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先哲像傳 


 中村てき齋  貝原益軒  新井白石  三輪執齋  荻生徂徠

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※冒頭の章にも○印を付けた。

中村■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)

■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋中村氏名は之欽(しきん)、字は敬甫、通稱仲二郎と云ふ。■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋と號す。もと京師呉服屋の子なり。寛永六年二月九日に生れ、七八歳初めて句讀を郷師に受け、長ずるに隨ひ看書を好み、遂に市中の喧囂を厭ひ、閉戸先生の故事〔三國時代孫敬、閉戸讀書せる故事(張方賢楚國先賢傳)〕に擬し、世の交を絶つ。商家に生長して、財利を顧みず。嘗て家の手代某引負(ひきおひ)の事ありて、親戚の人々其の罪を官に訟へんと議る。■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋獨り許さず、從容として諭して云ふ、「吾が財をもて人を死地に陷る、甚だ不慈なり。」と。また意とせず。これより家産零落に及ぶといへども、志いよ\/高く、性理の學を修め、禮儀を踐行して、篤行先生と稱せらる。かつ學ぶ處其の蘊奧〔奧義〕を究めざるなしと(*ママ)。こゝをもて天文・地理・尺度量衡より音律の技に至るまで、よく通曉して多能の美譽を取る。伊藤仁齋と名を齊うして、兄(あに)たりがたく弟(おとゝ)たり難しと人評せりとぞ。元祿十五年七月二十六日卒す。享年七十四。洛外、一乘寺村圓光寺に葬る。

■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋ある時、程近き家に火を失しけるに、をりふし■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋の家風下(かぜした)なりしかば、親戚、門人驚きてはせ聚りしに、忽ち風ふきかはり、風上(かぜかみ)になり、今は類燒のうれへなしと衆皆心安んじ相賀するに、■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋ひとりかへつて愁ふる色甚し。其の故をとふに、「其の火もとの人々、今まで風上なりとて、心を安んじゆだんの所、にはかに風かはりし事なれば、喜び忽ち引きかはりて周章(あはて)措所(おきどころ)を失はるべしとおもひやりてうれふるなり。」と答へられしに、寄り聚れる人々感じて、いそぎ火もとにはせゆき、防ぎ助けしとなり。君子はかくありたし。

■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋著書四十五部ありて、上木〔出板〕の者十六部、多くは■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋歿後(もつご)に至り、後の人是を鐫(きざ)む。自ら著書を刻行して名を求むる者恥づべしと、先人(*原念齋)は云はれたり。因に云ふ、自身の詩文集を自身に板行して世に行ひしは、漢土にては五代の和凝(わぎょう)より始まり、時の人是を非(そし)れりとぞ。

■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋著書目

入學紀綱  大學筆記  中庸筆記  論語筆記  孟子筆記  詩經筆記  書經筆記  周易筆記  春秋筆記  禮記筆記  讀易要領(えうれい)  四書鈔説  孝經集解(しふかい)  通書筆記  西銘(にしのめい)筆記  三器通考  愼終疏節  追遠疏節  姫鏡  近思録鈔説  近思録示蒙句解(くげ)  孝經示蒙句解  家禮訓蒙(きんもう)疏  四書示蒙句解  小學示蒙句解  詩經示蒙句解  頭書(かしらがき)訓蒙圖彙  太極圖説筆記 

■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋自像の詩に、

利名の雙字胡爲る者ぞ。億萬の民生倶に策驅す。耆耋〔としよりたる者〕弃材世計に■(立心偏+夢:::大漢和11372)し。林曲に考槃〔曲を奏して樂む〕して永く言に娯む。(*利名雙字胡爲者。億萬民生倶策驅。耆耋弃材■世計。考槃林曲永言娯。)

増謙益夫(ぞうけんえきふ)の撰める行状は數千言下略(げりゃく)して、此に記す。

先生姓は仲邨氏、諱は之欽、字は敬甫。小字は阿七。子女を以て通じ、次第七に在ればなり。既に長じて七次と曰ふ。交名〔俗稱〕七左衞門。■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋と號す。其の先は河州石川郡仲邨邑の人なり。因て以て氏と爲す。曾祖は交名甚左衞門、祝髪して道金と曰ふ。始めて泉州堺の津に遷居す。是に於て泉界の人と爲る。祖諱は正次、交名新右衞門、祝髪して常喜と曰ふ。妣は岡本氏。慶長大坂の兵に會し、居を京師に避く。此の後遂に平安の人と爲る。考諱は定次、交名甚左衞門、法諱は常怡。妣は鹽屋氏。寛永六年己巳歳二月九日乙未を以て先生を室町通街二條第一閭に生む。先生幼にして穎悟〔さとし〕、未だ能く言はざるに、乳婢之を抱き、其の社會〔町民の集會〕に往くに、先生乃ち能く其の衣服及び僕從・列舍・林木・人群來往の類を識る。後婢人と語り、社に赴くの事に及ぶに、先生曰く、「我も亦之を記得す。」と。婢信ぜずして曰く、「此の時君方に一歳なり。何ぞ能く之を識らん。」と。先生證るに事を以てす。聞く者之を奇とす。四五歳令尊其の能く言て而して字を識るを見て、乃ち紙を帖り雜字數十を書して之に教ふ。既に識り得れば、則ち問に隨ひて應ず。乳を含みながら之を指す。八歳書計を學ぶ。郷に道流の儒書を讀む者有り。乃ち就て四書を授讀す。漸く長じて、儉素を尚び、字を學び書を讀むを以て務と爲す。後遂に性と成る。繁華を好まず、逸樂を羨まず。局戲〔圍碁・すごろくなど〕雜伎に至りては、一も嗜む所無し。儒術を崇信して、異教に溺れず。市肆に生長して、而も物價を識らず。凡そ生を治め利を營むの事澹然として其の心に入る者無し。二十七歳、市肆の囂しきを厭ひ、清閑の地に居んと欲す。是に於て宅を衣店街の二條第一閭西畔に買ひて、之を經營す。一隅に祠堂を設け、假に三世の木主〔位牌〕を設け、之を薦む。郷人將に保甲〔組頭〕を以て先生に屬せんとす。先生之を欲せず。又宅を小川街の二條第三閭西畔に買ひ、新に祠堂を建て、居室を修繕して焉に徙る。後又本閭東畔に遷居す。天和三年、先生五十五にして、隱宅を伏見郷京町南八閭に營み、既に成る。之に徙りて交名を改め、仲二郎と爲す。仲は氏なり。二郎は第なり。乃ち外人の通交を拒絶す。惟〃京師の舊知來り訪へば、則ち延き入れ、學を論ずるのみ。茲より鬚髪を剃らず。以て世に出でず、禮に交らざるを表す。專ら著述を以て事と爲す。諸生漸く衆し。既にして暫く京師に寓す。遂に東九條宇賀の辻村に遷居す。時に年七十。生事益〃衰へて、操益〃固く、諸生來る者益〃衆し。一日■(厂+萬:れい・はげし:激しい〈=礪〉・研ぐ:大漢和3041)瘧疾に嬰る。京に入り、男之淑の宅に治療す。數醫を更ふれども、皆驗あらず。遂に其の室に逝く。享年七十有四。元祿十有五年七月二十六日丙午初昏なり。本月己酉、洛の艮隅一乘寺村の圓光寺の後山に葬る。


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貝原益軒

益軒、姓は貝原、名は篤信、字は子誠、俗稱を久兵衞といひ、號は益軒また損軒ともいふ。易語の損益にとる。初め柔軒ともいひしとぞ。筑前の人、その國侯に仕ふ。父を寛齋といひて、藩醫なり。益軒寛永七年、福岡の官舍に生る。六歳の時、母緒方氏に別る。九歳の時、兄存齋に就て、書を讀み、幼(いとけなき)より群兒の遊を好まず。たゞ讀書を嗜(たし−ママ)み、中年に及び京師に講學す。十九歳、武州河越宿にて祝髪し、柔齋と號す。醫とならんとての事なり。後寛文八年三十九歳の時、束髪して久兵衞といふ。初め二氏の説を喜びしが、後朱學に歸す。心術後世に裨益あらんを欲し、いさゝか名利に馳せず。故をもて著書數百部、假名書多し。其の見識、尤人の及ばざる處なりとぞ。妻江崎氏も婦徳ありて、和歌を能くし、書を工にし、益軒と共に諸州を經歴して、内助ありとぞ。然れども遂に子を設けず。六十二歳にして益軒にさきだちて死す。益軒實子なき故をもて(*貝原存斎)の子を養うて嗣とす。正徳四年八月二十七日卒(しゅっ)す。年八十五。荒津金龍寺に葬る。

益軒謝世の詩歌(しか−ママ)あり。こゝに歌のみ記す。益軒平生詩は好まず。無用の閑言語と云ふ。折にふれては和歌を樂めりとなん。

こしかたは一夜ばかりの心地して八十あまりの夢を見しかな
また益軒の螟子〔螟蛉子、養子のこと〕好古の辭世因に記す。
出る日の入るが如くにおもほえて浮世に殘ることの葉もなし
好古益軒の姪(をひ)なり。養うて子とせるに、先立つて死す。學識ありて益軒の年譜も元祿九年まで好古撰む。此の年卒す。十年よりは後の事は可久の文なり。是も益軒存齋の子なり。

益軒嘗て湊川を過ぎ楠公の昔を追想し、公の梗概を片石に記し、遺跡(ゆゐせき−ママ)をながく存せしめんと、兵庫の富商に議して、すでに楠公の碑文を撰みて與へければ、富商喜びて、やや石工にも謀るこゝろなりけるに、俄に使して其の稿をとりにこしけるに、文章の改■(册+立刀:さん・せん:削る・除く:大漢和1917)もやと附屬して返ししかば、やがてまた使して言傳(ことづて)せるは、「我等思ふに、楠公の勳功日月をも比すべきに、予が如き淺學の筆もて記したらんは踰等〔僭越〕の事なれば、此の事やみぬ。貴殿へ麁忽の約を申たり。許し給へ。」とありしゆゑ、富商も本意なしとて悔みけるとぞ。其の後、西山公〔徳川光圀〕、朱舜水〔明末の學者、遁れて水戸に仕ふ。〕の文をもて楠公の碑は建ちぬ。益軒の篤實謙遜、これにても尊むべし、慕ふべし。

愛日樓集(*佐藤一斎著)に益軒の像贊あり。

自ら損する者は能く人を益し、譽を忘るゝ者は能く毀(*そしり)に遠かる。小言の■(贍の旁:せん・たん:多言する・至る・見る・補給する:大漢和35458)々(せん\/)たる〔多言する貌〕、人其の俚を厭はず。細物の瑣々たる〔細小卑賤〕、人其の鄙を謂はず。藹然の遺影を仰げば、和にして介たり、温にして理あり。於戲(あゝ)有道の士に愧ぢず。(*自損者能益人。忘譽者能遠毀。小言之■々。人不厭其俚。細物之瑣々。人不謂其鄙。仰藹然之遺影。和而介温而理。於戲不愧乎有道之士矣。)

貝原の著書目因に記す。

小學備考  近思録備考  自娯集  愼思録  家道訓  大和俗訓  初學訓  農業全書附録  樂訓  和漢名數  續名數  童子訓  鄙事記  和爾雅  初學知要  岐蘇路記  初學詩法  諸州廻  京廻  吾妻路記  日光名所記  本朝詩仙鈔  大和廻  日本釋名(にっぽんしゃくみゃう)  和字解  點例  五常訓  三禮口訣(さんれいくけつ−ママ)  菜譜  文武訓  筑前名寄  有馬名所記  嚴島之圖  松島之圖  天橋立之圖  神祇訓  日用良法  和學一歩  扶桑記勝  吉野山之圖  女大學  花譜  心畫軌範  大和本草  歴代詩選  養生訓  大疑録  日本歳時記  頤生輯要  自警篇  三記聞  筑前續風土記  天滿宮實記 

訓點を附したる書は、小學孝經大義・四書五經・朱子文範古文前集(*古文真宝前集)・同後集(*古文真宝後集)等ありと。

益軒年譜は姪(をひ)好古貝原可久二人の手に成る。墓誌は門人竹田定直撰文なり。此に掲ぐ。

先生姓は貝原、諱は篤信、字は子誠。寛永庚午(*寛永7年)十一月十四日を以て、筑前州福岡の城内に生る。其の先は備中州の人なり。大父某は豐州に來り、K田の先公に仕ふ。筑州に來りしより、世〃家臣と爲る。先考は寛齋、諱は利貞。緒方氏の女を娶つて、先生兄弟を生む。先生、兄弟に於て季たり。先生邦君に事ふる三世、儒學教授と爲る。禮遇彌〃厚し。累ねて采地〔領地〕を加へ賜ふ。元祿庚辰(*元禄13年)年七十一、老を告げて事へを致す。猶月俸を賜りて、其の老を優す。先生稟性純厚、幼にして聖人の道を志す。學博洽を極め、操る所至要。忠信欺かざるを以て、主本と爲す。人を愛し物を濟ふを要務と爲す。昔は曾て京師に在り。程朱の書を講ず。聞く者靡然として來る。近世性理の學を興す者は先生を始と爲す。然れども其の性甚だ謙り、只躬の逮ばざるを恐れ、名に近くを喜ばず。常に言く、「吾れ人に長ずる者無し。但だ恭默道を思ふのみ。」と。然れども一時の老師宿儒、悉く推服し、名門右族各〃敬屈す。聲名洋溢〔滿ちあふるゝこと〕して辱く清朝に聞し、恭く台廷に達す。嗚呼盛なるかな。晩年家居清閑自ら娯む。手卷を釋かず。著す所の書、百餘種に至る。其の志務めて有益を作て以て皇大極り罔き洪恩に報ゆるに在り。正徳甲午(*正徳4年)八月二十七日を以て、病みて家に卒す。享年八十有五。荒津金龍寺の内に葬る。先生河崎氏の女を娶る。賢行有れども、而して子無し。仲兄存齋の次子重春を取りて嗣と爲す。今に仕へて本州に在り。監司と爲る。一男二女有り。皆幼し。重春銘を小子に託す。乃ち銘に曰く、
恭默道を思ひ、精を極め微に造る。物を愛するを務と爲し、天に事へて欺かず。韜藏〔才徳をくらましかくす。〕増〃顯れ、謙遜愈〃輝る。遺訓策存し、後學久く依る。(*恭默思道。極精造微。愛物爲務。事天不欺。韜藏増顯。謙遜愈輝。遺訓存策。後學久依。)


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新井白石

白石新井氏、名は■(玉偏+與:よ:「與」に通用。:大漢和21297)(よ)、後に君美と改む。字は在中、通稱勘解由と云ふ。號を白石と稱(とな)ふ。又錦屏(きんぺい)山人とも云ふ。本姓荒居なり。其の先は新田氏より出る。父を正濟(まさなり)といふ。常陸の人なり。後江戸に來り、土屋侯に仕ふ。其の後致仕して淺草に住む。白石明暦三年二月十一日に生れ、康熈帝と同日支干〔えと〕なりとぞ。三歳の時より大字を書し、十歳の頃は侯の左右にありて、よく書札往復の事を勤めしとなん、父と共に浪遊し、後木下順庵に從學して高足弟子〔すぐれたる弟子〕となる。

文廟〔文照公、徳川家宣〕潛邸の時仕へ奉る。書記となり、繼統と後、追々登庸せられて、恩遇他に異り、遂に爵五品を賜はり、祿千石を食む。筑後守と稱す。其の才經濟に長じ、著述の書は盡く國家(こくか)の典刑、有用(うよう)の具となる。詩文も藝苑の魁首、一時流傳して異邦に至る。白石常に云ふ、「生前(しゃうぜん)封侯を得ずんば、死後閻羅〔閻魔王〕となるべし。」と。其の豪邁つひに素志にかなへり。享保十年五月十九日卒す。年六十九。淺草報恩寺中、高徳寺に葬る。法諡を慈清院釋浄覺 といふ。

白石七歳の時、芝居見に行きて、始より終まで一々記憶して歸られたりとなん。「此の兒あしくなるか善くなるかなみ\/ならず。」と父のいはれたりとぞ。又白石の號は深き意(こゝろ)あるにあらず。たゞ古人姜白石黄白石沈白石などを見て名付しものと自ら云はれたり。また常に書を見るに三几を設けて、一(いつ)は已に讀みたる書を置き、一はいまだ讀まざる書を置き、一は今讀む書を置かれたりとぞ。

白石自ら肖像に題す(*る)詩に、

蒼顔鐵の如く■(髪頭+兵:びん:「鬢」の俗字:大漢和45469)銀の如し。紫石稜々電人を射る。五尺の小身渾て是れ膽。明時何んぞ用ん麒麟に畫くを。(*蒼顔如鐵■如銀。紫石稜々電射人。五尺小身渾是膽。明時何用畫麒麟。)

壯年朋友に與(くみ)するに、死をもてせんとする事折燒柴(をりたくしば)(*折焚柴記)にあり。又非常の用とて五十金の賜をもて甲冑を求めしなど見れば、詩意空言にあらざるを知るべし。

白石著書目に、
白石餘稿  白石詩草  問田歩  田制考  白石遺文  經濟典例  日本紀論  俳優考  貨幣考  車輿考  冠服考  樂舞考  職官考  聖像考  新井家系  玉考  木瓜考  人名考  岩松家系  決獄考  文字考  軍器考  同文通考  古史通  東雅  五事略  讀史餘論  復號紀事  奉命教諭  癸巳三月儀  鬼神論  藩翰譜  同系図  黄白問答  南島志  北島志  停雲集  新安手簡  鷄肋稿  折燒柴記  畫工便覽(べんらん)  珊瑚網鈔  百家編  集古圖説  西洋紀聞  西洋圖説  采覽異言  倭地形類  議訴父女罪  樂考  地名河川兩字通考  觀樂江關筆談  起請文考證  朝鮮聘禮事  朝鮮信書式  將軍宣下儀  孫武兵法擇  講義進呈案  天爵堂漫鈔〔此の外退私祿紳書家禮儀節考等あり。略す。白石著書凡三百餘種に及ぶとぞ。近聞偶筆に云へり。〕

白石の墓碣文は室守禮(*師礼か。室鳩巣の号。)撰べり。然れども、鳩巣文集にのみ載せて、墓碑に彫る(ゑる)處にあらず。

朝散の大夫〔從五位下の唐名〕筑後守新井源公、諱は君美、字は在中、初めの名は■(玉偏+與:よ:「與」に通用。:大漢和21297)、白石は其の號なり。其の先は上野の人にして、新田の族たり。新田大炊助義重の曾孫、新田二郎某、削髪して僧と爲る。其の居る所に因て荒居禪師覺義と稱す。其の子孫、遂に荒居を以て其の家に號す。後又新井に易ふ。蓋し我邦方言にて荒井と同訓なればなり。覺義の後世〃南朝に仕ふ。南朝既に亡びて、荒居の族上下兩野の間に流寓す。元龜の初め、圖書の允某有り。上野勢多郡女淵の城に據り有つ。は其の後なり。祖は勘解由某方に世屯に遭ひて、土地を亡す。卒に常陸に往て多賀谷修理大夫平宣家に從ふ。多賀(*谷)の家敗れて、去りて河内郡に隱る。其の宅門前に古橋有り。里人號して古橋殿と爲す。父は與次右衞門正濟、母は藤原氏坂井某の女なり。正濟幼にして怙恃〔父母〕を喪ひ、年十三、江府に來り、武州の人と爲り、壯に及びて土屋の家臣と爲る。甚だ民部君(*土屋利直)の爲に任用せらる。民部君卒する後、故有りて去る。生れて岐嶷穎悟夙成、三歳の時、能く大字を書す。民部君其の幼慧を愛して、召して膝下に置く。十歳に及ぶ比ひ、常に民部君の側に在り。代書殆んど老成の若しと云ふ。延寶三年家君に從うて辭し去る。天和二年堀田筑前■(危の垂/矢:こう:「侯」の本字:大漢和23937)(*堀田正俊)に仕ふ。會〃朝鮮來聘あり。迺ち客館に詣り、其の學士等と唱和す。韓人其の陶情集に序す。是の歳家君の憂に丁り、居る。何くも無く仕を辭し、去て府下に隱居す。元祿六年冬十二月、起て甲府の辟に就く。始て至るに儒職を以てす。召れて講筵に侍す。優待日に渥し。後數年、特旨ありての資格を進め、列して寄合衆と爲す。寶永六年夏四月、文廟始て大統を繼ぐ。秋七月、采地歳租五百石を賜ふ。七年冬十一月、事を以て京師に使す。八年春二月、還り報じて旨に稱ふ。冬十月、朝鮮來聘期に先て、に命じて其の事を掌らしむ。多く建白する所有り。皆施行さる。是の月、從五位下に叙せられ、筑後守を拜す。十一月、采地を倍賜さる。前の食む所と并て千石と爲る。職顧問に在るを以て、出入する毎に風議必ず事を論ず。剴切〔よく當てはまる〕動もすれば旨■(穴冠/疑:::大漢和59827)〔肯綮〕に中る。將順匡救裨益する所少からず。正徳中、國家不幸、仍りに大喪に遇ふ。而して漸く老い、當世に意無し。迺ち門を杜ぎ客を謝して日夜典籍を以て樂と爲す。卒に此を以て終ふ。明暦三年丁酉二月十一日を以て生れ、享保十年乙巳五月十九日疾みて卒す。享年六十九。日下氏朝倉長治の女を娶り、二男を生む。長明卿今家を克く。次は宣卿先て卒す。二女長は市岡正軌に適き、次は石谷清■(夕/寅:いん::大漢和5805)に適く。少かりし時自ら膽氣不羈を負ふ。既にして節を折つて書を讀み、經史百家の編に通ず。中歳始て順庵木先生の門に遊び、該博を以て稱せらる。最も唐詩を善くす。其の詩豐腴馴雅、直に開元の諸名家と相頡頏(けつかう−ママ)す〔力相上下す〕。是に由て四方爭ひ傳て以て海外の國に逮ぶ。而しての詩名天下に擅なり。其の著す所の書、家に藏す。後世必ず之を傳ふる者有らん。銘に曰く、
公昔し鴻漸し〔大に進む〕、羽儀〔出仕の状〕巖廊たり〔威儀あり〕。晩節豹隱〔豹變退隱〕、蔚(ゐ)乎其れ章あり。國一老〔一賢人〕有り、天憖遺〔強ひて留むること〕せず。朝野共に慨く。蓍龜を亡ふが若し。佳城〔墓地〕新に卜す。山阿環り周つて、既に安く且つ固し。何ぞ啻に千秋のみならん。(*公昔鴻漸。羽儀巖廊。晩節豹隱。蔚乎其章。國有一老。天不憖遺。朝野共慨。若亡蓍龜。佳城新卜。山阿環周。既安且固。何啻千秋。)

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三輪執齋

執齋姓は三輪、名は希賢、字は善藏、執齋と號し、また躬耕廬と號す。平安の人なり。寛文九年に生る。その先祖は大和三輪明神の社家なり。父を澤村自三(じさん)といひ、醫をもて平安に住す。母は箸尾氏。執齋六歳の時、母を亡ひ、十四歳にて父を失ひ、市人大村氏に養はれ、人となりて後、眞野氏を嗣ぐ。後又本姓三輪となる。はじめ佐藤直方に從ひ、性理の學儒たり。後王陽明の學に歸す。初め酒井侯に仕へ、後致仕して、講説をもて業とす。京・大坂・江戸に居住して、生徒を教育す。また和歌を能せり。其の集にある歌凡そ六百餘首あり。儒にして和歌の道を悟る、比すべきなしとぞ。さればこそ元文四年七十一歳の時、壽藏〔生存中に立つる墳〕を立てゝ、和歌二首をもて自書(みづからしる)す。これより五年を隔てゝ、寛保四年改元ありて、延享元年と成る、その年正月二十五日、京師にて卒(しゅっ)す。年七十六。すなはち壽藏の地、建仁寺の中(うち)兩足院に葬る。

執齋病に寢(かゝ)るは寛保三年の冬十二月半比より翌正月にいたり、いよゝ革(つよく)なりしに、正月二十三日髭を剃りて祠堂を拜して、永訣を告げ、二十三日、二十四日兩日には、親族また年來舊識の輩(ともがら)日來(ひごろ)家門出入のもの、及び家僕に至るまで悉く永訣し畢り、二十四日晝未の刻に、筆紙を請ひて、寛保四年子正月二十五日、三輪希賢死す、と自書(みづからしる)し、翌二十五日朝寅の刻易簀(せきをかへ−ママ)し(*し)よし、喪記紀事に見ゆ。さすが名儒のこゝろえさも有りたきことならんかし。

執齋、先師佐藤直方の死する時、其の靈前へ手向る和歌八首あり。いま一二をこゝにしるす。

今年(*享保4年)八月(はづき)望(もち)、佐藤先生俄に病し給ふと聞くより、やがてまゐりけれど、はやこと切れ給ひぬ。永きわかれにも及ばざりしかなしさよ。終夜むなしき御(おん)からのかたはらに侍りて、すぎこしかたをおもひつゞけ侍る。今宵は十五夜なりけれど、雨いたく降りて、名高き月も見えず。
名に高き最中の月〔中秋の月〕のかくれしや世にたぐひなき恨なるらん
希賢十九になり侍る年、始めてまみえけるよりことし三十三年になりぬ。
けふまでと契りやかけしつかへしも三十ぢ三とせの秋の夕露
此のごろ先生(*佐藤直方)、「ともなはん人しなければたどり行く千代のふる道あとをたづねて」とよみ給ひて、希賢に見せ給ひしも、四日、五日のほどなり。
たづねけん千代の古道あとかへてひとりや苔の下に行くらん

外五首略す。これは享保四年の事なり。また同(おなじ)十二年春の歌に、

去秋(*享保11年)明倫堂を開きけるによりて、古本大學〔陽明學派の用ゐる大學〕の復の心を春のはじめによめる。
古にかへすをしへの道ひろみまもる仁(めぐみ)のはるは來にけり
うづもれし道の深雪のやゝとけて昔にかへる春も見えけり

明倫堂は執齋の講堂、江戸下谷に住む時に剏む。歿後門人雄琴〔川田雄琴〕なるもの、君公に請うて大洲に移すとぞ。執齋四言教の歌畸人傳(*続近世畸人伝)にあり。

執齋七絶詩一二を摘みて、此に記す。

漫興
黄鳥聲々檐外暮。杏花陰裏獨り欄に倚る。光風霽月天地に滿つ。洒落自ら知る茂叔〔周濂溪。宋の大儒〕の看。(*黄鳥聲々檐外暮。杏花陰裏獨倚欄。光風霽月滿天地。洒落自知茂叔看。)
三月道灌山に游ぶ。(*三月游道灌山)
道灌宅を相す一丘岳。徒に空名有り、身殘を受く。識らず、當時築成の處。却て游士をして游歡を爲さしむ。(*道灌相宅一丘岳。徒有空名身受殘。不識當時築成處。却令游士爲游歡。)
東叡に花を見て京を思ふ。(*東叡見花思京)
杖を曳き花を尋ねて赤城に到る。鳥啼き日暖かにして晩湖清し。白櫻還郷の約有るに似たり。亦是れ皇州叡嶽の名。(*曳杖尋花到赤城。鳥啼日暖晩湖清。白櫻似有還郷約。亦是皇州叡嶽名。)
大學を讀む。(*讀大學)
孔言曾意三王の道。程拔朱輯萬世の規。聖教民彜の外を求めず。明新善〔三綱領明2明徳1、新民、止2於至善1。〕盡て自ら知ることを窮む。(*孔言曾意三王道。程拔朱輯萬世規。聖教不求民彜外。明新善盡自窮知。)

執齋著書目因に記す。

周易進講手記 全六冊 孝經小解 四卷 合一冊
大學俗解(ぞくげ) 上下 合一冊 四教講義 合一冊
神道臆説 十三條 合一冊 日用心法并跋顧■(言偏+是:し::大漢和35704)論 合一冊
堯典和譯本塞源論抄外傳時務問答服制問答并總論學校説財有2大道1 合一冊
十二孝子好人録 合一冊 正享問答救餓大意社倉大意 合一冊
格物辨義程子春秋序解井田經界説 合一冊
拔本塞源論抄訓蒙大意解教約和解 合一冊
論語中庸■(示偏+帝:てい::大漢和24778)嘗考上加茂歩射之次第并競馬之事含翠堂記先致堂記祠堂考平野學問所之事淡齋記祭誠齋記積善堂記居喪諦臍噬祭薦卷士心論治教論四言コトカキ養子辯之辯會約序 合一冊
2佐藤先生1書并答論教條2或人1晩年定論之論佐藤先生跋批王轂書2酒井彈正忠貫12河崎氏12原田平八疑問12鈴木貞齋先生1事成編詩二十六首邪正説并知士説2佐藤先生1并策答雜文述二十五條 合一冊
曾禰之記并和歌獻策記古稀之賀和歌并序2土地1會津孝子傳序送藤使君辭并和歌享保壬子春述文芥川小野寺歌集之跋藤樹先生全書序拔本塞源論抄序大學講義序2篆字論語後1藺相如贊諱説2渡部子男1明倫堂成祭2王文成公1水文大久保忠喬朝臣碑文醉露英覺菅雄碑文孝女子於以麻碑文猪兵翁碑文貞婦栗女碑文祖戸田還五郎碑文西江一水居士碑文拙庵今井君之碑文 合一冊
執齋先生和歌詠艸先生喪記記事追善詩歌 合一冊

五井蘭洲撰する執齋澤村自三の碣文もて此に擧ぐ。

要叟居士澤村自三君の墓記
諱は親重、童名は乙若、俗稱は次郎三郎、自三と號す。姓は三輪、假りに澤村相川を以て、氏と爲す。家世〃濃州關原に住す。祖考は道悦居士、參子有り。長を藤大夫と曰ふ。越前一伯公の事に坐して歿す。次は僧と爲り、林藏主と稱す。關原の役に小西行長を生擒して、轅門〔陣門〕に獻ず。因て賞して黄金及び茶器を賜ふ。次は則ち次郎左衞門、道祐居士と號す。妻は江州長濱、大村道與の妹、四子を生む。伯を刑部太郎と曰ひ、道時と稱す。後僧と爲り、旡難と稱す。仲を刑部次郎と曰ひ、又奧之助と稱す。叔を仁左衞門と曰ふ。蚤く歿す。季は則ちなり。大村孺人先て卒す。道祐居士遂にを携へ、遷て京師に居り、再び宮崎氏を娶り、男道意・女某を生む。倶に癈疾有り。特に焉を鍾愛す。道祐居士卒す。享年九十三。妙心寺聖澤院に葬す。夙に四方の志有り。服■(門構+癸:おは:終:大漢和41430)て、家を道意に讓り、諸州に遊歴す。醫鍼及び劍を學び、皆其の術に通ず。松平大和守源直矩公に越に播に遊事す。後京師に歸り、家居す。始め某氏を娶り、尋で之を出す。一子を擧げ、僧と爲す。東溟と稱す。繼室箸尾氏一子を生む。希賢是なり。妾一女を生む。乙女と名く。箸尾氏先て卒す。釋號は花岳妙榮、建仁寺兩足院に葬る。天和二年辛酉九月十九日、病を以て卒す。享年六十。釋號は要叟、亦兩足院に葬る。君の將に終んとするや、二子尚幼し。乃ち諸を大村道慈に託す。道慈は即ち道與の嗣子なり。二子を待つこと、己の子に齊し。恩義兼ね至る。爲に乙(*乙女)を左衞門尉戸田久寛に嫁せしむ。而して參子を生み、早世す。希賢小野氏を娶り、子旡きを以て去る。繼室久住氏六男二女を生む。曰く、俗稱新二郎。曰く、俗稱文之丞。曰く、俗稱爲之丞。曰く盛基、俗稱伊織。曰く勝全、會〃道慈の孫道節歿して後旡し。其の母及び主管等勝全を請ひて、其の家を繼がしむ。遂に姓の大村を冐す。俗稱彦太郎。曰く廣全、俗稱彦左衞門。長女は細井安之に適く。次女は渡邊正英に適く。倶に恙無し。元文四年乙未十一月、三輪希賢建つ。五井純禎誌す。


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荻生徂徠

徂徠荻生氏〔原本混じて徂徠を徂來に作る。〕、本姓は物部なり。名は雙松(さうしょう)、字は茂卿といふ。通稱惣右衞門、徂徠と號し、又■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園、赤城翁とも號す。名は避る事あり。字をもて行はる。父を方庵といひ、憲廟〔常憲公綱吉〕の侍醫なりし。徂徠寛文六年に生れ、五歳にして能く字を識り、十四歳の時、父方庵事に坐して、南總に竄せらる。徂徠從ひて移る。然れども僻地にありて、苦學し、十五歳の頃より文を屬し、二十五歳の時、赦に値ひて、江戸に歸るを得たり。遂に大儒となり、甲斐侯(*柳沢吉保)に聘せられ、祿五百石を賜はり、編修總裁となり、後大城〔江戸城〕にも屡々めされしとなり。我が邦慶元以來の儒風こゝに於て一變し、復古(ふくこ)の學を唱へて、一時を風靡す〔草木の風靡する如く從ふ〕。文章は李王(*李攀竜・王世貞)の修辭を宗とす。英才多く其の門に輻湊して、其の學風を補翼す。太宰春臺服部南郭をはじめ、其の他東野(*安藤東野)・周南(*山県周南)、金華(*平野金華)・■(三水+旡2つ+鬲:せん:人名:大漢和49237)水(*宇佐美■水)數ふるに暇なし。徂徠才學共に富みて、尤經濟に長じ、また雅樂・象胥(しゃうしょ)〔譯官〕・軍旅・法律、すべて百家のこと精覈せざるなし。然れども好奇の癖ありて、後世誹譏するものまた多し。實に東方の一偉人、享保十三年正月十九日卒す。年六十三。箕田長松寺に葬る。法諡を清淨院根與知專居士といふ。

徂徠嘗て庫(くら)一の書物を拂ふものありしを、金六拾兩程家財を賣拂ひ買はれしとなり。古文、宇子〔宇佐美■(三水+旡2つ+鬲:せん:人名:大漢和49237)水〕の序にもいへり。誠に豪傑の所爲(しわざ)なり。また書を看るに少しも止む時なし。薄暮燈を點ずる時は戸の外に出でて是を見る。家人燈を點じ終れば、直樣(すぐさま)燈の下に就きて讀みたりとぞ。

徂徠常に云く、「人に得手不得手あり。予は楷書に短なり。」とて、草書のみ書きたりとぞ。草書韻會(ゐんゑ)を几上に置きて學びしよし。また算用は八さんを覺えられたるのみなるに、度量考を作らる(*る)時は、紙の端に筆にて數とりを書付けて、殊の外骨ををられ、其の後中根丈右衞門(*中根伯珪)に見せて正し、猶また春臺は極めて算の上手にて、改めて字をも直せりとぞ。古人の苦學常儒の及ぶ處にあらぬを見るべし。

春臺始めて徂徠に對面のとき、其の才を窺はん爲、扇面へ釋迦老子并(ならび)立つて、孔子半伏の貌(かたち)を圖して、徂徠に贊を請ひければ、筆を取りて、「釋迦空を釋き、老子虚を談(かた)る。孔子伏して笑ふ。(*釋迦釋空老子談虚孔子伏笑。)」と書けり。春臺徠翁の才窺ふべからざるを喜び、遂に弟子となりしとぞ。

徂徠の一生一首の和歌とて、

我が門の五もと柳枝たれて長き日あかぬうぐひすのなく

○また高師直鹽冶の妻に貽(おく)る歌の意(こゝろ)を譯せしに、

我美人を思ひて之に書を貽る。美人見ずして庭除に棄つ。吾れ吾が書を拾うて歸て十襲す。心に謂ふ美人手の觸る(*る)所と。(*我思美人貽之書。美人不見棄庭除。吾拾吾書歸十襲。心謂美人手所觸。)

もし韻あらば翻詩といはんも可ならんと、詩徹にいへり。

徂徠著書目、

辨道  辨名  大學解  論語解  中庸解  讀(とく)荀子  讀韓非子  讀呂氏春秋  孫子國字解  呉子國字解  素書國字解  明律國字解  譯則  明律考  紀効新書抄  射書類聚解  井地解  西洋火攻神器説國字解  素問評  孟子■(册+立刀:さん・せん:削る・除く:大漢和1917)(さん)  譯文筌蹄(やくもんせんてい)  譯筌後編  孟浪之篇  草堂客話  南留別志  經子史要覽  答問書  度量考  葬禮考  滿文考  樂律考  樂制篇  論語徴  幽蘭譜抄  琴學大意抄  廣象基譜  歌題集  明十三省考定圖  琉球聘使記  ■(金偏+今:けん::大漢和40223)録  同(おなじく)外書  政談  太平策  經濟總論  憲廟實録  四家雋(せん)  古文矩  文變  文罫(ぶんくゎい)  韻■(既/木:がい::大漢和15363)  唐後詩  絶句解  絶句解拾遺  栢梁餘林  皇朝正聲  徂徠外書  徂徠集  詩語自在抄  詩題苑  文考  管子考  晏子考  ■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園録稿  同遺編  同隨筆  弁髦編(*ママ)  樂語瑣言  翰墨事略  論語辨書  甲州府志 

此の外點付けし書目

晉書  宋書  南齊書  梁書  陳書  六諭衍義  射學正宗  射學正宗指迷集 

龜田鵬齋徂徠の贊に、

先生■(匈/肉月::〈=胸〉:大漢和29441)襟豁達、気象卓犖、毅然として先王の道を以て己が任と爲す。爰に復古の學を唱へ、程朱の理學を■(手偏+倍の旁:ばい・ほう・ふ:打つ・打たれる・打撃・攻撃:大漢和12244)撃して、五百年の新義を排し、李王の脩辭を擬議して、二千載の古言を徴す。東方の文辭是に於てか美なり。漢家の古訓是に於てか存す。前に憲廟〔五代將軍綱吉、諡號常憲院〕に謁して、講筵經を説く。後徳廟〔八代將軍吉宗、諡號有徳院〕に見え、談笑聽を驚す。此の服は則ち上の賜ふ所なり。其の人則ち一時の英靈なり。其の名は茂卿、號して徂徠と曰ふ。天下の學士誰人か知らざらん。若し先生の家學を晰せんと欲せば、則ち須く再び西漢以上の書を採つて之を熟讀すべきのみ。
    于時寛政十一年庚申冬十二月十二日     後學鵬齋龜田興敬題

徂徠辨道辨名二書異邦にて翻刻す。且つ小傳あり。(*原徳斎)が先人(*原念斎)の先哲叢談によりて文をなすよし。道光十六年(*1836年〈天保7年〉)梅溪錢泳といふ者の撰。其の傳に、

日本國徂徠先生の小傳
徂徠先生物茂卿、名は雙松、避くる所有りて字を以て行はる。國の江戸の人。其の先荻生氏と爲すは、物部守屋の後なり。父方庵醫術を以て大府に官す。延寶中、事に坐して上總に貶せらる。時に茂卿年十四、亦父に隨ひ行く。而して讀書を喜び、穎敏群ならず、遠志有り。上總は三面皆海にして、田父・野老・蜑戸〔あまの住處〕・■(齒+差:し::大漢和48740)丁〔■(齒+差:し::大漢和48740)は■(鹵+差:さ::大漢和47563)の誤なるべし。■(鹵+差:さ::大漢和47563)丁は■(塩の口を鹵に作る:えん:鹽の減画略字:大漢和47567)やき。〕の中に雜處す。既に書籍に乏しく、又師友無し。偶〃舊篋を繙き、其の大父仲山府君の手鈔大學諺解一冊を得たり。熟讀して深く之を思ふ。此れより群籍を該貫し、博識洽聞、一書を讀む毎に輙ち標註を爲す。見る者之を異とせざる莫し。十年を越え、恩澤を以て赦に値ふ。東都に還て、芝街に卜居す。父母亦旋〃沒す。一貧洗ふが如し。舌耕〔講説をもつて生計をなす〕自ら給す。遇〃柳澤氏功を以て侯に封ぜらる。茂卿が名を知り、召て掌書記と爲す。始て褐を解く。を愛敬す。然れども其の祿尚微なり。益〃封を受くるに■(之繞+台:たい・だい:及ぶ:大漢和38791)びて、茂卿亦其の秩を益す。宦五百石に至る。其の好みに非ざるなり。茂卿初て程朱の理學に服す。嘗て■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園隨筆を著し、自ら娯む。既にして翻然として改む。遂に痛く性理を駁し、又李于鱗に傚ひて古文辭を脩す。并に唐宋以來諸儒の説を將て、一切之を排斥す。侏離■(決の旁+鳥:げき:〈=鴃〉:大漢和46722)舌〔不分明なる蠻人の語、詞藻雅馴ならぬこと〕を爲すを免れず。然れども其の豪邁卓識、激昂慷慨、宏文鉅著、已に一世を籠蓋するに足れり。而れども尤も兵家の言を好み、孫子解及び韜■(金偏+今:けん::大漢和40223)録を著す。渉獵殆んど盡く。遂に七書を視て、空談と爲し、戚繼光實用有りと謂ふ。又一家の象棋を創造し、以て戎機〔戰法〕を寓し、廣象棋と名く。子凡そ百八十にして、局は則仍ち碁局を用ゐる。其の陣列軍伍攻撃守禦備はらざる無し。一日門下の諸生韓非子を會講す。議論鋒〔鋒は蜂の誤か。〕のごとく生ず。茂卿坐に在り。獨り口を箝んで言はず。諸生悦ばずして曰く、「先生何ぞ折衷無らんや。」と。茂卿氣を屏て曰く、「此の書、余嘗て成説有り。將に明日を待ちて之を示さんとす。」と。而して是の夜、始て筆を下して、疊々數千言、滿座之が爲めに傾倒す。生平他の嗜好無し。而して養生法を重んず。以爲らく人生の飮食居處より以て出入・動止・應接・賓朋の事に至るまで、苟も以て生を傷ふべき者は吾爲さざるなり(*と)。頗る自ら負ふ。嘗て人に謂つて曰く、「吾が死後有る所の遺文逸事、必ず當に遠に傳はるべし。然れども海内眞に我を知る者無し。我を知る者は其れ唯聖人か。」と。享保戊申(*享保13年)正月十九日を以て、家に卒す。年六十三。門下の諸生之が爲に喪を發す。芝三田長松寺の壽命山に葬る。猗蘭侯〔本多忠統〕爲めに墓志を撰す。葛烏石(*松下烏石)之を書す。刻甫て畢り、遠近爭ひ傳ふ。往來摸搨する〔うつす〕者日に千を以て數ふ。其の當時重ずる所と爲る、此の如し。著す所、論語徴二十卷・辨道一卷・辨名四卷有り。初め茂卿生るゝ時、其の母、人有り兩松を以て簷隙〔のきの間〕に挿むと夢みて生む。故に雙松と名く。長ずるに及び、自ら徂徠と稱す。魯の頌徂徠の松の義に取るなり。國の學者太宰純(*太宰春台)・服元喬(*服部南郭)、皆其の弟子、咸く稱して徂徠先生と爲すと云ふ。
梅溪先生(*梅渓銭泳)撰む所の物茂卿の小傳一編なり。是日本原善公道著す所の先哲叢談に據りて之が損益を爲して文を成す。先生の臆説に非ざるなり。因て辨道辨名の前に附刻す。謂はゆる其の詩を誦し、其の書を讀み、其の人を知らずして可ならんや。後の覽る者幸に之を諒せよ。秀水鄭照識す。

*巻3了

 中村てき齋  貝原益軒  新井白石  三輪執齋  荻生徂徠

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《凡例》
〔〕原文の割注・旁記
詩・賛の書き下し文は、漢字平仮名交り文に改めた。詩の場合は、緑色で白文を併記した。
緑色はその他にも心覚えのために任意に付したものがある。(<font color="#008B00">・・・</font>タグ)

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