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コラム7
「神は、我が眼前に侍り」
〜教会と信仰、人の教えと神の言葉〜





今回のコラムの主役は、クリフトくんである。
ファンの方は喜ぶが良い。(笑)

ただし、彼の出番は一番最後である。(^^;;



さて。
ドラクエ4の世界に欠かせない施設というのはいくつかあるが、そのうちでも
ある意味最も重要な施設が「教会」である。
最大の機能と思われる「セーブ」をはじめとして、特に冒険初期で世話に
ならざるを得ない「死者復活」や「解毒」、「装備の呪い解除」など、まさに
冒険に欠かすことのできない存在であると言えよう。

全世界、ありとあらゆる街で、教会は我々旅人に広く門戸を開き、十字架を
まとった神父様は、「神よ、この者たちに聖なるご加護のあらんことを。
アーメン」と、優しく微笑むのである。



このことに、多くのプレイヤーは疑問を持たないし、俺も、全然に疑問を
持たなかった。

が、だ。
ある時、ふと、気がついてしまったのだ。
上の文章‥‥

 全世界、ありとあらゆる街で、教会は我々旅人に広く門戸を開き、十字架を
 まとった神父様は、「神よ、この者たちに聖なるご加護のあらんことを。
 アーメン」と、優しく微笑むのである。


この文章には、2つの驚くべき事実が隠されていることに!



まず、ひとつめ。

全世界、ありとあらゆる街で、教会は我々旅人に広く門戸を開き、

この文章だ。

この文章のどこが変なの? と、首を傾げる方もいらっしゃるかも知れない。
というか、恐らく、それが普通の反応なのだと思う。

が、考えてみていただきたい。
ドラクエ4の世界では、どの街にも、教会はひとつしかない。
そして、その教会の神父は、たとえどこの教会でも、(男女の違いはあるが)
同じ服を着、同じことを言う。

俺が何を言っているのかお分かりか?
そう。この世界には、教会は1種類しかないのだ。
つまり、

「この世界には、宗教がひとつしかない」

のである。
「世界三大宗教」と呼ばれる仏教、キリスト教、イスラム教の他、大小様々な
宗教がひしめく、我々の現実世界と比較して、これは実に驚くべき事である。

いや、もしかしたら、本当に小さな宗教とかは、ドラクエ4世界にもあるのかも
しれない。だが、それは勇者たちの(つまり我々プレイヤーの)目に触れる
ほどのものではなかったのである。



そして2つめ。例の文章の後半である。

 十字架をまとった神父様は、「神よ、この者たちに聖なるご加護のあらん
 ことを。アーメン」と、優しく微笑むのである。


ここに、2つ目の驚くべき事実、そのキーワードが2つ隠されている。
「十字架」「アーメン」だ。

この2つは、いずれも現実世界のキリスト教の根本となる物であり、言葉で
あるということは、皆さんもご存じのことと思う。

「十字架」は、キリスト教では「神の子」とされているイエス・キリストが
最後に磔刑に処せられたことを端的に表すシンボルである。
イエスは、自らが死ぬことで、人類の始祖アダムの時より我々が背負い続けた
「人間の原罪」を赦し、そして3日後に復活・再臨する事で、その身が真に
「神の子」であることを証明した、とされている。
そして、それゆえ、イエスが死んだ場所である十字架は、イエスと彼の父で
ある神による「罪の赦し」、そして「死と復活」「永遠の生命」の象徴として
キリスト教の教義において重要な位置を占めているのである。

また、「アーメン」は、古代ヘブライ語で「真実である」あるいは「そう
なりますように」という意味の言葉であり、古代教会より連綿と受け継がれて
きた、信者たちの「願いの言葉」である。
キリスト教徒は、祈りの最後にこの「アーメン」を唱える事により、「今の
祈りは真実です」「真実となりますように」という意志を表すのである。

この2つ。
前述の通り、まさにキリスト教の根本であるこの2つが、このドラクエ4の
世界でも、全く同一に再現されている事

これを一体、どう解釈するか。

以前まで、俺の解釈は、

「ドラクエ4の世界で信仰されている宗教は、キリスト教そのものでは
 ないにせよ、キリスト教に非常に類似した宗教であるに違いあるまい」


というものであった。
ある意味、それなりに普通の思考と言えよう。(^^;

そして、先ほどの「宗教がひとつしかない」という事に関しても、

「まぁ、そんなもんなんじゃない?」

という、ミもフタもない感想を持っていたのである。(^^;;



ところが。
ある日、ゲーム中に、とある登場人物のとある台詞を見て、この解釈が180度
ひっくり返ってしまったのである。

それは、水の都スタンシアラの教会にいた、修道女の言葉であった。

「神さまは天空の城に住んでいて、きっといつも私たちを見守って
 いるのですわ」


彼女は確かに、そう言ったのだ。

普通、教会の中にいる修道女が、その教会の奉る物と異なる宗教を信じている
とは考えがたい。
であるならば、この教会の奉る宗教の教義が、この台詞通りの物であると
考えるのが自然であろう。

だが、ここで問題が起こる。

「天空の城」に住む神。
それは、キリスト教にはない概念なのだ。



God's in his Heaven, all's right with the world.
神は天に侍り、世はなべて事もなし。

「赤毛のアン」でモンゴメリが、「新世紀エヴァンゲリオン」で庵野秀明が
引用したことでも有名な、ロバート・ブラウニングの詩の一説。
この中にも、「神は天にいる」と、高らかに謡われている。

神は、天にいるのである。
しかし、その住まいが「城」であるとは、聖書のどこにも書いていないので
ある。



天空の城に住む神。
ドラクエ4プレイヤーの皆様なら、このセンテンスを見て、思い浮かべる情景
があるであろう。

ゴットサイドにそびえる「天空の塔」。その行き着く果てに浮かぶ、雲の上の
城‥‥天空城。
そこに住むのは、白き二枚の翼もて空を舞う「天空人」、そして、城の中心に
座し、全てを見通す大いなる竜「マスタードラゴン」。

そう、まさにこの城こそ神の居城。そして、マスタードラゴンこそ、地上の
人々が信仰する「神」に他ならないのではないか?





ここで注目したいのが、マスタードラゴン、天空人、そして天空城にまつわる
民間レベルの伝承である。

まず、上述のスタンシアラには、天空城にまつわる伝説が、かなり色濃く
伝えられている。
例えば、城内の人物が「雲の上に大きな城があり、そこに竜の神が住んで
いる、と小さい頃に母親に聞かされた」と発言している。
また、城内の別の男が、「天空の鎧、兜、盾、そして剣を得た者は天空に
登れるという」という伝説を、勇者に教えてくれるのである。
さらに、この城の蔵書として、「怪我をした天空人が砂浜に流れ着き、やがて
回復して、兜を残して天空城に帰った」という記録を残した本がある。
もしこれが事実なら、この国の様々な伝説は、この天空人が当時の住民に
語って聞かせた情報である可能性がある。

また、天空の盾がもたらされたバトランドでも同様だ。バトランド城内にある
建国史が記された蔵書には、バトランドの開祖バトレアが、まだ小さな集落に
過ぎなかったバトランドを魔物から守った際、「天の神から授かった盾」を
使っており、その盾、すなわち「天空の盾」は、魔物のあらゆる攻撃から
バトレアを守った、と記されている。

さらには、ブランカの天女伝説だ。
かつて、ブランカに舞い降りた天女が、木こりの若者と恋をし、一人の子を
産んだ。しかし、それは天の怒りを買い、木こりは雷に打たれて死に、天女は
失意のうちに天に連れ戻された、という伝説である。
一般には、この時生まれた子供こそが、天空人の「力」と地上人の「成長する
可能性」を受け継いだ、世界を救うべき「勇者」であった、と言われている。
それは定かではないが、その時の「天女」が、恐らく天空人だったであろう
ことは、疑う余地がない。



つまり、天空城、天空人、そしてマスタードラゴンに関しては、王家レベル
での記録と、民間レベルでの伝承が残っているのだ。そして、それらは全て、
過去に、一部の天空人と地上人の間に「実際」に接触があったことを
如実に伝えているのである。

それは「史実」である。
天空人が実在する事を、古代の人々は知っていたのだ。

そしてまた、天空人と直接会った古代の人々が、彼ら天空人が伝えた「神」、
つまりマスタードラゴンの存在をも「真実」として信じたであろうことは、
想像に難くない。

つまり、彼らの世界では、神は、明らかに実在するのだ。

そして、教会で信じられている神も、あのスタンシアラの修道女の言葉から
考えれば、人々が「実在する」と思い、受け入れている神と同一のもの、
つまりマスタードラゴンである可能性が高い。

実在する神
リアルな神
「神が実在する」と信じられるからこそ、人は疑いなく神を信じ、神に依る。
「神が実在する」という実感、そのリアルさの前には、例え他のどんな神を
持って来ようとも、太刀打ちできるはずがない。

唯一の、実在する神。
そして、「唯一の実在する神」を奉じる教会。
恐らくは、だからこそ、教会も、そしてこの宗教自体も「唯一」でいられる
のだ。
だからこそ、この神を‥‥マスタードラゴンを奉じるこの宗教以外の宗教が
この世界では育たないのだ。

世界の教会は、リアルな神・マスタードラゴンを奉ずる組織であるが
故に、唯一の宗教組織でいられる。

それが、俺の第一の疑問、「なぜ宗教がひとつしかないのか?」に対する、
俺なりの解答である(言うまでもない事だが、これはオフィシャルな物では
決してない、ということは念のため強調しておく)。



この辺で、少し休憩である。
書いている俺も脳がシビレてきた。(^^;

えーと、クリフトくんの登場はまだである。申し訳ない。(;_;)



それでは、続きである。

「教会はマスタードラゴンを奉ずる組織である」と、俺は書いた。
しかし、だとすれば、第二の疑問、つまり「なぜキリスト教との共通点が多い
のか?」というのが、どう考えても分からない。

大変申し訳ないが、俺には、この問題は、少し視点を変えてみなければ‥‥
つまり、ゲーム内の世界のみならず、この現実世界の、このゲームの作り手の
皆様の視点
から見てみなければ、恐らくは分からない問題であるように思えて
ならないのだ。
ゲームのプレイヤーとして、それは非常に穿った見方であると俺は思うし、
プレイヤーとして、そういう視点に立つことは、俺は好きではない。が、
恐らくそういう視点に立たなければ、この謎は解けないのではないかと思う
のだ。

しかし、一度そういう視点から、この教会を見てみれば‥‥実にクリアに、
その答えが見えてくる。

「十字架」「アーメン」‥‥これらの言葉は、「教会」という「イメージ」を
形作る上で、非常に重要な役割を示すのである。
キリスト教の教義の真ん中にある物‥‥いわば教会のアイデンティティ。
教会を教会たらしめている物。


だからこそ、スタッフの皆様は、このゲームにおいて「教会」をデザインする
時、迷わず、この「アイデンティティ」を、デザインに盛り込んだのだ、と
俺は思うのである。

ドラクエ4の世界の教会は、教会の姿であるために、他の宗教(というより
現実の世界の宗教)のアイデンティティをそっくりそのまま借りて作られて
いたのである。
これが、俺の、第二の疑問に対する答えである。
あ、もちろんオフィシャルじゃないよ。(^^;



長らくお待たせしました。
最後の最後に、やっとクリフトくんの登場である。

敬虔なる神の僕、神官クリフト。
彼の「信仰」に、最後、思いを馳せてみよう。

彼が信仰している「神」は、世界の教会で信仰されている神と同一の
もの、つまりマスタードラゴンであると思われる。

いや、これはもちろんオフィシャルの設定ではないわけだが、それなりに
根拠があるんである。

その「根拠」というのは、サランの教会だ。
あれだけ大きな、しかもやっぱり世界共通フォーマット(?)の、十字架で
アーメンな教会が、事実上の城下町であるサランにそびえている、そのことで
ある。

サランの教会はやはり世界共通の教会、マスタードラゴンを奉ずる教会。
そして、あれだけの規模の教会が、王城のお膝元に存在するのだ。

その王城に住み、この国を支配する人々、つまりサントハイム王家の人々が、
それをうっちゃっておいて、別の宗教を信仰する、ということは、常識的に
考えてあり得まい。

もしそうならば、この「マスタードラゴン教」は、王家にとっては異教。
自らのお膝元に、異教があそこまで大きな教会を建てる事を、王家が許可する
とは到底思えないのである。
王家が信仰しているからこそ、あの教会も、あれだけ大きな物となったに違い
ないのだ。

であるならば、王室付きの神官であるクリフト、その信ずる宗教も、例の
「マスタードラゴン教」に違いないと思われるのである。

彼は、サントハイム王女アリーナ、そして彼女付きの侍従ブライと共に旅に
出立し、その中途で「勇者」の一行に合流する。
そして彼は、皆様もご存じの通り、神の力もて仲間を癒し、敵を戒める呪文を
駆使し、勇者たちにとってなくてはならない人材に成長した。

彼のその力‥‥例えそれが「神の力」であり、彼はそれを借りているだけに
過ぎないとしても‥‥それは間違いなく、彼自身の「神への信仰」から紡ぎ
出されたものである。
彼の信仰の強さが、神を動かし、そして神はそれ故に、彼に力を与え給うた
のである。

クリフトは、神官学校を首席で卒業するほど、優秀な、まじめな神官である。
恐らく、この宗教の教義や戒律などは、隅々まで知りつくしているのだろう。
そして、その教えは既に、彼の人格の一部となっているのだろう。

そんな彼の前に、もし、自分の信じる神が直接顕現したら。
そして、その神の言う事が、自分の信じてきた「神の教え」と異なる
物であったなら。
彼は一体、どうするのだろうか?



お気づきであろう。
彼は、「勇者」と共に、天空城でマスタードラゴンに会っているのだ。

そして、直接、マスタードラゴンの言葉を聞いているのだ。
彼の信じる、「神」の言葉を。



人が伝える情報は、時間の経過と共に、歪み、劣化する。
ある時は勘違いから。ある時は恣意的に。

はるかな過去、地上に降り立ったわずかな天空人により、マスタードラゴンの
言葉は、我々地上人に伝えられた。
だが、それが「宗教」として成立する過程で、わずかでも変質していないとは
誰が言い切れるだろうか。
そして、今地上で信じられているのが「変質した」神の言葉であるとしても、
それを知る事は、神を信じる今の地上人には、不可能である。
彼らは、それが「変質した」ことを知らず、神の言葉を信じ続けるのだ。

しかしその時、天空城において、クリフトの信じる神は、彼の眼前に座し、
その口で直接、神自身の考えを説いたのである。

その言葉。偽りなき神の言葉。
それと、クリフト自身が信じていた「神の教え」との間に、もしも、乖離が
あったなら。

彼の信じていた教えが、変質した物であったなら。
神が、「変質していない教え」を、彼に説いたなら。
今、目の前で語られている「神の教え」が、彼が信じている「神の教え」と
異なっていたなら‥‥。

クリフトは、どちらを選ぶのか。
眼前の神が語る教えか。それとも、彼の信じてきた教えか。
眼前の神か。それとも、彼の知る教えの中に存在する神か。

そして、その二択を迫られて、それでもなお、彼は変わらぬ信仰を
持ち続けることができるのか。

彼は、神を信じ続けられるのか。


その答えは、もちろん、我々プレイヤーひとりひとりの心の中にある。



天空城訪問イベント。
これは、このドラクエ4という物語そのもののキーポイントとなる重要な
イベントである。
そして、それのみならず、ことクリフトに関しては、彼の信仰生活、彼の人生
全てに重大な影響を与える、非常に深いイベントなのである。

そんなわけで、今回は、ドラクエ世界の宗教、神、そしてクリフトくんの
話をしたわけである。
今度、クリフトくんを天空城に連れて行く際には、そのようなことを考えつつ
連れていくといいと思った。

(おしまい)
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