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大鏡 卷一


(近藤瓶城編『大鏡 屋代弘賢校正』一 史籍集覽 觀奕堂藏版・近藤活版所 1881.8.27
※ 校正箇所を省略し、本文の他若干の注記のみ残した。
事実との照合はしていない。他の注釈書も参照していない。
【 】は本文割注。灰色字は原文注記類。青字は入力者注記。
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  解題(近藤瓶城)   巻一・二目次   巻一   巻二   巻三   巻四   巻五   巻六   巻七   巻八   巻九   異本陰書
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大鏡

屋代弘賢 校正
此書一に世繼と名く。世繼と名くる書當時二部あり。一は榮花物語を云ひ、一は此書を云ふ。伴信友氏の考へに、世此書の作者を以て藤爲業となす。【爲業は保延中の人にして伊豆・伊賀等の守を歴て皇太后宮大進に任す。兄を爲盛、弟をョ業と云ふ。皆和漢の才あり。兄弟倶に僧となり大原に住す。世に三寂と稱す。】然れとも尊卑分脈等に爲業世繼の作者と云ふ耳。榮花・大鏡何れの書と云ふことを言はす。世繼の名ゥ書に出るもの一ならす。十訓抄に委く世繼に見ゆと云へるを、百煉抄に子細見榮花物語と云ひ、袖中抄に世繼第十二卷を玉のむら菊と名くと云ひ、袋草紙に萬葉集は如云世繼と云ひ、増鏡の序及ひ本朝書籍目録に世繼四十卷と云ひ、又此書一本に世繼名と題し榮花の目を擧たる如きは、直に榮花物語を指して世繼と云へるものなり。然とも此書の文中及ひ續世繼の序に、世繼の翁文コ以後の事を傳ふと云ひ、中古歌仙傳に世繼物語と云ひ、埃嚢抄に世繼の大鏡と云へるは明かに此書を指して世繼と云へるなり。二書倶に古くより同名を稱せしゆへ、爲業作る所の世繼果して何れの書にや、今得て知る可らす。宜く伴氏の説に從ひ作者未詳を以て其實を得たりとすへし。此書文コ天皇の嘉祥三年より後一條天皇の萬壽三年に至る一百七十六年の事跡を擧け、帝王と大臣に分ち録し、末に賀茂・八幡臨時祭の事を記して編を終ふ。序文あり、假りに二人の翁・一人の(*ママ)嫗を設け、其見聞する所の語録とせしは例の寓言なり。水鏡・増鏡も亦假託の言を設けて端獅開く。皆此書に倣へる耳。屋代弘賢氏校本あり、其家藏は散逸せり。今一本を小中村氏に傳ふ。是文政中川崎重恭なる人、其師平田篤胤氏の旨を受け謄寫せしものなり。借て活字本を校訂するを得たり。またK川氏に乞ひて、其所藏たる狩谷望之氏・C水M臣氏の校本に就き、水府本・淺草文庫本を以て對校せられし本、及ひ塙氏古寫本を借て再校し、其異文を記入せり。屋代氏校本、水増二鏡の自筆本を用ひて校せしものと例を異にしや字符號を記注せり。是其カ號狩谷氏、シ號C水氏、ス號水府本、フ號文庫本、ハ號塙氏古寫本、ル號流布本と別つ爲なり。行間又ク字符號を付したるはK川眞ョ氏の解釋なり。頭書の考は同君と小中村C矩君に請て爲す所、及ひ塙氏古寫本の説其氏名なきは屋代氏の記入する所なり。
校訂者 近藤瓶城 識


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(巻一・二目次)

王代記 自文コ 至後一條
臣家
冬嗣大臣 【五條后のてゝなり。】  良房大臣
良相大臣              長良中納言 【二條后のてゝ也。】
昭宣公 基經             時平大臣 基經太カ


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(巻一)

さいつころ〔萬壽二年五〕雲林院のぼだいかうにまうでゝ侍しかば、れいの人よりはこよなくとしおい、うたてげなるおきなふたり、をむなときあひておなじところにゐぬめり。あはれにおなじやうなるものゝさまかなと見侍しに、これらうちはらひみかはしていふやう、年ごろいかでむかしの人にたひめんして、いかで世の中の見きく事どもをきこえあはせん、この只今の入道殿下〔道長〕の御有さまをも、申あはせばやとおもひしに、あはれにうれしくもあひ申たるかな。今ぞ心やすくよみぢもまかるべき。おぼしき事いはぬはげにぞはらふくるゝ心ちしける。かゝればこそむかしの人は、ものいはまほしくなれば、あなをほりてはいひいれ侍りけめと覺え侍る。返/\うれしく對面したるかな。さてもいくつにか成給ひぬるといへば、今ひとりのおきないくつといふもさらに覺え侍らず。たゞしをのれは故太政のおとゞ貞信公〔忠平〕の藏人少將と申しおりの、事ねりわらはおほいぬ丸ぞかし。主は其御時の母の后の宮〔穩子〕の御方のめしつかひかう名のおほやけのよつぎとぞいひ侍しかしな。さればぬしのみとしはをのれにはこよなくまさりたてまつらんかし。みづからはこわらはにてありし時、主は二十五六のおのこにてこそはいませしかといふめれば、よつぎしか/\さ侍し事也。扨もぬしのみなはいかにぞやといふめれば、故太政大臣殿〔貞信公〕にて元服つかうまつりし時、きむぢが姓はなにぞとおほせられしかば、なつやまとなむ申と申しを、やがてしげきとなむつけさせ給へりしなどいふに、いとあさましくなりぬ。たれもすこしよろしき物どもはみおこせゐよりなどしけり。年卅計なるなまさふらひめきたるものゝ、せちによりていていとけうある事いふ老者たちよな。さらにこそしむせられねといへば、おきなふたりみかはしてあざわらふ。しげきとなのるがかたさまに見やりて、ぬしはいくつといふことおほえすといふめり。此おきなどもはおぼえ給やとゝへば、さらにもあらず一百五十さいにぞ今年〔萬壽二〕はなり侍りぬる。さればしげきは百四十にはおよびてさふらふそ(*ママ)めとやさしく申也。をれはみつのをの御門〔C和〕のおはしますとしの正月のもちの日生れて侍れば、十三代にあひたてまつりて侍るなり。けしうはさふらはぬとし也。なまごとゝ人/\おぼさじ。されどちゝがなまがくしやうにつかはれたいまつりて、げらうなれどもみやこほとりといふも侍れば、めを見給へてうぶぎぬにかきをきて侍りける、いまだ侍り。丙申のとし〔貞觀十八〕に侍りといふも、げにときこゆ。今ひとりに、なをわおきなのとしこそきかまほしけれ。生れけんとしはしりたりや。それにていとやすくかぞへてむといふめれば、まことのおやにもそひ侍らず。こと人のもとにやしなはれて、十二三までそひて侍しかば、はか/\しうも申さず。たゞわれは子うむわざもしらざりしに、しうの御つかひにいちへまかりしに、又わたくしにもぜに十貫を持て侍りけるに、にくげもなきちごをいだきたる女の、これ人にはなたむとなんおもふ。こを十人までうみて、これは四十たりのこにて、いとゞ五月にさへむまれてむつかしきなりといひ侍りければ、此たるぜにゝかそへてきにしなりと。姓はなにとかいふととひ侍りければ、なつ山とは申けるとて、十二三にてぞおほき大殿〔貞信公〕にはまいり侍しなといひて、さてもうれしくたひめむしたるかな。ほとけの御しるしなんめり。としごろこゝかしこの説經とのゝしれど、何かはとてまいる事もし侍らす。かしこくも思ひたつてまいり侍りにけり。うれしき事とて、そこにおはせるはそのおりの女人にやみえますらんといふめれば、しげきがいらへいてさも侍らす。それははやうせ侍にしかば、是はそのゝちあひそひて侍るは(*ママ)らはべなり。さては閣下はいかにといふめれは、よつぎがいらへそれは侍し時のなり。けふももろともにまいらんと出たち侍りつれど、わらはやみをしてあたりひに侍りつれば、くちをしうこえまいり侍らずなりぬると、あはれにいひかたらひてなくめれど、なみたおつとも見えす。 かくて講師まつほとに、われも人もひさしうつれ/\なると(*ママ)、このおきなどものいふやう、いてさう/\しきにいざ給へ、むかしのものがたりしてこのおはさう人/\に、さばいにしへのよはかくこそはありけれときかせ奉らんといふめれば、いまひとりしか/\いとけうある事なり。いておほえ給へ。とき/\さるへき事のさしらへ(*ママ)、しげきもうちおほえ侍らんかしといひて、いはん/\と思ひたるけしきども、いつしかときかまほしくおくゆかしき心ちすると、そこらの人おほかりしかど、ものはか/\しくきゝわきみゝとゞむるもあらめど、人めにあらはれてはこのさかゆ(*ママ)らひぞよくきかんとあどうつめりし。 よつぎがいふやう、世はいかにけふあるものぞや。さりともおきなこそせう/\の事はおほえ侍らめ。むかしさかしき御門の御まつりごとのおりは、國のうちに年おいたる、翁をむなやあるとめしたづねて、いにしへのおきてのありさまをたづねとはしめ給てこそと、ころう(*ママ)する事をきこしめし合て世おまつりごとはおこなはしめ給ひけれ。さればおいたる身はいとかしこきものに侍り。わかき人たちおぼしなあなづりそとて、くろがい〔K柿〕のほねのこゝのつあるに、きなるかみはりたるあふきをさしかくしてけしきたちわらふほども、さすがにおかし。まめやかにはよつきが申さんとおもふことはこと/\かは。たゝ今の入道殿下〔道長〕の御ありさまの、よにすくれておはしますことを、道俗男女の御前にて申さむと思ふがいと事おほくなりて、あまたのみかどきさき、また大臣公卿の御うへをつゞら(*ママ)べきなり。所の中にさいはひ人におはします、この御ありさま申さむとおもふほどに、世の中の事のかくれなくあらはるべき也。つてにうけ給はれば、法花經一部をときたてまつらんとてこそ、まづ四けうをばとき給けれと。それをなつけて五時教とはいふにこそはあんなれ。しかのことくに入道殿の御さかへを申さむとおもふほとに、よけうのとかるゝといひつべしなといふもわさ/\しうこと/\しうきこゆれど、いでやさりともなにばかりの事をかと思ふに、いみしうこそいひつゞけ侍しか。 世間の攝政關白と申、大臣公卿ときこゆる、いにしへ、今の時の入道殿の御ありさまのあうにこそはおはしますらめとそ、いまやうのちごどもはおもふらんかし。されどそれさもあらぬ事なり。いひもていけばおなじたねひとつすぢにぞおはしあれど、かどわかれぬれば、人/\の御心もちゐも、又それにしたがいてこと/\になりぬ。 このよはじまりてのち、みかどはまづ神の世七代をゝき奉りて、神武天皇をはじめ奉りて當帝まで六十八代にぞならせ給にける。すべからくは神武天皇をはじめ奉りて、つぎ/\の御門の御しだいを覺え申べきなり。しかりといへどもそれはいときゝみゝどをければ、たゞちかきほどより申さむと思ふに侍り。文コ天皇と申す御門おはしましき。其みかどよりこなた、今の御門まて十四代にぞならせ給にける。世をかそへ侍れば、そのみかと位につかせ給ふ嘉祥三年庚午歳よりことし〔乙丑〕までは、一百七十六年計にやなりぬらん。かけまくもかしこききみのみなを申すは、かたじけなくさふらへどもとていひつゝけ侍りき。
一五十五代 【或本云/田邑帝申】
文コ天皇と申ける御門は、仁明天皇の御第一皇子なり。いみなはみちやす〔道康〕。御母は太皇大后藤原順子と申き。その后〔古子〕左大臣贈正二位太政大臣冬嗣のおとゞの御むすめなり。このみかど天長四年丁未八月にむまれ給て、みかどあきらかに能人をしろしめせり。承和九年壬戌二月廿六日御元服。同年八月四日東宮にたゝせ給ふ。御年十六。仁明天皇もとおはする東宮〔恒貞〕をとりて、このみかどを承和九年八月四日東宮に奉らせ給へるなり。いかにやすからすおぼしけんとこそおぼえ侍。嘉祥三年庚午三月廿一日位につかせ給。御年廿四。さて世をたもたせ給事九年天安二戊〔寅〕の歳八月廿七日にうせさせ給ぬ。御歳卅二。みさゝきたんばにあり。御母の后十九にてそこのみかどをあ(*ママ)み奉り給ふ。嘉祥三年庚午歳四月に后にたゝせ給ふ。御歳四十三。齋衡元年甲戌皇后宮にあがりゐ給ふ。貞觀三年辛巳二月廿九日御出家。【灌頂せさせ給へり。】
同八年丙戌正月七日皇太后宮にあかりゐ給ふ。是を五條后と申す。伊勢物語に、業平の中將よひ/\ごとに打もねなゝんとよみ給ひたるは、此宮の御事のやうにさふらふめる。いかなる事にか、二條の后〔高子〕にかよひ申されけるあひだの事とぞうけ給りおよぶ也。はるやむかしのなども五條の后の御いへと侍るは、わかぬ御中にてそのみやにやしなはれ給へれば、おなしところにおはしけるにや。
一五十六代 【このみかと御かたちめてたく/御心いつくし。】
つぎのみかどC和天皇と申ける、御いみな人やす、文コ天皇の第四の御子也。御母明子【皇太后宮】と申き。太政大臣良房おとゞの御むすめ也。このみかどは嘉祥三年庚午三月廿五日、母かたの御をぢおほきおとゞ〔忠仁公〕の、小一條のいへにて、ちゝみかどの位につかせ給て五日といふ日生れ給へりけんこそ、いかにおりさへはなやかにめでたかりけんとおぼえ侍れ。これたかの御子の東宮あらそひし給へりけんもこの御事とこそおほゆれ。やがて生れたまへる歳の十一月廿日、東宮にたち給て、天安二年戊鉛ェ月廿七日御歳九歳にて位につかせ給也。貞觀六年正月七日御元服【元日御元服なり。】御歳十五なり。世をしらせたまふ事十八年【染殿院にておりさせ給ふ。貞觀十八年十一月廿九日。元慶四年十二月四日うせうせ(*ママ)させ給ふ。御歳卅一。】元慶三年五月八日御出家なり。みつのをの御門と申。この御すゑぞかし、いまの世に源氏の武者のぞうは。それもおほやけの御かためとこそはなるめれ。御母三十三にてこのみかとをうみ奉り給へり。貞觀六年甲申正月七日皇后宮にあかり給。きさきの位にて四十一年おはします。染殿の后と申。その時の御持僧には智證大師におはします。【天安二年/つちのえ】とらの歳八月廿七日にぞうせさせ給ふ。みさゝきたむらといふところにあり。御ものゝけのかはざりけるこそ心うくは今生寇〔K云今生寇は物怪のことなり。/小云今昔物語に金剛山に住ける聖人鬼となりて染殿后を惱し奉しことを載たり。此れをある書に紺鬼とも載たれば、こゝの今生寇は紺鬼の謬なるへし。─頭注〕なり。天安二年に唐よりかへり給へり。
一五十七代 【この御門ものくるはしくおはしましたりといへる本あり。】
つぎのみかと陽成天皇と申き。御いみなさだあきら、C和天皇第一の皇子なり。御母皇太后宮高子と申き。贈太政大臣長良のおとゞの御むすめなり。このみかど貞觀十年つちのへね十二月十六日染殿院にて生れ給へり。同十一年つちのとのうし二月一日二歳にて東宮にたゝせ給て、同十八年丙申十一月十一日に位につかせ給ふ。御歳九歳。元慶六年壬艶ウ月二日御元服。御歳十五。世をしらせ給ふ事八年。【元慶八年二月四日おりさせ給ふ。御歳十七。二條院におはしましけるとそ。】のかせ給ふて六十五年なれば、八十一にて天暦二年九月廿九日にかくれたまふ。御法事の願文に釋迦如來の一年のこのかみとはつくられたるなり。ちゑふかく思ひよりけんほといとけうあれど、佛の御歳よりは御歳たかしといふ心の、後世のせめとなんなれるとこそ、人の夢にみえけれ。御母后C和の御門よりは九年の御あねなり。廿七と申しとし、この陽成院をはうみ奉りたるなり。元慶元年正月に后にたち給ふ。中宮と申。御とし卅六。同六年壬寅正月七日皇太后宮にあがり給ふ。御とし四十一。この宮〔高子〕のみやづかへしそめ給けんやうこそおぼつかなけれ。いまだよごもりておはしけるとき、さい中將〔業平〕のしのびてね(*ママ)てかくし奉りたる(*ママ)けるを、御せうとの君たち基經大臣、國經大納言なんどのわかくおはしけんほどの事なりけんかし、とりかへしにおはしたりけるをり、つまもこもれり我もこもれりとよみ給たるはこの御事なれば、すゑのよに神よの事もとい申いてけるぞかし。さればよのつねの御かしづきにては御らんしそめられ給はずやおはしましけん(*ママ)おぼえ侍る。もしはなれぬ御中にて染殿のみやにまいりかよひなとし給けむほどの事にやとぞおしはからるゝ。およばぬ身にかやうの事をさへ申すは、いとかたじけなき事なれど、これはみな人のしろしめしたることなれば、いかなる人かは、このころ古今・伊勢物語などおぼえさせ給はぬはあらんずる。見もせぬ人の戀しきはなど申事も、この御なが(*ママ)らひのほどとこそはうけ給はれ。すゑの世までかきをき給けむおそろしきすき物なりかしな。いかにむかしは中/\にけしきある事もおかしきこともありけるものとて(*ママ)とうちわらふ。けしきことになりていとやさしげなめり。二條の后〔高子〕と申はこの御事なり。業平中將のよひ/\ごとにうちもねなゝんとよみ給たるも、春やむかしのなども、この御事なめり。
一五十八代
つぎのみかど光孝天皇と申き。御いみなはときやす。仁明天皇の第三の王子なり。御母ぞう〔贈〕皇太后宮障子と申き。贈太政大臣總繼大臣の御むすめなり。此御門淳和天皇の御時、天長八年辛亥東六條家にてむまれ給。御おやのふか草のみかどの御時、承和十三年丙寅正月七日四品し給。御歳十六。嘉祥三年庚午五月中務卿に成給。御歳廿。仁壽元年辛未十一月十一日三品にのぼり給。御歳廿二。貞觀六年甲申正月十六日上野大守かけさせ給。御歳卅四。同八年丙戌正月十三日遷兼す大宰帥、御歳三十六。同十二年庚寅二月七日二品にのぼり給。御歳四十。同年上野大守。同十八年丙申二月廿六日式部卿にならせ給。御歳四十六。元慶六年壬艶ウ月七日一品にのぼらせ給。御歳五十二。同八年甲辰二月四日位につき給ふ。御歳五十四。世をしらせ給ふ事四年。小松のみかどゝ申す。この御ときにふぢつぼのうへの御つぼねのくろとは、あきたるときゝ侍るはまことにや。【或本に仁和三年八月廿六日うせさせ給ふ。御とし五十六。】
一五十九代 【このみかとなりひらの中將とすまひとり給てまけてかうらんやふれたる事あり。おもひ人の時也。】
つぎのみかと亭子のみかどゝ申き。小松のみかとの第三の王子なり。御いみなさだみ。御母皇太后宮いみな班子と申き。二品式部卿贈一品太政大臣中野の親王〔桓武御孫〕の御女也。このみかど貞觀八年丙戌五月五日生れ給。元慶八年甲辰四月十三日からいしもの〔小云伴信友の考に、からいしものはけむしと有けんを書誤しならんといへり。屋代本に源氏とあるをみれは此説當れり。大鏡裏書云元慶八年四月十三日賜源朝臣姓。年十八。〕になり給ふ。御歳十九。王ぐべうなどきこえて、天上人にておはしましける時、天上のごいし〔倚子〕のまへにて、なりひらの中將とすまひとらせ給けるほどに、こいしに打かけられてかうらんおれにけり。そのおれめいまに侍る也。仁和三年戊申八月廿六日東宮にたゝせ給て、同し日位につかせ給。御歳廿三。よをしらせ給ふ事十年、寛平元年つちのとのとり十一月廿一日つちのとりのとりの日、かもの臨時祭はじまる事、この御ときよりなり。つかひ右近衛中將時平【きたのゝ御かたき本院のおとゝの御事なり。】昌泰元年つちのえむま四月十日出家せさせ給ふ。此御門いまた位につかせ給はざりける時、十一月廿よ日の程にかもの宮しろのへむにたかつがひあそびありきけるに、かものみやうじんたくせんし給ひけるやう、此へんに侍るおきなどもなり。はるはまつりう(*ママ)侍り。ふゆのいみじくつれ/\なるに、まつり給はらむと申給へば、そのときにかものみやうじんのおほせらるゝとおほえさせ給て、をのれはちからおよひ候はす。おほやけに申させ給ふべき事にこそさふらふなれと申させ給へば、ちからをよばせ給ぬべきなればこそ申せ。いたくきやう/\なるふるまひなさせ給ふぞ(*ママ)。御申やうありとて、ちかく也侍りとてかいけつやうにうせ給ぬ。いかなる事にかと心えすおぼしめす程に、かく位つかせ給りければ、りんじのまつりせさせ給るぞかし。かもの明神のたくせんしてまつりせさせ給へと申させ給ふ日、とりの日にて侍りければ、やがてしも月のはてのとりの日臨時の祭は侍るぞかし。あまつあそびのうたは、としゆきの朝臣のよみけるそかし。
ちはやふるかものやしろのひめこまつ
よろつ世ふともいろはかはらし
これは古今にいりて侍り。人みなしらせ給へる事なれどもいみしくよみ給へるぬしかな。いまにたえすひろこらせ給へる御すゑ、みかどゝ申すともいとかくやはおはします。位につかせ給て二年といふにはじまれり。つかひ右近中將時平朝臣こそはし給けれ。寛平九年七月五日おりさせ給ふ。昌泰三年つちのとのひつじ十月十四日出家せさせ給ふ。御名こむがうかくと申き。承平元年七月十九日うせさせ給ぬ。御歳六十六。肥前のぞうたちはなのよしとし〔良利〕殿上にさふらひける。入道すけの御ともにこれのみつかまつりける。さればくまのにてもひねといふ所にて、たひねの夢に見えつるはともよむぞかし。人/\なみたおとす、ことはりにあはれなる事かな。このみかどのたゞ人になり給ほどなむどおほつかなし。よくもおほえ侍らず。御母とうゐんの后〔班子女王〕と申。長野の親王は桓武天皇の御孫なり。このみかどの陽成院の御時殿上人にて神社の行幸にはまひ人などせさせ給へり。位につかせ給て後、やうけいゐんをとほりて行幸ありけるには、たうだいは下人にはあらずや。あしくもとほるかなとこそおほせられけれ。
一六十代 【いく爲聖代、桓算事、北野御事/をそよの中に申つたへなめる(*ママ)。】
つぎのみかど醍醐天皇と申き。御いみなあつ人。是亭子太上法皇の第一王子におはします。御母贈皇太后宮温子と申き。内大臣高藤【此人は勸修寺の氏のはしめ。】このおとゞの御女なり。このみかど仁和元年乙巳正月十八日に生れ給。寛平五年みづのとのうし四月二日に東宮にたゝせ給。御とし九歳。同七年乙卯正月十九日十一歳にて御元服。又同九年丁巳七月三日位につかせ給。御歳十三。やがてこよひよるのおとゞよりにはかに御かうふり奉りてさしいでおはしましたりける。御手づからわざと人の申はまことにや。さてよをたもたせ給事卅四年。この御歳ぞかし、むらかみが朱雀院かむまれおはしましたる御いかのもちね(*ママ)殿上にいださせ給へるに、これひらの中將和謌つかうまつるはとておほゆめり。
〔玉葉賀〕ひとゝせにこよひかそふる今よりは
もゝとせまての月かけを見ん
とよむぞかし。御かへしみかどのしおはしましけん、かたしけなさよ。
〔同上〕いはひつることたまならはもゝとせの
後もつきせぬ月をこそ見め
御しうなと見給ふるこそ、いとなまめかしうかやうのかたさへおはしましける。【延長八年九月廿五日おりさせ給。おなし八日うせさせ給。みさゝき山しなにあり。の山しなといふ、此ときそかし。】
一六十一代 【將門純友が事、この時也。】
朱雀院天皇と申き。御いみなひろあきら。これだいこのみかどの御十一の王子なり。御母皇太后宮穩子と申き。太政大臣基經おとゞの四つのむすめなり。このみかど延長元年癸未四月廿四日むまれさせ給。同三年乙酉十月廿一日東宮にたち給ふ。御歳三歳。同八年庚寅九月廿二日位につかせ給ふ。御歳八歳。承平七年正月四日御元服。御歳十五。よをもたせ給事十六年。【ある本に廿四にて御すけ、天暦六年八月十五日うせ給ふとあり。御歳卅七。みさゝきとりへのにあり。】八幡の臨時の祭は此御時よりあるぞかし。このみかとむまれさせ給ては、御かうしもまいらず、よるひる火をともして、御帳の内にて三まておほし奉らせ給き。北野におぢ申させ給てかくありしぞかし。このみかどむまれおはしまさずは、藤氏のさかへいとかうしもおはしまさゞらまし。いみじき折ふし生れさせ給へりしぞかし。位につかせ給て、まさかどがみだれいできて、御かれにてぞと聞え侍りし。この臨時の祭はそのあづまあそびの歌、つらゆきのぬしのよみたりし。
松もおゐまたもかけさすいはしみづ
ゆくすえとをくつかへまつらん
一六十二代 【天暦聖主此也。殿上有和歌會。】
つぎのみかどむらかみの天皇と申き。御いみななりあきら。これだいこのみかどの十四王子也。御母后〔穩子〕朱雀院の御おなじはらにおはします。このみかど延長四年丙戌六月二日むまれさせ給。【桂方坊にて】生れさせ給へるとそ。天慶三年庚子二月五日、御元服御歳十五。同七年甲辰四月廿日に東宮にたゝせ給ふ。御とし十九。同九年丙午四月廿九日位につかせ給御歳廿一。よをしらせ給事廿一年。【ある本に康保四年五月廿五日うせさせ給御とし四十二。御みさゝきむらかみ。】御母后延喜三年癸亥前坊〔保明〕生れさせ給、御歳十九。同廿年女御宣旨くだり給ふ、御歳卅六。同廿三年みづのとのひつじ、朱雀院むまれさせ給。同四月廿九日后の宣旨かうふらせ給。御歳三十九。やがてみかど〔朱雀〕うみ奉り給。おなじし〔四〕月に后にもたゝせ給けるにや。四十にて村上はむまれさせ給ふ(*ママ)けり。后にたゝせ給ふ日、前坊の御ことを宮のうちにゆかしがりて申いづる人もなかりけるに、かの御めのとこに【御めのとも】大輔のきみといひける女房のかくよみて出したりける。
わひぬれは今はた物を思へとも
こゝろににぬはなみたなりけり
又御法事はてゝ人/\まかりいつるひも、かくこそはよまれたりけれ。
〔續古今十七〕いまはとてみ山をいつるほとゝきす
いつれの里になかんとすらん
五月の事に侍りけり。げにいかにとおば(*ママ)ゆるふし/\、すえの事までつたはるばかりのこというに侍るかしな。さて前東宮〔保明〕におくれ奉りて、かぎりなくなげかせ給ふ。同じとし朱雀院むまれさせ給ふ。われ后にたゝせ給けんこそさま御なげき御よろこひ、かきまぜたる心ちつかうまつれ。よのおほきさき〔穩子〕とこれを申す。
一六十三代 【此みかとに元方のものゝけおはしまして、あさましかりしとある本に。】
つぎのみかどは冷泉院天皇と申き。御いみなのりひら、是むらかみ天王の第二の王子なり。御母皇后宮安子と申す。右大臣師輔のおとゞの第一のむすめ也。此御門天暦四年庚戌五月廿四日右衞〔在衡のおとゞのいまだ從五位下にて備前介ときこえまつりしおりの、五條の家にて生れさせ給へり。同年七月廿三日東宮にたゝせ給ふ。應和三年癸亥二月廿八日御元服。御歳十四。康保四年丁卯五月廿五日十八にて位につかせ給ふ。よをたもたせ給ふ事三年。寛弘八年辛亥十月廿四日御歳六十にてかくれおはしましけるを、三條院位につかせ給としにて大嘗會などののひけるをぞ、おりあしとよの人申ける。
一六十四代 【圓融院。寛和元年八月廿九日出家。歳卅七。御名金剛法。同二年三月廿二日於東大寺受戒。正暦二年二月十二日崩。(*一字空白。「御」か。)年卅二。同月十九日葬圓融寺。北原量御骨於村上陵傍。】
つぎのみかど圓融院天皇と申き。御いみなもりひら。是村上のみかどの第五王子也。御母〔安子〕冷泉院の同し腹におはします。このみかど天コ三年己未三月二日むまれさせ給。此御門の東宮にたゝせ給ほどは、いときゝにくゝいみじき事どもこそ侍れな。これはみな人のしろしめしたる事なれば、事もながし、とゞめ侍りぬ。安和二年己巳八月十三日にこそは位につかせ給けれ。御歳十一にて(*ママ)。さて天祿三年壬申正月三日御元服御歳十四。よをたもたせ給事十五年。惱ありて御出家、法名こんがうほうと申き。正暦二年二月十二日うせさせ給。御歳三十三。母后御歳二十三四にてうちつづき、このみかど冷泉院とうみ奉り給へり。【御なかに爲平の宮むまれ給へり。うちつゝきは此本のひか事也。】いとやむごとなき御すくせなり。御母かたのおほぢ出雲守從五位下藤原のつねくにといひし人なり。すゑのよにはさうせさせ給てこそは贈三ゐし給しか。い(*ママ)さぬ跡なれど、このよのひかりはいとめいほくありかし。なかきさきと申す此御事也。女十宮〔選子〕うみ奉り給たびかくれさせ給へりし。御なげきこそいとかなしくうけ給はりしか。村上の御日記御らんじたる人もおはしますらん。ほの/\つたへうけ給はれども、をよばぬ心にもいとあはれにかたしけなうさふらふな。そのとゞまりおはします女宮こそはおほ齋院よ。
一六十五代 【諱師貞。寛弘五年二月八日崩。四十一。】
つぎのみかど花山天皇と申き。御いみなもろさた。冷泉院第一王子なり。御母贈皇后宮懷子と申す。太政大臣伊尹の第一女なり。このみかど安和元年つちのえたつ十月廿六日、母かたの御おほぢ〔謙コ公〕一條の御家にてむまれさせ給ふとあるは世尊寺のことにや。其日は冷泉院御時の大甞會の御けいあり。同二年乙巳八月廿三日東宮にたゝせ給御歳二歳。天元五年壬午二月十九日御元服せさせ給御歳十五。永觀二年甲申八月廿八日位につかせ給御歳十七。寛和二年丙戌六月廿三日夜あさましく候し事は、人にもしられさせ給はで、みそかに花山寺におはしまして御出家入道せさせ給へりしとそ。御とし十九。よをたもたせ給事二年。其後廿二年はおはしましき。あはれなる事、おりおはしましけるよは、ふちつほのうゑの御つぼねの小どよりいでさせ給けるに、有明の月のいみじうあかゝりければ、見證にこそありけれ、いかゞあるべからむとおほせられけるを、さりとてとまらせ給べきやう侍らず。神璽寳劒わたり給ぬるにはと、あはたのおとゞさはがし申給けるとは。又御門出させ給はざりけるさきに、しんし・ほうけん手づからとりて東宮の御方に渡し奉り給てけれは、かへりいらせ給はん事はあるまじくおほして、しか申させ給けるとぞ。さやけきかげをまばゆくおぼしめしつる程に、月のかほにむら雲のかゝりてすこしくらがりゆきけれは、わが出家は成就するなりけりとおほせられて、あゆみいてさせ給程に、こき殿の女御の御ふみの日ころやりのこして、御身もはなたず御らんじけるを、おぼしめしいでゝ、しばしとてとりにいらせ給ける程ぞかし、あはた殿いかにかくはおぼしめしなりぬるぞ。たゞ今すぎなばをのづからさはりとていでまうできなんとそらなきし給ひけるは。さてつちみかどよりひんがしさまにおはしますに、リ明のみいへのまへをわたらせ給へば、みづからのうへにて手をおびたゝしくはた/\とうつなる。みかどおりさせ給とみゆる大變ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。まいりて奏せん。車にさうぞくとらせよといふこゑきかせ給けんは、さりともあはれにはおぼしめしけんかし。かつ/\、しき神一人だいりにまいれと申ければ、めには見えぬものゝ、とおしあけていづ。うしろをや見まいらせけむ、たゞ今これよりすぎさせおはしますといらへけりとかや。其家はつちみかどまちぐち〔町口〕なれば、御みちなりけり。花山寺におはしましつきて御ぐしおろさせ給てのちにぞ、あはた殿はまかりいでゝ、おとゞ〔兼家〕にもかはらぬすがた今一度みえ、かくとあんないも申て、かならすまいり侍らんと申給ひければ、あはれにかなしきことなりな。ひごろよく御弟子にてさふらはんとちぎり、すかし申給けんか、おそろしさよ。東三條殿〔兼家〕はもしさる事やし給ふとあやうさに、さるべくおとなしき【校本人々何がしかゞしといふいみじき】源氏の武者たちをこそ御をくりにそへられたりけれ。京のほどはかくれてつゝみの渡りよりぞうちいてまいりける。てらなどにては、もしをして人などやなし奉るとて、一尺許のかたなどもをぬきかけてまもり申けるとぞ。【ある本に寛弘五年二月八日うせさせ給ふ。御とし四十一。】
一六十六代
つぎのみかど一條院天皇と申き。御いみなやす人。これ圓融院の御門第一の王子也。御母皇太后宮詮子と申き。是太政大臣兼家のおとゞの第二の女なり。このみかど天元三年庚辰六月一日兼家のおとゞの東三條の家にて生れさせ給ふ。東宮にたゝせ給事、永觀二年甲申八月廿八日也。御歳五歳。寛和二年丙戌六月廿三日位につかせ給ふ。御歳七歳。永祚二年庚寅正月五日御元服御歳十一。よをたたせ給事廿五年。御母〔詮子〕は十九にてこのみかどをうみ奉り給ふ。東三條女院と是を申す。この御母つのかみ藤原仲正のむすめ也。【ある本に寛弘八年六月十三日おりさせ給。同月の廿二日うせさせ給ふ。御とし卅二。】
一六十七代
つぎのみかど三條院のみかどゝ申き。御いみないさだ〔居貞〕。これ冷泉院第二の王子なり。御母贈皇后宮超子と申き。太政大臣兼家の第一の女子なり。このみかどは貞〔永〕觀元年丙子正月三日生れさせ給ふ。寛和二年丙戌七月十六日東宮にたゝせたまふ。おなじひ御元服なり。御歳十一。寛弘八年辛亥六月十三日位につかせ給ふ。御とし卅六。よをたもたせ給ふ事五年。院にならせ給て、御目を御らんぜさりしこそいといみじかりし。ことに人のみたてまつるには、いさゝかかはらせ給ふ事おはしまさゞりければ、その事のやうにぞおはしましける。御まなこなともいときよらにおはしますばかり。いかなるおりにかとき/\は御らんずる時もありけり。みすのあみをのみゆるなどもおほせられて、一品宮〔陽明門院禎子〕ののぼらせ給へりけるに、弁のめのとの御ともに候かざしぐしを左にさゝれたりければ、あゆ(*ママ)よなどくしはあしくさしたるぞとこそおほせられけれ。この宮をことのほかにかなしうしたてまつらせ給て、御ぐしのいとおかしげにおはしますをさぐり申させ給ては、かくうつくしうおはするみかど(*ママ)をえみ奉らぬこそ心うけれ、くちおしけれとてほろ/\となかせ給けるこそあはれに侍れ。わたらせ給ふたひごとにはさるべき物をかならす奉らせ給ふ。三條院の御券をぐしてかへりわたらせ給へりけるを、入道殿〔道長〕御らんじてかしこくおはしける宮かな。おさなき御心にふるほぐとおぼして打すてさせ給はで、もて渡らせ給へるよと興じ申させ給ける、まさなくも申させ給ふかなと、御めのとたちわらひ給ける。冷泉院も奉らせ給けれど、むかしよりみかどの御領までのみさふらふところに、今更にわたくしの物になり侍らん、便なき事、おほやけものにて候べきなりとてかへし申させ給ければ、代々のわたり物にて、朱雀院のおなじ事侍るへきにこそ。この御めのためにも、よろづにつくろひおはしましけれど、そのしるしあることもなきいといみじき事にて、もとより御風をもくおはしますと、くすしともの大小寒の水を御ぐしにい〔沃〕させ給へと申ければ、こほりふたがりたる水をおほくかけさせ給けると、いといみじくふるひわなゝかせ給ひて、御いろもたがひおはし給ひたりけるなん、いとあはれにかなしく人々見まいらせ給けるとぞうけ給はりし。御やまひにより金掖丹といふ藥をめしたりけるを、その藥くひたる人はかくめをなんやむなど人は申しかど、まことには桓算供奉の御ものゝけにあらはれて申けるは、御くびにのりいて左右のはねをうちおほひ申たるに、うちはぶきうごかすおりにすこし御らんするなりとこそいひ侍りけれ。御位さらせ給し事、おほくは中堂にのぼらせ給はんとなり。さりしかどのぼらせ給てさらにその驗おはしまさざりしこそくちおしかりしか。やがておこたらせおはしまさずとも、すこしのしるしはあるべかりし事よ。さればいとゞやまの天く〔狗〕のしたてまつるとこそ、さま/\にきこえはべめれ。うづまさにもこもらせ給へりき。さて佛の面よりひんがしのひさしにくみれ〔組入〕はせられたるなり。御えぼうしせさせ給へりけるは、大入道殿〔兼家〕にこそいとよくにたてまつり給へりけれ。御心さへいとなつかしうおひらかにおはしまして、よの人いみじうこひ申めり。齋宮〔當子〕のくだらせ給わかれの御くしさゝせ給ては、かたみに見かへらせ給はぬ事を思ひかけぬと、此院はむかせ給へりし、あやしとは見奉りし物をとぞ入道殿〔道長〕おほせられける。【寛仁元年五月九日うせさせ給。御歳四十二。】
一六十八代
つぎのみかど當代〔當代は後一條天皇なり〕。御いみなあつなり。これ一條天皇御第二王子也。御母いまの入道殿下【道長】の第一の御むすめなり。皇太后宮彰子〔上東門院〕と申す。たゞ今はたれかはおぼつかなくおぼし思人の侍らん。されどまづすべらぎの御事を申さまにたがへ侍らぬなり。寛弘五年戊申九月十一日土御門殿にて生れさせ給ふ。寛弘八年辛亥六月十三日東宮にたゝせ給ひき。御歳四歳。長和五年丙辰五月廿九日位につかせ給き。御歳九歳。寛仁二年戊午正月三日御元服御歳十一。位につかせ給て十年にやならせ給らむ今年萬壽二年乙丑とこそは申めれ。おなじみかどゝ申せども、御うしろみおほくたのもしくおはしまし、御おほぢにてたゞ今の入道殿下出家せさせ給へれど、よのおや一切衆生一子のごとくはぐゝみおはします第一の御おぢ〔ョ道(*ママ)にて、たゞ今の關白左大臣一天下をまつりごちておはすべき。つぎの御おぢ〔ヘ道(*ママ)と申は内大臣にて左大將かけておはす。【校本つぎの御おぢと申は大納言】あるひは東宮大夫〔ョ宗〕、中宮權大夫〔能信〕、中納言〔長家〕など樣/\にておはします。かくのことくにおはしまさせは(*ママ)御うしろみおほくも、むかしも今も、みかどかしこしと申せど、臣あまたしてかたふけたてまつるには、かたふき給もの也。さればたゞ一天下はわが御うしろみのかぎりにておはしませば、いとたのもしくめでたき事なり。むかし一條の院の御なやみのおりおほせられけるは、すべからくは次第のまゝに一のみこ〔敦康〕をなむ春宮とすべけれど、うしろみすべき人なきにより、思ひかけず。さればこの宮をばたて/\まつるなりとおほせられけるぞ、此たうだいの御事よ。 げにさる事ぞかし、帝王の御次第は申さすともありぬべけれど、入道殿下の御榮花もなにゝよりひらけ給ぞと思へば、まづ御門后の御ありさまを申なり。うへきはねをおほしてつくろひおほしたてつればこそ、えだもしげりてこのみをもむすべや。しかあればまづ帝王の御つゞきをおぼえて、つぎに大臣の御つゞきはあかさんとなりといへば、おほいぬ丸おとこいで/\いといみじうめでたしや。こゝらのすべらぎの御ありさまをだにかゞみをかけ給へるに、まして大臣などの御事はとしごろやみにむかひたるに、あさ日のうらゝかにさし出たるにあへらむこゝちもするかな。又おきならが家の女どものもとなる、くしげかゞみのかげみえがたく、とかくみもしらすうちはさめてをきたるに、ならひて、あかくみがけるかゞみにむかひて、わが身のかたちを見るに、かつはかげはづかしく、又いとめづらしきにもむかへりや。あなけうありのわざやな。おきな〔大犬丸〕いま十廿年のいのちはけふのびぬる心地し侍りと、いたくゆけするを、みきく人/\おこがましうおかしけれども、いひつゞくる事どもはおろかならずおそろしければ、物もいはでみなきゝいたり。おほいぬまるおとこ、いできゝ給や。うたひとつつくりて侍りといふめれば、よつぎいとかむあることなりとて、うけ給はらんといふ。しげきいとやさしげふ(*ママ)いひいづ。
あきらけきかゞみにあへば過にしも
いまゆくすえのことも見えけり
といふめれば、よつぎいたくかむじてあまたたひ誦じて、うめきて返し、
すへらきのあともつぎ/\かくれなく
あらたに見ゆるふるかゝみかも
今やうのあふひやつはながたのかゞみ、らてんのはこにいれたるにむかひたる心ちし給や。いでやそれはさきらめけど、くもりやすきところあるや。いかにいにしへのこたいのかゝみは、かねしろくて人手ふれねど、かくそあかきなど、したりがほにわらふかほつき、ゑにかゝまほしくみゆ。あやしながらさすがなるけつきて、おかしくまことにめつらかになん。よつぎ〔大宅世繼〕よしなし事よりはまめやかなるここ(*ママ)を申いてん。よく/\たれも/\きこしめせ。けふのかうじの説法は、ぼたいのためとおぼし、又おきならがとくことは、日本紀をきくとおぼす計そかしといへば、そう俗げに説經説法おほくうけ給はれと、かくめづらしき事の給ふ人は、さらにおはせぬなりとて、としをいたるあまほうしども、日たひにてをあてて、しんをなしつゝきゝゐたり。よつぎはいとおそろしきなゝり。眞實の心おはせん人は、などかはづかしとおほさゞらん。世中を見しりうかへたてゝもちて侍翁なり。目にもみゝにもきゝあつめて侍る、よろづの事の中にたゞいまの入道殿下のありさま、いにしへをきゝ、今を見侍にも、二つもなく又三つもなく、ならびなくはかりなくおはします。たとへば一乘法のごとし。御ありさまの返/\めでたきなり。世間の太政大臣・攝政關白と申せと、はじめをはりとめでたき事はえおはしまさぬ事也。法文聖ヘのなかにもの給なるは、うをのこおほかれど、まことのうをとなる事はかたし。奄羅といふうへきあれど、このみをむすふ事かたしとこそはとき給へれ。天下大臣公卿の御中に、このたからの君のみこそ、よにめづらかにおはすめれ。いまゆくすゑもたれの人か、かばかりはおはせん。いとありがたき御事也や。誰もこゝろをひとつにてきこしめせ。よにある事はなに事をかは、みのがしきゝのこして侍らん、このよつぎが申事どもはしも、しり給はぬ人/\およ(*ママ)はすらんとなむ思ひ侍るといふめれば、すべて/\申べきならずとてきゝあへり。 世はしまりてのち大臣みなおはしけり。されど左大臣、右大臣、内大臣、太政大臣と申位天下になりあつまり給へるが、すへてみなおほえ侍り。世はじまりて後いまにいたるまで左大臣三十人、右大臣五十七人、内大臣十二人なり。太政大臣はこの御門のよにはたやすくおかせ給はざりけり。あるひはみかどの御おほぢ、あるひは御門の御をぢぞなり給ふめる。またしかのごとく帝王の御おほぢ・おぢなどにて御うしろ見し給ふ大臣・納言かずおほくおはす。うせ給てのち贈太政大臣になり給へるたぐひあまたおはすめり。さやうのたぐひ七人【或本十人】ばかりやおはすらん。わざとの太政大臣はなりがたく、すくなくぞおはする。神武天皇より三十七代にあたり給へる孝コ天皇と申たるみかどの御代より、ならびに八省・百官・左右大臣・内大臣なりはじめ給へらん。左大臣には安保〔倍のくらはしまろ、右大臣には蘇我のやまだのいしかは丸、これは元明天皇の御おほぢなり。石川丸大臣、孝コ天皇位につき給て元年乙巳大臣になり、五年つちのとのとり春宮〔天智〕にたちてころされ給へりとこそは、是はあまりあがりたる事なり。内大臣には大中臣の鎌子のむらじなり。彼時年號あらざれば月日申にくし。又卅九代にあたり給へる御門天智天皇こそははじめて太政大臣をはなり給へりけれ。それはやがてわか御おとゝの王子におはしける、大友王子なり。正月に太政大臣になり給へり。天智天皇十年二月三日うせ給てのち、大友の王子われ位につかむとてし給ひしに、六月廿六日此王子をころしておほみの王子位につき給て、天武天皇と申給き。よをしらせ給事十五年、神武天皇より四十一代にあたらせ給ふ。持統天皇又太政大臣にたけちの王子をなし給へり。天武天皇の王子なり。此二人の太政大臣はやがてみかどゝ成給へり。高市王子大臣ながらうせ給にけり。そのゝち太政大臣いとひさしくたえ給へり。たゞし職員令には太政大臣にはおぼろけの人はなすべからず、もしそれなくはたゞにおけるべしとこそありければ、おぼろけの位にはあらぬにや。四十二代にあたり給ふ文武天皇の御時に、年號さだまりて大寳元年といふ。文コ天皇のすゑの年、齋衡四年丁丑二月十九日みかどの御おほぢ【おぢとも。】右大臣從一位藤原良房のおとゞ太政大臣になり給ふ。御歳五十四。このおとゞこそははじめて攝政もし給つれば、やがて此殿よりして今の閑院大臣〔公季〕まで太政大臣十一人つゞき給へり。たゞしこれより以前大友皇子・高市の皇子くはへ、すへては十三人の太政大臣なり。太政大臣になり給ぬる人はうせ給て後かならずいみなと申ものありけり。しかりといへど、大友皇子やかて御門にたち給へり。【御門なからうせ給ぬればいみななし。】高市王子の御いみなおぼつかなし。また太政大臣といへど出家しつるはいみななし。さればこの十一人つゞかせ給たる、二所は出家し給つればいみなおはせす。この十一人の太政大臣たちの御しだひはじめをはり申侍らんと思なり。ながれをくみてみなもとをたづねてこそはよく侍るへきを、大織冠よりはじめたてまつりて申べけれど、それはあまりあがりてのよの事也。このきかせ給はん人/\もあなづりごとには侍れど、なにともおぼされざらんものから、ことおほくて講師おはしなば、ことさめ侍りてくちおし。さればたゞ帝王の御事も文コの御時より申て侍れば、ふゆつぐのおとゞよりすと。そのみかどの御おぢ〔冬嗣〕のかまたりのおとゞよりは第六にあたり給ふよの人はふしさし〔藤左子とこそ申めれ。その冬嗣の大臣より申侍らん。その中に思ふに、只今の入道殿すぐれさせ給へり。
(卷一<了>)

  解題(近藤瓶城)   巻一・二目次   巻一   巻二   巻三   巻四   巻五   巻六   巻七   巻八   巻九   異本陰書
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