堤中納言物語
金子彦二郎 校註
(尾上八郎 解題『竹取物語・伊勢物語・大和物語・濱松中納言物語・無名草子・とりかへばや物語・堤中納言物語』
〈校註日本文學大系〉2 國民圖書株式會社 1925.6.23)
※ 句読点・鈎括弧等、原文を改めた箇所がある。また、(*原文頭注)・(*入力者注)を適宜加え、検索の便のため、和歌の読みを書き加えた。
※ 入力者注には、一二の注釈書を参照したほか、文脈をつなげるための案を任意に出してあるので、取捨選択してください。
花桜折る少将
このついで
虫愛づる姫君
ほどほどの懸想
逢坂越えぬ権中納言
かひあはせ
思はぬかたにとまりする少将
はなだの女御
はいずみ
よしなしごと
花櫻折る少將
月にはかられて、夜深く(*よぶかく)起きにけるも、思ふらむ所いとほしけれど(*今逢った女の上を思い遣った表現)、立ち歸らむも遠きほどなれば、やう\/行くに、小家などに例音なふものも聞えず。隈なき月に、所々の花の木どもも、偏に混ひぬべく霞みたり。今少し過ぎて、見つる所よりもおもしろく、過ぎ難き心地して、
そなたへと行きもやられず花櫻匂ふ木陰に立ちよられつゝ
そなたへと ゆきもやられず はなざくら にほふこかげに たちよられつつ
とうち誦じて、「早くこゝにもの言ひし人あり。」と、思ひ出でて立ち休らふに、築地の崩れより、白き物の、いたう咳きつゝ出づめり。哀れげに荒れ、人氣なき處なれば、此所彼所覗けど咎むる人なし。このありつる者の返る喚びて、
「此所に住み給ひし人はいまだ(*原文「未だ」)おはすや。『山人に物聞えむといふ人あり。』とものせよ。」
といへば、
「その御方は、此所にもおはしまさず。何とかいふ處になむ住ませ給ふ。」
と聞えつれば、「哀れの事や。尼などにやなりたるらむ。」と後めたくて、
「かのみつとをに逢はじや。」
など、微笑みて宣ふ程に、妻戸をやはら掻放つ音すなり。
男ども少しやりて(*先に行かせて)、透垣のつらなる群薄の繁き下に隱れて見れば、
「少納言の君こそ。明け(*原文「開け」)やしぬらむ。出でて見給へ。」
といふ。よき程なる童(*女の童)の、容態をかしげなる(*が)、いたう萎え過ぎて、宿直姿なる、蘇芳にやあらむ、艷やかなる袙に、うちすきたる髪の裾(*髪の末端)、小袿に映えてなまめかし。月の明き方に、扇をさし隱して、
「月と花とを(*原注「後撰卷二、源信明「あたら夜の月と花とを同じくは心知れらむ人に見せばや」の歌を引く。」)。」
と口誦みて、花の方へ歩み來るに、驚かさまほしけれど、暫し見れば、おとなしき人の、
「すゑみつはなどか今まで起きぬぞ。辨の君こそ、此所なりつる。參り給へ。」
といふは、物へ詣づるなるべし。ありつる童(*今の女の童は)は留るなるべし。
「侘しくこそ覺ゆれ。さはれ、唯御供に參りて、近からむ所に居て、御社へは參らじ。」
などいへば、
「物ぐるほしや。」
などいふ。皆仕立てて、五六人ぞある。下るゝ程もいと惱しげに、「これぞ主なるらむ。」と見ゆるを、よく見れば、衣脱ぎかけたる容態、さゝやかにいみじう子めいたり。物言ひたるも、らうたきものの、優々しく聞ゆ。「嬉しくも見つるかな。」と思ふに、やう\/明くれば歸り給ひぬ。
日ざしあがるほどに起き給ひて、昨夜の所に(*昨晩泊まった女の許に)文書き給ふ。
「いみじう深う(*夜深く)侍りつるも、道理なるべき御氣色に出で侍りぬるは、辛さも如何ばかり。」
など、青き薄樣に柳につけて、
さらざりし古よりも青柳のいとゞぞ今朝はおもひみだるゝ
さらざりし いにしへよりも あをやぎの いとどぞけさは おもひみだるる
とて遣り給へり。
返り事めやすく見ゆ。
かけざりしかたにぞはひし絲なれば解くと見し間にまた亂れつゝ
かけざりし かたにぞはひし いとなれば とくとみしまに またみだれつつ
とあるを見給ふほどに、源中將・兵衞佐、小弓持たせておはしたり。
「昨夜は何所に隱れ給へりしぞ。内裏に御遊びありて召ししかども、見つけ奉らでこそ。」
と宣へば、
「此所にこそ侍りしか。怪しかりけることかな。」
と宣ふ。花の木どもの咲き亂れたる、いと多く散るを見て、
飽かで散る花見る折はひたみちに
あかでちる はなみるをりは ひたみちに
とあれば、佐、
我が身に(*「我が身も」か。)かつはよわりにしかな
わがみにかつは よわりにしかな
とのたまふ。中將の君、
「さらば甲斐なくや。」
とて、
散る花を惜しみ留めても(*風葉集(1271)〔春下〕詞書「花のちるころ、人のまうできたりけるに」)君なくば誰にか見せむ宿の櫻を
ちるはなを をしみとめても きみなくば たれにかみせむ やどのさくらを
とのたまふ。戲れつゝ諸共に出づ。「かの見つる處尋ねばや。」とおぼす。
夕方、殿(*父大臣の邸)にまうで給ひて、暮れ行くほどの空、いたう霞み罩めて、花のいとおもしろく散り亂るゝ夕ばえを、御簾捲き上げて眺め出で給へる御容貌、言はむかたなく光滿ちて、花の匂ひも無下にけおさるゝ心地ぞする。琵琶を黄鐘調に調べて、いとのどやかに、をかしく彈き給ふ御手つきなど、限りなき女も斯くはえあらじと見ゆ。この方の人々召し出でて、さま\〃/うち合せつゝ遊び給ふ。みつすゑ(*前出「すゑみつ」。中将の腹心か。)、
「いかゞ女のめで奉らざらむ。近衞の御門わたりにてこそ、めでたくひく人あれ、(*わが御方は)何事にもいとゆゑづきてぞ見ゆる。」
と、おのがどち言ふを聞き給ひて、
「いづれ、この櫻多くて、荒れたる宿(*原文「やと」。近衛の御門=皇居東面の陽明門の付近の邸宅を指すか)、わらは(*「われは」か。)いかでか見し。我に聞かせよ。」
と宣へば、
「猶便りありて、罷りたりしになむ。」
と申せば、
「さる所は見しぞ。細かに語れ。」
とのたまふ。(*「みつすゑ」は)かの見し童に物いふなりけり。
「故源中納言の女になむ。實にをかしげにぞ侍るなる。かの御伯父の大將なむ、『迎へて内裏に奉らむ。』と申すなる。」
と申せば、
「さらば、さらぬ先に。猶誑れ。」
と宣ふ。
「さ思ひ侍れど、いかでか。」
とて立ちぬ。
夕さり、かの童は、ものいと能くいふものにて、ことよくかたらふ。
「大將殿の常に煩はしく聞え給へば、人の御文傳ふる事だに、伯母上(*原文ルビなし。「おばうへ」か。祖母上。後出。)いみじく宣ふものを。」
と(*「語らふ」ことが続くうち)、同じ處にて、めでたからむ事など宣ふ頃、(*みつすゑが女の童を)殊に責むれば、若き人の思ひ遣り少きにや、
「心(*「ここら」か。)よき折あらば、今。」
といふ。御文は「殊更に、氣色見せじ。」とて傳へず。みつすゑ參りて、
「言ひ趣けて侍る。今宵ぞよく侍るべき。」
と申せば、喜び給ひて、少し夜更けておはす。みつすゑが車にておはしぬ。わらは(*諸本「はなは」)、けしき見ありきて入れ奉りつ。火は物の後へ取りやりたれば、ほのかなるに、母屋にいとちひさやかにてうつ臥し給へるを、かき抱きて乘せ奉り給ひて、車を急ぎて遣るに、
「こは何ぞ、\/。」
とて、心得ず、あさましう思さる。中將の乳母聞き給ひて、
「伯母上(*祖母上。前出。)の後めたがり給ひて、臥したまへるになむ。もとより小さくおはしけるを、老い給ひて、法師にさへなり給へば、頭寒くて、御衣を引き被きて臥し給へるなむ、それと覺えけるも道理なり。」
車寄するほどに、古びたる聲にて、
「いなや、こは誰ぞ。」
と宣ふ。
その後いかが。をこがましうこそ。(*祖母の尼上の)御容貌はかぎりなかりけれど(*「法師にさへなりたまひぬれば、今はいかがせむ。」などを補う)。
このついで
春の物とて詠めさせ給ふ(*原注「伊勢物語「起きもせず寢もせで夜を明かしては春のものとてながめくらしつ」によつて「そぼ降る雨」を春の物というたのであらう。」)(*末尾に「うへ渡らせ給ふ」とあり、女御などを想定していることが分かる。)晝つ方、臺盤所なる人々、
「宰相中將こそ參り給ふなれ。例の御にほひ、いと著く。」
などいふ程に、突居(*畏まって座ること。)給ひて、
「よべより殿に候ひし程に、やがて御使になむ(*「参る」)。東の對の紅梅の下に埋ませ給ひし薫物、今日の徒然に、試みさせ給ふとてなむ(*こちらにも持参するようにとの仰せでした)。」
とて、えならぬ枝に、白銀の壺二つ附け給へり。
中納言の君の、御帳の内に參らせ給ひて、御火取數多して、若き人々(*に)、やがて試みさせ給ひて、(*御帳より)少しさし覗かせ給ひて、御帳の側の御座に傍臥させ給へり(*体を横たえられた)。紅梅の織物の御衣に、たゝなはりたる御髪の裾ばかり見えたるに、これかれそこはかとなき物語、忍びやかにして暫し居給ふ。中將の君、この御火取の序(*機会)にあはれと思ひて、
「人の語りし事こそ、思ひ出でられ侍れ。」
と宣へば、大人だつ宰相の君、
「何事にか侍らむ。徒然に思しめされて侍るに、申させ給へ。」
とそゝのかせば、
「さらば、つい(*続ぎ)給はむとすや。」
とて、
「ある君達(*姫君)に、忍びて通ふ人やありけむ、いと美しき兒さへ出で來にければ、(*男は)あはれとは思ひ聞えながら、嚴しき片つ方(*本妻側の人を指す。)やありけむ、絶間がちにてある程に、(*子は)思ひも忘れず、いみじう慕ふがうつくしうて、時々はある所に渡しなどするをも、『今(*すぐに戻してほしい)。』なども言はでありしを、程經て立ち寄りたりしかば、いと寂しげにて、珍しくや思ひけむ、かき撫でつゝ見居たりしを、え立ち留らぬ事ありて出づるを、ならひにければ、例のいたう慕ふがあはれに覺えて、暫時立ちとまりて、『さらば、いざよ。』とて、掻き抱きて出でけるを、(*女君は)いと心苦しげに見送りて、前なる火取を手まさぐりにして、
子だに(*「子」に「籠」を掛ける。)かくあくがれ出でば薫物のひとりやいとゞ思ひこがれむ
こだにかく あくがれいでば たきものの ひとりやいとど おもひこがれむ
と忍びやかに言ふを、屏風の後にて聞きて、いみじう哀れに覺えければ、兒を返して、その儘になむ居られにし、と(*その人は語った)。『如何ばかり哀れと思ふらむ。』と、
『(*男の女君への愛情は)おぼろげならじ。』
と言ひしかど、誰とも言はで、いみじく笑ひ紛はしてこそ止みにしか。」
「いづら、今は、中納言の君。」
とのたまへば、
「あいなき事の序をも聞えさせてけるかな。あはれ、只今の事は、聞えさせ侍りなむかし。」
とて、
「去年の秋ごろばかりに、清水に籠りて侍りしに、傍に屏風ばかりをはかなげに立てたる局の、にほひいとをかしう、人少ななるけはひして、折々うち泣くけはひなどしつゝ行ふを、『誰ならむ。』と聞き侍りしに、明日出でなむとての夕つ方、風いと荒らかに吹きて、木の葉ほろ\/と、谷のかたざまに崩れ、色濃き紅葉など、局の前には隙なく散り敷きたるを、この中隔ての屏風のつらに寄りて、こゝにはながめ侍りしかば、いみじうしのびやかに、
厭ふ身はつれなきものを憂きことを嵐(*「嵐」に「あらじ」を掛ける。)に散れる木の葉なりけり
いとふみは つれなきものを うきことを あらしにちれる このはなりけり
『風の前なる』(*風前の燈火の連想による古歌の一句か。)と聞ゆべき程にもなく(*雰囲気でもなく)、聞きつけて侍りしほどの、まことにいと哀れにおぼえ侍りながら、さすがにふと答へにくく、つゝましくてこそ止み侍りしか。」
と言へば、
「『いとさしも過し給はざりけむ。』とこそ覺ゆれ。さても實ならば、口惜しきは御物つゝみなりや。いづら、少將の君。」
と宣へば、
「賢しう、物もきこえざりつるを。」
と言ひながら、
「伯母(*をば)なる人の、東山わたりに行ひて侍りしに、暫し慕ひて(*伯母に従って)侍りしかば、主人の尼君の方に、いたう口惜しからぬ人々の、けはひ數多し侍りしを、『紛はして、人に忍ぶにや。』と見え侍りし、物隔て(*原文ルビ「隔て」。「隔てて」か。)のけはひいと氣高う、凡人とは覺え侍らざりしに、ゆかしうて、物はかなき障子の紙のあなたへ出でて、覗き侍りしかば、簾に几帳そへて、清げなる法師二三人ばかり、すべていみじくをかしげなりし人、几帳のつらに添ひ臥して、この居たる法師近く喚びて物言ふ。『何事ならむ。』と聞き分くべき程にもあらねど、『「尼にならむ。」と語らふ氣色にや。』と見ゆるに、法師やすらふ氣色なれど、なほ\/切に言ふめれば、『さらば。』とて、几帳の綻びより、櫛の笥の蓋に、長に一尺ばかり餘りたるにやと見ゆる、髪のすぢ、すそつきいみじう美しきを、わげ入れて押し出す。傍に今少し若やかなる人の、十四五ばかりにやとぞ見ゆる、髪たけに四五寸ばかり餘りて見ゆる、薄色のこまやかなる一襲、掻練などひき重ねて、顔に袖をおしあてて、いみじうなく。『弟なるべし。』とぞ推し量られ侍りし。又若き人々二三人ばかり、薄色の裳ひきかけつゝ居たるも、いみじう堰きあへぬ氣色なり。『乳母だつ人などはなきにや。』と、あはれに覺え侍りて、扇のつまにいと小さく、
おぼつかなうき世そむくは誰とだに知らずながらも濡るゝ袖かな
おぼつかな うきよそむくは たれとだに しらずながらも ぬるるそでかな
と書きて、幼き人の侍ひ(*幼い女の童)して遣りて侍りしかば、この弟にやと見えつる人ぞ(*返しは)書くめる。さて取らせたれば持て來たり。書き樣ゆゑ\/しう、をかしかりしを見しにこそ、くやしうなりて、」
など言ふほどに、うへ渡らせ給ふ御氣色なれば、紛れて少將の君も隱れにけりとぞ。
蟲愛づる姫君
蝶愛づる姫君の住み給ふ傍に、按察使の大納言の御女、心にくくなべてならぬさまに、親たち侍き給ふ事限りなし。
この姫君の宣ふ事、
「人々の、花や蝶やと賞づるこそ、はかなうあやしけれ。人は實あり(*人間は真実を探求するもの)。本地尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ。」
とて、萬の蟲の恐しげなるを取りあつめて、「これが成らむさまを見む。」とて、さま\〃/なる籠・箱どもに入れさせ給ふ。中にも、
「鳥毛蟲の心深き樣したるこそ心憎けれ。」
とて、明暮は耳挾み(*額髪を耳を後ろにやること。)をして、掌のうら(*掌)にそへ伏せてまぼり給ふ。若き人々は怖ぢ惑ひければ、男の童の物怖ぢせず、いふかひなきを召し寄せて、箱の蟲ども取らせ、名を問ひ聞き、今新しきには名をつけて興(*「けう」は古い仮名遣い。)じ給ふ。
「人はすべて粧ふ所あるは惡し。」
とて、眉更に拔き給はず。齒K更に「うるさし。穢し。」とてつけ給はず。いと白らかに笑みつゝ、この蟲どもを朝夕に愛し給ふ。
人々怖ぢ侘びて逃ぐれば、その御方は、いと怪しくなむ詈りける。かく怖づる人をば、
「けしからず放俗なり(*原注「契沖曰く「ばうぞく」は放俗。石川雅望云「凡俗の音便ならむ」と。下品なこと)。」
とて、いと眉Kにてなむ睨み給ひけるに、いとゞ心地なむ惑ひける。
親たちは、「いと怪しく樣異におはするこそ(*「こそ」は強意)。」と思しけれど、「思し取りたる(*悟る・心に決める)事ぞあらむや。怪しき事ぞ。」と思ひて、「聞ゆる事は、深くさはらへ(*「障らふ」〔引っ掛かる・妨げをする〕か。「さ答へ」か。)給へば、いとぞかしこきや。」と、これをも(*意見をすることも)いと恥しと思したり。
「さはありとも、音聞きあやしや。人はみめをかしき事をこそ好むなれ、『むくつけげなる鳥毛蟲を興ずなる。』と、世の人の聞かむも、いと怪し。」
と聞え給へば、
「苦しからず。萬の事どもを尋ねて、末を見ればこそ事はゆゑあれ。いとをさなき事なり。鳥毛蟲の蝶とはなるなり。」
そのさまのなり出づるを、取り出でて見せ給へり。
「衣とて人の著るもの、蠶のまだ羽つかぬにしいだし、蝶になりぬれば、いとも袖にて(*疎略な扱いであって)、あだになりぬるをや。」
と宣ふに、言ひ返すべうもあらず、あさまし。
さすがに、親たちにも差向ひ給はず、
「鬼と女とは、人に見えぬぞよき。」
と案じ給へり。母屋の簾を少し捲き上げて、几帳隔てて、かく賢しく言ひ出し給ふなりけり。
これを若き人々聞きて、
「いみじくさかし(*原文「捜し」。「賢しだち」か。)給へど、心地こそ惑へ。この御遊び物よ(*虫を指す)。いかなる人、蝶めづる姫君につかまつらむ(*「つかまつるらむ」か)。」
とて、兵衞といふ人、
いかで我とかむかたないてしかなる(*「とがむ方なくいでしがな」か。「ないくしか」という本文もある由。)鳥毛蟲ながら見るわざはせじ
いかでわれ とかむかたない てしかなる かはむしながら みるわざはせじ
といへば、小大輔といふ人笑ひて、
うらやまし花や蝶やといふめれど鳥毛蟲くさき世をも見るかな
うらやまし はなやてふやと いふめれど かはむしくさき よをもみるかな
などいひて笑へば、
「からしや。眉はしも、鳥毛蟲だちためり。さてはくさきこそ(*原本頭注「一本には「さてはくき…」。他の一本には「くきこそ」とある。」)(*「さて、歯ぐきこそ」か)、皮のむけたるにやあらむ。」とて、左近といふ人、
「冬くれば衣たのもし寒くともかはむしおほく見ゆるあたりは
ふゆくれば ころもたのもし さむくとも かはむしおほく みゆるあたりは
衣など著ずともあらむかし。」など言ひあへるを、とが\/しき女聞きて、
「若人達は何事言ひおはさうずるぞ。蝶愛で給ふなる人、專ら(*全く)めでたうも覺えず、けしからずこそ覺ゆれ。さて又鳥毛蟲竝べ、蝶と(*「鳥毛虫並べてむと」か。「並ぶ」は「比べる」意。)いふ人ありなむやは。唯それが蛻くるぞかし。そのほどを尋ねてし給ふぞかし。それこそ心深けれ。蝶は捕ふれば、手にきりつきて、いとむつかしき(*原本「むつかしき」)ものぞかし。又蝶は捕ふれば、瘧病せさすなり。あなゆゝしともゆゝし。」
といふに、いとゞ憎さ増りて言ひあへり。
この蟲ども捕ふる童には、をかしきもの、彼がほしがる物を賜へば、樣々に恐しげなる蟲どもを取り集めて奉る。
「鳥毛蟲は毛などをかしげなれど、覺えねば(*何も思い浮かべるものがないので、)さう\〃/し。」
とて、螳■(虫偏+良:ろう::33108)(*蟷螂〔カマキリ〕)・蝸牛などを取り集めて、歌ひ詈らせて(*「をかしく舞ふものは、巫・小楢葉・車の筒とかや。平等院なる水車・はやせば舞ひいづるいぼうじり・かたつぶり」〔『梁塵秘抄』〕)聞かせ給ひて、我も聲をうちあげて、
「かたつぶりの角の爭ふやなぞ。(*原文「…爭ふや。」なぞ)」
といふことを誦じ給ふ。(*白居易の對レ酒の詩に「蝸牛角上爭2何事1。石火光中寄2此身1。隨富隨貧且歡樂。不レ開レ口笑是癡人。」といふのがある。)童の名は「例のやうなるは侘し。」とて、蟲の名をなむ附け給ひたりける。螻蛄男・ひきまろ(*一本には「ひさまろ」とある。)・いなかだち(*稲蜻蛉という。)・■(虫偏+乍:さく::大漢和32919)■(虫偏+孟:もう::大漢和33152)麿・雨彦(*馬陸〔ヤスデ〕)など名をつけて召使ひ給ひける。
かゝる事世に聞えて、いとうたてある事をいふ中に、ある上達部の御壻(*原文ルビ「御婿」。「御子(おほむこ)」ともいう。)、うち逸りて物怖ぢせず、愛敬づきたることあり。この姫君のことを聞きて、
「さりとも、これには怖ぢなむ。」
とて、帶の端のいとをかしげなるに、蛇の形をいみじく似せて、動くべきさまなどしつけて、鱗だちたる懸袋に入れて、結び附けたる文を見れば、
はふ\/も(*辛うじて歩み寄つて」に「這子」をかけてある。)君があたりにしたがはむ長き心の限りなき身は
はふはふも きみがあたりに したがはむ ながきこころの かぎりなきみは
とあるを、何心なく御前に持て參りて、
「袋などあくるだに怪しくおもたきかな。」
とてひき開けたれば、蛇首を擡げたり。人々心惑はして詈るに、君はいと長閑にて、
「なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。」
とて、
「生前の親ならむ。な騷ぎそ。」
とうちわなゝかし、かほゝかやうに(*「顔外様に」か。「『かろ\〃/し。かやうに…」か。原文「かろ\/かやうに」を原文頭注の一本本文に改める)、
「(*この蛇が)生めかしきうちしも、(*「われ〔が〕」か、「われを」か。)結縁に思はむぞ、怪しき心なるや。(*和歌を受けた言葉と考える。)」
とうち呟きて、近く引き寄せ給ふも、さすがに恐しく覺え給ひければ、立處居處蝶の如く、せみごゑ(*責聲で迫りて出すやうなる聲。一説に蝉に似た聲であること。)に宣ふ聲の、いみじうをかしければ、人々逃げ騷ぎて笑ひゐれば(*原文「笑ひいれば」)(*ある女房)、
「しか\〃/。」
と(*父大臣に)聞ゆ。
「いと淺ましく、むくつけき事をも聞くわざかな。さる物のあるを見る\/、皆立ちぬらむ事ぞ怪しきや。」
とて、大臣太刀を提げもて走りたり。よく見給へば、いみじう能く似せて作り給へりければ、手に取り持ちて、
「いみじう物よくしける人かな。」
と(*原文「「『いみじう物よくしける人かな。』と、…」)、
「(*姫君が)かしこがり(*思慮深げに振る舞い)、(*虫風情を)譽め給ふと聞きてしたるなめり。返り事をして、早く遣り給ひてよ。」
とて、渡り給ひぬ。人々、作りたると聞きて、
「けしからぬわざしける人かな。」
と言ひ憎み、(*姫君は、)
「返り事せずば、覺束ながり(*原文「覺束なかり」)なむ。」
とて、いとこはくすくよかなる紙に書き給ふ。假字はまだ書き給はざりければ、片假字に、
「契りあらばよき極樂に行き逢はむまつはれにくし蟲の姿は
ちぎりあらば よきごくらくに ゆきあはむ まつはれにくし むしのすがたは
福地の園(*「耶輸陀羅(やしゆだら)が福地の園に種まきてあはむかならず有爲の都に」〔『異本紫明抄』〕)に。」とある。
右馬の助見給ひて、
「いと珍かに樣異なる文かな。」
と思ひて、
「いかで見てしがな。」
と思ひて、中將と言ひ合せて、怪しき女どもの姿を作りて、按察使の大納言の出で給へるほどにおはして、姫君の住み給ふ方の、北面の立蔀(*板塀)のもとにて見給へば、男の童の、異なることなき草木どもに佇み歩きて、さていふやうは、
「この木にすべていくらも歩くは、いとをかしきものかな。これ御覽ぜよ。」
とて、簾を引き上げて、
「いと面白き鳥毛蟲こそ候へ。」
といへば、さかしき聲にて、
「いと興あることかな。此方持て來。」
と宣へば、
「取り別つべくも侍らず。唯こゝもとにて御覽ぜよ。」
といへば、荒らかに蹈みて出づ。簾を押しはりて、枝を見はり給ふを見れば、頭へ衣著あげて(*被衣(かづき)姿)、髪もさがりば清げにはあれど、梳り繕はねばにや、しぶげに見ゆるを、眉いと黔く花々とあざやかに、涼しげに(*くっきりと)見えたり。口つきも愛敬づきて清げなれど、齒Kつけねばいとよづかず。化粧したらば清げにはありぬべし。「心憂くもあるかな。」と覺ゆ。かくまでやつしたれど(*身なりも繕わないが)、見にくくなどはあらで、いと樣異に、鮮かに氣高く、花やかなるさまぞあたらしき。練色の綾の袿一襲、はたおりめ(*機で織った布目と「機織女」〔キリギリス〕を掛けるか。)の小袿一襲、白き袴を好みて著給へり。この蟲をいとよく見むと思ひて、さし出でて、
「あな愛でたや。日にあぶらるゝが苦しければ、此方ざまに來るなりけり。これを一も墜さで追ひおこせよ、童。」
と宣へば、突き落せば、はら\/と落つ。白き扇の墨ぐろに眞字の手習したるをさし出でて、
「これに拾ひ入れよ。」
と宣へば、童取り出づる。みな君達も、
「あさましう、さいなんあるわたりに(*「さなんあるわたりに」=「こういう(なりふり構わぬ点は除き、容貌はまずまずの)御方にしては」の意か、こよなくもあるかな(*まことに奇怪な振舞だなあ)。」
と思ひて、この人を思ひて、「いみじ。」と君は見給ふ。
童の(*君達がこうして)たてる、怪しと見て、
「かの立蔀のもとに添ひて、清げなる男の、さすがに姿つき怪しげなるこそ(*女装姿を指す)、覗き立てれ。」
と言へば、此の大輔の君といふ、
「あな、いみじ。御前には例の蟲興じ給ふとて、顯はにやおはすらむ。告げ奉らむ。」
とて、參れば、例の簾の外におはして、鳥毛蟲のゝしりて拂ひ墜させ給ふ。いと恐ろしければ、近くは寄らで、
「入らせ給へ。顯はなり。」
と聞えさすれば、これを制せむと思ひて、ふ(*「思ひてこそ」か。「思ひていふ」か。)と覺えて、
「それ、さばれ、もの恥しからず。」
と宣へば、
「あな心憂。虚言と思しめすか。その立蔀のつらに、いと恥しげなる人侍るなるを。奧にて御覽ぜよ。」
と言へば、
「螻蛄男、彼處に出で見て來。」
と宣へば、立ち走りて往きて(*ママ)、
「實に侍るなりけり。」
と申せば、立ち走り往きて、鳥毛蟲は袖に拾ひ入れて、走り入り給ひぬ。丈だちよき程に、髪も袿ばかりにていと多かり。すそもそがねば、ふさやかならねど、とゝのほりてなか\/美しげなり。
「かくまであらぬも、世の常の人ざま・けはひもてつけぬるは(*身に備えたのは)、口惜しうやはある。實に疎ましかべきさまなれど、いと清げに、氣高う、煩はしき(*気がおかれる)けぞ異なるべき。あな口惜し。などかいとむくつけき心ならむ。かばかりなるさまを。」
と思す。右馬の助、
「唯歸らむは、いとさう\〃/し。『見けり。』とだに知らせむ。」
とて、疊紙に草の汁して、
かはむしの毛深きさまを見つるよりとりもちて(*手に取る・熱心に世話する)のみ守るべきかな
かはむしの けぶかきさまを みつるより とりもちてのみ まもるべきかな
とて、扇して打ち叩き給へば、童出で來たり。
「これ奉れ。」
とて、取らすれば、大輔の君といふ人、(*螻蛄男、)
「この彼所に立ち給へる人の、『御前に奉れ。』とて。」
と言へば、取りて、(*大輔の君、)
「あな、いみじ。右馬の助の所爲にこそあめれ。心憂げなる蟲をしも、興じ給へる御顔を見給ひつらむよ。」
とて、さま\〃/聞ゆれば、答へ給ふことは、
「思ひ解けば(*自分の了見ははっきりしているので)、物なむ恥しからぬ。人は、夢幻のやうなる世に、誰かとまりて惡しき事をも見、善きをも思ふべき。」
と宣へば、言ふかひなくて、若き人々、各自心憂がりあへり。この人々(*先の君達二人)、
「返り事やはある。」
とて、暫し立ち給へれど、童ども皆呼び入れて、
「心憂し。」
といひあへり。ある(*原文「或」)人々は、心づきたるも(*気が付いた者も)あるべし、「さすがにいとほし。」とて、(*女房、)
人に似ぬ心のうちは鳥毛蟲の名を問ひてこそ(*毛虫の名を尋ねるのと同じく、その名を問うてから)言はまほしけれ
ひとににぬ こころのうちは かはむしの なをとひてこそ いはまほしけれ
右馬の助、
鳥毛蟲にまぎるゝ眉の毛の末に(*毫末も)あたる(*「当たる」に「相応する」意を含む。)ばかりの人は無きかな
かはむしに まぎるるまゆの けのすゑに あたるばかりの ひとはなきかな
と言ひて、笑ひて歸りぬめり。(*続きは、)二の卷にあるべし。
ほど\/の懸想
祭のころは、なべて今めかしう(*華やいで)見ゆるにやあらむ、あやしき小家の半蔀も、葵などかざして心地よげなり。童の、袙・袴清げに著て、さま\〃/の物忌ども附け(*原文頭注「古昔物忌の時の標に、柳の木の札又は忍草などに物忌と書いて冠や簾などにかけた。こゝは冠などにつけたのであらう。」祭の前に精進潔斎し、木や紙の札に「物忌」と書いて冠や簾につけたこと)、化粧じて(*原文「化粧して」)、「我も劣らじ。」と挑みたる氣色どもにて、行き違ふはをかしく見ゆるを、況してその際の小舍人・隨身などは、殊に思ひ咎むる(*不審に思う)も道理なり(*「枕草子」に「つちありく童などの、ほどほどにつけては『いみじきわざしたり。』と、つねに袂まもり、人に見くらべ、えもいはず興ありと思ひたるを、そばへたる小舎人童などに引きはられて泣くもをかし。」〔「節は」〕とある。「そばふ」は「ふざける」意というが、孤例という)。とり\〃/に思ひわけつゝ物言ひ戲るゝも、「何ばかりはか\〃/しき事ならじかし。」と、數多見ゆる中に、何處のにかあらむ、薄色著たる、髪はきはかにある(*「きはやかにある」か)、頭づき・容態などもいとをかしげなるを、頭の中將の御小舍人童、『思ふさまなり。』と見て、いみじくなりたる梅の枝に、葵をかざして取らすとて、
梅が香に深くぞたのむ(*この祈願の脈絡は不明。)おしなべてかざす葵の根も見てしがな(*「葵」と「逢ふ日」、「根」と「寝」を掛ける。)
うめがかに ふかくぞたのむ おしなべて かざすあふひの ねもみてしがな
と云へば、
しめの中の(*賀茂社の境内の)葵にかゝるゆふかづらくれど(*「繰れど」と「来れど」を掛ける。)ね長きものと知らなむ
しめのうちの あふひにかかる ゆふかづら くれどねながき ものとしらなむ
と押放いていらふもざれたり。
「あな、聞きにくや(*小癪な)。」
とて、笏して走り打ちたれば、
「そよ、その『なげきの森』(*古今俳諧歌に「ねぎごとをさのみかけけむ社こそ果ては歎きの森となるらめ」とある。)のもどかしければぞかし(*〔打つのが〕気に入らないのだ、ほどの意か)。」
など、ほど\/につけては、互に「痛し(*気に入った)。」など思ふべかめり。その後、常に行き逢ひつゝも語らふ。
如何になりにけむ、(*この女の童は)亡せ給ひにし式部卿の宮の姫君の中になむ候ひける。宮など疾く薨れ給ひにしかば、心細く思ひ歎きつゝ、下わたり(*下京邊)に人少なにて過し給ふ。上(*北の方)は、宮の失せ給ひける折、樣變へ給ひにけり。姫君の御容貌、例の事と言ひながら、なべてならずねびまさり給へば、「如何に(*ママ)せまし。内裏などに思し定めたりしを、今はかひなく。」など思し歎くべし。この童(*小舎人童)來つゝ見る毎に、頼もしげなく、宮の内も寂しく凄げなる氣色を見て、互に、
「まろが君(*頭中将)を、この宮に通はし奉らばや。まだ定めたる方もなくておはしますに、いかによからむ。(*この下京までは)程遙かになれば、思ふ儘にも參らねば、『疎なる。』とも思すらむ。又『如何に。』と後めたき心地も添へて、さま\〃/安げなきを。」
といへば、
「更に今はさやうの事(*入内・縁組等の話)も思し宣はせず、とこそ聞け。」
とはいふ。
「御容貌めでたくおはしますらむや。いみじき御子たちなりとも、飽かぬ所おはしまさむは、いと口惜しからむ。」
といへば、
「あな、あさまし。いかでか見奉らむ。人々宣ふは、『萬むつかしきも、御前にだにまゐれば、慰みぬべし。』とこそ宣へ。」
と語らひて、明けぬれば(*小舎人童は)往ぬ。
かくといふほどに年も返りにけり。君(*頭中将)の御方に若くて候ふ男、好ましきにやあらむ、定めたる所(*妻)もなくて、この童にいふ、
「その通ふらむ所は何處ぞ。さりぬべからむや(*立派な身分の人はいるか)。」
といへば、
「八條の宮になむ。知りたる者候ふめれども、殊に若人數多候ふまじ。唯、『中將・侍從の君などいふなむ、容貌も好げなり。』と聞き侍る。」
といふ。
「さらば、そのしるべして(*知り人に依頼して、それらに文を)傳へさせてよ。」
とて、文とらすれば、
「儚なの御懸想かな。」
と言ひて、持て往きて取らすれば、
「あやしの事や。」
と言ひて、もて上りて、
「しか\〃/の人。」
とて見す。手も清げなり。柳につけて、
「したにのみ思ひ亂るゝ青柳の(*風葉集卷四には「青柳を」とある。)かたよる風はほのめかさずや
したにのみ おもひみだるる あをやぎの かたよる(*「縒る」と「寄る」を掛ける。)かぜは ほのめかさずや
知らずはいかに(*「知るや君知らずはいかにつらからむ我がかくばかり思ふ心を」〔拾遺集〕)。」
とある。
「御返り事なからむは、いとふるめかしからむか。今やうは、なかなか初めのをぞし給ふなる(*初めての懸想文には返事をせられるがよい。)。」
などぞ笑ひてもどかす(*唆す)。少し今めかしき人にや、
一筋に思ひもよらぬ青柳は風につけつゝさぞ亂るらむ(*風葉集卷四に出てゐる歌。)
ひとすぢに おもひもよらぬ あをやぎは かぜにつけつつ さぞみだるらむ
今やうの手の、かどあるに書き亂りたれば、「をかし。」と思ふにや、守りて居たるを、君(*頭中将)見給ひて、後より俄に奪ひ取り給ひつる。
「誰がぞ。」
と摘み捻り(*抓って)、問ひ給へり。
「しか\〃/の人の許になむ。等閑にや侍る。」
と聞ゆ。「我もいかで、然るべからむ便りもがな。」と思すあたりなれば、目とまりて見給ふ。
「同じくは、懇に言ひ趣けよ。物の便りにもせむ。」
など宣ふ。童を召して、有樣を委しく問はせ給ふ。ありの儘に、心細げなる有樣を語らひ聞ゆれば、「あはれ故宮のおはせましかば。」(*と)さるべき折はまうでつゝ見しにも、萬思ひ合せられ給ひて、
「尋常に(*引歌未詳。)。」
など獨言たれ給ふ。我が御うへも儚なく思ひ續けられ給ふ。いとゞ世もあぢきなく覺え給へど、又「如何なる心の亂れにかあらむ。」とのみ、常に催し給ひつゝ(*恋心に駆られて)、歌など詠みて問はせ給ふべし。「いかで言ひつきし。」など思しけるとかや。
逢坂越えぬ權中納言
五月待ちつけたる花橘の香も、昔の人戀しう、秋の夕に劣らぬ風にうち匂ひたるは、をかしうもあはれにも思ひ知らるゝを、山郭公も里馴れて語らふ(*鳴く)に、三日月の影ほのかなるは、折から忍び難くて、例の宮わたりに訪はまほしう思さるれど、「甲斐あらじ。」とうち歎かれて、或るわたりの、(*そちらはまた)猶情あまりなるまでと思せど、そなたは物憂きなるべし。「如何にせむ。」と眺め給ふほどに、
「内裏に御遊び始まるを、只今參らせ給へ。」
とて、藏人の少將參り給へり。
「待たせ給ふを。」
などそゝのかし聞ゆれば、物憂ながら、
「車さし寄せよ。」
など宣ふを、少將、
「いみじうふさはぬ御氣色の候ふは、たのめさせ給へる方の、恨み申すべきにや。」
と聞ゆれば、
「斯許りあやしき身を、怨しきまで思ふ人は、誰か(*誰もありはしない)。」
など言ひかはして參り給ひぬ。琴・笛など取り散らして、調べまうけて待たせ給ふなりけり。(*入るに)ほどなき月も雲隱れけるを、星の光に遊ばせ給ふ。この方のつきなき殿上人などは、眠たげにうち欠伸つつ(*「あくぶ」《四段活用》)、すさまじげなるぞわりなき。
御遊び果てゝ、中納言、中宮の御方にさし覗き給ひつれば、若き人々心地よげにうち笑ひつゝ、
「いみじき方人參らせ給へり。あれをこそ。」
など言へば、
「何事せさせ給ふぞ。」
と宣へば、
「明後日根合せし侍るを(*原文頭注「人々が左右に分れ、菖蒲の根に歌を記し根の長短を引き合せ較べて勝負を決める遊戲。永承六年五月五日に内裏で行はれたのが根合せの初めであると。」『栄花物語』にあり。この「逢坂越えぬ権中納言」の話は天喜3年(1055)5月3日の「六条斎院■(示偏+某:ばい::大漢和24776)子内親王家歌合」(物語合)のために小式部が作ったものと伝える。永承6年(1051)の内裏根合は4年前の出来事だった。小式部は、祐子内親王家女房と伝える。菅原孝標女の宮仕え先と同じである)、何方には寄るらむ(*「寄らむ」か。)と思し召す。」
と聞ゆれば、
「あやめも知らぬ身なれども、引きとり給はむ方にこそは(*「文目も知らず」に「菖蒲の根を引く」を通わせた受け答え)。」
と宣へば、
「あやめも知らせ給はざなれば、右(*右方)には不用にこそは。さらば此方に。」
とて、小宰相の君、押し取り聞えさせつれば、
「(*私に)御心も寄るにや。斯う仰せらるゝ折も侍りけるは。」
とて、憎からずうち笑ひて出で給ひぬるを、
「例のつれなき御氣色こそ侘しけれ。かゝるをりは、うちも亂れ給へかし。」
とぞ(*女房達には物足りなく)見ゆる。右の人、
「さらば此方には、三位の中將を寄せ奉らむ。」
と言ひて、殿上に呼びにやり聞えて、
「かかる事の侍るを、『此方に寄らせ給へ。』と頼み聞ゆる。」
と聞えさすれば、
「ことにも侍らぬ心の思はむ限りこそは。」
と、頼もしう宣ふを、
「さればこそ、この御心は底ひ知らぬこひぢ(*根合せに絡めて、「泥」と「恋路」とを掛ける。)にもおりたち給ひなむ。」
と、互に羨むも、宮(*中宮)はをかしう聞かせ給ふ。
中納言、さこそ心にいらぬ氣色なりしかど、その日になりて、えも言はぬ根ども引き具して參り給へり。小宰相の局に先づおはして、
「心幼く取り寄せ給ひしが心苦しさに、若々しき心地すれど、淺香の沼(*岩代の國に在り、菖蒲の名所。)を尋ねて侍り。さりとも、まけ給はじ。」
とあるぞ頼もしき。何時の間に思ひ寄りける事にか、言ひ過ぐすべくもあらず(*誉める言葉が見つからないほどだ)。
「右の少將(*後出「四位の少將」。右方の講師。)おはしたむなり(*ママ)。何處や。いたう暮れぬ程ぞよからむ。中納言はまだ參らせ給はぬにや。」
と、まだきに挑ましげなるを、少將の君、
「あな、をこがまし。御前こそ、御聲のみ高くておぞかめれ(*鈍いようですよ)。彼(*中納言)は東雲より入り居て、整へさせ給ふめり。」
などいふ程にぞ、かたちより始めて同じ人とも見えず、恥しげにて、
「などとよ。この翁(*に)、ないたう挑み給ひそ。身も苦し。」
とて、歩み出で給へり。(*翁と自称するものの、)御年の程ぞ、二十に一二ばかり餘り給ふらむ。
「さらば疾くし給へかし。見侍らむ。」
とて、人々參り集ひたり。(*左右の)方人の殿上人、心々に取りいづる根の有樣、何れも\/劣らず見ゆる中にも、左のは、猶なまめかしきけさへ添ひてぞ、中納言のし出で給へる、(*それらを)合せもて行く程に、「持にやならむ。」と見ゆるを、左の終てに取り出でられたる根ども、更に心及ぶべうもあらず。(*右方の)三位中將、言はむ方なく守り居給へり。
「左勝ちぬるなめり。」
と、(*左方の)方人の氣色、したり顔に心地よげなり。
根合せ果てて、歌のをりになりぬ。左の講師(*和歌の披講を行う。)左中辨、右のは四位の少將。(*左中弁が)讀みあぐるほど、小宰相の君など、「いかに心つくすらむ。」と見えたり。
「四位少將、いかに。臆すや。」
と、あいなう、中納言後見給ふほど、妬げなり。
左
君が代の長きためしにあやめ草千尋に餘る根をぞひきつる(*前述物語合の歌。「風葉集」賀にもあり。)
きみがよの ながきためしに あやめぐさ ちひろにあまる ねをぞひきつる
右
なべてのと誰か見るべき菖蒲草淺香の沼の根にこそありけれ
なべてのと たれかみるべき あやめぐさ あさかのぬまの ねにこそありけれ
と宣へば、少將、
「(*右方の根も)更に劣らじものを。」
とて、
何れともいかゞわくべき菖蒲草同じ淀野に生ふる根なれば
いづれとも いかがわくべき あやめぐさ おなじよどのに おふるねなれば
と宣ふ程に、上聞かせ給ひて、ゆかしう思し召さるれば、忍びやかにて渡らせ給へり。宮(*中宮)の御覽ずる所に寄らせ給ひて、
「をかしき事の侍りけるを、などか告げさせ給はざりける。中納言・三位など方別るゝは、戲れにはあらざりける事にこそは。」
と宣はすれば、
「(*何れも)心に寄る方(*心を寄せる女房)のあるにや。別くとはなけれど、さすがに挑ましげにぞ。」
など聞えさせたまふ。
「小宰相・中將が氣色こそいみじかめれ。何れ勝ち、負けたる。さりとも中納言は、負けじ。」
など仰せらるゝや仄聞ゆらむ、少將、御簾の中怨めしげに見遣りたる尻目も、らう\/じく(*原文「らう\/しく」)、愛敬づき、人より殊に見ゆれど、なまめかしう恥しげなるは、(*中納言が)猶類無げなり。
「無下にかくて止みなむも、名殘つれ\〃/なるべきを、琵琶の音こそ戀しきほどになりにたれ。」
と、中納言、辨(*左中弁)をそゝのかし給へば、
「その事となき暇なさに、皆忘れにて侍るものを。」
といへど、遁るべうもあらず宣へば、盤渉調に掻い調べて、はやりかに掻き鳴らしたるを、中納言(*技癢に)堪えず、をかしうや思さるらむ、和琴とり寄せて彈き合せ給へり。この世の事とは聞えず。三位横笛、四位少將拍子取りて、藏人の少將「伊勢の海」(*催馬楽歌)うたひ給ふ。聲まぎれず、うつくし。上は樣々面白く聞かせ給ふ中にも、中納言は、かううち解け、心に入れて彈き給へる折は少きを、珍しう思し召す。
「明日は御物忌なれば、夜更けぬさきに。」
とて、歸らせ給ふとて、左の根の中に殊に長きを、
「例證(*証拠)にも。」
とて持たせ給へり。中納言罷で給ふとて、
「橋のもとの薔薇。(*原文頭注「和漢朗詠集、首夏に「甕頭竹葉經レ春熟、階下薔薇入レ夏開。」とある。」竹葉は酒の異名。)」
とうち誦じ給へるを、若き人々は、飽かず慕ひぬべく賞で聞ゆ。かの宮わたり(*中納言に「かひあらじ。」と思わせた「例の宮わたり」)にも、
「覺束なきほどになりにけるを。」
と、訪はまほしう思せど、「いたう更けぬらむ。」とてうち臥し給へれど、まどろまれず。
「人はものをや。(*和漢朗詠集、人丸の歌に「夏の夜を寢ぬに明けぬと言ひおきし人は物をや思はざりけむ」とあるをいふ。)
とぞ言はれ給ひける。
又の日、菖蒲も引き過ぎぬれど(*「引く」は「菖蒲」の縁語)、名殘にや、菖蒲の紙あまた引き重ねて(*菖蒲襲の色目を模して)、
昨日こそひきわびにしかあやめ草深きこひぢにおり立ちし間に
きのふこそ ひきわびにしか あやめぐさ ふかきこひぢに おりたちしまに
と聞え給ひつれど、例のかひなきを思し歎くほどに、はかなく五月も過ぎぬ。
地さへ割れて照る日にも(*原文頭注「水無月の地さへ割れて照る日にも我が袖干めや君にあはずして」の歌による。」「拾遺集」は、二句目「土さへさけて」、結句「妹に逢はずして」。)、袖ほすよ(*「世」と「夜」を掛ける。)なく思しくづほるゝ。
十日、宵の月隈なきに、宮にいと忍びておはしたり。宰相の君に消息し給ひつれば、
「恥しげなる御有樣に、いかで聞えさせむ。」
と言へど、
「さりとて、物のほど知らぬやうにや。」
とて、妻戸押し開け對面したり。うち匂ひ給へるに、餘所ながらうつる心地ぞする。なまめかしう、心深げに聞え續け給ふ事どもは、
「(*私の衷情は)奧の夷も思ひ知りぬべし。例のかひなくとも、『斯くと聞きつ。』ばかりの御言の葉をだに。」
と責め給へば、
「いさや。」
と打ち歎きて入るに、やをら續きて入りぬ。(*宰相の君は姫君の)臥し給へる所にさし寄りて、
「時々は端つ方にても涼ませ給へかし。餘り埋れ居たるも(*母屋の奥に引き籠っていることもいかが)。」
とて、
「例のわりなき事(*権中納言の懸想)こそ、えも言ひ知らぬ御氣色、常よりもいとほしうこそ見奉り侍れ。唯一言聞え知らせまほしくてなむ。『野にも山にも。(*素性集に「うちたのむ人の心のつらければ野にも山にもいざ隱れなむ」)』と喞たせ給ふこそ、わりなく侍れ。」
と聞ゆれば、
「如何なるにか、心地の例ならず覺ゆる。」
と宣ふ。
「いかゞ。」
と聞ゆれば、
「『例は宮に教ふる。』とて、動き給ふべうもあらねば、(*権中納言には)斯くなむ聞えむ。」
とて立ちぬるを、(*権中納言は二人の)聲をしるべにて尋ねおはしたり。思し惑ひたる樣、心苦しければ、
「身の程知らず、なめげには、よも御覽ぜられじ。唯一言を。」
と言ひもやらず、涙のこぼるゝさまぞ、樣よき人も無かりける(*これ以上に樣子のよい人も見出せぬほど美しく見えた。)。宰相の君(*妻戸を)出でて見れど、人もなし。「返り事も聞えてこそ出で給はめ(*私が申し上げてからお帰りになればよいのに)。人に物宣ふなめり。」と思ひて、暫し待ち聞ゆるに、おはせずなりぬれば、「『なか\/かひなき事は聞かじ。』など思して、出で給ひにけるなめり。いとほしかりつる御氣色を、我ならば。」とや思ふらむ、あぢきなく打ち詠めて、うちをば思ひ寄らぬぞ心おくれたりける。
宮はさすがに理なく見え給ふものから、心強くて(*心を許さず)、明け行く氣色を、中納言も、えぞ荒立ち給はざりける。「『心のほども思し知れ。』とにや。わびし。」とおぼしたるを、立ち出で給ふべき心地はせねど、「見る人あらば、事あり顔にこそは。」と、人(*宮)の御ためいとほしくて、
「今より後だに思し知らず顔ならば、心憂くなむ。猶『辛からむ。』とや思しめす。人は斯くしも(*これほど冷淡な関係とは)思ひ侍らじ。」
とて、
怨むべきかたこそなけれ夏衣うすき隔てのつれなきやなぞ
うらむべき かたこそなけれ なつごろも うすきへだての つれなきやなぞ
かひあはせ
九月の有明の月に誘はれて(*「今来むといひしばかりに九月の有明の月を待ち出でつるかな」〔『古今集』〕)、藏人の少將、指貫つき\〃/しく引き上げて、たゞ一人小舍人童ばかり具して、やがて朝霧も立ち隱しつべく、隙なげなるに、
「をかしからむ所の空きたらむもがな。」
と言ひて歩み行くに、木立をかしき家に、琴(*きんのことに同じ。七絃の琴。)の聲仄かに聞ゆるに、いみじう嬉しくなりて、
「めぐる門の側など、崩れやある。」
と見けれど、いみじく築地など全きに、なか\/侘しく、「いかなる人のかく彈き居たるならむ。」と、理なくゆかしけれど、すべきかたも覺えで、例の聲出させて隨身にうたはせ給ふ。
行くかたも忘るゝばかり朝ぼらけひき(*「引き」と「弾き」を掛ける。)とゞむめる琴の聲かな
ゆくかたも わするるばかり あさぼらけ ひきとどむめる ことのこゑかな
とうたはせて、「まことに暫し内より人や。」と、心時めきし給へど、さもあらねば、口惜しくて歩み過ぎたれば、いと好ましげなる童四五人許り走り違ひ、小舍人童・男など、をかしげなる小箱やうの物を捧げ、をかしき文、袖の上にうち置きて出で入る家あり。
「何わざするならむ。」と床しくて、人目見はかりて、やをらはひりて、いみじく繁き薄の中に立てるに、八九ばかりになる女子のいとをかしげなる、薄色の袙・紅梅(*の表着)などみだれ著たる(*色の取り合わせに頓着していないさま)、小き貝を瑠璃の壺に入れて、あなたより走る樣の慌しげなるを、「をかし。」と見給ふに、(*女の童は)直衣の袖を見て、
「こゝに人こそあれ。」
と、何心もなく言ふに、侘しくなりて、
「あなかま。聞ゆべき事ありて、いと忍びて參り來たる人ぞ。そと寄り給へ。」
と言へば、
「明日の事思ひ侍るに、今より暇なくて、そゝき侍るぞ(*急いで支度をしているのです)。」
と囀り(*早口でしゃべり)かけて、往ぬべく見ゆめり。をかしければ、
「何事のさ忙がしくは思さるゝぞ。麿をだに思さむとあらば、いみじうをかしき事も加へてむかし。」
と言へば、名殘なく立ち止りて、
「この姫君と上との御方の姫君(*正妻の姫君)と、貝合せせさせ給はむとて(*「長久元年(1040)五月六日庚申斎宮良子内親王貝合」が最古という)、月頃いみじく集めさせ給ふに、あなたの御方は大輔の君、侍從の君と(*「覓めさせ給ふなり」に係る。)貝合せせさせ給はむとて、いみじく覓めさせ給ふなり。まろが御前は、唯若君(*妹君〔又は弟君〕)一所にて、いみじく理なく覺ゆれば、只今も姉君の御許に人遣らむとて、罷りなむ。」
と言へば、
「その姫君たちのうちとけ給ひたらむ、格子の間などにて見せたまへ。」
といへば、
「人に語り給はば、(*我が)母もこそ宣へ。」
とおづれば、
「物狂ほし。まろは更に物言はぬ人ぞよ。唯人に勝たせ奉らむ、勝たせ奉らじは、心ぞよ。いかなるにか。ひと物扶持(*原文「人ものふち」。貝を多く提供しよう(ひと物扶持せむ)、の意ととる)。」
と宣へば、萬もおぼえで、
「さらば歸り給ふなよ。隱れ作りてすゑ奉らむ。人の起きぬさきに。いざ給へ。」
とて、西の妻戸に屏風押し疊み寄せたる所に居ゑ置くを、ひろ\〃/漸う(*一本には「ひが\/しう漸く…」とある。)なり行くを、
「をさなき子を頼みて、見つけられたらば、よしなかるべきわざぞかし。」
など、思ひ\/、間より覗けば、十四五ばかりの子ども見えて、いと若くきびはなるかぎり十二三ばかり、ありつる童のやうなる子どもなどして、殊に小箱に入れ、物の蓋に入れなどして、持ち違ひ騷ぐなかに、母屋の簾に添へたる几帳のつま打ち上げて、さし出でたる人、僅に十三ばかりにやと見えて、額髪のかゝりたる程より始めて、この世のものとも見えず美しきに、萩重の織物の袿、紫■(艸冠/宛:えん::大漢和31135)色など押し重ねたる、頬杖をつきて、いと物悲しげなる。「何事ならむ。」と、心苦しく見れば、十ばかりなる男に、朽葉の狩衣・二藍の指貫、しどけなく著たる、(*その男子が)同じやうなる童に、硯の箱よりは見劣りなる紫檀の箱のいとをかしげなるに、えならぬ貝どもを入れて持て寄る。見するまゝに、
「思ひ寄らぬ隈なくこそ。承香殿(*ママ)の御方などに參り聞えさせつれば、『これをぞ覓め得て侍りつれ。』と侍從の君の語り侍りつるは。大輔の君は、藤壺の御方より、いみじく多く賜はりにけり。すべて殘る隈なくいみじげなるを、『いかにせさせ給はむずらむ。』と、道のまゝも思ひまうで來つる。」
とて、顔もつと赤くなりて言ひ居たるに、いとゞ姫君も心細くなりて、
「なか\/なる事を言ひ始めてけるかな。いと斯くは思はざりしを。(*相手の姫君は)こと\〃/しくこそ覓め給ひぬれ。」
と宣ふに、(*妹君、)
「などか覓め給ふまじき(*「いかにしても覓め給ふべし。」の意か)。(*噂では)上は、内大臣殿のうへの御許までぞ、請ひ奉り給ふとこそは言ひしか。これにつけても、母のおはせましかば、あはれ、かくは(*「はべるまじきものを」等を補う)。」
とて、涙も墜しつべき氣色ども、をかしと見る程に、このありつる童、
「東の御方(*東の対に住む正妻の姫君が)渡らせ給ふ。それ(*貝どもを)隱させ給へ。」
と言へば、塗り籠めたるところに、皆取り置きつれば、つれなくて居たるに、初めの君よりは、少しおとなびてやと見ゆる人、山吹・紅梅・薄朽葉、あはひよからず著くだみて(*着ふくだみて)、髪いと美しげにて、長に少し足らぬなるべし。こよなく後れたりと見ゆ。
「若君の持ておはしつらむは、など見えぬ。『かねて覓めなどはすまじ。』と、たゆめたまふにすかされ奉りて、萬はつゆこそ覓め侍らずなりにけれど、いと悔しく、少しさりぬべからむものは、分け取らせ給へ。」
など言ふさま、いみじうしたり顔なるに、(*蔵人少将は)にくくなりて、「いかで此方を勝たせてしがな。」と、そゞろに思ひなりぬ。
この君(*妹君)、
「こゝにも外までは覓め侍らぬものを。我が君は何をかは。」
と答へて、居たるさま、うつくしう、(*東の御方は)うち見まはして渡りぬ。このありつるやうなる童、三四人ばかりつれて(*連れ立って)、
「我が母(*童女たちの母。姫君の乳母か。)の常に讀みたまひし觀音經、わが御前負けさせ奉り給ふな。」
と、唯この(*蔵人少将が)居たる戸のもとにしも向きて、念じあへる顔をかしけれど、「ありつる童や言ひ出でむ。」と思ひ居たるに、立ち走りてあなたに往ぬ。(*少将は)いとほそき聲にて、
かひなしと(*「甲斐なし」と「貝なし」を掛ける。)なに歎くらむしら浪も君がかた(*「潟」と「方」を掛ける。)には心寄せてむ(*風葉集雜三にある歌。下の句「心寄せなむ」とある。)
かひなしと なになげくらむ しらなみも きみがかたには こころよせてむ
といひたるを、さすがに耳疾く聞きつけて、
「今かたへに聞き給ひつや。」
「これは、誰がいふにぞ。」
「觀音の出で給ひたるなり。」
「嬉しのわざや。姫君の御前に聞えむ。」
と言ひて、然言ひがてら、恐ろしくやありけむ、連れて走り入りぬ。
「ようなき事を言ひて、このわたりをや見顯はさむ。」
と、胸つぶれてさすがに思ひ居たれど、(*童女たちは)唯いと慌しく、
「かう\/念じつれば、佛の宣ひつる。」
と語れば、(*姫君は)「いと嬉し。」と思ひたる聲にて、
「實かはとよ。恐ろしきまでこそ覺ゆれ。」
とて、頬杖つきやみて打ち赤みたるまみ、いみじく美しげなり。
「いかにぞ、この組入(*組入天井のこと。格天井(ガウテンジヤウ)の格の間に小さく組んだ格子形を設けたもの。)の上よりふと物の落ちたらば、實の佛の御功徳とこそは思はめ。」
など言ひあへるは、をかし。(*少将は)疾く歸りて、
「いかでこれを勝たせばや。」
と思へど、晝は出づべき方もなければ、すゞろに能く見暮して、夕霧に立ち隱れて紛れ出でてぞ、えならぬ洲濱の三まがり(*一本に「三つばかり」とある。)なるを、空竅に作りて、いみじき小箱をすゑて、いろ\/の貝をいみじく多く入れて、上には白銀・こがねの蛤、虚貝(*貝殻・巻貝)などを隙なく蒔かせて、手はいと小さくて、
しら浪(*盗人のように忍び込んだ自身を暗示する。)に心を寄せて(*今度、私が)立ちよらばかひなきならぬ心寄せなむ(*心を寄せてほしい。)
しらなみに こころをよせて たちよらば かひなきならぬ こころよせなむ
とて、ひき結びつけて、例の隨身に持たせて、まだ曉に、門のわたりを佇めば、昨日の子しも走る。うれしくて、
「かうとばかり聞えねよ。」
とて、懷よりをかしき小箱を取らせて、
「誰がともなくて(*随身に)さし置かせて來給へよ。さて今日のあり樣を見せ給へよ。さらば又々も。」
と言へば、いみじく喜びて、
「唯ありし戸口(*に)、そこはまして今日は人もやあらじ。」
とて入りぬ。洲濱、南の高欄に置かせて(*蔵人少将は)はひりぬ。やをら見通したまへば、唯同じ程なる若き人ども、二十人ばかりに裝束きて、格子あげそゝく(*原文「そゞく」)めり。この洲濱を見つけて、
「あやしく。(*原文「…あやしく、「誰が…。」)誰がしたるぞ、\/。」
といへば、
「さるべき人こそなけれ。おもひ得つ。この昨日の佛のし給へるなめり。あはれにおはしけるかな。」
と、喜び騷ぐさまの、いと物狂ほしければ、いとをかしくて見て歸り給へりとや。
思はぬかたにとまりする少將
昔物語などにぞ、かやうな事は聞ゆるを、いと有難きまで、あはれに淺からぬ御契りの程見えし御事を、つく\〃/と思ひ續くれば、年の積りけるほども、あはれに思ひ知られけり。
大納言の姫君二人ものし給ひし、まことに物語に書きつけたる有樣に劣るまじく、何事につけても、生ひ出で給ひしに、故大納言も母上も、うち續き薨れ給ひにしかば、いと心細き故郷(*もとの邸)に、詠め過し給ひしかど、はか\〃/しく、御乳母だつ人もなし。唯、常に候ふ侍從・辨などいふ若き人々のみ候へば、年に添へて人目稀にのみなりゆく故郷に、いと心細くておはせしに、右大將の御子の少將、知るよしありて、いと切に聞えわたりたまひしかど、かやうの筋は、かけても思しよらぬ事にて、御返り事など思しかけざりしに、少納言の君とて、いといたう色めきたる若き人、何の便りもなく、二所大殿籠りたる處へ、導き聞えてけり。もとより御志ありけることにて、(*姉の)姫君をかき抱きて、御帳の内へ入り給ひにけり。思しあきれたるさま、例の事なれば書かず。おしはかり給ふにしもすぎて、哀れに思さるれば、うち忍びつゝ、通ひ給ふを、父殿(*右大将)聞き給ひて、
「人のほどなど、口惜しかるべきにはあらねど、何かはいと心細き所に。」
など、許しなくのたまへば、思ふ程にもおはせず。女君も暫しこそ忍び過し給ひしか、さすがにさのみはいかゞおはせむ、さるべきに思し慰めて、やう\/うち靡き給へるさま、いとゞらうたくあはれなり。晝などおのづから寢過し給ふをり、見奉りたまふに、いと貴にらうたく、うち見るより心苦しきさまし給へり。何事もいと心憂く、人目稀なる御住居に、人の御心もいと頼み難く、「いつまで。」とのみ詠められ給ふに、四五日いぶせくて積りぬるを、「思ひし事かな。」と心ぼそきに、御袖只ならぬを、「我ながらいつ習ひけるぞ。」と思ひ知られ給ふ。
人ごゝろ秋(*「秋」と「飽き」を掛ける。)のしるしの悲しきにかれ(*「枯れ」と「離れ」を掛ける。)行く程のけしきなりけり
ひとごころ あきのしるしの かなしきに かれゆくほどの けしきなりけり
「などて、習ひに馴れにし心なるらむ。」などやうにうち歎かれて、やう\/更け行けば、唯うたゝねに(*「たらちねの親のいさめしうたた寝は物思ふ時のわざにぞありける」〔『拾遺集』恋四〕)、御帳の前にうち臥し給ひにけり。少將、内より出で給ふとておはして、うち叩き給ふに、人々おどろきて、中の君起し奉りて、我が御方へ渡し聞えなどするに、やがて入り給ひて、
「大將の君のあながちに誘ひ給ひつれば、長谷へ參りたりつる」
程の事など語り給ふに、ありつる御手習(*「人ごころ…」の歌など)のあるを見給ひて、
常磐なる軒のしのぶを知らずして枯れゆく秋のけしきとや思ふ
ときはなる のきのしのぶ(*「軒忍」と「偲ぶ」を掛ける。)を しらずして かれゆくあきの けしきとやおもふ
と書き添へて見せ奉り給へば、いと恥しうて御顔引き入れ給へるさま、いとらうたく子めきたり。
かやうにて明し暮し給ふに、中の君の御乳母なりし人はうせにしが、女一人あるは、右大臣の少將(*前出「右大将の御子の少将」とは別人。後出「権少将」。)の御乳母子の左衞門の尉といふが妻なり。(*中の君が)類なくおはするよしを語りけるを、かの左衞門の尉、少將に、
「しか\〃/なむおはする。」
と語り聞えければ、按察の大納言の御許(*右大臣の権少将の北の方。後に説明あり。)には心留め給はず、あくがれありき給ふ君なれば、御文などねんごろに聞えたまひけれど、つゆあるべき事とも思したらぬを、姫君(*大君)も聞き給ひて、
「思ひの外にあは\/しき身の有樣をだに、心憂く思ふ事にて侍れば、實に強き縁おはする人(*正妻のいる右大臣の権少将)を。」
など宣ふも哀れなり。さるは幾程のこのかみにもおはせず、姫君は、二十に一つなどや餘りたまふらむ。中の君は、今三つばかりや劣り給ふらむ。いとたのもしげなき御さまどもなり。左衞門(*左衛門の尉は〔妻を〕)、あながちに責めければ、(*姉君の)太秦に籠り給へる折を、いとよく告げ聞えてければ、(*故大納言の姫君たちは)例のつゝましき御さまなれば、(*右大臣の権少将は)ゆゑもなく入り給ひにけり。姉君も聞き給ひて、
「『我が身こそあらめ、いかでこの君をだに、人々しうもてなし聞えむ。』と思へるを、さま\〃/にさすらふも、世の人聞き思ふらむ事も心憂く、亡きかげにもいかに見給ふらむ。」
と、はづかしう契り口惜しう思さるれど、今はいふかひなき事なれば、いかゞはせむにて見給ふ。これもいとおろかならず思さるれど、按察の大納言、聞き給はむ所をぞ、父殿(*右大臣)いと急に諫め給へば、今一方(*大君)よりはいと待遠に見え給ふ。この右大臣殿の少將は、右大臣(*右大将か。)の北の方の御兄にものし給へば、少將たち(*右大将の子息の少将と右大臣の子息の権少将)もいと親しくおはする。互にこのしのび人も知りたまへり。右大臣の少將をば、權少將とぞ聞ゆる。按察の大納言の御許に、此の三年ばかりおはしたりしかども、心留め給はず、世と共に(*始終)あくがれ給ふ。この忍び給ふ御事をも、(*北の方には)「大將殿におはする。」など思はせ給へり。(*少将と権少将の)いづれもいとをかしき御振舞も、(*実家では)あながち制し聞え給へば、いといたく忍びて、(*両少将とも姫君たちを)大將殿へ迎へ給ふをりもあるを、(*姫君たちは)いとゞかる\〃/しうつゝましき心地のし給へど、
「今は宣はむ事を違へむもあいなき事なり。あるまじき所へおはするにてもなし。」
など、さかしだち進め奉る人々多かれば(*ママ)、我にもあらず時々おはする折もありけり。權少將は、大將殿のうへの御風の氣おはするに託けて(*見舞いの口実を設けて)、例の泊り給へるに、(*右大将家は)いと物騒しく、客人など多くおはする程なれば、(*姫君の許に)いと忍びて御車奉り給ふに、左衞門の尉も候はねば、時々もかやうの事に、いとつきづきしき侍もさゝめきて、御車に(*「を」か。)奉り給ふ。(*権少将、)「大將殿のうへ、例ならず物し給ふ程にて、いたく紛るれば、御文もなき」由宣ふ。夜いたく更けて、彼處に詣でて、
「少將殿より。」
とて、
「忍びて聞えむ。」
といふに、人々皆寢にけるに、姫君の御方(*大君)の侍從の君に、「少將殿より。」とて、御車奉り給へるよしを言ひければ、(*侍従の君は)ねぼけにける心地に、
「いづれぞ。」
と尋ぬる事もなし。「例も參る事なれば。」と思ひて、「かう\/。」と君に聞ゆれば、
「文などもなし。『風にや。例ならぬ。』など言へ。」
と宣へば、
「御使此方。」
と言はせて、妻戸を開けたれば、寄り來るに、(*侍従の君、)
「御文なども侍らぬは、いかなる事にか。」
又、(*これも侍従の君、)
「(*大君は)『御風の氣の物し給ふ。』とて。」
といふに、
「『大將殿のうへ、御風の氣のむづかしくおはして、人騷しく侍る程なれば、此の由を申せ。前々の御使に參り侍る人も(*左衛門の尉を指す。)候はぬ程にて。』など、返す\〃/仰せられつるに、空しく歸り參りては、必ず責まれ侍りなむず。」
といへば、(*侍従の君は大君の許に)參りて、しか\〃/と聞えて進め奉れど、例の人のまゝなる御心にて、薄色のなよゝかなるが、いと染み深う懷しき程なるを、いとゞ心苦しげにしませて乘り給ひぬ。侍從ぞまゐりぬる。(*右大将家で)御車寄せて下し奉り給ふを、いかであらぬ人(*違う人)とは思さむ。(*姫君の)限りなく懷しう、なめやかなる御けはひは、(*姉妹なので)いとよく通ひ給へれば、少しも思しもわかぬ程に、やう\/あらぬと見なし給ひぬる心惑ぞ、現とは覺えぬや。(*大君は)かの昔夢見し初めよりも、なか\/恐ろしう淺ましきに、やがて引き被き給ひぬ。侍從こそは、「いかにと侍る事にか。」と(*見るに)、
「これはあらぬ事になむ。御車寄せ侍らむ。」
と、泣く\/いふを、(*権少将の)さばかり色なる御心には許し給ひてむや。寄りて引き放ち聞ゆべきならねば、泣く\/几帳の後にゐたり。男君はたゞにはあらず、いかに思さるゝ事もやありけむ、いと嬉しきに、いたう泣き沈みたまふ氣色も道理ながら、いと馴れ顔に、豫てしも思ひあへたらむ事めきて(*十分に考えていたことであるかのように)、樣々聞え給ふ事もあるべし。隔てなくさへなりぬるを、女は死ぬばかりぞ、心憂く思したる。かゝる事は、例の哀れも淺からぬにや、類なくぞ思さるゝ。
あさましき事は、今の一人の少將の君も、母上の御風よろしきさまに見え給へば、「彼所へ。」と思せど、「夜など(*親たちが)きと尋ね給ふ事もあらむに、折節なからむも。」と思して、(*これも姫君の許に)御車奉り給ふ。これ(*少将)はさき\〃/も、御文なき折もあれば、何とも宣はず。例のきよすゑ(*いつもの使いの名)參りて、
「御車。」
といふを、申し傳ふる人も、一所(*大君)はおはしぬれば、疑ひなく思ひて、
「かく。」
と申すに、これ(*中の君)も「いと俄に。」とは思せど、今少し若くおはするにや、何とも思ひ至りもなくて、人々御衣など著せ換へ奉りつれば、我にもあらでおはしぬ。御車寄に、少將おはして物など宣ふに、あらぬ御けはひなれば、辨の君、
「いと淺ましくなむ侍る。」
と申すに、君も心敏くこゝろみ給ひて、日頃も、(*中の君の)いとにほひやかに、見まほしき御さまの、おのづから聞き給ふ折もありければ、「いかで『思ふ。』とだにも。」など、人知れず思ひ渡り給ひける事なれば、
「何か、『あらず。』とて、疎く思すべき。」
とて、かき抱きておろし給ふに、いかゞはすべき。さりとて我さへ捨て奉るべきならねば、辨の君も下りぬ。女君唯わなゝかれて、動きだにし給はず。辨いと近うつととらへたれど、(*少将は、)
「何とか思さむ。今は唯然るべきに(*宿世と)思しなせ。世に人の御爲あしき心は侍らじ。」
とて、几帳押し隔て給へれば、せむ方なくて泣き居たり。これもいとあはれ限りなくぞ覺え給ひける。
(*姫君たちは)おの\/歸り給ふ。曉に御歌どもあれど、例の漏しにけり。男も女も、いづかたも、唯同じう、御心の中に、あいなう胸ふたがりてぞ思さるゝ。さりとて、
「又も。」
と疎にはあらぬ御思ひと、もの珍しきにも(*一本に「…御思ひどもの、珍しきにも…」とある。)劣らず、何方も限りなかりけるこそ、なか\/にうきしも(*一本に「なかなかふかきしも」とある。)(*思いが深まるのが)苦しかりけれ。「權少將殿より。」とて御文あり。(*中の君は)起きもあがられ給はねど、人目あやしさに、辨の君ひろげて見せ奉る。(*少将)
思はずに(*「筈」を掛ける。)我が手になるゝ梓弓ふかき契りのひけばなりけり(*弓を「引く」と宿縁が二人を「引く」の意を掛ける。)
おもはずに わがてになるる あづさゆみ ふかきちぎりの ひけばなりけり
あはれと見いれ給ふべきにもあらねば、人め怪しくて、さりげなくてつゝみていだしつ。今一方(*大君)にも、
「少將殿より。」
とてあれば、侍從の君胸潰れて(*大君に)見せ奉れば、
淺からぬ契りなればぞ涙川おなじ流れ(*同じ故大納言の姫君)に袖濡らすらむ
あさからぬ ちぎりなればぞ なみだがは おなじながれに そでぬらすらむ
とあるを、何方にもおろかに仰せられむとにや(*「仰せられむとにやは侍る」か)。返す\〃/唯同じさまなる御心のうちとのみぞ、心苦しう、とぞ本にも侍る。
劣り優り差別なく、さま\〃/深かりける御志ども、はてゆかしうこそ侍れ。猶とり\〃/なりける中にも、珍しきは猶立ち優りやありけむに(*新しい女への思いが優るのが常ではあったろうが)、見馴れ給ふにも、年月もあはれなるかたは、いかゞ劣るべき、と本にも、「本のまゝ。」と見ゆ。
はなだの女御 (*題意不明。「縹」は「仲絶え」の意を暗示するという。「女御」は、あるいは「女ご(子)」か。)
其のころ、事(*「そのころの事」か。)と數多見ゆる人眞似のやうに、かたはら痛けれど、これは聞きし事なればなむ。
賤しからぬすきものの、いたらぬ所なく、人に許されたる、「やんごとなき所にて、物言ひ、懸想せし人は、この頃里に罷り出でてあなれば、實かと往きて氣色見む。」と思ひて、いみじく忍びて、唯小舍人童一人して來にけり。近き透垣の前栽に隱れて見れば、夕暮のいみじくあはれげなるに、簾捲き上げて、「只今は見る人もあらじ。」と思ひ顔に打解けて、皆さまざまにゐて、萬の物語しつゝ、人のうへいふなどもあり。はやりかにうちさゝめきたるも、又恥しげにのどかなるも、數多たはぶれ亂れたるも、今めかしうをかしきほどかな。
「かの前栽どもを見給へ。池の蓮の露は玉とぞ見ゆる。」
と言へば、前に濃き單衣・紫■(艸冠/宛:えん::大漢和31135)色の袿・薄色の裳ひきかけたるは、或人の局にて見し人なめり。童の大きなる・小さきなど縁に居たる、皆見し心地す。
「御方こそ(*この「こそ」は呼格の「こそ」で人の名の下につけるもの、係の「こそ」ではない。)、この花はいかゞ御覽ずる。」
と言へば、
「いざ、人々に譬へ聞えむ。」
とて、命婦の君、
「かの蓮の花は、まろが女院のわたりにこそ似奉りたれ。」
とのたまへば、大君(*ママ)、
「下草の龍膽はさすがなめり(*何といってもすばらしい)。一品の宮と聞えむ。」
中の君、
「玉簪花は大王の宮(*皇太后宮か。)にもなどか(*似ざらむ)。」
三の君、
「紫■(艸冠/宛:えん::大漢和31135)の花やかなれば、皇后宮(*ママ)の御さまにもがな。」
四の君、
「中宮は、父大臣常にききやう(*桔梗に「經」をかけていつたもののやうだ。)(*『無量義経』という。)をよませつゝ、いのりがちなめれば、それ(*桔梗)にもなどか似させたまはざらむ。」
五の君、
「四條の宮の女御、『露草のつゆにうつろふ』(*「世の中の人の心はつき草のうつろひやすき色にぞありける」〔『古今六帖』六〕)とかや、明暮のたまはせしこそ、誠に(*露草のように)見えしか。」
六の君、
「『垣穗の瞿麥』は帥殿と聞えまし。」
七の君、
「刈萱(*萱)のなまめかしき樣にこそ、弘徽殿はおはしませ。」
八の君、
「宣耀殿は菊と聞えさせむ。宮の御おぼえなるべきなめり。」
「麗景殿は、花薄(*後出「思はむ方に靡く」に掛けるか。「穂に出づ」=素振りに見せる、の連想もあるか。)と見えたまふ御さまぞかし。」
(*これは)九の君。
と言へば、十の君、
「淑景舍は『朝顔の昨日の花』(*「朝顔の昨日の花は枯れずとも人のこころをいかがたのまむ」〔『古今六帖』四〕朝顔は、朝顔・桔梗・木槿など。)と歎かせ給ひしこそ、道理と見奉りしか。」
五節の君、
「御匣殿は『野邊の秋萩』(*「しめゆはぬ野辺の秋萩風吹けばと臥しかう臥し物をこそ思へ」〔『拾遺集』恋三〕)とも聞えつべかめり。」
東の御方、
「淑景舍の御おとと(*原文「大臣」)の三の君、あやまりたることはなけれど、大ざう(*萱草=忘れ草という。「大藺草(おほゐぐさ)〔→大草?〕」との絡みは無理か。)にぞ似させ給へる。」
いとこの君ぞ、
「其の御大臣の四の君は、くさのかう(*へんるうだ(芸香)といふ植物の異名。)(*「くさのかう色変りぬる白露は心おきても思ふべきかな」〔『古今六帖』六〕)といさ聞えむ。」
姫君(*異腹の姫君かという)、
「右大臣殿の中の君は、『見れども飽かぬ女郎花』(*「日暮らしに見れどもあかぬ女郎花野辺にや今宵旅寝しなまし」〔『拾遺集』秋〕)のけはひこそしたまひつれ。」
西の御方、
「帥の宮の御うへは、さま(*「何さま」の脱という。後で小命婦の君が答える。)にや似させ給ひつる。」
伯母君、
「左大臣殿の姫君は、『吾木香に劣らじ』(*「我もかうに劣らじ」)顔にぞおはします。」
などいひおはさうずれば、尼君、
「齋院、ごえう(*原文「こえう」。五葉の松という。)と聞え侍らむか。渡らせ給はざむめればよ(*ママ)。つみを離れむとて、かゝる樣にて、久しくこそなりにけれ。」
と宣へば、北の方、
「さて、齋宮をば、何とか定め聞え給ふ。」
と言へば、小命婦の君、
「をかしきは皆取られ奉りぬれば、さむばれ、『軒端の山菅(*藪蘭・麦門冬。)』(*引歌未詳。)に聞えむ。まことや、まろが見奉る帥の宮のうへをば、芭蕉葉(*風に破れやすい意という。「心ばせをば」などの連想は無いか。)ときこえむ。」
よめの君、
「中務の宮のうへをば、『まねく尾花』(*「宿もせに植ゑなめつつぞわれは見る招く尾花に人やとまると」〔『後撰集』秋中・伊勢〕)と聞えむ。」
など聞えおはさうずる程に、日暮れぬれば、燈籠に火ともさせて添ひ臥したるも、「花やかに、めでたくもおはしますものかな。」と、あはれしばしはめでたかりしことぞかし。
世の中のうきを知らぬと思ひしにこは日に(*にはかに〔庭火=燈籠〕ともいう。「籠は火に」か。)物はなげかしきかな(*このようなすばらしい有様を垣間見た後では。)
よのなかの うきをしらぬと おもひしに こはひにものは なげかしきかな
命婦の君は、
「蓮のわたり(*女院)も、此の御かたちも、『この御方。』など、いづれ勝りて思ひ聞え侍らむ。にくき枝おはせかし(*「おはせじかし」という。あるいは「いささかもにくき枝おはせかし。」か)。
はちす葉の心廣さの思ひにはいづれと分かず露ばかりにも」
はちすばの こころひろさの おもひには いづれとわかず つゆばかりにも
六の君、はやりかなる聲にて、
「瞿麥(*前出「撫子」。帥殿)を『床夏に(*常に変わらず・思ひ繁し、等の連想がある。)おはします。』といふこそうれしけれ。
とこなつに思ひしげしと皆人はいふなでしこと人は知らなむ」
とこなつに おもひしげしと みなひとは いふなでしこと ひとはしらなむ
と宣へば、七の君したりがほにも、
「刈萱(*弘徽殿)のなまめかしさの姿にはそのなでしこも劣るとぞ聞く」
かるかやの なまめかしさの すがたには そのなでしこも おとるとぞきく
と宣へば、皆々も笑ふ。
「まろがきくの御かた(*原文「御うた」。宣耀殿)こそ、ともかくも人に言はれ給はね。
植ゑしよりしげりしまゝに菊の花人に劣らで咲きぬべきかな」
うゑしより しげりしままに きくのはな ひとにおとらで さきぬべきかな
とあれば、九の君、
「羨しくも思すなるかな。
秋の野の亂れて靡く花すゝき(*麗景殿)思はむかたに靡かざらめや」
あきののの みだれてなびく はなすすき おもはむかたに なびかざらめや
十の君、
「まろが御前(*淑景舎)こそ怪しき事にて、くらされて(*悲しみで心を暗くなさって)。」
など、いとはかなくて、
朝顔の疾くしぼみぬる花なれば明日も咲くはと頼まるゝかな」
あさがほの とくしぼみぬる はななれば あすもさくはと たのまるるかな
と宣ふにおどろかれて、五の君、
「うち臥したれば、はや寢入りにけり。何ごとのたまへるぞ。まろは華やかなる所にし候はねば、よろづ心細くも覺ゆるかな。
たのむ人露草ごとに(*ごとくに)見ゆめれば消えかへりつゝ歎かるゝかな(*「露」「消ゆ」は縁語。)」
たのむひと つゆくさごとに みゆめれば きえかへりつつ なげかるるかな
と、寢おびれたる(*寝ぼけた)聲にて、また寢るを人々笑ふ。女郎花の御方(*前出「姫君」)、
「いたく暑くこそあれ。」
とて、扇を使ふ。
「『いかに。』とて參りなむ。(*主人の「右大臣殿の中の君」は)戀しくこそおはしませ(*「おはしますらめ」か)。
みな人も飽かぬ匂ひを女郎花よそにていとゞ歎かるゝかな」
みなひとも あかぬにほひを をみなへし よそにていとど なげかるるかな
夜いたく更けぬれば、皆寢入りぬるけはひを聞きて、(*「すきもの」の男)
秋の野の千草の花によそへつゝなど色ごとに見るよしもがな
あきののの ちぐさのはなに よそへつつ などいろごとに みるよしもがな
とうち嘯きたれば、
「あやし。誰がいふぞ。覺えなくこそ。」
と言へば、
「人は只今はいかゞあらむ。鵺の鳴きつるにやあらむ。忌むなるものを。」
といへば、はやりかなる聲にて、
「をかしくも言ふかな。鵺は、いかでか斯くも嘯かむ。いかにぞや、聞き給ひつや。」
所々聞き知りてうち笑ふめり。やゝ久しくありて、物言ひやむほど、(*また男、)
「思ふ人見しも聞きしも數多ありておぼめく聲はありと知らぬか」
おもふひと みしもききしも あまたありて おぼめくこゑは ありとしらぬか
「このすきものたらけり(*不明)(*「(水鶏のように)たたけり」というが、「なりけり」の誤りか)。あなかま。」
とて、物も言はねば、簀子に入りぬめり。(*男、)
「あやし。いかなるぞ。一所だに『あはれ。』と宣はせよ。」
など言へば、いかにかあらむ、絶えて答へもせぬほどに、曉になりぬる空の氣色なれば、
「まめやかに見し人とも思したらぬ御なげきどもかな。見も知らぬ、ふるめかしうもてなし給ふものかな。(*ひたすら物つつましくする古風な振る舞いであると当てこする。)」
とて、(*また男、)
百かさね濡れ馴れにたる袖なれど今宵やまさり濡ぢて歸らむ
ももかさね ぬれなれにたる そでなれど こよひやまさり ひぢてかへらむ
とて出づる氣色なり。(*ある女、)「例のいかになまめかしう、やさしき氣色ならむ。いらへやせまし。」と思へど、「あぢきなし、一所に。」とぞ思ひける。
この女たちの親、賤しからぬ人なれど、いかに思ふにか、宮仕へ(*宮仕えに出るのは受領階層の娘が多いという。)に出したてて、殿ばら・宮ばら・女御達の御許に、一人づゝ參らせたるなりけり。同じ兄弟ともいはせで、他人の子になしつゝぞありける。この殿ばらの女御たちは、皆挑ませ給ふ御中に、同じ兄弟の別れて候ふぞ怪しきや。皆思して候ふは(*この事情を)知らせ給はぬにやあらむ。好色ばらの、御有樣ども聞き、「嬉し。」と思ひ至らぬ處なければ、此の人どもも知らぬにしもあらず。
かの女郎花の御方と言ひし人(*姫君)は、聲ばかりを聞きし、(*男が)志深く思ひし人なり。
瞿麥の御人といひし人(*六の君)は、睦しくもありしを、いかなるにか、
「『見つ。』ともいふな。(*古今集戀三「君が名も我が名も立てじ難波なるみつともいふな逢ひきとも言はじ。」)」
など誓はせて、又も見ずなりにし。
刈萱の御人(*七の君)は、いみじく氣色だちて、物言ふ答へをのみして、辛うじてとらへ(*原文「年經」)つべき折は、いみじく賺し謀る折のみあれば、「いみじくねぶたし(*伴直方云、「ねぶたしはね(妬)たしの愆か。」と。この説是か)。」と思ふなりけり。
菊の御人(*八の君)は、言ひなどはせしかど、殊に眞帆にはあらで、
「誰、そまやまを(*一本には「誰ぞやるを。」)。(*引歌があるか。)」
とばかり仄かに言ひて、膝行いりしけはひなむいみじかりし。
花薄の人(*九の君)は、思ふ人(*男)も又ありしかば、いみじくつゝみて、唯夢の樣なりし宿世の程もあはれに覺ゆ。
蓮の御人(*命婦の君)は、いみじくしたのめて、
「さらば。」(*原文「『いみじくしたのめでざらば。』」)
と契りしに、騷しきことのありしかば、引き放ちて入りにしを、「いみじ。」と思ひながら許してき。
紫■(艸冠/宛:えん::大漢和31135)の御人(*三の君)は、いみじく語らひて、今にむつましかるべし。
朝顔の人(*十の君)は、若うにほひやかに愛敬づきて、常に遊び敵にてはあれど、名殘なくこそ。
桔梗(*四の君)は常に恨むれば、
「さわがぬ水ぞ(*續詞華集賀部、藤原長能「君が代の千とせの松の深緑騷がぬ水に影ぞ見えつる。」)(*物怨じをしなければまたも訪ねよう、という意)。」
と言ひたりしかば、
「澄まぬ(*「住まぬ」を掛ける。)に見ゆる。(*拾遺集雜部に讀人知らず「よと共に雨降る宿のにはたづみすまぬに影は見ゆるものかは。」)」
と言ひし、にくからず。
何れも(*男が)知らぬは少くぞありける。其の中にも、女郎花(*姫君)のいみじくをかしく、ほのかなりし(*声を聞いただけであることを指すか。)末ぞ、今に、「いかで唯よそにて語らはむ。」と思ふに、「心憎く。今一度ゆかしき香を、いかならむ。」と思ふも、(*男は)定めたる心なくぞありくなる。至らぬ里人などは、いともて離れて言ふ人をば、いとをかしく言ひ語らひ、兄弟といひ(*兄弟なども)、いみじくて語らへば、暫しこそあれ(*しばらくの間は交際が続くのだったが)。顔容貌のみに、などかくはある。物言ひたるありさまなども(*魅力があるからだろう)。この人には、かゝる(*こと)、いとなかり(*絶え間なかった)。宮仕へ人、さならぬ人の女なども謀らるゝあり。
内裏にも參らず徒然なるに、かの(*その男の)聞きし事をぞ、「その女御の宮とて、のどかには(*「聞えし」「あらじ」等を補う)。かの君こそ容貌をかしかなれ。」など、心に思ふこと・歌など書きつゝ、手習にしたりけるを、又人の取りに書きうつしたれば、怪しくもあるかな。これら作りたる樣も覺えず、よしなき物のさまを(*つまらぬ内容のものであるが)、虚言にもあらず。世の中に虚物語多かれば、(*これを見る人は)實としもや思はざらむ。これ思ふこそ妬けれ。多くは(*女たちの)かたち・しつらひなども、この人(*「好き者」の男)の言ひ、心がけたるなめり。誰ならむ、この人を知らばや。殿上には、只今これ(*この物語)をぞ、「怪しく、をかし。」と言はれ給ふなる。かの女たちは、此處にはしそく(*「親族」)おほくして、かく一人づゝ參りつゝ、心々に任せて逢ひて、斯くをかしく殿(*出仕先)の事言ひ出でたるこそをかしけれ。それも(*この邸は)このわたりいと近くぞあなるも、(*事実に基づいているので)知り給へる人あらば、(*この男を)「その人。」と書きつけ給ふべし。(*事実性を強調するのは、好き者の男を視点人物として、時世諷刺を試みた作か。)
はいずみ
下わたり(*下京辺)に、品賤しからぬ人の子ども、叶はぬ人(*一本に「…人の、事も叶はぬ」とあるが妥當でない。)をにくからず思ひて、年ごろ經るほどに、親しき人の許へ往き通ひける程に、女を思ひかけて、みそかに通ひありきけり。珍しければにや、初めの人よりは志深く覺えて、人目もつゝまず通ひければ、親聞きつけて、
「年ごろの人(*長年連れ添う妻)をもち給へれども、いかゞせむ。」
とて許して住ます。もとの人(*初の女)聞きつけて、
「今はかぎりなめり。(*新たな通い先では、男をいつまでも)通はせてなどもよもあらせじ。」
と思ひわたる。「往くべきところもがな。つらくなり果てぬ前に離れなむ。」と思ふ。されど、さるべき所もなし。
今の人の親などは、おし立ちて言ふやう、
「妻などもなき人の切に言ひしに婚すべきものを、かく本意にもあらでおはしそめてしこそ口惜しけれど、いふかひなければ、かくてあらせ奉るを、世の人々は、『「妻居ゑ給へる人を思ふ。」と、さいふも、(*「…人を。「思ふ。」と、さいふも、…」ともいう。)家に居ゑたる人こそ、(*男は)やごとなく思ふにはあらめ。』などいふもやすからず。實にさる事に侍る。」
と言ひければ、男、
「人數にこそはべらねど、志ばかりは(*我に)勝る人侍らじと思ふ。彼處(*男の家)には渡し奉らぬを、おろかに思さば、(*そうかといって、)只今も渡し奉らむ、いと異樣になむ侍る(*いかにもおかしなことでございます)。」
といへば、親、
「さらに(*ぜひとも)あらせたまへ。」
と押し立ちていへば(*親の言葉を「さだにあらせたまへ。」の誤写とする解もあるが不審)、男、「あはれ、かれも何方遣らまし。」と覺えて、心の中悲しけれども、「『今のがやごとなければ、かく。』など言ひて、氣色も見む。」と思ひて、もとの人のがりいぬ。見れば、あてにこゝしき(*おっとりしている)人の、日ごろ物を思ひければ、少し面瘠せていとあはれげなり。うち恥ぢしらひて、例のやうに物言はで、しめりたるを、いと心苦しう思へど、(*今の女の許に)然言ひつれば、(*初めの女に)言ふやう、
「志ばかりは變らねど、親にも知らせで、斯樣に罷りそめてしかば、いとほしさに通ひはべるを、つらしと思すらむかしと思へば、何とせしわざぞと、今なむ悔しければ、(*本当はあなたとの間も)今もえかき絶ゆまじうなむ。彼處につちをらすべきを(*不明。一本に「ついをらすべきを」とある。)(*「土犯す」〔=家の造作をする〕という解もある)、『此處に渡せ。』となむいふを、いかゞ思す。外へや往なむと思す。何かは苦しからむ。かくながら端つ方におはせよかし。忍びて忽ちに何方かはおはせむ。」
など言へば、女、「此處に迎へむとていふなめり。これ(*新しい女)は親などあれば、此處に住まずともありなむかし。年ごろ行く方もなしとみる\/、斯く言ふよ。」と、「心憂し。」と思へど、つれなく答ふ。
「さるべき事にこそ。はや渡し給へ。何方も\/往なむ。今までかくてつれなく、憂き世を知らぬ氣色こそ(*「くやしかりけれ」「恥かしけれ」等を補う)。」
といふ。いとほしきを、男、
「など斯う宣ふらむや。今(*今すぐ)にてはあらず、唯暫しの事なり。(*今の女が)歸りなば、又迎へ奉らむ。」
と、言ひ置きて出でぬる後、女、つかふ者とさし向ひて泣き暮す。
「心憂きものは世なりけり。いかにせまし。おり立ちて(*「おし立ちて」か。)來むには、いとかすかにて出で見えむもいと見苦し。いみじげに怪しう(*「賤しう」か。見っともないこと。)こそはあらめ。かの大原のいまこが家へ往かむ。かれより外に知りたる人なし。」
(*「いまこ」と)かくいふは、もとつかふ人なるべし。(*そばに侍る人、)
「それは片時おはしますべくも侍らざりしかども(*本来適当な場所ではないことを言って、主人への挨拶としたもの。)、さるべき所の出で來むまでは、まづおはせ。」
など語らひて、家の内清げに掃かせなどする。心地もいと悲しければ、泣く\/恥しげなる物(*他人に見られて困る消息文などのこと。)燒かせなどする。今の人明日なむ渡さむとすれば、(*退去のことを)この男に知らすべくもあらず。「車なども誰にか借らむ。『送れ。』とこそは言はめ。」と思ふも、をこがましけれど、言ひ遣る。
「『今宵なむ物へ渡らむ。』と思ふに、車暫し(*賜はらむ)。」
となむ言ひやりたれば、男、「あはれ、何方にとか思ふらむ。往かむさまをだに見む。」と思ひて、今此處へ忍びて來ぬ。女待つとて端に居たり。月の明きに、泣く事限りなし。(*女、)
我が身かくかけ離れ(*「かけ離れ」と「影」を掛ける。)むと思ひきや月だに宿をすみ(*「住み」と「澄み」を掛ける。)果つる世(*「世」と「夜」を掛ける。)に
わがみかく かけはなれむと おもひきや つきだにやどを すみはつるよに
と言ひて泣く程に、(*男が)來れば、さりげなくて、うちそばむきて居たり。
「車は牛たがひて、馬なむ侍る。」
といへば、
「唯近き所なれば、車は所狹し。さらばその馬にても、夜の更けぬ前に。」
と急げば、「いとあはれ。」と思へど、彼處(*今の女の家)には皆「朝に(*渡らむ)。」とおもひためれば、遁るべうもなければ、心苦しう思ひ\/(*「思ふ\/」か)、馬牽き出させて、簀子に寄せたれば、乘らむとて立ち出でたるを見れば、月のいと明きかげに、有樣いとさゝやかにて、髪はつやゝかにて、いともいと美しげにて、丈ばかりなり。男、手づから乘せて、此處彼處ひきつくらふに、いみじく心憂けれど、念じて物も言はず。馬に乘りたる姿・頭つき、いみじくをかしげなるを、「哀れ。」と思ひて、
「送りに我も參らむ。」
といふ。
「唯こゝもとなる所なれば、敢へなむ(*構いません)。馬は只今返し奉らむ。その程は此處におはせ。見苦しき所なれば、人に見すべき所にも侍らず。」
といへば、「さもあらむ。」と思ひて、とまりて(*簀子に)尻うち懸けて居たり。この人は、供に人多くは無くて、昔より見馴れたる小舍人童一人を具して往ぬ。男の見つる程こそかくして念じつれ、門ひき出づるより、いみじく泣きて行くに、この童いみじくあはれに思ひて、この(*女の)つかふ女をしるべにて、はる\〃/とさして行けば、
「『唯こゝもと。』と仰せられて、人も具せさせ給はで、かく遠くはいかに。」
といふ。山里にて人も歩かねば、いと心細く思ひて泣き行くを、男も、あばれたる家に、唯一人ながめて、いとをかしげなりつる女ざまの、いと戀しく覺ゆれば、人やりならず、「いかに思ひ居つらむ。」と思ひ居たるに、やゝ久しくなり行けば、簀子に、足しもにさし下しながら寄り臥したり。
この女は、いまだ夜中ならぬさきに往きつきぬ。見れば、いと小き家なり。この童、
「いかに、斯かる所にはおはしまさむずる。」
と言ひて、「いと心苦し。」と見居たり。女は、
「はや馬率て參りね。待ち給ふらむ。」
と言へば、
「『何處にかとまらせ給ひぬる。』など仰せ候はば、いかゞ申さむずる。」
と言へば、泣く\/、
「斯樣に申せ。」
とて、
いづこにか送りはせしと人問はば心は行かぬ(*身は「行く」けれども「心行く」〔=満足する〕ことのない)なみだ川まで(*風葉集・恋三)
いづこにか おくりはせしと ひととはば こころはゆかぬ なみだがはまで
といふを聽きて、童も泣く\/馬に打乘りて、程もなく來著きぬ(*帰り着いた)。
男うちおどろきて(*ふと目覚めて)見れば、月もやう\/山の端近くなりにたり。「怪しく、遲く歸るものかな。遠き所に往きける(*ママ)にこそ。」と思ふも、いとあはれなれば、
住み馴れし宿を見捨てて行く月の影におほせて(*月の光にかこつけて〔同じく宿を捨てて去った人を〕)戀ふるわざかな
すみなれし やどをみすてて ゆくつきの かげにおほせて こふるわざかな
といふにぞ、童ばかり歸りたる。
「いと怪し。など遲くは歸りつるぞ。何處なりつる所ぞ。」
と問へば、ありつる歌を語るに、男もいと悲しくてうち泣かれぬ。
「此處にて泣かざりつるは、つれなしを作りけるにこそ(*伴直方云「つれなしがほ」の誤脱かと。)。」
と、あはれなれば、
「往きて迎へ返してむ。」
と思ひて、童(*小舎人童)に言ふやう、
「さまでゆゝしき所へ往くらむとこそ思はざりつれ、いとさる所にては、身もいたづらになりなむ。猶『迎へ返してむ。』とこそ思へ。」
と言へば、
「道すがら小止みなくなむ泣かせ給へ(*給ふ)。あたら御さまを。」
といへば、男、「明けぬさきに。」とて、この童供にて、いと疾く往き著きぬ。實にいと小さく、あばれたる家なり。見るより悲しくて、打ち叩けば、この女は(*小舎人童が)來著きにしより、更に泣き臥したる程にて、
「誰そ(*原文「誰ぞ」)。」
と問はすれば、この男の聲にて、
涙川そこ(*「底」と「其処」を掛ける。)とも知らずつらき瀬(*「逢ふ瀬」の意を含む。)を行きかへりつゝながれ(*「流れ」と「泣かれ」を掛ける。)來にけり
なみだがは そこともしらず つらきせを ゆきかへりつつ ながれきにけり
といふを、女、「いと(*原文「いとゞ」)思はずに、似たる聲かな。」とまであさましう覺ゆ。
「開けよ。」
といへば、いと覺えなけれど、開けて入れたれば、臥したる所に寄り來て、泣く\/をこたりを言へど、答へをだにせで泣く事限りなし。
「更に聞えやるべくもなし。いと斯かる所ならむとは、思はでこそ出し奉りつれ。かへりては、(*強情を張った)御心のいとつらく、あさましきなり。萬は長閑に聞えむ。夜の明けぬ前に。」
とて、掻き抱きて馬にうち乘せて往ぬ。女、いと淺ましく、「いかに思ひなりぬるにか。」と、呆れて往き著きぬ。おろして二人臥しぬ。萬に言ひ慰めて、
「今よりは、更に彼處(*今の女の家)へ罷らじ。かく(*つらく悲しく)思しける。」
とて、又なく(*大切なものと)思ひて、家に渡さむとせし人には、
「此處なる人の煩ひければ、折惡しかるべし。この程を過して、迎へ奉らむ。」
と言ひ遣りて、唯こゝにのみありければ、(*新しい女の)父母思ひ歎く。この女は、夢のやうに嬉しと思ひけり。
此の男、いと引切りなりける(*せっかちな)心にて、
「あからさまに。」
とて、今の人(*新しい女)の許に晝間に(*まだ明るいうちに、の意ととる。)入り來るを見て、女、(*取り次ぎの侍女が、)
「俄に、殿おはすや。」
といへば、うちとけて居たりける程に、心騷ぎて、
「いづら(*どうしたの)、何處にぞ。」
と言ひて、櫛の箱を取り寄せて、しろきものをつくると思ひたれば、取り違へて、掃墨(*掃き墨の義。胡麻油又は菜種油などの油煙を膠に和して墨を製し、又漆澁などに和して器物などを塗る下染とする。)(*眉墨にしたもの)入りたる疊紙を取り出でて、鏡も見ずうち裝束きて、女は、
「『そこにて、暫しな入り給ひそ。』といへ。」
とて、是非も知らずさしつくる程に、男、
「いととくも疎み給ふかな。」
とて、簾をかき上げて入りぬれば、疊紙を隱して、おろ\/にならして、口うち覆ひて、夕まぐれに(*夕暮れに)、「したてたり。」と思ひて、(*実際には)斑におよび形につけて、目のきろ\/としてまたゝき居たり。男見るに、あさましう、珍かに思ひて、「いかにせむ。」と恐ろしければ、近くも寄らで、
「よし、今暫時ありて參らむ。」
とて、暫し見るも、むくつけければ往ぬ。
女の父母、「斯く來たり。」と聞きて(*挨拶に)來たるに、
「はや出で給ひぬ。」
といへば、いとあさましく、
「名殘なき御心かな。」
とて、姫君の顔を見れば、いとむくつけくなりぬ。怯えて、父母も倒れふしぬ。女、
「など斯くは宣ふぞ。」
といへば、
「その御顔は如何になり給ふぞ。」
ともえ言ひやらず。
「怪しく、など斯くはいふぞ。」
とて、鏡を見るまゝに、斯かれば、我もおびえて、鏡を投げ捨てゝ、
「いかになりたるぞや。いかになりたるぞや。」
とて泣けば、家の内の人もゆすりみちて、
「これをば思ひ疎み給ひぬべき事をのみ、彼處(*元の女の側)にはし侍るなるに、(*殿が)おはしたれば、御顔の斯く成りにたる。」
とて、(*元の女の呪詛かと言って、)陰陽師(*ママ)呼び騷ぐほどに、涙の墮ちかゝりたる所の、例の膚になりたるを見て、乳母、紙おし揉みて拭へば、例の膚になりたり。斯かりけるものを(*こういう次第であるのに)、
「(*男との交際は、)いたづらになり給へり。」
とて、(*周囲の者が)騷ぎけるこそ、かへす\〃/をかしけれ。
よしなしごと
人の侍く女を、ゆゑだつ僧、忍びて語らひけるほどに、年の果てに山寺に籠るとて、
「旅の具に、筵・疊・盥・■(匚+也:い::大漢和2598)(*湯水を注ぐ器)、貸せ。」
と言ひたりければ、女、長筵(*畳表などに使う長い筵)何やかや供養したりける。それを女の師にしける僧の聞きて、「我ももの借りにやらむ。」とて、書きてやりける文の詞のをかしさに、書き寫して侍るなり。世づかず(*世間並みでなく)、あさましきことなり。
「唐土・新羅に住む人、さては常世の國にある人、我が國にはやまかつしなつくの戀まろ(*「品尽くの乞ひ麿」で、擬人的戯称であるという。)などや、かゝる詞は聞ゆべき。それだにも、すだれあみの翁はかくたいしの女に、名立ち(*逸話未詳)、賤しき中にも、心のおひさき侍りけるになむ。『それにも劣りたりける心かな。』とは思すとも、理なき事の侍りてなむ。
世の中の心細く悲しうて、見る人・聞く人は、朝の霜と消え、(*火葬の煙は)夕の雲とまがひて、いと哀れなる事がちにて、『あるは少く、なきは數添ふ世の中。(*榮華、見果てぬ夢に小大君「あるはなくなきは數添ふ世の中にあはれ何時まであらむとすらむ。」)』と見え侍れば、『我が世や近く。(*正三位知家の歌に「そむくべき我が世や近くなりぬらむ心にかかる峯の白雲。」)(*『続古今集』雑下・藤原知家)』とながめ暮すも、心地つくし(*「心づくし」か)、くだく(*「思ひ砕く」)事がちにて、「猶世こそ電光よりもほどなく、風の前の火よりも消え易きものなれ。」とも(*原文「…ものなれども」)、うらがなしく思ひつゞけられ侍れば、『吉野の山のあなたに家もがな。世の憂き時の隱家に。(*「古今集十八「み吉野の山のあたりに宿もがな世の憂き時の隱家にせむ。」)』と、際高く(*きっぱりと)思ひ立ちて侍るを、『いづこに籠り侍らまし。富士の嶺と淺間の峯との峽ならずば(*高山の比喩)、竃山と日の御崎(*阿波の國由幾泊といふ所に竃のみ崎あり。海を隔てて紀伊の日高御崎(日の御崎)に向ふ。)(*「日」と「火」を掛ける。)との絶間にまれ(*「谷にまれ」か)、さらずば、白山と立山とのいきあひの(*出会う辺りの)谷にまれ、又愛宕と比叡の山との中あひ(*中間)にもあれ、人のたはやすく通ふまじからむ所に、跡を絶えて籠り居なむ。』と思ひ侍るなり。
『此の國は猶近し。唐土の五臺山、新羅の峯にまれ、それも猶けぢかし、天竺の山、鷄の峯(*鷄足山をいふ。西域記にあり。)の石屋にまれ、籠り侍らむ。それも猶地近し。雲の上にひらき(*雲を押し分けて、の意か。)登りて、月日の中にまじり、霞の中に飛び住まばや。』と思ひたちて、このごろ出で立ち侍るを、何方まかるとも身をすてぬものなれば、要るべきものども多く侍る。誰にかは聞えさせむ。年頃も御覽じて久しくなりぬ。情ある御心とは聞き渡りて侍れば、かゝる折だに聞えむとてなむ。旅の具にしつべき物ども(*原文「しつべきき物ども」は衍字。)や侍る。貸させたまへ。
まづ要るべき物どもよな。雲の上にひらきのぼらむ料(*用品)に、天羽衣一、いと料にはべる。求めて給へ。それならでは、袙・衾(*綿入れの布団。襟・袖のついたものもあった。)、せめてはならば、布の破襖(*裏地をつけ、綿などを入れた上着。袷。)にても、又は十餘間の檜皮屋一・廊・寢殿・大殿(*大臣の邸)・車宿も用(*必要)侍れど、遠き程は、所狹かるべし。唯腰に結ひつけて罷るばかりの料に、やかた(*牛車の車箱〔車体〕)一・疊などや侍る。錦端・高麗端(*高麗縁)・繧繝(*繧繝縁)・紫端の疊、それならずは布縁さしたらむ破疊にてまれ貸し給へ。瓊江に刈る真菰(*攝津三島郡にあり、「玉江の眞菰かりにだにとはで程ふる五月雨の空」の歌が新敕撰集にある。)にまれ、逢ふことの交野の原(*逢ふこと難しをかけてある。)にある菅薦にまれ、唯あらむを貸し給へ。十符の菅薦(*陸奥の名産。)な給ひそ。筵は荒磯海の浦にうつるなる出雲筵(*「出づ・藻」の連想から「荒磯海の…」を受ける。)にまれ、いきの松原(*筑前博多の附近にあり。)の邊に出來なる筑紫筵にまれ、みなをが浦(*上總國君津郡法木村にあり。和名抄に「周匝郡三直郷」とある。)に刈るなる三總筵(*未詳)にまれ、底いる入江に刈るなる田竝筵(*紀伊國西牟婁(*郡か。)田竝浦より産す。)にまれ、七條のなは筵にまれ、侍らむを貸させ給へ。又それなくば破筵にても貸させ給へ。
屏風も用侍る。唐繪・大和繪・布屏風にても、唐土の黄金を縁に磨きたるにてもあれ、新羅の玉を釘に打ちたるにまれ、これらなくば網代屏風(*網代を張った屏風)の破れたるにもあれ、貸し給へ。盥や侍る。丸盥にまれ、うち盥(*金属板を槌で打った盥)にもあれ、貸し給へ。それなくば、かけ盥(*欠け盥)にまれ貸し給へ。けぶりが崎(*未詳)に鑄るなる能登鼎にてもあれ、待乳河原(*未詳)に作るなる讚岐釜にもあれ、石上にあなる大和鍋にてもあれ、筑摩の祭に重ぬる近江鍋(*伊勢物語に「近江なる筑摩の祭とくせなむつれなき人の鍋の數見に」などとある。)にてもあれ、楠葉の御牧(*交野の御料地。「楠葉の御牧の土器作り、土器は作れど娘の貌ぞよき。あな美しやな。…」〔『梁塵秘抄』巻2・376〕)に作るなる河内鍋にまれ、いちかと(*市門か。)にうつなるまがり(*「さがり」〔=吊り下げ釜〕という。)にまれ、とむ(*地名か。)・片岡に鑄るなる鐵鍋にもあれ、飴鍋(*飴を煮る鍋)にもあれ、貸し給へ。邑久(*備前国邑久郡)につくるなる火桶・折敷もいるべし。信樂(*近江国甲賀郡)の大笠、あめのしたの連り簑(*背と腰の部分がつながっている簑)もたいせちなり。伊豫手箱(*新猿樂記「四郎君は」の條に諸國の産物をあげた中に「伊豫手箱」の語がある。)・筑紫皮籠もほしく侍る。せめては浦島の子が皮籠にまれ、そての皮袋(*「そて」は鼠貂という。火鼠の皮衣。)にまれ、貸し給へ。
侘しき事なれど、露の命絶えぬ限りは食物も用侍る。めうこくからし(*未詳)の信濃梨(*信濃国名産の梨)・斑鳩山(*丹波国何鹿郡の山という。)の枝栗・三方の郡(*若狭国三方郡)の若狹椎(*「新猿楽記」にあるという。)・天の橋立の丹後和布(*「たンごめ」か。若狭湾の海藻。)・出雲の浦の甘海苔(*海苔の類)・みのはし(*三の橋)のかもまがり(*賀茂の■(米偏+環の旁:かん::大漢和27154)(まがり)餅(もちひ)=米・麦の粉を環状に練って揚げた菓子、という。)・若江の郡(*河内国若江郡)の河内蕪と、野洲・栗太(*共に近江国の郡名)の近江餅(*近江国の名産)・小松が本の伊賀乾瓜(*天日に干した塩漬け瓜。伊賀国の名産か。)・掛田が峯(*未詳)の松の實・みちくの島(*未詳)の郁子山女(*ムベ=アケビ)・ひこ山(*未詳)の柑子橘(*蜜柑)、これ侍らずは、やもめの邊の熬豆(*「豆」には女陰の意味があり、寡婦だから熬豆としたという。)などやうの物賜はせよ。
いでや、いるべき物どもいと多く侍る。せめては、たゞ足鍋(*足のついている鍋)一・なが筵一つら・盥一なむ要るべき。もしこれら貸し給はば、心なからむ人(*女の許に通い、山寺に籠ると言って諸物を要求した僧を指すか。)にな賜ひそ。ここに仕ふ童、おほそう(*「おほぞうなり」〔=いい加減〕を掛けるか。)のかけろ二(*「かげろふ」という。または、「二」は排行ともいう。)・うみ水のあわといふ二人の童に賜へ。出で立つ所は、科戸の原(*「科戸の風」の神の宮居という意か。)の上の方に、天の川の邊近く、鵲の橋づめ(*天の川に懸かる烏鵲橋の袂)に侍る。そこに必ず贈らせ給へ。此等侍らずば、え罷りのぼるまじきなめり。世の中に物のあはれ(*人情の機微)知りたまふらむ人は、これらを求めて賜へ。猶「世を憂し。」と思ひ入りたるを、諸心に(*ご同心・ご協力を賜って)いそがし(*せき立てる)給へ。かゝる文など人に見せさせ給ひそ。福つけたりける(*幸運を身につける、の意か。「ふくづく」〔=欲張る〕の意か。)ものかなと見る人もぞ侍る。御返りはこゝによ。ゆめゆめ(*「人にな見せ給ひそ」)。
徒然に侍るまゝに、よしなし事ども(*題名の由来。)書きつくるなり。(*噂を)聞く事のありしに、いかにいかにぞや(*さていかがなものかと)、おぼえしかば、風のおと・鳥のさへづり・蟲の音・浪のうち寄せし聲に、たゞそへ侍りしぞ(*お耳汚しまで、の意か)。」
(*以下本篇に關係はないのであるが、何れの本にものせてある。)
(*「よしなしごと」の本文に続けず、標題なしの断章とする。)
冬ごもる(*冬の間うちに籠っている、の意。)空の氣色に、しぐるゝたびにかき曇る袖の晴間は、秋より殊に乾く間なきに、羣雲霽れゆく月の殊に光さやけきは、木の葉がくれ(*木の葉に隠れていること。)だになければにや、猶えしのばれぬなるべし、あくがれ出で給ひて、(*心にかかる女の許を訪れるのは〔相手の身分やもてなしなどから〕)「あるまじき事。」と思ひかへせば、「外ざまに。」と思ひたゝせたまひ、(*そうはいうものの)猶えひき過ぎぬなるべし。いと忍びやかに入りて、數多の人のけはひするかたに、(*目指す女が)うちとけ居たらむ氣色もゆかしく、「さりとも、みづからの有樣ばかりこそあらめ(*我が身のこのような姿〔現状〕はともかくも)、何ばかりのもてなしにもあらじを、大かたのけはひにつけても。(*周囲の様子からも、期待ほどには相手になってくれまいよ。)」(*以下、本文なし。)
(*了)
花桜折る少将
このついで
虫愛づる姫君
ほどほどの懸想
逢坂越えぬ権中納言
かひあはせ
思はぬかたにとまりする少将
はなだの女御
はいずみ
よしなしごと