Masanori  桜 井 優 徳  Sakurai               

                  

 

  このページは、指揮者 桜井優徳のオフィシャル・ホーム・ページです。 指揮をはじめ、多くの音楽監督をも

務める桜井優徳の情報を載せてまいります。


 1998年3月、恩師である石丸寛氏の死去。 亡骸を前に桜井優徳自身
深く思うところがあり、師の「志」を継承すべく、また数回に及ぶ「桜井
さん後は頼んだぞ」の言葉を胸に、従来からの「子供達への仕事(音楽鑑賞
教室、ファミリー・コンサート等)の為に、プロのオーケストラを地道に
指揮する事」のみならず、「(ジュニア・オーケストラを含む)日本全国の
アマチュア・オーケストラの指導・育成」を新たなライフワークとして取り
組んでいく決意をしました。
 桜井優徳はこの2つの仕事を「天職」と確信し、少しでも多くの方々の為
にお役に立てることが「恩師 石丸寛氏の遺言」を果たす、自身に与えられた
責務であると考えています。
 これまで一度もコンクール等への参加をせず、ほとんど宣伝活動もせず、
ただひたすら地道に鍛き上げた指揮者として、入魂の熱いステージを展開
する桜井優徳のプロフィールをご覧下さい。


[プロフィール] 桜井 優徳(さくらい まさのり)

 1959年、東京に生まれる。 吹奏楽の名門、豊島十中のコンサート・マスターとして2回全国大会出場を
果たす。(2年連続金賞受賞)その後、塚原晢夫氏率いる「ジュニア・フィルハーモニック」のホルン奏者とし
て活動すると共に、本格的な音楽の勉強をするため東京音楽大学附属高等学校、桐朋学園大学のオーケストラ
研究科へ進む。 ホルン奏者として秋山和慶、小沢征爾、森正、M.ロストロポビッチ、J.シルヴァースタイン
など著名な指揮者のもとでオーケストラ研究に励む。
 1976年、17才の時 故 近衛秀健氏と共に「クリスマス・コンサート」にて、指揮者デビューを果たす。
 1977年、「読売日本交響楽団」主催、「チェリビダッケ指揮ゼミナール」に最年少で参加。 同年より
「デュエール室内オーケストラ」の常任指揮者に就任。
 1978年、旧西ベルリンへ遊学。 帰国後、「ニュー・チェンバーフィルハーモニー」、「東京モーツァ
ルトアンサンブル」、「アンサンブル・ムジカ・ビバ」、「アマデウス室内管弦楽団」、「藤沢フィルハーモ
ニー協会」など、主に室内オーケストラの指揮をする。 又その頃より小・中・高校生の為の音楽鑑賞教室の
分野にも積極的に取り組み、「日本ニューフィルハーモニー管弦楽団」、「東京アマティー管弦楽団」はじめ、
多くの団体を全国各地で指揮。 当時、指揮活動以外にも「青山レコーディング・スクール」や「東京音楽芸術
専門学校」の講師として後進の指導にもあたっていた。
 1989年、東京ドイツ文化センターに於いて、ゲーテ・インスティテュート主催、ブレヒト=ワイルの
「三文オペラ」(演出岩淵達治教授)にて、ピット・デビュー。 この公演が同年7月号の「音楽芸術」誌で
絶賛される。 これをきっかけに創作オペラや室内オペラなど活動の枠を拡げ、文化庁後援「新説・浦島太郎」
や「くじゃくの花火」(共に初演)をはじめ、創作バレエを含め数多くの作品を手掛ける。
 1993年、日生劇場開館30周年記念事業、ケルン国立劇場の来日公演「三文オペラ」に於いて、唯一人の
日本人音楽スタッフとして招聘され、「オーケストラ編成責任者兼副指揮者」として参加。 その折、演出家
ギュンター・クレーマー氏(ケルン歌劇場総監督)の賞賛を受ける。
 1994年、岩淵達治教授の演出によるブレヒト=ワイルの音楽劇「ハッピー・エンド」を指揮し、好評を
得る。 又、同年より「(財)九州交響楽団」の首席奏者ら主要メンバーで編成される、「福岡室内合奏団」
の指揮者として招聘され、「第一生命コンサート・シリーズ」などの公演を指揮。モーツァルトの演奏などに
高い評価を受け、その後「(財)九州交響楽団」の指揮も行うようになる。 同年、「NTTファミリー劇場:
ミックスアーツ・コンサート〜動物の謝肉祭」(「(財)井上バレエ団」及び「二期会」出演)を関東各地で
指揮する。
 1996年、岩淵達治教授の演出によるブレヒト=デッサウの音楽劇「セチュアンの善人」を指揮し好評を
得る。 同年、「山梨県民音楽祭<第9>」公演には名匠石丸寛氏のもと、副指揮者として参加するが、途中
より、石丸氏の強い要望により音楽監督(音楽総責任者)に昇格。(この公演が、石丸寛氏の人生最後の第9
となった。)
 1998年、日生劇場35周年記念公演に、5年前に引き続き参加。 ミルバ主演、スターダンサーズバレエ
団、二期会などの出演によるブレヒト=ワイルの「七つの大罪」、「リンドバークの飛行」(日本初演)で
「オーケストラ統括責任者兼副指揮者」を務め、各方面から好評を受ける。
 2001年4月からは、関西を中心として活動する「フォルテック・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者
も務めた。

 その他、各地でのテレビ、ラジオの出演や「東京レディース・オーケストラ」とのレコーディングをはじめ
放送、コマーシャル、劇場用音楽などのスタジオ・コンダクターの仕事も15年以上の間行ってきた。 また、
ルチアーノ・ベルタニョリオ氏主宰のオペラ・コンサートや、ヴァイオリンの佐藤陽子女史との共演、童謡の
川田正子女史主催のコンサート、三笠宮殿下主催のチャリティー・コンサート、2003年3月には「フッペル
平和祈念鳥栖ピアノコンクール」(審査委員長 舘野泉)受賞記念コンサートの指揮で、高い評価を受け、他にも
数多くの「協奏曲の夕べ」などの指揮で「バックアップ・スペシャリスト」として好評を博すなど、多彩なジャ
ンルで幅広い活動を行っている。 
 また、アマチュア・オーケストラの指揮も積極的に引き受け、「交響曲1番巨人」(マーラー)、「交響曲3番
オルガン」(サン=サーンス)、「交響曲9番合唱付」(ベートーヴェン)、「幻想交響曲」(ベルリオーズ
)、「交響曲6番悲愴」(チャイコフスキー)などの演奏により、新聞評等で高い評価を受けている。

 現在は、2003年1月から業界大手の一つで、老舗のマネージメント会社(株)「ミリオンコンサート協会」
(代表小尾旭)の専属アーティストとして契約を締結。いよいよ、本格的な指揮活動に入った。今後も、プロ、
アマ各オーケストラへの一層の積極的な客演活動が期待されている他、2004年4月からは、掛布雅之、衣笠
祥雄、中村玉緒、東ちづる、大仁田厚、小倉智昭、俵孝太郎ら、約1000人の各界講師が在籍する(株)「ペル
ソン」とも契約を結び、全国各地での「講演&音楽クリニック」を積極的に展開している。
 また、2004年9月より、「東京アーバンシンフォニエッタ」の音楽監督・常任指揮者に就任した。

 バロックから近代まで幅広いレパートリーを持ち、前記クルト・ワイルのスペシャリストとしても、知られ
ているが、他にマルチヌー、オネゲル、ウォルトン、ルーセル、ヤナーチェクなども得意としている。
 長年、室内オーケストラの指揮者として培ってきた確かな様式感と骨格、そしてバランスの良さが身上とされ
るが、不器用ゆえ、年間のコンサート回数は決して多い方ではない。しかし、「一つ一つの仕事を、大切に、
丁寧に」が本人のモットーであるがゆえの事であり、「徹底的に勉強して、作品が体の中に完全に入り込む
まで、指揮台には立たない」という、頑なポリシーを長い間貫いている。


[師事する諸先生方](50音順)

 故 石丸寛先生(九州交響楽団永久名誉音楽監督・指揮者)

 故 近衛秀健先生 (宮内庁式部オーケストラ指揮者・作曲家)

 酒井正幸先生 (全日本吹奏楽連盟理事長・元豊島十中吹奏楽部指揮者)

 中 博昭先生 (元洗足学園魚津短期大学学長・元NHK交響楽団首席コントラバス奏者)

 福田日出彦先生(桐朋学園大学名誉教授・元新日本フィルハーモニー交響楽団運営委員長・首席トロンボーン奏者

 増田宏三先生 (国立音楽大学名誉教授・作曲家)

 丸山桂介先生 (東京音楽大学講師・音楽評論家)

 安原正幸先生 (沖縄県立芸術大学名誉教授・元NHK交響楽団首席ホルン奏者)


[石丸寛氏によるスピーチ〜桜井優徳について](1996年山梨県民音楽祭「第9」当日G.P.前挨拶より)

 「〜今回のコンサートで一番素晴らしかったのは、私個人の、あれで言わせてもらえれば、桜井さんという
コンダクターを得たことだと思っています。
 私、40数年指揮しております。 で、若い頃は山田一雄先生の下振りを一生懸命やりました。 そして、
ある年になってからは、今度は私が色々な若い指揮者の方々に手伝って頂く立場になった訳ですが、長い私の
音楽の経験で、桜井さんみたいに音楽性、そしてここにもってくる迄のプロセスの非常に充実したアシスタン
ト振りというのを、こんなに素晴らしくやって頂いた若い方に、会ったことがありません。
 非常に感激しております。
 皆さん、そのことにお気づきになっていると思います。 全く桜井さんのお陰で、今回はこれだけの組織が
非常に一つにまとまって、良い練習を重ねてこれたと思っております。
 このステージをお借りしまして、本番の前に、心から、私はお礼を言わせて頂きたいと思います。〜」


[福田日出彦氏による紹介文]

 此の度、桐朋学園大学に於いて研鑽を積み、現在、オーケストラ指揮者として 数多くのコンサートに出演、
旺盛な研究心と音楽に対する真摯な取り組み方を高く評価されている、桜井優徳君をご紹介させて頂きます。
今後の貴団行事に桜井君をご採用頂ける機会をご考慮賜われますならば、必ずや更なる新風を吹き込んでくれ
るものその大いなる期待を抱きつつ。ご引見の機会をお与え下さいます様、茲にご紹介申し上げる次第です。

                                       桐朋学園大学名誉教授
                                           
福田日出彦 


[中 博昭氏による推薦文]

 徹底したデッサン力の習練を経ない抽象画家の様な指揮者が多い昨今、世に出たいという気持ちをしばし
押さえて、地道に自分を磨く事に長い間集中し、一段一段自分の実力を培って来た少数派の存在は、我が国
音楽界にとって大変心強い事であると存じます。既に有名指揮者でありながら、1、2、3、4、どの拍を
振っているのか定かでない様なマエストロ(?)がいかに多い事か、オケマンにとって正に環境問題と言っ
ても過言ではありません。
 その様な中にあって本当に謙虚に、どんな小さな仕事でも心から取り組み、「本物の指揮者」を目指して
努力を続けて来た桜井優徳氏を推薦させて頂きたいと存じます。

                             元「NHK交響楽団」首席コントラバス奏者
                                             
中 博昭 


[増田宏三氏による推薦文]

 桜井優徳さんを推薦申し上げます。同氏は、ホルン演奏家としての豊富な演奏経験を土台に、指揮者として
着実に成果を上げておられます。
 すぐれた音楽性、卓越した指導技術、それに人々を引きつけ、心服させる人間的魅力によって、大きな集団
を見事に統率することを成し遂げられます。
 なかでも最も私が感服するのは、芸術に対する謙虚さ、作曲者と作品の真の姿への、飽くなき探究の姿勢です。
 このように地道で誠実、且つ有能な指揮者は、プロ・アマを問わず、日本の合奏音楽の実りある活動及び質的
向上のためには、大変貴重な、そして欠くべからざる存在であるといえましょう。
 桜井優徳さんが、今後大きな活躍の場を与えられ、有意義な活動を広く展開できますよう、何卒お力添え下さ
れたく、御願い申し上げます。

                               国立音楽大学 名誉教授 作曲家・指揮者
                                            
増田宏三 


[岩淵達治氏による推薦文]

 桜井優徳さんには、1989年5月、私が東京ドイツ文化会館で「ブレヒトの会」によって上演したブレヒト
/ワイルの「三文オペラ」を演出したとき、オーケストラの編成と指揮をお願いして以来、何回も援助して頂い
ております。この時の桜井さんの音楽活動については、「音楽芸術」誌上で関根礼子さんがとても評価されてい
ます。1994年、現代劇センター眞夏座で同じブレヒト/ワイルの「ハッピーエンド」を演出したときも、
オーケストラの編成と指揮を桜井さんにお願いし、すばらしい成果をあげることができました。同じ劇団が、
1996年に、ブレヒトの「セチュアンの善人」を上演したときも(千田是也追悼公演)、パウル・デッサウ
の劇音楽の編成指揮を桜井さんにお願いして成果をあげることができました。また大劇場では、1993年、
日生劇場において、ケルン劇場の「三文オペラ」の来日公演が行われたときには、経費上指揮者のみが来日し、
音楽は日本側で準備することになりましたので、桜井さんにオケの編成と下稽古をお願いしました。初日の数日
前来日したドイツ側の指揮者は、日本側の準備したオケの質の高さに驚いたほどでした。これはひとえに桜井
さんの功績でした。1998年には、日生劇場でブレヒト/ワイルの「リンドバーグの飛行」と「小市民七つの
大罪」(ミルバ主演)が上演され、やはり桜井さんに、オケの編成と下準備のオケ合わせをして頂きました。
これも桜井さんご自身に指揮はお願いできない事情でしたが、桜井さんなくしてはこの成果は達成できなかった
と思っております。指揮者としての桜井さんは、精密な楽曲解釈、アンサンブルの掌握、巧みな音色の構成など
で見事な才能を示されています。
 桜井さんを高く評価するものとして、ここに桜井さんをご推薦申しあげたいと思います。

                                    学習院大学 名誉教授 演出家
                                            
岩淵達治


[力量示した幻想交響曲〜「固定観念」の解釈に妙味](音楽評論家:真嶋雄大氏)
                                      (山梨日々新聞1997年6月12日号より) 

 山梨交響楽団第二十四回定期演奏会を聴いた(5月31日・県民文化ホール)。
 白眉(はくび)はやはりベルリオーズである。 幻想交響曲の難しさは、要求されるち密な合奏や個人の技
などその技巧的な面でももちろんだが、「固定観念」とよばれる一つの旋律が各楽章に変形して登場し、全体
に劇的な性格を与えると同時に、曲そのものを有機的に統一するその解釈にある。 指揮の桜井優徳は、この
辺をきちっと掌握した上で楽団をトレーニングしたようで、弦なども色彩感あふれるイメージを持って絶妙な
アンサンブルを披露する。 全体的に、グロテスクな表現を避け、古典的な解釈に終始したが、第四楽章や第
五楽章で見せた、デュナーミクやアゴーギクなどには並々ならぬ力量を感じさせた。 ただ楽譜に書かれた音
符だけ追っていてはこういった演奏は望むべきもなく、何より団員が各自パートに精通した上で全体のバラン
スをとっていたのには驚かされた。 集中力が途切れて時に 緩慢な表現になったのは 残念であったが、アマ
チュア・オーケストラとしての一つの指針を示した演奏だったのではないか。


[音楽芸術、誌面より](音楽評論家:関根礼子氏)

 〜(略)「三文オペラ」が、東京ドイツ文化センターで上演された。 岩淵達治の訳・演出による上演で、
この作品の基本的な骨格を的確につかみ、落ち着いた雰囲気の中での隠当なステージであったと思う。
 筆者にとって最も興味深かったのは、音楽面に予期した以上の成果があったことである。 桜井優徳の指揮
のもとに、楽団「MISUK」は、ワイルの音楽の陽気さを何気なくマスターし、さわやかな味を出している
。 より完璧さを求めるなら部分的に弱い点もあるにせよ、とかく「劇伴」として軽んじられがちな演奏が、
ここまで充実していたのは、この「三文オペラ」にとって、とりわけ大切なことではないか。
 その信頼すべき楽団に支えられて、歌唱面も健闘していた。 歌唱訓練がどの程度なされたのかは不明だが
、各人の唱方がほぼ統一され、グループとしての一貫性が感じられたのには、将来性がある。 人によっては
、旋律にうまくのりきれなかったり、高音コンプレックスに悩んだ跡がみえたりもしたが、あえて挑戦的な唱
方はとらず、ごく普通の「役者の歌」になって、それなりに危なげはない。 魅力的なワイルの音楽がここま
でこなせれば、上演はもう八割方成功したも同然だ。


棒振りのひとりごとPART1“「アマチュア」と自分のスタンスについて”(桜井優徳)

 今は亡き石丸寛先生との、ある種“劇的な”出会い、そして別れがあり、その頃から「自分とアマチュアとの
関わり」について、随分と深く考えました。石丸先生も『ゴールドブレンドコンサート』のスタート期などは、
「それはそれは、言葉にできない程、苦労と心痛の連続」とおっしゃっていました。
 自分自身も20代はアマチュアの依頼を全てお断りをし、30代に入って初めてアマチュアと関わりを持った訳
ですが、これまでアマチュアとのお付き合いの中、それなりに大変な思い、苦労した事も事実です。(もちろん、
私自身に“若気の至り”があったという事も否定しません)
 しかし、自分は敢えてその「アマチュアの皆さん」と、生涯積極的に関わっていこうと考えました。色々な方々
に「アマチュアの人々は、“有名”な指揮者じゃないと、まるっきり相手にしてくれないよ」などとも言われました。
確かに自分はこの25年の間、競争を避け、無理押しせず、地味な仕事ばかりしてきたせいか、“有名”ではない
訳で、事務所がプロモーションをしてくれても、無名がゆえ「この手の輩は怪しいゾヨ」などと言われて、無視
されるのがオチかもしれません。
 又、「男女の仲」と同じで、こちらが勝手に「役に立ちたい!」と願い、無事仕事が成立したとしても、結果的
にオケの方から「あなたとは、相性が合わないわ!」と言われる事もあるかもしれない。
 しかし、尚自分が思うに、私利私欲一切抜きで、「何とか少しでもアマチュアの人々の力になりたい」と願う今日
この頃です。その思いは、今後(恐らく)相当数の団体と、何らかの「ご縁」を結んでいくものと確信しています。
 「お金」とか「出世、地位・名誉」といった事に、あまり頓着、興味のない棒ふりですが、少しでも多くのアマ
チュア音楽家の方々と出会い、共に志の高い音楽を作っていけたら・・・と願っております。出会った団体に、例え
たった一粒でも「プラスになる種」を蒔くことができるなら、そして、それが、その団体の成長の役に立ったなら、
幸福に思います。


棒振りのひとりごとPART2“「伝説の豊島十中吹奏楽部」と私”(桜井優徳)

 吹奏楽ブーム(いや黄金時代か?)の今日この頃ですね。さて唐突ですが、実は私、今や“伝説の学校”となった
(というより廃校なんです)「豊島十中吹奏楽部」の第16期生(ホルン)です。中学3年の1974年(神戸大会)
に、コンサートマスターとして『幻想交響曲〜ワルプルギスの夜の夢』で“全国大会5年連続金賞”に挑み、全員の
総力を集結し、栄冠をもぎとってから30年以上の月日が経ちました。本当に早いものです。
 そうそう、そういえば私の頃の「全国大会」は、毎年「会場」が変わっていまして、私は「73'名古屋」、「74'
神戸」と行きました(招待演奏の「75'札幌大会」も、“お手伝いさん”で参加)。でも、今や「吹奏楽にとっての
甲子園〜聖地・普門館」なんですよね。私は、1年生の時(「豊島」の場合、1年は基本的にコンクールに参加出来
ません)に、先輩方が『シェヘラザード』をやった72'の都の決勝が、「初・普門館」でした(但し、客席応援)。
後に初めて演奏した時は、あまりの広さに、最初ステージに出たとたん、ムセて咳が止まらなくなりました。セッティ
ングして座ったら、今度は両隣があまりに遠くにいて、バランスもよくわからず、とても不安だった事を憶えてい
ます。多分、73'の都の決勝の時(『さまよえるオランダ人』を演奏)の事だったと思いますが・・・。
 〜余談はさておき、「74'全日本吹奏楽コンクール5年連続金賞年」は、いやはや壮絶な闘いでした。周囲の人は
「十中は毎年必ず勝つ〜当たり前」という、かなり安易な考えを持っていらっしゃる方も多く、十中、又は十中の
ブラスのメンバーを、何か“特別”な存在のように見ていたけれど、中にいた人間から言わせてもらえば、毎年全て
「ゼロ」からのスタートで、どのパートも、毎日毎日、コツコツとルーティンワークを積み重ね、そして酒井正幸師
(現「全日本吹奏楽連盟」理事長)にブレンドしてもらい、NGの所は、又翌日から、来る日も来る日も地道な練習を
積み重ねるのです。誰一人特別な生徒はおらず、全員が根気強く一つ一つを作り上げていくのみです。勝つ保証は
どこにも無い。しかも「5年連続金賞」ってのを取らなければ、翌年後輩達に「全国大会招待演奏」をプレゼント
できないし、何より「4年積み重ねた金賞」も「15年の伝説(当時)」も、実は簡単に壊れる(〜全てを失う。
いや、大袈裟でなく・・・)という事を「実感」として解っていましたから、その“プレッシャー”というのは、
今までの46年の人生の中で、想像を絶する最大級のものでした(だから、その後は多少の事では全くへこたれなく
なったのは、最大の財産ですね)。
 とにもかくにも「全日本吹奏楽コンクール5年連続金賞」を“ぶん取った”後は、しばらく「生ける屍」のような
状態。その後、入学した「東京音大附属高校」でやった「のんびりブラス」は「豊島」の時代の“クールダウン”
にはもってこいのチンタラムードで、本当に楽しかった。くつろげました。同級生の中里君(「日フィル」Tp」、
崎山君(「WOWOW」音楽部長)含め、多士済々のメンバーで、又別の意味での“楽しさ”を見つけたのですが、
正直、その後しばらくの間は「豊島時代のプレッシャー」の“トラウマ”でしょうか、もしくは“お腹がいっぱい”
になっちゃったのか、ブラスの仕事(客演指揮)が入っても全く見向きもしない時代が続いたものです。
 でも、数年前からやっと再び「ブラスの世界」に目が向くようになりました。「豊島」で体得した多くの事を、
後進の、特に若い方々(中・高生等の方々)にゆっくりと、粘り強く伝えていく事も「ライフワークの一つかな…」
と考えています。
 私が「豊島の響き」として体得した「大きな二つの事」(間違っていたら酒井先生に怒られるかな・・・)とは、
「トータル・バランスとレジェロの響き」だと考えています。「レジェロ」、音楽辞典では「軽く優美に」と書い
てありますが、私流に解釈するとこうなります〜「自然で豊かな、柔らかい響き」です。自分としては、日頃常に
「mf」を中心とした、無理のない柔らかな響きを作るように心掛けています。低音のクッションの上に、中音、
高音を順に重ねていく響き。「f」、「ff」も乱暴な、強圧的なものでなく、あくまですべての楽器を共鳴させた
シンフォニックで、耳障りでない「f」をイメージしています。そして、ハリとつやのある「p」をしっかり作る
事。これって、「弦楽オケ」も「オーケストラ」も「吹奏楽」も「合唱」も、全く同じ事〜アンサンブルの基本と
考えています。これらも、全て「豊島十中」で、“音の魔術師”酒井正幸師から体得した、とてつもない財産だと、
いつも感謝しています。私にとって、まさに「虎の巻」でもあります。
 どれだけ後進の人々のお役に立てるかはわかりませんが、今後は、とにかく声が掛かったら(日程さえ合えば)
日本全国、どこへでも飛んで行こうと、そして、リハーサルや各々のメンバーとの「直接の話」を通じて“体得
した事”を伝え続けていきたいと願っています。
 後もう一つは、我々世代(40〜50代)のために、「なつメロブラス」(私の造語です。ヘンかなぁ?)という
企画も、今、進めてもらっています。もちろん“企画倒れ”に終わるかもしれないけれど、“昔のブラス小僧
(少女)”のために、「あの頃の想い出の名曲」でプログラムを作り、合間に“当時(1960〜70年代頃)の
吹奏楽シーンの話を入れるコンサートです。
 皆さん憶えてますか?アリバドーティーの『バラの謝肉祭』『ポンセ・デ・レオン』、コーディルの『バンドの
為の民話』(ちなみに、初めてバンドに客演指揮した時はこれが1曲目でした。当時17才!)、A・リードは
初期の方が好きです。『音楽祭のプレリュード』『インペラトリクス』(知っとるけ?)。R・ジェイガー
(ジャガーか?イェーガーか?君は本当は誰だ?・・・なんてギャグを、昔、かましてましたっけ)『シンフォ
ニア・ノビリシマ』(これは振っても、吹いてもどっちもよかったわー)『第三組曲』。F・マクベスは、やはり
初期の『聖歌と祭り』『マスク』『ディバージェンツ』(当時期、「全国大会」に来てた福岡の嘉穂高校、ムチャ
カッコ良かったぜー。そういえば、1974年「バンドクリニック」があって、F・マクベス先生と目黒公会堂の
廊下で会ったことアリ。立派な若ハゲでした。当時40才位か?ツヤツヤだったっけ。その日豊島は「フェスティ
バル・コンサート」に出演していたので・・・)そしてもう1曲、師C・W(後述)への追悼曲『カディッシュ』。
V・ネリベルだったら『ファスティーボ』や『交響的断章』(やはり、73'名電工のスゲー演奏アリ)。
 P・クレストンは関西学院がやった『プレリュードとダンス』『ザノニ』(特に『ザノニ』は圧倒されたなぁ。
子供心に・・・。コンクールの結果発表の時、「関西学院大学応援団総部吹奏楽部」をスムーズに言えた審査員は
貴重な人!)。電気フェンスに触れて、確か40才位で死んでしまったJ・B・チャンスだったら、もちろん
『朝鮮民謡の主題による変奏曲』もだけど、私としては絶対『呪文と踊り』(チョー(超)カッチョイー(格好
良い)!!これ振った時、私、切れました。当時20才)。
 R・ニクソンの『平和の祭』もエキゾチックで良かった。パレの『リシルド』は確か銚子商業の演奏で(レコー
ドか?)初めて聴いて感動したし、日本人なら、私達中学2年の時の課題曲『吹奏楽のための萬話』を書いた
兼田敏先生(『パッサカリア』最高!『シンフォニックバンドの序曲』最高!)。
 モリセイも、初期バンドの作品を一時期多産してたのでは?『皇帝への頌歌』『中世のフレスコ画』etc。
ワルタースもいた。『ウェスターナース』『ジャマイカ民謡組曲』。
 マーチはスーザ?アルフォード?でもでもでも!!カール・キングも良いですよー!(『バーナム&ベイリー・
フェイバリエッツ』大好き!)。あと個人的に大好きなのは、ビリクの『ブロックM』(これってチョー(超)
カッチョイー(格好良い)!!10年位前の「課題曲」で、ちょっと似たシャレた曲があったような・・・)
 そして、そして・・・。実は、私は「クリフトン・ウィリアムスのスペシャリスト」を自称する、古くからの
“C・Wフリーク”です!!(これぞカミング・アウト(告白)!)。クリフトン・ウィリアムスは私と同じ
ホルン吹き上がりで、ホルン吹きにとっては“美味しい”所多数!!『ファンファーレとアレグロ』『献呈序曲』
『シンフォニック・ダンス第3番』『シンフォニアンズ』『打楽器小協奏曲』(知っとるけ?)。そして何より
!!!『交響組曲』!!!これだっ!!!これっきゃないでしょー!!!「豊島」では、中学3年の時「74'
第1回アマチュア音楽祭」(普門館)で、この中から『イントラーダ〜コラール〜マーチ』のみ演奏しました
(ちなみに、関西から「アマチュア音楽祭」に乗り込んで来た中学は「得津一家」〜もとい〜我らが宿敵、良き
ライバル「今津中学」。“得津のオヤジ”は、いつ見ても迫力有ったよなぁ・・・)。高校時代、やっと『交響
組曲』を全曲吹けました(今や「広島音楽高校」のエライ人となった小川秀樹先生、あの選曲、とても感謝して
います!)。
 “昔の課題曲”といえば、斉藤高順先生(斉藤先生は名曲たくさん有り!)の『輝く銀嶺』、岩井直博先生の
『明日に向かって』、三沢栄一先生の『シンフォニック・ファンファーレ』、前出兼田敏先生の『萬話』、名取
吾郎先生の『吹奏楽のアラベスク』、小林徹先生の『吹奏楽のシンフォニア』、河辺浩市(公一)先生の『高度
な技術への指標』(「豊島の連中」は逆立ちしてもこの曲はこなせませんでした〜私も含め〜酒井師は、元売れっ
子ジャズミュージシャンだったのに〜ダメな弟子達〜トホホ・・・)、郡司孝先生の『吹奏楽の為の小前奏曲』、
岩井直博先生の『未来への展開』、小林徹先生の『吹奏楽のための練習曲』、河辺浩市先生の『シンフォニック・
ポップスへの指標』。それと、曲名を忘れたけれど1976年の藤掛広幸先生の課題曲(「76'全国大会」のLPレコ
ードは、この曲を「豊島」が演ってましたね。名曲だと思います)。
 あ〜、疲れました。もうこの辺で止めます。でも、こんな曲を集めて、いつか「元・ブラス小僧・少女」を
対象に、楽しいコンサートをやりたいな。色々企画しますから、皆さんお楽しみに! その時は、大勢で来て
下さいね。あと、全国のアマチュアバンドの皆さん、「なつメロブラス」コーナーをコンサートで作ってくれる
なら、私を、是非、是非、呼んで下さいね。たくさんの話をしながら、一緒にサウンドを作っていきましょう!

 では、いつか又、この続きを書きます。

[オマケ]
 “豊島十中 秘密のキーワード”〜(知ってる人は知ってるが、知らない人は全然知らない・・・と言ふ)
「ナンバー6(ろく)」「ジョキジョキ」「ホーキ正座」「八田先生のチューニング」


[桜井優徳に関するお問い合わせ先]

<指揮部門>
 (株)「ミリオンコンサート協会」  TEL 03-3501-5638
               
FAX 03-3501-5620
                        105-0003 東京都港区西新橋1-10-8 第二森ビル4F
               E-Mail   iwanaga@millionconcert.co.jp
(*E−メール・アドレスは業務用です。プライベート・メッセージは、桜井直通FAXナンバーへ送信願います。)

<講演・イベント部門>
 (株)「ペ ル ソ ン」          TEL 03-5413-5851
               
FAX 03-5413-1788
                        107-0062 東京都港区南青山2-4-11 ランド南青山1F

            桜井優徳直通TEL&FAX 03-3577-3795


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