落雷の記 ザックの位置を歩いていて落雷。帽子をおいてある岩の下に
ピカッと稲妻が目の前で光った瞬間、尾根路は凄まじい轟音と反響に包まれ、私の足元からきな臭いゴムの焦げた匂いが広がった。 「ウッワー、ウワー(やられたー、やられたー)」 言葉にならない叫び声をあげて飛び跳ねながら足元を見ると、2mほど前を歩いていた若い女の人が土砂降りの雨と雹(ひょう)の中に倒れている。 天地に響き渡る大音響と稲光の恐怖に慄きながら、「まだ生きているんだ」という思考と手足の感覚が戻ると、容赦なく叩きつける雷雨と突風にあおられながらしゃがみこんで、「大丈夫ですか?」と呼びかけたつもりだが、カラカラに渇いたのどはかすれて声にならない。 泥水が音をたてて流れる裸岩の上に女の人は右膝をついて立ち上がろうとしているが、「足に力が入らない」と右手に持ったストックに必死にすがるが立ち上がれずに、そのまま、ズルズルと泥流の中にへたり込んでしまった。 私は肩に食い込んだザックを降ろし、女の人の右手から金属のストックをもぎ取って放り投げると、抱え込んで、ザックから2,3m離れた岩の下に引きずり降ろして、二人で這いつくばった。 バリバリッと耳をつんざく雷鳴と椎の実ほどの雹がバタバタと雨着を打ちつける中で、「金属は体から外す、時計も眼鏡も」という雷除けの話を思い出したが、「もう、一度落ちているから、いいや」と開き直って外すのを止めてしまった。 目の前のザックの中にはカメラと交換レンズ、ビデオとその三脚などが詰め込んであり、「金属に落雷するなら私なんか黒焦げになっているはずですよ」と話しているうちに不思議に落ち着いてきたが、女の人の顔は雪女のように蒼白のまま震えていた。 どうしてか、山の遭難記にあるような、迫り来る死の恐怖を目前にして妻や娘に、「ありがとう、いい人生だったよ。さようなら」というような別れの言葉を書き残そうとも思わなかった。ごうごうと音を立てて降りしきる雷雨の中でノートは出せなかったし、「書いてもどうなるものかよ」という、生きることへの執念のような熱いものがあった。 雷鳴と豪雨の中でいつまでも這いつくばって落雷の恐怖に震えているとベトナム戦争を描いた映画『プラトーン』の雨のシーンを思い出した。闇の中で雨と泥にまみれ、死の恐怖にさらされた兵士たちの苦痛にゆがむ顔。ああ、とうとう雨着の袖口と胸のあたりから雨水が入ってきた。いつまでも、こうしてはいられないなあ。 伏せていたのは5分か、10分か。長い、長い時間が過ぎていったようにも思われたし、雷鳴の数から言えばほんの短い時間であったかもしれない。雷鳴の間隔が少し間遠になってきた頃、女の人が「歩けそうだ」と言うので、「落ちるなら落ちろ 、落ちてみろ」、そう言って立ち上がり、ごうごうと降る雨の中を駆けるように山小屋に向かった。 唐松岳頂上山荘下の斜面ではテントが飛沫に翻弄され、天の怒りは小屋の後ろの頂にドスン、ドスンと地響きをたてて、これでもかこれでもかと繰り返し、繰り返し 、闇夜が裂けるほど落ちてきた。 梗概 『落雷の記』は、平成16年7月25日午後3時30分頃、北アルプス唐松岳の山頂直下100mほどの尾根道(唐松岳頂上小屋寄り)で被雷した瞬間の記録です。記録というより、記憶といったほうが良いかもしれません。あの瞬間のことは二度と正確に記すことは不可能ですが、「ウッワー、ウワー 」という無意識の叫びは「やられたー、やられたー」という心の発した言葉であったと思います。 23日朝、大雪渓を登って白馬山荘に泊まった私は24日朝、白馬岳山頂からご来光を写した後、雪倉岳のお花畑まで行き、「花はやっぱり霧ヶ峰だなあ」と失望して白馬山荘に戻って、もう一泊。 25日未明、4時少し前にヘッドライトを付けて小屋を出発し、杓子岳、鑓ヶ岳、天狗の大下りを過ぎて不帰キレットに着いたのが11:50分頃でした。白馬で写せなかったイワギキョウを写したり、杓子岳山頂から白馬岳を写そうとゆっくり朝飯を食べていたのと天狗の小屋を過ぎたあたりから雨が降ったり、やんだりで、雨着を着たり、脱いだり、ずいぶん時間をとられてしまいました。 いよいよ不帰の嶮(かえらずのけん)にかかろうかという時には12時を過ぎて、「どうがんばっても3時に着くかどうかだなー」という時刻でしたが、それでも鎖に取り付き、岩をへずりながら、ここぞという所では何枚かの写真を写し、ビデオを撮る余裕がありました。 途中、賑やかな7人連れのグループと前後するようになり、励ましあいながらT峰を越え、U峰を過ぎるあたりで7人が遅れ始め、V峰でははるか後ろの方で声が聞こえるようになりました。 私もだいぶへたばってしまって、一足、一足引きずるのがやっとで、「もしかして大判カメラですか?」と聞かれるような大きなザック(三脚の上からザック・カバーを掛けていたので余計大きく見えた)が肩に食い込み、「来年からはビデオかカメラかどっちか一つだなー」と後悔しながら、吹き上げる霧の冷たさに励まされて、気力だけで登っているような始末でした。 「ゴロゴロ、ゴロゴロ」 頻繁に雲海の中から不気味な遠雷の響きが伝わり、3時を少し過ぎたばかりだというのに立ち込めた雲は暗くなり、唐松岳の頂上に着いたときは山頂を示す木柱が1本見えるばかりで、「何にも写らないですよ」と言いながら、3人連れが写真を撮っていました。 山頂の石に腰を下ろし、今朝から歩いた山稜を思い出しながら、振り返って見ても雲に隠れ何も見えない不帰の嶮を見やり、霧の中の縦走を心の中に描いてみました。 それから、「15:30 唐松岳発」とメモ書きし、ザックを担ぎ上げ、霧の中に見え隠れする唐松岳頂上山荘を目指して下り始めた直後のことです。 雲はますます暗く、厚く、山頂から50mくらい降った所でザ、ザ、ザッと雹が打ちつけ、間髪を置かず、大粒の雨がザーッと尾根を飛沫のように白く染め、雨着を着ようにも靴を脱いだ足の置き場がないほど登山路にはもう泥水が溜まってしまいました。 この時、山頂で会った3人連れが「小屋はすぐそこですよ」と声を掛けながら、よろけるように狭い脇道を通り抜けて行きました。雨はますますひどくなり、下山路はすっかり雹に埋まり、ざくざくと雹を踏む靴は滑りやすく、ずぶ濡れの帽子に当たる雹がとても痛かったのを覚えています。 雨、風、雹、遠い雷鳴。雨は私を惨めに濡らし、風は私を吹き飛ばし、雹は私を打ち続け、雷鳴は私を脅えさせました。白馬を出るときは思いもよらなかった気象の変化と山の恐ろしさを目の当たりにして、私という人間のなんと小さな、なんと無力な存在であることか。自然とは優しく、美しく、また、なんと凶暴な力を秘めていることであろうかと、自問しました。山を歩くとは、山の旅とはなんであろうか、とも考えました。 越し方行く末に思い至れば、この大地を揺るがす雷雨とはなんであろうか。もしかして私の生き様に下った見えざる審判であろうか、と思えばいよいよ心細くなるばかりでした。 岩屑の道が尾根を越えて右に下がったとき、突然、白光と雷鳴と衝撃に見舞われ、私は思わず絶叫しましたが、雷に打たれながらも泥水に這いつくばりながらも、運強く生きながらえて小屋に入ることができました。 「落ちるなら、落ちろ。落ちてみろ」 雷雲の中を歩きながら、なお、わめく私にはもう雷もかまっていられないのか落雷や蝕雷することはありませんでしたが、この頃、不帰の嶮では4人パーティが鎖場で雷に遭い、1人が意識不明(後に死亡)、2人が軽いけがで遭難したそうです。 小屋に入って、女の人の膝の大きな赤いあざを見ていると、八方尾根から登ってきたパーティが「子どもがけがをしているので救助してほしい」と管理人に懇願し、「大黒岳の鞍部で7人が動けなくなっているから助けてほしい」、と濡れねずみの人が入ってきました。 県警の人たちがあわただしく無線を交わしているのを耳にすると、「中央アルプス千畳敷カールのケーブルカーに落雷して宙吊りになったまま、動かない」というニュースが聞こえてきました。黒部湖にかかるケーブルカーも被雷したそうです。 ごった返す小屋の中では、「なぜ、雷が落ちても靴底のゴムが焼けたくらいですんだのだろうか」と自問を繰り返すばかりでした。 左の耳は雷の衝撃で耳鳴りがひどく、蝉が百匹も鳴いているかと思うほどうるさかったのですが、それからは時間とともに深い安堵につつまれ 、ほっとしました。
希望とか勇気とか私の生き方を変えるような強いメッセージは湧いてはきませんでしたが、帰ってからインターネットで調べたら、「直接落雷を受けても20%の人が命をとり止めている」という
言葉にに諭され、これからは雷親父ではなく、雷童子(かみなりどうじ)として静かに余生を過ごそうと発心したところです。
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