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 『古狢』 青空文庫

「……何、考えて見れば、くだらない事なんだが、鹿落は寂しい処だよ。そこを狙ったわけでもないが、来がけに一晩保養をしたがね。真北の海に向って山の中腹にあるんだから、長い板廊下を九十九折《つづらおり》とった形に通るんだ。――知っているかも知れないが。――座敷は三階だったけれど、下からは四階ぐらいに当るだろう。晩飯の烏賊《いか》と蝦《えび》は結構だったし、蜻蛉《あかとんぼ》に海の夕霧で、景色もよかったが、もう時節で、しんしんと夜の寒さが身に沁《し》みる。あすこいら一帯に、袖のない夜具だから、四布《よの》の綿の厚いのがごつごつ重《おもた》くって、肩がぞくぞくする。枕許《まくらもと》へ熱燗《あつかん》を貰って、硝子盃酒《コップざけ》の勢《いきおい》で、それでもぐっすり疲れて寝た。さあ何時頃だったろう。何しろ真夜半だ。厠《かわや》へ行《ゆ》くのに、裏階子《うらばしご》を下りると、これが、頑丈な事は、巨巌《おおいわ》を斫開《きりひら》いたようです。下りると、片側に座敷が五つばかり並んで、向うの端だけ客が泊ったらしい。ところが、次の間つきで、奥だけ幽《かすか》にともれていて、あとが暗い。一方が洗面所で、傍《そば》に大きな石の手水鉢《ちょうずばち》がある、跼《かが》んで手を洗うように出来ていて、筧《かけひ》で谿河《たにがわ》の水を引くらしい……しょろ、しょろ、ちゃぶりと、これはね、座敷で枕にまで響いたんだが、風の声も聞こえない。」

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