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近世文学の背景

野田寿雄
塙選書41 塙書房 1964.10.15
※ 巻末の注は、本文に組み入れた。青色文字ラインマーカは入力者による注記。

 はしがき  目次  第一章 三都の気質  第二章 近世町人の特質  第三章 近世の出版事情  第四章 小説の読者層  第五章 流行色の問題
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はしがき

「近世文学の背景」という題でこの本を書いたが、実は背景というよりは特性とでもいった方が適当な感じがする。というのは、筆者は専門の歴史学者でもなければ、経済史学者でもない。背景という限り、文学に直接に関係はないにしても、間接に関係のある諸事象をあつかうべきであるから、普通は近世史とか近世経済史、あるいは近世風俗史といったものが背景であると考えられるであろう。しかるに筆者は、その方の専門家ではないのであるから、その方はうといのである。とても書けそうにない。ところが筆者はここで、特性といわずあえて背景といった。それはなぜであるか。実は筆者は永年近世文学の研究をしつつ、常に逢着する問題があった。すなわち、ここに挙げた三都の気質とか町人の本質、あるいは出版事情、読者層、流行色といった諸問題である。これらは近世文学を研究するときに、どうしても直接にぶつかる問題であり、しかもどうしても問題にせざるを得ない問題なのである。そしてはなはだ残念なことに、現在まだ十分に解明されていない問題である。筆者はそこに著目して、とにかく自分なりに解明しようと思ったのである。もちろんその解明の途上において、先学の諸論考に負うところが大きかった。しかし文学そのものとの関連において論じられたものは少ないので、それを文学に関連したものとしてあつかったのは、すべて筆者の責任である。
近世文学は日本文学の中でもきわめて特殊なものとされている。そして特殊なるがゆえに毛嫌いされるという傾きもある。だが、一体過去の日本において特殊でない時代がいつあったであろうか。近世だけが特殊であるゆえに毛嫌いされるというのは、一体どういうことなのであろうか。確かに三都の気質とか町人性とか出版事情といったものは、近世特有のものであろう。しかし、一たび振りかえれば、それは何と今日にも通じ、また生きている諸特性ではなかろうか。近世の特殊が毛嫌いされるのは、それが案外現在に近いがゆえの自己嫌悪に由来するものが多いようである。反対に霞のかかった遠い過去はかえって美しく見えるものである。だからその近い近世が、毛嫌いのゆえにかえって十分知られていないという面が多いのである。これは現在の大きな問題であろう。要はまず知るということである。知るということも、観念的に知るということではなくて、実情に則して知るということでなければならない。近世文学を知る場合にも、歴史がどうであるとか、経済がどうであるということを知るのも大切であろうが、そういう知り方ではなくて、もっと文学に密着したものを知り、文学を具体的につかむということの方が緊急の課題であるように思われる。ここに挙げた諸項目は、その意味で文学にもっとも密接な関係のあるもののみを取りあつかったつもりである。
もちろん項目はここに挙げたものに限ったものではなかろう。筆者はこのほかに、諸文学形態の発生理由とか、文学意識とか、風俗と文学といったものも考えた。けれども今回は、それらを取り上げることができなかった。これらについてはまたいつかの機会に触れてみたいと思っている。しかし、この本が、とにかく何らかの意味で近世文学を理解する手がかりとなったり、また今後考えられなければならない問題を提供したりしているとすれば、筆者はそれで充分満足である。最後に、いろいろの事情で成稿のおくれたこの本に対し、あくまでも協力と理解とを惜しまれなかった塙書房の皆さんにお詫びと感謝をしたいと思う。
一九六四年四月
野田寿雄


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目次



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第一章 三都の気質

文学は作家個人の制作物であるから、もちろん作家個人の才能や性格、あるいはその世界観に左右されるものであるけれども、考えてみると、一方ではその個人を通して、環境・風土・時代といった外的な素因も作用しているし、また作品の読者層を通して、同じく環境・風土・時代が作用しているということができる。つまり作家個人は気がつかなくても、おのずから作品にはその背後のものが力強く働いているのであって、作家と同様、それを抜きにして作品を考えることはできないのである。日本の近世(いわゆる江戸時代)の種々の文学も、もちろんそれぞれの作家の独自性の所産ではあるけれども、一方にはそういう背景の影響があって、逆に云えばそういう背景を知ることによって、作品の本質がより深くより新しく理解されるということもないではない。そういう意味で、作品理解ということを念頭に置きつつ、これから日本近世のあらゆる背景を考えてみたいと思うのであるが、その第一歩として京都・大坂【「大阪」と書くのは明治以後で、江戸時代には「大坂」と書いて「オオザカ」と読んだ。以下「大坂」としるす。】・江戸三都の人間気質を取り上げようと思う。
というのは、近世の文化圏が大体この三つに集約されるのであるし、したがって文学もこの三都を地盤にして発生し、それぞれ交互の交流をなしつつ発展して行ったからである。この中では、文化の上から云って、京都が一番早く、続いて大坂、さらに江戸という風に発展し、文学もそれに従ったのであるが、しかし大坂の文学が繁栄したからといって京都が取り残されたわけではなく、また文学の中心が江戸に移ったからといって、京都や大坂の文学が衰滅したというわけでもない。大体において、京都から大坂、大坂から江戸という変遷は指摘できても、それゆえに前の都市に文学が無くなったというわけではない。そのことは、まず最初に記憶して置かなければならないけれども、とにかくこの三都が、近世文化の、あるいは近世文学の中心であったという事実だけは、問題なく認められるのである。そして、三都が文化及び文学の中心であったということは、そのそれぞれの土地柄がそこに発生した文化や文学に作用しているということであり、しかも三都は明らかに土地柄の相違があるのであるから、まずこの相違に焦点を合わせて、そこの文化や文学の本質を考えることは、大変重要なことと思われる。
しかし、土地柄といっても、そこの自然や風物ではなくて、そういうものをも含めた人間の生活や生活感情の方が文化や文学に作用するところ大きく、むしろそこに重点を置いて考えなければならない。何となれば、京都の自然がこうであったとか、江戸の風物がこうであったということも、決して文化や文学に無関係なものではあり得ないけれども、やはりそこに住む人々の生活や生活感情の方が、直接に作用するのであるから、それをまず取り上げるべきであるからである。そして、その生活や生活感情は、一言にしていえば、その土地の気質かたぎという言葉に集約される。いわば、京都かたぎ、大坂かたぎ、江戸かたぎといわれる土地柄の表現である。そういうわけで、ここではその気質を問題にしたいと思う。そしてその気質の解明と同時に、それの作用している文学の特徴や変遷についても、できるだけ考えてゆきたいと思う。

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一 京都かたぎ

山紫水明の地といわれる京都は、七九四年の平安奠都以来、日本の政治的また、文化的中心地であった。ここには天皇制を基盤にした貴族文化が爛熟するまでに栄え、たとえ武士の世になって鎌倉幕府が成立、貴族が政権を喪失するに至っても、なお日本文化の源泉地としてその伝統はここに永く保持されていたのである。一三三八年、京都に足利(室町)幕府が発足、京都はふたたび政事の中心地となったが、世は次第に乱れ、諸国に群雄割拠して戦いがやまず、特に一四六七年勃発した応仁の乱は、十年間も京都が戦場となって多くの文化遺産を失うことになった。しかし、それでも天皇は存し、貴族(公卿)はここに定着して、平安朝以来の文化の保持はなお続いていた。
一五六八年織田信長が大挙京都に到着した時は、足利義昭がなお幕府の征夷大将軍として存していたが、やがて信長義昭を放逐、室町幕府は名実ともに消滅した。しかし信長の覇権も短く、政権は羽柴秀吉に移ったが、秀吉は関白に任ぜられ、京都に豪壮な聚楽第を建設して京都文化の保持者と仰がれた。秀吉没するや、徳川家康の世となり、一六〇三年家康は江戸幕府を設立、ついに京都はふたたび政治の中心地ではなくなった。京都に残るものは、天皇であり、またそれを取巻く公卿のみになった。しかも家康は、天皇及び公卿に対して苛酷であって、さまざまの圧迫を加えたばかりでなく経済的にも冷遇した。天皇の封禄はわずかに四万石、公卿の筆頭の近衛家が二千八百六十石で、他の公卿に至っては想像に余りある窮乏の生活を強いられた。このように京都は、江戸時代になって伝統の都市以外の何ものでもなくなったのである。
しかし一方から考えると、京都には中世以来の豪商も集まっていて、やはり大都市の観はあった。たとえば、後藤庄三郎(*1571-1625 江戸幕府金銀御改役)茶屋四郎次郎(*京都の豪商・貿易商)角倉了以(*1554-1614 京都の貿易商・土木事業家。原文「了意」)(以上を京都三長者という)をはじめ、灰屋紹益(*1607-91 京都の豪商。本阿弥光悦門。和歌・茶道・蹴鞠等に秀でた。随筆「にぎはひ草」〔新燕石十種所収〕)その他の金持が住んでいて、公卿の窮乏とは対照的に豪華な生活を営んでいた。彼らは徳川家康の時代になっても、京都を動こうとはせず、新興の大坂や江戸を見下していた。しかもこういう豪商が、伝統文化の保持者である公卿に近づくことによって、京都の文化はこれらの上級町人に移ってゆくことになるのである。窮乏の公卿は、争って伝統文化の門戸を開き、これらの町人にその文化の伝授を試みた。数例を挙げれば、飛鳥井・難波家の蹴鞠、冷泉家の和歌、園家の生花、持明院・石山・六角家の書道、山科・高倉家の衣紋、五条家の相撲、錦小路家の医道、土御門家の卜筮、四条家の庖丁というふうで、そのほか茶道・香道・連歌などの伝授を試みる公卿たちもいたのであった。公卿たちはその生活のために、町人たちはその伝統文化への憧憬のために、両々相まってこの文化の移行は円滑におこなわれたようである。
かくて京都は、ますます保守的な様相を見せた。そして、保守的であると同時に、知識的な様相も見せているのである。伝統文化の保持者は、もはや公卿というよりは、町人であったけれども、京都の町人はそういう意味では保守的であり知識的であった。一例を挙げよう。角倉了以の子素庵(*1571-1632 京都の貿易商・土木事業家。能書家「洛下三筆」)は、性来学問好きで、藤原惺窩について儒学を学んだが、書道の師本阿弥光悦(*1558-1637 刀剣師。作陶・漆芸・書道に優れる。「寛永三筆」)と親交するに及び、その影響下に和書の飜刻をおこなった。いわゆる嵯峨本の印行である。素庵は、その居住した京都郊外の嵯峨において、光悦とともにみずから板下を作り、雲母紙に草花や鳥蝶などの模様を摺り出した上質の紙をえらんで、これに木活字の印刷をした。その原本はほとんど日本の古典であった。
川瀬一馬氏の「古活字版の研究」に拠れば、現存する書目は、伊勢物語十種、伊勢物語肖聞抄二種、源氏小鏡一種、方丈記二種、撰集抄一種、徒然草五種、観世流謡本九種、久世舞三十曲本一種、久世舞三十六曲本一種、新古今和歌集抄月詠歌巻一種、百人一首二種、三十六歌仙二種、二十四孝一種であるという。これを嵯峨本、角倉本、あるいは光悦本などと呼んでいるが、素庵はこの印刷本を知人に頒布したばかりでなく、一般にも売り出して古典の普及につとめたのであった。この素庵の嵯峨本の影響により、近世初頭の古典の飜刻が一段と飛躍するのであるが、こういう富豪の動きは、まさに伝統文化の啓発と継承とに大きな寄与をするものであった。
京都の富豪の学問好きは、何も素庵に限らなかった。後藤庄三郎にしても、茶屋四郎次郎にしても、文化面には異常な熱情を持っていた。一般の金持にもその風潮があった。こうして京都の町人は、はじめから伝統文化の中に育てられ、その継承の使命を負わされた。そしてそういうことの結果として、京都の町人はどこか保守的であり、また知識人的であった。上好むところ、下これに従う。自然この風潮は、一般町人層の中にも降っていった。ついに、京都全体がこういう雰囲気を形造ってしまったのである。
たとえば、素庵の嵯峨本以降に、急激に民間に出版事業がさかんになるのであるが、その出版の書目を見ても、日本古典の飜刻はいちじるしく多く、その普及には目を見張るものがある。そしてその読者はだれかといえば、ほとんどが富裕の町人であったのである。彼らは、まるで飢えてでもいるように、日本の古典に吸い寄せられていったのである。「伊勢物語」「源氏物語」「徒然草」などは、特に読まれたもののようだ。和歌書なども相当に出ている。そしてこういう古典熱が高まれば、その古典に対する註釈書、手引書、抄訳書などの現われるのも当然で、「源氏物語」については、「紹巴抄」「明星抄」「弁引抄」「万水一露」「綱目」「論義」「竟宴」「をさな源氏」「十帖源氏」「袖鏡」「小鏡」などが、「伊勢物語」については、「闕疑抄(*細川幽齋『伊勢物語闕疑抄』 文禄5年成・慶長2年刊)初冠」「集注」「抒海(*浅井了意盤斎抄」「山口記」などが、「徒然草」については、「」「鉄槌」「季明文段抄」「新注」「句解」「諺解」「野槌」「金槌」「古今抄」「大意」「なぐさみ草」「盤斎抄【寛文年間の「和漢書籍目録」参照。】などが出ているところを見ても、その盛況がうかがわれるであろう。こうした民間の古典熱が、いかに彼らの教養の基礎になったか、そしてまたいかに彼らの文学心をそそったかは、想像以上のものがあったと思われる。
京都町人の古典愛好は、やがて彼らの間に生まれて来た新文学に対しても、多かれ少なかれその規制を与えずにはおかなかった。つまり何らかの形で、新文学も古典につながっていなければ、正統な文学とは考えられなかったのである。このことは、慶長十四年(一六〇九年)ごろあらわれ好評を博した新小説「うらみのすけ」や、それに続いてあらわれて、やはり好評を受けた「薄雪物語」について見られる。
前者は、恨の介という男が、清水寺参詣の際に雪の前という美女を見初め(*原文「見染め」)、恋文を贈って一夜の望みがかなうが、その後身分の違いで会えず、悶々としてついに死んでしまう。それを聞いた雪の前も自殺する。時人二人をあわれんで同じ墓に葬ったというロマン風の小説であり、後者は、園部衛門という男が、やはり清水寺参詣の際に薄雪という女を見初め(*同前)、いく度か恋文を贈るのであるが、女には夫があり、なかなか色よい返事をよこさない。しかし度重なる恋文はついに女の心を動かし、二人は結ばれるが、衛門が近江へ出かけているうちに、女は病死し、帰って来てそれを聞いた衛門は驚き悲しみ、すぐ剃髪して高野山に登るという、これもロマン風な小説であった。ところでこの両者を見ると、「恨の介」にも「薄雪物語」にも、全体に古典臭がはなはだ強く、そこに引用されている故事でも、文章でも、また描写でも、すべて古風をまぬがれていない傾向のものである。
雪の前殿此文をこまやかに御覧じて、やさしの人の言葉の末、か程まで心をつくし給ふかや。げにもさやうにおぼしめさば、恥かしながら身づからも、御返事申さんとて、雪の薄様にかうろぎの墨すりながし、あそばしける。もとより此姫、歌の道なにかは暗からん。古今万葉源氏狭衣伊勢物語、ばん年たはぶれ給へば、文章の達者、筆勢のいつくしき事、申すにたえず。さっとあそばして、あやめ殿にぞ渡し給ふ。(うらみのすけ
わが身のごとく、紀の有常が娘と在五中将業平との御契りも、よそならず。伊勢物がたりにも、
筒井筒井筒にかけしまろがたけ老ひ(*ママ)にけらしな妹見ざる間に
と、むかし男の詠みければ、その時女、
くらべ来しふりわけ髪も肩過ぎぬ君ならずしてたれか上ぐべき
とたがひに詠みけるとなん侍り。それのみならず、わが主さまとわが身も、
われならで下紐とくなあさがほの夕かげ待たぬ花にはありとも
二人してむすびし紐をひとりして逢ひみるまではとかじとぞおもふ
このごとくのかねごと候まま、なびき候事なるまじく候。かしく。(薄雪物語
右の引用でもわかるように、あるいは源氏物語、あるいは伊勢物語というふうに、さかんに古典が挙げられて、両者にいかに大きく日本古典が投影しているかが察せられる。
つまり両小説は、単に両小説の作者が古典の教養を深く身につけていたからというばかりでなく、これを読む読者層がこういう古典臭を含んだものでなくては満足しなかったという当時の事情にも由って、このような傾向を持ったといえるのである。もちろん、このことは常識であって、中世から近世へ移る必然的な過渡期現象だ、といってしまえばそれまでであるけれども、事はそんな表面的なことではなく、なぜに京都の町人小説がこのような古典的傾向を持ったか、またそれに応えて、作者たちがなぜその古典的教養を誇示したかということについて考えてみれば、やはり伝統のふかぶかとした京都の地において、伝統に頼らなければ文学の花を咲かせ得なかったその都市の宿命を感ぜずにはおられないのである。ここにおいて京都町人の好みの、保守的知識的であることは、明らかであると思われる。
もう少し、他の例を挙げてみたい。中世以来、公卿または武士階級にもてあそばれたものに連歌があった。「今日ハ連歌ノ御会席ニテ候。只今ハ茶会ノ際中ニテ候。」(太平記)とあるように、戦国諸大名の間にも流行した連歌は、高級な文学として近世にも伝えられた。近世初頭、京都には、宮廷に出入りし、また豊臣家や諸大名に愛顧を受けた連歌師も多かったが、その中でも里村紹巴とか松永貞徳が光っていた。殊に貞徳は、父の永種細川幽斎紹巴から連歌を学び、慶長三年(一五九八年)には花の本の名人位をもらうほど、この道の一人者に成長しているのである。そのが、寛永六年(一六二九年)のころから、俳諧連歌に心を寄せるようになり、その主張に従う門弟たちと句集「犬子集」を著したのは、寛永十年(一六三三年)であった。
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