後期評論集
1.『デリカテッセン』
2.『髪結いの亭主』
3.『知っていましたか? この名曲』
4.『名優ルイ・ジューヴェ』
5.『ドラマの外へ… 溝口健二/ジャン=リュック・ゴダール』
6.『夢を追い続けた男〜アルベール・ラモリス』
7.『シュトロハイム賛』
8.『悪い映画』(『汚れた血』酷評)
9.『シラノ・ド・ベルジュラック』
10.『フォルスタッフ』−オーソン・ウェルズ一周忌によせて
11.『ダンス・ウィズ・ウルブズ』
12.『バートン・フィンク』
13.『ふたりのベロニカ』
14.『欲望の翼』
15.『無能の人』
16.『シコふんじゃった』
17.『映画の話法をめぐって』
18.『カルロス・ダレッシオ インタビュー』
19.『偶然と連想による音楽エッセイ』−つむじ風〜インディア・ソング〜小さな三つの音
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甘美だが虚無的な毒…
『デリカテッセン』
橋本 了
(初出 NEW FLIX 1992年 2月号)
先頃インタビューしたカルロス・ダレッシオが音楽を担当し
たというので試写会に足を運んだのだが、前評判の通り『デリ
カテッセン』はなかなか面白い映画だった。
共同監督としてクレジットされているジャン=ピエール・ジ
ュネとマルク・キャロはビデオ・クリップやイメージ・フィル
ムを製作した経験の持ち主で、ビジュアルにうるさい観客の心
をとらえる映像づくりのポイントをよく心得ている。彼らの演
出と台詞はサービス精神が旺盛でテンポが良く、ピーター・グ
リーナウェイ作品のような<気取り>やテリー・ギリアム作品
のような<もたつき>を感じさせない点が好ましい。
しかし、重要な部分をあまりにも省略してしまったシナリオ
には不満がある。なぜ肉屋の娘は旅芸人に危険を知らせないの
か? 彼女は人肉を食べたことかまったく無いのか? 地底人
たちは殻物を育てているのか? 等々。
ミニマル・ミュージックやコンセプチュアル・アートを経て
最近はメロディを重視する傾向に回帰したというカルロス・ダ
レッシオの音楽は非常に美しく、特に旅芸人と肉屋の娘が合奏
するノコギリとチェロの二重奏は聴き物だ。
さらに、効果音の使い方にもさまざまな工夫がこらされてい
て、監督の二人も音に対する鋭敏な感覚の持ち主であることが
うかがえる。たとえば、肉屋が愛人とセックスしている時に古
いベッドのきしる音が、自室で天井のぺンキ塗りをしている旅
芸人の動きや、別の部屋で発明家が自転車のタイヤに空気を入
れるリズムや、肉屋の娘がチェロを弾くテンポにまで影響して
ゆくシーンは、音を使ったギャグとして面白いばかりでなく、
彼らの住むアパートが一個の有機体となっていることを暗示す
る描写の導入部となっているのだ。
通気管(?)やダスト・シュートによって部屋と部屋がつな
ぎあわされ、時には他の住人の声さえ聞くことのでさるアパー
トのイメージは、この映画の中で最も魅力的なものということ
ができるだろう。各部分が複雑に結びついて有機体となり、人
間たちの体臭がすっかりしみ込んだ人工物。核戦争後の世界を
舞台にした近未来ドラマを観る時、我々が目にしたいと望んで
いるのはまさにこれではないだろうか?
『デリカテッセン』の登場人物たちは皆、こうした擬似生命
体の胎内に抱かれて暮らすことを望んでいるように思われる。
アパートの住人たちばもちろん、アウトローということになっ
ている地底人たちもまた、廃虚と化したパリの迷宮のような地
下道にひそんで共同生活を享受しているのだ。唯一の例外は定
住する家のない旅芸人だったのだが、肉屋の娘に恋をした彼は、
肉屋を倒した後もアパートに留まってしまう。彼かタクシー代
として靴を取られてしまう冒頭近くの挿話は象徴的だ。
新王誕生のおとぎ話の構成をそのまま借りてきたかのような
『デリカテッセン』が見せてくれる夢は甘美だか、どこか虚無
的な毒を含んでいる。ただし、おそらくこの毒は二人の監督が
意図したものではないだろう。彼らはスマートに登場人物たち
をさばさ、軽妙にストーリーを運ぶことに心を奪われ過ぎたの
だ。
彼らの才能は疑う余地がない。しかし、センスの良さや器用
さがかえって淡白で線の細い演出に結びつくことにならないか
どうかが、今後の作品の成否を左右することになるだろう。
了
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『髪結いの亭主』短評
(未発表 1991.Dec.23)
橋本 了
床屋の店内にあふれるコロンや整髪料の香り、そして、それ
らの中に埋もれることなく匂い立つ女性の体臭。お気に入りの
レストランで食事を楽しむ美食家のように、『髪結いの亭主』
の主人公アントワーヌは彼独自の閨房に満ちた香りを鼻腔いっ
ぱいに吸い込み、それからおもむろに、成熟しきって崩れ始め
る寸前の、この上なく柔らかでしかも充分な弾力の残る乳房を
賞味し始める………
『髪結いの享主』が匂いと触感という映画が元来苦手とする
感覚を表現し得た稀有な作品であることには異論がない。しか
し、余りに幸福な生活を送る者に忍び寄る、愛を失うことや老
いに対する不安というテーマは興味深いが、ひたすら官能的な
快感を追求しようとするアントワーヌのような愛し方を受け入
れた女性(マチルド)が、「歳老いて夫の愛を失う前に死を選
ぼう」などという観念的な思考を実際の行動に移すものだろう
か? 官能的な悦びを失うことへの恐れは、現在味わうことの
できる悦びをいっそう食欲にむさぼろうという気持をかきたて
るのが常のように思える。
この映画のラストについてそんな疑間を抱いていた私は、パ
ンフレットに載っていたアンナ・ガリエナ(マチルド役)の次
のようなインタビュー記事を読んで一気に謎が解けたように思
った。
「確かに、彼女は男に理想化された女性像かも知れない。(中
略)あるがままの彼女を受け入れて、ああいう愛され方を好ん
だ彼女になりきって男の夢を生きてみようと思った」
(インタビュアーは吉武美知子)
そう、マチルドは何一つ魅カを失わないうちにアントワーヌ
を愛したまま死を選び、彼の密かな願望を実現したのだ。こう
考えるとこの映画がアントワーヌの回想という形式を取ってい
ることが重要な意味を帯びてくる。冒頭のシーンで彼は自らの
手で髪を切っていた。マチルドはこのときすでに死んでいたの
だ。それからアントワーヌの回想が始まり、今日までの半生が
語り直される。彼の語るマチルド像は幻想というフィルターを
通したものなのではないだろうか? もちろんこれは一つの解
釈であって、すべては事実なのかもしれない。しかし、新たな
解釈の可能性が生じたことによって、『髪結いの亭主』という
フィクションはより多面的で魅力的なものになる。
(追記:少なくともこの点では、最近のベストセラー小説『失
楽園』よりはましな構成をもっているといえる。
1997.JULY.10)
マチルドが精神的にも充実した官能の頂点を体験していたと
すれば、死を親しいものと感じたかもしれないが、さらに生き
続けようという意欲も同特に得たことだろう。いずれは愛を失
うと確信していたとしても、今は恋人に愛されている妙齢の女
性が、愛を失う前に自ら死を選ぶなどとは私にはやはり考えら
れない。
「(時よ)とまれ、お前はいかにも美しい」と叫ぶのはファ
ウスト(男)であって、〈永遠にして女性的なるもの〉はロマ
ンチストのセンチメンタリズムとは対極にあるのだ。
了
*文中の『ファウスト』の引用は新潮文庫の高橋義孝訳による。
後期評論集冒頭へ
知っていましたか? この名曲……
選曲のセンスが光ったサウンドトラック雑記
橋本 了
(初出:NEW FLIX1991年2月号)
まず、いつか自作のシナリオで使おうと心に決めていたので
先を越されたと知って本当に悔しい思いをした曲の話から始め
よう。
その曲の名はフォーレ作曲のピアノ五重奏第二番。使われた
映画はベルトラン・タヴェルニェ監督の『田舎の日曜日』であ
る。老画家が息子夫婦を見送った帰り路のシーンと、日没後の
アトリエの中で画家が空白のカンバスを見つめるシーンで、第
一楽章の冒頭部分が使われている。ただし、正直に言って映画
の方はあまりおすすめする気になれない。色彩は美しいがカメ
ラが出しゃばりすぎているし、この名曲の出だしだけをろくに
間隔もあけずに繰り返すなどというのはまったくの悪趣味だ。
しかし、曲は言いようもなく美しく、聴く者の内部で無限に
イメージを喚起する。筆者が愛聴しているジャン・ユボー(ピ
アノ)、ヴィア・ノヴァ四重奏団の名盤に付けられた解説(平
島正郎)によると、この曲を書いた頃のフォーレはすでに七十
六歳の高齢に達していた上に耳の病に冒され、高音が低目に、
低音が高く響いて、身体の外の音楽はすべて騒音の流れにすぎ
なかったという。
『ミツバチのささやき』『エル・スール』のヴィクトル・エ
リセ監督は現実音に対して恐ろしく鋭敏な耳を持つ(床を打つ
杖の音、初聖体拝受の朝の銃声……)と同時に、クラシック音
楽に対しても非常に良い趣味を持っている。
『ミツバチのささやき』はオリジナル音楽を使っていたので
ここでは触れないが、『エル・スール』では南(アンダルシア)
ヘのあこがれをグラナドスのスペイン舞曲集第五番、アンダル
ーサ(アンダルシア舞曲)の名旋律に託した他、ラヴェルの弦
楽四重奏の第三楽章をヒロインの父にまつわる数々のシーンで、
シューベルトの弦楽五重奏の第二楽章をヒロインが母から字を
習うシーンで使うなど、相当なクラシック・ファンであること
は間違いない。
いや、さらに想像をたくましくするなら、彼はシナリオが完
成し、撮影が終わってからそのシーンにふさわしい曲を選んだ
のではなく、それらの曲に耳を傾けながらシナリオを執筆し、
登場人物達のキャラクターを熟成させていったのではないだろ
うか?
すでに『エル・スール』完成から七年が過ぎた。彼がたとえ
ゆるやかな足取りであっても、着実に新作の準備を進められる
状態にあることを祈りたい。
最後に、このエッセイのテーマとはちょうど逆になるが、有
名な曲が使われていた知る人ぞ知る名作をご紹介する。ユーリ・
ノルシュテインというソ連のアニメ作家の『話の話』という作
品である。
バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻の中でも特に傑作と
して名高い第八番のプレリュードとフーガをバックに、第二次
大戦の民族的な記憶と、徹底した個人の記憶とイメージとが交
錯する。幸いビデオが発売されているので、ぜひ一度ご覧にな
っていただきたい。あれほどの名曲に力負けしない内容をもつ
映像を作り上げる表現力はタルコフスキー監督にも劣らない。
了
Dec.5th 1990
後期評論集冒頭へ
名優ルイ・ジューヴェ
橋本 了
(初出:流行通信1988年2月号)
先日テレビで放映された『女だけの都』のオープニングで、
ルイ・ジューヴェのクレジットが大きいのに驚いた。映画出演
わずか4本目の作品なのに特別出演の超別格扱い。偉大な舞台
人への愛情と尊敬があふれるばかりで、これはいい映画が観ら
れると確信するにはそれだけで充分だった。
ルイ・ジューヴェの演じる飲んだくれの従軍僧は、仲間の小
人が恐喝で手に入れた大金をピンハネする。さんざん金をつま
せたところで「うん、これなら私の良心の痛みもいやされよう」
名人芸というしかない。
ジューヴェはジャン・ルノワール監督の『どん底』ではジャ
ン・ギャバンと共演している。とてつもなく暗い題名なのでず
いぶん損をしている映画だが、内容は『草の上で眠ることの心
地よさ』を語るすばらしいコメディだ。
ギャンブルですっかり財産を失つた男爵(ジューヴェ)がペ
ペル(ギャバン)の住む安宿にやってくる。なれないボロ服を
着た男爵のギクシャクした歩きぶりが実にいい。(そして、友
人をむかえるギャバンのうれしそうな顔!)チャップリンに親
しみを込めたあいさつを送りながら、ルノワールとジューヴェ
の合作にふさわしいオリジナリティを持っている。
ルノワールの作品も『女だけの都」を監督したジャック・フ
ェデの作品も、俳優が本当に気持ちよく演技しているのがこち
らに伝わってくる。「そうそう、君は天才だよフランソワーズ
…」 撮影中はきっとそんなことを言っているのだろう。
自分のパターンに役をあわせる俳優は、名優とはいえない。
名優は役のイメージを一歩一歩さぐりながら、キャラクターを
息づかせ、奇跡のような個性を見つけ出す。ルイ・ジューヴェ
がそうだ。
了
後期評論集冒頭へ
ドラマの外へ…
溝口健二/ジャン=リュック・ゴダール
(初出:流行通信 1988年4月号)
橋本 了
映画の話法として最も破格なパンは、溝口健二が監督し宮川
一夫が撮影を担当した『山椒太夫』のラストで行われる。
−粟の穂に集まる雀を追っていた盲目の母親は、厨子王がさし
出した救世観音像(森鴎外の原作では地蔵尊像)に手を触れ、
彼が息子であることに気づく。厨子王は父が流刑の地で病死し
たこと、妹(原作は姉)の安寿も自ら命を絶ったことを彼女に
語らなくてはならない。涙にかきくれて、二人はかたく抱き合
う。と不意に画面はロング・ショットに変わり、カメラはゆっ
くりと、しかしただならない気配を漂わせながら主人公たちか
ら離れてゆくのだ。
大抵の日本人なら『山椒太夫』の物語を知っているだろう。
結びの部分では、仏像の法力によって母親の眼が開かれること
になっている。ところが溝口監督の映画では、この約束されて
いたはずの奇跡が起らない。仏教説話にふさわしい幕切れを期
待していた観客は、天才的なカメラの動きによってドラマから
引き離され、その外側にひろがる広大なヴィジョンへと導かれ
てゆく。
人は愛し合い傷つけ合いながら、要するに生き、そして死ぬ。
では、そんな日々の営みを逃れ得たときに見出されるものは何
か? この問いに対しては、パンの持つ可能性の意識的な探求
者であり、溝口映画の熱烈な讃美者でもあったジャン=リュッ
ク・ゴダールが『気狂いピエロ』のラストで(『山椒太夫』を
想起させずにはおかない見事なパンとともに)引用したランボ
ーの詩句が答えるだろう。
−見つかった。
−何が?
−永遠が。
−太陽とともに去った
−海。
(『気狂いピエロ』では<地獄の季節>という言葉が繰り返さ
れるので誤解が生じるのは無理ないが、この詩句は詩集「地獄
の季節」中のものではない。ゴダールが引用したのはランボー
が「永遠」と題して<地獄の季節>以前に書き上げていた詩の
一節なので、<地獄の季節>を参照したと思われる字幕スーパ
ーは以上のように修正する必要がある。)
了
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夢を追い続けた男〜アルベール・ラモリス
『白い馬』/『赤い風船』
(初出:流行通信1988.3月号)
橋本 了
アルベール・ラモリス監督の名作『白い馬』と赤い風船を一
枚に収録したレーザーディスクが発売されたので、さっそく購
入することにした。
お粗末な解説文の誤りを別にすれば(両作品とも台詞もナレ
ーションもないと解説者は書いているが、少ないとはいっても
台詞はどちらの作品にもあるし、『白い馬』ではナレーション
まで使われている)何度観ても楽しめる最高のディスクと言え
るだろう。
『赤い風船』は文字タイトルのバックに流れるテーマ曲を聴
いただけで、胸をしめつけられるような、メランコリックでな
つかしい感情がこみあげてくる。作曲者は『白い馬』と同じモ
ーリス・ルルーで、ふとカンのようなものがはたらいてフラン
ソワ・トリュフォーのフィルモグラフィーを調べてみると、『
あこがれ』の音楽を担当したのが彼だった。彼が音楽を手がけ
た映面のうち日本で公開された作品としては、この他に『にが
い勝利』(ニコラス・レイ監督)、『小さな兵隊』(ジャン=
リュック・ゴダール監督)『橋からの眺め』(シドニー・ルメ
ット監督)、『別離』(アラン・カヴァリエ監督)の4本があ
る。
『白い馬』では漁師の少年と野生の白い馬、『赤い風船』で
は小学生と彼の仲良しである赤い風船(!)が主人公だ。馬は
ともかく風船が主人公というと奇妙に思われるかもしれない。
しかし、子供達の眼で見れば、彼らの愛するすべてのものが生
命と感情を持っている。我々もかつては木の椅子を愛馬にして
隊列を組んだのではなかったろうか?
2本の作品のラストはどちらもいくぶん厭世的なものになっ
ている。牧童たちに追いつめられた白い馬は少年を背に乗せた
ままどこまでも海を渡ってゆき、赤い風船が壊されて悲しんで
いた小学生は、パリ中から集まってきた風船達につかまって果
てしない大空へ旅立ってゆく。だが、だからといってラモリス
が人間嫌いのペシミストだと言いたいわけではない。彼は子供
と同じごくナイーヴな感性の持ち主なのだ。そして、彼はその
ナイーヴさゆえに自らが傷つきやすく、逆にまた人を傷つけや
すいことを知っている。彼が夢の国にあこがれるのは、そこで
ならあらゆる人間を愛せるからなのに違いない。
アルベール・ラモリスは「赤い風船』に続いて『素晴らしい
風船旅行』、『フィフィ大空を行く』、『パリの空の詩』とい
う3本の空中飛行映画を撮り、70年6月2日、イランのテヘ
ラン郊外で新作『恋人たちの風』の空中撮影中に48歳で事故
死した。ヘリコプターの回転翼が電線に触れたための事故だと
いう。
了
後期評論集冒頭へ
シュトロハイム賛
(初出:流行通信 1988年6月号)
橋本 了
アメリカを旅行する友人にエーリッヒ・フォン・シュトロハ
イム監督作品のビデオを見つけたら何でもいいから買ってきて
くれるように頼んでおいたところ、ビデオリストに載っていた
作品は全滅だった(発完元には在庫があるかもしれないが)か
わりに、パラマウント・ピクチャーズが発売したばかりの『結
婚行進曲('20年、監督・脚本・主演/シュトロハイム)』を
入手することができた。
この作品は当初から効果音と伴奏音楽をレコードに録音した
サウンド版として制作されたもので、フランスのシネマテーク
にはシュトロハイム自身が協カして復元を行なったオリジナル・
サウンド・プリントが存在するはずなのだが、ビデオの方は(
パッケージのクレジットを読んだ限りでは)残念ながら全く別
の音楽を収録しているようだ。ただし、ゲイロード・カーター
が手がけたサウンド・トラックもそれなりに充実したもので、
決して悪い出来ではない。
シュトロハイムはこの作品て貧しい恋人(フェイ・レイ)の
純愛を信じながらも、持参金目当てに資産家の娘と結婚するオ
ーストリア宮内長官の息子を演じている。フェイ・レイに近づ
く口実をつくるために、彼女が聖体節の式典を見物している場
所に自分の乗った馬を(薄笑いすらうかべながら!)暴れ込ま
せるシーンは、シュトロハイム特有のサディスティックな描写
の中でも特にすぐれたものに数えられるだろう。
『結婚行進曲』も他のシュトロハイム作品同様に、配給会牡
との対立による呪われた運命をまぬがれることはできなかった。
この映画は3時間のプログラムになる予定で撮影も完了してい
たのだが、シュトロハイムが前半(今日『緒婚行進曲』と呼ば
れている部分のことだ)を完成すると、パラマウント杜は残り
のプリントを彼の手からとりあげ、ジョゼフ・フォン・スタン
バーグに単独上映可能な作品(『アルプスの悲劇』)として仕
上げさせたという。
しかし、不幸中の幸いとして、『結婚行進曲』は『愚なる妻』
や『グリード』のようにプロデューサーが完成品を勝手に短縮
するという事態には至らずに、シュトロハイム自身が編集した
フィルムがそのまま残されている。
何というゆるやかなテンポ、そして何という迫力!
シュトロハイム作品は必然的に長時間化する。彼の望みは、
映画内部の時間が観客側の時間と完全に一致することなのだ。
そして、全編ワン・ショットで『ロープ』を撮ったアルフレッ
ド・ヒッチコックと、ショット間に時間の欠落がある場合には
オーバー・ラップかフェイド・アウトを行なうという鉄則を自
らに課することによって、捕虜の体験した2カ月間を我々にも
<生きさせる>『抵抗』を完成したロべ一ル・ブレッソンが、
20年以上の年月を隔てて再びこの奇跡を成し遂げることにな
る。
了
(参考文献『映画愛/アンリ・ラングロワとシネマテーク・フ
ランセーズ』(リブロポート))
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悪い映画 -MAUVAIS FILM
(初出:流行通信 1988年5月号)
橋本 了
公開初日の第二回上映でレオス・カラックス監督の『汚れた
血』を観た。試写に行った友人の話を聞いて、余り期待しない
ように心がけていたのだが、予想以上に不出来で許し離い映画
だった。
まず、ミシェル・ピコリとハンス・メイヤーが演じる老ギャ
ング達の描き方がなっていない。これから一緒に仕事をしよう
という主人公の青年(しかも死んだ親友の息子)があやしげな
薬品をがぶ飲みするのをぼんやり見ているというのは一体どう
いうことなのか?
『現金に手を出すな』のジャン・ギャバンは、ジャンヌ・モ
ローが手の甲にコカインの粉末をのせた瞬間に平手打ちを見舞
ったものだった。一方、『汚れた血」のギャング達ときては、
青年が金庫破りの前日に右手を負傷するという致命的なミスを
犯しても、不肖の息子をもった母親よろしく愚にもつかない繰
り言を並べたてるばかりなのだ。
カラックスが書いたというシナリオがつまらないのは、ヒー
ローであるはずの青年(ドニ・ラヴァン)がヒロインのジュリ
エット・ビノシユとべッド・インしない点に最大の原因がある。
背中を打たれて絶命したミシェル・ポワカールがあの世でこの
映画を観ていたら、ラヴァンのふがいなさに耐えかねてつぶや
いたことだろう。
「最低だ……」
ビノシュはラヴァンと肉体関係を持つ。だが、依然としてミ
シェル・ピコリが彼女の心を占めている−という展開にした方
が、登場人物の心理にずっと深みが出る。愛のない性行為によ
って発病するというSTBOが、ビノシュの真意をめぐってす
ばらしいサスペンスを生んだはずだ。
カラックスはD・W・グリフィスの作品でクロース・アップ
の撮り方を学んでいる。しかし、クロース・アップを活かす方
法は、全く学び得ていない。グリフィスはクロース・アップの
発明者であり名手であったのと同時に、フル・ショットやロン
グ・ショットの名手でもあったのだ。例えば『国民の創生』(
KKK団を讃美した後半はどうしても我慢できないのだが)の
冒頭近くには、リリアン・ギッシュが拳くらいの大きさの石に
片足でひょいと乗ってゆくというただそれだけの動作が生涯忘
れられなくなるようなロング気味のショットがある。
『汚れた血』にはコマ落しとスロー・モーションが氾濫して
いるが、『お熱いのがお好き』のクライマックス(モンローが
自転車で桟橋にかけつけるところ)をコマ落しにしたビリー・
ワィルダーの名調子も、『フォルスタッフ』のロング・ショッ
トでスロー・モーションを使用したオーソン・ウェルズの不敵
な天才も、模倣の可能性から最も遠いところにあるジャン・コ
クトーのポエジーも、そこには見出せない。
カラックスは彼が守護神としている監督達の作品をもう一度
すべて見直すべきだろう。たとえすでに百回観ているとしても、
百一回目の上映に足を運ぶ必要がある。それらの作品のほんの
表層以外、彼は何も理解していないのだから。
了
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<映画的な>傑作!
『シラノ・ド・ベルジュラック』
(初出:NEW FLIX 1991年5月号)
橋本 了
戯曲の映画化である上に、舞台経験の豊富なジェラール・ド
パルデューに美文調の台詞が与えられているはずだということ
もあって、あまり期待し過ぎないようにと自分に言い聞かせな
がら試写を観に出かけたのだが、予想とは大きく異なって、ジ
ャン=ポール・ラプノー監督の『シラノ・ド・ベルジュラック』
は非常に〈映画的な〉傑作だった。
奇妙に思われるかもしれないが、戯曲をもとにした映画を観
ていると、たとえそれが成功作であっても、映画という形式そ
のものはどこか借り物にすぎないという印象を受けることが多
い。
『八月の鯨』にしても、リリアン・ギッシュやベテイ・デイ
ヴィスの演技、存在感はさすがだと思うが、やはりあの脚本は
観客も想像の中でしか海を見ることができない舞台で上演すべ
きだろう。密室で物語を展開してゆかないと、海を望む窓を作
るという行為が象徴する〈積極的に生きようとする意欲〉がも
う一つ観客に伝わってこない。
『コックと泥棒、その妻と愛人』は凝った映像が話題を呼ん
だようだが、舞台劇に作り直した方が成功をおさめられるだろ
う。俳優が人間を食べるふりをするところをカメラがクロース・
アップでとらえてしまっては、無敵のデーモンである盗賊の首
領から魔力を奪う呪術的な儀式が成立しなくなってしまうのだ。
ロベール・ブレッソン監督は演劇の特性について次のような
興味深い考察を行なっている。
「芝居の舞台の上では、石膏製やボール紙製でない本物の馬や
犬は、或る不快感をかきたてる。シネマトグラフとは逆に、演
劇においては、現実の内に真実を求めるのは有害なことなので
ある」(『シネマトグラフ覚書』訳/松浦寿輝、筑摩書房刊)
映画では演劇で有効な様式化、描象化はほとんど役に立たな
い。しかし、ジャン=ポール・ラプノー監督は、マニア好みの
凝った映像表現からも、脚本のト書をそのまま映像にしてゆく
かのような文芸映画調からも遠く離れて、映画監督にとって最
も親しい態度であるリアリズムに徹して『シラノ・ド・ベルジ
ュラック』を演出し、成功に導いた。
巧みなストーリー展開、磨きあげられた台詞の美しさといっ
た素材の良さが十分に活かされている上に、ひかえめだが的確
な照明とカメラ・ワークによって、台詞や動作と一体になった
俳優=登場人物の感情の律動が見事にとらえられている。
女優やコスチュームをことさら美しく撮ろうとはしていない
照明が特にすばらしい。この映画のテーマは外見の美しさより
もはるかに魅力的な内面の美しさを描くことなのだから、スタ
ー・システムから生まれたハリウッド流のライティングはかえ
って逆効果だったろう。
芝居がかって聞こえるのではないかと気になっていた韻文に
よる台詞も、十七世紀の教養人が恋を語ったり剣客が名乗りを
あげる場合にはこの方がむしろ自然だったはずだと思えてくる。
出演者たちの演技はシラノ役のドパルデューも、ロクサーヌ
役のアンヌ・ブロシェも、敵役のジャック・ヴェベールも皆申
し分ない。撮影が進むにつれて彼らの気持ちも乗ってきている
ように感じられて、ついこちらも引き込まれてしまう。
久々に良いフランス映画を楽しんだ。皆さんもぜひご覧にな
るようにお薦めする。
了
後期評論集冒頭へ
『フォルスタッフ』
−オーソン・ウェルズ一周忌によせて
(初出:流行通信1986年11月号)
橋本 了
オーソン・ウェルズの一周忌に当たるこの十月に、我々は彼
の監督・主演作品『フォルスタッフ』('66年)を観るという喜
びを味わうことができる。余りにも有名なパン・フォーカス、
彼に霊感を約束する雪、ロー・アングルで広角レンズがとらえ
た果てしない空の広がり、トランペットの音響まで立体化する
モンタージュ、暗示力に富んだ台詞によって文字通り〈過去か
ら〉響いてくる真夜中の鐘……。そして、戦闘シーンで用いら
れたファースト・モーションとスロー・モーションの忘れ難い
効果!一秒、つまり二十四コマというのはゴダールが好ん
だ表現だが、ウェルズはその一コマ一コマの間で自在に時間を
伸縮させる。
フォルスタッフを〈卑俗な悪党だがどこか憎めない道化〉と
して演じることのできる俳優は、恐らくかなりの人数になるだ
ろう。しかし、ウェルズのフォルスタッフは彼のすべてを受け
入れるか訣別するかの選択を、あらゆる機会を通じてハル皇太
子と観客に迫ってくる。この善と純粋さを体現した人物を
前にして、馴れ合いは決して許されない。ウェルズの巧みな演
出によって、やがて皇太子がフォルスタッフを見捨てることは
ごく早い時期から予想できるが、四度の別れのシーン(ウェル
ズ自身が回数を明言している)は、その為にごくさりげないも
のまでが無類の情感をたたえている。
ヘンリー四世を演じるジョン・ギールグッド、居酒屋のおか
みのマーガレット・ラザフォードなど、この作品には多くの名
舞台俳優が出演しているが、舞台劇の映画化という印象は全く
抱かせない。彼らは様式をまもる義務から申し分のないカメラ・
ワークとリズミカルなカッティングによって解放され、最良の
抑揚をもった台詞と動きとが、モノクロームのフィルム上に抽
出される。
皇太子役には舞台版の『フォルスタッフ』('60年)で同じ役
に抜擢されたキース・バクスターが再び起用されている。ウェ
ルズの内部でフォルスタッフ像が成熟してゆく過程に直接触れ
ることのできた彼は、この信頼に十二分な形で応えたと言って
いい。戴冠式場でフォルスタッフを見捨てた新王の顔に浮かぶ
表情は、ウェルズが表現しようとした主題を見事に語り尽くし
ている。
娼婦役のジャンヌ・モローに関しては言うべきことが何も無
い。彼女が起用されたのは、彼女がまさにジャンヌ・モローで
あることによる。
了
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〈作家の映画!〉
−『ダンス・ウイズ・ウルブズ』
(初出:NEW FLIX 1991.6月号)
橋本 了
『ダンス・ウイズ・ウルブズ』には圧倒された。調教済みの
狼に演技をさせすぎている点(主人公に対して強い関心を示し
ながらも、野性動物として人間とは一定の距離を保っていると
いう設定の方が効果的な展開が考えられたように思う)など、
決して完全無欠な作品というわけではないが、三時間という上
映時間を長いとは一瞬も感じさせない。大自然の広大な広がり
をワイド・スクリーンの画面でがっしりと受けとめた作品(し
かも、フィルムの粒子のなんというきめの細かさ!)なので、
できるだけ大きなスクリーンの劇場で、できるだけフィルムが
新しいうちにご覧になることをおすすめする。
インディアンの生き方に深い理解を示す白人が主人公の映画
をケビン・コスナーが主演、監督、製作の三役をかねて完成し
たというので、優等生的でスター主義的な映画だろうと予想し
ていたのだが、驚いたことに、この作品はケビン・コスナーと
いうすぐれた監督による〈作家の映画〉なのだった。
私が〈作家の映画〉と呼ぶのは、シナリオ、演出、撮影、編
集、音響、音楽などがすみずみまで方法論的に覚醒し、明確な
自意織を持った監督(作家)によってそれらが統合されている
作品だ。
いくつか例をあげてみよう。コスナーの演じるジョン・ダン
バーが大きくえぐれた窪地のふちに顔を出すと、カメラはまず
クロース・アップで彼の驚いた表情をとらえ、一瞬の間(ま)
をおいてからまっすぐ後方に後退し、あたり一面に散乱した荷
車の残骸がフレーム内に入ってくる。もしクロース・アップの
後でカットを割ってしまったら演技の間(ま)が生きなかった
だろうし、ズーム・アウトを使っていたとしたら(ロバート・
アルトマン監督なら間違いなくそうしただろう)スタイリッシ
ュな印象が強くなりすぎて、このショットだけが浮いてしまっ
ただろう。移動の際に多少のがたつきが出てしまったのが惜し
まれるが、最善の撮影方法を見つけ出そうという熱意が伝わっ
てくる。ダンバーの別れの合図に一人だけ応えたインディアン
の顔を他の仲間たちが見つめるシーンからただよう良質のユー
モアも、演技の間(ま)を生かすためによけいなカッティング
を排するという賢明な配慮がもたらしたものだ。
別に小津安二郎覧督の映画を研究したわけでもないだろうが、
ディゾルヴ(オーバーラップ)やフェイド・アウト(※)が極
端に少ない編集も、この映画に簡潔な力強さを与える上で重要
な役割を果たしている。しかも、ワイド・スクリーンの表現力
を活かした見事なロング・ショットによって時刻や季節の移り
変わりを観客に伝えることも忘れていない。
数百メートル先のバッファローをとらえたフル・ショットな
ど、失われた過去を望遠レンズによって強引に引き寄せようと
したかのようないくつかの映像の独特の質感によって、『ダン
ス・ウイズ・ウルブズ』は私にロバート・アルトマン監督の傑
作『ビッグ・アメリカン』のことを思い出させた。この作品も
また、白人に追いつめられながらも自然とともに生きる道を見
いだそうとする老酋長を描きながら、文明人の欺瞞を痛烈に皮
肉っている。トリミング版なのが残念だがビデオが発売されて
いるので、西部劇の悪役以外のインディアンが登場する映画に
関心を持たれた方は、この機会にあわせてご覧になってみては
いかがだろう。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』とは違ってアル
トマンー流の毒をたっぷりと含んでいるが、老曾長の生き方に
対する彼の深い共感が忘れ難い印象を残すはずだ。
了
※フェイド・アウトばかり気にしながら映画を観ているわけで
はないので記憶違いの可能性もあるが、『ダンス・ウイズ・
ウルブズ』では一回しかフェイド・アウトが行なわれていな
い。合衆国軍に捕らえられたダンバーが銃床でなぐられて意
識を失うシーンである。意識が遠のいてゆく感覚をフェイド・
アウトであれほど巧みに表現できるとは思ってもみなかった。
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『バートン・フィンク』短評
(未発表 Dec.16.1991)
橋本 了
この映画が例によって少し間(ま)をずらしたオフ・ビート
感覚のコメディで、せいぜい作家の成長を描くというテーマが
その背後に隠されている程度の作品だと考えて観ていると、中
盤を過ぎたところで次のような思いがけないテーマが浮かび上
がってくる。
−ごく普通の人間の日常生活を凝視し、その内面と深くかかわ
ってゆく時、我々の眼前に現れるのは虐げられた庶民の同惰を
さそう姿でも、逆境によって浄化された魂の詩でもなく、表面
は平静を装ったまま、ガン細胞のように増殖を続けている狂気
だ。
誇張の多い脚本や演出に対する不満はこの瞬間に解消する。
太平洋戦争直前の一九四一年という心僧いばかりの時代設定も
含めて、すべてはクライマックスに向けて冷静に計算し尽くさ
れた伏線なのだ。
狂気を描くという点ではデビッド・リンチ作品に通じる部分
もあるように思えるが、アプローチの方法はまったく異なって
いる。リンチの場合は自らが作品の狂気に身をひたし、それに
陶酔するのに対し、『バートン・フィンク』の監督・脚本を手
がけたコーエン兄弟はあくまで登場人物たちの狂気から距離を
保っている。『バートン・フィンク』は平明で知的な作品であ
って、デビッド・リンチ作品の分析不能の(と言うか分析が無
意味に思えてしまう)混沌とした世界とは無縁なのだ。
出演者たちの演技はスタイリッシユで重厚な映像と絶妙なバ
ランスを保っている。主人公のバートン・フィンク役のジョン・
タトゥーロは頭でっかちのインテリ社会派劇作家を熱演してい
るし、彼以上に、バートンの隣人チャーリー・メドウズを演じ
たジョン・グッドマンの、後半に入ってじわりと存在感を増し
てくる演技が見事だ。
クライマックスの火災シーンの最後でエンド・マークを出し
たとしても傑作と呼ばれただろうが、バートンが希望のない生
活を送るエピソードをその後につけ加えるあたりがコーエン兄
弟らしさだろう。チャーリーがバートンにあずけた箱の中身を
最後まで見せないという演出も好ましい。デビッド・リンチな
ら中身を見せずにはいられなかっただろうし、見せたとしても
観客を圧倒する迫力を持ったシーンを作り出せただろうとは思
うが。
私は冒頭で日常生活をクロース・アップした時に見出される
のは詩ではなく狂気だと書いた。しかし、その狂気が自分にと
っても親しいものであることが実感されてくるにつれて、時と
してそこに共感とポエジーを覚えることがある。ごくまれにし
か起こり得ないはずなのだが、『バートン・フィンク』はまさ
にそのような錬金術を成し遂げた映画なのだ。
了
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『ふたりのベロニカ』批評
(未発表Jan.12.1992)
橋本 了
昔つきあっていた女性で、心臓疾患が原因で不整脈のある人
がいた。活動的な生活は無理だと思われるだろうが、彼女は非
常に積極的な性格で、体調が許す限りスポーツ・クラブに出か
けて水泳などを楽しんでいた。酒を飲むと底無しで私と二人で
ワインを一晩に四本あけたことがあったし、煙草の味にもうる
さいほうで、自分の手で葉を巻くドラムという煙草を吸ってい
た。自分の体の扱い方は自分がいちばんわかっているというの
が彼女の口癖だったが、実際の生活態度はといえば、その日一
日に享受できるすべてのものを限界まで味わい尽くそうとして
いるとしか思えなかった。
『ふたりのベロニカ』の主人公の一人(題名が示す通り、イ
レーヌ・ジャコブという有望な若手女優が一人二役を演じてい
る)、ポーランドのベロニカの生き方は私の古い友人の生き方
によく似ている。病気や死を軽蔑し、生命を燃やし尽くそうと
するかのような生き方………。私はこの映画を死の克服、〈再
生〉を描いた作品だと考えたいと思う。ただし、奇蹟は信仰に
よって引き起こされるのではなく、生命を完全に燃焼し尽くし
た肉体を、ひそやかに訪れる。
イレーヌ・ジャコブをはじめとする俳優達の演技はどれも的
確で力強い。登場人物が皆生き生きとしていて存在感があると
いうことが、この映画に対してまず捧げておかなくてはならな
い賛辞だろう。
技術的な特長に触れておくと、登場入物の視覚とカメラの映
像を一致させた主観ショットの多用がまず目につく。窓ガラス
越しに景色を撮影して微妙なゆがみを出すといった、視覚効果
をねらっただけのものかと最初は考えていたのだが、ポーラン
ドのベロニカが舞台の上で心臓発作を起こす前半のクライマッ
クス・シーンで、彼女の視覚と一致した主観ショットがぞっと
するような表現力を発揮したのだった。
この映画の中で私が最も好きなシ−ンは、フランスのベロニ
カが人形劇を観ているうちに鏡に映った人形使いの姿に気づき、
やがて彼女に気づいた人形使いと鏡を通して見つめ合うシーン
だ。このシーンは主観ショットでなければ表現できない。彼ら
の位置でなければ、鏡には別のものが映ってしまうのだ。人形
劇自体が足を痛めたバレリーナ(この人形の操作がまたすばら
しい! 手足のそらせ方、関節の角度など、一流のバレリーナ
の実演と見まごうばかりだ)の死と妖精としての〈再生〉をモ
チーフとしているのだが、この〈再生〉という奇跡を描こうと
する時に、主観ショットほどふさわしい手法もないのではない
だろうか? この寄積は客観的に述べることのできる事実では
なく、それぞれの人生を生きている二人のベロニカと、彼女ら
とその生を共有できる観客にとってだけ意味を持つ内面的な出
来事なのだから。
やや話が脇道にそれることになるかもしれないが、〈再生〉
というテーマを扱ったすぐれた短篇マンガを二篇紹介しておく
ことにしよう。高橋葉介の『卵』(短篇集「腹話術」に収録/
朝日ソノラマ刊)と倉田江美の『球面三角』(短篇集「樹の実
草の実」に収録、白泉社刊)である。どちらも卵を生命の再生
装置としている点が興味深い。新しい生命が生まれてくること
から、世界や人間の起源を語るさまざまな神話や伝説に卵のイ
メージが登場するのだ。
さて、死体を入れる棺は卵(生命の再生装置)の代用物だと
みなすことができるように思う。だからこそ吸血鬼は棺がなく
ては生き続けることができないのだ。ちなみにカール・G・テ
ホ・ドライヤー監督の『吸血鬼』には、死体になって人々に運
ばれてゆく時の視覚を表現した印象的な主観ショットがある。
(思えば同監督の『奇跡』こそは信仰による〈再生〉をテーマ
とした傑作中の傑作なのだった)
『ふたりのベロニカ』にもポーランドのベロニカの埋葬の様
子を彼女の棺の中からとらえた一種の主観ショットが存在する
が、以上のように考えを進めるなら、この儀式は生命の終焉で
はなく原初の状態への回帰を象徴するのではないだろうか?
いずれにしても、生命の完全な燃焼があって初めて死にも意
義が生まれ、「これほど生きているのにそれがすべて無に帰す
はずはない」という不思議な確信から〈再生〉という希望が生
まれてくる。ストーリーを語ることにはおよそ無頓着な、まる
でジグソーパズルの断片をぶちまけたかのような構成の中で、
『ふたりのベロニカ』はそんなことを私に熱っぽく語りかけて
きたのだった。
了
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『欲望の翼』短評
(未発表 Dec.12.1991)
橋本 了
ウォン・カーウァイ監督の『欲望の翼』は若々しい意欲に満
ちた佳作だ。主人公のヨディ(リスリー・チョン)とサッカー
競技場の売り子のスー(マギー・チョン)が出会う冒頭のエピ
ソードが終わる頃には、この監督がクロース・アップを多用し
て広がりのある背景を排除し、〈居所のない〉若者たちの葛藤
を描こうとしていることが明らかになる。
一歩誤れば息苦しいだけという結果に終わりかねない冒険な
のだが、出演者たちの的確で力強い演技や、生き生きとしたカ
メラ・ワークとテンポの良いカッテイングのおかげで、この力
技が成立するかどうかこちらも最後までつきあってみようとい
う気持になることができた。
そして、一瞬も退屈することもなくこの映画を観終わった今、
三十三歳の若手監督の冒険は見事に成功したと断言しよう。ウ
ォン監督の映像に対するこだわりは半端なものではない。ジャ
ン・ヴィゴやジャン=ジャック・ベネックスと同じように、彼
はワン・カットの中に詰め込み得るかぎりのものを詰め込もう
という強烈な欲求に取り憑かれているのだ。
ただし、彼は自分の嗜好を観客が楽しみやすい作品を作る武
器にするしたたかな技術も持ち合わせている。確かにクロース・
アップは異様と思えるほど多用されているが、映像表現が単調
になりそうな部分やストーリー展開の上で重要なポイントには、
俯瞰ショットやステディカムによる移動ショットなどがインサ
ートされ、絶妙なアクセントが加えられているのだ。
ストーリー展開について言えば、登場人物の関係を収斂させ
てゆこうという意識がまったく欠如している点が新鮮で面白い。
ウォン監督にとって登場人物の関係は任意の組み合わせの一つ
でしかないかのように思える。スーに想いを寄せていた警官と
ヨディがマニラで出会うのはできすぎだと言われたとしたら、
彼は平然とこう答えるだろう。
「こういう偶然だってあるさ」
シナリオに関する不満としては、ハード・ボイルド調の台詞
が時々凝りすぎていて気障な印象を与える点が挙げられる。ま
た、レスリー・チョンはヨディ役を演じるにはいくぶん歳を取
りすぎているように思える。しかし、少々ぎごちないところや
演出上の計算が見えすいてしまっているところがあるにしても、
この映画の持つダイナミックな躍動感がそれらを押し流してし
まう。
ウォン・カーウァイのスタイルに対する執着は、本物の感情
をとらえようとする姿勢と決して矛盾しない。若者たちの自己
表現は常にスタイリッシュなのだ。自分の力を信じながら、ひ
たすら理想とする表現を目指す彼の姿は、そのまま『欲望の翼』
の登場人物たちの姿と重なり合う。
了
後期評論集冒頭へ
冬の映画ノートから1
『無能の人』賛
(未発表 Nov.17.1991)
橋本 了
竹中直人監督、主演の『無能の人』は傑作だ。まず、どっし
りとロー・ポジションに腰をすえた構図がいい。つげ義春の原
作はハイ・アングルや俯瞰の構図が多く、この映画のショット
は原作の構図を棋倣しようとしたものではないのだが、無駄が
なくて密度の高いワン・ショット、ワン・ショットの積み重ね
が、あの丹念に描き込まれたつげ漫画の世昇を見事に再現して
いる。
「ニユー・フリックス」十二月号のインタビューで竹中直人
は鳥男が飛ぶ漫画の絵が生きていないと反省していた。しかし、
決してそんなことはない。黒々と墨汁が塗られ、長い昏迷を経
てようやく描きあげられた生原稿(本物かどうかは知らないが)
の美しさに、私は思わず胸が熱くなった。ここで佐々木原保志
の撮影にも拍手を送っておきたい。新聞紙が風に舞い上がる冒
頭シーンも良いが、竹中直人が演じる主入公の漫画が没になっ
た後、新開紙の屑が一つまた一つと冥界のような地下道に吸い
込まれてゆくシ一ンはさらにすばらしい。
出演者の中では主人公の妻、モモ子を演じた風吹ジュンの台
詞廻しの美しさに強く心をひかれた。あまり抑揚をつけずに少
し早口で話す、そのなめらかさがただことではない。映画を観
終わった後で俳優の口其似をしたくなったのは何年ぶりのこと
だろう。「ガロ」の特別編集版に掲載されたインタビューで、
モモ子役に大竹しのぶを起用しなかった理由として語った「あ
の人は起用だから、なんか見ててウソツキという感じがして」
という言葉は至言だ。観客が目にするのは演技している名優何
某ではなく登場人物そのものでなくてはならない。
山川軽石を演じる神戸浩は北村想の舞台『十一人の少年』に
出演し、発声の悪さが個性となり得るというコペルニクス的な
発想の転換を私にもたらした異色俳優で、演技などという概念
とは無縁の存在感が圧倒的だ。さすがに異能の監督は奇才の活
かし方を心得ている。
主演者としての竹中直人は、受けの演技に徹することによっ
て周囲の個性派たちの魅力を存分に引き出している。今回の監
督経験によって彼は俳優としてもさらに飛躍をとげるだろう。
主人公一家の第三の重要人物、三助少年を演じる山東康太郎
は自然体でこざかしい演技をしないところが良い。私がこの映
面で最も感心した台詞は彼の口から発せられるのだ。
「父ちやん川の匂いがする」と三助は父に言い、「いやか?」
と問い返された特、彼は否定するでも肯定するでもなくただ曖
昧に「ん……」と言う。まさに子供ならではのずるさと正直さ!
竹中直人が熱烈な小津安二郎ファンであることはよく知られ
ているが、このシーンは名画の引用のたぐいとはまったくの別
物であるにもかかわらず、子供が大活躍する『生れてはみたけ
れど』『東京の宿』『お早よう』などの小津映画を思い出させ
た。
私は『無能の人』について語る際に分析的なアプローチや複
雑なレトリックを用いる必要性を感じない。公開初日に渋谷の
映面館でこの映画を観た時、予想に反して観客が少ないことに
驚かされた。ヴェネツィア映画祭国際批評家連盟賞受賞という
のは確かに快挙なのだが、作品の面白さをもっと具体的に映画
ファンに伝えてゆく努力が配給側に不足していたのではないだ
ろうか。
了
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冬の映画ノートから2
『シコふんじやった』賛
(未発表 Dec.16.1997)
橋本 了
竹中直人監督の『無能の人』があまりにすばらしいので興奮
して知人に電話した際に、その竹中直人が出演している周防正
行監督の『シコふんじやった』が良いという話を聞かされて不
思議なめぐり合わせを感じた。
周防監督は小津安二郎監督に傾倒していることで有名で、私
が某ビデ才会社の宣伝課にいた頃、小津映画の魅力を徹底的に
解剖するというイベントのホスト役をお願いしたことがある。
その時ちょうど周防氏とテレビの仕事をしていた竹中氏がこの
話を聞き、自分も小津映画狂なのでぜひイベントに参加したい
と特別ゲストを買って出てくれたのだった。謝礼は商品サンプ
ルだけでノーギャラだったように記憶している。さらにイベン
トの当日になってから、もう一人の熱狂的な小津映画ファン、
柄本明氏まで押しかけゲストとして登場して会場は大いにわい
たものだった。が、柄本氏にいたってはサンプルすらプレゼン
トしていない。
さて、知人が熱弁をふるった通り、『シコふんじやった』は
傑作だった。小津映画の構図や手法の再現にこだわっていた前
作『ファンシイダンス』とくらべるとパンなどのカメラ・アク
ションが増え、男優の肌を美しく撮影する戦賂としてソフト・
フォーカスが用いられる(本物の力士を撮影するならこの配慮
は不要だったろう)など、映像のスタイルには大きな変化がみ
られたが、その一方で小津映画の影響はいっそう深化している
ように思われた。
最も良い例は二人の人物が向かい合いで会話するシーンの切
り返しショットの力強さだろう。通常の場合は会話する二人の
かたわらに第三者がいあわせているかのような位置にカメラを
置くのだが、周防監督の場合は小津監督と同様にカメラが人物
の正面にくる。これら二人の監督にとって向かい合った人物が
会話するシーンを作りあげるということは、フィルムをつなぐ
ことによって入と入を出会わせ、彼らの心と心をぶつけ合わせ
ることなのではないだろうか。
『シコふんじやった』の登場人物たちはまるで相撲をとろう
とでもするかのように向かい合ってそれぞれの意見を主張し、
時には言い争う。この映画のテーマは、相撲を通して人々が自
分の気持ちをぶつけ合い、そこから新たな共感が生み出されて
ゆく様を描くことなのだ。
監督自身が書き下ろした脚本は一見したところ軽妙さが売り
物のスポーツ青春恋愛ドラマといった感じだが、実際には恐ろ
しく周到な伏線が張りめぐらされていて、スクリーンには観客
の心の隅でちようど気になりかけていた人物に関する工ピソー
ドがよどみなく流れるように現れてくる。脚本家としても周防
正行は一流の域に達していると言っていい。
たとえば、土俵が女人禁制であることを利用したエピソード
は次のように構成されている。
(1)後で男のふりをして土俵に上がることになるマネージャ
ーの正子は、春雄のケガで我を志れ、〈無意織に〉土俵
を横断してしまう。
(2)その正子がケガをした時、ヒロインの夏子(清水美抄)
も土俵に是を路み入れかけるが、女人禁制のルールを思
い出して立ち止まる。
(3)そしてラスト・シーン、秋乎(本木雅弘)に心をひかれ
はじめた夏子は相撲部の土俵に立って秋乎からシコの踏
み方を習う(秋乎は夏子に自分で相撲をとれと言ったこ
とがある)
このラスト・シーンはその後の恋変関係を暗示しながらも、
あくまで主人公たちを軽やかな〈永遠の遊戯〉の段階にとどめ
ていて実に美しい。私はこのシーンで小津監督の『お早よう』
のラスト間近の佐田啓二と久我美子のやりとりを思い出した。
あまりに卿本の出来が良いので、八年生の青木(竹中直人)
が相撲に勝てるようになった理由をOBに喋らせすぎた部分が
いっそう惜しまれる。ここだけが脚本の唯一の欠点と言えるの
ではないだろうか。逆にだめ押しの会話が効いているのが、秋
平が穴山(柄本明)に練習試合の真相を尋ねるシーンだ。ここ
の呼吸はまさに小津監督の『晩春』で、笠智衆が再婚すると言
ったのは嘘だと明かすあのすばらしいシーンの呼吸ではないか。
『無能の人』の評も『シコふんじやった』の評も、小津映画
を話題にしながらでなければどうしても書き進められなくなっ
てしまった。私の連想が批評として妥当なのかどうかは定かで
ない。ただ、私としては小津映画をすでに確立された権威とし
て利用したとは考えていないし、二人のすぐれた新鋭監督が小
津映画を自分たちの血や肉としながら、日本映画の新たな可能
性をひらきつつあることは確かなのだ。
了
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映画の話法をめぐって
(未発表 Mar.25.1991)
橋本 了
T.カメラ・アングル
ネオレアリズモの手法として素人の起用、即興演出、ロケの
重視などが挙げられるが、ロベルト・ロッセリーニ監督の映画
が目の前にある真実そのものを手づかみにして差し出してくる
かのような印象を与える重要な要因の一つとして、登場人物の
目の高さよりもやや高いところから対象をとらえるハイ・アン
グル・ショットの多用を加えることができるように思う。
登場人物の目の高さ(アイ・レベル)の映像は観客に自分も
ドラマの一員であるかのような印象を抱かせ、フィクションを
成立させる一種の共犯関係へと誘導する力を持っている。そこ
に多少わざとらしくても上手な演技があれば、観客は容易に感
情移入して物語を楽しむだろう。
ハイ・アングル・ショットは人や物が重なりあいにくいので
街頭でのロケや狭い建物の中での撮影に用いられたという面も
あったのだろうが、最大の特色は徹底した客観性にあり、そこ
に映し出されているのが本物の表惰、生身の人間の行動でない
限り力を持たない。いや、むしろだからこそロッセリー二のよ
うに真実に憑かれてきた監督が用いる場合には、無類の力強さ
と美しさを獲得するのだ。
一方、ロー・アングル・ショットを愛用した監督といえば、
まずオーソン・ウェルズの名が思い浮かぶところだろう。小津
映画のカメラは低い位置にはあってもほとんど水平に保たれて
いるので、ロー・アングル・ショットと見なすことはできない。
フランソワ・トリュフォーは広角レンズを使ったウェルズの
ロー・アングル・ショットの与える印象を、劇場の十列目の座
席から舞台を見るときの視覚体験にたとえている。さらに言え
ば、演劇界から映画界に移ってきたウェルズは、観客の目の前
で一回限りの演技を見せている俳優の生の存在感が映画では失
われてしまうことを意識し、広角レンズのゆがみをともなった
特異な構図によって登場人物の存在感を強調しようとしたので
はないだろうか。しかも、ウェルズが愛用したロー・アングル・
ショットは、彼の〈巨体〉をとらえるときに最も効果的なのだ。
ロッセリーニの映画は現実の模倣ではないし、ウェルズの映
画もまた、演劇の模倣ではない。
【参考文献】
「シネアスト2 オーソン・ウェルズ」(青土社刊)より
フランソワ・トリュフオー「ウェルズとバザン」
(山田博志訳)
U.移動撮影、パン、ズーム
カメラがクレーンや台車の上で移動しているか、パンしてい
るか、ズームしているかで絶えず運動し、自らの存在を主張し
続けている映像。『暗殺のオペラ』の前半と『一九○○年』に
魅せられて以来、ワーグナーの無限旋律ばりの無定型で過剰な
カメラ・ワークに身をひたしたいと感じるときに、私はベルナ
ルド・ベルトルッチ監督の映画を観に出かける。
―(誰から逃れようとしたのか正確には思い出せないが)何者
かの手から逃れようと必死で走り続ける青年。カメラは回転
運動によって彼を追うが、不思議なことに、その姿は遠ざか
りも近づさもしない。目に見えない迷宮に捕えられたかのよ
うに、彼は大きな円を描いて走り続けるばかりなのだ……
(『暗殺のオペラ』)
ベルトルッチの映画の中で最も魅力的なシーンは、その表現
がサイレント映画に最も近づいた瞬間に生み出される。『ラス
トタンゴ・イン・パリ』が一時間四十分のサイレント映画とし
て完成されていたらどれほど完璧で、今日の観客にとっても新
鮮な作品となっていたことだろう。
最新作『シェルタリング・スカイ』は凝っているわりに一本
調子なカメラ・ワークが不満を残すが、彼の映画に見られがち
な台詞の弱さはあまり感じられない。アメリカ人のヒロインは
クライマックスで英語もフランス語も通じないアラブ人社会に
入り込み、無言劇を演じるように強いられるのだ。
我々の目はズーム・レンズの機能を備えていないので、ズー
ムには人工的で不自然な印象がつきまとう。しかし、この特性
のおかげで、近づくのが困難なものにあえて近づこうとする願
望をズーム・インに託すこともできるし、対象からの距離感を
ズーム・アウトによって強調することもできる。
私はこうしたことをロバート・アルトマン監督の『フール・
フォア・ラブ』によって教えられた。特に、目の前にいるとば
かり思っていた人物が不意に遠ざかってゆくとさの喪失感(た
とえばラスト・シーンでハリー・ディーン・スタントンが燃え
さかるキャンピングカーの中に姿を消した後のズーム・アウト)
は、禁じられた欲望と失望感が交錯するこの悲喜劇の基調とな
っている。
ロバ一ト・アルトマンは私の知る中で最もすぐれたズームの
使い手だ。全体から細部ヘ、紬部から全体へとなめらかに移行
し、持続したショットの中にあらゆるものを詰め込もうとする
カメラ! ワン・ショットの中にクロース・アツプからロング・
ショットまでを共存させるその手法は、かつてD・W・グリフ
ィスが愛用したアイリス・インやアイリス・アウト(円形のマ
スクの大きさを変化させる手法)を思い出させる。
映画の話法として最も破格なパンは、溝ロ健二監督の『山椒
大夫』のラストで行なわれる。二年ほど前にもある雑誌に書い
たことだが、この考えは今でも変わっていない。原作の小説で
おなじみの奇跡が起こるのは今か今かと待ち受けている観客の
目を主人公たちから引き離し、〈物語の外〉にひろがる自然(
海)ヘと導いてゆくパン。
この映画のラスト・シーンについては溝口健二もかなり頭を
悩ませたらしい。脚本を担当した依田義賢の回想録の中に興味
深い文章があるので引用させていただくことにする。
ママ
「わたしなどが、あの説話の、仏像を以て撫でると、焼け傷が
消えたり、盲いた眼が開いたりするのは、あまりやりたくない
と言った時も溝さんは、そうしてもよい(※奇跡が起こっても
よい)とさえ言いました。以前の溝さんなら「そんな不合理な
非科学的なことはわたくしはやれません」と言った筈のところ
です。(中略)前にも言いましたように溝さんは、眼が開いて
もいいいよと言ったのです。ですが、
「それを納得させるように、描けますか。描ける自信があれ
ば結構ですよ」と言って、遂に、とらなかったのです」
現代のような時代には、形式からアプローチすることによっ
て種々の失われた感情を甦らせる試みも必要だが、内容をとも
なわない技術の誇示にとどまるならば、結局のところそれは何
ももたらさないだろう。
私が最も好きな移動撮影はジョン・フォード監督の『駅馬車』
のラスト近くで行なわれるごくささやかなものだ。決闘から戻
ったリンゴ・キッド(ジョン・ウェイン)が恋人のダラス(ク
レア・トレヴァー)に歩み寄ろうとすると、カメラが〈彼の気
持ちになって〉一足先に彼女に近づいてゆく……。
華麗なカメラ・ワークを楽しむのも悪くないが、開高健の小
説(『夏の闇』)の一節によれば、「うまいパンさえあればぶ
どう酒にさかなはいらない」のだそうである。
了
【参考文献】
依田義賢著『薄口健二の人と芸術』(田畑書店刊)
引用部分 270p〜271p、277p
※注は橋本による
後期評論集冒頭へ
カルロス・ダレッシオ インタビュー
(初出:NEW FLIX 1992年1月号)
橋本 了
「モデラート・カンタービレ」などでヌーヴォ・ロマンの代
表的な作家として知られ、近年では「愛人」が日本でもベスト
セラーとなったマルグリット・デュラスには映画監督というも
う一つの顔がある。彼女はアラン・レネ監督の『二十四時間の
情事』(一九五八年)のシナリオを執筆したのがきっかけで映
画への関心を深めてゆき、一九六六年に監督第一作『ラ・ミュ
ージカ』を発表して以来、現在までに十五本の映画を監督して
いるのだ。
現代フランス文学を代表する作家ならではの構成と台詞、音
楽や効果音が時として映像以上の表現力を発揮する独自の手法
に対する評価は高いが、それらの作品の多くは率直に言って商
業性が乏しく、アテネ・フランセなどでの特別上映を除けば日
本ではほとんど公開されていない。
その中で唯一の例外として劇場公開され、ビデオまで発売さ
れているのが『インディア・ソング』である。決してわかりや
すいとは言い難い作品だが、不安と狂気と愛と死と忘却の静劇
が観る者の心をとらえて離さない。特に同名のテーマ曲「イン
ディア・ソング」の美しさは特筆に値する、演奏が終わったと
たんにもう一度始めから聴さたくなってしまう、まるで麻薬の
ような魅力を持っているのだ。
先頃この曲の作曲者、カルロス・ダレッシオが来日してコン
サートを開いた。彼は『インディア・ソング』を始めとする六
本のマルグリット・デュラス監督作品の他にも、ダニエル・シ
ュミット監督の『ヘカテ』、ジャン=ピエール・ジェネとマル
ク・カロが共同で監督した『デリカテッセン』(十一月下句公
開予定)などの映画音楽を手がけている。
−「インディア・ソング」という曲の映画音楽としての最大
の特色は、この曲が単なる伴奏音楽ではなく、俳優によ
って肉体を与えられた主人公たちと同等の重要性を持っ
た存在となり得ていることだと思いますが……
カルロス・ダレッシオ(以下D)
その点についてはマルグリット・デュラスの音楽の用いか
たによるところが大さいと思います。テキストが沈黙して語
らない部分を表現し、物語を完成する、そんな役割を音楽に
与えてくれたのです」
‐「インデイア・ソング」を作曲されたのは映画制作のどの
段階だったのでしようか?
D「インデイア・ソング」を映画化する計画は最初からあった
のですが、資金が不足していたためにまずラジオ・ドラマ
として制作することになりました。このラジオ・ドラマの
権利をある映画会杜が買い取ってくれて、映画化が実現し
たのです。
(注/ガリマール社から出版された『インディア・ソング』
のテキストには、一九七二年の夏にロンドンのナショナル・
シアターの演出家、ピーター・ホールの依頼によって書か
れたと記されている。ラジオ・ドラマ、映画の制作は一九
七四年である。)
−ラジオ・ドラマの声優も映画と同じだったのですか?
D ええ。デルフイーヌ・セイリグやマチュー・カリエール等
です。
撮影は〈音楽が何よりもまず最初にある〉とでも形容した
くなるような方法ですすめられました。二台のカセット・
デッキから音楽と台詞が流され、俳優たちは口を動かさず
に演技をするわけです。
−台詞はラジオ・ドラマの時のままだったのですか?
D いいえ。デュラスは完璧をめざして台詞に手を加え続ける
タイプなのです。
−彼女とはその後も非常に親密な協同作業を続けてこられた
わけですが、最初に知り合ったときのいきさつをお話し願
えますか?
D TSEという劇団がグループ演出した『リュクス(LUXE)』
という舞台の音楽を私が担当したのですが、ある日ラウル
という知り合いのジャーナリストがデュラスを連れて観に
来てくれ、我々を引さ合わせてくれたのです。舞台はひど
いが音楽はすばらしいというのが彼女の感想でした。
それから私たちは三人で夕食に出かけたのですが、当時デ
ュラスは撮影を終えたばかりの『ガンジスの女』という作
品の中でジェラール・ドパルデューが口ずさむ「ブルー・
ムーン」のことで頭を痛めていました。この曲の使用料が
莫大で映画の総子算よりも高くなってしまうというのです。
(注/デュラスの映画は彼女自身がプロデュースし、超低予
算で制作されている。)
それなら私がさらに美しいメロデイを作ってみようという
話になりました。口の動きはごまかしきれませんから歌詞
はそのままでね。知り合った翌日から彼女のために仕事を
していたわけです。
−その曲は『ガンジスの女』で使われたのですね。
D ええ。そして、実はそのメロデイが「インディア・ソング」
の冒頭の部分になったのです。
−インディア・ソング」にはデュラスが詞を書いてジャンヌ・
モローが歌ったレコードがありますね。
D 試写を観にきたジャンヌ・モローがこの曲を気に入ってく
れて、自分のレパートリーとしてとりあげたいからぜひ詞
を書いて欲しいとデュラスに頼んだのです。
私はこの映画のサントラをレコード化したいと思っていた
のですが、どうも流行より少し先にいるたちのようで、当
時この曲をレコードにするにはジャンヌ・モローに唄って
もらうしか方法がありませんでした。サントラがレコード
になったのはそれから十年がすぎてからです。
−ダレッシオさんはアルゼンチンのご出身ということですが、
子供の頃から音楽はお好きだったのですか。
D ええ。両親は私と同様アルゼンチン生まれですが、祖父母
の内三人までがイタリア生まれなのです。イタリア糸家族
の常で、誰もがなにかしら楽器を弾くことがでさるアマチ
ュア音楽一家でした。
‐デュラスも幼い頃、母親がヴェトナムの映画館で無声映画
のピアノ伴奏をしていたと回想していますから、何か共通
するものを感じますね。
D ええ。デュラス自身はピアノを弾くわけではありませんが、
耳は非常に鋭敏なんですよ。『ナタリー・グランジェ(女
の館)』という自分の監督作品のテーマ曲を作曲したくら
いですから。
了
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『つむじ風』−『インディア・ソング』−『小さな三つの音』
偶然と連想による音楽エッセイ
橋本 了
(初出不明 1991.8.27)
『つむじ風』と題されたジャンヌ・モローのシャンソン集が
発売されるという広告を目にしてちよっとした気まぐれから曲
目をチェックしてみて驚いた。アルバム・タイトルとなった『
突然炎のごとく』の挿入歌はもちろん、マルグリット・デュラ
スが監督した傑作『インディア・ソング』のテーマ曲にデュラ
ス自身が作詞したあの名曲『インディア・ソング』が収録され
ているではないか!(残念ながら日本盤につけられた歌詞の対
訳は不正確で意味が通らない。ある歌のことを擬人化して〈お
前〉と呼びかけているのに、恋人のことだと思い込んで訳そう
としているからだ)
映画の方の『インディア・ソング』のヒロインは『去年マリ
エンバートで』のデルフィーヌ・セーリグで、ジャンヌ・モロ
ーは出演していない。この曲も歌われるのではなく主にピアノ・
ソロで繰り返されるのだが、デュラス特有の反復と省略に富ん
だ台詞や、極端に動きが少ないが強烈な呪縛力を持つ映像と相
まって、一度耳にしたら忘れようのない魅力を持っている。
この映画でヒロインに恋する主人公を演じていたのは『好奇
心』や『エレンディラ』の個性派ミシェル・ロンスダールで、
女性に触れようともしないマザコンの中年男役はまさにはまり
役だった。美少年趣味の司祭やロリコンの政治家などを演じさ
せて彼ほど似合う俳優はない。実生活の方は一体どうなのだろ
う?
アルバム『つむじ風』の発売日だった八月二十五日に私は六
本木のWAVEに出かけ、エリック・ロメールの『獅手座』を
観てからCDを買ったのだが、ついでに四階の書籍売場をのぞ
いてみてまたまた驚かされた。
『インディア・ソング』のサントラ盤の並びに、作曲者のカ
ルロス・ダレッシオ(彼はダニエル・シュミット監督の『ヘカ
テ』の音楽も手がけている)が九月末に来日し、ピーター・グ
リーナウェイ作品の音楽で最近注目されているマイケル・ナイ
マンとジョイント・コンサートを開くというチラシが置かれて
いたのだ。
このチラシによると、カルロス・ダレッシオはCM音楽など
の商業的な仕事をこなす一方で、六十年代からミニマル・ミュ
ージック的な手法による作曲を試みていたようだ。『インディ
ア・ソング』も、麻薬のような作用を持つ主題を反復すること
を重視した一種のミニマル・ミュージックなのかもしれない。
さて、『つむじ風』はジャン・ルノワール監督の名作『フレ
ンチ・カンカン』の挿入歌『モンマルトルの丘』で有名なコラ
・ヴォケールも取り上げている。私が持っている彼女の作品集
『モンマルトルの丘』(発売元、東芝EMI)にはこれらの曲
の他にもマルセル・カルネ監督の『悪魔が夜来る』の挿入歌『
悪魔と奇蹟』(この曲の場合、映画に収録されたのは彼女の歌
ったものではない)やアンリ・コルピ監督の『かくも長き不在』
の挿入歌『小さな三つの音』が収録されていて、選曲も演奏内
容もすばらしい。
『かくも長き不在』はマルグリット・デュラスがアラン・レ
ネ監督の『二十四時間の情事』に続いて脚本を担当した作品で、
『小さな三つの音』はヒロイン(アリダ・ヴァリ)が記憶を失
った夫(ジョルジュ・ウィルソン)とダンスをする忘れ難いシ
ーンでジューク・ボックスから流れてくる曲である。作曲はト
リュフオー作品などでおなじみのジョルジュ・ドルリューだが、
作詞はなんと監督のアンリ・コルピが担当している。アラン・
レネ作品やチャップリンの『ニューヨークの王様』などの編集
担当として名高いコルピだが、映画音楽に関する有名な研究書
まで出版している才人であり、監督作品が『かくも長さ不在』
の他には『地底人間の謎』しか日本公開されていないのは残念
だ。『コディーヌ』という作品の評価が高いようだが、劇場公
開は無理でもせめてビデオが発売されないものだろうか?
監督としての霊感には少々欠けていたとしても、彼の作品は
どれも良心的で良質であるに違いないのだ。
了
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