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 『貝の穴に河童の居る事』 青空文庫

 その杉を、右の方へ、山道が樹《こ》がくれに続いて、木の根、岩角、雑草が人の脊より高く生乱《はえみだ》れ、どくだみの香深く、薊《あざみ》が凄《すさま》じく咲き、野茨《のばら》の花の白いのも、時ならぬ黄昏《たそがれ》の仄明《ほのあか》るさに、人の目を迷わして、行手を遮る趣がある。梢《こずえ》に響く波の音、吹当つる浜風は、葎《むぐら》を渦に廻わして東西を失わす。この坂、いかばかり遠く続くぞ。谿《たに》深く、峰遥《はるか》ならんと思わせる。けれども、わずかに一町ばかり、はやく絶崖《がけ》の端へ出て、ここを魚見岬《うおみさき》とも言おう。町も海も一目に見渡さる、と、急に左へ折曲って、また石段が一個処ある。
 小男の頭は、この絶崖際の草の尖《さき》へ、あの、蕈《きのこ》の笠のようになって、ヌイと出た。
 麓では、二人の漁夫《りょうし》が、横に寝た大魚《おおうお》をそのまま棄てて、一人は麦藁帽《むぎわらぼう》を取忘れ、一人の向顱巻《むこうはちまき》が南瓜《とうなす》かぶりとなって、棒ばかり、影もぼんやりして、畝《うね》に暗く沈んだのである。――仔細《しさい》は、魚が重くて上らない。魔ものが圧《おさ》えるかと、丸太で空《くう》を切ってみた。もとより手ごたえがない。あのばけもの、口から腹に潜っていようとも知れぬ。腮《えら》が動く、目が光って来た、となると、擬勢は示すが、もう、魚の腹を撲《なぐ》りつけるほどの勇気も失せた。おお、姫神《ひめがみ》――明神は女体にまします――夕餉《ゆうげ》の料に、思召しがあるのであろう、とまことに、平和な、安易な、しかも極めて奇特な言《ことば》が一致して、裸体の白い娘でない、御供《ごく》を残して皈《かえ》ったのである。

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