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わさびの花  安曇野の春  

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わさびの花

 

 「女は損ですわねえ....」
 まだ娘のような若い女の人は消え入るような声でそう言うと、冷たくてつらい水仕事はみんな女の仕事ですからね、と言いながら手元の桶の中から小指ほどのわさびを一本取り出して、どうぞ、食べてみませんか、と私に差し出した。

40年も前、八方尾根のスキー帰りに寄った信州穂高町のわさび漬けの店先の他愛もないできごとだったが、芥川龍之介の『杜子春』(とししゅん)の書き出し、「或春の日暮です」を思わせるような、風のない暖かな夕暮れ時には、時々、この話を思い出しては懐かしむ。

 女の人は水桶の中からわさびを取り出しては根茎を切り落とし、葉をまな板にのせてさくさくと切り刻み、ざるに移す。時々、細い指先に息を当てる。どんなに一所懸命体を動かしても決して汗をかくようなことはない、という冬場は、手を水の中に浸けているほうがあったかいんですよ、とも話す。わさびはなんといっても水ですからね、湧き水は冬温かく、夏は冷たいんですよ、と言うけれどわさび田の水仕事が楽なはずはないと思う。

「安曇野のわさびはその分効きますよ」と言われると、かえってその辛さを確かめてみたくなって、手に取ったわさびの根茎を一口噛んでみる。ホワーッと広がるわさびの匂いはいいなあ、と思った瞬間、鼻の奥を突き上げる痛さ。痺れるような痛みに耐えて両目を押さえていると、安曇野のわさびは水が違いますからね、と小さな笑い声が聞こえた。

はあーっ、とため息をついていると、
 「湧き水ですよ、口をゆすいでください」と店先の流水を掬ってくれた。
 一口飲んで水の冷たさが沁みわたるといくらか落ち着いてきたので、また、舌先で舐めてみた。ツーンとくる辛さは変わらないが、さっきよりはわさびの味がほど好かった。涙をぬぐって、今度はかじってみた。さすがにこめかみのあたりが痛くなったが、我慢できないほどではなくなっていた。

痩せ我慢をしながら、とうとう、小指ほどの根茎をかじってしまった。口の中から鼻の奥へわさびの匂いにむせかえりながら、何か一仕事終ったような安堵感があった。

暮れなずむ店先には白いわさびの花を浮かべた木桶の中でボコボコと音を立てて水が溢れ、流れ出ていた。その音は、子供の頃「デス」と呼んでいた、田んぼ中のサラサラと湧く水辺の光景を思い出させる。昔、私の住む耕地では「タイワンゼリ」(台湾芹・クレソンが正しい)が生い茂ったデスから薬缶に水を汲み、野良仕事の合間のお茶に沸かしていた。

1年中、12,3度の湧水の中で作業すると聞くと、母のことを思わずにはいられない。朝、手元が暗いうちに田植えの苗を取り、昼間は田掻きと田植え。夕方、暗くなって田植えができなくなると提灯を点けて晩くまで苗取りをするのは、若い、まだ子どものいない嫁の仕事で、もう、お仕舞いにしな、と言われても、海老のように曲がった腰が伸びなかった、と言う。1日中、水に浸かったままで楽なはずがないのに、その頃(戦前)はそれが当たり前だったから、そんなことをこぼすと実家のお祖母さんにひどく怒られてしまった、と笑う。

 今年から上の娘が一緒に働くことになり、どこかに行こうかということになって、新学期を前に家族4人で安曇野のわさび田から穂高川の『早春賦の碑』訪ねてみた。

昔話だが、長女が生まれたとき、安曇野の湧水のような、清冽な子になってほしいと安曇と名付けた。なかなか、「あづみ」とは読んでくれず、小学校の校長先生が、なんて読むんだね、と問い返すほど苦労したらしいが本人はひどく気に入っている。

サラサラと水の流れるわさび田の畔でしゃがみこんでわさびの花を写している格好は、背中を丸めてはいるが祖母のような苦労している姿ではない。

「おかあさーん、いいにおいがするー」と叫ぶ屈託のない娘には、もう「女は損」なんて文字は当てはまらないし、父親が七転八倒するほど苦しみ悶えたわさびのことなど笑い話だろう。



 

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