忘れられた田京城


1.はじめに
伊豆の国市田京(旧 田方郡田中村田京)の河岸段丘周辺には”ジョウ”(城)という地名や”とのざか”(殿坂)と呼ぶ坂道がある。しかし、参考文献やインターネットなどには城があったと記録されていない.。田京城は忘れられたか?

 
図1.”ジョウ”(城の石組み。
 
図2.”とのざか”(殿坂)。


2.城がある河岸段丘の地形地質
崩れやすい砂層の河岸段丘の上には、 ”ジョウ”(城)という地名の高さ約1.7mの城の石組みが残っている。また、”ジョウ”(城)から約300m西には、ジョウ”(城)へ登る坂道”とのざか”(殿坂)がある。

 
図3.高さ約1.7mの”ジョウ”(城)の石組み。
 
 
図4.”ジョウ”(城)の石組み(右)と他の石組み(左)の違い。
 
図5.鏡石(K)
城の石垣の中央にある石の表面が鏡のように平らな巨石を鏡石(K)と呼んでいる。
鏡石は多くの城にあって、藩主の権力の象徴として、または石工の腕自慢としている。
巨石は城への通路が城へ突き当たる位置に置かれ、来る人に威圧感を与える効果を狙っている。

河岸段丘は崩れやすい砂の崖に囲まれ、敵から守り易い高台である。殿坂を登ったところにある”だんげ”(段畑)から殿坂を登ろうとする敵を迎え撃つと思われる。
図5へ記入した川は飛び越えられない川幅があり、しっかりした石垣のある急流で、泉の集落で狩野川へ合流し流路が短い。この川を作った目的は田畑へ水を引くためではなく、敵を防ぐための壕と思われる。
田畑への水は広瀬神社からの別の川があった。

 
図5.”だんげ”(段畑)からの写真。 殿坂を登った河岸段丘の上の畑
を”だんげ”と呼んでいる。写真,に記入されたブルーの太い線は壕の川である。


城の石組みに使われた岩石は、凝灰岩で、城山の採石場から運ばれたものである。
城山という名前は、城の石組みに使われる採石場があることから付けられたと思われる。

 
図6.城山


 

 
図7.凝灰岩      城山の採石場跡から 2022年5月2日採集。
 
図8.城山の採石場跡


 

3.おわりに(考察)
(1)、小田原城を守るために築城した山中城と韮山城は山城で石組みがない。
(2)、田京城は石組みがある。
(3)、豊臣秀吉の大軍の攻撃によって山中城は半日で落城したが、韮山城は落城に3ヶ月かかった。
(4)、”ジョウ”(城)の石組みには鏡石がある。
これらの資料から推定すると、田京城は、なかなか落城しない韮山城を攻撃するため、豊臣秀吉側が建設しようとした城と思われる。城の石組みができた頃韮山城が落城し、建設途中で必要がなくなり、城の建設を中止したと考える。

何れにしても、”じょう”(城)という地名の場所の発掘調査をすれば明らかになる。



参考文献
小和田哲男(1992):駿河・伊豆の城 郷土出版社
村田晃治(1977)韮山城・山中城小田原城・戦史 村田書店
小和田哲男、鈴木東洋、関口宏行、長倉智恵雄、見崎ときお(昭和59年)静岡県古城めぐり 静岡新聞社