟子の評論、女流俳人の評、時鳥・萩・女郎花等の素材についての俳諧物尽くし的随想、同時代の作法書・指南書の批判等、おおむね雑話の体裁をとりながら、新時代の「俳句」についての制作原理を述べているといえる。(もっとも「俳句」という用語は無定義に使っている。)
その原理らしきものを簡単にまとめれば、雅俗・新古の中道をとって新しい文芸的価値を開拓した芭蕉に範をとり、明治の時代風俗に流されず、いたずらに上世の語格に泥まず、文法を偏重ないし無視せず、「平淡無味」の新らしい「雅」を追求することが俳諧蘇生の目途であったろうか。そのための爆弾発言であった、と全体の構成からは捉え直すことができるように思う。予言であるよりは警鐘であり、芭蕉の高弟もまた仕損じた伝統の衣鉢の襲ぎ方指南であった。
続く「芭蕉雑談」は、主題を蕉風山脈に絞り、芭蕉信奉者を向こうに回しての立論であるため、一段と犀利かつ激越な論鋒が光っている。とりわけ、開巻まず人を駭かす「断案」の布置は、「獺祭書屋俳話」以来、「歌よみに與ふる書」に及ぶ新聞評論の常套的手法となった。
余は劈頭に一斷案を下さんとす。曰く、「芭蕉の俳句は過半惡句駄句を以て埋められ上乘と稱すべき者は其何十分の一たる少數に過ぎず。否僅かに可なる者を求むるも寥々晨星の如し」と。
この後、「古池や」「道のべの木槿」「枯枝に」という「曰く付き」の代表句に纒綿する「曰く」の部分を、直観的にそぎ落としていく。そして、代表句のあらかたをこき下ろした上で、みずから選んだ「佳句」を列挙し、改めて「創業の人」芭蕉の偉大なる所以を説き始めるのである。
美術文學中尤高尚なる種類に屬して、しかも日本文學中尤之を缺ぐ者は雄渾豪壯といふ一要素なりとす。和歌にては萬葉集以前多少の雄壯なる者なきにあらねど古今集以後(實朝一人を除きては)毫も之を見る事を得ず。眞淵出でヽ後稍萬葉風を摸擬せりと雖も近世に下るに從つて纖巧細膩なるかたにのみ流れ豪宕雄壯なる者に至りては夢寐だに之を思はざるが如し。和歌者流既に然り。更に無學なる俳諧者流の爲す所思ふべきのみ。而して松尾芭蕉は獨り此間に在て豪壯の氣を藏め雄渾の筆を揮ひ天地の大觀を賦し山水の勝概を叙し以て一 世を驚かしたり。
この「雄渾」「豪宕」の実例を「あら海や」の句について述べるところは、李白(「望天門山」「望廬山瀑布」)を引いて文勢も一気に昂揚する。
此句を取て一誦すれば波濤澎湃天水際涯なく唯一孤島の其間を點綴せる光景眼前に彷彿たるを見る。這般の大觀銀河を以てこれに配するに非るよりは焉んぞ能く實際を寫し得んや。天門中斷楚江開の詩は此句の經にして、飛流直下三千尺の詩は此句の緯なり。思ふてこヽに到れば誰れか芭蕉の大手腕に驚かざるものぞ。
この評中、「能く実際を写」すとある点に注意したい。今日、この句が〈写生〉の句でないことはむしろ当り前になっているが、子規は荒海と銀河の配置によって日本海の「大観」の雄壮豪宕なリアリティを感知したのであったろう。このように「雄渾」の美を発掘・創始したことだけでなく、その他芭蕉について子規はさまざまの論点を提供した。その人柄・言行、そして詩作の創意それ自身において、あまたの弟子を統べるほどの多様性を有したこと、また荒唐無稽な筋立てと冗長な文章に代って「實際の人情を寫し平民的の俗語を用ゐ」た点で西鶴・近松と共通する元祿文学の代表的作者であること、「漢文的句調」を駆使して「哲學的思想」を叙述する俳文の文体を創始したこと、桃青の号は当時欣慕していた李白の対語であったかもしれないこと、等々。また、「連俳は文學に非ず」という断案も、「芭蕉雑談」の注目点であるらしい。その他、芭蕉が健啖家であったらしいこと、許六の「鼾の図」を描くなど「頓智の人」でもあったこと等、尊敬と親愛の両面を押さえて、子規の筆は勢いに任せて多面的な芭蕉像を描いている。
「俳諧大要」は1895年の著述であるから、この時には中村不折と相識っていたことになるが、〈写生〉という語は「牛伴」(下村為山)との対話の中での用例以外には見られないように思われる。俳句作法指南の書として、次第を逐って俳諧を学ぶという構成になっている。初めに俳句芸術の位置付けを述べ、「修学」の第一期から第三期までを述べる。心得の列挙と実例指南になっていて、実景を客観的に写すところから入り、次第に自分の工夫を施していくことを述べている。描写の基本姿勢に関する稍立ち入った議論は第二期において展開するが、その要点は「空想」(理想)と「寫實」との関連である。そして、空想に偏り過ぎると多くは内容が偏頗となり、写実に拘泥し過ぎると取材の範囲が限定されてしまい広がりが見られないと語る。しかし、とにかく写実は「斬新」であり、空想がとかく「陳腐」に陥りやすいのに比べてはるかに優る制作手法であった。
油畫師牛伴と語る事あり。牛伴曰く、「畫に於ても空想を以て競爭せんには老熟の者必ず勝ち少年の者必ず負く。然れども寫生を以てせんか。少年の者の畫く所の者亦老熟者を驚かすに足る」と。眞なるかな。
そこで注意しなければならないのは両者の割合であった。単に折衷的態度を取り、小説・演劇・戯曲・外国文学または絵画等から意匠を借りるなどの工夫を凝らすだけでは失敗する場合があるという。修学の第三期に至って、「卒業の期無」き自家工夫の段階に入る。そこでの修学に堪えられる者は、専業の文学者でしかない。その上での工夫として、次のように両者の関係を述べていることが注目される。
空想と寫實と合同して一種非空非實の大文學を製出せざるべからず。空想に偏僻し寫實に拘泥する者は固より其至る者に非るなり。
このように、「非空非實の大文學」という表現をしていることに改めて注意しなければならない。なおまた、「俳諧大要」の最終章は「俳諧連歌」の作法の絵解きである。「芭蕉雑談」において「連俳は文學に非ず。」と断定しながらここにその作法を述べているのは、「俳諧大要」と銘打った本書の性格上付け加えたものではあろうが、明治年間には命脈が尽きるはずの俳諧の作法指南を書いたと同じ子規の眼差しを見て取ることができる。
「俳人蕪村」は、「芭蕉雑談」を子規が書いていた頃(1893)、内藤鳴雪や子規らの間で蕪村の再発見を行ったことにより、蕪村の文学史的定位を試みた評論である。ただし、内容は意匠・用語・句法・素材・修辞・時代背景・境遇ともおよそ芭蕉と対蹠的な作者であるだけに、子規が「俳諧大要」において「非空非實」を積極的に提示し始めた「俳諧大要」以後を待たなければならなかった。元来、「美の標準」から俳句の近代文学としての可能性を原理的に位置付けようとした子規にとって、不折や為山らの洋画家たちによる〈写生〉の方法は、限りない可能性を示唆しながらも、それだけ特立して芸術的美の絶対的条件とするものではありえなかったのだろう。「俳人蕪村」において〈写生〉の語が表れるのは、次の1個所である。
文學の實驗に依らざるべからざるは猶繪畫の寫生に依らざるべからざるが如し。然れども繪畫の寫生にのみ依るべからざるが如く文學も亦實驗にのみ依るべからず。寫生にのみ依らんか、繪畫は終に微妙の趣味を現す能はざらん、實驗にのみ依らんか、尋常一樣の經歴ある作者の文學は到底陳套を脱する能はざるべし。文學は傳記にあらず記實にあらず。文學者の頭腦は四疊半の古机にもたれながら其理想は天地八荒の中に逍遙して無碍自在に美趣を求む。窒ネくして空に翔るべし、鰭 なくして海に潜むべし。音なくして音を聽くべく、色なくして色を觀るべし。此の如くして得來る者必ず斬新奇警人を驚かすに足る者あり。
写生(実験)と理想との対比は、ここでそのまま芭蕉と蕪村の対比として語られている。この対比の形態は初めから保ってあって、芭蕉の消極的美に対する「積極的美」、以下同様に主観的美に対する「客観的美」、天然美に対する「人事的美」、空間的俳句に対する「時間を寫す者」としての俳句、実験的傾向に対する「理想的」傾向、簡単に凝縮された美に対する「複雜なる句」、粗い形容語に対する「精細的美」というように、芭蕉の意匠とことごとに対比させて論じている。また、「用語句法の美」についても漢語のみならず古語(雅語)と極端なまでの俗語を緊密な構成の中であえて使用し、俗語においては一茶を導いたかもしれず、しかも漢語・雅語の積極的運用については古今独歩であったと評価している。その他、独特な用語法・句法としては、形容語の活用・手爾葉(助詞類)による結尾・句切れ・終止法の破調などを挙げ、素材としても狐狸等の怪異・犬鼠等の動物・地名・糞尿・艶美な王朝風物など新奇な分野を開拓し、修辞においては縁語・譬喩の導入などを指摘する。最後にはまた、絵画・俳画(子規は画ではないとする)・俳体詩(「此等は紀行的韻文とも見るべく諸體混淆せる叙情詩とも見るべし。」)等の諸ジャンルにまたがった多才を称している。
こうして見てくると、絵画に着目したことから蕪村を発見したという流れにはなっていないことに気づくだろう。むしろ、芭蕉の「雄渾」「豪宕」美を受け継ぎ、「写実」と「理想」のあるべき融合の一典型を成したという意味で、芭蕉とは一見対蹠的に論じていながらこれまた「創業の人」(「芭蕉雑談」)であった蕪村をも子規は再発見したのだと言えないだろうか。そして「歌よみに與ふる書」に続くのである。すでに俳句革新論の中にも実朝・真淵の名は散見するのだが、子規の和歌における『万葉集』再評価が出てくるいわれも、一連の俳句革新論の中にすでに萌していたと思われる。

(2006.5)