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 『龍潭譚』 青空文庫

 本堂青光《あおびかり》して、はたたがみ堂の空をまろびゆくに、たまぎりつつ、今は姉上を頼までやは、あなやと膝にはひあがりて、ひしとその胸を抱きたれば、かかるものをふりすてむとはしたまはで、あたたかき腕《かいな》はわが背《せな》にて組合はされたり。さるにや気も心もよわよわとなりもてゆく、ものを見る明かに、耳の鳴るがやみて、恐しき吹降りのなかに陀羅尼《だらに》を呪する聖《ひじり》の声々さわやかに聞きとられつ。あはれに心細くもの凄きに、身の置処《おきどころ》あらずなりぬ。からだひとつ消えよかしと両手を肩に縋りながら顔もてその胸を押しわけたれば、襟をば掻きひらきたまひつつ、乳《ち》の下にわがつむり押入れて、両袖を打かさねて深くわが背《せな》を蔽ひ給へり。御仏《みほとけ》のそのをさなごを抱きたまへるもかくこそと嬉しきに、おちゐて、心地》すがすがしく胸のうち安く平らになりぬ。やがてぞ呪もはてたる。雷《らい》の音も遠ざかる。わが背をしかと抱きたまへる姉上の腕《かいな》もゆるみたれば、ソとその懐より顔をいだしてこはごはその顔をば見上げつ。うつくしさはそれにもかはらでなむ、いたくもやつれたまへりけり。雨風のなほはげしく外《おもて》をうかがふことだにならざる、静まるを待てば夜もすがら暴通しつ。家に帰るべくもあらねば姉上は通夜したまひぬ。その一夜の風雨にて、くるま山の山中、俗に九ツ谺《こだま》といひたる谷、あけがたに杣《そま》のみいだしたるが、忽ち淵になりぬといふ。
 里の者、町の人皆挙《こぞ》りて見にゆく。日を経てわれも姉上とともに来り見き。その日一天うららかに空の色も水の色も青く澄みて、軟風《なんぷう》おもむろに小波《ささなみ》わたる淵の上には、塵一葉の浮べるあらで、き鳥の翼広きがゆたかに藍碧《らんぺき》なる水面を横ぎりて舞へり。

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