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日本國民生活の發達 −國史總論− (1)

内田銀藏
(〈日本文化名著選〉2 創元社 1941.3.30)

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例言

昭和十六年一月
日本文化名著選刊行同人


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目次


[目次]

第一 緒言

國史總論とは何ぞや  國史總論は國史一般に渉りての研究なり  國民の經歴を全體として考究す  國史總論と時代史との關係  研究の性質  研究の材料  國史の連綿性  局面の變化  論述の方法及順序

是より私が申述べようと存じまする事柄は、日本國民の歴史的發達の大體に關することでござります。そこで此の講演の題を「國史總論」と命名致したことでありますが、國史總論と云ふ名稱は未ださう普通に使用せられて居らぬやうでありますから、諸君の中には此の名稱に就きまして、其の内容果して如何なるものであらうかと不審に思はれた方が或はありませう。さういふ不審を抱かれた方に對しては、詰り私の企圖する所は、古今を通じて國史一般に渉りての研究を試みようとするに外ならぬのであると答へたいのであります。それ故に或る時代を限つて委しく調べると云ふのではなく、昔から今までを一貫して考察し、國民經歴の全體の上に就いて聊か考究を試みようといふのが、此の講演の目的とする所である。
かやうな國史一般に渉りての研究、即ち國民の經歴を全體として考究するといふことは、國史の一部分一部分に就いて細かい研究をするに先だつて必要なことであります。これは一時代一時代の精細なる研究を試みる前に、順序として先づ致さなければならぬ事柄である。さうして見れば國史總論は、國史の學術的研究を始める其の一番最初に於て宜しくなすべきことであるが、併し同時にこれは又國史の研究の一番の終りに於て到達すべき所の結果であると考へることも出來るのであります。凡べて事物の研究は先づ大體に就いて調べ、それから一部分一部分に就いて委しく調べて、最後にまたそれを總括して大體の上の觀察を下すことが必要である。故に國史の研究は宜しく國史總論に始まつて、また國史總論に終るべき筈のものでありませう。

此の國史總論といふものは、一時代一時代の歴史を簡短にしてそれを繼ぎ合はしたやうなものであつてよいかといふに、どうもそれでは物足りないことゝ思はれます。自分の考へまする所では、國史總論に於ては、同一の事實に就きても一時代一時代の部分的研究をする場合とは異つた見方をすることがあらう。又國史總論に於ては、一々の時代史では論じない國史一般に關する問題を論究すべき筈である。それ故、國史總論は、それ自からの考察點とそれ自からの問題とを有する譯であつて、從つて各時代の歴史を精しく調ぶれば、それでもう國史總論といふやうなものは別になくとも濟むといふ論は立たぬことゝ思はれます。
一國の歴史に於ては、其の一部分一部分のみの研究をして居まする際には、一向注意を惹かないやうな事柄であつて、しかも古今を通じて考へて見まする時には、甚だ大切であると思はるゝ事柄がある。それ故に、一時代一時代の研究に於ては、等閑に附せられて居る事柄が、却て國史總論の研究の場合には甚だ主要なる問題となつて參ると云ふやうなことがあるのでござります。これに反して、一部分一部分、僅かの年代のことを專ら調べて居る際に大に注意を惹いて、誠に重大な事柄のやうに思はれた事件も、國民經歴の全體を通じ、古今を一貫して考察する場合には、これは單に一時的のことであつて、大局に影響なく、大體の發展の上には、關係が誠に少ないから、深く論ぜずして可なりといふやうになつてくることがある。それからまた、國史上の或る重要なる問題は、必ずしも或る特別なる時代だけに專屬して居る問題でない、國民発達の根本的基礎となる所の要因に關する事實、例へば國の地理上の位置といふやうなこと、これは頗る重要なる問題の中に屬することであるが、かやうな問題は、或る特別なる時代に專屬する問題ではありませぬ。それ故、どの時代の研究者も、それを主として調べない、從つて單に一々の時代の歴史のみでは、さういふ一般的の問題の研究は、自然顧みられずに終る譯であります。然るに國史總論に於て一般に亙つて調べる時には、右のやうな或る特別な時代に限らずして、古今を通じて發展の基礎となるやうな事實を十分に調べようとする。さういふ事柄を特に研究の問題とするのである。それでありますから、國史總論は單に一時代一時代の歴史の拔書のやうなものとは言へぬ。縱し其の論究する事柄は、部分的に時代史で以て既に調べて居る同じ事柄であるにしても、それを一層廣い所の見地からして見る、即ちそれ自からの考へ方、考察點といふものを持つて居ることである。また只今も申した如く、それ自からに屬する一般的なる問題をも持つて居ることであります。
一般的の問題の例として、先きに國の地理上の位置といふことを申しましたが、其の外、民族の成り立ち、人口の増殖、又は國民性の問題と云ふやうなことは、何れも一々の時代に限局せざる一般的の問題である。此等の問題は、一々の時代の歴史を專ら取調べる學者に於ては、深く興味を感じないかも知れませぬが、國史總論に於きましては、實に重要な問題に屬することであります。又例へば國民經濟の發展であるとか、神道の歴史的發達であるとか云ふやうなことに就きましても、たゞ一時代一時代の研究に專ら從事致しまする學者は、それ等の方面に關して其の時代に起つた顯著なる事實に專ら注意し、自然其の特別なる事實、その時代だけの範圍に於ての變遷沿革を主として取調ぶるに止まる譯であります。併し國史總論に於きましては、國民經濟の發展進化を、其の起原よりして降つて現時の状態に至るまで、全體を通じて考察して見ようと企圖する。又神道に關しても、原始神道の性質より研究を始めて、それが如何樣に變遷沿革して以て今日の有樣になつたかと云ふことを考へる。それからして又國民經濟の發展、神道の發達進化といふ樣な事柄が、國民生活の經歴の全體の上に於て、どういふ關係を有して居るかと云ふことをも論究致すべきであります。從つて問題が時代史の場合よりは大きくなつて參る、又趣を變へて來る譯であります。
最早只今迄申した所で、國史總論の如何なるものなるか、其の時代史との關係如何といふことは、粗〃明瞭であらうとは存じますが、尚ほ譬喩を以て之を一層分り易くして見ませう。今京都及其の附近のことを專ら取調べると云ふ場合に於きましては、例へば東寺であるとか、清水であるとか、金閣寺であるとか、嵐山であるとか云ふやうな場所は、頗る研究者の注意を惹くことであらう、さういふ大伽藍又は名所に關することは、大なる興味を以て取調べらるゝこと必定であります。併し日本を全體として調べると云ふ場合になりましたら、如何でありませうか。其の場合に於ても、勿論京都は一の大都市として、特色ある大都市、殊に歴代の帝都として、大切なる歴史上の關係ある大都市として、大に注意して研究せらるゝに相違ありますまい。けれども、最早其の場合になりますると、清水がどうであるとか、嵐山がどうであるとか云ふやうなことは、自然と略せられて仕舞ふ譯になります。さうして單に京都及其の附近と云ふやうな類の研究の場合に於ては、起つて參らないやうな日本全體に關しての大きな問題が、多く論ぜらるゝ譯になつて來る。それから京都の機業、或は京都に於ける教育、衞生、又は市街交通の状況と云ふやうな事柄も、京都及其の附近のみを專ら調べる場合とは違つて、專ら日本全體の上から見て論ぜらるゝやうになる、即ち京都にだけ關してではなく、日本全體の機業、日本一般の教育衞生状態、若しくは市街交通の状況の研究の上よりして考察せらるゝ譯になつて參ることであります。其の見方が違つて來ると、同一の事柄も、其の取扱ひ方が違つて來る。其の問題の性質が自から趣を改むるに至ることである。先づ時代史と國史總論との性質上の差別は、此の京都及其の附近の研究と、日本全體の研究との間に存する所の差別と相似たるものであらうと思はれます。

凡べて實際に起つた一々の出來事の研究は、面白いものである。又一々の事件の顛末の話を聞くのは一の娯樂になることである。これに反して、國民經歴の全體に關する研究といふやうなことになると、綜合的概括的のことでありますから、一々の事件の顛末に關することのやうな面白味はない、面白味はあつても、それは別種の面白味であります。これはまた日本社會全體の研究といふものには、金閣寺や清水に關する研究に伴ふやうな面白味がない、若しあつたならば、それは別種の面白味であるのと丁度一樣であらうと思はれます。

此の講演では勿論一々の細かい事實を述ぶることは、其の本旨とする所でない、又之を述べて居る暇がない、殊に簡單を旨とするから、主として、綜合概括の結果、得來りたる大體の考を約説するに止まる譯ではありますが、併し事柄によつては其の考の基く所を示し、其の議論の根據、其の説の由つて生ずる所以をも多少申述ぶるやうに致さうと存じます。凡べて一の學科に就いては、研究の結果を聞知するのみでは不十分である、同時に研究の方法順序に就いて多少知る所あるを要することであります。人によりましては、たゞ結論だけ聞けばそれで宜しい、研究の結果だけ知ればそれで十分であると思ふかも知れませぬが、それは間違つた考である。其の研究の筋道を知らずして、其の結果が十分に能く會得せらるゝ譯がない、其の結論の正當なるや否、又それが如何ばかりの價値あるかといふことは、研究の方法順序を知つて始めて分ることである、又一の學科に就いての興味といふものは、單に其の結果だけを知るよりも、寧ろかゝる結果を得るに至りたる筋道を聞くことに於て、一層多く存するものである。

さて愈〃研究に立入りまするに先だち、此の所で、日本歴史の大體の性質に就いて聊か見る所を述べて置きたいと思ひます。先づ其の大體の性質上に就いて、我々の直ちに気附きますることは、即ち國史の連綿性といふことであります。連綿性と云ふのは、英語で申したならばコンティニュイティー Continuity といふ語に當るものである。元來何れの國の歴史でも、凡べて或る程度の連綿性は具へて居るべき譯であります。何れの國の場合を見ても、古今を通じて、或る程度まで氣脈が貫通して居る、頗る早い時代の面影が、或る點に就いては遙か後までも遺つて居り、現今の状態が餘程早い時分にあつた事柄に起因して居ると云ふことが隨分ある。だから、連綿性は何れの國に於てもあることであつて、獨り我國の場合のみに限つたことといふ譯ではない、併しながら我國の場合に於ては、此の連綿性が殊に著しいことを認めるのであります。
然らば、其の連綿性の著しいと云ふのは、どう云ふ理由から來て居るものであらうか。之に就いて何人も第一に氣の附く所は、日本の國體の上からして、さうなくてはならぬと云ふことである。即ち我國は、上に萬世一系の皇室を戴いて居つて、皇統連綿として絶えない、だから歴史が連綿として切れない、詰り國家の建設よりして今日に至るまで、同一の皇室の下に於て國民が其の發展を遂げて居る次第であるから、其の發展の經歴、其の歴史に於て、連綿性が殊に著しいのは誠に當然である。これは少しも疑を容れざることであります。但し其の外に、此の連綿性の著しい因由が尚ほあるかといへば、それは仔細に考へて見まするといふと、尚ほ併せて擧げて宜しからうと思ふ事柄があります。それは國家編制の上の連綿といふことと伴つて、民族の上の連綿といふことがあること、又精神的文明の上の連綿といふことが失はれなかつたといふことである。
民族の上の連綿といふのは、國の歴史の或る時期に於て從來の民族が衰亡し、他の新しい民族が之に代りて、國民の主なる要素となつたといふやうなことがなく、國初以來同一の民族が、日本の社會に於て引續き主なる位置を占め、それが次第に發展し、他の民族的要素を吸收同化し來つたと云ふ點にあるのであります。私は今日の日本人が單純なる成分のものであるとは認めぬ。其の根源に溯り、其の本來の成り立ちを調べて見ますれば、日本民族は種々な民族的要素が結び付いて出來上つたものであつて、また其の成立以後に於ても、跡から附加した異分子があることは、勿論之を認めなければなりませぬ。されど、それはそれとして、國民の中樞になりて、さうして其の發展の主なる勢力となつて居つた所の民族と云ふものは、前後同一である。以前からして居住して居つた原住人民、并に後に入り來つた歸化人等は、何れも皆此の主なる民族、日本の國家を建設し、日本の文化を作り成した所謂大和民族に吸收せられ同化されて、それと融合して仕舞つた。而してかやうに、他のものを吸收同化して益〃發展した大和民族が、即ち今日矢張日本國民の主なる要素を形成して居ることである。それ故に日本國民の歴史は、或る時代までは或る民族の歴史、或る時代からは他の民族の歴史であると云ふやうな譯ではない。これがまた日本の歴史の連綿性の著しい一の因由となつて居ると思はれます。
日本國民の歴史と云はずして、日本群島に於ける住民の歴史といひ、國家の建設に先だてる時代のことまで包括する場合には、また別である。民族のことは第三講、人民の部に於て更に詳論する。
今一つの精神的文明の上の連綿と云ふのは、或る時代に於て、以前から存した文化の特色が全く一洗せられて新しい文化が全然之に代つたと云ふやうなことがなく、詰り日本の古代に於て存した信仰、思想、習俗と云ふものが、後まで文化發展の基礎根柢に存して居り、其の土臺の上に新しいものが附け加はり、之と結び付いたといふ事である。支那印度の文化を輸入し、また近くは歐米の文物をも採取して日本文明の性質は次第に大に其の趣を改めたことではありますが、新に入り來つた文化の要素が、前に存在したものを全く洗ひ去り、之を驅逐し了りて其の代りになつたといふのではなく、本來最初から存したものが、後までも保續して、國民文化をして長く其の特質を維持せしめ、その特別なる地の上に、舶來の染料を利用して、うつくしき模樣が染め出され、單に華麗とか、精巧とかいふばかりではなく、堅緻にして高尚言ふべからざる雅致を存する精妙なる織物が作り出されたとでも申すべき次第であります。今日に於きましても、至つて古い時代に淵源せる思想、信仰、習俗に未だ全く其の生命を失はず、國民の精神、國民の氣風・性格、國民の文化の上に其の影響が能く認めらるゝことである。
かやうに國體の上、國家編制の上で、他に類のない連綿があり、之に加ふるに民族の上の連綿、それから精神的文明の上の連綿と云ふことが伴つて居る。それ故に、其の結果として國民生活の經歴、國民の歴史の上に於て、連綿性が誠に著しいことを見出す譯であると思ひます。

さて只今論じましたる如く、國史の連綿性は著しいことであるが、併し日本歴史は單調であるかと申すと決して單調でない。日本歴史には其の連綿性の著しいと云ふことがあると共に、他の一方に於てまた局面の變化と云ふものが隨分ある。昔からずつと同じことを繰り返して來たと云ふのでなく、時代時代に於て其の發展の模樣が餘程違つて來て居る。それ故に研究の興味が多いのであります。

さうして日本の歴史、日本國民の經歴には、他の諸國の歴史に於て餘り類例のない樣な點が色々あります。國體の他に比類なく、上に萬世一系の皇室を戴くこと、是れ第一に我國人の誇とする所である。外との政治上の交渉が少なく、國内に外敵の侵入を受けた例のないこと、是れ第二に我國の誇である。それから文化發展の徑路の上に就いて見ますると、支那文化の繼受、これは日本ばかりのことではない、支那に近接して國を立てた東方亞細亞の諸國が皆等しく爲したことであるが、日本の場合では、單に其の形骸を承け繼ぎ、外形だけ模倣したに止まらず、其の神髓を學び、其の内容の中に就いて役に立つ所のものを移し入れ、之を咀嚼し消化して以て他に秀でた點の多い特別なる國民文化を成熟せしめた、これは他の東方亞細亞諸國に於て同樣の例を見ざることである。支那の制度に倣つて立てた官制の壞廢に伴ひ、地方に於て武士が興り、それよりして武士的精神が社會を支配し、封建的主從關係が一般普通になつたこと、これは蓋し我國をして、他の東方亞細亞の諸國に比し、特異なる發展を遂げしめた、一大因由であると思はれます。又最近凡そ五十年間に於て、我國が西洋文明を採取したことによつて生じた大なる效果、これは又これまで東西兩半球に於ける歐羅巴文明傳播の歴史に於て、他の所では嘗て見ることを得なかつた特別のものである。

以上は緒言として申したのであるが、次回よりは本論に入り、項を分つて論述することに致します。先づ國民生存の基礎的要因たる風土、人民、此の二者に就いて述べませう。次に人口の増殖のことを調べて見たいと思ふ。その次に國民性のことを一言したいのであるが、時間に制限あるを以てそれは略します。それからして、國民生活の經歴を、其の種々なる方面に就いて考究すべきものでありますが、此の國民の生活といふものには、大體に於て内外の二方面、即ち國の外部の關係と、國の内部の有樣との二方面があると見るのが至當であると思はれます。それで、私は二者の中、先づ國の外部の關係といふことから説かうと思ふ。即ち風土、人民、此の二者の略説を終つたならば其の次の題目は、對外關係と云ふことになるのであります。此の國の外部の關係、又は對外關係と申すことは、其の意義頗る廣くも解せらるゝことでありますが、今回は其の條下に於ては、國の國際上の位置、所謂外交上の關係の變遷沿革のことを重もに説かうと存ずるのである。それが濟めば、國の内部の有樣の變遷沿革に關する研究に移るのである。此の國の内部の有樣に就いての研究は、更に三に分つて論ずることゝします。一には政治及社會組織の變遷、二には物質的文明の進歩、即ち經濟の發達に關すること、三には精神的文明の發展に關することであります。但し何れも論じ盡すといふことは、固より望めない、只氣附いた點を稍〃委しく述ぶる位に止まるでありませう。精神的文明の發展に就いては、重もに國民固有の思想信仰と、外來の文化との關係に眼を着けて、其の點を專ら論ずる積りであります。それ故に、其の部分の題目は「國民の思想信仰と外來の文化」と名づけた次第である。
文學及美術の發達に關することは、現今では文學史及美術史で特別に之を研究致します。時間に制限があるし、又私はそれ等のことには甚だ昧いから、敢て之に言ひ及ぶことを致しませぬ。


[目次]

第二 風土

風土と人生  氣候  土地  地震及火山  海國としての日本  日本海の沿岸  出雲  古代に於ける海上交通の發達  國の位置  古今の差異

風土と人生との間には、相互に餘程深い關係があるのであります。其の事は早くからして人が多少氣附いて居つたことである。又學者の説を聞かないでも、少し考へて見ると直ぐに思ひ當ることであつて、例へば夏は何となしに身體が弛む、殊に蒸暑い時などには何をするのも厭になる。然るに秋になると自然に身體が締まつて來るやうになる、といふやうなことを考へて見ましても、風土と云ふものは人間の身體に影響を與へるものである、またそれから從つて人間の活動の上に影響を生ずると云ふことは直ちに分つて來ることである。併しながら、風土と人生との間に關係があると云ふことは、大體何人も容易に氣附くものであるが、其の關係は果して如何なるものであるかと云ふことに就きましては、必ずしも人々皆精確な考を持つて居るとは言ひ難い。或は殆ど總てのことを風土に由つて説明しようとする人もあらうし、或はまた風土の影響を極めて輕く見て、餘りに之を無視すると云ふやうな人もあるかも知れぬ。二つの見解共に偏見たるを免れず、眞理は二者の中間にあると思ふのでありますが、たゞさう云つただけでは、まだ漠然として居るであらう、今少し委しく論ずる必要があるのであります。
風土と人生との關係は、他の語で申しますと、自然と人との關係であります。大體お話して見ますと、只今申した通り自然の影響といふものは頗る廣大であつて、十分に之を認むることを要しますが、さればとてまた總てのことを自然の影響のみに歸する譯には行かない、人事の説明には、自然の影響と共に、他の要因の働きをも考へねばならぬ、自然は大切な見遁すべからざる要因ではあるが、その外に人事の要因としては、人及文化がある。即ち一々の場合に於て人事の特別なる發展は、能動の主體たる人間の性質如何に由り、また其の社會に於て現に存する文化の有樣如何に由つて決することが隨分多いのであるから、總てを自然の影響のみに歸する譯には行かぬといふことであります。それから此の自然の影響と云ふものは、何時も同じものであると見做すことが出來るかといふに、私はさうは考へません。何故に何時も同じものであると見做すことが出來ぬか。私は凡そ四ヶ條に分けて考へることが必要であると思ひます。
先づ第一に自然の状況、其のものが變化致します。山河依然として存すと申しますけれども、實際に於て山河は依然として居らぬのである。もと河があつた處も、後には河がなくなつたり、又は前には大河があつたものが、細い流れになつて仕舞つたりすることが幾らもある。地變と云ふことがある。或は海が以前には深かつたのが、それが遠淺になる、前には良い船着場であつたが、今では地變の結果、大船の出入に適しないやうになつたといふこともあります。即ち自然の状況其のものが變化し、何時も同樣であるとは限らない、それに伴つて其の人事に及ぼす影響が變つて來なければならぬのである。でありますから其の事を考に入れないで、今の自然の状況に據つて考へて、昔もさうであつたらうと直ちに推定し、それから其の過去に於ける影響を臆測すると、屡〃間違を生ずることがあります。是れ注意を要することである。
第二に人の働き、文明の進歩の結果として自然の状況が變つて來る。即ち昔は森林が多く草木茂生して居つたのに、段々伐り開いて今は林が少なくなつたとすると、其の土地が住民の上に於ける影響は古今頗る相同じからざるものがあらう。又昔は隨分人間に害を與ふるやうな猛獸が多く棲んで居つた地に於ても、段々とさう云ふやうな獸類を狩りまして其の種族を殲滅して仕舞ひ、今ではさういふ猛獸は絶滅、または絶滅に近くなつて、其の害がなくなつたといふこともありませう。又それと反對で、例へば前には鯉が多かつた川も、餘りに濫漁のために、今では鯉が殆ど居らない、また前には有用な材木が澤山あつたが、濫伐の結果今日では材木が乏しいといふこともある。人の働きの結果として、かやうに動植物の存する有樣も、今と昔とは餘程樣子が違ひ、それに伴ふ影響亦同じからぬことであります。尚ほ生物は人の移殖に由つて、もとなかつた地にても繁殖する。それから人の經營の結果、不健康地が健康地になり、海面も埋立てられ、嶮岨な道路も平夷になる。かくの如く人爲で自然の状態が變りたる上は、其の後に於てかく變りたる自然状態が與ふる影響は、其の未だ變らざる以前に比し、異る者あるべきは勿論のことであります。
第三には同一の自然であつても、其の所に棲んで居る人間の如何に由つて、影響の結果は著しく相違します。同じ希臘であつても、其の天然が古代の希臘人の上に感化を與へて生じた結果と、近世の希臘人の上に働いて生じた結果とは同一でない。日本の風土も、假りに日本人とは頗る異つた資質の人民が此の群島に住んだ場合に於て、果して日本人の上に働いて生じたと全く同樣なる結果を生じたであらうか。私は其の場合には、結果は餘程異るであらうと思考するのであります。
第四には同一の國土、同一なる天然地理的の位置であつても、歴史上形勢の變化に由つて、其の働き、其の人間社會の上に及ぼす效果が變つて參ります。後段にも述ぶる如く、日本の位置は古今同一であつても、東洋と西洋との接近、大洋交通の發達のために、今日日本の位置が日本國民の上に與ふる效果は、昔日とは非常に違つて參つたことである。
以上述べた如く色々な理由があつて、風土が人生に及ぼす所の影響は、何時も極り切つたものであると云ふやうに考へる譯には參りませんのであります。
次にそれでは未開の世に於てと、開明の世に於てとでは、自然の影響は何れが多いかといふに、人によりましては、それは未開の世に於ては自然の影響が餘程強く大なるものであつたけれども、開明の世の中になつてからは、遙かに少なくなつて居ると、斯う申すかも知れませぬ。けれども若し自然の影響といふことを單に受身の影響、即ち自然に負けて居るといふことだけの意味に解せずして、一層廣い意味、一層包括的の意味に解したならば、一概にさうは言へないのである。抑〃自然と人との關係は、單に人間が自然に屈服すると云ふ關係ばかりではない。若しも人間が自然に屈服すると云ふ關係ばかりであつたとしたならば、それは未開の世に於ては自然の影響大であり、開明の世に於ては小であると直ちに云ひ得るであらうが、併し二者の關係は實はそればかりでないのであります。
人間が自然に順應する關係、人間が自然に抵抗して、さうして自然の働きを緩和し、又は自然の働きを打消すといふ關係もある。其の外に尚ほ人が自然を利用すると云ふことがある、又自然を或る點まで改造すると云ふことがあります。是等のことを總て考へて見、殊に自然を利用して人間の目的に役立つやうにすることの發達に注意致しますと、自然と人との關係は、開明の世の中に於て、また甚だ親密であつて、其の關係が一層複雜になつて來て居ることを認めなければなりません。開明人は自然を一層よく理解するに至り、從つて却て自然と一層深い關係を保つやうになつて居ると思はれます。但し、其の關係の性質たる、未開の時代に於ては、人間は專ら自然に對して受働的であつたのが、開明の時代に至つては、人間が自から進んでやること、働き掛けることが餘程多くなつたのであります。
これから進んで日本の風土はどうであるか、此の日本、殊に本州、四國及九州等の自然が日本人にどう云ふ關係があり、日本國發展の上にどう云ふ影響を與へて居るかと云ふことを、聊か考へて見たいと思ひます。先づそれに就いては、氣候と土地との二者を考へなければならぬ。氣候は大體緯度に由りますけれども、單に緯度にばかり由ると云ふ譯ではない、同じ緯度であつても其の氣候の樣子は色々な事情から變つて來る、同一緯度に位する地にして氣候一樣でないのは、其の土地の有樣、其の隣近地域の地勢、また海の影響など、種々の原因に基くものである。日本は島國であつて、所謂信風の域に位し、又沿岸を洗ふ海流があるために影響を受けて居る。又西北の方に大陸を控へて、さうして其の大陸との間に日本海があると云ふ、此の位置、此の状況は日本の氣候の上に頗る關係があることゝ思はれます。
日本の氣候は中和ではあるが、寒暑の差は割合に著しい。日本に初めて來た外國人などは冬が寒いので、自分の豫想以外だつたと驚く位であると云ふことが、ライン氏 Rein の『日本』にも申してあります。勿論日本の氣候と一概に云ひますけれども、細かに調べますと、地方によつて氣候に頗る差異がある。これは日本は東北から西南の方に餘程長い間に亙つて居る國であるから、單に緯度の上から見ても、奧州の北の端と、九州の南の端とでは、餘程差異のある筈である。其の上に地方地方に特別なる事情があるから、尚ほ色々な差異が生じて來て居る。例へば關西では夕凪と云ふことがあつて、夏の夕は一時風が殆どなくなつて暑苦しい、東京では夏の夕方は涼しい風が吹いて、涼みに出掛けて誠に心地よいことが多い。冬の東京の風はビユウ\/吹いて寒いと普通に申して居る、京都では冬季さういふ風は多く吹かない、其の代りに雨が多くて甚だ陰氣である。一體に太平洋沿岸地方の冬は晴朗なる天氣が多いけれども、北海岸、即ち日本海に沿へる地方の冬は陰欝であつて雨雪が多い。又雪は青森邊と凾館とを比較すると、凾館の方は少なくて、それより南の方なる青森が却て多いと云ふことであります。かやうな地方的差異が多くあるから一概には申せませんけれども、先づ大體に於て觀察し、一般に渉りて申せば、氣候は要するに温和である、大陸的でなく海洋的である。寒暑の差割合に著しいけれども非常に著大なるには至らない。それで其の氣候は人をして熱帶に於ける如く惰弱ならしめず、又寒帶の場合の如く人を萎縮せしむるに至らないのであります。濕氣は稍〃多きに過ぎ、爲めに害もあるやうではあるが、地信風(*季節風。北東の風)の域に位し、初夏雨多きことは此の國をして稻の栽培に適せしめ、早く豐葦原瑞穗國の名あらしめた所以である。人心の上に於ける影響は、概していへば人をして寢入らせるといふよりも、寧ろ人を鼓舞する性質が勝つて居るやうに見える。人をして陰氣ならしむるよりも、快活ならしむる方の要素が大體に於て勝つて居るやうに考へられます。人の健康の上には大體に於て甚だ佳良なる氣候である。
土地は山が多い、地形には隨分變化が多い、入海、また湖沼多く、河川も多い、美しい自然であつて、而して天産物に富んで居る。されば日本は實に良い國である、日本のやうな良い美しい國は他になからうと、これは多くの人の言ふ所であります。但しまた他の見方をするものもある。即ち日本に於ては自然の働きのために損害を蒙ることが隨分ある。日本は火山の多い國である、日本は地震が多い、海嘯が屡〃ある、年々秋には極つたやうに暴風雨が襲來する、爲めに海上に於ては船が難破する、陸上に於ては家屋其の他損害が多い、殊に作物が大なる損害を受ける、それから洪水が汎濫する、其の結果非常なる慘状を呈するに至ります。そこで外國人の中には日本は美しいと云ふけれども、少し立入つて調べると甚だ不安な國であると、斯う云ふことを申す人もあるのであります。これも事實は事實として認めなければなりませぬが、併し、詰り何れの國にも好いことと、好ましくないことと共にある。日本は火山國、地震國ではあるが、その點を差引いても矢張美しい國、誠に結構なる國であるといふことは、恐らく一般の通論であるでありませう。
火山、地震、海嘯、暴風雨、洪水、是等の災異が古來大なる物質上の損害を與へ來つたことは、記録に明かに見えて居つて更に疑を容れぬ。併し此等の災異の頻繁なることが、人心の上に如何ばかりの影響を生じたであらうかと云ふことに至つては、これは餘程興味ある問題であるけれども、物質上の損害などの如く直接に之を徴することが出來ない、問題の性質上、證據を擧げて説を立つることが困難である。從つて人によつて色々に考ふることであらうが、今試みに私の管見を申して見ますると、かやうな災異の頻繁に起ることは、人の心の上に必ず或る影響を與ふるに相違ない、但し其の影響の程度は恐らく割合に輕微にして、從つてそれを餘りに過大視してはなるまいと思ふことであります。火山の猛烈なる噴火、地震、海嘯、洪水の類は、不時に急激に起つて來ることであつて、不斷のことでない。さういふやうな不時に起る出來事は、其の當時に於て一時甚深なる感動を與へ、また永久にも或る程度まで人心の上に影響を殘すものであらうが、併し其の永遠に殘る影響は割合に輕いものであらうと私は想像するのであります。
人生の無常といふことは、銘々日常の經驗に由つて知る所である。何時か一遍は死ぬといふことは確かに分つて居ても、これは餘程物を考へ込む人ならば、其の事が眼の前に散ら附いて居つて之を念頭より離すことが出來ないで、斷えず煩悶するであらうけれども、それは格別な人であつて、先づ普通の人は、平常仕事をして居る時には殆ど死といふやうなことは來ない筈の如くにして、平然として仕事をやつて居る、それを殆ど全く豫期しないかの如くにして、日々の仕事をやつて居ることであります。洪水などの場合を見ましても、水損場で本年出水のために收穫皆無であつても、矢張其の跡に作付けする。洪水のために非常なる被害のあつた所でも、其の水が引去つて仕舞つて平常に復した後、二月か三月か經つと何時の間にか人々殆ど其の事を忘れたやうになつて仕舞ふ。それで平日は水害を殆ど豫期しないで、其の所に住居し、日々の仕事をやつて居る。河川に對しては其の出水の時、濁流勢凄しく、暴威を逞しうせることを經驗して居つても、平常は之を恐ろしと感ぜず、その流れの緩やかにして河上の景色の宜しきを見ては、普通の人たゞ之を愛し、之を賞するの外なきことであります。地震や海嘯なども、平日は殆ど之を忘れて居る。これから考へて見ると、かやうな災異が何時發生するか知れないといふ不安、心配が、國民の生活の上に及ぼした影響は割合に少ないであらうと思はるゝことであります。
日本が火山國であり地震國であるために、日本人は何時も何事も手に附かず、爲めに總ての發達が後れたかと云ふに、我々にはさうは考へられない。成るほど災異の頻繁なることは、一時人心をして恟々たらしめ、其の上にまたいくらか其の日送りの風を生ぜしめたことがあるかも知れぬが、それがために總ての人事を詰らないとして、總てのことを諦めて自暴自棄に陷ると云ふ程には至らしめなかつた、これは慥かであると存じます。火山は古代日本人の山嶽崇拜の念を強めたであらう。若し夫れ地震、洪水等が頻繁にあるために、日本人が或る程度まで氣早になつた、變に應ずるに機敏なる性質を得たと云ふやうなことがありはせぬかと申す人があつたならば、私はそれは或はあるかも知れないと答へんと欲するものであります。從來江戸の人には所謂江戸ッ子の氣質があるといひ、而して江戸ッ子は割合に氣早で、機敏であるといはれて居りました。これには恐らく色々の原因があつて、江戸人はもと諸方の人が混じて出來たからであるかも知れぬ。又江戸の生活が外の所の生活より忙がしい、故に自然に人をして氣早に機敏ならしめたのでありませう。併しながら又一つには江戸には火事が多くて、さう云ふ時には殊に臨機の處置を採つて、氣早に機敏にやると云ふことが必要であるにより、自からかゝる性質が養成せられたといふこともあらうと思はれるのである。さう致せば地震、海嘯、洪水等の屡〃起ることも、また或る程度まで同樣なる影響を生じたかも知れません。
要するに私は不時に起る災異、事變等が人心の上に永遠に生ずる影響は、割合に輕微であらう、之に反し自然の平常の状態が不斷に與ふる感化、何時とはなしに生ずる影響は、却て頗る大なるものあらんといふ臆説を有するのであります。さて茲に富士山のことを一言して置きませう。富士山は比較的新しい時代に於ても時に噴火した、併しそれがために人々を不安ならしめ、氣早にしたといふことは、どうも著しいとは考へられぬ。之に反し、其の特別なる形を有して天際に聳えて居る、いつも動きなき名山であるといふこと、それが日本人の崇高の念を養ひ、國民の理想を高め、國民の氣風を高潔ならしめたといふ方の影響感化は、却て餘程著しいものがあつたらうと思はれます。尤も此の富士山の感化といふものは、決して實際富士山を見たもの、富嶽を日々眺むるものだけに限られて居つた譯でない、畫に描いたものを見、詩歌に歌はれたものによつても、富士山の感化は廣く國民に及んだことゝ思はれる。
日本の自然は前に申した如く時としては恐るべき働きをも遣るけれども、先づ一般に平常に在りては美はしい自然で、峻酷でない所の自然である、愛すべく、親しむべき自然であります。其の美はしい、また色々變化に富める自然は、國民の思想の上に影響し、日本美術の特色は、或る點は日本の自然の影響によるといふこと、これも或はさうであらうかと思はれます。其の外に日本人の性質が峻酷でない、殘忍でなくして温和であると云ふこと、これも幾分かは自然が與へた影響に基因するかも知れませぬ。美はしい家庭に於て生長した所の人は、割合に温順であつて峻酷でないのが先づ普通である。それと同樣に美はしい、優しい自然の下に住んで居る人は、自から峻酷でない、温和なる性質を有するやうになるといふこともあるでせう。但しかやうな自然の影響に就きての議論は、一々事實に徴して精密に之を證明し、それが必ずこれだけの程度までは自然の影響に由ることであつて、他の要因には歸すべからずと判然論證することを致し兼ぬるから、どうもハツキリとさせることがむづかしいのであります。
今日の日本帝國は、最近に於ける領土擴張の結果として、四方の境皆海といふ譯でなく、地續きにて他國と隣接するに至りました。故に今日の日本は純然たる海國とは云へない。けれども至つて近き時まで日本は純然たる海國であつた、今でも國の大體の形勢は海國的である。日本の過去の歴史、日本國の是迄の發達を考ふるに當りては、この海國であつたことが如何なる關係を有して居る乎を能く會得せねばならぬことゝ存じます。海國といふことの意義は、林子平の『海國兵談』に、地續の隣國なくして、四方皆海に沿へる國を謂ふ也と申してあります。詰り海國とは島國のことであります。
日本國は海國である、島國であるが島國にも種々あり得る。一の大島だけに國を立つるものと、それから多くの島々から成つて居る國とでは樣子が違ふ。又後者の場合に於ても島々が互に遠く隔つて居つて、離れ\〃/になつて居るのと、互に近く接して一團を成して居るのとでは、大に趣が異ります。本來の日本は大八洲國オホヤシマグニの稱があつて、多くの島々より成り、而してそれ等の島々は甚だ近く相接して一團を成して居る。故に島と島との間の交通は容易で、此の一群の島々は別々にならずに、一體としての歴史を有し、互に相離れずに、一つになつて發展を遂げて居る。それから島と島とで圍んで瀬戸内海といふものを形成して居るが、此の瀬戸内海のあることが、また此の國土に一の特色を附して居ることであります。假りに瀬戸内海がなくて、本州と四國、九州とが合して一大島國を成せる場合を想像せんに、其の場合には安藝、讃岐、攝津、播磨なども、海から餘程遠くして、それ等の地に住むものは、現在とは餘程違つた事情の下に立ち、餘程異つた心持であるに相違ない。然るに此の内海あるが故に、それ等の地に於ても人民は海邊の生活を致して居る。これあるが故に畿内の地は、九州の方と早くから交通が割合に便利で、互に密接の關係を保つことが出來、加之外國の船が務古水門ムコミナトや難波津までも入り來ることが出來て、内外の交通往來も一層都合好く、外國文物の輸入、傳播も一層容易であつたことゝ思はれる。またこれあるが故に山陽道の南岸、南海道の北岸及二者の間にある島嶼に於ては早くから住民船を使ふことに熟練し、海賊も起り、冒險者は出で而して海軍の萠芽をも見るに至つたことであります。
次に島には絶海の孤島と、大陸に近い島とがあることを注意しなければならぬ。絶海の孤島であれば、他との交通が頗る難く、他よりの刺戟を受くることが少ない、それでも多くは絶對の孤立に至らず、時としては漂流其の他の原因によつて外から人がそこへ來ることがある。大陸に近い島であれば、大陸との交通が自然容易に起り、關係が生じ、大陸の方から人民が來往し、文化が傳來するやうになり易いのである。日本の場合は即ち絶海の孤島の場合でなくて、大陸に近い島の一の好適例であります。
海は僅かの距離でも或る點に於ては、其の隔離の效果著大なるものがある。九州及壹岐、對馬が朝鮮と地續きになつて居らぬことは、慥かに日本の過去の歴史の上に大なる影響があつたに相違ない。大陸に近いとはいへ、兎に角島であること、其の上に尚ほ後に述ぶべき如く、其の位置が片寄つて居つたことのために、古來我國は外國との交渉關係が少なく、他の刺戟を受けることが痛切でなく、或る點まで別天地、別世界の趣があつたこと、これは慥かである。此の四方環海であるために外敵も容易に來らず、建國以來他の侵略を蒙らざるには、種々の原因あるべしと雖、この地理上の原因亦其の一に居るに相違ない。併しながら、海は一方に於て隔離すると共に、國と國とを結び付くるものであつて、遠距離の交通の如き、海に由ればこそ却て容易に行はるゝ場合がある。海岸道路通じ難き所では、交通は先づ舟路によつて開ける。順風に乘ずれば、古代にありても、海上の交通は思ひの外に容易に且快速であつたのであります。右の如き譯であるから、島、殊に大陸に近き島の隔離、孤立は要するに或る程度までのことである。日本の場合亦隔離孤立は古來決して絶對的ではなかつた。日本は太古以來未だ嘗て眞に全く鎖されたる國ではなかつたのであります。
日本の南の海岸は港灣の出入が多くして、海岸線が比較的に長い。北の方の海岸は出入が少なく、海岸線は割合に短いのである。此の海岸線の長さは、國の發達と如何なる關係があるかといふに、直接間接に全く關係がないとは云へないやうである。海岸線の割合に長い所は、自然沿岸出入多く、良い港灣に富み、從つて若し外の事情が總て同一ならば、其の短い所に比し他國との交通往來に便利で、外國貿易の發達、文物の採取にも都合よい筈である。されども一國の發達、一國文明の進歩が單に海岸線の長さのみに由つて決するといふ譯ではない。總て人事の實際は、單純に或る一の要因のみの働きに由ることは少なく、其の因由は頗る複雜なものであつて、樣々な原因が同時に働いて、さうして其の合果として或る結果を生ずると云ふのが寧ろ普通である。故に海岸線の長さといふ一の事情の上からいへば優つて居つても、他の種々なる點に於て發達に不便であつたならば、其の地は早く發達することが出來ますまい。先づ文化の曙光の發する所、必ず海岸線の割合に長い所に於てすなどとは速斷することが出來ないのであります。
日本の場合、古代に於て何處が先きに早く開けたかといふに、傳説に見えて居る所では、日本海沿岸の山陰道地方、殊に出雲の邊などが割合に早く開けたやうである。太平洋に沿へる海岸、即ち屈曲一般に大なる所から開け始まつて、後に日本海の沿岸に及んだといふやうにはなつて居らない。何故に山陰道の方面、出雲地方などが先づ早く開けたかと云ふと、それは地理上の位置と云ふことが重要なる原因になつて居るだらうと思はれる。即ち此の出雲の邊は遙かに韓半島と相對し、彼の地との交通が容易であつたために、早くから交通が開けて居つて、從つて早く土地も開けたものと見えます。早い時代に於て日本海沿岸の海上の交通は、割合に開けて居つたものである。阿部比羅夫が東北邊を經營したのも、船で行つたのである。今の北海道のことを度島ワタリシマと申し、中古之を陸奧に屬せずして出羽國に屬するものとして居つたのも、矢張北海道との交通が、日本海沿岸の方よりして早く先づ開けたからでありませう。
これより國の地理上の位置を少しく論じ、古今形勢の變化に聊か論及しようと存じます。古代に於ては、日本は東海の中に偏在して居つた、即ち亞細亞大陸の東端に位せる片隅の國でありました。それは丁度英吉利が早い時代に於て歐羅巴の西北の端、其の時分の世界の片隅にあつたのと誠に能く似て居るのである。故に古代に於ては島國である上に位置が片寄つて居つたから、全く他と隔絶して通じなかつたといふ譯ではないが、他との交渉が少なく、他の影響を受くることが割合に薄かつたのである。然るに今日に於ては國際關係の上から見ての國の位置と云ふものが、大に變つて來て居る。英吉利が今や世界交通上の要路に立つて居るやうに、日本も世界交通上の要路に立つて居る。太平洋の航路が開けてからは、日本は最早世界の極端に位する國ではなくなつた。其の航海の開くる前には、之を隔てゝ東に米大陸のあるといふことが、日本の歴史に殆ど何等の影響もなかつたが、今はそれが大關係あるに至つた。天然地理の上からいへば、同一の地理上の位置も、歴史上の出來事、世の有樣の變るに伴つて、異りたる人文地理的意義を有するに至ることである。

第二 補註



[目次]

第三 人民

人種論  日本人の成り立ち  神別、皇別、諸蕃  天神地祇  土蜘蛛、國■(木偏+巣:::大漢和)  熊襲、隼人  蝦夷  夷俘、俘囚  歸化人  現今の日本人  體格  身長


 例言  目次
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