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 『夜行巡査』 青空文庫

 少し距離を隔てて巡行せる八田巡査は思わず一足前に進みぬ。渠《かれ》はそのところを通り過ぎんと思いしならん。さりながらえ進まざりき。渠は立ち留まりて、しばらくして、たじたじとあとに退りぬ。巡査はこのところを避けんとせしなり。されども渠は退かざりき。造次《ぞうじ》の間八田巡査は、木像のごとく突っ立ちぬ。さらに冷然として一定の足並みをもて粛々と歩み出だせり。ああ、恋は命なり。間接にわれをしてせしめんとする老人の談話《はなし》を聞くことの、いかに巡査には絶痛なりしよ。ひとたび歩を急にせんか、八田は疾《とく》に渠らを通り越し得たりしならん、あるいはことさらに歩をゆるうせんか、眼界の外に渠らを送遣し得たりしならん。しかれども渠はその職掌を堅守するため、自家が確定せし平時における一式の法則あり。交番を出でて幾曲がりの道を巡り、再び駐在所に帰るまで、歩数約三万八千九百六十二と。情のために道を迂回し、あるいは疾走し、緩歩し、立停《りゅうてい》するは、職務に尽くすべき責任に対して、渠が屑《いさぎよ》しとせざりしところなり。

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