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明治/十年 丁丑公論

福澤諭吉
(『明治十年丁丑公論、瘠我慢之説』 時事新報社 1901.5.2
※ 句読点・清濁は原文の儘。【 】は頭書。〔 〕は原文割註。

 序(石河幹明)  緒言  (本文)
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丁丑公論の一書は福澤先生明治十年西南戰爭の鎭定後、直に筆を執て著述せられたるものなれども當時世間に憚かる所あるを以て秘して人に示さず爾來二十餘年の久しき先生も自から此著あるを忘却せられたるが如し前年先生の家に寄食の日、竊に其稿本を一見したることあり本年一月先生の舊稿瘠我慢の説時事新報に掲ぐるや次で此書をも公にせんことを請ひしに先生始めて思ひ出され最早や世に出すも差支なかる可しとて其請を許されぬ依て二月一日より時事新報に掲載することヽせしに掲載未だ半ならず先生宿痾再發して遂に起たず今回更らに此書を刊行するに際し一言、事の次第を記すと云ふ
明治三十四年四月
時事新報社に於て  石河幹明


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明治/十年 丁丑公論緒言

凡そ人として我が思ふ所を施行せんと欲せざる者なし即ち專制の精神なり故に專制は今の人類の性と云ふも可なり人にして然り政府にして然らざるを得ず政府の專制は咎む可らざるなり
政府の專制咎む可らずと雖も之を放頓すれば際限あることなし又これを防がざる可らず今これを防ぐの術は唯これに抵抗するの一法あるのみ世界に專制の行はるる間は之に對するに抵抗の精神を要す其趣は天地の間に火のあらん限りは水の入用なるが如し
近來日本の景况を察するに文明の虚説に欺かれて抵抗の精神は次第に衰頽するが如し苟も憂國の士は之を救ふの術を求めざる可らず抵抗の法一樣ならず或は文を以てし或は武を以てし又或はきんを以てする者あり今西郷氏は政府に抗するに武力を用ひたる者にて余輩の考とは少しく趣を殊にする所あれとも結局其精神に至ては間然すべきものなし
然るに斯る無氣無力なる世の中に於ては士民共に政府の勢力に屏息して事の實を云はず世上に流傳するものは悉皆諂諛妄誕のみにして甞て之を咎むる者もなく之を一世に傳へ又これを後の一世に傳へ百年の後には遂に事の眞相を湮沒して又踪跡す可らざるに至るや必せり西郷氏に一面識の交もなく又其人を庇護せんと欲するにも非ずと雖も特に數日の勞を費して一册子を記し之を公論と名けたるは人の爲に私するに非ず一國の公平を保護せんが爲なり方今出版の條例ありて少しく人の妨を爲す故に深く之を家に藏めて時節を待ち後世子孫をして今日の實况を知らしめ以て日本國民抵抗の精神を保存して其氣脈を絶つことなからしめんと欲するの微意のみ但し西郷氏が事を擧げたるに付き其前後の紀事及び戰爭の雜録等は世上既に出版の書もあり又今後出版も多かる可し依て之を本編に略す
明治十年十月廿四日
福澤諭吉


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明治/十年 丁丑公論

福澤諭吉

世論に云く西郷は維新の際に勳功第一等にして古今無類の忠臣たること楠正成(*ママ)の如く十年を經て謀反を企て古今無類の賊臣と爲り汚名を千載に遺したること平將門の如し人心の變化測る可らず必竟(*ママ)大義名分を辨ぜざるの罪なりと此議論凡庸世界の流行なれば許す可し田夫野翁の噂、市井■(艸冠/大/氾の旁:::大漢和になし)坊(*全集「巷坊」)の話、固より齒牙に止むるに足らざればなり、或は月給に生々する役人世界の説にしても亦恕す可し西郷は實に今の官員の敵にして西郷勝てば官員の身も聊か安んぜざる所あれば如何樣にも名を付けて之れを謗るも尤もなる次第なり
然るに今無智無學なる凡庸世界にも非ず又身を恐るゝ役人世界にも非ず學者士君子を以て自から居る論客にして嘗て別段の所見もなく滔々として世間の噂話に雷同し徃々其論説の發して新聞紙上に記したるものを見るに本年西南の騷動に及び西郷桐野等の官位を剥脱したる其日より之を罵詈讒謗して至らざる所なし其有樣は恰も官許を得て人を讒謗する者の如し官許の心得を以て憚るなきは姑く許すべしと雖も尚これより甚しきものあり【新聞記者は政府の飼犬に似たり】從來新聞の記者又は投書家は事を論ずるに條例を恐れて十分に論鋒を逞うすること能はず常に婉語諷言を以て暗に己が所見を示すの巧を得たりし者なるが西郷の一條に至ては毫も斟酌する所なく心の底より之を惡み之を怒るが如くにして啻に斟酌を用ひざるのみならず記事雜報の際にも鄙劣なる惡口を用ひ無益なる贅言ぜいごんを吐て罵詈誹謗の事實に過るもの尠なからず遽に其文面を見れば記者は嘗て西郷に私怨あるもの歟と疑はるゝ程の極度に至れり豈に怪しむ可きにあらずや盖し此論者ろんしやは之に由て今の政府に媚を献(*ママ)ぜんと欲する歟、政府の中に苟も具眼の人物あらば忽ち之を看破して却て其賤劣を愍笑びんせうすることならん或は之に由て社會を籠絡せんと欲する歟、斯る賤しき筆端に欺かれて其籠絡に罹る者は社會中の糟粕にして假令ひ之をして其説に服せしむるも之が爲に論者の勢力を増すに足らず下等社會に同説の多きは正に其説の無味淺見なるを表するに足るのみ余輩顧て思ふに論者は敢て媚を政府に献ずるにも非ず又社會の説を籠絡せんとするにも非ず眞實に西郷を賊臣と思ひ中心に之を惡み之を罵詈誹謗して後の西郷たる者を戒めんとするの律義心より出でたることならん斯の如きは則ち今の論者を評するには唯暗愚の二字を以て足るべきのみ
論者が西郷を評して賊と稱するは何ぞや西郷は天子を弑して天位に代らんと欲する者歟論者愚なりと雖も其然らざるをば知る可し尊王そんわうの方法は姑く擱き尊王の心に至ては今の西郷も昔日の西郷も正しく同一樣にして其心を以て今の顯官の尊王心に比して毫も厚薄なきのみならず論者が常に口を極めて西郷を罵ると雖も未だ嘗て佞譎輕薄等の評を下ださゞるは即ち彼れが誠實の徳行に就てきん(*乗ずべき隙、欠点、過失)の乘ずべきものを見出すこと能はざるの證據なれば其尊王の誠心如何の一點に至ては論者も敢て口には言はざれども心に之を許して疑はざること明に知るべし然ば即ち西郷は天子一身の賊にあらずして今日に在ても其の無二の尊王家たるは論者の許す所のものなり
論者又謂らく一國人民の道徳品行は國を立る所以の大本なり苟も大義名分を破て政府に抗し學者の議論に於て之を許すときは人民の品行地に墜ちて又廉恥節義の源を塞ぐに至らんと此論は孔子春秋より出でたる者にして公私を混同したる不通論と云ふ可し大義名分は公なり表向なり廉恥節義は私に在り一身にあり、一身の品行相集て一國の品行と爲り其成跡社會の事實に顯はれて盛大なるものを目して道徳品行の國と稱するなり然るに今の所謂大義名分なるものは唯默して政府の命に從ふに在るのみ一身の品行は破廉恥の甚しき者にてもよく政府の命ずる所に從ひ其嗾する所に赴て以て大義名分を全うす可し故に大義名分は以て一身の品行を測るのとするに足らず一身の品行に關係なきものは亦一國の品行も關係ある可らず加之名分を破て始めて品行を全うしたるの例は古今に珍らしからず古の事は之を擱き近く其實證を擧れば徳川の末年に諸藩士の脱藩したるは君臣の名分を破りたる者に非ずや其藩士が甞て藩主の恩祿を食ひながら廢藩の議を發し或は其議を助けたるは其食をはんで其事に死するの大義に背くものにあらずや【昔日の浮浪今日の義士】然り而して世論この脱藩士族を評して賤丈夫と云はざるのみならず當初其藩を脱すること愈過激にして名分を破ること愈果斷なりし者は今日に在て名望を收むること愈盛なるが如し之れに反して舊幕府及び諸藩の存在する間は府藩の大義名分を守り府藩たふるれば翌日より新政府の大義名分を守り舊に新に右に左に唯勢力と錢の存する處に隨て其處の大義名分を守るものは世上に其流の人少なからずと雖も此輩の多寡を見て一國全体(*ママ)の間に行はるゝ道徳品行の盛否を卜す可らず結局大義名分は道徳品行とは互に縁なきものと云ふ可きのみ今西郷は兵を擧げて大義名分を破りたりと云ふと雖も其大義名分は今の政府に對しての大義名分なり天下の道徳品行を害したるものに非ず官軍も自ら稱して義の爲めに戰ふと云ひ賊兵(*原文ルビ「ぞくへん」)も自ら稱して義の爲に死すと云ひ其心事の在る所は毫も異同なきのみならず决死冐難、權利を爭ふを以て人間の勇氣と稱す可きものならば勇徳は却て彼の方に盛なりと云ふも可なり此事實に由て考ふれば西郷は立國の大本たる道徳品行の賊にもあらざるなり【薩人の爭ふ權利は果して人民自治じぢの權利か其邊に至ては余輩も之れを保證する能はず恐くは權利の未熟なるものならん然りと雖も之を爭ふは即ち抵抗の精神なり之を爭ひ之に抵抗し遂には其未熟なるものも熟して自後(*ママ)の權利を發明するに出るべし】
論者又謂らく西郷は武人の巨魁なり若しをして志を得せしめなば必ず士族に左袒して益人民を奴隸視するに至らん斯の如きは即ち自由の精神を害して人智の發達を妨るものにして之を文明の賊と稱すべしと此論は西郷を皮相して其心事を誤解したるものなり西郷が士族を重んずるは事實に疑なしと雖も其氣風を愛重するのみにして封建世祿せろくの舊套に戀々たる者に非ず若しをして眞實に封建世祿の友たらしめば其初め徳川を倒すの時に己が數代恩顧の主人たる島津家を奉じて將軍たらしめん事を勉むべきなり或は然らざれば自ら封じて諸侯たらん事を求むべき筈なり此を是れ勉めざるのみならず維新の後は却て島津家の首尾をも失ひ且其參議たりし時は廢藩置縣の大義にも與りて大に力ありしは世人の普く知る所ならずや廢藩は時世の然からしむる所なりとは雖も當時若し西郷の一諾なくんば此大擧も容易に成を期すべからざるや明なり是等の事實を證すれば西郷は决して自由改進を嫌ふに非ず眞實に文明の精神を慕ふ者と云ふべし或は此度び事を擧ぐるに及で之に隨從する者の内には神風連の殘黨もあり諸舊藩の頑固士族もありて各其局處の擧動に就て之を見れば純然たる封建士族の風を存する者も多からんと雖も此輩は唯西郷が政府に抗するの事に與みするのみ、其心事を了解して説を共にする者に非ず【今の改進者流は唯他の攘夷家を器用したるのみにあらず十に八九は己れ躬ら攘夷家たりしものなり】其有樣は十年以前に今の改進者流が事を擧て舊幕府を謀るときに諸方の不平黨は事の内實を知らず只管尊王攘夷の事と信じて之に隨從したるの事實に異ならず西郷は只此士族輩を器として用るに過ぎず毎人にむかつて其心事を語るに遑ある可らず假令ひ之を語るも了解するものは尠なかる可し我輩は竊に謂らく若し西郷をして此度の事を成さしめなば其事の成りたる上にても更に此頑固士族の處置に困却すること昔年長州にて木戸の輩が騎兵隊の始末に當惑したると同樣の塲合に至るべしと西郷の爲めにはかつて憂る所なり
【洋書讀の洋書知らず】西郷の輩が志を得たらば政府は必ず兵力專制(ミリタリ、デスポチスム)の風に移らんとて之を心配するは屠者は必ず不信心ならん獵師は必ず人を殺すならんと唯其形を見て疑念を抱く者のみ今の日本は兵力專制の行はるべき國に非ず假に今「ナポレオン」を再生せしめ「コロンウエル」を歸化せしむるも日本に於ては其技倆を施すの機會ある可らず此風の專制を行はんとするには古の鎖國に復する歟、然らざれば(*原文「然らざるれば」)我國力をして西洋諸國に敵對し之れを壓倒するの勢を得せしめて然る後に始めて之を試む可のみ若し此專制をして我國に施す可きものとせば今の政府にて之を行はざるは何ぞや人類の性質として專制を好まざるものなし然るに今の政府の人にして之れを行はざるは心に好まざるにあらず勢に於て能はざるなり西郷の輩武人なりと雖もよく此勢に敵す可けんや開國以來日本の勢は立憲の民政に赴くものにして其際には樣々の事變故障もあれども大勢の進で止まざるは時候の次第に寒冷に赴き又暑氣に向ふが如くにして之を留めんとして留む可らず且其事變故障と唱ふるものも或は實の故障に非ずして却て大勢の進歩を助くるに便利なりしこと徃々其例なきに非す之を譬へば向暑向寒の時候に大風雨あれば風雨止んで俄に暑寒の勢を増す事あるが如し風雨は寒暑の進歩を妨げずして却て之を助くるものなり况んや此度西郷の擧動は日本の全國を殲滅するに非ず又政府の全體を顛覆するにも非ず僅に政府中の一小部分を犯すのみの企なれば政治上の大風雨と名るに足らず是等の事情をも吟味せずして徒に兵力專制の禍を恐るゝは狼狽の甚だしき者と云ふ可し
論者又謂へらく西郷の黨が志を得て不平を慰るを得ば他に又不平を抱く者を生じて更に騷擾に及ぶべし今政府の貴顯は平和を好むと雖も今の地位に居ればこそ平和に依頼すれども既に地位を失へば平和も無用なり必ず黨與を結で事を謀ることある可し斯の如きは即ち第二の西郷を作るに異ならすと此説决して事實に當らず必竟天下の大勢を知らざるものゝ淺見のみ西郷が志を得れば政府の貴顯に地位を失ふものあるは必然の勢なれとも其貴顯なる者は數名に過ぎず之に附會する群小吏の如きは其數思の外に少なかる可し試に舊幕府顛覆の時を思へ當時が親しく目撃せし所の事情を記せば其大略左の如し學者之に由て天下の大勢なるものは果して如何の情を了解することあるべし【此條稍や剩長に似たれども舊幕轉覆の眞相を示したるものなれば讀者別の一段として見る可し】幕府にては關西の諸侯薩長土の類を叛藩と名け西郷吉之介(*ママ)木戸準一郎大久保一藏大村益次郎板垣退助後藤象次郎(*ママ)の輩を奸賊と稱し當時の幕議に云く天皇は幼冲万機を親らにし給ふに非ず三條岩倉の如きも亦唯貧困公卿の脱走したる者にして才能あるに非ざれば深く咎るに足らず時に惡む可き罪人は西郷木戸の輩なり近來此輩が朝廷に出入して憚る所もなく人主の幼冲なるを利し、公卿の愚なるを誑かし、蘇秦張儀を學で以て私を營まんとする其罪惡は决して免す可らずとて專ぱら誅鋤の策を運らす其最中に伏見の變あり彼の奸賊等は此勢に乘じて關西諸藩の衆に合從し之に附するに官軍の名を以てして大膽不敵にも將さに長驅して東下せんとするの報を得て在江戸の幕臣は無論、諸藩の内にても佐幕家と稱する者は同心協力を以て此賊兵を富士川に防がんと云ひ或は之を箱根の嶮に扼せんと云ひ又或は軍艦を攝海に廻して賊の巣窟たる京師を覆さんと云ひ私に之を議し公に之を論じ策を献じ言を上つり其最も盛なるは將軍の御前に於て直言諍論悲憤極りて涙を垂し聲を放て號泣する者あるに至れり其忠勇義烈古今絶倫にして人を感動せしむる程の景况なりしかども天なる哉命なる哉其献言策略も遂に行はれず賊兵猖獗既に箱根を越えて江戸に入り恐れ多くも東照神君が櫛風沐雨汗馬の勞を以て創業の基を立てられたる(*原文「立てせられたる」)万代不易の大都府も今日醜虜匪徒の爲めに蹂躪せられて一朝賊地となり風景殊ならず目を擧ぐれば江河の異あり又之を見るに忍びず是に於てか彼の佐幕の一類は脱走して東國に赴く者あり、軍艦に乘て箱舘に行く者あり、或は舊君の御跡を慕ふて靜岡に移り、或は平民に墮落して江戸に留る等樣々に方向を决する其中に當初佐幕第一流と稱したる忠臣が漸く既に節を改めて王臣たりし者亦尠なからず唯王臣と爲て首領(*首の意)を全うするのみに非ず其頴敏神速にして勾配の最も急なる者は早く天朝の御用を勤めて官員に採用せられたる者あり或は關西に采地ある者は采地の人數にんずを率ゐて東征先鋒の命を蒙りたる者あり、されとも决死脱走の勇士は其擧動を怒て之を獸視するも啻ならず又彼の靜岡に赴き江戸に留りたる者にても此新王臣の得々たるを見れば不平なきを得ず其心に謂らく靜岡の俸祿口を糊するに足らず、江戸の生計甞て目途なしと雖も義を捨つるの王臣たらん(*原文「たん」)よりは寧ろ恩を忘れざるの遺臣となりて餓死するの愉快に若かすとて東海俄かに無數の伯夷叔齊を出現したるは流石に我日本國の義氣にして彼の漢土殷周の比にあらざるものゝ如し、然るに其後脱走の兵は敗北、奧羽の諸藩は恭順謝罪、次に箱舘の脱艦(*原文ルビ「だんかん」)も利あらずして降伏する者次第に多く隨て降れは隨て寛典に處せられ又從て官途に御採用を蒙り世間の時候自から温暖を催ふして(*ママ)又昔日の殺氣凛然たるものに非ず是に於てか曩きの伯夷叔齊も漸く首陽の麓に下り漸く天朝の里に近づき王政維新の新世界を見れば豈に計らんや 日本の政府は掛卷くも畏こき天皇陛下の政府にして徳川こそ大逆だいぎやく無道の朝敵なりき、知らずや今日は聖天子上にあり條公岩公の英明以て之を補佐し奉りて一綱一紀擧らざるものなし、薩長土は眞に忠藩なり、官軍は實に天兵なり西郷板垣公は英雄なり、木戸大久保公は人傑なり、三藩の盛なる實に欽慕(*原文「飮慕」)に堪へず加之佐賀藩の如きは前日勤王の聞もなかりしに近來に至て俄に聲價を轟かし薩長土(*原文「藩長土」)に一を加へて四藩と稱するの勢を致せり必竟田に在るの潜龍せんりよう雲雨を得て興り時を待つの君子機を見て起つ者ならん何ぞ夫れ君子の多きや該藩の如きは之れを稱して君子國と云ふも敢て溢美に非ず我輩も延引ながら恭しく惟みるに鎌倉以來幕府にて國政を執るは之れを正理と云ふ可らず甞て之れに疑を容れしことなるが今果して大に發明したり、大義は破る可らず名分は誤る可らず今にして此大義名分の明なりしは亦愉快ならずや大義は親を滅す可し親戚朋友之を顧るに遑あらず何ぞ舊主人を問はん我輩無似むじ(*不肖)なりと雖も卿相諸侯の驥尾に就て假令ひ身官吏たるを得ざるも尚食客幕賓たるの榮を得て其門に出入し以て平生万分の一を盡さん若し之れを盡すを得ば首陽の薇に換ゆる(*ママ)に大都會の滋味を以てし以て酒泉の郡に入る可し以て飯顆の山に登る可し豈亦愉快ならずや嗚呼彼も一時一夢なり是も亦一時一夢なり昨非今是過て改むるに憚る勿れとて超然として脱走の夢を破り忽焉として首陽の眠を醒まし今日一伯夷の官に就くあれば明日は又二叔齊の拜命するありて首陽山頭復た人影じんえいを見ず昔日無數の夷齊は今日無數の柳下惠となり小官を卑とせず等外を不外聞とせずして大義のある所に出仕し名分の存する所に月給を得て唯其處を失はんことを是れ恐るゝのみ其趣は恰も幕府に死して天朝に蘇生したる者歟或は死生に非ず幕府の晩に蠶眠さんみんを學で眠り天朝の朝に蝶化して化したる者ならん絶奇絶妙の變化と謂ふ可きのみ斯かる事の次第にて彼の(*原文「波の」)脱走したる烈士忠臣の殘餘も一度び王師に抗したる諸方の佐幕論者も靜岡に赴き江戸に居殘りたる伯夷叔齊の流も今日は明治聖代皷腹撃壤の良民と爲り又尊王一偏の忠臣義士と爲り昨日世上の大風浪も今日は靄然たる瑞雲祥風と爲り從來の痕跡少しも見えず之を天下の大勢と云ふ俗言これを志士の一轉身と云ふも亦可なり【此景况を見れば徳川滅亡の時に死んだ奴等こそ無分別と云ふべきか少々氣の毒なるが如し】、然り而して明治初年の有志者も明治十年の有志者も等しく是れ日本人にして今日に於ても世上に風波あれば其大勢に從ふの趣は毫も異同ある可らず加之此度西郷の企は前にも云へる如く唯政府の一部分を變動するのみにして政府の名をも改るに非ざれば其名正しく其分紊れず今の吏人の身として此小變動に處するに於て其寢反りの易くして神速なるべきは智者を俟たずして明なり且新聞記者の如きは展轉反側の最も自在にして最も妙を得たるものなるが故に忽ち筆を倒にして後へを攻め以て正三位陸軍大將西郷隆盛公の盛擧を賛成し天下の人心も亦これに歸して風波の鎭靜すべきは疑を容る可らず故に曰く西郷志を得るも第二の西郷ある可らず或は一二失路の人が黨與を結ばんとするも之れに與する者は案外に少なかる可し實は人民の氣力の一點に就て論ずれば第二の西郷を生ずるこそ國の爲めに祝す可き事なれども其之を生せざるを如何せん余輩は却て之を悲しむのみ
論者又謂らく西郷は天子一身の賊にあらず道徳品行の賊にあらず又封建を慕ふて文明改進を妨ぐるの賊にも非ず又をして志を成さしむるも大なる後患もなかる可しと雖も苟も一國に政府を立てゝ法を定め事物の秩序を保護して人民の安全幸福を進るの旨を誤らざれば其國法は即ち政府と人民との間に取結たる約束なるが故に此政府を顛覆して此法を破らんとする者は違約の賊として罪せざる可らずと此説は頗る綿密にして稍々理論の体裁を具へたるものに似たれども一言の下に感服すること能はず請ふ試に之を述べん論者の説を解剖すれば一國に政府を立てゝ法を定るまでを第一段とし以下事物の秩序を保護して人民の安全幸福を進るまでを第二段として見る可し而して其眼目とする所は必ず第一段に在らずして第二段に在ることならん盖し第一段は名なり第二段は實なり論者は必ず名を重んじて實を忘るゝ者に非ざれば假に今人間社會に政府なるものを設けずして事物の秩序を保護し人民の幸福を進るの路あらば必ず此路に由ることならん若し然らずして唯物の名のみに拘泥し苟も政府の名あるものは顛覆す可らず之を顛覆するものは永遠無窮の國賊なりとせば世界古今何れの時代にも國賊あらざるはなし近く其著しき者を擧れば今の政府の顯官も十年以前西郷と共に日本國の政府たる舊幕府を顛覆したる者なれば其國賊たるの汚名は千歳に雪ぐ可らざるものと云ふも可ならん然り而して世論之を賊と云はずして義と稱するは何ぞや舊幕府は政府の名義あれども事物の秩序を保護して人民の幸福を進むるの事實なきものと認めたるが故ならん有名無實と認む可き政府は之を顛覆するも義に於て妨げなきの確證なり
抑も西郷は生涯に政府の顛覆を企たること二度にして初には成りて後には敗したる者なり而して其初度の顛覆に於ては最も慘酷ざんこくを極め第一政府の主人を廢して之を幽閉し故典舊物を殘毀して毫も愛惜する所なく其官員を放逐し、其臣下を凌辱し、其官位を剥ぎ、其食祿を奪ひ、兄弟妻子を離散せしめて其流浪饑寒を顧みず數万の幕臣は靜岡に溝涜に縊るゝ者あり、東京に路傍に乞食する者あり、家屋舗いへやしきは召上げられて半ば王臣の安居と爲り、墳墓は荒廢して忽ち狐狸の巣窟と爲り、慘然たる風景又見るに堪へず啻に幕臣の難澁するのみならず東北の諸藩にて所謂方向を誤りたるものは其の主從の艱苦も亦云ふに忍びざるもの多し此一點のみに就て論ずれば西郷は人の艱難を釀したる張本と云ふも謝するにことばなき程の次第なれども文明進歩の媒と爲りて大に益する所あれば人民一時の艱難は之を顧るに遑あらず即ち西郷が初度の顛覆に於て其忠勇第一等にして學者も之を許す由縁ならん然り而して再度の顛覆には其志を成すこと能はざりしが故に成績を見る可らずと雖も世上一般の噂に於ても、學者流の所見に於ても、又余輩の臆測する所に於ても、其趣全く初度の慘酷に似ずして必ず寛大なる可きや疑なし第一政府の主人たる天皇陛下の身に一毫の災厄ある可らざるは固より論を待たず又今の政体は廢藩置縣政令一途の旨に基き三五年以來大なる改革もなくして即ち當初西郷が自ら今の政府の顯官と共に謀て定めたる政体なれば(*原文「政体れれば」)僅に數年の間に自から作りたるものを自ら破るの理ある可らず既に政治の大体(*ママ)を改るの念あらざれば徒に政府の官員を擯斥するが如き無用の擧動を爲さゞるも亦推して知る可し况んや其人品の如何をも問はず其職務の種類をも論ぜず官の人とあれば劍を以て之に接し政府の根底より枝末に至るまで之を顛覆殲滅して以て自ら快樂とするが如き無情慘酷に於てをや西郷の誓て行はざる所なり實にが志を得て政府に起るべき變動は唯僅に二三の貴顯が其處を失ふて之に隨從する群小吏(*原文「群少吏」)が一時に勢力を落すのみにして政府は依然たる政府たる可きなり、依然たる政府にして數名の大臣を擯け數十百の小吏を放逐するも之を名けて政府の顛覆と云ふ可らず其實は官吏の黜陟たるに過ぎず即ち一時政府に免職する者と拜命する者と相互に交代す可きのみ
初度の顛覆と再度の顛覆と其趣を異にし其寛猛輕重の差あること斯の如くにして初には西郷に許すに忠義の名を以てし、後には之に附するに賊名を以てす、論者は果して何等の目安に據て之を判断したる歟よく名と實とを分別し前に云へる事物の秩序を保護し人民の安全幸福を進るの事實を根據と爲して之を判断したる歟、今の政府の官員に日本國の事務を任すれば必ずよく社會を整理して失錯あることなく人民の智徳は次第に進歩して自由自治の精神は漸く發達して富強繁盛はんせいの幸福を致す可し、之に反して西郷をして志を得せしめなば反對の災害を釀す可し、今の官員にして必ず然る可し、西郷にして必ず然る可らずと今日を視察し今後を推量し果して心に得て判斷したる歟、論者の眼力、炬の如しと雖も斯る洞察の明は無かる可し况んや退て其私を顧み其平生唱る所の持論を聞けば常に政法の是非を議し其專制を憂ひ其不自由を咎め今後の成行を危懼して措くこと能はさるが如きものあるに於てをや【暗に政府を誹議するは今の論客の常なり新聞紙を讀で知る可し】論者は决して今の政府を信ずる者と云ふ可らず然ば則ち其西郷に賊名を付したるは事實の利害に據て目安を定めたるものにも非ざるなり
然ば則ち論者は彼の政府の公告に記したる西郷隆盛以下兵器を携へ熊本縣下に亂入すと云ふ一句の文字もんじを證して其賊たるを斷じたる歟若し夫れ果して然らば論者の見識は唯紙にしたる字義を解すのみに止て前後に關する事の連絡には毫も頓着せざる者と云ふ可し抑も西郷隆盛が兵器を携て熊本縣下に亂入したるは其の亂入の日に亂を爲したるにあらず亂を爲すの原因は遙に前日に在て存せり明治七年内閣の大臣に外征を主張する者と内政を急務とする者と二派に分れ西郷は外征論のくわいにして其見込を屈せず遂に桐野以下附屬の將校兵卒數百名を率ひて(*ママ)故郷に歸りたり此時に西郷桐野等は明に辭職にも非ず又免職にも非ず部下の兵士も亦正しく除隊の法に從ふに非ず公然として首府を去りたれども内閣に殘る諸大臣は之れを制止せずして默許に附したることなれば其景况は恰も陸軍大將が兵隊を指揮して鹿兒島に行くと云ふも可なり【此時の有樣は未だ日本に政府あらずと云ふ可し】尚細に内實を表すれば王制一新の功臣が成功の後に不和を生じて其一部分は東に居殘り、一部分は分れて西に赴きたりと云ふも可なり其證據には西郷が歸郷の後も政府は之に大將の月給を與へたり之を公の俸祿とす〔西郷の月給は陸軍省に積たりと聞く〕又維新以來鹿兒島縣の歳入は中央政府の金庫に入たることなし他なし間接に該地の兵士を養ふ資本たる可きものなれば之を私の俸祿とす斯の如く政府は薩兵の薩に歸るを許し又其將校兵卒に俸祿を給與し之に加るに武器製作の塲所をも殊更に該地に設けて暗に其權柄を土地の士民に付したることなれば薩人の傲然として一方に割據し政府に對して並立の思ひを爲すは必然の勢にして其勢は政府より養成したるものと云はざるを得ず即ち亂の原因は政府に在りと云ふて可なり
薩人は既に政府に對して並立の勢をなし兼て又政府より之を怒らしめて益其亂心を促したるの事情あり【此事は今年の春木戸の建白にも論じて申譯なしと明言せり】初め西郷は外征の論を主張して行はれざるの故を以て政府を去りたるに去て未だ一年を經ず豈計らんや先きに内政の急務を唱へたる者が俄に所見を變じたる歟、臺灣を征伐して支那政府に迫り五十万の償金を取て得色あるが如し西郷の身に於ては朋友に賣られたるものにして心に忿々たらざるを得ず又政府の人が内政を修るの急務を論じながら其内政の景况如何を察すれば内務省設立の頃より政務は益繁多にして曾て整頓の期あることなく之れに加ふるに地租の改正祿制の變革を以て士族は益窮し農民は至極の難澁に陷り凡そ徳川の政府より以來百姓一揆の流行は近時三四年を以て最とする程の次第なれば遠方に閉居する薩人の耳に入るものは天下の惡聞のみにして益不平ならざるを得ず西郷の持論にも方今の事物の有樣なれば討幕の師は必竟無益の勞にして今日に至ては却て徳川家に對して申譯けなしとて常に慙羞の意を表したりと云ふ是等の事情に據て考れば彼輩の不平忿懣は既に極度に達したるものと云ふ可し【訛傳誤報の多きは固より免かる可らずと雖も悉皆無根の事のみを聞たるに非ず】
又薩の士人は古來質朴卒直を旨とし徳川の太平二百五十餘年の久しきも遂に天下一般の弊風に流れず其精神に一種貴重の元素を有する者と云ふ可し然るに該藩の士族にして政府の官員たる者は漸く都下の惡習に傚ひ妾を買ひ妓を聘する者あり、金衣玉食、奢侈を極る者あり、或は西洋文明の名を口實に設けて、非常の土木を起し、無用の馬車に乘る等、郷里の舊を棄てて忘れたる者の如し之に反して薩に居る者は依然たる薩人にして西郷桐野の地位に在るものにても衣食住居の素朴なること毫も舊時に異ならず【東西處を換へて後に至らば或は同樣の始末ならんも計る可らずと雖ども質朴卒直を行ふ間は之を質朴卒直とし惰弱奢侈を行ふ間は之を惰弱奢侈とせざるを得ず】等しく是れ竹馬の同藩舊士族、其東に居る者と西に居る者と生活の趣を殊にすること斯の如くにして却て其技倆如何を論ずれば穎敏の才智に至ては東に對して讓る所あるも活溌屈強の氣力は西に十分にして常に他を愍笑する程の有樣なれば少年血氣の輩は忿懣に堪へず切齒扼腕し在東京の薩藩人を惡み之を惡むの餘に兼て又他の官員の不品行なる者をも蔑視して甚しきは之を評論して人面獸心と云ふに至れり固より彼の私學校黨の激論にしてよく人事の大勢を推考したるものに非ざれども激論中自ら時病じへいに中るもの尠なからず是亦亂の原因の一大箇條なり
右の如く亂の原因を枚擧して其原因は政府の方に在りと雖も余輩西郷が事を擧たるを以て如何にも正理に適したるものと云ふに非ず盖し西郷は智力と腕力の中間に挾まり其心常に决せずして遂に腕力に制せられたる者と云ふ可し西郷の目を以て部下の者を見れば其屈強正直せいちよくの氣力愛す可しと雖も素より腕力の兵士なり之を誨へて老練沈着の人物たらしめんとするも一個の力に及ぶ可きに非ず去迚これを放て其行く所に任しなば舟にして楫(*原文「揖」)なきが如く蒸氣にして鑵なきが如く何等の變も計る可らず之を誨ゆ可らず之を放つ可らず、心事の進退爰に窮りて爲す所を知らず唯畢生の力を盡して維持の策を運らしたるのみ即ち其初に佐賀の江藤を援けず後に萩熊本の暴發に與せず常に衆に諭して今は時節に非ず爰は塲所に非ず將さに(*原文「將」のルビ「まさ」)將さにとて之を籠絡したる由縁にして其兵士の處置に困却するの心は政府の顯官が之を憂るの心に異ならず此點に就て見れば西郷は少年の巨魁と爲りて得々たる者に非ず其實は之にくるしめられたる者と云ふ可きなり嗚呼西郷をして少しく學問の思想を抱かしめ社會進歩の大勢を解して其力を地方の一偏(*ママ)に用ひ政權をば明に政府に歸して其行政に便利を與へ特り地方の治權を取て之を地方の人民に分與し深く腕力を藏めて引て放たず劍戟の鋒を變じて議論の鋒と爲し文を修め智を磨き、工を勤め業を勵まし隱然たる獨立の勢力を養生して他の魁を爲し而る後に彼民選議院をも設け立憲政体をも作り以て全日本國の面目を一新するの大目的を定めしめなば天下未曾聞みそうもんの美事と稱す可きなり【武器製造所の如きは政府の催促を待たずして彼より之を返すこそ西郷の英斷と云ふ可し今其然らざりしは西郷も此兵器に戀々したる歟眞の勇者にあらず或は少年輩の意に戻ること能はずして之を返さゞりし歟其制御の不行屆と云ふ可し又西郷が政府に尋問の筋ありとは暗殺の一條を糺さんとするの趣意歟甚だ拙なる者と云ふ可し暗殺の眞僞固より分明ならず假令實に此事ありとするも此一事を糺すを以て兵を擧るの大趣意とするに足らず兵を擧て政府に抗するならば第一薩人たる人民の權利を述べ從て今の政府の壓制無状を咎るのみにして暗殺の如きは之を云はずして可なり若し之を云はゞ他の實事を表するの證據として持出す可きのみ後世に至て明治十年の内亂は暗殺の一條より起りたりと云はゞ恰も亂の品價の賤しきものにして世界中に對しても不外聞ならずや西郷も必ず之を知らざるには非ざる可しと雖も唯血氣の少年に迫られて遂に此些末の兒戯を喋々するに至りしことならん是亦制御の不行屆と云ふ可し三四年前より薩摩の穩ならざることに付き政府の人の説を聞けば西郷のある間は安心なりと云はさる者なし(*1字空白)常に其説を排して謂らく政府が薩人を御するに間接法を用ひずして獨り西郷に依頼して(*原文「依頼しで」、その後1字空白)平穩を保するは一家の主人か細君の貞節を頼みにして却て自から淫奔を恣にするが如し國内に知らぬは政府ばかりなりと云ふ可き異變は圖らずと毎度話したることもありき】人或は云く彼の私學校黨の如き唯硝鐵を是れ頼で戰爭の外、餘念なき者に向て之に説くに地方の事務を以てし之に諭すに勤學營業の旨を以てするも之を説諭する者と之を聞く者と其心事天淵の相違にして到底相近く可らずとの説もあれども元來この私學校黨の性質を尋れば决して非常の人種に非ず其心事の在る所は他なし人類普通權を好むの一點に過ぎず權を好むの心决して惡む可きに非ず此心の働を以て社會を利す可し又害す可し其利害如何は働の性質に在らずして其方向に在るのみ故に今此黨が權を好むの性質を有して然も活溌屈強の氣風あらば其性質に從ひ其氣風を利し其の權利の在る所を指示して其方向に誘導す可し性質に戻らずして却て之に從ふことなれば决して相近づく可らざるものに非ず必ず次第に面目を改めて少年輩の心事にも更に一層の高尚を致す可きは疑を容れざる所なり西郷は果して此邊に着眼して思慮を運らしたることある歟、余輩これを知ること能はず 若し其眼力爰に及ばずして策を試みたることなくば西郷の罪は不學に在りと云はざるを得ず
世上の説に西郷は數年以前鹿兒島へ退身の後も意を内國の事に留めず專ら外征の論を主張して少年を籠絡し其將さに、將さにと云へるは將さに朝鮮を伐ち、支那を蹂躪し、露西亞を征し土耳古を取らんとするが如き漠然たる思想にして爲に益少年好武の血氣を煽動して却て其動搖を制御する能はざるのみならず己れも亦血氣中の一部分にして甞て定りたる目的もなく遂に今回の輕擧暴動に及びたりと此説果して然らば西郷も亦唯私學校黨の一狂夫のみなれども余輩は遽に之を信ずること能はず西郷は少年の時より幾多の艱難を嘗めたる者なり學識に乏しと雖ども老練の術あり、武人なりと雖ども風彩あり、訥朴なりと雖ども粗野ならず平生の言行温和なるのみならず如何なる大事變に際するも其擧動綽々然として餘裕あるは人の普く知る所ならずや然るに今回の一擧に限りて切齒扼腕の少年と雁行して得々たる者と視做すは西郷の平生を知らずして臆測の最も當らざるものと云ふ可し故に余輩は敢て彼れに左袒して其不學の罪をも許さんとするには非ざれども又この世説を輕信して直にを狂夫視するの理由は未だ之を見出すこと能はざるなり
又或は之を西郷は眞に朝廷の忠臣にして朝廷の名ある政府に向つて素より暴發すること能はず又其暴發の世に害たることをも知り百方盡力して部下の少年輩を維持したるは政府の人も明に知る所なり或は之を維持して其方向を改めしむるの術に至ては學識明ならず、知見博からずして策の得ざるものもあらんと雖も西郷に固有の力は之を盡して遺す所あることなし斯の如く忍耐勉強して一年を過ぎ二年を經て世上の有樣を視察するに一として部下の不平を慰るに足るものなし政治は益中央集權、地方の事務は日に煩冗、此も政府の布告彼も地方官の差圖とて有志の士民は恰も其心身の働を伸るに地位を見ず其欝積遂に破裂して私學黨(*ママ)の暴發と爲り西郷も實に進退維谷の塲合に陷り止を得ずして遂に熊本縣下亂入の擧に及びたりと此説或は然らん然ば則ち彼れの心事は眞に憐む可くして之を死地に陷れたるものは政府なりと云はざるを得ず明治七年内閣の分裂以來政府の權は益〃堅固を致し政權の集合は無論、府縣の治法些末の事に至るまでも一切これを官の手に握て私に許すものなし人民は唯官令を聞くに忙はしくして之を奉ずるに遑あらず其の一例を擧れば今の府縣の民にして政府の布告を讀む者は百中一二に過ぎず他は皆回章の名前に點を附けて之を隣家に回はすのみ甚しきは犯罪に由て罰金を拂ふに其これを拂ふの時に至て始て何々の法あるを聞き、己が其法を犯したるを聞き、之を犯したるが故に此罰金を拂ふの由縁を聞き始て大に驚愕する者あるに至れり新法の繁多にして人民の無頓着なること推して知る可し、政府は唯無智の小民を制御して自治の念を絶たしむるのみに非ず其上流なる士族有志の輩を御するにも同樣の法を以てして嘗て之に其力を伸ばす可きの餘地を許さず、抑も廢藩以來日本の士族流は全く國事に關するの地位を失ひ其無聊むれうの有樣は騎者にして馬を殺し射者にして弓を折たるものゝ如し此時に當て政府たるものが巧に間接の法を用ひ其騎射の力の形を變化せしめて他の方向に誘導するに非ざれば欝積極て破裂に至る可きは智者を待たずして明なる所なれども近來の景况を見るに政府は毫も爰に心を用ひずして只管直接の策に出で士族に劍を礪ぐ者あれは政府は銃砲を造て之に當らんとし、論客學者に喧しき者あれは律令りつれいを設けて之を禁止せんとし其状恰も雷を防ぐに鐵の天井を以てするに異ならず策の巧なるものと云ふ可らず薩の士族にても前に云へる如く其性質を尋れば唯權を好むの一點に在るのみの者なればよく其性質に從て更に方向を示し間接に之を導いて(*原文「導ひて」)其赴く所を變じ或は以て轉禍爲福てんくわゐふく(*原文「轉福爲福」)の功を奏す可きことある可し且政府にて此間接の法を用ひんとするに意あれば其路甚だ難からず三五年以來世上に民會論の喋々たるものあれば政府は早く其勢に乘じて事の機を失ふことなく姑く此民會論を以て天下の公議輿論を視做し此公議輿論に從て士族の心を誘導すれば名義正しく、人心安く無聊の士族も始て少しく其力を伸ばすの地位を得て其心事の機を轉ずるを得可し政略の巧は此邊に在て存するものなり【學者新聞記者を味方にするは上策なりと雖とも錢を貰て政府に左袒する者は假令ひ官員の意に適するも其實は間接に政府の品價を落すの媒たる可し】民會の説或は今の實際に行はれ難き塲合もあらんと雖も結局其元素は推考の理論を先にして腕力を後にするものなれば今日に實效なきも今日に之を起して其旨を奬勵し以て後日の謀を爲すも妨なきは固より辯を俟たず斯の如くして政府は既に眞實民會を勸るの名を成したり尚其上にも學者なり新聞記者なり苟も世上に名望を得て有力なる者は悉皆これを政府の味方に引入れ益其發論の自由を許して著書發行を自在ならしめなば其の論鉾の向ふ所は必ず鹿兒島士族の腕力を頼て一方に割據するが如き者を攻めて遂には彼の頑士族の頑をも碎て不識不知の際に之を平和に導く可きは疑を容れず斯る形勢に至れば西郷も亦安くして恰も意外の僥倖を得たる思を爲す可きなり然るに政府の人は眼を爰に着せず民會の説を嫌て之を防ぐのみならず僅かに二三の雜誌新聞紙に無味淡泊の激論あるを見て之に驚き之を讒謗とし之を誹議とし甚しきは之に附するに國家を顛覆するの大名を以てして其記者を捕へて之を見れば唯是れ少年の貧書生のみ書生の一言豈よく國家を顛覆するに足らんや政府の狼狽も亦甚しきものと云ふ可し【世論の不平士族は此新聞記者の輩を捕るを見て己が同類を窘るとして怒る者多し】是等の事情に由て考れば政府は直接に士族の暴發を防がんとして之を其未發に止むること能はず間接に之を誘導するの術を用ひずして却て間接に其暴發を促したるものと云ふ可し故に云く西郷の死は憐む可し之を死地に陷れたるものは政府なりと
尚これよりも甚しきものあり都て國事の犯罪は其事を惡て其人を惡む可きに非ざれば徃々之を許して妨げなきもの多し猶維新の際に榎本の輩を放免して今日に害なく却て益する所大なるが如し然るに維新後、佐賀の亂の時には斷じて江藤を殺して之を疑はず加之この犯罪の巨魁を捕へて更に公然たる裁判もなく其塲所に於て刑に處したるは之を刑と云ふ可らず其の實は戰塲に討取たるものゝ如し鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典と云ふ可し一度び過て改れば尚可なり然るを政府は三年を經て前原の處刑に於ても其非を遂げて過を二にせり故に今回城山に籠たる西郷も亂丸の下に死して快とせざるは固より論を俟たず假令ひ生を得ざるは其覺悟にても生前に其平日の素志を述ぶ可きの路あれば必ず此路を求めて尋常に縛に就くこともある可き筈なれども江藤前原の前轍を見て死を决したるや必せり然らば則ち政府は啻に彼れを死地に陷れたるのみに非ず又從て之を殺したる者と云ふ可し、西郷は天下の人物なり日本狹しと雖も國法嚴なりと雖も豈一人を容るゝに餘地なからんや日本は一日の日本に非ず國法は萬代の國法に非ず他日この人物を用るの時ある可きなり是亦惜む可し

丁丑公論


 序(石河幹明)  緒言  (本文)
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