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 『古狢』 青空文庫

 あなたは知らないのか、と声さえ憚《はばか》ってお町が言った。――この乾物屋と直角に向合《むかいあ》って、蓮根《れんこん》の問屋がある。土間を広々と取り、奥を深く、森《しん》と暗い、大きな家で、ここを蓮根市《はすいち》とも呼ぶのは、その故だという。屋の棟を、うしろ下りに、山の中腹と思う位置に、一朶《いちだ》の黒雲の舞下ったようなのが、年数を知らない椎の古木の梢《こずえ》である。大昔から、その根に椎の樹婆叉《ばばしゃ》というのが居て、事々に異霊妖変《ようへん》を顕《あら》わす。徒然な時はいつも糸車を廻わしているのだそうである。もともと私どもの、この旅客は、その小学校友だちの邸あとを訪《と》うために来た。……その時分には遊びに往来《ゆきき》もしたろうものを、あの、椎の樹婆叉を知らないのかと、お町が更に怪しんで言うのであった。が、八ツや十ウのものを、わざと親たちは威《おど》しもしまい。……近所に古狢《ふるむじな》の居る事を、友だちは矜《ほこ》りはしなかったに違いない。

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