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 『湯島の境内』 青空文庫

早瀬 こっちを向いて、まあ、聞きなよ。他《ほか》に何も鬱《ふさ》ぐ事はない、この二三日、顔を色を怪《あやし》まれる、屈託はこの事だ。今も言おう、この時言おう、口へ出そうと思っても、朝、目を覚《さま》せば俺より前に、台所《だいどころ》でおかかを掻く音、夜寝る時は俺よりあとに、あかりの下で針仕事。心配そうに煙管《きせる》を支《つ》いて、考えると見ればお菜《かず》の献立、味噌漉《みそこし》で豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶湯《ちゃとう》して、合せる手を見るにつけ、咽喉《のど》を切っても、胸を裂いても、唇を破っても、分れてくれとは言えなかった。先刻《さっき》も先刻、今も今、優しいこと、嬉しいこと、可愛いことを聞くにつけ、云おう云おうと胸を衝くのは、罪も報いも無いものを背後《うしろ》からだまし打《うち》に、岩か玄翁《げんのう》でその身体《からだ》を打砕くような思いがして、俺は冷汗に血が交った。な、こんな思《おもい》をするんだもの、よくせきな事だと断念《あきら》めて、きれると承知をしてくんな。……お前に、そんなに拗《す》ねられては、俺は活《い》きてる空はない。
お蔦 ですから、ねとおっしゃいよ。切れろ、別れろ、と云うから可厭《いや》なの。ねなら、あい、と云いますわ。私ゃ生命《いのち》は惜《おし》くはない。

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