7.「点字発達史」(点字発達史復刊委員会 昭和62年発行)より石川倉次氏に関する記述の抜粋 (教師用)
 注 旧漢字での復刻ですが現在の漢字で記載しました。
 石川倉次氏は千葉県の士族、安政六年正月二十六日、浜松に生る。明治八年三月十八日小学一等授業生を申付けられ、十一年一月千葉県師範学校に入学十二年六月二十六日小学師範科を卒業す。小学校に歴任し明治十九年千葉県茂原小学校訓導を辞し同三月六日訓盲院雇を申付けらる(文部省)。爾来東京盲唖学校、東京聾唖学校に在勤し、大正八年一月十七日高等官三等に陞叙し同十二年一月三十日勲四等に叙し瑞宝章を授けられ、同十四年三月二十八日正五位に叙し、同三月三十一日二級俸を下賜せらる。この日願に依りて本官を免ぜらる。同年四月十五日特旨を以て位一級を進められ従四位に叙す。是より先き明治三十四年十二月二十一日点字翻案完成の功労の故を以て勲六等に叙し単光旭日章を授けらる。
 石川氏は盲教育に入るの以前に於て夙に仮名専用の説を抱いて居た。
 小西信八氏曰く、
 石川教諭は千葉師範の出身ですが同校卒業証書輪郭に赤緑黒の三色を以て上中下を示したるに同教諭のは赤色なりといふ。(石川氏曰く私は緑のを頂いたのです。)殊に国字と国語とには夙に造詣注意深く、卒業後には直線の左右に点を配し、五十音の仮名を改めんとの工夫もありし程にて元来盲人か聾者かの教師として生れられたかの性行ある方であります。明治十三年か十四年の頃、時事新報に文福斎の名で漢字を廃し仮名を専用するという説を見ましたので、当時仮名の会に熱心助力せられた肥田濱五郎君等と共に文福君に会見したいと申合ひ、時事新報社まで本名住所を問ひ合わせましたが分りませんので皆遺憾でした。後に石川教諭の投稿であった事を知った時は既に肥田氏没後で、更に遺憾を新しくした次第です。(日本訓盲院点字翻案満二十五年祝賀会演説)
 之に依りて石川氏の国語国字に対する造詣を察することが出来る。斯る改革的精神をもち新見解を抱いた氏を盲教育に迎えた事は、日本点字の完成に誠に仕合はせであった。初め石川氏の点字を考案するや其の苦心は尋常一様ではなかった。
 石川氏曰く、
 私は我が国の盲人のために便利なものを与へるはこの時であると考えて寝食は心の外に置き最善の努力を尽したのであったから、自分の案の優良と認められ将来これを用ふることに決定された事は微力ながらも自分の労力の酬いられた事を感じ、深く幸に思ったのであった。其の後当時を顧みるに、同じく苦労を共にした人々の偉大な働きは世に知られずに、その大きな労力は捨石のように埋もれていることを惜しむのである。この自分の成功と光栄は時の校長小西信八先生及び同僚遠山邦太郎君の賜であると常に深く感謝して居るのである。
 実に石川氏は「屈せず撓まず功を一簣に缺かんことを恐れ殆んど寝食を忘れて大成(1)」を期したのであった。「夫人が産気を催されるのに気付かずして工夫をこらし、女子安産の泣声に初めて驚き産婦を顧みた(2)」との事である。[(1)(2)小西氏の言]
 築地の寄宿舎に舎監をして居た頃考案に熱中し夜の明くるのも知らず、鶏の声にはじめてそれと知ったとは氏の語る所である。斯る苦心の成果が我国将来幾千万の盲人をして文化の恵澤に浴せしむる源泉となったのである。
 吾人は石川氏の存在と、之に勧説し石川氏をして名を成さしめたる小西氏の存在とを日本盲人教育史上永遠に記念しなければならない。
 明治三十三年点字採用満十週年に当り金百円の御下賜に預り、翌三十四年仏国博覧会より金牌の贈与を受け、又朝廷より単光旭日章の賞賜を忝うした。氏の功績の大なるを証するに足る。而も日本点字の翻案が永遠に我国盲人の精神生活に寄与する功績に想到すれば、社会は尚氏に加ふべき余地あるを思ふ。而して吾人は小西氏遠山氏の功績亦銘記して之を後世に保存しなければならない。
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