検索結果詳細


 『半島一奇抄』 青空文庫

「お待ちなさい。そんな流《ながれ》の末じゃあ決してない。朝日でとけた白雪を、そのまま見たかったのに相違ないのです。三島で下りると言うと、居士が一所に参って、三島の水案内をしようと言います。辞退をしましたが、いや、是非ひとつ、で、私は恐縮をしたんですがね。実は余り恐縮をしなくても可《よ》さそうでしたよ。御隠居様、御機嫌よう、と乗合わせた近まわりの人らしいのが、お婆さんも、娘も、どこかの商人らしいのも、三人まで、小さな荷ですが一つ一つ手伝いましてね、なかなかどうして礼拝されます。が、この人たちの前、ちと三島で下りるのが擽《くすぐ》ったかったらしい。いいかこつけで、私は風流の道づれにされた次第だ。停車場《ステェション》前の茶店も馴染《なじみ》と見えて、そこで、私のも一所に荷を預けて、それから出掛けたんですが――これがずッとそれ、昔の東海道、箱根のお関所を成りたけ早めに越して、臼《うす》ころばしから向う阪をさがりに、見ると、河原前の橋を掛けてこの三島の両側に、ちらちら灯が見えようというのでと――どこか、壁張りの古い絵ほどに俤《おもかげ》の見える、真昼で、ひっそりした町を指さされたあたりから、両側の家の、こう冷い湿《しめっ》ぽい裡《なか》から、暗い白粉《おしろい》だの、赤い油だのが、何となく匂って来ると――昔を偲《しの》ぶ、――いや、宿《しゅく》のなごりとは申す条、通り筋に、あらわな売色のかかる体裁は大《おおい》に風俗を害しますわい、と言う。その右斜《みぎななめ》な二階の廊下に、欄干に白い手を掛けて立っていた、媚《なまめ》かしい女があります。切組の板で半身です、が、少し伸上るようにしたから、帯腰がすらりと見える。……水浅葱《みずあさぎ》の手絡《てがら》で円髷《まるまげ》に艶々《つやつや》と結ったのが、こう、三島の宿を通りかかる私たちの上から覗《のぞ》くように少し乗出したと思うと、――えへん!……居士が大《おおき》な咳《せき》をしました。女がひょいと顔をそらして廂《ひさし》へうつむくと、猫が隣りから屋根づたいに、伝うのです。どうも割合に暑うごすと、居士は土耳古帽《トルコぼう》を取って、きちんと畳んだ手拭《てぬぐい》で、汗を拭《ふ》きましたっけ。……」
 主人も何となく中折帽《なかおれぼう》の工合《ぐあい》を直して、そしてクスクスと笑った。
「御主人の前で、何も地理を説く要はない。――御修繕中でありました。神社へ参詣をして、裏門の森を抜けて、一度ちょっと田畝道《たんぼみち》を抜けましたがね、穀蔵《こくぐら》、もの置蔵などの並んだ処を通って、昔の屋敷町といったのへ入って、それから榎《えのき》の宮八幡宮――この境内が、ほとんど水源と申して宜《よろ》しい、白雪のとけて湧《わ》く処、と居士が言います。……榎は榎、大楠《おおくす》、老樫《ふるかし》、森々《しんしん》と暗く聳《そび》えて、瑠璃《るり》、瑪瑙《めのう》の盤、また薬研《やげん》が幾つも並んだように、蟠《わだかま》った樹の根の脈々、巌《いわ》の底、青い小石一つの、その下からも、むくむくとも噴出さず、ちろちろちろちろと銀の鈴の舞うように湧いています。不躾《ぶしつけ》ですが、御手洗《みたらし》で清めた指で触って見ました。冷い事、氷のようです。湧いて響くのが一粒ずつ、掌《てのひら》に玉を拾うそうに思われましたよ。

 55/129 56/129 57/129


  [Index]