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四方の硯

畑維龍 著(寛政4?)、丸山季夫 解題
(〈日本随筆大成〉新装版 第1期第11巻 吉川弘文館 1994.11.1)

※ 原文影印。とりあえず本文から起こす。('98.10)
※ 原文には、左ルビで訳訓を示している。左ルビはLで区別する。
※ 但し、漢文で読み下せるものは読み下す。

  【目次】
 1 序  2 アトリの考証  3 鶏鳴の巧者  4 老翁の芸談  5 新葉集の逸志  6 白石と瑞賢
 7 孟子の講義  8 聖の教え  9 紫式部と和泉式部  10 校倉の考証  11   12   13   14   15   16   17   18   19   20 

四方の硯

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1 序

世の中のこと、なにごとにもあれ、目にふれ耳にきくこと、ただにやうちすぐべからず。まいてわが日の本のむかしをたづぬるは、大和うたを枝折(シヲリ)とせざればいかで神路(カミジ)の深きをわけ入ることあらんや。俊成卿の歌に、

四方の海硯の水につくすともわがおもふことのかきもやられず
といへるをよりどころとて、この卷をつづりぬ。

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2 アトリの考証

さりし年、嵐山のほとりの竹林に、つねに見なれぬ鳥のむらがりあつまることあり。阿止里といふ。時の博士(L ハカセ)の考あり。■(獣偏+葛:::大漢和20723)子(ラウシ)鳥は『和名抄』に云ふ。『辨色立成』(*逸書)に臈觜鳥〔阿止里、一に胡雀と云ふ。〕と云ひ、『楊子漢語抄』に■(獣偏+葛:::大漢和20723)子鳥と云ふと。〔『和名』上も同じ。今按ずるに、両説の出づる所未だ詳かならず。但し、『本朝国史』に■(獣偏+葛:::大漢和20723)子鳥を用ふ。又或説きて云く、此鳥の群れ飛ぶこと列卒の山林に満つるが如し。故に■(獣偏+葛:::大漢和20723)子鳥と名くと。〕

『萬葉集』に云く、

くにめぐるあとりかまゆりかひりくまでにいよひてまたね

仙覺云く、「あとりは我ひとり也。」と云ふ。又或云く、「あとり、あたもりなり。」とて、谷川氏(*谷川士清)云く、「■(獣偏+葛:::大漢和20723)子鳥は、『日本紀』欽明紀に云く、「其三に臘鳥皇子と曰ふ。」と。『古事記』に足取に作り、一本に臈觜鳥に作る。」と。『三才圖會』に曰く、「蝋嘴鳥は雀に似て大いに、嘴は黄蝋の如し。」と。故に『■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)書(ミンシヨ)(*ママ)』南産志に云く、「蝋嘴(ロウシ)は其喙(ハシ)黄色なり。」と。「都庭鐘(トテイシヨウ)(*都賀庭鐘)譯して「末女末八四」(*まめまはし?)と曰ふ。或翁の考(カンガエ)(*ママ)なり。」と人のしめし侍りぬ。

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3 鷄鳴の巧者

明暦の比にやありけん、禁裏に御方違(タガヒ)のことあり。此時、■(奚+隹:::大漢和42124)鳴をとなへて還幸あるがならひなり。六位藏人これをつとむ。六位にさしつかゆることあれば、下臈これをつとむ。此時、六位のかはりに下臈より七條中將といふもの、出てつとむ。此者家まづしければ、幼(イトケナキ)より近衞家に出入しぬ。學文には才かしこけれども、其余は碁・將棊・琴・三味線・能・囃子・亂舞(ラツフ)などは、教に目にふれずは黨(トウ)にても無能者なりとあざける。その夜、この中將にあたりて鷄鳴をとなふるに、眞の鷄の聲(コエ)(*ママ)にひとし。殿上人も、孟嘗君(モウシヨウクン)のむかしもかくあらんかと思さる。上下皆感賞しあへり。此夜の式なくは中將の鷄鳴にたえ(*ママ)なる事は人ねしるまじきにとつぶやきぬ。人の性質奇才あるものも、時にあたらざれば一生人にしられまじくやみなんもの世に多からんと近衞殿下の御物がたりなりと、『槐記』(*『台記』とも。藤原頼長の日記。)に見ゆ。〔古へは御方違の行幸・御幸あり。今は宮中にて行はる。御別殿と稱す。内の衆上卿・殿上人、御前に召さるるあり。御盃訖りて〓末殿上人、扇を採りて羽たゝきの音をなし、鷄鳴を發するなり。古へは翌朝還幸なし給ふ。今は御別殿に渡御まし\/て、鷄鳴をきこしめして還御なり。御別殿の御盃に六位の藏人出ることなし。殿上人闕(ケツ)の時、御小兒鷄鳴をなし給ふなりともいふ。〕

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4 老翁の藝談

近衞家につかへて齡百十九歳までいける翁あり。無禪といふ。此者いふ。「藝はひつぱるをよしといへども、ひつぱるはたるむところあればなり。ひつぱるも藝の病(ヤマイ)なり。たゞたるまぬがよしとす。」と云へり。この比、長曾我部元親が姓名をかへて相國寺の門前竹林中に家居して無禪(ムゼン)と隣りしこと、はるか世を經て無禪の相公に物語せしといふ。

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5 新葉集の逸志

『新葉集』をよみて、其二三首をこゝにあぐ。

寄弓述懷
前内大臣隆
君がためわがとりきつる梓弓もとの都にかへさゞらめや
宗良親王
君のため世のためなにかおしからんすてゝかひある命なりせば
聖〓
あすか川ふち瀬にはあらぬ世の中のかはるはやすき昨日けふかな
源頼武朝臣
引きそめし心のまゝにあづさ弓おもひかへさで年もへにけり
寄車述懷
妙光寺内大臣
今はとて車をかけんよはひまでつかふるやにまよはずもがな
寄衣述懷
前大納言光任
命あれば衣をたれしいにしへに立ちかへりてぞまたつかへける
入道前右大臣
日に三たびおろかなる身をかへり見てつかふる教えも我君のため
兵部卿師成(モロナリ)親王の哥に藤花のこゝろを
木のもとに藤しく花を吹きたてゝ二たび匂ふはるのやまの香

このうたどもをよみて、南朝興復(コフフク)の志あることをしるべし。この集に入りし人は、皆北朝に出てへつらはぬ豪桀・英雄の人多し。二十一代集にもれるは逸志といふべし。

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6 白石と瑞賢

新井君美、年少の時河村瑞見(*瑞賢)なる者に〓て面會せしが、この瑞見も志あるものなれば、君美やゝ物語して學業のならざるをなげきければ、瑞見いふ。「足下(ソコモト)春秋(ヨハヒ)富めり。今より志をたてゝ學業のために死すべし。しからざれば、いかで學業成就することあらんや。」といへり。君美この一言に憤發し、日夜勤學不惰(オコタラズ)して、後海内無双の學士となり、寛永正徳の比、君に寵遇せられて國家に益ありといふ。瑞見無學不術の者といへども、此異見(イケン)豪桀といふべし。君美も終身(L ミヲヲハルマデ)この言を人にものがたりせしといふ。

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7 孟子の講義

「吉備の國民間に一人の學士あり。年わかき比より聖學に志ありしが、一とせ國守の舘(タチ)にめされて『孟子』を講じはべるかたへに聽きはべる士(サムラヒ)あり。その講の〓にてしば\/目くばせし、しはぶきなどせし者あり。それをもかまはず、おもふまゝに講じぬ。講終りて、「いかなることにて、かくし給ふぞ。」といへば、かの士乃ち曰く、「君■(危の垂/矢::「侯」の別体:大漢和)の前に御耳にさはりはゞかるべきことある故、それをしらせたるなり。こゝろへて講ぜよ。」といはれぬ。學士曰く、「いやしきものゝ高貴の前にめされて講をつとむるは、聖賢の教えを君のきゝ給ふが故なり。御耳にさはり給ふならば、講を止むべし。」とこたへぬ。國つ守それをきゝ給ひて、「いしくも申しつるものかな。聖賢の教えを聽き〓と〓ねがふ所なり。いかでいなむ事あらんや。耳にさはるをとがむるは我志にあらず。汝が學ぶところの力をつくして講ぜよ。」と命ぜられければ、學士いよ\/聖學を講じぬといふ。君も賢君なり、學士も志ある者なり。その姓名をわすれしこそくやしけれ。備中菅氏(*菅茶山)物語なり。世に聰明の君ありといへども、左右に陪する(ハベル)もの、君をおもんずるあまり、耳ざはり目ざはりなどいふこと、其君の耳目をおほひふさぐに似たり。左右用捨していふべきことなり。」と或老人のかたりき。

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8 聖の教え

さみだれのつれ\/なるに、あるひじりをたづねはべりければ、堂に客あり。かのひじりに問ひていはく、「世間に〓よりたのまぬ世話をこなたよりやきたがる人あり。仲尼・釋迦などはなに故かくらうがはしくいたされしや。」といふ。ひじり曰く、「日輪のあまねく世界をてらし給ふも、世界の人よりたのまぬにかくはてらし給ふなり。」又問ふ。「日輪かく慈悲をたれ給ふに、風雷はなにとてものを破り、人おそれおのゝきぬるや。」ひじり曰く、「これも天地の教具なり。舜の臣に皐陶あるがごとし。」とこたへぬ。維龍(*畑維龍。本書の著者。)このものがたりをかたへよりきゝて、「今日の席は百尺竿頭一歩を進む。」と拜謝しけれ□(*一字空き)ば、かのひじりもほゝゑみぬ。

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9 紫式部と和泉式部

紫式部は藤式部なるを、源語(L ゲンジモノガタリ)の若むらさきの卷をたくみにかゝれしより、當時紫式部とよぶといふ。按ずるに、式部は紫野雲林院の徳内ほとりに住まれしゆへ(*ママ)の紫式部の名なるべし。式部の産湯(ウブユ)の井戸、眞珠菴にあり、和泉式部といふは誤りなり。泉式部は周州霞の里の産なり。〔霞里今湖三村といふ。高草郡にあり。泉式部が歌を〓とす。今も居宅の跡ありと云ふ。

春來れば花の〓を見てもなを霞の里に思ひをぞやる

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10 校倉の考証

『和名抄』に校倉をあぜくらと訓ず。穀倉の事なり。阿波國麻殖(ヲヱ)郡摩尼珠(L カウヲツ)山といふ麓に、穀谷(ヤ)といふ名あり。古の穀倉の跡なりといふ。校倉を經藏といふは音のあやまりなり。『伽藍記』に井字形(L ジナリ)に材木をくみあげてつくることなり。俗にあぜかへすといふは、倉中の穀粟をうへしたとするをいふより轉じ來るなり。『秉燭譚』(*伊藤東涯の随筆)に阿是の字を用ゆ。

本朝古今伽藍の制ことなり。和州法隆寺は隋の制にならひ、摂州四天王寺・南都招提寺は唐制にならひ、京師の五山禪院は宋の制にならひ、黄蘗は明の制にならふ。黄蘗は雅なれども近世の制なり。

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11 老樹列伝

樹の壽あるもの、■(山偏+澤の旁:えき::大漢和8502)山に禹貢の時の孤柏有り、曲阜に宣尼の手づから殖(ウユ)る檜有り、泰山に秦皇(シンノシコウ)大夫の爵を賜ふ松有り、其它昭烈宅の桑樹(L クワノキ)、孔明■(广/苗:びょう::大漢和9400)前の柏、是なり。吾邦にも對州に神功后三韓征伐に船をつなぎし■(木偏+予+象:よ::大漢和15864)樟木(クスノキ)ありて、累々として雲の如く高しと『橘窓茶話』(*雨森芳洲の随筆)に見ゆ。信州の箒木(ハゝキゞ)