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 『眉かくしの霊』 泉鏡花を読む

 昨夜は松本で一泊した。御存じの通り、此の線の汽車は塩尻から分岐点で、東京から上松へ行くものが、松本で泊つたのは妙である。尤も、松本へ用があつて立寄つたのだと言へば、それまでゞ雑と済む。が、それだと、しめくゝりが緩んで些と辻褄が合はない。何も穿鑿をするのではないけれど、実は日数の少いのに、汽車の遊びを貪つた旅行で、行途は上野から高崎、妙義山を見つゝ、横川、熊の平、浅間を眺め、軽井沢、追分をすぎ、篠の井線に乗替へて、姨捨田毎を窓から覗いて、泊りは其処で松本が予定であつた。その松本には「いゝ娘の居る旅館があります。懇意ですから御紹介をしませう」と、名のきこえた画家が添手紙をしてくれた。……よせばいゝのに、昨夜その旅館につくと、成程、帳場には其らしい束髪の女が一人見えたが、座敷へ案内したのは無論女中で。……さてその紹介状を渡したけれども、娘なんぞ寄つても着かない、……ばかりでない、此の霜夜に出がらの生温い渋茶一杯汲んだきりで、お夜食ともお飯とも言出さぬ。座敷は立派で卓は紫檀だ。火鉢は太い。が火の気はぽつちり。で、灰の白いのにしがみついて、何しろ暖いものでお銚子をと云ふと、板前で火を引いてしまひました、何にも出来ませんと、女中の素気なさ。寒さは寒し、成程、火を引いたやうな。家中寂寞とはして居たが、まだ十一時前である……酒だけなと、頼むと、お生憎。酒はないのか、ござりません。――ぢや、麦酒でも。それもお気の毒様だと言ふ。姐さん、……境は少々居直つて、何処か近所から取寄せて貰へまいか。へいもう遅うござりますで、飲食店は寝ましたでな……飲食店だと言やあがる。はてな、停車場から、震へながら俥で来る途中、つい此の近まはりに、冷い音して、川が流れて、橋がかゝつて、両側に遊郭らしい家が並んで、茶めし、赤い行燈もふはりと目の前にちらつくのに――あゝ、恁うと知つたら軽井沢で買つた二合罎を、次郎どのゝ狗ではないが、皆なめてしまふのではなかつたものを。大歎息とともに空腹をぐうと鳴らして可哀な声で、姐さん、然うすると、酒もなし、麦酒もなし、肴もなし……お飯は。いえさ今晩の旅篭の飯は。へい、それが間に合ひませんので……火を引いたあとなもんだでなあ――何の怨か知らないが、恁う成ると冷遇を通越して奇怪である。なまじ紹介状があるだけに、喧嘩面で、宿を替へるとも言はれない。前世の業と断念めて、せめて近所で、蕎麦か饂飩の御都合は成るまいか、と恐る/\申出ると、饂飩なら聞いてみませう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は遁腰のもつたて尻で、敷居へ半分だけ突込んで居た膝を、ぬいと引つこ抜いて不精に出て行く。

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