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 『龍潭譚』 青空文庫

 「何が来てももう恐くはない。安心してお寝よ。」とのたまふ、たのもしき状《さま》よと思ひてひたとその胸にわが顔をつけたるが、ふと眼をさましぬ。残燈《ありあけ》暗く床柱の黒うつややかにひかるあたり薄き紫の色籠めて、香の薫《かおり》残りたり。枕をはづして顔をあげつ。顔に顔をもたせてゆるく閉たまひたる眼の睫毛《まつげ》かぞふるばかり、すやすやと寝入りてゐたまひぬ。ものいはむとおもふ心おくれて、しばし瞻《みまも》りしが、淋しさにたへねばひそかにその唇に指さきをふれて見ぬ。指はそれて唇には届かでなむ、あまりよくねむりたまへり。鼻をやつままむ眼をやおさむとまたつくづくと打まもりぬ。ふとその鼻頭《はなさき》をねらひて手をふれしに空《くう》を捻りて、うつくしき人は雛の如く顔の筋ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど晶のなかなるものの形を取らむとするやう、わが顔はそのおくれげのはしに頬をなでらるるまで近々とありながら、いかにしても指さきはその顔に届かざるに、はては心いれて、乳《ち》の下に面《おもて》をふせて、強く額もて圧したるに、顔にはただあたたかき霞のまとふとばかり、のどかにふはふはとさはりしが、薄葉《うすよう》一重《ひとえ》の支ふるなく着けたる額はつと下に落ち沈むを、心着けば、うつくしき人の胸は、もとの如く傍《かたわら》にあをむきゐて、わが鼻は、いたづらにおのが膚にぬくまりたる、柔き蒲団に埋れて、をかし。

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