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 『夜行巡査』 青空文庫

 されば路すがらの事々物々、たとえばお堀端の芝生の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇《くちなわ》の這えるがごとき人の踏みしだきたる痕を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射せること、その門前なる二柱《ちゅう》のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋《わらじ》の片足の、霜に凍て附きて堅くなりたること、路傍《みちばた》にすくすくと立ち併べる枯れ柳の、一陣の北風に颯と音していっせいに南に靡くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷《いちる》の煙の立ち騰《のぼ》ること等、およそ這般《このはん》のささいなる事がらといえども一つとしてくだんの巡査の視線以外に免るることを得ざりしなり。
 しかも渠は交番を出でて、路に一個の老車夫を叱責し、しかしてのちこのところに来たれるまで、ただに一回も背後《うしろ》を振り返りしことあらず。
 渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後《うしろ》には全く放心せるもののごとし。いかにとなれば背後はすでにいったんわが眼に検察して、異状なしと認めてこれを放免したるものなればなり。

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