初期映画評論集 

1.『エレンディラ』
2.『ケレル(ブレストの乱暴者)』
3.『白い町で』(監督:アラン・タネール)小論
4.『パリ、テキサス』短評
5.『話の話』−アニメーション手法による交響詩
6.M.デュラス映画祭と、シングル盤「インディア・ソング」
7.狂気と欲望の饗宴 『フール・フォア・ラブ』
8.鏡の魅惑、冥界の映像 『人生の幻影』(ダニエル・シュミット)
9.『トスカの接吻』(監督:ダニエル・シュミット)
10.ふたつのベトナム戦争映画 『ランボーU』と『バーディ』
11.『ストレンジャー・ザン・パラダイス』小論
12.『ダウン・バイ・ロー』 醒めた印象の奥で
13.『シテール島への船出』
14.『マルチニックの少年』レビュー
15.成瀬巳喜男特集
16.『未来は女のものである』(監督:マルコ・フェレーリ)
17.『ある女の存在証明』(監督:ミケランジェロ・アントニオーニ)
18.極上の本格派ミステリーの味 『情婦』(監督:ビリー・ワイルダー)
19.『サクリファイス』(監督:アンドレイ・タルコフスキー)
20.「鉄腕アトム」はヌーヴェル・ヴァーグ
21.「ラマン」ゴンクール賞受賞によせて −沈黙の映像、忘却の文学
22.映像化された時間感覚 『エル・スール』(監督:ビクトル・エリセ)


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   『エレンディラ』評論
                        橋本 了
     (初出:『エレンディラ』パンフレット
          この文章が私の処女映画評である)
 砂漠を渡る風に乗った、もの憂く、美しいスペイン語のモノ
ローグ −スクリーンには荒れ地に並ぶ二つの墓− と突然、
入墨の蝶が浴槽から浮かびあがってくる… 現実と幻想の渾然
と融け合ったガルシア=マルケスの世界が、こうして幕を開け
る。
 華美な装飾に満ちた室内をのぞき込む駝鳥、謎の政治家の手
から舞いあがる紙の蝶、売られたエレンディラの眼前をよぎる
パウル・クレー風の魚… ブラジルのチネ・ノボ(ニュー・シ
ネマ)を代表する監督の一人であるリュイ・グェッラは、確か
な手腕を発揮して、数々の幻想を独特な色調の画面に織り込ん
でゆく。明快でリアリスティックなスタイルが逆に、我々の現
実感覚の息の根を止めるのに力を貸す。
 花や薬草の濃厚な匂いのたちこめるテントに、ユリシスがオ
レンジの香とともに現れる時まで、エレンディラはこのまどろ
みの中に置かれており、何ものも決して彼女を傷つけることは
ない。クラウディア・オハナは若々しく新鮮で、万人向けの美
人女優にはない素材的な魅力にあふれている。
 このドラマを独特の詩情をたたえたファンタジーとしている
のは、ラテン・アメリカン特有の感性と、観る者のイメージ力
を巧みに活性化する演出プランの確かさである。イレーネ・パ
パスは演技の場として最良のものを与えられた。彼女はお伽噺
の悪役のメイクアップによって限りない自由を約束され、誇張
した表現によってますます豊かになってゆく。寝言を言う場面
は特にすばらしい。ヴィレッジ・ボイスのアンリック・フェル
ナンドはその声を地中海の伝統の深みから湧き出る泉と称え、
彼女のスペイン語のミステリアスなアクセントや、ギリシャ語
とスペイン語の音韻的な一致が、彼女をネイティブにも外国人
にも見せている点などを指摘している。ユリシスのテリトリー
である海は、かつて船乗りを殺したという老婆の内部にも存在
したのである。
 大詰めではついにギリシア劇調の祭壇がしつらえられる。殺
人は三段階で進行し、老婆の驚くべき生命力はもっとも直接的
な手段をユリシスにとらせずにはおかない。彼女が息絶えると
始めて風の音が途絶え、静かに波の音が聞こえる。だが間もな
く新しい風が、冒頭と同様のモノローグとともに吹き始める…
 『エレンディラ』はイメージのこの大きな振幅の上に成り立
った、伝説性豊かな寓話なのだ。要は目を凝らし耳を澄ませる
ことだ。映像は示唆に富んでいるが、理知で読み解く必要など
どこにもないのだから。
                           了
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   光輝に満ちた暗黒
   −『ブレストの乱暴者』
     (ジュネ/ファスビンダー)
                        橋本 了
               (初出:流行通信'86年7月号)
 フランスの作家ジャン・ジュネが4月15日、75歳で死去した。
犯罪者、泥棒、男色家+詩人といった形容が彼を紹介する文章
にはつきまとうが、それらは彼の創作活動の、重要ではあって
も不完全な一側面を示しているにすぎない。彼は何よりもまず
論理と価値観の倒錯者なのだ。彼の作品は<卑俗だが>高貴な
のではなく、<卑俗だから>高貴さに満ちている。
 R・W・ファスビンダーの遺作『Querelle(ケレル)』('82
年)はジュネの4番目の小説『ブレストの乱暴者』('47年)を
原作としている。登場人物の年齢の変更、ストーリーの簡略化
などが行なわれているが、ほぼ忠実な映画化と言っていい。ナ
レーションとサイレント映画を思わせる字幕の使用によって、
言葉に映像と並ぶ比重を与えている。
 水兵のケレル(ブラッド・デイビス)は愛し合うほど(つま
り憎み合うほど)よく似た兄ロべ−ル(ハンノ・ペッシュル)
の住む港町ブレストに着く。彼はロべ−ルの情婦リジアーヌ(
ジャンヌ・モロー)が経営する淫売宿で彼女の夫ノノ(ギュン
ター・カウフマン)と阿片の取り引きを行ない、密輸の手先と
して利用した同僚のヴィックを殺害した後、リジアーヌに近づ
くという名目でノノと肉体的関係を結ぶ。一方、内向的なホモ
セクシュアルの士官スブロン(フランコ・ネロ)はケレルに〈
母性的な〉愛情を抱いている。
 ファスビンダーは原作では夜と霧に包まれていたブレストを、
タ暮れの赤みがかった黄金色の中に置いた。オールセットの背
景(装置はロルフ・ツェーエトバウアー)や人物を染めあげる
数々の彩色照明、傾きつづけなから、しかし決して沈むことの
ない人造の太陽……。人間の顔を最も見分けにくい時刻にあっ
て、似ているのはケレルとロベ−ルばかりではない。鏡や変装
のトリックを用いながら、ファスビンダーは理想的な(自己の)
存在分析を進めてゆく。
 原作に加えられた最大の改変はリジアーヌがラスト近くで口
にする台詞だろう。
「ロベールには弟などいない。私は間違っていた」と彼女は言
う。この種の《ドラマ崩し》自体は別に珍しいものではない。
しかし、『ケレル』の観客は彼女の言葉を聞いた瞬間、自分が
記憶障害を起こしたかのように感じ、この映画を観ていたのか
どうかをさえ疑うのだ。
 『ケレル』はスクリーンに投影され、我々の視線をおびやか
し続けなければならない。その時こそこの作品は真の欠落(暗
黒)として完成し、輝きを放つだろう。
                           了

付記:この記事を発表した当時、『ケレル』は日本未公開だっ
   た。その後、この記事がきっかけとなって公開が実現し
   た。
   さらに、記事を読み、公開に向けて活動したのが、筆者
   がこの評を執筆するさい念頭に置いていた《ドラマ崩し》
   の巨匠、寺山修司氏(最後の方の一節は氏へのオマージ
   ュのつもりだった)と深い関わりのあった方々(九條今
   日子氏他)であったことを、書き手として最大級の喜び
   として、また、最高の名誉として、書き留めておきたい
   と思う。
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   『白い町で』小論
   (監督:アラン・タネール)
                        橋本 了
         (初出:キネマ旬報 1986年2月上旬号)
 アラン・タネール監督の『白い町で』は、徹底した内省から
生み出された、現実と幻想の美的構築物だと言うことができる。
舞台として選ばれた透明で強固なリスボンの街の存在感がその
まま作品の特質を言い尽くす。ローザという女性はこの街の擬
人化に他ならない。彼女によって光線は室内に導かれ、その出
発とともに、男のまわりを闇が包み込んでゆく。
 ポールという主人公は映画のヒーローよりも、むしろ近(現)
代文学の作中人物に近い。彼は行為者ではなく、思索者である
ことの方を選ぶ。作家としての生は、すべてが終った瞬間から
始まる。彼は必然的に時の流れからとり残されなければならな
い。過去に従属するためではなく、個々の記憶の断片がもつマ
チエールから、新しい話法上の形式を造り出すために。
 彼が8ミリ・フィルム・カメラを廻すのは第3の眼で〈積極
的に〉時空を触知するためであり、我々はその映像にある時は
作家のモノローグを聞き、ある時は共犯を誘おうとする親密な
呼びかけを聞き、またある時は一人の旅人として海や街並のフ
ォルムと光線の中をさまようだろう。
 そして、観られることを前提とした35ミリ・フィルムの映
像が8ミリの映像と出会う時、そこには驚くべきダイナミズム
が生成される。撮影するという行為への前進を表すラストシー
ンは、タネールが選択した様式の完成と美学の勝利とを同時に
示している。
                           了
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   『パリ、テキサス』短評
                        橋本 了
         (初出:キネマ旬報 1985年9月上旬号)
 ヴィム・ヴェンダース監督の’84年カンヌ・グランプリ受賞
作「パリ、テキサス」。
 『さすらい』('76)をはじめとする一連のロード・ムービー
で彼のファンになった人々は、この作品に対して大きなとまど
いを覚えるに違いない。テキサスの荒地からロサンゼルスヘ移
動する際の色彩と構図の審美的な変化、独自のユーモアと完璧
な技術に支えられた路上シーンなど、ヴュンダースの個性と見
なされてきたスタイルは今回もいたるところで発揮されている
にもかかわらず、作品全体のダイナミズムは根底から変化して
いる。
 観客は巧妙な語り口と美しい台詞によって常に前方へと導か
れ、叙唱(レチタティーボ)から詠唱(アリア)へと高まって
ゆくナスターシャ・キンスキーのモノローグを聴き、少年と母
親が4年振りに対面するシーンで統合される物語性と映像美に
陶酔する。
 『さすらい』で見られたような、各シークエンスの親和作用
から物語が誕生する瞬間の力強さはここにはない。作者の主眼
はすでに明確な旋律線の持続と展開とに移っている。個々の映
像は独立を保ったまま地下の水脈を通じて<象徴的な>関係を結
ぶ代りに、構成要素の一つとして物語にとり込まれてゆく。
 『パリ、テキサス』を完全無欠な作品と呼ぶことは不可能だ
ろう。題名と同じ名の土地は話法上は重要な役割を担いながら、
映像表現はついにそこへ収束しない。主人公トラヴィスが旅立
つラストは、直前の対面シーンが長廻しでインサートカットを
許さなかったために弱められている。しかし、こうした欠点に
対して過敏になる必要は全くない。この映画は確かに美しく、
ヴェンダースは自ら語っている通り〈その映像言語を、そして
おそらくは自分自身を感動にむかって開いた〉ばかりなのであ
る。
                           了
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    アニメーション手法による交響詩
     −ユーリ・ノルシュテイン『話の話』
                        橋本 了
             (初出:流行通信1986年3月号)
 三百人劇場で行われたソビエト映画祭で注目を集めたアニメ
ーション作家ユーリ・ノルシュテインの作品集がビデオで発売
される(レーザーディスクのみ、2月25日発売予定)。
 収録された4作品はどれも珠玉の名品だが、中でも最新作『
話の話』('79年)は、この作家の原体験に基づいた映像にそ
の創作活動のすべてが集約された傑作となっている。
 一歩一歩足跡を刻みつけてゆくようなバッハの変ホ短調のプ
レリュードとともに、画面には冬の日の様々な光景が現れる。
それらは現在のソビエトの(それと同時に童話の世界の)もの
なのだが、主人公である狼の子供が動き回るにつれて、その下
に堆積された歴史的な記憶が甦ってくる。−'30年代のタンゴ
『疲れた太陽』にあわせて踊る若者達。ほどなく彼らは戦場へ
と赴く。輸送列車の音……。
 交響曲をさらに凝縮した交響詩という形式がある。『話の話』
を音楽に喩えるなら、まさしくこれに当たるだろう。暖炉で母
親と幼児を暖め、狼の子供に焼きたてのジャガイモを与えた火
が、次の瞬間には戦火となり、終戦の日の花火に変わる。そし
て、絶えず循環を続ける水のイメージが、時には雨、特には雪
としてそれらによりそう。
 狼の子供は詩人の書斎から光り輝く紙を盗む。しかし、車の
洪水を逃れて彼が林の中に入った途端、その紙は泣き叫ぶ赤ん
坊に変わってしまう。幻想と現実感のなんという見事な交錯!
 プレリュードに代わってフーガが始まると、それまでのショ
ットが鮮やかにフラッシュバックされてゆく。静寂の中に流れ
る、祈りのような音楽の高まり……。生活者としての視線と峻
厳な手法の探求への欲求が共存するバッハの創作姿勢は、その
ままノルシュテインの場合にも当てはまる。
                           了
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 M.デュラス映画特集と、シングル盤
   インディア・ソング
     (初出:流行通信 1985年7月号)
                橋本 了
 アテネ・フランセで、フランスの小説家、兼映画監督マルグ
リット・デュラスの特集が、6月21日からスタートする。上
映作品品はジャンヌ・モロー、ルチア・ボゼー主演の『ナタリ
ー・グランジェ』('72年)、ジェラール・ドパルデユーと作
者自身がナレーターとして登場する「トラック」('77年)な
どをはじめとする7本である。また、この特集のプレミア・シ
ョーとして、デルフィーヌ・セイリグ、ミシェル・ロンスダー
ル主演の『インディア・ソング」('74年)が、5月29日に
草月ホールで上映される。この作品は今秋、俳優座シネマテン
でロードショー公開の予定であるという。
 ジャンヌ・モローはデルフィーヌ・セイリグとともにデュラ
スの映画の重要な出演者だが、彼女が『インディア・ソング』
のテーマ曲を歌ったシングル盤が、フランスで発売されている。
作曲者はアルゼンチン生れのカルロス・ダレッシオ。彼はダニ
エル・シュミット監督の『へ力テ』の音楽を担当した人物でも
ある。ゆるやかなピアノの旋律に乗った歌声とともに、1930年
代の駐印フランス大使館を舞台にした、忘却と追憶、癒し難い
倦怠と《明晰な狂気》の物語が甦ってくる。「ブルー・ムーン」
のコード進行をもとにしたというこの曲に魅せられたミュージ
シャンは多く、ニューヨークのジャズ・プレイヤーや、クレプ
スキュール・レーベル(ベルギー)のリチャード・ジョブソン
などが、それぞれのスタイルの演奏を残している。
 シングル盤の嚢面には、モローとデュラスが台詞を語る声が
入っている。
 −あの光線は?
 −モンスーンよ。べンガルに吹いているの。
 −ざわめくような音……
 −ガンジス河だわ。
 −花のような匂いがするのは?
 −レプラ(癩病)よ。

                           了
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    狂気と欲望の饗宴
      −『フール・フォア・ラブ』
                        橋本 了
             (初出:流行通信'86年8月号)
 ニューメキシコの広大な荒野の風景。程なくカメラはゆるや
かに右ヘパンし、さびれたモーテルの一隅を延々とズームアッ
プする。屑鉄同然のキャンピング・カーから姿を現わし、肘か
け椅子に坐ってハーモニカを吹く男……。ファースト・シーン
が端的に示している通り、ロバート・アルトマン監督のフール・
フォア・ラフ』はパンとズームの映画だ。観客はまずこのカメ
ラ・ワークに対して態度を決定しなければならない。
 ズームは人間の実際の視覚には存在しないという批判がある。
しかし、それを逆に考えれば、この技法は非現実的な出来車や
感賞を表現するのに適していることになる。ルイス・ブニュエ
ルは『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』('72)などの作品で、
移動ショットとズームの組合わせによって幻夢的な映像を生み
出してみせた。『フール・フォア・ラブ』の場合には、ズーム
は到達し得ない対象に近づこうとする登場人物達の願望と完全
に一致する。望遠レンズ特有の粒子の荒れた映像は、失われた
夢そのもののような感触を持っている。そして、それが不意に
(ズーム・アウトによって)遠のいてゆく瞬間の喪失感こそ、
この映画の基調をなすと言うべきものだろう。
 出演者の中では父親役のハリー・ディーン・スタントンが特
に素晴らしい。愛し合うと同時に憎み合う母親違いの兄妹(サ
ム・シェパード、キム・べイシンジャー)に、この男は半ば陶
然とした眼差しを注ぐ。恐らく彼はかつての二重生活を、子供
達の愛憎の均衡の中に見出している。シェパードとべイシンジ
ャーの演技にはやや力みが感じられるが、自分の演技を意識す
ることでかえってそれに足をとられるキャラクターを演してい
ることを考えれば、それ程悪いものではない。
 アルトマン監督はシェパードの創作の特色として、観客に個
別の体験に基づく様々な感興をもたらす点を挙げている。もし
今回の脚本が血縁の有無をめぐるサスペンスとして収束されて
いたなら、そのような多面性は決して生じ得なかったろう。動
かし難い<事実>などが存在して、種明かしの回想シーンを待
っているような映画ほどつまらないものは無い。『フール・フ
ォア・ラブ』にも回想シーンは登場するが、巧みな二役やナレ
ーションと映像のあいだのずれによって、登場人物の<現在の
感情>への関心が保たれている。
 アルトマンはピエール・ミニョー(撮影)という最良のパー
トナーを得て、狂気と欲望の饗宴を映画的快感に満ちたブラッ
ク・コメディとして撮りあげた。かつての改革者は、今まさに
円熟期にいる。
                           了
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   鏡の魅惑、冥界の映像
    −『人生の幻影』(ダニエル・シュミット)
                        橋本 了
             (初出:流行通信1986年9月号)
 ダグラス・サーク、本名ハンス・デトレフ・ジーレク、19世
紀末に(ハリウッドの記録では1900年生まれ)デンマークのス
カーゲンに生まれる。ラィプツィヒの響劇場で舞台演出を手が
けた後、ウーファ社で映画監督として活動する。'36年にユダヤ
系の夫人ヒルデをともなってドイツを脱出。'43年の『Hitler's 
Madman』以来'59年の『悲しみは空の彼方に』を最後に病気を理
由として引退しヨーロッパへ去るまで、一連の傑作〈メロドラ
マ〉群をハリウッドに提供する。現在はスイスの保養地ルガノ
に在住。(※`86年当時)
 ダニエル・シュミットが自らサークに対して行なったインタ
ビューと代表作の引用によって構成した『人生の幻影』('84年
作品。題名は『悲しみは…』のフランス公開時の題名)は、観
終った後まずこの監督の作品に触れ、彼が語った〃映画術〃の
奥儀を自分の眼で確かめたいという熱望をかきたてる点で、作
家に関するフィルムとして最良のものだと言うことができる。
それは決してインタビューの撮影が何の演出もなく、ただ漫然
と行なわれたということではない。一例を挙げるなら、カメラ
はサークとヒルデ夫人を最初からツー・ショットでとらえるの
ではなしに、それぞれが個として充分に語るのを待ってから、
長い時間をかけてお互いに絆を深めてきた彼らをワン・フレー
ムの中におさめている。
 インタビューはハッピー・エンドとは何かという質問から始
まる。サークは現実を直視した上での想像力の優位から円環を
モデルとした独自の死生観へと、東洋や古代の神秘的な哲学に
も精通した賢者のように語りを進めてゆく。重病人の寓話、先
送りされる死、アッシリアのレリーフ……。
 物語から切り離して引用されることによって、サークの映像
はマニエリスム的な側面をより明らかにする。登場人物達はま
さにクライマックスで審美的な効果の中に(人生の閉じられた
円環が姿をあらわすのはその瞬間なのだが)埋没してしまうか
のようだ。しかし、彼らはその映像美−サークの言う深さ−を
介して復活を成し遂げる。カタストロフを前にしての鏡の作用
や、まるで冥府から語りかけてくるかのようなガラス越しショ
ットなどに関しては、未公開作を含めた上映会が行なわれる機
会を待って研究されなくてはならないだろう。
 インタビューの最後でサークはゲーテの『至福なる憧憬』を
朗読する。〃死して生きよ〃それがこの偉大な監督の一貫した
メッセージなのだ。
                           了
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   『トスカの接吻』
     −闇の中の闇、そして光の中の光
                        橋本 了
              (初出:流行通信'86年1月号)
 ミラノに〈ヴェルディ館〉と呼ばれるネオ・ルネサンス様式
の建物がある。もちろん最初で唯一の個人保有者は「アイーダ」
や「オテロ」で知られたオペラ作者その人だが、当初からこれ
は私邸として建てられたものではない。直系の相続人がいなか
った彼は、最晩年をむかえて音楽家達、特にオペラ関係者達の
隠棲所を創設しようと考えたのだった。彼は慈善家と見られる
のを嫌い、生前は入居を許そうとはしなかったが(といっても
その死は2年後にせまっていた)、遺言によって遺体は館の地
下室に埋葬された。
 '62年に彼の全著作権は期限切れとなり、版権収入で支えられ
てきた〈ヴェルディ館〉の運営は次第に困難なものとなってい
る。'83年現在で入居者は約65名。大半は80〜90代の老人達で、
'30年代を飾ったスターの名前も含まれている。寄付と歌手達に
よるチャリティー活動のおかげで一応は維持されているものの、
将来の見通しは未だに定かでないと言う。
 ダニエル・シュミット監督の『トスカの接吻』は、死がすで
に日常と同化した、この奇妙な聖域で暮す人々の姿を描いてい
る(シネ・ヴィヴァンで近日公開予定)。そのスタイルをあえ
てセミ・ドキュメンタリ−と呼んだところで、それは何の意味
も持たない。かつて観客に虚構の姿をさらすことで生き、引退
後の数十年を空想によって過ごしてきた人々にとって、そんな
名称が何だろう? 重要なのはフィクションと現実の狭間とい
う、まさに彼らが生きてきた地点にカメラが置かれ、一連の映
像が遺されたということなのだ。
 色調にしろ演技にしろコントラストを与えるのは演出家の基
本的な作業だが、この作品はそれとは全く別の次元で成立して
いる。薄暗い物置の隅で次々と衣裳を代えながら昔を語る老歌
手、そして彼の身振りが作り出すさらに深い闇…… 16mmから
35mmにブロウアップされたフィルムのフォルムは、崩壊する寸
前のところで逆にイメージを喚起する。
 『トスカの接吻』の映像は美しい。そこには最小限の照明と
最小限の映像的ダイナミズムによって、老人達の微細な感情の
律動が、生命そのものの燃焼として息づいている。
                           了

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   ふたつのベトナム戦争映画
  −『ランボーU』と『バーディ』
    (初出:流行通信 1985年10月号)
                   橋本 了
 スタローン主演のシミュレーション戦闘ゲーム映画『ランボ
ーU』が公開された。弾丸は飛び交い、砲弾は炸裂するが、ヒ
ーローは傷ひとつ負うことなく生還する。ベトナム人やソ連兵
など人の数に入っていない。アメリカ陸・海・空軍協力、レー
ガン大統領推薦作品である。本国では公開6日間で81憶円の
興収をあげ、『E.T』を抜き去って歴代2位に躍り出たのだ
という。
 娯楽作品に対していちいち目くじらをたてる必要はないとい
う意見がある。大宣伝とこうした《大人の》評に守られて、こ
の映画は日木でもヒットすることだろう。『ランボーU』を観
るなとここで書くつもりはない。ただ、もし劇場へ足を通ぶこ
とにためらいを覚えるなら、あるいは観終った後で何かわだか
まりを感じたのなら、シネマスクエアとうきゅうで8月下句か
ら公開される『バーディ』を観て欲しい。徴兵されてゆくのは
どんな階層の責年で、殺し合いで心に傷をうけるのはどんな感
受性の持主なのか、『ランボーU』では決して語られないこれ
らの主題が、巧みなストーリー展開と幻想的な映像によって描
かれている。
 鳥気狂いの責年と女好きの俗物の奇妙な友情、ダウンタウン
の風景、やかて彼らは戦場へ行き、一方は顔面を焼かれ、一方
は鳥の大群を見ながら発狂する。ニコラス・ケイジは名演とい
っていい。
 『バーディ』は目に見える敵を設定して告発を行なおうとす
る映画ではない。しかし、アラン・パーカー監督が作家の本能
に従いながら詩を生み出そうとする過程で、個人主義を変質さ
せてゆく真の要因が何であるかが浮び上がってくる。そして、
ランボーが巨大なコンピュータを破壊するのに対して、主人公
バーディの友人は次のように叫ぶ。
−戦場には英雄なんていやしなかった……。ジョン・ウェイン
 の映画に騙されたんだ、俺たちは!
                           了

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   『ストレンジャー・ザン・パラダイス』小論
     −開かれた映像の心地よさ−
                橋本 了
              (初出:流行通信'86年4月号)
 イタリアのネオレアリズモを始めとして、製作上の制約から
逆にユニークな映画スタイルが生まれる例は少なくない。ジム・
ジャームッシュが『ストレンジャー・ザン・パラダイス』('84
年)を全篇ワンシーン・ワンカットで撮ろうと考えた直接のき
っかけは、ヴィム・ヴェンダースから与えられた生フィルムが
40分の長さしかないことだった。モンタージュを原則とした
普通の映画作法なら、数分の短篇を撮るのが精一杯の分量だろ
う。ところが、ジャームッシュはそれで30分の充実したエピ
ソード(第I部<新世界>)を撮り、3部作の長篇を完成するチ
ャンスをつかんだ。
 わかり切った事まで見せ過ぎる映画は不快なものでしかない。
ドアを開けるショットに、なぜ後手でドアを閉めるショットが
続く必要があるだろう? 『ストレンジャー…』で各シーン=
ショット間に黒味がインサートされているあいだ、我々は完全
に自由だ。人を食ったような演出や台詞の面白さを思い出しな
がら、気ままに次のぺ一ジを繰ってゆくことがてきる。不調時
のゴダール作品のような、舌足らずの〈もじり〉につき合わさ
れることもない。
 ラウンジ・リザーズのリーダー、ジョン・ルーリーとともに
主役を演じているエスター・バリントは、ニューヨークを拠点
とするハンガリーのアヴァンギャルド劇団の一員だが、アンデ
ィー・ウォーホルの《Andy Warhol's Last Love》('78年)
をはじめ2本の出演作がある。無愛想なようでつい人をひきつ
けてしまう独特なムードは天性のものだろう。だが、何といっ
ても圧巻なのは84歳て初出演したセシリア・スターク(ハン
ガリー人、'85年5月没)の超然としたしたキャラクターだ。
この女性の<間>のよさは〃ハンガリ一の笠智衆〃とでも言うし
かない。
                           了

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    醒めた印象の奥で
    −『ダウン・バイ・ロー』
                        橋本 了
              (初出:流行通信'86年12月号)
 ジム・ジャームッシュの新作『ダウン・バイ・ロー』の魅力
は、イタリア人のペテン師を演じるロベルト・ベニー二(役名
もロべルト)のキャラクターと、彼を活かした設定の良さに尽
きている。見ず知らずのイギリス人同士を無人島に残すと、お
互いを紹介する人間がいないのでそのまま口をきかずに暮らす
という小話があるが、他の主人公ザック(トム・ウェイツ)と
ジャック(ジョン・ルーリー)は、ロベルトがいなければ二人
とも自分以外には関心を示さずに入牢生活を送ったろう。どち
らも無実の罪をきせられているというだけでは、一片の仲間意
識も生まれてこない。
 『ダウン・バイ・ロー』の前半はかつての暗黒映画のパロデ
ィになっているのだが、ポン引き(ルーリー)とディスク・ジ
ョッキー(ウェイツ)が投獄されてから雰囲気が一変する。ジ
ャームッシュは<反発→共感>という公式を使おうとせずに、
彼らを徹底して突き放しておくのだ。
 他国の言葉をなんとか話そうとする仲介者(ロベルト)の出
現で、男達3人の共同体がかろうして成立する。しかし、それ
はあくまで外見上のことにすぎない。脱獄した後ロべルトがイ
タリア女性のもとにとどまる決心をすると、ザックとジャック
は別々の道を選んで別れてゆく。
 ラスト近くで彼らは何気なく上着を交換する。そのことに深
い意味があるわけではない。お互いから何かを得ることができ
たはずだと彼らが考え、我々が彼らはどこか変ったのだろうか
と考え始めるのは、恐らくこの映画が終った瞬間からなのだ。
 この作品の撮影監督は『パリ、テキサス』をはじめとするヴ
ェンダース作品を手がけたロビー・ミュラーが担当している。
トップ・シーンの移動撮影はあまり成功していないが、夜間の
乗車シーンや湖沼地帯の風景などはさすがに美しい。前作『ス
トレンジャー・ザン・パラダイス』の黒味カットに代って、今
回は長いフェイト・アウトが暗示効果をあげている。ワン・カ
ットは相変らず長い。それがスタイル上の選択ではなく、カメ
ラの前にいる人間のすべてを汲み尽そうとする姿勢から必然と
して生まれたものである点は、高く評価されるべきだろう。ジ
ャームッシュはペシミストではあっても、決してニヒリストで
はない。次回作ではもっと多くの人物が登場することを期待す
る。
                           了
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   老ユリシーズの帰還
    −『シテール島への船出』
                        橋本 了
             (初出:流行通信 1986年3月号)
 雲の厚くたれ込めた空、冷え切った灰色の石畳……。テオ・
アンゲロプロスの新作『シテール島への船出』('84年)には我
々の思い描くギリシアは一切登場しない。スクリーンにはただ
死と停滞の感覚だけが、あの長廻しの映像を介して横たわって
いる。
 この作品ほど寡黙な映画は珍しい。フェリー二の『81/2』の
ように(脚本に協力したトニーノ・グェッラは『アマルコルド』
『そして船は行く』の脚本にも参加)〃映画製作に関する映画〃
の形式をとっているが、30年振りに亡命先のソビエトから戻
ってくる父親役のオーディションは〈私だよ〉というただ一言
で行われ、自分の居所がギリシアにもソビエトにも無いことに
気づいた彼は、昔の家に入ろうとした瞬間にかいだ香りを想っ
て〈しなびた林檎〉とだけ繰り返す。30年間不在だった父親
の呼びかけに息子達は応えることができない。ただ母親だけが、
孤立した夫に同じ<私よ>という言葉で呼びかけ、滞在許可を取
り消された彼とともに、深い海霧の中へと姿を消してゆく。
 〃初めに長廻しありき〃といった構図の選択には疑問が残る
が、アンゲロプロスの全作品を手がけてきたヨルゴス・アルヴ
ァニティスの撮影はやはり随所に冴えを見せる。少年がナチス
の兵士をからかって逃げる冒頭シーンの力強さ、監督がすれち
がったラベンダー売りの老人が父親として港に現れるシーンで
の水溜りを利用した水墨画のようなタッチは見事と言うしかな
い。
 『旅芸人の記録』『アレクサンダー大王』と、自分と歴史と
の関りを問題にしてきたアンゲロプロスは、今回の作品で老主
人公が体現する歴史からの解放を試みたのだと言う。しかし、
映画を撮るということは袋小路の中で傍観者のまま詩を書くこ
となのか? 彼の語る解放は新しい歴史の創造(芸術家として
でもいい)を意味しない。映画を観終った後にはそんな不満が
残った。
                           了
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   『マルチニックの少年』レビュー
             (初出:流行通信1985年12月号)
                        橋本 了
 すでに監督の性別から作品の分析を始めるような時代ではな
い。しかし『マルチニックの少年』(`83年作品、ll月23
日より岩波ホールで公開予定)が撮影当時27歳だった若手の
デビュー作であることに驚くことは許されるだろう。鮮やかな
カットつなぎによって示された少年達の表情や動き、適切なシ
ョツトの選択と繊細な色調のコントロール、そして何よりも言
棄の美しさと語られる内容の深さ。植民地の人々の豊かな感情
をそのまま置きかえたかのような台詞の成功は、原作『黒人街
通り』(ジョゼフ・、ゾベル作`50年にパリで読者賞受賞、
ただしマルチニツクでは20年以上にわたる発禁処分)の文体
によるところも大きいに違いない。
 映画は1930年代の仏領マルチニックを舞台に、10歳の主人
公ジョゼと彼をとりまく人々の生活を軽快なテンポて描き出し
てゆく。感情移入を強いるような演出は用いられないが、映像
は雄弁でカ強い。隣家の老人をめぐる二つのエピソードでの俯
瞰ショツトは、シネフィルの自己満足からは最も遠いところに
ある。老人は山道で倒れている。やがて少年の叫び声を聞きつ
けた村人が駆けつけ、数々の松明(たいまつ)が遺体をとり囲
む。かつて少年に魂の故郷の在所を語った時と同じ炎のゆらめ
き…… なぜアフリカへ帰らないのかという問に、彼はこう答
えた。
−アフリカには誰も知り合いがいない。暮らし方も変った。
 だがいいか、死んだときゆく場所は一つしかない。その時
 こそ私の心は海を渡り、アフリカへと帰るのだ。

 この映画にはプロの俳優は二人しか出演していない。他は全
てオーディションで選ばれ、エキストラは800人にのぼった
という。ユーザン・パルシー監督は9通間の現地ロケの印象を
“西インド諸島全体が毎日「黒人街通り」の時代を生きていた”
と表現した。そして今、生き生きとした感情の担い手は、制作
者や俳優達からスクリーンを前にした我々観客へと移っている。
                           了
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   「映画を愛するすべての人々に…」
     −成瀬巳喜男特集
                        橋本 了
             (初出:流行通信1986年12月号)
 成瀬巳喜男特集の第2弾が、再び三百人劇場で開催される。
彼の作品は決して難解なものではないが分析的なアプローチを
試みようとする際には、非常な困難に直面しなくてはならない。
登場人物達は最も無力な状況下で否定し難い存在感を持ち、巧
みなストーリー展開(時には通俗的なまでの)が観客の関心を
ひきつけていながら、カタルシスは全く別のところでもたらさ
れる。
 成瀬作品の技術的な欠陥を挙げるのは造作のないことだろう。
唐突な180゜の切り返しや、カメラ・アングルに変化をつけ
ずに同サイズのショットをつないだシーンは、アカデミックな
映画学校なら赤点をつけるに違いない。しかし、我々の眼が緊
張を失いかけた瞬間に、実に繊細な仕草や表情がスクリーン上
に現れる。情緒に対する天性の嗅覚が、巧拙の落差さえ演出効
果に転じてしまうのだ。
 今回の特集では戦前の二作品『妻よ薔薇のように』('35年)
と『鶴八鶴次郎」('38年)が上映を予定されている。中でも『
妻よ……』は洗練されたコメディでありながら成瀬作品特有の
《一見優柔不断な、無気力な》人物像がすでに確立されている
点と、場面転換を音声が先導してゆくなどの意欲的な実験が行
われている点で、特に注目する必要がある。芸術家(歌人)で
美貌の妻君と、彼女のもとから逃げ出して砂金掘りに没頭する
夫とのコントラストが絶妙で、74分が瞬く間に過ぎ去ってしま
う。
 成瀬巳喜男が監督した87本の作品のうち上映用のフィルムが
存在するのは16mmを含めて29本にすぎない。我々は幅広いグレ
ー・トーンの描写力を最大限に活かした『夫婦』('53年)も、
原作自体(泉鏡花)がカット・バックの規範とも言える『歌行
燈』('43年)も一般の上映館では観ることができないのだ。日
本の興行形態では、フィルムのプリント代は映画館側が負担す
るのだと言う。しかも、上映後のフィルムは配給会牡に戻され
ることになっている。このような体制が改善されない限り、完
全な成瀬巳喜男特集は決して実現されることはないだろう。
                           了

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   永遠にして女性的なるもの
    −『未来は女のものである』
                        橋本 了
             (初出:流行通信1986年5月号)
 二人の女と一人の男の愛−マルコ・フェレーリの『未来は女
のものである』('84年)は一見非常にドラマティックな〈愛の
三角形〉を描きながら、全体としては意外なほど静的な印象が
強い。主人公達の感情は瞬間ごとに自在な変化を見せるが、愛
憎の総和は常に一定の値を保っている。彼らの関係を図示する
には、ダダイストや未来派の好んだ、あの用途不明の(永久)
運動機関が適しているだろう。
 この作品ではまず特異なクロースアップの使用法に驚かされ
る。それらは叙述上の強調や会話の際の切り返しショットに用
いられるのではなく、事件の偶発性や感情の自立(物語の枠組
みからの)を示すために用いられている。物は物であり、表情
は表情であることによって(これに対するグロテスクで魅惑的
な逆説として登場するのがグレタ・ガルボの巨大な頭像だ)真
に衝撃的で、美しい。
 個々のシーンとショットは周到に用意された象徴的意味を持
っているが、手法的な成功と出演者(ハンナ・シグラ、オルネ
ラ・ムーテイ、ニエルス・P・アレストラップ他)の好演によ
って、それらは平板な絵解きに終わる危険を逃れている。妊娠
中の出演だったムーティは、〈母親〉で〈恋人〉で〈子供〉で
あるという神秘的な三位一体を体現し、シグラは正確に構成さ
れたラストシーンで表情の深化を印象づけた。苛酷な照明の下
デ彼女に向けられた前半のカメラ・アイは、やはりクロースア
ップが多用された『鬼火』(ルイ・マル)でジャンヌ・モロー
に向けられたものに近い。
 男は女達と生まれてくる子供を助けようとして命をおとす。
しかし、その生命は〈永遠にして女性的なるもの〉によって、
新たな愛の三角形にうけつがれてゆく。シグラは自分にとって
必要だからムーティの子供(男児)を育てる。時がくれば、ム
ーティも誰かの子供を育てるだろう。
 「未来は女のものである」、この言葉は文字通りの意味で正
しい。出産前夜のシーンで月光の中に現われた遺跡の円柱は、
キリコ風のノスタルジックな過去に向ってではなく、明らかに
未来へとのびている。
                           了
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   愛を告げる者の偉大さ
    −『ある女の存在証明』
           (初出:「流行通信」1986年6月号)
                        橋本 了
 〃私は……を愛している〃。直接口に出されるかどうかは別
として、真に重要な台詞はこの言葉以外にあり得ない。それが
過度の反復によって無効化するドン・ファン劇と、点線部分の
欠落が主語=主体をおびやかす不条理劇との間には、外見とは
裏腹の近親性が存在する。
 ミケランジェロ・アントニオー二はそれらを因果律で結びつ
けることなく共存させることによって、『情事』('59年)や『
太陽はひとりぼっち』('62年)をはじめとする数々の傑作を生
み出してきた監督だが、最近作『ある女の存在証明』('82年)
ではかつてない率直さをもった会話で《愛の告白》を問題にし
ている。−好きだよとは言っても愛しているとは言わないのね?
という問いかけに、主人公の映画監督(トーマス・ミリアン)は
−恥ずかしくて一度もその言葉は言ったことがないと答える。
男の発言は自尊心と自意識の過剰によるもので、結局はどの女
も彼のもとを離れてゆく。
 私はアントニオーニ監督が『欲望('67年)』のラストシーン
で表現したかったのは、〃真実であると信じるものを獲得した
り伝えるための演技は、演技以上のものであり得るはずだ〃と
いう主張だったと考えている。この主張を受け継いだのは作品
中の監督ではなく、二人目の恋人(クリスチーヌ・ボワッソン)
の方だった。彼以外の相手の子供を妊娠したことを告げながら、
−あなたは私のすべて、でもあなたは私の運命ではないと彼女
は言う。これは拒絶の言葉ではなく愛を信じる者の呼びかけな
のだが、男はそれに応えることができず、理想の女性像を描く
という目標を放棄して、思考上の自殺へと自らを追い込んでゆ
くしかない。
 アントニオーニは『ある女の……』で台詞と映像に対等の地
位を与えようと試みた。言葉によるコミュニケーションへの不
信を表現し続けてきた巨匠のなんという変貌ぶりだろう!
 この作品の価値は、何より彼が過渡期にあることを示してい
る点にある。旧来の映像表現とモノローグ等の追加によってそ
の試みが達成されるとは考えられないが、恋人達の車が霧にま
かれるシーンの素晴らしさを見る限り、彼のキャリアは少くと
もまだ終焉をむかえてはいない。
                           了

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   極上の本格派ミステリーの味
    −ビリー・ワイルダー監督『情婦』
             (初出:流行通信 1985年8月号)
                        橋本 了
 推理小説を作者と読者の知的な対決だと言ったのは坂口安吾
だが、ミステリー映画を観る最高の楽しみは、監督や脚本家達
が幾重にも張りめぐらせた心理的トリックを読み解くことにあ
る。わざとらしい演出は、真犯人から観客の眼をそらすための
ワナかもしれないのだ……。
 しかし実際には、そんなウラのウラを読む楽しみを味わわせ
てくれる作品は少ない。私はTVのサスペンス・ドラマを家族
が観ていると番組が始まって二、三十分くらいで展開を予測し、
たいがいそれが当たってしまうので、家族からしばしば村八分
にされるハメにおちいっている。
 黙って本でも読んでいればいいのだが、伏線の張り方や演出
があまりにも幼稚なので、つい「これじゃ、結末が***にな
るのが見え見えじゃないか!」とやってしまうのである。
 さて、アガサ・クリスティ原作、ビリー・ワイルダー監督の
『情婦(原作は検察側の証人)』はやっぱりいい。(三百人劇
場で7月27日から開催されるミステリー映画スペシャルの第2弾
として、ハンフリー・ボガード主演の『マルタの鷹』に続いて
公開予定)
 原作はクリスティが自身の短編小説をもとにして書き下ろし
た有名な舞台劇なのだが、ワイルダーやラリー・マーカスによ
る巧みな脚色(特に弁護士役に関して!)が加えられているの
で、本や舞台で内容を知っていても十分に楽しめる。出演はタ
イロン・パワー、マレーネ・ディートリッヒ、チャールズ・ロ
ートン等々。弁護士を演じたロートンの演技は中でも特筆に値
する。〈役を作りすぎる〉人だが、やっぱりうまい。
 この作品の推理劇としての正否は、この役をどう演出し、ど
う演じるかにかかっているのだ。私が始めて「検察側の証人」
を観たのは俳優座劇場で上演された舞台だったのだが、仲谷昇
の《力(んだ)演(技)》のせいで、二幕の途中ですっかり脚本
のカラクリが読めてしまい、後半はあくびをかみ殺すのが大変
だった。
 その点、原作のままでは物足りないこの役に加筆し、イギリ
スの名優を起用したワイルダーはさすがに抜け目がない。ロン
ドンの中央刑事裁判所(オールド・ベイリー)の法廷を再現し
たというセットや、ラッセル・ハーランのモノクロ撮影も見事
だが、なんといっても、一見余計なつけ足しと思える工ピソー
ドやジョークがラストで鮮やかに収斂しなから感動を生む様に、
一流の手品師の優雅で洗練された身振りを見る思いがする。
                           了


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   『サクリファイス』評
                       橋本 了
           (初出:ビデオデイズ1987年10月号)
 《詩句な》という便利な表現が用いられる映画は非常に多い。
しかし、タルコフスキーのフィルムは、そのいずれもが、置き
かえの不可能な映像と台詞と音楽から成る純粋な詩作品だ。『
ノスタルジア』の焼身自殺とロウソク運びのシーンを結び合わ
せているのは、二種類の炎のあいだで働く親和力であり、遺作
となった「サクリファイス」では、主人公(アレクサンデル)
と郵便屋の昏倒や、三度すばらしいシーンで重要な役割を果た
す自転車などが、この作品が韻文で綴られていることを確信さ
せる。
 『サクリファイス』は誤解と絶望を語る映画ではない。アレ
クサンデルの子供に冒頭で声の回復が約束されているように、
我々観客の前には、若草の柔らかな緑とどこまでも続く海岸線
の輝きが再び回帰する。「初めに言葉ありき…」と子供は言う。
父が行なった儀式を機会に、彼は仮死の状態から抜け出した。
父の示した道を歩み続けるなら、やがて彼は詩人となるだろう。
 この映画はくり返し観る度に感動が大きくなってゆく。当初
はいくぶん生硬で抽象的に思われた前半の台詞が滋味豊かな贈
物に変わり、撮影の常識をはるかに越えた暗闇の中で見え隠れ
する登場人物達のわずかな挙動が、癒されることのない恐怖に
おののく彼らの魂を触知させる。
 アレクサンデルを演じているのは前作『ノスタルジア』に続
く主演となるエルランド・ヨセフソンで、死んだ母親の思い出
を突然語り始める場面など、期待にたがわぬ名演技を見せてい
る。
 郵便屋オットー役はべルイマンの「ファニーとアレクサンデ
ル」(兄妹の実父役)に出演していたアラン・エドブァル。霊
界と人間界を自在に行き来するかのような不思議なキャラクタ
ーは、彼の真骨項と言えるだろう。
 これらの男優二人の他、撮影のスブェン・ニクヴィスト、美
術のアンナ・アスプ、プロデューサーのカティンカ・ファラゴ
らのスタッフもベルイマン映画の常連だが、タルコフスキー自
身は、ベルイマンの影響を完全に否定している。「ベルイマン
が神について語り始めるのは、ただ、神は沈黙した、神はもは
やいない、と言うためだけなのです。つまり、我々のあいだに
は共通のものは何もありません。いや、正反対なのです」と。
 タルコフスキーのショットはすべて美しい。撮影のテクニッ
クが観る者の眼を奪い、圧倒することによるのではなく、カメ
ラ・ワークが《光線》や、対象の《質感》と《動き》とともに
ひそやかで持続的な律動を生むことによって。
 『サクリファイス』は撮られるべきものが撮られるべき姿で
撮られているということで、我々を感動させ、驚嘆させる。ゴ
ダールがロッセリーニを評して語ったように、ショットの正し
さが美しさとなる作家は数少ない。タルコフスキーの葬儀に参
列しだロベール・ブレッソンは、かけがえのない朋友を失った
ことを痛感していたのだ。
                           了
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   『鉄腕アトム』はヌーヴェル・ヴァーグ
                        橋本 了
          (初出:「流行通信OM」1990年1月号)
 国産初のテレビ用アニメーション『鉄腕アトム』全百八十六
話(放映本数は百九十三話だったが、七話はフィルムが散逸し
て現存しない)を収録した四十七枚組のレーザーディスクが限
定発売される。予約締切は二月十五日で価格は税込二十二万円!
 高額商品ほど売れる時代だから大丈夫だと力説して発売元の
制作担当者をその気にさせてしまったものの、アニメ通の人間
に「あの作品は技術的に稚拙で、今のアニメ・ファンはあまり
評価していない」と言われ、これはとんでもない暴挙の後押し
をしてしまったかと心配しながら第二話『フランケン』(演出
も手塚治虫自身)をビデオで観た。
 ゴダールの『勝手にしやがれ』を思わせる大胆なジャンプ・
カット、静止画によるアクション・シーンの簡略化(うまく使
うと効果的で楽な手法だ)、一時間ものにすべきストーリーを
強引に三十分枠に押し込んでしまったことからくる異様なまで
の密度の高さ……
 「アトム」はヌーヴェル・ヴァーグ映画だったのだ! 低予
算、早撮りなどの必要からたまたま類似の手法が生まれたのか
もしれないが、手塚治虫がかつて映画の手法を研究し
てマンガの文法を一新した人物だったことを考えると、彼がヌ
ーヴェル・ヴァーグの手法をまったく意識していなかったとは
考えにくい。いや、技術的にはともかく、ヌーヴェル・ヴァー
グ映画と「アトム」は、「メジャー映画会社でなくとも映画(
アニメ)は撮れる」という共通の信念に基づいて作られている。
 「アトム」が低予算による粗製アニメの乱造をまねく元凶と
なったという批判は一面では正しいし、超過密スケジュールの
上にベテラン・スタッフが「ジャングル大帝」の制作にまわっ
たことなどから、後期の作品はやや見劣りがするということは
関係者自身も認めている。
 しかし、五十人のスタッフなら一時間半の長編を年一本が正
常なペースという時代に週一本のテレビ番組を制作した彼らは、
ようするに短距離走のペースでフルマラソンを完走したのだ。
「アトム」にかかわったスタッフのその後の活躍を見れば、こ
のシリーズが果たした役割の大きさは明らかだろう。代表的な
スタッフの名前を挙げておくと、監督としては富野由悠季(『
機動戦士ガンダム』)、出崎統(『あしたのジョー』)、脚本
家としては豊田有恒(『宇宙戦艦ヤマト』)、辻真先(『サザ
エさん』『アンドロメダストーリーズ」)等がいる。
 スタンリー・キューブリックは「アトム」を高く評価した一
人で、手塚治虫に「二○○一年宇宙の旅」の美術デザインを依
頼しようとしたという。手塚治虫が虫プロ社員を家族にたとえ
てスタッフに加われない理由を書き送ると、キューブリックか
らは次のような返事が届いたのだった。
「あなたに、家族が二百六十人もおられるとは知らなかった。
二百六十人もの家族では、生活もさぞかしたいへんでしよう。
諦めましょう」(ぼくはマンガ家/大和書房)
 さて、「アトム」の肝心な内容の方はどうなのだろうか。先
日帰省した折、六十八歳なる母にこの企画の話をすると、二十
五年前の印象を思い出しながら、「子供にとっても大人にとっ
ても、心の栄養になるような作品だった」と言った。
 私としてはこの意見につけ加えることは何もない。
                           了
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   沈黙の映像(イマージュ)、忘却の文学
    −『ラマン』ゴンクール賞受賞によせて
             (初出:流行通信 1985年2月号)
                        橋本 了
 いくつかの誌紙ですでに報しられたように、84年度のゴンク
ール賞は『モデラート・カンタービレ』『破壊しに、と彼女は
言う』などで知られるマルグリット・デュラスの『ラマン(愛
人)』が受賞した。この「ゴンクール賞より、むしろノーベル
賞がふさわしい大家」(バザン・ゴンクール賞審議委員長)と
いわれる70歳の女流作家の新作は、9月の発行以来50万部を売
り、日本でも清水徹氏による翻訳が河出書房新社より5月頃刊
行の予定であるという。また、映画『二十四時間の情事』、『
かくも長き不在』等のシナリオ作者でもある彼女が自ら監督し
た傑作『インディア・ソング』も、ようやくビデオが発売され
る見通しとなった。デュラスのように、言葉の響きがそのまま
作品のエッセンスを伝えてくる作家の場合、原語に耳を傾けな
がら内容を追ってゆける映画は計り知れない価値を持っている。
<ヌーヴォー・ロマン>の小説家で難解だという誤解を一掃す
るためにも、フィルムによる劇場公開が期待されてならない。
 『ラマン』は仏領インドシナで育った十五歳の少女と中国人
の青年との恋愛を軸とした、自伝的な作品である。長兄を偏愛
する母親への愛と憎しみ、”恋人”への欲望と同室の少女への
同性愛的感情、等々のモチーフが複雑にからみあいながら展開
してゆく。まるで、あらゆるものをその奔流の中にのみ込んで
流れ去るメコン河のように。
 しかし、この作品の真価は語られる内容の事実性にあるので
はない。主人公の少女は<私>、<彼女>という二つの言葉で
示されるのだが、デュラスという作家は一人称の親密さや三人
称の客観性の中に存在するのではなく、作品全体を被う音楽的
秩序の中に存在するのである。ヌーベル・オプセルバトゥール
誌のインタビューによれば、文章を一つ一つ書き上げてゆくの
ではなしに、まず文章や作品の基調をなす単語を見い出し、そ
れらの配置を決定してゆくのだという。
 この作家は以前から言葉の反復によって実に多彩な効果を生
み出す名匠(マエストロ)だった。彼女の作品の登場人物の会
話が<かみ合わない>ような印象を与える一因もそこにある。
彼らは代名詞を使わずに同じ言葉をくり返すことによって忘却
の作用に抵抗しようとしているかのようでもあり、相手や自分
自身の言葉を一瞬の後にはすでに忘れ去っているかのようでも
ある。
 『愛人』においても、こうした手法は最大限の効果をあげて
いる。まるで螺旋を描くようにして進められてゆく回想の中で、
やがて同じ場所や服装、同じ言いまわしが回帰してくるとき、
我々はそこに一種の既視感を覚える。−男物の帽子をかぶった
十五歳の少女の姿、中国人の青年が乗った黒いリムジン……
まもなく彼はふるえながら、少女に声をかけるだろう。
 さらに急激な言葉の反復は、逆に独特の空白、沈黙を作り出
す。『愛人』の叙述(回想)の頂点は、忘却がまさに始まろう
とする地点を示しているのである。中国人の青年との関係が母
親に知れた場面を、デュラスは次のように書く。
《次兄は妹をそっとしておくようにと母に叫ぶ。彼は庭に出て、
姿を隠す。彼は私が殺されたのではないかと恐れる。彼(*)は
恐れる。彼はいつもこの見知らぬ男を恐れる。私達の年上の兄
を。……》
 リズムのゆたかな変化と音楽的な響きに満ちた『愛人』の文
体のなかでも特にすぐれているのは、主人公の少女を乗せた客
船がパリへ向かって出航してゆく部分のものである。まず港に
いる人々の側から船がゆっくりと姿を消してゆく様を描いた後
に、今度は船上の少女の視点から同じ光景が語り直されるのだ
が、このとき《過去における過去》を表すとされる大過去とい
う動詞型が多用されることによって、追憶はさらに遠い過去へ
とすべり込んでゆく。語ろうとする事物との心理的な距離感(
それは記憶が鮮明に甦れば甦るほど増してゆく)が増すにつれ、
『愛人』の時制は現在から過去(半過去)、過去から大過去へ
とさかのぼるのだ。
 パリで作家生活を続けている主人公のもとにかつての恋人か
ら電話がかかってくるという、この作品の最後のエピソードを、
決して単なるエピローグととってはならない。そこには《二重
の過去》による《失われた時》の刻印が鮮やかに印されている
のだから。
                           了

(*)断章の中でとらえる限り、この言葉は一種の転調をもたら
  す機能のほうが大きい。しかし、《恐れ》は次兄ににまつ
  わるあらゆる記憶の中で反響し、さらにそれらの外へとひ
  ろがってゆく。《恐れ》は至る所に存在すると同時に、そ
  のいずれにも属さないのである。
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   映像化された時間感覚
     −ビクトル・エリセ監督『エル・スール』
            (初出:流行通信 1985年11月号)
                        橋本 了
 ビクトル・エリセ監督の『エル・スール』(1983年)が10月
上旬から六本木のシネ・ヴィヴァンで公開される。少女の成長
過程が主題である点は前作『ミツバチのささやき』と同様なの
だが、前作では主人公が神秘をまさに体験しようとしている瞬
間(フランケンシュタインとの出会い)が、大人の眼で作られ
た映像によって破綻をきたしてしまっていたのに対して、この
新作は父性に附与されていた神話が少女の成長とともに崩壊し
てゆく過程をドラマに取り込んだ傑作となっている。
 蝋燭の炎で燃やされる映画のチラシの質感、少女の身長と階
段の手すりとの比率、背景に流れる音楽や繊細な効果音、等々。
『エル・スール』はまずこうしたディテールにひたすら身をひ
たすべき映画だと言うことができるだろう。やがて断片の一つ
一つが複雑に反響し合いながら驚くべきダイナミズムを発揮す
る。丁度プルーストの『失われた時を求めて』の手探りで進む
ような微視的叙述から、壮麗なアーチ構造が現れてくる時のよ
うに。
 この作品が成功した第一の要因は、観客の想像力に最大限の
信頼を置いた点にある。説明的な回想シーンがないところがな
んとも好ましい。たとえば、娘とともにレストランの片隅に坐
った父親が隣室から流れてくる『エン・エル・ムンド』の旋律
に気づいた瞬間の表情! 回想シーンなどなくとも、我々の眼
前にはかつて彼が幼い娘とこの曲で踊ったときの光景がまざま
ざと甦ってくる。
 映画は主人公の少女が長い間あこがれていた《南(エル・ス
ール)》へ旅立つところで終わる。当初はこの旅行も撮影する
予定だったということだが、自立を求めると同時に父親の秘め
られた過去に執着しているという彼女の矛盾した内面を考える
と、前半部分とはまったく異なった構成と演出が必要となった
ろう。あるいは、未完成ゆえの完璧さこそがこの作品にふさわ
しい到達点なのかもしれない。
                           了

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