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 『歌行燈』 従吾所好

「否、私はな、矢張お伊勢なんですけれど、父〈おとつ〉さんがくなりましてから、継母に売られて行きましたの。はじめに聞いた奉公とは嘘のやうに違ひます。――お客の言ふことを聞かぬ言うて、陸で悪くば海で稼げつて、崕の下の船着から、夜になると、男衆に捉へられて、小船に積まれて海へ出て、月があつても、島の蔭の暗い処を、危いなあ、ひや/\する、木の葉のやうに浮いて歩行いて、寂〈しん〉とした海の上で……悲しい唄を唄ひます。而してお客の取れぬ時は、船頭衆の胸に響いて、女が恋しうなる禁厭〈まじなひ〉ぢや、お茶挽いた罰や、と云つて、船から海へ、びしや/\と追下ろして、汐の干た巌へ上げて、巌の裂目へ俯向けに口をつけさして、(こいし、こいし。)と呼ばせます。若い衆は舳に待つてて、声が切れると、栄螺の殻をぴし/\と打着けますの。汐風が濡れて吹く、夏の夜でも寒いもの。……私の其は、師走から、寒の中で、八百八島あると言ふ、どの島も皆白い。霜風が凍りついた、巌の角は針のやうな、あの、其の上で、(こいし、こいし。)つて、唇の、しびれるばかりに泣いて居る。咽喉は裂け、舌は凍つて、潮を浴びた裾から冷え通つて、正体がなくなる処を、貝殻で引掻かれて、漸と船で正気が付くのは、灯もない、何の船やら、あの、まあ、鬼の支いた棒見るやうな帆柱の下から、皮の硬い大な手が出て、引掴んで抱込みます。

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