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 『絵本の春』 青空文庫

 月、星を左右の幕に、祭壇を背にして、詩経、史記、二十一史、十三経注疏《ちゅうそ》なんど本箱がずらりと並んだ、手習机を前に、ずしりと一杯に、座蒲団《ざぶとん》に坐《すわ》って、蔽《おい》のかかった火桶を引寄せ、顔を見て、ふとった頬でニタニタと笑いながら、長閑《のどか》に煙草《たばこ》を吸ったあとで、円い肘《ひじ》を白くついて、あの天眼鏡というのを取って、ぴたりと額に当てられた時は、小僧は悚然《ぞっ》として震上《ふるいあが》った。
 大川の瀬がさっと聞こえて、片側町の、岸の松並木に風が渡った。
「……かし本。――ろくでもない事を覚えて、此奴《こいつ》めが。こんな変な場処まで捜しまわるようでは、あすこ、ここ、町の本屋をあら方あらしたに違いない。道理こそ、お父《とっ》さんが大層な心配だ。……新坊、小母さんの膝《ひざ》の傍《そば》へ。――気をはっきりとしないか。ええ、あんな裏土塀の壊れ木戸に、かしほんの貼札《はりふだ》だ。……そんなものがあるものかよ。いまも現に、小母さんが、おや、新坊、何をしている、としばらく熟《じっ》と視《み》ていたが、そんなはり紙は気《け》も影もなかったよ。――何だとえ?……昼間来て見ると何にもない。……日の暮から、夜へ掛けてよく見えると。――それ、それ、それ見な、これ、新坊。坊が立っていた、あの土塀の中は、もう家《うち》が壊れて草ばかりだ、誰も居ないんだ。荒庭に古い祠《ほこら》が一つだけ残っている……」

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