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近世畸人傳 卷之一

'99.1. 現在、まで。

 中江藤樹 附 蕃山氏  貝原益軒  僧桃水  僧無能  長山宵子  甲斐栗子  若狭綱子  樵者七兵衞妻 同久兵衞妻  伊藤介亭  宮■(竹冠/均:いん::大漢和26032)圃  駿府義奴  木揚利兵衞  河内清七  木揚利兵衞  大和伊麻子  近江新六  龜田久兵衞
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中江藤樹 附 蕃山氏

藤樹中江氏、諱は原、字は惟命、通名與右衞門、江西〔琵琶湖の西〕高島郡小川邑の人なり。藤樹下に産れ、後藤樹下に學を講ずるをもて、門人此號を稱す。又夢中人ありて光■(口偏+黒:もく・ぼく:静か・黙る・欺く・しわぶき:大漢和4283)軒の號を授くると見て、光の字を、謙遜し省きて■(口偏+黒:もく・ぼく:静か・黙る・欺く・しわぶき:大漢和4283)軒と稱す。僻地に生るといへども、兒として野鄙のならひに染まず。九歳の時、祖父吉長嗣とせむと請ひて、その在所伯耆に伴ふ。祖父手筆に拙きを悔いて、勉めて此の子に學ばしむるに、其の書、人驚くばかりなりき。十歳の時、伯耆の大守加藤侯伊豫大洲に轉封〔國替〕せらるゝ故に彼所に移りぬ。十三歳の時、祖父賊をうつ事あるに、少も恐るゝ氣色なく、祖父の命をうけて賊を捕へむとす。志氣幼くして既に此のごとし。はた一物の遺受〔物のやりとり事〕も甚謹みて、羞惡の心深く、一食を喫しても君父の恩を思惟(しゆゐ)す。十七歳の時、京より禪僧來て論語を講ず。その地の士風、武を專にし、文學の業を弱とし、敢て聽く者なし。唯先生獨り往いて聽受す。論語上篇を終へて僧京に歸りし後、又師とすべき人の無きを憂へて、四書大全〔三十六卷。明の胡廣等奉勅撰。〕を購ひ(かひ)得て熟讀す。然れども他の誹謗を憚り、晝は終日諸士と應接し、毎夜深更に及び二十枚を見るを業とす。已後も師なくして、困學年を經、ひとへに聖學〔聖人の學〕をもて己が任とす。然るに、其の母氏老いて故郷に獨りあるを悲しび、再囘暇を乞うて歸省し、直に是を倡ひて伊豫に歸らむとせしに、はるけき波濤をしのぎ他國にうつる事を欲せ(ほりせ)ず。故に致仕し〔官辭し〕て歸らむと乞ひ、且つ二君に仕へ出身の意あるにあらざる事を天に誓ひけれども、其の才徳を惜みて許されず。二十七歳の冬十月終に逃げさる。(このことをとりて本朝孝子傳に出す。)その時、今年の祿米悉く倉に積み置き、嚮に友人に假貸し(かりし)米穀あるをば、器物を賣りて是を償ふ。江陽〔其郷里小川村〕に至るとき、銀纔三百錢有りしを、祖父の時より使ふ者、よる所なからむを憐みて貳百錢を與ふ。そのもの賜ふ事の過半なるを痛み、敢て請くる志なく、只從ひて艱難を共にせむといへども、先生強ひて與へて歸せり。此の後かの誓のごとく終身出仕へず、其の志を高尚にす。初僕に與へし殘の銀百錢をもて酒を買ひ、また農家へ賣りてその聞のもて(*ママ)母氏を養ふ。後又刀を賣りて銀十枚を得て、是をもて米を買ひ、農家に借す(かす)。息を取る事世人より甚減ずる故にや、其の債(つぐなひ)を責めずして皆是をかへす。三十初て娶る。格法に泥む〔儒教に三十にて室ありと云へる事〕故とぞ。其の女容貌甚醜ければ、母氏憂へて出さむと欲すれども、先生固く辭す。此の婦容貌醜しといへども、性質甚聰明にして、心を用ゐること正し。常に諸門人會して、夜半或は五更〔正子十二時〕に及べども、終に先生に先達ちて寢ねず。居常(つねに)小事といへども、命を受けざれば行はず。先生從來朱學を尊信し、門人に示すに小學の法をもてす。故に門人格套に落在し〔規則に拘泥する事〕、拘攣(こうれん)日々に長じ、氣象漸く迫りて圭角を持す〔角だつ〕。先生三十有餘、陽明全書を見しより、その非を覺りて門人に示して曰く、「格套を受用するの志は、名利(めいり)を求むるの志と、日を同じうして語るべからずといへども、眞性活溌の體(てい)を失ふ事は均し。只吾人拘攣の心を放去し、自(みづから)の本心を信じて、其の跡に泥むことなかれ。」と。門人大に觸發興起す。又語りて曰く、「嘗て山田氏に贈るに、三綱領〔大學の明徳・新民・止于至善〕の解をもてす。其の至善の解に曰く、『事善にして心善ならざる者は至善にあらず。心善にして事善ならざる者もまた至善にあらず。』と。此の時未だ支離の病(へい)を免れず。故に誤りて此の如く解す。」と。門人問ひていはく、「此の解甚親切明當なるを覺ゆ。如何ぞ支離とする。」(*と。)先生云はく、「心事元是一也。故に事善にして心不善なるものいまだあらず。心善にして事善からぬ者も未之有(いまだこれあら)ず。」(*と。)門人曰く、「狂者の如きは其の心高大なれども、其の事破綻ある〔不完全な〕事を免かれず。郷原〔地方に評判よき小人〕のごときは事は君子に似て、其の心汚る。是分明に心と事と二つなるにあらずや。」先生曰く、「狂者は未だ精微中庸に入らず。〔論語子路篇に出づ。〕故に斯のごとし。郷原は世に媚び許容(いれらるゝこと)を求むるの穢れし腸(こゝろ)より顯はるゝ事爲(しわざ)なれば、もとより善とすべからず。跡の似たるをもて善とするは、功利の意(こゝろ)也。然るに、或は曰く、『大(おほい)なる哉、此の道。盜人も亦是を得ざれば功をなす事能はず。入る事を先(さき)とするは勇なり。出づる時後るゝは義也。分つ事均しきは仁也。此の三つを得ざれば大盜を成す事能はず。』などいふ説は、笑ふべし。悲しむべきものなり。」といへり。又近年專ら孝經孔子曾子と孝道を論じたる書、古文・今文の二種あり。〕を講明し、常に愛敬(あいけい)の二字を掲出(かゝげいだ)し、心體(しんてい)を體認せしむ。曰く、「心の本體原本愛敬的、猶水の濕(うるほ)ひに從ひ、火の燥(かわ)くに付るがごとし。只吾人種々の習心習氣に凝滯せられて、心體の明蔽はる。然れども、親を愛し、兄を敬するの心、且赤子(せきし)を見て慈愛する心は未だ滅びず、時ありて發見す。此の心を認めて存養して失はざるときは、則聖人の心なり。」(*と。)以上は、先生家學を起して後の教示(けうし)なり。世にしる人稀なる故に掲出す。およそ書を著はさむとして筆をたつるもの、大學啓蒙孝經啓蒙藤樹規并に學舍坐右の銘原人持敬圖説の類、尚二三ありといへども、或は初の著述後の意に■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949)はずして破り、又數年多病の故に、業を果さずして止む者あり。論語も郷黨の篇より先進二三章に及びて業を終へずとぞ。今傳はるものすくなし。但し郷黨の解は刻本なるを、予少年の時骨董舗(ふるだうぐや)にて見し事ありしが、書林も知る人少し。購はざりし事思へば悔し。又翁問答鑑草と共に本文庫の「藤樹文集」に收む。〕といふものを草せられしを、書賈〔原本書價とあり。〕盜みて印行せるを聞きつけて、後の意に■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949)はねば破らしむ。書賈のその費を歎くにより、是を償はむとて、女誡の爲に著されしものを鑑草(かゞみぐさ)と題して授けらる。又醫書の著述は其の業にあらざれども、理を推して明らむる所なるべし。醫筌大野了佐といふ愚魯の人の爲に著す所也。此の人、士たるに堪へざれば、その父賤業を營ましめむとするを憂へ、醫とならむ事を先生に乞ふ。先生其の志をあはれみ、大成論醫方大成論五卷、元彦明公撰〕を讀ましむるに、纔に二三句を教ふる事二百遍計、食頃〔少しの間〕忽遺忘す。又來り讀む事百遍餘にして、始めて記得す。かくのごとく久しきを經て、後終に醫を以て數口を養ふに至る。教へて倦まずの實を見つべし。先生人に語りて曰く、「了佐において殆ど根氣を盡せり。然れども、彼れつとめずば能はず。彼愚昧といへども、勵勉の力は絶奇也。況や了佐ならざる者は、其の勉の驗を知るべし。」と。小醫南針神方奇術等は、山田森村兩醫生の爲に著す處とぞ。其の書傳はるや否や未だ知らず。先生四十一歳にして、慶安元年戊子(つちのえね)八月廿五日病みて卒す。其の舊居の講堂今尚殘れども、其の學を繼ぐ者なく、荒廢につくといふ。惜むべし。先生三子有り。備前侯〔備前國主池田侯〕に仕ふ。熊澤氏〔了介、蕃山と號す。先生の門人〕の故を以てなり。長は宣伯通名太右衞門、よく父の徳を嗣ぎて、明敏豪傑しかも温厚也。病によりて仕を致(かへ−ママ)し、家に卒す。惜まざる者なしとぞ。仲は藤之丞(とうのじょう)、又致仕、京師に病死す。洛東黒谷に葬る。季彌三郎先生歿する年に生る。是はた時めかし〔重く用ひ〕たまひしかども、病をもて辭して江西にかへる。後又京師に寓居し、改名江西(えにし)文内といふ。病みて死す。故郷にかへし葬る。常省先生と諡す。

(*熊沢蕃山小伝)

藤樹先生の門人備前に召さるゝ者五六輩に及ぶ。熊澤翁は其の魁也。は平安の人、本氏は野尻、通名次郎八といひしかども、外祖父養子として熊澤助右衞門と名のらしむ。諱は伯繼、致仕の後了介と稱し、息遊と號す。氏も亦後に蕃山(しげやま)と稱せしは、備前にして、其の領地寺内といひし所を蕃山(しげやま)と號(なづ)けて、暫くこゝに隱居す。

筑波山葉山しげ山しげけれど思ひいるにはさはらざりけり〔新古今集の歌〕
といふ古歌のこゝろによれるとぞ。其の後京に歸り、故ありて播磨明石侯〔播磨明石領主松平家〕の許にあり。封を移さるゝに從ひ、下總古河に至り、


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貝原益軒

益軒貝原氏、諱は篤信、字は子誠、通名久兵衞、祖父より以來筑前福岡侯の臣にして、先生は父寛齋の季子也。邦君三世に仕へて儒學教授となる。君命によりしば\/京師に往來し、專程朱の學を講ず。其の見は愼思録自娯集に見ゆ。その學博く和漢に亙れること等輩尠しといへども、性甚謙にして、只身の及ばざる事を恐れ、名に近づく事を喜ばず。常に言ふ、「吾人に長たる事なし。但恭默道を思ふのみ。」と。固より人を愛し物を濟ふをもて要とせる故に、其の著はす所の書多く平假名に記して、通俗の爲め教ふる事丁寧反復す。家道養生初學の諸訓、大和俗訓樂訓などは尚さもありなむ。鄙事記のごとき、日用の細務にまでも及ぶは、近世諸儒、唯自己の學力を示して梨棗を費すものと、相去る事天淵なるべし。はた太史公が名山大川を探るに似て、足跡諸國にあまねく、其の國の名寄をはじめ、東海・岐岨・日光の紀行、有馬入湯の案内、大和巡、諸州巡の類を著はされしも、自の詩文章に及ばず、唯旅客の助とせらる。年積るに從ひ、侯家の禮遇逾〃厚く、頻に采地を加へらる。元祿庚辰歳七十一、老を告げて事を致すといへども、尚月俸を賜ひて、其の老を優(ゆたか)にす。正徳甲午八月廿七日家に卒す。時に歳八十五。子なき故に、其の兄存齋の次子重春をとりて家を嗣がしむ。先生の年譜は元祿九年まで姪(をひ)好古撰む。好古今年卒(しゅっ)せる故に、十年より終に及んで、姪可久次ぎて撰む。墓誌は門人竹田定直録す。其の銘に曰く、

*巻1了

 中江藤樹 附 蕃山氏  貝原益軒  僧桃水  僧無能  長山宵子  甲斐栗子  若狭綱子  樵者七兵衞妻 同久兵衞妻  伊藤介亭  宮■(竹冠/均:いん::大漢和26032)圃  駿府義奴  木揚利兵衞  河内清七  木揚利兵衞  大和伊麻子  近江新六  龜田久兵衞
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《凡例》
〔〕原文の割注・旁記
詩・賛の書き下し文は、漢字平仮名交り文に改めた。詩の場合は、緑色で白文を併記した。
緑色はその他にも心覚えのために任意に付したものがある。(<font color="#008B00">・・・</font>タグ)

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