[TO INDEX] [BACK] [NEXT]

先哲像傳 


 藤原惺窩  林羅山  林讀耕齋  石川丈山

[一覧へ] [TOP]
※冒頭の章にも○印を付けた。

藤原惺窩

惺窩、姓は藤原、名は肅、字は斂夫、惺窩は其の居所の號。また北肉山人と號するは、後鞍馬の邊、市原野に棲みし時、その近きわたりに妹背山と云ふ山あれば、よつて字を分ちて號とす。其の外、柴立子・廣胖窩の號あり。初め僧たりし時、名は蕣といひ、妙壽院と號す。中納言定家卿より十二世の孫なり。父を爲純(ためずみ)といひ、世々播州細川村に食邑す。父・兄共に戰死す。惺窩は永禄八年に其地に生れ、幼(いとけなき)より神童の稱あり。一旦髪を剃りて僧となり、洛の相國寺に入り、博く佛書を讀み、後其の非を悟り、遂に儒となり、專らの説を奉ず。吾邦宋學の行はるゝ、此の師に始まれり。名下空しからず、林羅山松永昌三那波活所堀杏庵菅得庵、その他諸賢みな此の門より出づ。また當時の權豪、關白秀次を始め、金吾秀秋(*小早川秀秋)・直江兼續石田三成等の軍將もみな、惺窩を師尊する事は、徳行・學力兼備の名賢なればなり。また和歌を善せり。次に一二を記す。後、元和五年九月十二日卒す。享年五十九歳、洛の相國寺中に葬る。

林羅山、嘗て若かりし時、初て見えしに、惺窩和歌を詠じて與へられし、此の歌みな人の知る處なれど、こゝに記す。都て儒者の詩文は常の事なれば、多くは之を略す。たゞ和歌の如きは、調の高下はしらざれども、各家の傳下に見るまゝに記す。

なれよふじ雲の上までいや高き名のまことをもしかれとぞ思ふ
また元和五年、惺窩卒年の春、夕顔■(艸冠+大+巳:こう::大漢和に無し?)(*巷)と羅山、別號を稱せし時、奇なる文字なりとて、假名序并に歌を送らる。其の歌に、
たねしあれば心はおなじやまとにもからのうたにもゆふがほの花
なにかいやしいやしきちまた夕顔の花さへみさへ名さへなつかし
また赤松左兵衞佐廣通を悼む三十首の中に、
壁の中石のはこにもかくすべき世はなき道に文の名もうし
また石田三成、母の喪に居るを弔ふ詩に、
一別靈蹤何れの處にか尋ん。壯夫も亦是れ涙禁へ難し。慈顔猶見る屋梁の月。涕慕秋深し孝子の心。 (*一別靈蹤何處尋。壯夫亦是涙難禁。慈顔猶見屋梁月。涕慕秋深孝子心。)

○惺窩嘗て豐太閤を評して、「秀吉は大膽なる人なれども、大心なりとはまをすべからず。朝鮮より明に攻入らんとは誠に大膽なれども、秀信(*織田秀信)を信長あとめと仰せられず、自立して日本(につぽん)を掌握せられしは大心にあらず。」とまをされけるが、後にこの事を四辻亞相公理(きんよし)卿に語る人あり。亞相云く、「吾も其の論尤なりと思ふなり。大佛建立は彼の猿ごころの離れぬなり。」といはれしとぞ。

惺窩の系圖、因に此に掲ぐ。
御堂關白道長公第五子〕長家〔正二位權大納言。康平七年十月九日薨ず。年六十。〕
忠家〔正二位大納言。寛治五年十一月朔日薨ず。年五十九。小野宮と號す。〕
俊忠〔初め親家と名く。從三位權中納言。保安四年七月二日薨ず。年五十三。〕
俊成〔初め顯廣と名く。正二位皇大后宮大夫。保元二年敕を奉じて千載集を撰す。安元二年九月廿八日、出家す。法名は釋阿元久元年十一月晦日薨ず。年九十一。〕
―女子|
(*俊成)―定家〔正二位權中納言民部卿。元久三年、勅を奉じて新古今集を撰す。貞永元年、勅を奉じて新勅撰集を撰す。法名は明静仁治二年八月二十日薨ず。年八十三、或は八十と云ふ。〕
爲家〔正二位權大納言。寶治二年、敕を奉じて續後撰集を撰す。正嘉三年、敕を奉じて續古今集を撰す。建治元年五月朔日、或は云ふ四月廿九日、薨ず。年七十九。法名は融覺。〕
爲相〔正二位權中納言。藤谷と號す。〕
爲秀〔正三位權中納言〕
爲尹(ためたゞ)〔實家兄爲邦男。正二位權大納言。〕
持爲〔初め持和と名く。從三位權大納言。〕
政爲〔正二位權大納言〕
爲孝〔正二位侍從中納言〕
爲豐〔初め爲名と名く。從三位侍從。〕
爲純〔初め爲房と名く。又爲能とも。参議從三位。〕
爲勝〔初め俊孝と名く。正五位下左少將。〕
爲將(ためまさ)〔從四位下左少將〕
爲景〔正四位左中將實肅の第一子にして爲將の子と爲す。承應元年三月十五日卒す。〕
(*爲純)―〔是れ乃ち惺窩也。〕

秋山玉山惺窩の肖像の贊あり。玉山集卷八に出づ。こゝに擧ぐ。

先生姓は藤原。定家十二世の裔なり。名は肅、字は斂夫。後、妹背山に隱る。因て北肉山人と稱す。林信勝那波道圓堀正意石川凹、皆其の門に出づ。文集有り。世に行はる。
北肉の嘉遯、東邦の儒先。質は大器を抱き、派は冷泉より分る。異教を蝉脱し、喬木に是れ遷る。韓使相を奇とし、前修肩を比ぶ。門風高峻、群英焉に萃る。進退恥る無し。孰か厥の賢に如ん。(*北肉嘉遯。東邦儒先。質抱大器。派分冷泉。蝉脱異教。喬木是遷。韓使奇相。前修比肩。門風高峻。群英萃焉。進退無恥。孰如厥賢。)
また一齋先生惺窩の像贊あり。愛日樓集に出す。
華冑を謝して蹤を遐け、白雲を望て獨り臥す。其衷や介然として和冲、其貌や栗然として温藉。身は徴辟を辭す彭澤の儔ひ。門は俊英を出す河汾の亞ぎ。矧んや乃ち先を性天の學に開き、世と倶に新なり。後に典型の言を貽して、年を歴て遂に化す。於戲(あゝ)源と深くして流れ遠し。人をして溯■(三水+囘:::大漢和54838)して上下せしむ。然りと雖も誰か能く眞に溯■(三水+囘:::大漢和54838)せんや。誰か能く眞に上下せんや。

惺窩著述書目、因に記す。學識のごときは成書に就て見るべき便ならんを欲するなり。煩はしけれども、各家の著書傳下に載するはこれが爲なり。

四書大全頭書(かしらがき)
勅板惺窩文集〔男爲景編集〕 惺窩文集羅山子編集〕
惺窩續集玄同子編集〕
文章達徳録
假名性理
千代もと艸
文章達徳録綱領(かうれい)
列子點
此の外なほあるべし。知る人に問ふべし。

惺窩の事實は林羅山撰の行状記あり。また某氏(それがしうぢ)撰の系譜あり。其の他先人(*原念斎)の著す先哲叢談等の書に詳なり。今長章は載るに暇あらず。宇都宮由的の略傳をもて左に記す。前に出す假名もて記す生卒略傳は童子の看に供ふるのみ。重複(ぢうふく)を咎むるなかれ。

先生、姓は藤原、諱は肅。字は斂夫。播州細川邑の人。定家十二世の孫なり。父を爲純と曰ふ。謂はゆる冷泉家なり。幼にして穎悟常ならず。一旦髪を祝て浮屠と爲る。名を蕣と曰ふ。弱歳洛の相國寺に來り、妙壽院に居り。後播に歸る。赤松氏(*赤松広通)善く之に(*ママ)遇す。佛書を讀むと雖も、志儒に在り。一旦奮發して大明國に入んと欲して、直に筑陽に到り、溟渤に泛ぶ。風濤に逢ひ、鬼海の島に漂ふ。其の盛志遂ずして而して歸る。朝鮮員外郎姜■(三水+亢:こう:広い沢・ここは人名:大漢和17187)(*原文「三水+元」に作る。)來りて赤松氏の家に客たり。先生を見て大に喜で曰く、「朝鮮三百年以來(このかた)、此の如き人有ること、吾れ未だ之を聞かざるなり。」と。赤松氏、童男婢奴を遣て奉仕せしむ。先生拒まず。本朝の儒者・博士、古より唯漢唐の註疏を讀み、性理の學は識る者鮮し。先生自ら程朱に据ゑ、經傳を訓點す。其の功最大なり。元和五年、五十九にして卒す。是より先き再たび源君に謁す。貞觀政要漢書十七史等の書を讀む。源君其の才徳を知る。然れども時を待て發せず。遂に簀を易ふ。其の用と不用と、命なり。先生意を其の間に容れんや。幼より學を好み、釋老に出入し、諸家に閲歴す。而後異學を棄て而して醇如たり。本朝中興の明儒なり。其の著す所、達徳録綱領寸鐵録逐鹿抄、及び經書和字訓解有り。平生の詩文・和歌は惺窩文集と號す。世に行はる。


[一覧へ] [TOP]

林文敏公(*林羅山)

文敏公姓は林、名は忠、一に信勝といふ。字は子信、通稱又三郎、幼名菊松麿といふ。後、薙髪して道春と號す。文敏は謚號なり。羅山(らさん)と號し、また羅浮、浮山、羅洞、四維山長、胡蝶洞、夕顔■(艸冠+大+巳: : :大漢和に無し?)(*巷)、或は雲母溪、尊經堂、梅村、花顔■(艸冠+大+巳: : :大漢和に無し?)(*巷)、麝眠とも號せしとぞ。其の先は加賀の人、後に紀伊の國に移り、父信時にいたり、平安に住めり。文敏公天正十一年八月、京洛の四條新町に生る。幼より秀偉、且又讀書を好みたり。八歳の時、甲斐徳本太平記を讀むを聞きて、即記憶暗誦する數十枚に及ぶと云ふ。後、長じて惺窩に從事して、性命學を修し、遂に神祖の恩遇に■(肉月+無:こ::大漢和29895)仕して、天下萬世儒宗の基を開き、國初創業の議事にあづかり聞かざるなく、四朝に歴仕して、學殖徳行世の人みな尊尚する處なり。今上野山王臺の社地は文敏公の賜莊にて、昌平坂の聖廟ももと此の地にありしなり。後に元禄年に林家三世正獻公〔鳳岡〕の時、今の地に移す。上野には今林稻荷あり。文敏公明暦三年正月廿三日卒す。享年七十五なり。其の葬式は朱子家禮をもて大塚の別野(*別墅)に葬る。私諡して文敏先生といふ。

羅山年二十二の時すでに讀得し書目、儒經・佛書・神典の部數四百四十餘部に及ぶ。書目録は文穆公〔春齋と號す。羅山の三男〕撰める年譜に詳なり。其の苦學の樣想見るべし。幼より老に至る、一日として看書を廢する事なし。沒する年、明暦の大火遁れ出るにも、なほ輿中にありて梁書に朱點を施しつゝ別野に至られしとぞ。

○水戸黄門義公(*徳川光圀)の御字を徳亮といふ。これ羅山の定むる所なり。徳亮説の文あり。文集に見ゆ。また上野賜莊の十二景を定む。因に記す。

神廟風杉 金城初日 靈池皓月 下谷耕田
南鄰菅祠 東海征帆 武野煙艸 淺草花雲
筑波茂陰 隅田長流 房陵遠山 士峯晴雪

惺窩羅山の二先生、東藩をさして、柳營とし、將軍を稱して大樹といふ。名實相かなへり。誠に文字を識りし儒といふべし。二十歳の時東にあり。世人唐詩選を讀むを知りてより、詞語宏麗をもて貴び、動もすれば丹鳳・城青・瑣闥等の語を用ゐて東藩のこととす。人の無知かくのごとき者ありと〔原と漢文なり。〕橘■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)茶話に見ゆ。いかにも稱呼は名實にかゝはりて後世の信をとるなれば、文華なくとも正しくありたきなり。近世は此の弊(つひえ)薄し。が曾祖父、雙桂先生も嘗て此の事を論じて云く、譯文筌蹄(やくもんせんてい)の題署などに武陵と書たり。左樣の事甚非なり。定めて東都は武藏の内にて、武藏の武の字一字同じきによりて牽合し、借り用ゐて、題署せしならん。左あらば武陵の外にも武昌、武清、武平、武進、武宣、武城、武緑、武定、武邑、武郷、武渉、武安、武功、武隆、武寧、武當、武岡、武康の類みな唐土の地名なれば、手前物好次第に借り用ゐてよろしからんや。面々の物ずき次第に借り用ゐば、江戸に定まれる名はあるべからず。左あらば亂名にあらずや。すべて物門の徒のなせる事、多くか樣のことなりと過庭紀談にあり。

羅山著す書籍(しよじやく)の目録、因に記す。(*原文は目録部分を二段に分けるが、ここではつなげた。)
東鑑綱要 群書治要補 大學要略抄 大學大旨 四書五經要語抄 論語摘語 三略諺解 貞女倭字記 寛永庚午御即位記 陣法抄 儒門思問録 姫君婚禮記 御入洛記 倭漢法制 荒政恤民録 無極大極説 聖蹟圖諺解 東廟新廟記 東照宮二十五囘御忌(ぎよき)記 東照宮三十三囘忌 増上寺法會記 大樹寺法會記 武州王子社縁起 神代系圖 皇代系圖大綱 鎌倉將軍家譜 京都將軍家譜 織田信長譜 豐臣秀吉譜 中朝帝王譜 本朝編年録 寛永諸家系圖傳 御元服記 日本大唐往來 仙鬼狐談 怪談 老子抄 大學抄 聖賢王談 愚惡王談 貞觀政要抄 漢魏六朝唐宋百人一首 歴代三十六名臣圖贊 大學解 論語解 中庸解 三徳抄 孟子養氣知言解 理氣辨 六義考 渾天儀考 春秋劈頭論 周易手記 性理字義諺解 經典題説 經典問答 古文孝經抄 通鑑綱目首卷手抄 格物端緒 歴代系圖 歴代一覽 巵言抄 童觀鈔 格言隨筆 攻堅從容録 任筆百問 經籍和字考 長恨琵琶抄 白氏文集首卷注 文選序表考 孫呉摘語 呉子抄 司馬法抄 尉繚子抄 六韜抄 太宗問答抄 軍書題説 劒術諺解 百戰奇法抄 棠陰比事抄 鐸恤録並摘語 公言抄 折獄抄 袖裡唐絶 百川學海抄 本艸序例注 多識編 南人言稿 古文眞寶抄 蒙求鼇頭 後素説 聯珠詩格抄 陽明攅眉 明人集略抄 漫筆 羅山渉獵抄 梅村載筆 日本考 朝鮮考 朝鮮來貢記 異國往來 東照神君年譜略 駿府日記 慶長以來法度 二條城行幸私記 武家十九條法度記 禁中故事 裝束記 神社考 神社考詳節 神書私考 中臣祓抄 神道傳授抄 神道秘訣 伊勢内外宮勘文 寺社證文 筑波山縁記 河越天神縁記 日本祖師傳 本朝一人一首 倭漢詩歌合 詩文機縁 野槌 職原鼇頭 職原抄神祇太政官注 惺窩問答 惺窩集 倭鑑乘韋 宇多天皇紀略 源平綱要 明徳軍志 軍陣行列 鐘銘纂 庖丁書録 日本事蹟考 倭雅 武門姓氏考 二十一代和歌集年月考 源氏物語諸抄年月考 近代雜記 禪林家集年月考 寛永私記 四書集注抄 老子經首書(かしらがき) 道統小傳 本朝書籍(しよじやく)考 怪談全書 有馬温湯記 丙辰紀行 癸未紀行 韓使贈答聯句 武將傳 百將傳抄 春鑑抄 寸鐵録 詩仙 儒仙 武仙 蒙求官職考 駿府政■(古/又:::大漢和50715)(せいじ)録 七書講義私考 二禮諺解 謡抄 羅山文集 羅山詩集 羅山集附録  

此の外訓點を附けし書目は、

四書集注 五經 周易本義 書經集註 公羊傳 穀梁傳 國語 戰國策 周禮 儀禮 孝經 老子口義 古文眞寶 五經大全 神道秘傳折中俗解

羅山詩文ともに各七十五卷づつに定められしは、先生の年齢に準じて春齋先生の用意なりし。

羅山下總の古河に至りし時、舊城主土井大炊頭利勝公を憶ふ詩あり。偶(たま\/)おもひ出すまゝ此にしるす。

三代の執權名久く垂る。威風唯〃厥の謀貽〔遺されたる謀〕を要す。一時占め得たり黄粱の夢〔盧生、邯鄲の途上、黄粱一炊の間その榮達を夢みたりとの故事〕。蓋世の大炊纔に一炊。(*三代執權名久垂。威風唯要厥謀貽。一時占得黄粱夢。蓋世大炊纔一炊。)

羅山の事歴は春齋撰める年譜、また先君子(*原念斎)著す叢談(*先哲叢談)、宇都宮氏撰ぶ羅山小傳稻葉氏(*稲葉黙斎)の墨水一滴、其の外の諸書に詳なり。長文なればこ〃に擧げず。近年刻行の近世叢語の文を掲ぐ。角田簡(すみだかん)撰著。

林羅山、名は忠、一の名は信勝、字は子信。其の先は加賀の人。後に紀伊に徙る。父信時に及びて來て平安に住む。羅山生れて神彩秀徹。年十四、書を東山の僧房に讀む。時喪亂に屬し、書籍甚だ乏し。乃ち百方索め借りて、諷誦毎に曙に達す。緇流〔僧侶〕碩學の輩試に疑義を問へば、則ち■(女偏+尾:び・み:くどくどしい:大漢和6297)々として剖析し、其の心に厭飫せしむ。皆稱して神童と爲す。長ずるに及んで英邁絶倫、曠世の才有り。益〃百家に馳騁す。凡そ字、册を成す者の有れば、■(門構+規:き::大漢和41467)はざる所無し。其の浩瀚を究めて諸六經に反る。嘗て言ふ。「漢唐以來の文字、皆原く所有り。等して之に上れば、大要六經に歸す。唯〃六經文字原く所無し。道固に此に在り。」又言ふ。「後世能く六經の旨を得る者、唯〃程朱の學有り。今日異端外説又之を壅塞す。是力め闢かずんばあるべからず。」遂に鋭意洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の學〔程明道周濂溪の自唱せる性理の學〕を興すを以て自ら任とす。門を開き徒を聚め、四書新註を説く。從ひ聽く者雜■(之繞+罘:::大漢和に無し)(*■(之繞+日/下水:とう::大漢和39017)か。)す。是歳甫めて弱冠に踰ゆ。弟有り。信澄と曰ふ。亦就て業を受く。是の時學湮る、日久し。民間册を挾む者無し。故に遠近駭き異み傳へて以て奇事と爲す。舟橋三位秀方羅山を詬て曰く、「今匹夫にして師道の尊に居り、叨りに朱學を倡ふ。其の僭甚し。」(*と。)遂に論列して之を罪せんと請ふ。廷議然りと爲し、以て東照大君に告ぐ。大君曰く、「固なるかな、舟橋氏。匹夫にして道を倡ふ、實に嘉尚すべし。且つ學問は道通じ理明なるを以て主と爲す。何ぞ必ずしも古註を固守せん。」(*と。)是に於て羅山の學大に行はる。この時に當り、惺窩先生有り。洛北に隱れ、既に理學を倡ふ。羅山景慕して弟子と爲り、惺窩もまた以て人を得と爲し、傾倒遺さず。推して高足と爲す。東照大君雅と羅山の名を聞き、時に邀へて咨諏す〔事を問ひ謀る〕。慶長十一年永井右近大夫直勝をして之を聘せしめ、擢でて博士と爲し、以て顧問に備へ、深く其の博物を嘉す。後薙髪して道春と稱す。民部卿法印に叙す。羅山國家創業の時に際り、大に寵任を被る。朝儀を創め、律令を定む。幕府須ゐる所の文書にして其の手を經ざる者無し。四朝に歴仕して、即位、改元、行幸、入朝の禮、及び宗廟祭祀の典、外國蠻夷の事、預り議せざるなし。正保中、病みて家に在り。執政旨を承けて書を寄せ、或は就いて事を論ず。官醫をして病を看せしむ。是の時、日光山に事有り。召して便殿に見る。特り乘輿城に入るを聽す。旨有り。其の齡漸く高きを以て、朔望に朝せしむ。明暦三年、年七十五にして卒す。文敏と私諡す。羅山強記宏覽、少きより心を著作に注ぎ、老に到りて衰へず。撰著編輯する所、凡そ一百三十種。又羅山文集一百五十卷有り。世に刊行す。羅山四子有り。長は叔勝、次は長吉、皆早く夭す。次は春齋、嗣ぐ。次は、字は彦復、祝髪〔剃髪〕して春徳と稱す。博學著作多し。亦大府に仕ふ。寛文元年、病を以て歿す。年三十八。〔以下、春齋鳳岡の二傳有れども、今此に録せず。〕


[一覧へ] [TOP]

林讀耕齋

讀耕齋(とくかうさい)林氏、初め名は守勝、字は子文、通稱右近といふ。後に名は靖(せい)、字は彦復、また祝髪して春徳と稱す。函三子(かんさんし)、考槃■(艸冠/過:か::大漢和32116)(かうはんくわ)、讀耕齋、欽哉亭(きんさいてい)、靜廬はみな其の別號なり。羅山先生の四男にて、春齋先生の弟なり。母は荒川氏、寛永元年十一月二十一日、京都に生る。後江戸に來り、才徳父兄に減ぜず、春齋と共に幕府に奉仕す。羅山著書中、春齋春徳の兄弟多く與りて功ある者枚擧に暇あらず。寛永二十年、朝鮮信使と筆語唱和する、父兄と同じく、名を異邦に轟かす。正保三年十二月、別に召されて、俸禄を賜うて兩林家となる。此の時二十三歳なり。羅山先生もこれを愛する、春齋に齊し。初め伊藤氏を娶り、一男二女を生めり。後石川氏を娶る。一男を生む。また夭す。讀耕齋三十三の時、母荒川氏に別れ、翌明暦三年正月、父羅山先生長逝す。羅山行状春徳先生の撰文、年譜春齋先生の撰文になる。又羅山文集百五十卷は兄弟二先生の捜索して上木する處とぞ。春徳先生の子、名は憲、後に春東と稱す。春徳先生寛文元年、病んで卒す。享年三十八、私諡して貞毅先生と云ふ。

春齋先生二子あり。長子を春信と云ふ。勉亭とも、梅洞とも號す。次は鳳岡先生なり。皆讀耕齋の猶子なり。梅洞才學ありて、父祖に類すといへども、年二十三にして卒す。著述の書多し。然るに才學天性によるといへども、讀耕齋の教諭によるものなり。さればこそ朱舜水撰める勉亭林春信碑文に云へるあり。

季父讀耕子に就て學ぶ。季父之を視ること猶ほ子のごとし。勤勤督課す。秋題百品藝餘千題の如し。或は和し難き韻を押し、或は燭を限刻して成る。揮洒〔揮毫〕立ろに就らざる無し。時髦〔同時代の俊れたる人々〕■(庚+貝:こう・きょう・しょく・ぞく:続ける・次ぐ・償う:大漢和36819)和し〔返詩を送り〕、郵■(竹冠/甬:とう::大漢和26062)〔書信〕往來す。是に於て聲名籍甚(いたくひろし)。
とあり。勉亭もまた其の恩に感じて、讀耕齋の死後は其の孤子を撫養して、教諭の恩を報ゆる趣も同文中に見ゆ。

讀耕齋の才學父兄に減ぜず。故をもて世人羅山蘇老泉〔名洵。宋代の學者。子に軾、轍の兄弟あり〕に比し、春齋蘇軾春徳蘇轍に擬して、老林、中林、叔林と稱せしとぞ。因に云ふ、羅山の同母弟永喜、東舟と號し、徳行學術また高し。故をもて明道伊川兄弟に擬せしよし、先人(*原念斎)の叢談(*先哲叢談)に委し。國初文運の機に向ふといへども、かく藝學一家に起り天下の儒宗となる、また一奇ならずや。

讀耕齋著書目に、

考槃餘録 平聲(ひゃうせい)廣韻略 本朝遯史 八人一筆 中朝帝王譜 本朝編年録 靜廬客談 聞見録(*聞見抄?) 和漢補袞録 甚齋漫筆 守處稿(*處守稿?) 讀耕齋文集

讀耕齋の略傳系に、

讀耕齋先生は文敏公羅山先生の第四子なり。寛永元年甲子十二月二十八日夜半強、京の四條新町に生る。乃祖之を名けて右兵衞と曰ふ。母は荒川氏なり。四歳始めて歩す。且つ正の字を知る。文敏先生先生を抱き、門人に對して曰く、「是れ膝上の王文度〔晉の人。弱冠にして重名あり。■(希+邑:ち::大漢和39413)超と共に桓温の長吏となる。時人語つて曰く、盛徳彬々■(希+邑:ち::大漢和39413)嘉賓、江東獨歩王文度と。〕なり。」と。文敏先生東武に在り。荒川氏の慈育を以て長(ひと)と爲る。後右近と稱す。同十一年、東武に移る。幼と雖も、仕官を求めず。十四歳にして志を學に潛む。其の名漸〃著はる。同十六年己卯、文敏先生名を授けて守勝字は子文と曰ひ、號を授けて函三と曰ひ、亭に名けて欽哉亭と曰ふ。自ら考槃■(艸冠/過:か::大漢和32116)と號し、又剛訥子と號す。或は靜廬又甚齋と稱す。後專ら讀耕齋の號を用ゐたり。是れ乃ち文敏先生壯年の時、印に刻み書に押すの號なり。正保二年文敏先生一名を授け、靖、字は彦復と曰ふ。同三年丙戌、召に膺る。素志ならずと雖も、官命之を如何する無し。十二月九日、營に登り、猷■(广/苗:びょう:「廟」の古字:大漢和9400)を奉拜す。宅地年俸二百俵を賜ふ。祝髪して春徳と號す。慶安三年庚寅、水戸侯傅伊藤玄蕃頭友玄の女吉子を娶る。〔恭哀と諡す。〕承應二年癸巳、命を蒙りて日光山に登る。明暦二年丙申十二月、法眼〔僧位。法印に次ぐ。〕に敍す。同三年、食禄を加賜す。前を通じて五百石なり。萬治二年己亥、室を繼ぐに石川氏を以てす。同四年辛丑、病に罹る。三月十二日卒す。年三十八。貞毅先生と諡す。博文強記、世を擧て之を稱す。其の性嚴毅、人に枉屈せられず。文穆先生(*林春斎)に對して悌有り。春信兄弟を愛する、子の如し。著す所、八人一筆平聲廣韻略和漢補袞録聞見抄本朝編年録中朝帝王譜處守稿讀耕集の書有り。水戸義公眷遇甚だ厚しと云ふ。二女二男有り。女及び季子皆殤す。男を春東と曰ふ。幼名又助。文穆春齋先生之に名けて勝澄と曰ふ。一の名は憲、字は章卿、晉軒と號し、或は洗林と號す。承應三年甲午四月七日、乃祖の宅に生る。未だ幾ばくならずして母を喪ふ。祖母順淑孺人の慈育を以て長と爲る。萬治四年辛丑、を喪ふ。文穆先生慈愛教育益〃厚し。同年十二月十日、營に登り、父の禄を賜ひ、業を繼ぐ。寛文四年甲辰秋、謁し奉る。同九年己酉、通鑑〔本朝通鑑〕編修の事に預る。同十年庚戌、事を畢て官服を賜ふ。同十二年壬子冬、清水氏を娶る。延寶四年丙辰十一月九日卒す。年二十三。平生虚弱、病多し。著す所、梧右録拾葉餘録の書有り。


[一覧へ] [TOP]

石川丈山

丈山石川氏、名は凹(あふ)、字は丈山、初名は重之、俗稱三彌(さんや)といひ、後に嘉右衞門といふ。號は數稱あり。六々山人、四明山人、凹凸窩、大拙(たいせつ)、烏鱗、山木、山材、藪里、東溪、三足ともいふ。三州の人也。其の先は源義家公より出づる。父を信定といふ。丈山天正十一年に生れ、幼より岐嶷(きぎよく)(*ママ)〔幼者の卓異なること〕、よく二歳の時の事を覺え居たりしとぞ。また四歳にして行程一里餘を歩行せり。世々大樹〔將軍〕に奉仕して、丈山も禄五百石を食して、駿府にて御小姓役〔殿中近侍の侍〕を勤め、元和の役に御使番を勤む。此の時功名ありといへども、軍令に違ふ事ありて、暇を賜はり、叡山の麓一乗寺村に棲遲して、本邦歌仙三十六人に擬し、漢土の詩人を撰み、各其の像を板面に圖し、其の作る處の詩を其の上に書して、壁にかゝげ、詩仙堂と號す。六々山人の號はこれに縁れり。これより都て文筆をもて樂みとし、藤惺窩林羅山堀杏庵埜士苞(やしはう)、また僧元政等と風流の游事を專らとす。尤も詩に長じ、隷書に工なり。韓使賞して日本のと稱す。寛文十二年五月二十三日卒す。其の地に葬る。享年九十。

丈山肥遁〔終をよくして退隱すること〕して後は、和歌を詠じて、京師に入らじと誓ふ。夫より洛陽に來らざる二十餘年なりとぞ。其の歌に、

渡らじな瀬見の小川〔鴨川〕の淺くとも老の波そふ影ぞ恥かし
また詩集を覆醤集と云ふ。開卷に富士山の詩あり。人口に膾炙すれば、こゝに記す。詩中白扇の文字に難あるよしは、曾祖父(*原双桂)の過庭記談に辯あり。其の詩に、
仙客來り遊ぶ雲外の嶺。神龍栖み老ゆ洞中の淵。雪は■(糸偏+丸:かん・がん:練り絹・素絹:大漢和27247)素〔白きねりぎぬ〕の如く烟は柄の如し。白扇倒に懸る東海の天 (*仙客來遊雲外嶺。神龍栖老洞中淵。雪如■素烟如柄。白扇倒懸東海天)
實に富士の形容見るごとし。また集中に秀吉關白扇の銘、前田卜牛の求めに應ず、後陽成院、御製扇を書し、秀吉公に賜ひ、韓を伐つ餞と爲す、と。按ずるに達意の文これよりよきはなしと南畝云へり。げにもと思はる。

丈山、■(人偏+至:しつ::大漢和579)(てつ)(*姪か。)某に與ふる掟書(おきてがき)と云ふ七箇條の中に、武士の道日夜に忘れ候はで何時も人の跡になり候はぬ樣にと心掛可申事、また萬事につき欲すくなく、清廉を心に持可申事とあり。これ丈山生涯の行藏〔進退〕此の二ツにかなへり。空言にあらず。

○此の肖像は丈山の壽像、畫者は狩野探幽なり。上に丈山自題あり。其の語に、

如意隱几、■(糸偏+稻の旁:とう::大漢和27770)褐〔寛き衣服〕烏巾。(*孔明の風貌か。)默々たる霄貌、昭々たる精神。造物に交游し、道眞に涵養す。八秩〔年八十〕の頑老、三陽の逸民〔遁世隱居の民〕。逸民は誰と爲す、六々山人 (*如意隱几、■褐烏巾。默々霄貌、昭々精神。交游造物、涵養道眞。八秩頑老、三陽逸民。逸民爲誰、六々山人。)

愛日樓集丈山を夢むる詩竝に敍あり。尤も確論と云ふべし。

參人石川丈山、晩に洛東に屏居し、琴書自ら託す。蓋し世と相忘るゝ者の若し。(*佐藤一斎)嘗て疑ふ。君初め浪速の役に從ふ。私に出でて斬馘〔敵の首をきる〕律を犯して黜けらる。是時年既に三十有三。宜しく血氣者の爲に效はざるべし。又其の生平と相類せず。是れ必ず故有らん(*と)。余久しく之を畜へ未だ釋けず。今茲に文政庚辰(*文政三年)の春、其の故居詩仙堂の主尼別宗將に堂宇を修せんとし、江戸に來り募縁す〔喜捨を求む〕。明年君の百五十年忌辰に値ふを以てなり。季秋二十三日尼偶〃余が廬に過ぐ。是の夜余夢に一偉人を見る。厖眉白鬚骨相凡ならず。自ら云ふ六々山人と。余乃ち前疑を以て之を質す。翁笑つて答へず。第〃曰く、「自効(*みずからいたす)のみ。」と。余之を難じて曰く、「迹小功を貪るに疑し。其の自ら効を爲るや奚若んぞ。」(*と。)翁憮然たり。既にして曰く、「今は則ち吾汝に語らん。昔者泰伯、民の稱する無きを以て至徳と爲す。吾敢て企てざる所と雖も、志は則ち焉に在る有り。彼れ其の叛逆(*するや)孤城の衆志一ならず。其の智力を勞せずして之を下す、誰か知らざらん。而して必ず此の匹夫の小勇を恃まんや。吾但だ微罪を負ひ以て之を去らんと欲するのみ。蓋し參河勳舊何ぞ限らん。率ね封侯を求めて富貴を極むるを知て、復た一人の國の爲に自ら竄し、以て兇賊を幾察する者無し。汝知らざるや。嬰城〔城を守る〕の衆獨り豐公の遺臣のみならずして、兇奸不逞の徒多と爲す。統一の後に在りと雖も、餘■(艸+追の旁+辛+子〈偏〉:げつ:脇腹・ひこばえ・災難・悪逆・不吉・不孝・かもす・飾る:大漢和7047)殘黨驅扇〔煽動〕唱亂する者無きを保せんや。吾の自ら竄する〔自身隱匿す〕を爲す所、陰に之を察して以て涓埃を効(*いた)さんと欲す。其の有無も亦度るべからざるなり。不幸或は變有らば、則ち吾將に先づ赴き告げ之が防禦を爲さんとす。幸にして事無ければ、則ち其の蹤を高尚にし、以て埃■(土偏+蓋:あい::大漢和5555)の外に超せん。其の西州に官し洛東に居る。皆此が爲なり。凡そ人の爲さざる所を爲し、以て自ら効さんと欲す。吾夫の徒に榮達を■(艸冠/單+斤:き::大漢和32418)(もと)め、以て子孫の計を爲すに效さず。而るを況や人の知ると知らざると、惡んぞ問ふに足らんや。」と。言畢て夢は則ち覺む。噫■(口偏+喜:き::大漢和4276)(あゝ)君の靈夢寐に格り、以て吾が衷を誘する者か。然りと雖も夢のみ。烏んぞ(*焉に)憑て以て證と爲すを得んや。但其の事の極めて奇なるを以て、覺めて之を記す。且つ詩以て其の略を言ふ。詩に曰く、
時は維れ文政歳は庚辰(*文政3年)、秋夜書を讀みて寒燈を剔す。忽然夢に遊ぶ、洛水の表。堂有り、敞然峻■(山偏+曾:しょう::大漢和8458)〔高く大どかなる山の貌〕に倚る。中に九十皓眉の叟有り。琴を撫して長嘯凡塵に超ゆ。我を顧みて一笑相延て晤す。自ら言ふ、六々舊山人。試みに疑案を擧げ、相叩問す。翁衷曲を敍て廼(*ち−迺か)云々す。旃蒙單閼〔乙卯〕(*慶長20年)小腆〔小さき團躰〕を征す。■(艸冠+最:さい・せつ:小さい・集まる:大漢和31977)爾たる孤城豈に爭ふに足らんや。律を犯して馘を獻じ微罪を負ふ。國家の爲めに游偵を作さんと欲す。眞忠自ら甘んず、人の諒せざるを。利達聲名を與くるに心無し。一朝變有らば吾先づ識らん。無んば則ち清高此の身を終ふ。心事生前曾て道はず。今吾肝膽君が爲に傾く。須臾に風來て短鬢を吹く。夢斷て茫然夜は五更。嗟乎夢か、夢に非ざるか。眞か、眞に非ざるか、嗟乎。世道遞に變化し、古今幾く廢興す。竟に是れ寄て栩々頃〔少時の會心をいふ。莊子に、夢爲2蝴蝶1、栩々然蝴蝶也(*とあり)。〕に在り。醒めて後人間猶ほ未だ醒めず。 (*時維文政歳庚辰。秋夜讀書剔寒燈。忽然夢遊洛水表。有堂敞然倚峻■。中有九十皓眉叟。撫琴長嘯超凡塵。顧我一笑相延晤。自言六々舊山人。試擧疑案相叩問。翁敍衷曲廼云々。旃蒙單閼征小腆。■爾孤城豈足爭。犯律獻馘負微罪。欲爲國家作游偵。眞忠自甘人不諒。無心利達與聲名。一朝有變吾先識。無則清高負此身。心事生前曾不道。今吾肝膽爲君傾。須臾風來吹短鬢。夢斷茫然夜五更。嗟乎夢乎非夢乎。眞乎非眞乎嗟乎。世道遞變化。古今幾廢興。竟是寄在栩々頃。醒後人間猶未醒。)

丈山著書目録

詩仙 朝鮮筆語集 本朝詩仙注 詩法正義 覆醤集(ふしやうしふ) 覆醤全集 東溪翁隷法 祝壽長篇

野間三竹撰する墓誌銘に、

姓は源、氏は石川、諱は重之。始め嘉右衞門と號し、後左親衞と改む。一に諱は凹、字は丈山。六々山人は其の別稱にして、世(*よよ)三州の人なり。清和帝七世の孫源義家の第六子左兵衞尉義時、石川と號す。是れ迺ち石川の自ら出る所の者なり。義時十五世の孫大炊助信貞源長親君に仕ふ。東照大神君の高祖にして、信貞の五世の祖なり。信貞信治を生む。信治神君の藝祖〔祖父〕清康君に仕ふ。尾州熊谷城を攻め、軍功有り。子の正信神君の皇考贈亞相廣忠君に仕ふ。今川義元と三州安城を攻めて焉を拔く。正信先登す。之を賞して長吉の佩刀を賜ふ。而して後、東照大神君に奉仕し、長久手に戰死す。其子信定石川長門守に屬し、駿州田中城を攻め、左の股を衝かれて其の槍を奪はる。信定、三男二女有り。長は乃公なり。公幼にして岐嶷、四歳にして健歩道を行くこと里餘、穎敏人に過ぎ、能く二歳の時の事を知る。十六歳にして神君に奉仕し、常に左右に陪侍す。恩遇常に異なり。元和乙卯(*元和元年)夏五月、秀頼反す。神君難波に至り、自ら師を帥ひ之を征す。戰伐の日に至つて、獨り軍令を犯し、竊に營中を出て先登す。岡山の戰に槍を交へ創を被る。又城門に至り、敵人佐々某といふ者及び從者と力戰す。遂に二人の首を獲、師を班するの後、洛■(三水+内:ぜい::大漢和17157)に屏居す。羅浮子(*林羅山)・杏庵(*堀杏庵)・玄同(*菅玄同)等と騷雅〔詩文の風流〕の交を爲し、后北肉藤先生(*藤原惺窩)に親炙して、聖賢道學の風を聞くことを得。始め禪教を學び、後異學を捨て、而して醇如たり。誠に卓乎たる、文武雙才に非ざるか。母老い家貧しく西州に遊宦す。其の將に行かんとするに臨みて羅浮子玄同子に謂つて曰く、「此の行や、豈に素志宿心ならんや。母天年を終るときは、則ち身將に退かんとす。敢て言を食まず。公老母に事へて至孝なり。居ること年有り。老母歿す。喪に居り哀を盡し、服■(門構+癸:おは:終:大漢和41430)りて後官を捨て洛に歸る。遍く名山を尋ね、遂に臺嶺の麓一乘の邑凹凸窩中に肥遯し、詩仙堂を其の中に築き、漢晉唐宋の作者三十六人を撰みて之を畫き、之を掲ぐ。蓋し諸を我邦の歌仙に擬す。是れ迺ち詩仙の濫觴〔原始〕なり。羅浮子之が記を爲る。園中境十有り。景十二有り。羅浮子■(三水+自:き::大漢和17369)び向陽(*林春斎)・讀耕(*林読耕斎)之が詩を賦す。而後和歌を詠じて、再び鴨河を渡らず、再び京師に入らず。頗る門前の桑を指すに彷律たり。況んや又一生粉黛〔婦人〕を近けず。亦妻孥有ること無し。人以て諸を元魯山に比す。三逕塵除、半夜燈閑に、淡泊寡欲、一裘一葛、未だ敢て人に取らず。其の己を行るや、剛にして直く、廉にして潔し。其の學を嗜むは、芻豢〔牛羊豕の類〕を食ふ如し。四十年來門を杜し、痾を養ふ。未だ嘗て俗士に接せず。未だ嘗て俗事を問はず。交遊する所の者は僅に六七人。余も亦其の列に在り。洽聞博記、捜討遺すこと無し。特(こと)に詩律に巧みにして、筆端高妙、唐體に私淑して〔竊に慕ひ摸ふ〕浣花〔杜甫〕の髓を得たり。奚ぞ翅に當世の宗工鉅匠なるのみならんや。我邦二皇子の咏有りてより以降、詩を言ふ者數十百家の中、の右に出づる者を見ず。寛永丁丑(*寛永14年)、韓客來朝す。學士權■(人偏+式:ちょく::大漢和603)と筆語す。■(人偏+式:ちょく::大漢和603)一たび其の詩を讀みて、日本のと爲す。是有る哉、外國の人の之を賞することの厚く、之を好むことの深き。圖書案に堆く、家に■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)石〔少しの儲蓄〕無し。胸宇廓然として碍ぐる所無く、貧に安んじ道を樂み、俯仰愧づる無し。誠に飄々たる淳靜好古の隱君子なり。素より隸書を能くす。羅浮子曰く、「隸書の如きは、本邦未だ嘗て見ざる所の者なり。」と。其の平生の吟稿を覆醤集(*原文「覆醫集」)と曰ひ、世に行はる。今茲(ことし)春夏の交、床に臥して起たず。終に臨みて其の左右に謂つて曰く、「纓を結び、簀を易ふるの志、未だ嘗て忘れず。」と。端正此の如し。嗚呼悲しい哉。西山の日已に迫る。寛文壬子(*寛文12年)夏五月二十三日、日將に■(日偏+甫:ほ::大漢和13952)れんとして、端坐して逝す。享年九十歳。貴介達官〔貴人高官〕識ると識らざると、哀惜せざる無し。歛し了て其の處其の地に葬る。村民葬に會する者百有餘人、其の平生の惠の及ぶ所、言はずして以て知るべし。門生等來り告げて誌及び銘を不佞〔卑自の稱〕に請ふ。不佞忘年の交數十年所、何ぞ敢て辭せんや。涕泣して之を筆す。且つ之に係るに銘を以てす。銘に曰く、
器識有り、林巒に居り。義節に安じ、蝉冠を泥とす。懿なる哉、徳。天地寛し。 (*有器識。居林巒。安義節。泥蝉冠。懿哉徳。天地寛。)

*巻1了

 藤原惺窩  林羅山  林讀耕齋  石川丈山

[TO INDEX] [BACK] [NEXT]
《凡例》
〔〕原文の割注・旁記
詩・賛の書き下し文は、漢字平仮名交り文に改めた。詩の場合は、緑色で白文を併記した。
緑色はその他にも心覚えのために任意に付したものがある。(<font color="#008B00">・・・</font>タグ)

《本文中に付加した独自タグ一覧》
<name ref="">...</name> 人名の検索用(属性に現代表記で姓名を記入)
<book title="">...</book> 書名の検索用(属性に現代表記で書名を記入)
<year value="">...</year> 年号の検索用(属性に西暦年を半角数字で記入)