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瘠我慢の説

附 福澤先生の手簡及勝、榎本兩氏の答書
    瘠我慢の説に對する評論に就て    石河幹明
    福澤先生を憶ふ              木村芥舟

福澤諭吉明治/十年 丁丑公論、瘠我慢の説』
時事新報社 1901.5.2
※ 2001.3 現在、本篇・手簡及答書のみ。句読点は原文の儘。

 端書(石河幹明)  本文        
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(端書)

瘠我慢の説福澤先生が明治二十四年の冬頃に執筆せられ之を勝安芳榎本武揚の二子に寄せて其意見をもとめられしものなり先生の本旨は右二氏の進退に關し多年來心に釋然たらざるものを記して輿論に質す爲め時節を見計ひ世に公にするの考なりしも爾來今日に至るまで深く筐底に秘して人に示さゞりしに世間には徃々これを傳ふるものありと見え現に客冬刊行の或る雜誌にも掲載したるよし(栗本鋤雲翁は自から舊幕の遺臣を以て居り終始その節を變ぜざりし人にして福澤先生と相識れり常に勝氏の行爲に不平を懷き先生と會談の語次、殆んど其事に及ばざることなかりしと云ふ此篇の稿成るや先生、一本を寫し之を懷にしてを本所の宅に訪ひしには老病の餘、視力も衰へ物を視るに頗る困難の樣子なりしかば先生は斯く\/の趣意にて一篇の文を草したるが當分は世に公にせざる考にて人に示さず之を示すは只貴君木村芥舟翁とのみとて其大意を語られしに翁は非常に喜び善くも書かれたりゆる\/熟讀したきに付き暫時拜借を請ふとありければ其稿本をの許に留めて歸られしと云ふ木村氏と云ひ栗本氏と云ひ固より之を他人に示すが如き人に非ず而して先生は二人の外、何人にも示さゞれば决して他に漏るゝ筈なきに徃々これを傳寫して本論は栗本氏等の間に傳へられたる者なりなどの説あるを見れば或はの死後に至り其家より出でたるものにてもあらんか)依て思ふに此論文は敢て世人に示すを憚かる可きものに非ず殊に既に世間に傳はりて轉々傳寫の間には多少字句の誤なきを期せざれば寧ろ其本文を公にするに若かざる可しとて先生に乞うて時事新報の紙上に掲載することゝ爲し尚ほ先生此文榎本二氏に與へたる後、明治二十五年の二月、更らに二氏の答書を促したる手簡并に二氏の之に答へたる返書を後に附記して讀者の參考に供す
明治三十四年一月一日
石河幹明


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瘠我慢の説

福澤諭吉
立國は私なり公に非ざるなり地球面の人類その數おくのみならず山海天然てんぜんの境界に隔てられて各處にぐんを成し各處に相分るゝは止むを得ずと雖も各處におの\/衣食の富源あれば之に依て生活を遂ぐ可し又或は各地の固有に有餘不足あらんには互に之を交易するも可なり即ち天與の恩惠にして耕して食ひ製造して用ひ交易して便利を達す、人生の所望この外にある可らず何ぞ必ずしも區々たる人爲の國を分て人爲の境界を定むることを須ひんや况んや其國を分て隣國と境界を爭ふに於てをや况んや隣の不幸を顧みずして自から利せんとするに於てをや况んや其國に一個の首領を立て之を君としてあほ(*ママ)之を主として事へ其君主の爲めに衆人の生命財産を空うするが如きに於てをや况んや一國中に尚ほ幾多の小區域を分ち毎區の人民おの\/一個の長者を戴て之に服從するのみか常に隣區と競爭して利害を殊にするに於てをや都て是れ人間の私情に生じたることにして天然の公道に非ずと雖も開闢以來今日に至るまで世界中の事相を觀るに各種の人民相分れて一群を成し其一群中に言語文字もんじを共にし、歴史口碑を共にし婚姻相通じ、交際相親しみ、飮食衣服の物都て其趣を同うして自から苦樂を共にする時は復た離散すること能はず則ち國を立て又政府をまうくる所以にして既に一國の名を成す時は人民はます\/之に固着して自他の分を明にし他國他政府に對しては恰も痛痒つうしゃう相感ぜざるが如くなるのみならず陰陽表裏共に自家の利益榮譽を主張して殆んど至らざる所なく其これを主張することいよ\/盛なる者に附するに忠君愛國等の名を以てして國民最上の美徳と稱するこそ不思議なれ

(under construction)

 端書(石河幹明)  本文        
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