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 『婦系図』 青空文庫

 廂から突出した物干棹《ものほしざお》に、薄汚れた紅《もみ》の切《きれ》が忘れてある。下に、荷車の片輪はずれたのが、塵芥《ごみ》で埋《うま》った溝へ、引傾いて落込んだ――これを境にして軒隣りは、中にも見すぼらしい破屋《あばらや》で、煤のふさふさと下った真黒な潜戸《くぐりど》の上の壁に、何の禁厭《まじない》やら、上に春野山、と書いて、口の裂けた白黒まだらの狗の、前脚を立てた姿が、雨浸《あめじみ》に浮び出でて朦朧とお札の中に顕れて活《いけ》るがごとし。それでも鬼が来て覗くか、楽書で捏《でっ》ちたような雨戸の、節穴の下に柊《ひいらぎ》の枝が落ちていた……鬼も屈《かが》まねばなるまい、いとど低い屋根が崩れかかって、一目見ても空家である――またどうして住まれよう――お札もかかる家に在っては、軒を伝って狗の通るように見えて物凄い。
 フト立留まって、この茅家《あばらや》を覗《なが》めた夫人が、何と思ったか、主税と入違いに小戻りして、洋傘《ひがさ》を袖の下へ横《よこた》えると、惜げもなく、髪で、件の暖簾を分けて、隣の紺屋の店前《みせさき》へを入れた。

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