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通俗三國志 卷之壹


(『通俗三國志』 15冊 信濃出版會社 1884.11.日付ナシ
※ 原文の仮名遣いは正格ではないが、なるべく原文に従い、無い箇所は補った。
画像は有朋堂文庫のものを用いた。
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まつリテ天地てんち桃園たうゑんむす

つら/\邦家はうか興廢かうはいるに、いにしへよりいまいたるまできはマルトキハすなはちらんらんきはマルトキハすなはち。その陰陽いんよう消長せうちやう寒暑かんしよ往來わうらいせるがごとし。ゆゑに、人君じんくんムルこと兢々業々けう/\げう/\として須臾しばらくあへわすこれ堯舜げうしゆんなをメリ矣とす。いわん傭人ようじんをや。
かん高祖かうそ三尺さんじやくけんひっさげしんらんたひらたまひしより哀帝あいてい御時おんときまで二百余年にひやくよねん天下てんかよくをさまりしに、王莽わうもうみだりくらゐうばふ海宇かいうおほいみだる。
しかるを光武くわうぶこれをたひらげて後漢ごかんをこたまひ、質帝しつてい桓帝くわんてい御時おんときまですで二百年にひやくねんおよべり。
光武帝くわうぶていより十二代じふにだい天子てんし靈帝れいていまうしたてまつる。桓帝かんていゆづりうけて、御年おんとし十二歳じふにさいにて帝位ていゐつきたまふ。此時このとき大將軍たいしやうぐん竇武とうぶ太傅たいふ陳蕃ちんばん司徒しと胡廣こくわう三人さんにん相共あひとも天下てんか政務せいむつかさどりきみ輔佐ほさたてまつる。そののち内官ないくわん曹節さうせつ王甫わうほふものあり。諂佞てんねいにしてきみあざむき、みだり權柄けんぺいもつぱらにせしかば、竇武とうぶ陳蕃ちんばんこれをちうせんとしてはかりごともれきこへ、かへり其身そのみがいせらる。これより内官ないくわんいよ/\こゝろざしほしひまゝ朝綱ちやうこうにぎれり。
建寧けんねい二年にねん(*169年)四月十五日、みかど温コ殿うんとくでん出御しゆつぎよなりてすで御座ぎよざつかんとしたまときにわか殿角でんかくより狂風けうふうをこりて、そのたけ二十余丈よぢやうせいじやうつばりうへより飛下とびくだりて椅子いすの上にわだかまりければ、帝おほいをどろかたまひ、うへ昏倒こんとうたまふ。殿中でんちう騷動そうどうなゝめならず、百官ひやつくわんみなうへしたかゑして武士ぶししてこれをひきいださんとするに、大蛇だいじやけすごとくにうせて、いかづちなること天地てんちくだくごとく、あられまじりの大雨たいう夜半やはんいたりしづまり、洛陽らくよう城中じやうちう民家みんか數千間すうせんげんくづやぶれてする者もおほかりけり。これをこそ希代きだい珍事ちんじかなとあやしところに、おなじき四年の二月に洛陽らくようをびたゞしく地震ぢしんして、禁門きんもん省垣せいゑんこと/〃\くたほれ、海水かいすいあふわいて、とうらいみつの海ちかきくに人家じんかみな大波おほなみまかれて百姓ひやくせいするものかずらず。
これ直事たゞごとにあらずとて改元かいげんありて熹平きへいがうす。これより邊境へんけうより/\(*しばしば)謀反むほんする者あり。熹平きへい五年またあらためて光和くわうわがうす。ゥ處しよしよ怪異けいことありて、しけいしてゆうとなる。
六月朔日ついたち十余丈じふよぢやうK氣こくきよりおこり温コ殿うんとくでんる。秋七月、玉堂ぎよくだううちにじあらわれて五原山ごげんざんきしこと/〃\くくづる。其外そのほか種々しゆじゆあやしきことどもかずらずおこりければ、これまことに一人いちじんつゝしみ天下てんか大事だいじならんとて、ちよくして群臣ぐんしん金商門きんしやうもんあつめ、わざわいのぞくじゆつとひたまときに、光祿くわうろく太夫たいふ楊賜ようし議カぎらう蔡邕さいゆう二人ふたりへうたてまつりまうしけるは、近年きんねんうちつゞき怪異けい事共ことどもをこさうらふみなこれ亡國ぼうこくきざしなり。てんなほ漢朝かんてうすてず、へんしめして君臣くんしんいましめたまふ。いにしへより天子てんしルトキハくわいすなはをさとくいへり。いま内官ないくわんみだりけんとり天下てんかわざわいす。はやこれのぞきたまはゞ、天災てんさいおのづかせうすべしとひそか奏聞そうもんしければ、ことたちまちもれ楊賜ようし蔡邕さいゆう内官ないくわんためころされんとせしを、呂強りよけうふもの蔡邕さいゆうさいをしみ、いのちこひたすけてけり。
其後そのゝち内官ないくわん張讓ちやうぜう趙忠ちようちうほうしよ段珪だんけい曹節さうせつ候覽こうらん蹇碩けんせき程曠ていくわう夏輝かき郭勝くわくしやういふもの十人じふにん、みなきみへつらつかへもつぱら天下てんかまつりごとつかさどる。このゆへにこれ十常侍じふぜうじがうして、朝廷てうていうやまおもんずること師父しふごとく、もろ/\官人くわんじんその門下もんか伺候しこうしてをもねふくせんことをほつす。
こゝ中平ちうへい元年ぐわんねん(*184年)甲子きのえねとし鉅鹿郡きよろくぐん張角ちやうかくいふものあり。二人ふたりおとうと張梁ちやうれう張寳ちやうほういへり。元來ぐわんらい不第ふだい秀才しうさいたりけるが、或日あるひ山中さんちういりくすりとり一人ひとりおきなあふ。このおきなまなこうちみどりにしてかほ童子どうじごとく、手にあかざつゑたづさへ、張角ちやうかくよんあやしほらうちいたり、三卷さんくわんしよさづけてまうしけるは、これを太平たいへい要術ようじゆつづく。なんぢよくしよよみて、たゞつねにみちおこなひてぜんほどこし、てんかはりてあまねひとすくはんことをおもへ。もし惡心あくしんおこしなば、かならほろぼすべきぞとひければ、張角ちやうかく再拜さいはいして其名そのなとふに、われ南華なんくわ老仙らうせんなりとこたへて、一陣いちぢんかぜ吹起ふきおこ行方ゆきがたしらず飛去とびさりにけり。張角ちやうかくこのしよよみ晝夜ちうやおこたらまなび、つひあめよびかぜよぶじゆつて、みづか太平たいへい道人だうじんがうす。張角と南華老仙
そのころ天下おほい疫癘ゑきれいおこなはれて死する人多かりければ、張角あまねく符水ふすいほどこすに、しるしを得ずといふものなくこと/〃\く張角が座前ざぜんて、みづかそのとが讖悔ざんげし、みなたちどころに平伏へいふく(*平復)す。張角これより大賢良師たいけんりやうしがうし、五百余人よにん弟子ていし四方しはうわかちやまひすくはしめ、三十六のはうたて大小だいせうわかち、皆將軍しやうぐんの名をもつはうに名づく。このゆへに大方たいはうをこなふもの一万余人よにん小方せうはうをこなふもの六七千人、みな一ほうちやうを立て、蒼天さうてんすで黄天くわうてんまさ としあり甲子かふし、天下大吉だいきちいひはやらせ、甲子きのえねの二かきあまねほどこしあたへ、郡縣ぐんけん市鎭しちん宮觀きうくわん寺院じゐんこと/〃\くこれおさずとことく、そののちせいしういう州・ぢよ州・州・けい州・やう州・こん州・州のかんには、家々いへ/\大賢良師たいけんりやうし張角とかきうやまたつとぶこと鬼~きしんれいするがごとくなりければ、張角こゝろうち非分ひぶんのぞみをこし、まづ大方たいはう馬元義ばげんぎいふものに金銀きんぎんもたせ、禁裏きんりいりひそか十常侍じふじやうじが心をむすばしめ、ほうしよ徐奉じよほう内通ないつうのことをたのみ、二人の弟張りやう・張はうよびまうしけるは、いたつがたきはたみの心なり。今民の心われにす。もしこの時にのつて天下をとらずんば、万人ばんにんのぞみうしなはん。ねがはくは二人の本意ほんいきかん。張梁・張寳これもとよりのぞむところなりいひければ、張角おほひよろこび、一樣いちやうなるはたつくり、三月五日いつか一同いちどうことをこさんとて、唐州たうしういふ弟子ていし書簡しよかんもたせ、禁裏きんりいり内々ない/\たのみおきたるほうしよ徐奉じよほう告知つげしらさしむるに、唐州たうしうにはかに心をへんじ、たゞちに奉行所ぶぎやうしよゆきて事の子細しさいうつたへければ、帝大に驚き玉ひ、大將軍たいしやうぐん何進かしんめいじてまづ馬元義ばげんぎ生取いけどつくびはねさせ、内應ないおうせんとしたる者共ものども余人よにんごくくだたまふ。
張角ことあらはれたるをすみやかへいおこし、みづか天公てんこう將軍しやうぐんがうし、張りやう地公ちこう將軍と号し、張はう人公じんこう將軍と号し、百姓ひやくせいあつめてまうしけるは、今かん運氣うんきすでにつき大聖人たいせいじん世にいでたり。汝等なんぢらよろしく天にしたがう太平たいへいたのしめといひければ、四方しはう愚民ぐみんわれも/\ときたあつまり、みななるきぬもつそのかしらつゝみければ、ひとこれを黄巾くわうきんぞくがうす。張角すで四五十萬しごじふまんせいて、在々所々ざい/\しよ/\はなち、人の財寳ざいはうかすとる。これにより地頭ぢとう官吏くわんりふせぐべきやうなく、こと/〃\にげかくれてその騷動さうどうなゝめならず。
大將軍たいしやうぐん何進かしんこれをちうせんとて帝にそうゥ所しよしよ守護職しゆごしよくめいじて軍勢ぐんぜい催促さいそくせしめ、廬植ろしよく皇甫嵩くわうほすう朱雋しゆしゆん三人を大將とし、三手さんてわかち追討つゐたうせしむ。此時このとき張角が一軍いちぐん幽州いうしうえん州のさかひ手痛ていたおかしければ、大守たいしゆ劉焉りうえんこれをふせがため校尉かうゐすうせいいふものにめいじ、ゥ處しよしよ高榜たかふだたて忠義ちうぎつはものを集めしむ。
そのころ涿たくけん樓桑村ろうそうそんいふところに一人の英雄えいゆうあり。此人このひとつねに言少ことすくなうしてれいもつて人にくだ喜怒きどいろあらはさず、天下のある人をともとしてそのこゝろざしきはめておほひなり。たけ七尺しちしやく五寸ごすんふたつの耳かたたれ左右さいうの手ひざぐ。く目をもつその耳をかへりみる。
かん中山ちうざんせいわう劉勝りうせう後胤こういんにして景帝けいてい玄孫げんそんなり。劉備りうびあざな玄コげんとくちゝ劉弘りうこういひしがいとけなふしてうしないしかば、はゝつかへかうつくし、みづかくつうりむしろおり家業かげふとす。いへ東南たつみかたおほいなるくはあり。たか五丈ごぢやうあまりにして、はるかのぞめば重々てう/\として車蓋しやがいごとし。往來わうらいひとこの木をては尋常よのつねにあらずといふ李定りていひとこれを見て、このいへよりかなら貴人きにんいださんとへり。
ときとし二十八さいなりけるが、天下に黄巾くわうきんぞく蜂起はうきして國々くに/〃\より忠義ちうぎまねくときゝて、みづかいで州郡しうぐんたてたる高榜たかふだよみ長嘆ちやうたんしてかへらんとするに、うしろよりおほいなるこゑあげ大丈夫だいぢやうふくにためちからいださずしてなにごとをか長嘆ちやうたんするぞとことばかくものあり。
玄コげんとくうしろきつれば、その人たけ八尺はつしやく豹頭へうとう環眼くわんがん燕頷ゑんがん虎鬚こしゆこゑいかづちごといきほ奔馬ほんばたり。すなは立回たちかへりてそのとへば、こたへいはくそれがし張飛てうひあざな翼コよくとくいふものなり世々よゝ涿たくぐん住居ぢうきよしてすこし田地でんちもちさけうりいのこほふり家業かげふとし、もつぱある人と相交あひまじはる。いまこのところすぐるに、足下そくか高榜たかふだもとにて長嘆ちやうたんたまふを見る。これいかなるゆゑぞ。
玄コげんとくいはく、われいま流落をちぶれたれどももと漢室かんしつ宗族そうぞくにて劉備りうびあざなは玄コといふものなりちかごろ黄巾くわうきんぞくしきりに州郡しうぐんかすめをびやかす。われこれをたひらげてしやしよくたすけんとおもへども、ちからたらざるをうらむなり張飛てうひいはく、よくも我心わがこゝろかなへり。其義そのぎならばわれ相從あひしたがもの四五人しごにんあり。ともこゝろざしあはせて大義たいぎ計略けいりやくなさんとて、ともなふ玄コげんとくいへきたさけのん相議あひぎするところまた一人ひとりをとこきたり。一輛いちれうくるま酒店しゆてん門外もんぐわいとゞおきうちいりくはもと家主あるじよびさけかふ。玄コそのていを見れば、身のたけ九尺きうしやく五寸ごすんひげなが一尺いつしやく八寸はつすんおもて重棗てうそうごとくちびるまつしゆごとし。丹鳳たんぽうまなこ臥蠶ぐわさんまゆ相貌さうばう堂々だう/\威風いふう凛々りん/\たりしかば、むかいれとふに、こたへいはく、われは河東かとう解良かいれうひとにてくわんうあざな雲長うんちやうはじ壽長じゆちやういへり。先年せんねんさと豪雄がうゆういきほひによりわれあなどりしゆへ、われこれころして江湖かうこかんのが流浪るらうすること五六年ごろくねんなり。いま黄巾くわうきんぞく蜂起ほうきして國々くに/〃\守護しゆご英雄えいゆうまねく。われこのゆゑきたりたり。
玄コおほいよろこび、わがこゝろざしほどつまびらかかたりければ、くわんうてんたすけなりとよろこび、とも張飛てうひいへゆき義兵ぎへいおこさんことをし、三人のうち玄コげんとくとしちやうじたればとて二人再拜さいはいしてあにとす。張飛てうひいはく、わがいへうしろなるもゝそのさいはひはなさかりなり。明日あす白馬はくばきつてんまつ烏牛うぎうころしてまつり、三人生死せいしまじはりむすばんは如何いかに。玄コげんとくくわんうしかるべしと。
おなつぎもゝそのいで金紙きんし銀箋ぎんせんつらね、牛馬ぎうばころして天地てんちまつり、とも再拜さいはいしてちかついはく、いまこの三人姓氏せいしことなりといへどもむすんで兄弟けいていとなり、心をあはせ力をあはせて漢室かんしつたすけ、かみ國家こくかはうしも萬民ばんみんすくふべし。同年どうねん同月どうげつ同日どうじつうまるることをのぞまず。ねがはくは同年同月同日にしなん。皇天くわうてん后土こうどこの心を照鑒せうかんし、もしそむおんわすれ天人てんじんとも誅戮ちうりくすべしとて、まつをはり玄コげんとくあにとしくわんうつぎとし張飛てうひ其次そのつぎとし、ともに玄コの母をはいして、其後そのゝちさとうちにて腕立うでだてする若者わかものどもあつめもゝそのにて酒宴しゆえんし、三百さんびやく余人よにんおよびければ、明日あすよりはたあげんとするに、うま一匹いつぴきなければ如何いかゞせんとあんずるところに、たれとはしら數十人すじふにんうちつれておほうまひかせたる人々ひと/〃\このところむかるとまうす。桃園の契
玄コげんとくいはくこれてんわれをたすくなりとて、ともいでこれを見れば、中山ちうざん大商人おほあきびと張世平ちやうせいへい蘇雙そさういふものゝ二人ににんなり毎年まいねん北國ほつこくゆきうまあきなひけるが、賊徒ぞくとみちふさい往來わうらいなやましけるゆへむなし故郷こきやうかへるなり。玄コむかいれ酒宴しゆえんをなし、逆賊ぎやくぞく退治たいぢして漢室かんしつたすくるのよしかたりければ、張世平ちやうせいへい蘇雙そさうそのこゝろざしかんじ、駿馬しゆんめ五十匹ごじつぴき金銀きんぎん五百りやうてつ一千斤いつせんきんおくる。玄コげんとくこれをうけて、良功りやうこう(*良巧)二振ふたふりけんうたせ、くわんうおも八十二斤はちじふにきんせいりやう偃月刀えんげつたうつくり、冷艶鋸れいえんきよづく。張飛てうひ一丈いちぢやう八尺はつしやく蛇矛じやぼうつくりて、甲兜よろいかぶとまでも一齊いつせいそなはりければ、さらばときめぐらさず打立うちたゝんとて其勢そのせい五百餘騎よきにて幽州いうしういたる。
大守たいしゆ劉焉りうえんおほいよろこび、その姓名せいめいとふ漢室かんしつ宗親そうしんなりとていへけいしよかたられければ、劉焉りうえんはなはうやま相親あひしたしむこと叔姪しゆくてつごとし。とき黄巾くわうきん賊徒ぞくと大方たいはう程遠志ていえんしいふもの五萬ごまん余騎よきにて涿たくぐんおかしければ、太守たいしゆ劉焉りうえんすなは校尉かうゐすうせい太將たいしやう(*ママ)とし玄コを先陣せんぢんとして打向うちむかつたたかはしむ。
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劉玄コりうげんとくやぶ黄巾くわうきんぞく

玄コ五百余騎よきにてたゞちに大興山たいこうざんふもと推寄をしよせければ、賊軍ぞくぐん五萬ごまん余騎よきにて陣勢ぢんせいはる。玄コはくわんう張飛てうひ左右さいうそなへ、反國はんごく逆徒ぎやくとなんぞはやくだらざるとよばはりければ、ぞくぢんより副將ふくせうケ茂とうもいふものうまとばしてうつかゝる。張飛まなこいからして虎髯とらひげさかさまたて丈八ぢやうはちほこまはして出迎いでむかへ、たゞ一合いちがふにしてケ茂とうもを馬より突落つきおとくびとり徐々しづ/\かへりければ、ぞく大將たいしやう程遠志ていえんしおほいいかりきつかゝる。關窒アれを八十二斤はちじふにきん龍刀せいりようたうひつさげ、馬ををどらせていでければ、程遠志ていえんしそのいきほひにおそ退しりぞかんとするところを關一刀いつたうきつおとす。賊軍ぞくぐん大將をうたれて皆降人かうにんいでければ、玄コ打取うちとりたるくびみちちまたかけさせ、こうをさめ幽州いうしうかへる。
大守たいしゆ劉焉りうえんよろこんいでむかへ、ゥ軍しよぐんあつしやうするところせいしうより早馬はやうまきたり、太守たいしゆけうけいきうつぐるとはうじければ、おほいおどろ牒文てふぶんひらるに、黄巾くわうきん賊徒ぞくとしろかこんことすでにきうなり。へいおこして後攻ごづめをせよとなり劉焉りうえんすなはち玄コをよんでいかゞせんとするに、玄コのいはくそれがしねがはくはゆきすくはん。劉焉りうえん大に喜び、すうせいに五千余騎よきさづけ、玄コを先手さきてとしてせいしうすくはしむ。
玄コの一軍いちぐんすでにぞくぢんちかくおしよせ、其体そのていうかゞひれば、こと/〃\かみみだしてなるきぬにてひたひをつゝみ、八卦はつけぶんかきしるしとし、すくひるを見て引分ひきわかれてこれふせぐ。玄コ五百余騎よきにて入乱いりみだれてたゝかへども、ぞくあま大勢たいぜいにて新手あらていれかへ/\ふせぎしかば、玄コたゝかくつして三十引退ひきしりぞき、關秩E張飛と相議あひぎし、味方みかたすくなふしてかつことあたはず、明日あす奇兵きへいいだしてぞくやぶらんとて、關窒ノ千余騎せんよきつけやまひだりふせをき、張飛に千余騎をつけみぎふせをき、みなかねならすを相圖あひづやくし、つぎの日すうせい・玄コ一手ひとてなりおしよせければ、ぞく大勢たいせいうしほわくごときそかゝり、ときこゑおほひふるふ。玄コしばらくたゝかていにて、いつはり退しりぞきければ、賊軍ぞくぐんきうおひきたる。すでやまほとりちかづき、玄コのせい一度いちどかねならしければ、ひだりに關秩Aみぎに張飛、二手ふたてわかれてうついで三方さんぱうより取卷とりまきたり。賊軍ぞくぐん大にやぶれて四角しかく八方はつぱうにげちりければ、玄コいきほひにのりせいしう城下じやうか殺到さつたうす。城中じやうちうよりこれ大守たいしゆけうけいもんひらい打出うちいでければ、賊軍前後ぜんごうしなひ、右往左往うわうさわう落失おちうせせいしうかこみたちまちにとけにけり。
大守たいしゆおほひよろこび、おもゥ軍しよぐんしやうしければ、すうせいぐんをさめて幽州いうしうかへらんとす。ときに玄コまうされけるは、ちかごろ中カ將ちうらうしやう盧植ろしよく勅命ちよくめいうけぞく首將しゆしやう張角ちやうかく廣宗くわうそうにてたゝかふときけり。われむか公孫こうそんさんとも盧植ろしよくとせり。いまゆいてちからあはせ、ともに賊をたひらぐべし。すうせいいはくそれがしいまだしうめいうけざれば輕々かろ/〃\しくゆくことはかなふまじ。足下そくかもしゆきたまはゞ、兵粮ひやうらうは心のまゝにしたまへ。幽州いうしうせいそれがしこと/〃\くをさかへらん。
玄コこれにより手勢てぜい五百餘騎よきひき廣宗くわうそういたり、盧植ろしよくまみへてみぎおもむきかたりければ、盧植大に喜びおもしやうして手下てしたとゞむ。此時このとき賊の首將しゆしやう十五まんせいにて廣宗くわうそうたむろし、官軍くわんぐんまんへい日久ひひさしく攻戰せめたゝかひ、いまだ墓々はか/〃\しき勝負せうぶなかりければ、盧植すなはち玄コにむかついはく此所こゝは賊軍みな要害えうがいひきこもりたれば、きう勝負しやうぶはあるべからず。今ぞくおとうとりやう・張はう二人穎川えいせんあり官軍くわんぐん皇甫嵩くわうほすう朱雋しゆしゆん相戰あひたゝかふ。今御邊ごへんに千餘騎よき官軍くわんぐんかすべし。いそこれより穎川えいせんゆきたゝかひたすけたまへ。玄コすなは牒状てふじやう請取うけとり、千五百餘騎よきにて穎川えいせんむかはる。
このとき皇甫嵩くわうほすう朱雋しゆしゆん賊將ぞくしやうりやう・張はういどたゝかふこと數度すうどおよび、賊の勢打負うちまけちやうしやいふところに引退ひきしりぞき、草木さうもくふかところぢんとりければ、皇甫嵩くわうほすう一手いつてせいしのんてきうしろまはし、ゥ軍しよぐん投火把なげたいまつもたせ、二更にかうころ四方しはうよりおしよせて一度いちどかけときつくりせめければ、をりふしかぜきうにして火天をこがし、賊の勢共せいどもうへしたへとさわて、馬にくらひまもなく、人はよろひるにもおよばず、十方じつぱう散乱さんらんせり。
張梁・張寳這々のがれて走りければ、向ふより一彪の軍馬みな紅の旗を指て打出、眞先に進むは又これ一人の英雄、身の長七尺、細眼・長髯、膽量人に過、謀衆に超、つねに齊桓・晋文匡扶の才なきを笑ひ、趙高・王莽縱横の策少きを嘲り、兵法は呉子・孫子に劣ず。沛國郡の人に曹操字は孟コ、小字を阿瞞と稱し、又吉利とも云り。乃ち漢の相國曹參より二十四代の後胤にして、大鴻臚曹嵩が嫡男也。官騎キ尉に報ぜらる。今黄巾の賊を破んとて官軍五千餘騎にて馳きたり、路を塞ひて攻戰ひ、首を取こと一萬餘級、馬物の具を奪取、皇甫嵩・朱雋に見へ一手に成て逃る敵を追蒐る。
玄コは此の時穎川に來り、賊の破たるを見て、入て皇甫嵩に見へ盧植が牒状を出しければ、皇甫嵩が曰、いま賊軍大に破れて走たれば、必ず廣宗に行て張角と一手に成べし。御邊早く馳皈り盧植に力を合せて怠ること勿れ。玄コこれに因て又廣宗を指て引回す所に、向より二三百の兵共罪人を車に載て出きたる。玄コたれやらんと怪み、近くなりて之を見れば乘たる罪人は中カ將盧植なり。大に驚き馬より下て其ゆへを問ば、盧植涙を流して曰、われ久しく廣宗に在て張角を取圍み度々戰ひ勝けるが、張角あやしき術を成けるゆへいまだ盡く破り得ず。近ごろ黄門左豐と云もの勅使として來り、我に賂を與よと云しゆへ、我軍中には金銀乏して勅使に献るべき物候はずと答ふ。此に依て左豐深く我を恨み、帝に讒して枉て我を罪に落し、此の如く召捕て、董卓を大將として廣宗の賊を退治せしむ。張飛きゝもあへず大に怒り、守護の武士を殺して盧植を救んとひしめきければ、玄コ急に止めて曰、これ天子の勅命なり。汝なんぞ躁しき。關窒ェ曰、いま盧植官を罷らる。我等涿郡に回るべし。玄コこれに從ひ兵を引て進む所に、忽ち山の後に喊の聲きこへて、馬烟夥しく起りしかば、岡の上に登て之を望に、廣宗にて官軍戰ひ負ぬと覺へて、黄巾の軍勢天公將軍と書たる旗を先に進め、官軍を追蒐るなりければ、玄コの曰、これは張角が勢なり、官軍を救ずんば叶まじとて、關秩E張飛と馬の鼻を双べて討て出れば、張角が勢大に驚き、すはや敵の伏勢の蒐るは、後を塞れなとて我先にと引回しければ、玄コいよ/\進んで賊の勢を四角八方へ打ちらし、五十里あまりぞ追蒐たる。
董卓は廣宗の戰に負て賊軍に追れけるが、誰とも知ず一手の勢打て出賊軍を蒐ちらしぬと報じければ、立回りて玄コに對面し、禮了て今いかなる官職ぞと問。玄コ官位なき由を荅られければ、董卓甚だ輕んじて了に恩賞をも與ず。張飛大に怒り、我等血を流して大敵を破り彼が辛き命を救たるに、假令恩賞こそ無とも、何とて芥の如に輕んずるぞ。我この賊を殺んとて矛を舞して入んとするを、關昼}に引留め、玄コ諫て申されけるは、彼は官高き朝廷の臣、殊に許多の軍馬を領す。我等もし之を殺さば、必ず謀反人と呼るべし。この處に留るべからずとて、其夜兵を引具して朱雋が陣へ趣ける。
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安喜縣張飛鞭督郵


        
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