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 『夜叉ヶ池』 青空文庫

その夜、丑満《うしみつ》の鐘を撞いて、鐘楼《しょうろう》の高い段から下りると、爺《じじい》は、この縁前《えんさき》で打倒《ぶったお》れた――急病だ。ぬ苦悩《くるしみ》をしながら、切れないと云って、悶《もだ》える。――こうした世間だ、もう以前から、村一統鐘の信心が消えている。……爺《じい》がんだら、誰も鐘を鳴らすものがない。一度でも忘れると、掌《たなそこ》をめぐらさず、田地田畠、陸は水になる、沼になる、淵《ふち》になる。幾万、何千の人の生命《いのち》――それを思うとぬるも切れぬと、呻吟《うめ》いて掻《もが》く。――虫より細い声だけれども、五十年の明暮《あけくれ》を、一生懸命、そうした信仰で鐘楼を守り通した、骨と皮ばかりの爺《じい》が云うのだ。……鐘の自《おのず》から鳴るごとく、僕の耳に響いた。……且《かつ》は臨終の苦患《くげん》の可哀《あわれ》さに、安心をさせようと、――心配をするな親仁《おやじ》、鐘は俺が撞いてやる、――とはっきり云うと、世にも嬉しそうに、ニヤニヤと笑って、拝みながらんだ。その時の顔を今に忘れん。

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