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 『半島一奇抄』 青空文庫

 記者がうっかり見愡《みと》れた時、主人が片膝を引いて、前へ屈《かが》んで、「辰さん――道普請がある筈《はず》だが前途《さき》は大丈夫だろうかね。」「さあ。」「さあじゃないよ、それだと自動車は通らないぜ。」「もっとも半月の上になりますから。」と運転手は一筋路を山の根へ見越して、やや反《そ》った。「半月の上だって落着いている処じゃないぜ。……いや、もうちと後路《あと》で気をつけようと、修善寺を出る時から思っていながら、お客様と話で夢中だった。――」「何、岸まわりは出来ないのですかね。」「いいえ、南条まで戻って、三津へ出れば仔細《しさい》ありませんがな、気の着かないことをした。……辰さん、一度聞いた方がいいぜ。」「は、そういたしましょう。」「恐ろしく丁寧になったなあ。」と主人は、目鼻をくしゃくしゃとさせて苦笑して、茶の中折帽《なかおれぼう》を被《かぶ》り直した。「はやい方が可《い》い、聞くのに――」けれども山吹と藤のほか、村路《むらみち》の午《ひる》静《しずか》に、渠等《かれら》を差覗《さしのぞ》く鳥の影もなかった。そのかわり、町の出はずれを国道へついて左へ折曲ろうとする角家の小店《こみせ》の前に、雑貨らしい箱車を置いて休んでいた、半纏着《はんてんぎ》の若い男は、軒の藤を潜《くぐ》りながら、向うから声を掛けた。「どこへ行《ゆ》くだ、辰さん。……長塚の工事は城を築《つ》くような騒ぎだぞ。」「まだ通れないのか、そうかなあ。」店の女房も立って出た。「来月半ばまで掛《かか》るんだとよう。」「いや、難有《ありがと》う。さあ引返しだ。……いやしくも温泉場において、お客を預る自動車屋ともあるものが、道路の交通、是非善悪を知らんというのは、まことにもって不心得。」……と、少々芝居がかりになる時、記者は、その店で煙草《たばこ》を買った。

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